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2019年2月

2019年2月28日 (木)

マガダ国の征服地域

Inndo
 もはや、余程のもの好き以外ついてこれないマニアックな世界に入っていますが、パータリプトラ話の続きです。仏典によると、マガダ国の王アジャータシャトルは殺害した父ビンビサーラが仏教教団を保護したことから、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理状態からか最初教団を弾圧したそうです。仏教教団弾圧には釈尊の高弟提婆達の教団乗っ取りの陰謀があったともされます。
 それはともかく、アジャータシャトルは後に仏教教団弾圧を悔い釈尊と和解したと書かれています。これはあくまで仏典の解釈で自分たちの正統性を訴える内容でしょうから、真実は分かりません。ただ、アジャータシャトルは、征服事業のために首都をラージャグリハから遠征に都合の良いガンジス河沿いのパータリプトラに遷都したことでも分かる通り野心家でした。
 記録によると彼の征服した諸国は、古代インドの十六国のうち東のアンガ国、北のヴァッジ国、北西のマッラ国、西のカーシー国、マッラ国のさらに北西コーサラ国の5か国に及びます。すべてが弱小国というわけではなく、カーシー国やコーサラ国はマガダ国と対抗できる実力持った強国でした。マガダ国は、自国内にある豊富な鉄資源を背景にこれらライバルたちを次々と打倒していきます。
 とすればアジャータシャトル王は、単なる父殺しの暴君ではなく有能な国王だったと思われるのです。彼の征服地は不思議なことにインド国内における稲作の中心地と重なります。稲作は麦作に比べ大人口を養える穀物ですから、人口的にもマガダ国は非常に有利な立場になったと言えます。
 古代、マガダ国に興ったナンダ朝、マウリヤ朝などがインド亜大陸(少なくとも北インド)を統一できたのは豊富な鉄資源と稲作による大人口が寄与したと言っても過言ではありますまい。古代インドの歴史は記録がほとんどないので推定に頼るしかありませんが、逆に言うといろいろ考察できるので非常に面白いです。

パータリプトラ  - 世界の都市の物語 -

 パータリプトラは現在のインド・ビハール州の州都パトナにあたります。仏典やインド古代史に詳しい方じゃないと分からないと思いますが、この地は古代インドで強勢を誇ったマガダ国の首都です。世界史で習ったアショカ王のマウリア朝も正式にはマウリア朝マガダ国です。次のシュンガ朝もグプタ朝もパータリプトラを首都としていた以上、すべてマガダ国と言えます。
 釈尊の初期仏教集団を保護したビンビサーラ王(在位紀元前6世紀頃~紀元前5世紀頃)は、過去記事で書いたマハーパドマのナンダ朝に滅ぼされたシシュナーガ朝の王だとされますが、異説もありそのひとつ前の王朝の王だったとも言われます。このシシュナーガ朝もナンダ朝もマガダ国です。
 マガダ国は日本で言ったら大和に当たるのでしょう。平城京であれ藤原京であれ大和盆地の中(例外があり近隣の摂津とか近江に移っても)、大和王朝(=日本)と言われるはずで、マガダ国はインド文明の揺籃の地と言ってよいかもしれません。
 仏典に詳しい方なら、マガダ国の最初の首都はラージャグリハ(現在のビハール州ラージギル)だったと記憶されているでしょう。仏典では王舎城の名で出てきますよね。北インドでは珍しく温泉の湧き出る山間の盆地でパータリプトラからは南東に80㎞離れています。ビンビサーラ王の時代はラージャグリハが首都で、釈尊はここでビンビサーラ王と会見しました。
 ではラージャグリハからパータリプトラにいつ首都が移ったかですが、調べるとビンビサーラ王の息子アジャータシャトル王の時代でした。この人も仏典に出てきますし、巨匠手塚治虫の『ブッダ』にもアジャセ王子(のちの王)として登場しますよね。ビンビサーラとアジャータシャトルの親子は対立し、父が息子によって殺されるという悲劇の結末を迎えますが、王となったアジャータシャトルは外征に都合の良いガンジス河沿いのパータリプトラを新首都として建設し遷都したそうです。
 旧都ラージャグリハは遷都する直前紀元前5世紀前後には人口10万を数える古代有数の大都市でした。パータリプトラは交通の要衝だったことから、マガダ国の発展に従ってどんどん人口が流入しBC3世紀頃には人口40万人を突破します。これはちょうどマウリア朝の時代に当たり、インド亜大陸全体の首都として大発展を遂げたのでしょう。
 次にインド亜大陸をほぼ統一したグプタ朝の時代は何故か人口15万~20万人に減っています。あくまで推定ですが、その間の戦争で荒廃と再興を繰り返したからでしょう。7世紀前半に興ったインド・アーリア人による最後の統一王朝ヴァルダナ朝はカナウジに首都を移しパータリプトラは衰退します。カナウジは8世紀には100万都市に発展しました。その後、イスラム勢力の侵入によって首都がデリーに移り現在に至っています。
 パータリプトラの後身パトナは2011年現在人口168万人。ニューデリーの人口が約250万ですから人口的にはまあまあ健闘しています。パータリプトラやラージャグリハには仏教遺跡が数多く残されているそうですから、いつかは訪れてみたいですね。私は手塚治虫の『ブッダ』の大ファンなんですよ。

古代都市の推定人口

 たまたまネットを見ていたら古代都市の推定人口が載っていたので嬉しくなって記事にしました。

メンフィス…古代エジプトの首都。BC3000年ですでに3万人の人口を数えた。
ウルク・・・メソポタミアに栄えたシュメール文明の中心都市。BC3000年代で人口4万5千人。
スサ・・・古代ペルシャの首都。BC3500年頃に人口4万5千人。
テーベ(エジプト)・・・古代エジプトの首都の一つ。BC2000年代に人口6万人。
アッシュール・・・アッシリア帝国最初の首都。イラク北部にあった。BC2000年頃人口2万5千人。
モヘンジョダロ・・・有名なインダス文明の都市。BC2400年頃4万人。
ミケーネ・・・古代ミケーネ文明の中心都市。BC1200年頃人口3万人。
ハットゥシャ・・・ヒッタイト帝国首都。アナトリア半島内陸部にあった。人口はBC1600年で6万人。
エルサレム・・・言わずと知れたユダヤの首都。BC1000年で人口5万人。
ニネヴェ・・・アッシリア帝国後期の首都。イラク北部。BC1200年で人口4万人。
バビロン・・・古代バビロニア帝国の首都。BC1000年ですでに人口10万人。
三星堆・・・古代三星堆文明の首都。現在の四川省にあった。BC1200年で人口3万5千人。
鎬京・・・周王朝(西周)の首都。現在の西安近く。BC1000年で人口10万人。
洛邑・・・現在の洛陽。東周の首都。BC500年で人口20万。その後も増え続けて100万都市に。
パータリプトラ…古代インド、マガダ国の首都。ガンジス河下流にあった。BC300年で人口40万人。
平安京…900年で人口20万人。日本も頑張っています♪
カルタゴ・・・BC300年で人口50万人。ローマと対抗できるくらいの経済力があるはずです。
ローマ・・・紀元前後で人口80万人。それ以降も増え続けるが人口120万人くらいが限度の模様。
 キリがないのでさしあたってこれまでにします。それにしても古代都市の人口って調べると面白いですね。これは推定なので諸説あってはっきりとはしません。あくまで目安としてください。

フランス革命Ⅶ ブリュメール18日のクーデター (終章)

 ネルソン提督率いるイギリス艦隊によってエジプトにナポレオンが孤立していた時、1798年12月イギリス首相小ピットの提唱で第二次対仏大同盟が結成されます。参加するのはイギリス、オーストリア、ロシア、ポルトガル、そしてなんとオスマン帝国まで!第一次はフランス革命の自国への波及を防ぐのが目的でしたが、今回はナポレオンの活躍によって奪われた領土の奪回も大きな要素になります。
 フランスは再び危機に陥ろうとしていました。国内でも総裁政府は窮地に立たされます。下院に当たる500人議会の選挙で王党派、そして復活したジャコバン・クラブが躍進したからです。テルミドール右派は中道右派、平時なら穏健で最も良い政治体制だと思われます。ところが今は戦時、腐敗し碌な政策も示せない総裁政府を国民は見限っていました。当時フランス革命で世界初の普通選挙が行われていましたが、テルミドール反動の結果直接納税者のみに限定される制限選挙に戻りました。下層階級に選挙権を与えるとロベスピエールのような扇動者が再び出現したとき統治体制が覆されるからです。
 直接納税者は成人男子である程度の収入のある者。中産階級以上で政治思想も穏健であろうと思われました。しかし中産階級であろうと、王党派やジャコバン・クラブが躍進したという事は、現状ではフランスの苦境は脱せられないとフランス国民が思っていたからです。国民は左右どちらであろうと強いリーダーシップで困難を打破してくれる英雄の出現を待ち望みます。一方、総裁政府も軍事力によって反対派を圧殺し政治的安定を実現したいと思いました。
 総裁バラスとシエイエスは、エジプト遠征中のナポレオンに白羽の矢を立てたのです。帰国を決断したナポレオンは、少数の部下と共にエジプトを出港します。幸運にもイギリス艦隊に見つからなかった一行はフランスに戻りました。エジプトに残されたフランス軍は、1801年オスマン帝国に降伏します。
 1799年10月16日、パリに到着したナポレオンは、弟で500人議会議長になっていたリュシアンからシエイエスのクーデター計画を聞きました。が、ナポレオンはシエイエスに従うつもりは毛頭なく独自の計画を持ちます。実行日はブリュメール(革命暦2月)18日、西暦で言うと1799年11月9日と決まります。その日、テルミドール右派が多数派を占める元老院は「左派の陰謀の恐れあり」として元老院と500人議会のパリ撤退、西のサンクルーへの避難を決議します。すでに議会のあるチュイルリー宮殿はナポレオン率いる軍隊によって包囲されていました。
 その途中ナポレオンは失意の議員たちに向けて演説します。
「議員諸君、共和国が危機に瀕していることは諸君も知っておられるだろう。諸君の決定は共和国を救う。私も国軍をもってこれに協力し、反対者を捕縛するつもりだ。我々は真の自由に基づいた公民的自由、国民の代表に基づいた共和国を望む。我々はそれを手にするだろう。誓って言う。余の名と、余の軍友の名において」
 シエイエスら三人の総裁が辞職し、抵抗した残り二人は軟禁されました。クーデター主流から外されたバラスは、身の危険をほのめかされパリを脱出します。総裁政府はあっけなく崩壊しました。代わって三人の統領を元首とする統領政府が樹立されます。そして第一統領に就任したのはナポレオン。シエイエスはブリュメール18日のクーデターによって自分が政権を握るつもりだったと思います。ところが実際に軍隊を持っているナポレオンが発言権を強めるのは当然でした。結局ナポレオンを利用したつもりがナポレオンに利用されたのです。
 救国の英雄としてフランス国民に絶大な人気を誇るナポレオンと、腐敗した総裁政府の一員だったシエイエスのどちらを国民が支持するか明白でした。主導権を奪われたシエイエスは実権のない元老院議長に祭り上げられ政治生命を断たれます。
 ナポレオンは第二次対仏大同盟を軍事力で粉砕、国民の圧倒的支持を受け終身統領に就任。そして1804年5月国民投票で皇帝となりました。事実上、フランス革命はここに終わります。絶対王政を廃止し、行きついた結果が帝政というのは何とも皮肉ですが、英雄が登場しなければ革命後の混迷を収拾できなかったのも事実。そして理想と現実の間には数多くの犠牲が伴うのでしょう。フランス革命期ギロチンによる犠牲者はパリだけで2000人とも4000人とも言われます。フランス全土では1万6千人以上という恐るべき数でした。それ以外の方法で処刑されたもの、暴徒に虐殺されたものも含めると死者は数万人から数十万人だったそうです。
 絶対王政を廃止し民主化を求めた革命がもたらしたものは何だったのでしょうか?フランス革命は近代民主主義への道を開いたという歴史的功績は確かにあると思います。しかし、それと同時に数多くの犠牲無くしては革命は成立しないという悲劇も示しました。私はどうしてもイギリスの清教徒革命、名誉革命と比べてしまいます。共和制より立憲君主制のほうが少ない犠牲者で済むと思うのは私だけでしょうか?本当に悩ましい問題ではあります。
                                  完

フランス革命Ⅵ 総裁政府の混迷

 独裁者ロベスピエールを倒して誕生したテルミドール右派による政権は1795年革命色の強すぎる1793年憲法を修正し、行政権は新たに設けられた5人の総裁が担うようになりました。これを総裁政府と呼びます。総裁政府というとフランス史にある程度知識がある方はバラスの名前をあげるでしょう。
 ポール・バラス(1755年~1829年)はプロヴァンス地方の下級貴族の家に生まれ軍に入ります。インドの植民地戦争に従軍し大尉に昇進。フランス革命が起こるとジャコバン・クラブに属しました。1792年国民公会議員。ルイ16世処刑の裁判では賛成票を投じます。人間性にかなり問題があったらしく好色、公金横領、贈収賄でロベスピエールの怒りを買いパリに召喚されました。バラスの場合思想信条でロベスピエールを倒そうとしたわけではなく、自分が捕まるのを防ぐために打倒を決意するという不純な動機でした。
 ではなぜクーデターが成功したかというと、一人の人物と結託したからです。彼の名はジョゼフ・フーシェ(1759年~1820年)。もともとはロベスピエール率いる山岳派。実務能力の高さから革命政権で重宝されますが、かえってロベスピエールに警戒され疎まれます。この事からロベスピエールを憎み打倒を考え始めました。バラスとフーシェ、どちらが先に接近したのかは分かりませんが、フーシェを味方につけたことで反対派はクーデター成功の確率を飛躍的に上げたとも言えます。
 部下を使い情報を集める能力でも、その情報を基に他人を動かす能力でも当代一流だったフーシェは、国民公会でのロベスピエール追い落とし計画を着々と進めました。こんな男を敵に回したのがロベスピエールの不幸ですが、クーデター後フーシェは総裁政府で警察大臣に就任します。フーシェは数多くの密偵をフランス各地に放って陰謀の芽を早いうちから摘み取りました。バラスを筆頭に無能揃いの総裁政府が曲がりなりにも政権を保てたのはフーシェの力が大きかったと思っています。
 そしてもう一人、総裁政府を支えた人物について語りましょう。皆さんご存知、ナポレオン・ボナパルトです。ロベスピエール派と見られ反逆罪の罪で逮捕収監されたナポレオンでしたが、間もなく疑いが晴れ釈放されます。が、危険人物と目され予備役に編入されました。実はバラスとナポレオンは旧知の仲でした。トゥーロン包囲戦で指揮を執ったナポレオンを監督したのがバラスです。
 総裁政府の下、国会は下院に当たる五百人議会と上院である元老院が設けられました。新憲法のもと選挙をすれば王党派が躍進すると思われていました。そこで総裁政府は王党派が立候補できない難しい条件を設定したり、王党派に対する選挙妨害を行います。これに怒った王党派は、1795年10月パリにおいてヴァンデミエールの反乱を起こしました。鎮圧を担当したバラスは、旧知のナポレオンを起用、ナポレオンは市民に大砲を放つなどの強硬手段でこれを鎮圧、その功により師団陸将(中将相当)に昇進しました。その後国内軍副司令官、国内軍司令官と順調に出世し軍事面から総裁政府を支えます。
 バラスは好色で欲深、人間的には欠陥だらけで世間からは悪徳の士とまで酷評される始末でした。そんな男がどうして長らく政権の中枢に居れたかというとバランス感覚が抜群に優れていたからです。フーシェとナポレオンという車の両輪をうまく使い続けていられる限りその地位は安泰でした。バラスとナポレオンに関しては有名なエピソードがあります。好色で何人も愛人がいたバラスですが、その中でジョセフィーヌという女性がいました。社交界の花で美貌を誇る彼女は、バラスにも負けないほど好色で贅沢好き、浪費家だったためさすがのバラスも持て余します。そんなとき、ナポレオンがどうやらジョセフィーヌに惚れたらしいことを察知すると、強引に彼女をナポレオンに押し付けました。体の良い厄介払いでしたが、この頃のナポレオンは女性に関して経験が浅くジョセフィーヌを溺愛します。ジョセフィーヌ本人は最初あまりナポレオンを好きではなかったそうですが、ナポレオンが皇帝に即位したとき皇后になれたんですから運命は本当に分かりません。俗な言い方をすると、ジョセフィーヌはあげまんだったのかもしれません。事実、ジョセフィーヌを手放した時から、バラスの運命に陰りが生じたという見方もできます。
 バラスは政治思想的には鵺でした。バラス以外の総裁には左右両派が入り乱れ勢力争いをします。そのたびに総裁政府は右に左にぶれました。1796年ジョセフィーヌと結婚したナポレオンは、イタリア方面軍司令官に就任、任地に赴きます。ナポレオンは北イタリアでオーストリア軍を破り1797年4月にはオーストリアの首都ウィーンに迫りました。この時ナポレオンは総裁政府に無断で和平交渉に入り勝手に講和します。無力な総裁政府にこれを止める力はなく、結果第一次対仏大同盟は崩壊。ナポレオンの中で、総裁政府軽視の思いが生じたのはこの時かもしれません。野心家である彼は、いつかフランスの実権を握ってやろうという野望が芽生えていたのでしょう。少なくとも総裁政府よりはまともな政治ができるという自負があったのかもしれません。
 そんな不穏な空気を秘めた中、ナポレオンはパリに凱旋します。パリの民衆はナポレオンを熱狂的に迎え入れたそうです。とはいえイギリスのフランス革命政府に対する敵対姿勢は変わらず、依然として強大なイギリス海軍が大西洋と地中海の制海権を握っていました。ナポレオンは、難敵イギリスの息の根を止めるためエジプト遠征を決断します。エジプトを占領し、イギリス本土と最重要植民地インドとの連絡を絶ち、立ち枯れさせようという意図でした。1798年7月、ナポレオンは二万の兵を率いてエジプトに上陸します。陸戦ではピラミッドの戦いで現地マムルーク軍を撃破しカイロに入城しますが、アブキール湾海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗したため、ナポレオンはエジプトに孤立しました。
 そんな中、本国フランスでは総裁政府が行き詰まりを見せます。新しく総裁に就任したシエイエスは、議会で王党派が多数を占め革命が崩壊しかねないと危機感を抱きました。これを打破するには強力な武力しかないと確信した彼は、秘かにナポレオンに使者を出し帰国を求めます。ナポレオンはこれに関しどういう行動を起こすのでしょうか?
 次回、フランス革命最終章ブリュメール18日のクーデタにご期待ください。

フランス革命Ⅴ 革命独裁とテルミドール反動

 1793年7月13日、ロベス・ピエールの盟友で山岳派の指導者のひとりジャン=ポール・マラーは持病の皮膚病を悪化させパリの自宅で入浴療法を施していました。その日は朝から二十代と思われる美しい女性が何度もマラーに面会を求めます。余りの熱心さに自分の信奉者だろうとマラーは自宅に招き入れました。丁度マラーは日課の入浴療法の最中で彼女は浴室に通されます。しばらくするとマラーの絶叫が響きました。妻が慌てて駆けつけると近くで匕首を握りながら呆然と立ち尽くす女性がいました。
 彼女の名はシャルロット・コルデー。ノルマンディー貴族の娘で25歳。王党派ともジロンド派とも言われますが、その場で逮捕されたシャルロットは7月17日革命裁判で死刑判決を受けギロチンにかけられました。暗殺犯があまりにも美貌だったため見物する市民は水を打ったように静まったと言われます。革命の行き過ぎに危惧を感じ始めている者も出てきており、暗殺に対する憎しみよりも革命政権の行く末に暗雲を感じる市民も多かったそうです。
 盟友とは言いながら、マラーは国民的人気が高い政治家でありロベスピエールは政敵として警戒していました。そのマラーが非業の死を遂げたわけですが、ロベスピエールはそれを最大限利用することを忘れませんでした。マラーは革命の殉教者として祭り上げられ、ロベスピエールはマラーの遺志を継ぐという大義名分の下反対者を革命に対する敵として次々と粛清します。王党派やジロンド派だけでなく、山岳派内の過激派である無政府主義者、土地公有化を主張する者共もその対象となりました。ロベスピエールは自ら公安委員会の長に就任し反対派を次々と革命裁判にかけ処刑します。まさに恐怖政治です。ロベスピエールは思想的には中道左派だったと言われますが、強硬な政治姿勢は左右双方から憎まれました。
 1794年春にはロベスピエールによる山岳派独裁がほぼ完成、革命戦争も国民総動員令により次第に巻き返し始めます。特にそれまで無名だった砲兵大尉ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はトゥーロン包囲戦で大功をあげ急速に台頭しました。革命政権としても軍事的英雄が必要だったのでしょう。ナポレオンは国民公会の議員の推薦を受けわずか24歳で旅団陸将(少将相当)に昇進しました。特にロベスピエールの弟オーギュスタンに目をかけられ革命政権の藩屏とさせられます。
 ロベスピエールの強引なやり方は、山岳派を次第に孤立化させていきました。このままではいつ自分が粛清されるか分からないと恐怖を抱いた反対派は、左右の思想に関係なく秘かに連絡を取り来るべき日に備えます。運命のテルミドール(革命暦11月、西暦だと7月)がやってきました。1794年7月26日(テルミドール8日)、ロベスピエールは国民公会で自分を狙った陰謀を告発し裏切り者の逮捕、公安委員会、保安委員会の粛清を要求します。ところが議会は逆にロベスピエールを糾弾、「国民公会を私物化し麻痺させたのはロベスピエール本人だ!」という声が次々と上がりました。反対派とて命がけです。負ければギロチンが待っているんですから。
 今までロベスピエールの恐怖政治にすくみあがっていた国民公会ですが、実は山岳派は少数派で反対者の方が多かったのです。ロベスピエールは呆然として立ち尽くします。山岳派のサンジュストの発言すら怒号で妨げられました。反対派の主導で国民衛兵司令官のアンリオ、革命裁判所長デュマの逮捕が決まります。次いで本丸のロベスピエール本人の逮捕という流れに行くはずでしたが、パリコミューンに救出されロベスミエールは市庁舎に脱出しました。パリの市議会はまだ山岳派が掌握していたのです。
 この時ロベスピエールは国民衛兵を動員して国民公会を軍事力で制圧する選択肢もありました。ところが市民の声の代弁者という大義名分で政治を行ってきた手前、ロベスピエールは自らの手で革命政権を潰すという事を躊躇します。結局これが命取りとなりました。国民公会はロベスピエール派の議員5名の市民権を剥奪します。その日の夜パリ市庁舎には3千名の国民衛兵が居たそうですが、ロベスピエールからの出動命令は出ませんでした。翌27日午前2時国民公会側の武装衛兵がパリ市庁舎を囲みます。制圧はほとんど無抵抗で、ロベスピエール側の議員ルバがピストル自殺しました。ロベスピエールも自殺しようとしますが失敗、全員逮捕されます。
 28日朝、革命裁判所はロベスピエール派22名に死刑判決を下しました。皮肉なことにギロチンによる恐怖で支配したロベスピエールは自らもギロチンによって命を絶たれたのです。享年36歳。翌29日にもさらにパリコミューン側の議員70名が処刑されました。
 ロベスピエールの刑死と共に山岳派は壊滅状態に陥ります。それまで恐怖政治に逼塞していた側の反撃が始まりました。救国の英雄と持て囃されたナポレオンでさえ、ロベスピエールの弟オーギュスタンと親しかったというだけで反逆罪・逮捕拘禁されます。この時政権を握った勢力をテルミドール右派と呼びますが、前政権があまりにも左に偏っていた為、保守中道的な政治を行います。反革命の罪で捕らえられていた容疑者の大量釈放、革命裁判所の改組、公安委員会の権限縮小が決まりました。それまで山岳派の温床だったパリ市の政府直接管理も決まり、総価格統制令が廃止されました。山岳派が牛耳っていたジャコバン・クラブ閉鎖。ギロチンの恐怖で逼塞していた市民は開放感に酔いしれたそうです。
 これだけなら良い変化ですが、今度は白色テロが横行します。これまでロベスピエール政権下で甘い汁を吸っていた左派市民たちは、自分たちの特権が奪われることに怒り何度となく蜂起しました。テルミドール右派政権は、これを軍事力で徹底的に弾圧、1000名にも及ぶ活動家が逮捕されたそうです。白色テロとは右派のテロの事ですが、弾圧する側とされる側が逆転したため凄惨な殺し合いとなりました。主に王党派が主導し、リヨンで99名殺害、マルセイユでも100名が革命左派と見られ殺されました。フランス全土での犠牲者は分かりません。膨大な数だったことは確かです。これをテルミドール反動と呼びます。
 ではロベスピエールの恐怖政治を倒したテルミドール右派はどのような政治を目指したのでしょうか?彼らは行き過ぎた左派的改革ではなく中道共和政を目指します。それが総裁政府でした。次回は総裁政府の混迷を描きます。

フランス革命Ⅳ 王制廃止と国王の死

 1792年4月に勃発した革命戦争。フランス革命の自国への波及を恐れるイギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどは攻勢を強めます。各地で連戦連敗のフランス軍ですが、祖国の危機に国民が立ち上がり義勇兵として続々と参加しました。この時、マルセイユの義勇兵たちが歌っていたのが『ラ・マルセイエーズ』で後にフランス国歌となります。革命政府は、国家総動員体制を整備し国民の革命への情熱を利用しました。
 ここまでなら美しい祖国愛で済む話なんですが、フランス国民の多くは自国が不利なのは国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがフランスの軍事機密を漏らしているからだと考え8月10日国王夫妻の住むパリ、チュイルリー宮殿を襲撃しました。私はほぼ軟禁状態で周囲の情報を遮断されている国王夫妻が外国と通謀し軍事機密を漏らすことは物理的に不可能で全くの冤罪だったと思っていますが、群集心理の恐ろしさなのでしょう。
 ルイ16世は宮殿を守るスイス衛兵隊に市民への発砲を禁じたため、衛兵たちは興奮する群衆に一方的に虐殺され全滅します。王権は停止され国王一家はタンプル塔に幽閉されました。これを8月10日事件と呼びます。スイス衛兵隊以外にも一部貴族や軍隊が国王を守って戦ったため、革命派パリ市民の怒りを買い9月にいると反革命派狩りが始まり数多くの犠牲者が出ました。9月虐殺は数日間に渡って行われ死者は1万4千人とも1万6千人とも言われます。中には無実の罪や誤解も多かったらしく、革命派が気に入らない者をどさくさで殺したケースも多発したそうです。
 9月20日、マルヌ県ヴァルミーの戦いでようやくフランス軍が勝利、以後は次第に盛り返していきます。21日パリに国民公会が招集され正式に王制が廃止されました。議会はジャコバン・クラブのうち穏健共和派のジロンド派、急進左派の山岳派、その中間の平原派で構成されました。ジロンド派と山岳派は主導権争いを始めます。山岳派を率いるロベスピエールは、必ずしも激高しやすく簡単に扇動に乗る市民を信頼していたわけではありませんでしたが、彼らのエネルギーを背景にし権力闘争を有利に進める狡猾さは持っていました。
 前線で戦っていたラファイエット侯爵は、8月10日事件の報告を受けパリ進軍と国王一家救出を図りますが、兵士たちが従軍を拒否したため孤立、オーストリアに亡命します。王権停止を受け臨時行政委員会が設置されました。9月虐殺の引き金は、委員会で法務大臣に就任したダントンの演説だったとも言われます。ただ彼に同情する向きもあり、ヴェルダンでフランス軍が降伏したのを受け国民を鼓舞するために行った演説がかえって聴衆の誤解を生み虐殺に向かったというのが真相だという意見もあります。
 国民公会に選出された議員は749名。ほぼすべてが革命の支持者でした。議会で優勢を占めたのは穏健共和派のジロンド派です。ジロンド派は、王制こそ廃止したもののルイ16世の処刑そのものには反対でした。元国王を殺せば外国に対する取引ができなくなるというのが理由ですが、諸外国やまだまだ依然として地方で信望のあるルイ16世を処刑した後の反発を恐れていたとも言われます。実は、ジロンド派と対立する山岳派のロベスピエールも個人的には国王処刑に反対でした。しかし、山岳派の権力奪取のためにあえて国王処刑に舵を切ります。政争の道具にされたルイ16世も哀れでしたが、山岳派の若手議員サンジュストは議会で国王糾弾の演説を行いました。ジロンド派の法務大臣ロランにもルイ16世が外国へ向けた書簡の事実を隠蔽した疑惑が出てきたため国王裁判は不可避となって行きます。
 裁判は国民公会議員によって開始されました。
「ルイ・カペー(16世の事)は国家転覆の陰謀によって有罪か?」賛成707票
「ルイ・カペーは死罪にすべきか?」賛成387票、反対334票
修正協議がなされた後の評決でも賛成361票、反対360票
わずか1票の差で元国王ルイ16世処刑が決まります。1793年1月13日、革命広場に引き出されたルイ16世は二万人の市民が見守る中、断頭台の露に消えました。享年38歳。彼の最期の言葉は「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないよう神に祈る」でした。これを見てもルイ16世は決して悪人ではなく、平凡で愛すべき人物のように思えます。ただ生まれた時代が悪かったとしか言えません。
 元王妃マリー・アントワネットもまた1793年10月16日コンコルド広場で夫の後を追います。37歳でした。悪女としてフランス国民に憎まれた彼女でしたが、贅沢好きで頭もあまり良くない欠点はあっても決して悪女ではなかったと私は思います。革命の熱狂が生活困窮した国民の憎しみの対象として実像以上に独り歩きした結果なのでしょう。元国王夫妻の処刑でジロンド派は国民の支持を失いました。1793年6月2日下層市民の支持を背景に山岳派のロベスピエールはジロンド派を追放、独裁政治を始めました。
 国王処刑に賛成票を投じた議員たちは王政復古時白色テロの標的となります。自業自得ですが、このように左右両派のテロの応酬という事実があるために私はフランス革命を手放しに評価できないのです。次回、ロベスピエールの恐怖政治とそれに対する反動を描きます。

フランス革命Ⅲ 革命戦争

 バスティーユ監獄襲撃は象徴的な事件でした。この段階でルイ16世の統治能力は崩壊していたと思います。国民議会は事態を収拾するため1789年8月4日封建的特権廃止を決議、ついでアメリカ独立宣言を範として人権宣言を採択します。自由、法的平等、所有権の不可侵、国民主権が含まれたこの宣言は、いまだ形式上は国王の承認が必要でしたが、ルイ16世は拒否しました。
 同年10月前年からの不作で食料が高騰、パリの女性たち数千人が武器を取って立ち上がります。男たちもこれに追随し食料を要求しヴェルサイユに行進、まさに無政府状態でした。暴徒化した群衆はヴェルサイユ宮殿に侵入、ルイ16世は圧力に屈し人権宣言を承認します。群衆はルイ16世一家を取り囲みパリに連れ戻しました。以後国王一家はパリに軟禁されます。
 統治能力を失った国王に対し、国民議会がフランスを支配するようになりました。この当時革命派はラファイエット侯爵やミラボーなど立憲君主派が主導し、国民的人気の高いラファイエットは国民衛兵司令官に就任します。このまま進めばフランス革命は穏健な道を進んだかもしれません。ところがそれをぶち壊す事件が起こりました。
 きっかけは穏健派のミラボーが1791年4月2日病死したことです。ミラボーは革命初期の指導者で立憲君主制を目指していたと言われます。王政への理解者の死で革命の暴走を恐れたルイ16世は妻の実家オーストリアへの亡命を考え始めます。すでに革命の行く末に絶望した貴族たちは続々と他国へ亡命していました。ただ、ルイ16世は最悪の人物に頼ります。妻マリー・アントワネットの愛人でスウェーデン貴族のフェルセン伯爵でした。
 フェルセンは不倫するくらいですから実務能力皆無で、国王一家を目立つ馬車で脱出させます。1791年6月20日パリを脱出した国王一家ですが、ドイツ国境手前のヴァレンヌで民衆に見つかり6月25日パリに連れ戻されました。国を捨てようとした国王に国民は激高します。これでルイ16世は完全に国民から見放されました。フランス各地で民衆の暴動が頻発、議会は国民衛兵を出動させ鎮圧します。多数の死者が生じ、国民議会内部に深刻な対立が生まれました。議会の主流派は立憲王政派でしたが、「国民の声を聞き革命を進めるべきではないか?」と主張するロベスピエールなどの左派が発言権を増したのです。
 フランス革命は国王を抱く周辺諸国に警戒されます。自国に波及すれば自分たちが危なくなるからです。特にマリー・アントワネットの実兄オーストリア皇帝レオポルド2世はフランス革命政府に対し国王一家の安全を保障し自国へ引き渡すよう要求します。さらにプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム2世と共同しピルニッツ宣言を行います。これはブルボン王家の保護とそのための武力行使をほのめかしただけに過ぎないものでしたが、革命政府はこれを最後通牒と誤解しフランス国民もブルボン王家を完全に見限りました。
 ここに一人の人物がいます。イギリス首相小ピット(ウィリアム・ピット 1759年~1806年)です。実の妹と義弟を心配するレオポルド2世とは別の意味でフランス革命の行く末を憂いていました。1783年、24歳というイギリス史上最年少で首相となった小ピットは、フランスの革命が他の欧州諸国に波及すると旧来の秩序が破壊しかねないとオーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどと対仏同盟交渉を進めます。これは1793年第一次対仏大同盟として具現しました。
 一方フランス革命政府側も危機感を募らせます。革命政府の状況を記すと、議会で指導的立場となったのはジャコバン・クラブでした。ジャコバン・クラブと言えばロベスピエールのイメージと重なり過激な左派という印象が深いですが、調べてみるとラファイエットやミラボー率いる立憲君主派(フイヤン派=右派)、穏健共和派のジロンド派も含めた左右両派を包含した政治クラブでした。パリのジャコバン修道院を本部としたことからジャコバン・クラブと呼ばれたのです。
 ロベスピエール、マラー率いる急進的共和派(左派)は山岳派と呼ばれます。ヴァレンヌ事件とその後の混乱を受け議会と王政を共存させようとするフイヤン派は発言力を失います。1790年ラファイエットらフイヤン派はジャコバン・クラブから離脱しました。1792年に入ると、外国の干渉戦争に軍事力で対抗しようとするジロンド派が議会の主導権を握り、4月20日オーストリアに対し宣戦布告します。革命戦争の始まりです。
 当時破産状態のフランスでは、貴族が多かった軍幹部に亡命したり軍務拒否が相次ぎ兵器もろくに行き渡らなかったため連戦連敗します。同年7月にはプロイセン軍も参戦、イギリス、オランダ、スペインが次々と敵側に加わったため各地で敗北を繰り返しました。政争に敗れ国民衛兵司令官を辞職していたラファイエットも祖国の危機でドイツ方面司令官に復帰します。が、アメリカ独立戦争で実戦経験のあるラファイエットですら苦しい戦いを余儀なくされました。
 革命戦争は結局1802年まで続けられ、その後はナポレオン戦争へと発展していきます。実権を失いパリで軟禁状態にされた国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット。彼らの命運も尽きようとしていました。次回は国王処刑について語りましょう。

フランス革命Ⅱ バスティーユ監獄襲撃

 皆さんはフランス革命についてどのような印象をお持ちでしょうか?私のような中年以降のオールドファンなら『ベルサイユのばら』あるいは『ラ・セーヌの星』のイメージかもしれません。ただこれらは戦後左翼史観にどっぷりつかった革命絶対正義、絶対王政(=専制体制)絶対悪の立場で描かれているため歴史の真実が歪められていると私は思います。どちらの作品も革命までは絶対王政悪と描きながら、いざマリー・アントワネットが革命側に捕らえられ断頭台の露に消えるとこちらに同情的なストーリー展開でした。一貫性も正義もへったくれもないと当時子供心に思ったくらいです。マリー・アントワネットが捕らえられた原因を作ったのはオスカルやシモーヌたちですよ。偽善もいい加減にしろ!まあ、作品として面白いのでそこまで目くじら立てて非難するつもりは毛頭ありませんが…。
 かつて国民的歴史作家の司馬遼太郎も書いていたと記憶していますが、本来歴史には善も悪も無いんです。それぞれの個人、勢力に正義がありそのぶつかり合いにすぎません。勝った方が正義になり、負けた方は勝利者によって悪と断ぜられるのみ。勝てば官軍はこれを表した言葉でしょう。私がイギリスの清教徒革命・名誉革命をフランス革命より高く評価するのは、イギリスは王党派と議会派が自分たちだけで争い国民にはできるだけ迷惑が掛からないよう戦ったのに比べ、フランスでは左右両派の憎悪がぶつかり合い国民全体を巻き込んで甚大な被害を与えた点です。その結果も、イギリスでは立憲君主制、議会制民主主義を確立し以後は大きな混乱がなかったのに対し、フランスでは革命が終わった後もナポレオン戦争、王政復古、第二共和政、ナポレオン3世の第二帝政、第三共和政と大きく左右に揺れ動きそのたびに国民に多数の犠牲者を出しました。もしかしたら英仏両国の国民性の違いにあるのかもしれません。冷静なイギリス人と激高しやすいフランス人。フランス贔屓の方には怒られるかもしれませんが、私はそう感じています。
 前置きが長くなったので本題に戻ると、フランスのカトリック聖職者・貴族層は国家財政の悪化から免税特権を持つ自分たちの既得権益が取り上げられる危険性を感じていました。そこで国王を牽制し増税を葬り去るため175年間開かれていなかった三部会の招集を要求します。これを見ても革命期以降王党派と呼ばれた彼らが、ブルボン家やルイ16世に対する忠誠心ではなく自分たちの既得権益保護のみで動いてたことが分かります。ですから王党派ではなく王政で獲得した既得権益を保持したい勢力とでも言うべきでしょう。
 ところがいざ三部会を開いてみると、多数派を占めた第3身分の農民・市民層代表が自由主義的改革を要求し収拾がつかなくなります。従来三部会では特権階級である貴族・聖職者に有利な評決方法だったのですが、多数派の第3身分側がこれに異議を唱えたのです。皮肉なことに、アメリカ独立戦争に介入して以降アメリカの自由民主主義、立憲共和制思想がフランスに逆輸入され市民意識を大きく変えていました。独立戦争に義勇軍として参加したラファイエット侯爵などは、アメリカ独立派と交流するうちにフランスにも立憲君主制の導入が必要だと考え始めていました。
 第3身分を率いる勢力も、綺麗事を言うだけで実務能力に欠けた啓蒙思想家ではなくロベスピエールのような市民運動を利用し自分たちの私利私欲を図る扇動政治家達が台頭してきます。第3身分代表を以後革命派と呼びますが革命派と既得権益側の対立は激化、1789年6月革命派はヴェルサイユ宮殿の屋内球戯場を占拠し三部会を改めて国民議会とする宣言をしました。これを球戯場の誓いと呼びます。
 革命派の台頭は、国王ルイ16世とそれまで対立していた貴族・聖職者層を結び付けました。ルイ16世は表向き国民議会に譲歩の姿勢を示しながら、秘かに全国各地から軍隊を集結させ武力弾圧を目論みます。歴史にIFは禁物ですが、私はルイ16世がヴェルサイユに留まらず外で軍隊と合流しパリとヴェルサイユを軍事力で制圧すれば革命の動きは抑えられたと思います。しかし、国王は事態を楽観視しすぎていました。
 1789年7月11日、国民に人気のあった銀行家出身の財務長官ジャック・ネッケルが罷免されます。これが暴動のきっかけになったとも言われますが、実態を調べるとネッケルはそれほど有能な政治家ではなく、財政改革に反対した貴族層の反発を受けなくてもいずれ罷免されていたとは思います。が、ネッケル罷免は革命家たちにこれでもかというくらいに利用されました。パリの街頭に立った革命家の弁士たちは市民を相手に「ネッケル氏罷免は国民議会、そして我々民衆に対する国王の挑戦だ」とまくしたてます。
 おそらくパリ市民は、彼らの演説を理解したとは思えません。ただ重税で生活が困窮しいつ爆発してもおかしくない状況にあったのは確か。扇動家に乗せられ激昂した民衆はまずパリの廃兵院を襲撃、武器弾薬を奪います。この時動いた民衆は4~5万人にも上ったと言われ、3万2千挺の小銃、大砲20門が民衆の手に渡りました。その勢いのまま政治犯を収容していたバスティーユ監獄に押し寄せます。
 市民代表はバスティーユの司令官ド・ローネと会見、武器弾薬の引き渡しを求めました。ド・ローネは引き渡しこそやんわりと拒否したものの紳士的に接し食事すら出してもてなしたそうです。交渉が長引く中興奮した群衆が監獄内に侵入、恐怖にかられた守備兵が発砲したことから群衆はパニックになり偶発的な銃撃戦が始まります。さらに群衆の一人が「これは罠だ。ド・ローネが市民を皆殺しにするためわざと中庭に引き入れたのだ!」と叫んだため収拾がつかなくなりました。
 この騒動で、ド・ローネと守備兵たちは皆虐殺され、市民側も98人の死者、73人の負傷者を出します。監獄に入っていた囚人7名は釈放されますが、この中に政治犯は一人もいなかったそうです。これがバスティーユ監獄襲撃の実態です。何ともお粗末な結果ですが、暴走に暴走を重ねた革命派は封建的特権の廃止、人権宣言と革命の道を突き進んでいきます。
 ここに有名なエピソードがあります。バスティーユ監獄襲撃があったその日の夜、7月14日ルイ16世は日記に「何事も無し」と書き記したそうです。ルイ16世暗愚説を象徴するエピソードとして語られている物ですが、調べてみるとルイ16世は日記に狩猟の獲物を記すのが日課でこの日は何もなかったためにそう書いたというのが真実でした。
 こうしてみるともう一つの有名なエピソードも怪しくなります。就寝していたルイ16世に進歩派貴族リアンクール公がバスティーユ監獄襲撃の報告をしに来た際の会話
「陛下、大変なことが起こりました」
「暴動かね?」
「いえ陛下、革命でございます」
 ともかく、歴史は大きく動き始めました。当初は革命派も王政を打倒しようとまでは考えていなかったそうです。しかし時代の流れはそうなりませんでした。次回は国王一家の監禁、脱出失敗、革命の波及を恐れる外国からの干渉戦争について語ることとしましょう。

フランス革命Ⅰ 革命への道

 1770年5月16日、フランスは祝賀ムードで溢れかえっていました。ルイ15世の王太孫ルイ・オーギュストとオーストリア女帝マリア・テレジアの11女マリア・アントーニアとの婚儀です。後のルイ16世と王妃マリー・アントワネット(フランス語読み)でした。この時ルイ15歳、マリー14歳。おままごとのような幼い夫婦が後に革命の嵐に巻き込まれ断頭台の露と消えるとはいったい誰が予測したでしょうか?
 フランス・ブルボン朝は第3代ルイ14世が72年、第4代ルイ15世が49年と長きにわたる治世だったため、太子である息子が父より先に亡くなりそれぞれ孫が王太孫になっていました。ですからルイ16世は14世から数えると5世の子孫となります。
 1775年、祖父ルイ15世が天然痘で死去すると王太孫ルイ16世が即位します。この時フランスの国家財政は火の車でした。ルイ14世は国土を今の五角形に広げフランスの領域を確定した偉大な君主でしたが、そのためにスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争など数々の戦争を仕掛けあるいは参戦し国土は疲弊しました。いくらフランスが欧州随一の大国と言ってもさすがに限度があったのです。
 皆さんも聞いたことがあると思いますが、当時のフランスの社会体制を示す言葉としてアンシャン・レジームがあります。日本語に訳すと旧体制あるいは旧秩序となるそうですが、第3身分である農民・市民を支配階級である第1身分の聖職者、第2身分の貴族たちが搾取する社会でした。
 もちろんこの不平等社会を是正する試みとして、それぞれの身分の代表が集まって重要議題を議論する三部会と呼ばれる身分制議会が設置されます。フランスでは1302年フリップ3世が貴族と聖職者の代表を招いて会議を開いたのが起源と言われ、後に第3身分もこれに加えたことから三部化が始まりました。
 ところがフランスの王権が強くなり絶対王政の時代になると、三部会は形骸化し王が戦争のための戦費調達目的で税金を課す時などに利用されるほかは、ほとんど開かれなくなります。
 また16世紀ルターから始まる宗教改革でフランスはカルバン派プロテスタント(フランスでは特にユグノーと呼ぶ)が商工業者の間に広がり、旧来のカトリック勢力と対立していました。ブルボン朝初代アンリ4世はカトリックとユグノーの融和に努めますが、最終的に失敗しその対立の芽は18世紀末に至っても未だに燻り続けます。
 危機的な国家財政にさらに追い打ちをかけたのは、1776年勃発したアメリカ独立戦争です。イギリス憎しで参戦したフランスはラファイエット侯爵(1757年~1834年)を司令官とする義勇軍を北米大陸に送り込み、独立派を援助します。一応義勇兵という事になっていますが、フランス政府の援助があったのは言うまでもありません。結果、残ったのは45億リーブルとも言われる巨額な財政赤字でした。
 即位して間もないルイ16世に何ができたでしょう。ルイ16世は読書好きで、当時流行していた啓蒙思想の本も読みこの方面の知識も明るかったと言われます。ただ内向的で大人しい性格だったことから、派手好きで明るい妻マリー・アントワネットとは性格的に合わなかったそうです。ルイとマリーの結婚は政略結婚でした。フランスはオーストリアと過去何度も戦争した仲でしたが、新興のプロイセンがイギリスの後押しを受け急速に台頭したことで互いに危機感を持ち外交革命とも呼ばれる電撃的同盟を結んだのです。その証が両者の結婚でした。
 ルイ16世は決して愚かではありません。平時ならまずまずの君主として生涯を終わったはずです。この時も、国家財政の危機を憂い啓蒙思想家のチュルゴを財務長官に起用、免税特権を持つ特権階級への課税など大胆な財政改革方針を打ち出します。ヴォルテールをはじめとする啓蒙思想家など進歩的知識人は大歓迎しますが、聖職者、貴族など免税特権を持った者たちから猛反発を受けました。その筆頭は王妃マリー・アントワネットで贅沢な宮廷生活を指摘されたことに逆切れ貴族たちの先頭に立って反対運動を展開します。結局、貴族層の反発を抑えきれなくなったルイ16世はチュルゴを罷免せざるを得なくなりました。
 同じころ、天候不順による不作から小麦の値段が急騰、生活に困窮した市民がフランス各地で暴動を起こすなど社会不安が広がります。王政打倒をもくろむ革命派は、暴動を利用し王政そのものが原因だと市民を扇動、社会不安はますます増大しました。政府に打つ手はなく、暴動を力で押さえつけるしかありません。この時有名なエピソードがあります。
 パリで起こったパンを求める市民の暴動を聞いたマリー・アントワネットが
「パンがないならケーキを食べれば良いじゃない?」
と言ったとか。マリー・アントワネットの無知と暗愚さを象徴する話として有名ですが、彼女に同情する面もあり、実際に当時主食だったパンよりも安価なお菓子があったそうでそれを素直に言っただけだともされます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの類で、何もかも悪く解釈するのは避けなければなりません。それはともかく、フランスは絶対王政の行き詰まりが明らかになりつつあり、革命の機運はそこまで来ていたとも言えます。
イギリスは1642年の清教徒革命から1688年の名誉革命で多くの血は流れたものの立憲君主制と議会制民主主義を確立させています。一方、それに百年以上遅れたフランスはどういう道を辿るのでしょうか?次回バスティーユ襲撃を描きます。

ルイ16世は、やりようによっては死ななくても良かったのでは?

 皆さんは、王妃マリー・アントワネットと共にフランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世にどんな印象を持っていますか?ベルサイユのばらのファンなら、気が弱くてお人好し、妻の尻に敷かれているが好人物という印象があるかもしれません。また戦後日本の史学界を席巻した左翼史観で見れば、人民を弾圧し処刑されても仕方のない悪王という評価を下すかもしれません。
 実はフランス革命に関して記事を書こうとして当時の事を調べているんですが、悪王というのはあまりにも酷いと個人的には思いました。決して無能ではないものの、お人好しすぎて肝心な時に情勢判断を誤り結果的に自らを滅ぼすに至った不運な人というのが私の正直な印象です。
 というのも、やり方によっては死ななくて済んだはずなんです。実際、先祖(5代前)のルイ14世はパリ全体が蜂起したフロンドの乱の際、いち早く無政府状態のパリを脱出し国王派の軍隊を糾合してパリを包囲し乱を鎮圧しています。次に貴族派が反乱を起こした時も危険を察知しパリを脱出しました。
 国王処刑といえば、清教徒革命時のイギリス、スチュアート朝のチャールズ1世を思い出しますが、チャールズ1世はスコットランドへの亡命(というかもともとスコットランド王を兼任)には成功してますからケースが違います。チャールズ1世は、スコットランドで巻き返しを図りますが議会派の軍隊に敗北し捕らえられて処刑されました。
 ところがルイ16世は、フランス革命が本格化しブルボン朝の命運が尽きようとしている時も情勢判断を誤りベルサイユ宮殿、そしてパリに居続けます。王妃マリー・アントワネットの愛人スウェーデン貴族のフェルセン伯爵の手引きで家族と共にパリを脱出するも、途中で見つかりパリに連れ戻されました。結果、革命派民衆の激昂を受け処刑されるのです。
 では脱出に成功した国王たちと失敗したルイ16世との違いは何でしょうか?私は軍隊を連れているかどうかだと思います。ルイ16世は目立たないように馬車で逃げたんですがこれが大間違い。不自然な行動は国境を越えるまでにどこかで絶対に見つかります。それよりも軍隊を引き連れて堂々と移動すればおいそれと手出しできないはずなんです。
 ルイ16世ばかりでなく、逃亡をお膳立てしたフェルセンも無能と言わざるを得ません。だいたい妻の不倫相手に頼るというのが情けない。ルイ16世が妻の不倫に最後まで気付かなかったとすれば愚かすぎるし、うすうす気づきながら不倫を許したとしてもヘタレすぎます。国王ならフェルセンを処刑し妻とは離婚、オーストリアに叩き返すべきでしょう。
 当時国王に忠実な軍隊などなかったではないか?と反論する人もいるかもしれません。ところがフランス王室はスイス人傭兵を雇っていました。スイス人傭兵は精強で絶対に裏切りません。国際的信用問題になりますからね。スイス傭兵隊を1個大隊(800名)くらい動員し「国境を視察する」とかなんとか言い訳し家族は軍隊の補給品の馬車に隠し堂々とパリを出るべきでした。それも革命が本格化する前に。もちろん連れて行く軍隊は多ければ多いほど安全係数が上がるのは言うまでもありません。
 一旦国境に着いたら、情勢を良く調べ軍隊によって巻き返しが可能ならルイ14世のようにパリに進軍すべきだし無理なら妻の実家オーストリアに亡命すべきでした。亡命するならイングランドの方がベストなんですが、船を調達するなどいろいろ面倒くさいのでドイツ国境が現実的選択でしょう。
 もしルイ16世がルイ14世のような決断出来たらギロチンで処刑されるまではいかなかったと思います。そして上記のような行動をすればフランス革命ももっと違った展開になったかもしれません。そこまでの判断力も決断もできなかったからルイ16世は処刑されたんでしょうね。当時共和派の有力者ラファイエット侯爵は国王処刑までは考えていなかったそうですので、彼と結ぶという手もあったかもしれません。そうなればイギリスのように立憲君主制と議会制民主主義という穏健な道もあったと思います。
 本当に歴史というのは難しいですね。当事者になってみないとどう行動するか分からないというのも実情でしょう。

北アメリカ大陸の農耕の歴史

 インディアン話の続きなんですが、なぜ彼らは少数者であったイギリス人をはじめとする欧州の白人たちに土地を奪われ殺され駆逐されていったか考えていたんです。私はインディアン側もそこまで人口が多くなかったのではないかと想像しました。
 いきなり話は飛びますが、一般に人類の農耕の起源は1万年前中東のシリアで小麦を栽培したのが始まりだと言われます。最新の研究ではイスラエルのガリラヤ湖岸2万3千年前の遺跡で農耕の痕跡(オオムギ、ライムギ、エンバク、エンメル麦)が見つかったそうなので、もっと遡れるかもしれません。稲作も同じく1万年前長江流域から華南地方一帯が起源だとされます。
 一方、南北アメリカ大陸で栽培が始まった植物、トウモロコシは中米で7500年前、ジャガイモは南米チリやペルーの高原地帯で9000年前。これらはまず野生種がありそれを人々が品種改良に努力し主食として栽培を始めました。
 南北アメリカ大陸のジャガイモの栽培が始まったペルー高原でインカ文明が、トウモロコシの栽培が始まった中米でマヤやアステカ文明が発祥したのは偶然ではありません。豊かな農業生産で大人口を養える基盤があったからこそ文明が始まったと言えます。
 では現在のアメリカ合衆国に住んでいたインディアン(本来はネイティブ・アメリカンと言うべきだが前記事との関連であえてインディアンと表記)たちはどうだったのでしょうか?基本的に彼らは狩猟採集の民でした。1万5千年前氷河期で凍結したベーリング海峡を渡って北米大陸に至った彼らは、マンモスを狩る民でしたので、その生活が続いたのでしょう。
 もちろん小規模な農耕はしていたはずで、アステカ文明圏からトウモロコシなどの穀物も伝わっていたかもしれません。ただ気候の関係かどうかは分かりませんが、インカやマヤ、アステカのような大人口を養うまでには至っていたかったのだと思います。いわば人口希薄地だったのでしょう。
 イギリス人をはじめとする白人たちは、その隙間を利用して入植し、移民をどんどん受け入れ人口を増やしインディアンたちを圧迫し、土地を奪い追い出したと考えられます。もし東部13州地域にインカ帝国のように人口1千万以上インディアンが住んでいれば絶対に入り込めなかったはずなんです。白人たちは寒冷地での農耕に長けていたため、北米でも小麦などを大規模に栽培できました。
 もちろん武器の違いもあったと思います。軍事力と農業生産力を背景にした人口増加で白人たちはインディアンを追い出し土地を占領していきました。現在ネイティブ・アメリカンの居留地はアメリカ中央部から西部にかけての貧しい荒廃した土地に分布しています。これらは白人によって強制移住させられたもので、農耕に向かない荒れ地だから残ったとも言えます。白人の侵略の過程で多くのインディアンの部族が滅亡したことでしょう。
 そう考えると、移民大国アメリカ合衆国の別の、そして暗黒の側面が見えてきますね。インディアン迫害はアメリカの原罪だとも言えます。

テカムセの呪い

 南北アメリカ大陸に人類が住み始めたのは1万5千年前だと言われます。氷河期、凍結したベーリング海峡をマンモスを追いながら北米大陸に至った人たちは1000年かけて南米大陸最南端フエゴ島まで到達しました。彼らはもともとアジア人ですが、コロンブスが新大陸に到達したときこの地をインドと勘違いしたことからインディアンと呼ばれます。現在ではこれらアメリカ先住民族をネイティブ・アメリカンと総称しています。
 さて、イギリスの植民地だった北米の東部13州は独立戦争に勝利し1776年アメリカ合衆国となりました。この地は、農業の適地で移民も広く受け入れたため急発展します。特に南部は綿花栽培のプランテーション経営で欧州へ輸出するほどに成長。また北部には工業が発達し新興ながら侮れない国となりました。
 急速に発展するアメリカは、1783年ミシシッピー河東岸のイリノイ、アラバマ、テネシーなどをイギリスから割譲されます。さらにアメリカは西へと進出を続けました。
 ところで、土地を売ったり買ったり割譲したりするのはあくまで欧米人の都合でした。当然、この地にはもともとインディアンが住んでいたわけで、彼らは住んでいる土地を奪われ抵抗すれば殺されました。最初北米大陸に上陸したイギリスの移民に食料を提供したり農業の仕方を教えていたインディアンですが、恩を仇で返されたわけです。
 1768年頃、オハイオ州あたりにテカムセは誕生しました。ショーニー族の酋長でした。自分たちの土地を勝手に奪う白人に対し反発が生まれたのは当然です。彼は成長すると周辺のチェロキー、チョクトー、クリーク、ミシシッピー河上流のサック、スー族らと連合し1811年侵略者アメリカ合衆国に対し戦争を起こします。これに目をつけたのがイギリスで、アメリカに嫌がらせをするためあからさまにインディアン部族連合を支援しました。
 インディアンは合議制を基本とする平等社会だったため、テカムセが指導者として全軍を指揮したわけではありませんでしたが、アメリカに対する抵抗運動の象徴として暗黙の指揮権はあったと思います。テカムセは、弟で呪術者のテンスクワタワと共に、合衆国から反乱の首謀者として付け狙われました。
 最初の激突は、1811年11月7日インディアナ州バトルグラウンド近くのティッペカヌーで起こります。インディアン側の人口も少なく、合衆国政府も兵站に不安があったため戦闘の規模自体は小さいものでしたが、ハリソン率いる1000名の部隊は今日のテレホート近くにハリソン砦を構築、ハリソン隊はここを起点にプロフェッツタウンに進出しました。最初インディアン側は和平を模索していたようですが、和平交渉のもつれから戦闘に発展しインディアン連合500名と激突します。米軍側戦死者68名、戦傷者120名、一方インディアン側は戦死者50名、戦傷者80名を出しました。
 この戦闘にテカムセは不在で、インディアン側はこれ以上の損害を恐れ撤退します。一応アメリカ側の辛勝ではありましたが、この時の戦功で後にハリソンはアメリカ合衆国大統領になりました。敗戦を受けてテカムセは動揺するインディアン連合を再編成することに苦労します。1812年米英戦争が勃発すると、テカムセはカナダのイギリス軍に協力しました。テカムセはイギリス軍と共にデトロイトを占領するなど活躍しますが、オリバー・ハザード・ペリー率いるアメリカ軍がエリー湖の戦いでイギリス軍を撃破すると補給路を断たれアメリカに進軍したイギリス軍は窮地に立たされます。イギリス軍司令官が戦死したことでテカムセたちインディアン連合は後ろ盾を失いました。
 巻き返したアメリカ軍によって1813年テムズの戦いで敗北、その後の掃討戦でテカムセはアメリカ軍に殺されます。弟で呪術者のテンスクワタワは兄と同じ場所かどうかは不明ですがこれも戦死しました。ここで終われば白人の侵略者に対するインディアン側の抵抗者として終わる話です。ところが、その後不可思議としか言いようのない出来事が起こります。
 1840年に大統領に選出されたウィリアム・H・ハリソン。まさにテカムセ戦争の関係者ですが、任期途中の1841年肺炎にて死去。1860年選出のエイブラハム・リンカーン大統領はご存知の通り暗殺。1880年選出ガーフィールド大統領も暗殺。1900年選出マッキンリー大統領暗殺。1920年ハーディング任期中に心臓発作で死去。1940年選出フランクリン・D・ルーズベルトも任期を全うせず脳溢血で死去。1960年は有名なジョン・F・ケネディ大統領も皆さんご存知の通りダラスで暗殺されています。1980年のレーガン大統領で20年ごとに訪れるこの不吉な連鎖は止まったと言われましたが、レーガン自身も銃撃されあと数ミリずれていたら危なかったと言われました。生還したのは現代医学のおかげです。
 アメリカの人々は、これをテカムセの呪いだと考え恐れおののきました。というのもテカムセが死の間際アメリカに呪いをかけたと噂されていたからです。呪い自体は2000年選出のジョージ・W・ブッシュが健在なため解けたとも言われますが、口の悪い者は「いくら強力な呪いでもアホには通用しなかったのだ」などと酷いことを言っています。別の意見では大統領が死ぬ代わりに9.11で多くのアメリカ人が犠牲になったので2000年の呪いも継続中だとされます。2020年に選出される大統領は果たしてテカムセの呪いを跳ね返せるでしょうか?
 あまりにも荒唐無稽でにわかには信じられない話ですが、アメリカの白人たちにインディアンを虐待したという負い目があるために呪いという話になったとも考えられます。どちらにしろ過去に犯した悪行はいつか報いが来るという事なのでしょう。

平安奥羽の戦乱Ⅺ 最後の勝利者(終章)

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 源義家、清原清衡の連合軍が再び陸奥を発したのは1087年夏でした。春の予定がずれ込んだのは、前回の失敗を懲り十分な兵糧を準備したからかもしれません。義家の威信にかけても今回は負けられない戦でした。弟新羅三郎義光の参加があり、地盤の関東から参加した武士たちも加わり去年の戦で受けた損害も回復します。一方、清原家衡陣営は金沢柵(横手市金沢。現在の金沢八幡宮のある山が比定地)を中心に源氏軍を待ち構えました。
 有名な雁の乱れを見て伏兵を知ったという話も源氏軍が金沢柵に進軍する途中の出来事だと言われます。知らない人はいないと思いますが一応説明すると、義家は前九年の役が終わり京都で官途についていました。ある時、義家が同僚と軍事談議に興じていると「好漢、惜しむらくは兵法を知らず」という声が聞こえてきます。義家が不審に思って声の主を探すと、学問で朝廷に仕える大江匡房(おおえのまさふさ)でした。
 義家は匡房に教えを請います。義家の謙虚な態度に感心した匡房は孫子の兵法を教授したそうです。実は源氏と大江氏の友誼はこの時から始まり、義家の子孫頼朝が鎌倉幕府を開いた時、匡房の末裔大江広元が助けたのもこのためだと言われます。後三年の役の時、義家は単なる武辺一辺倒ではなく兵法を理解する武将になっていました。
 家衡は、現在の秋田県美郷町山本あたりの葦原に伏兵を置いて源氏軍を待ち構えます。ここは金沢柵に至る街道上にあり奇襲にもってこいの場所でした。義家が不穏な空気を察知し上空を見ると雁の群れが乱れていることを発見します。雁は人の出す殺気を感じそこを避けたのでした。義家は進軍を止め雁の乱れたあたりに矢を射かけさせます。すると潜んでいた敵兵が慌てて出てきました。源氏軍はそれを散々に撃ち破ったそうです。
 1087年9月、源氏軍は金沢柵に到達しました。柵に籠る家衡の兵力5千といわれますが、全員が兵士ではなかったでしょう。ここまでに源氏軍は家衡軍の前哨陣地を潰し各地に点在した柵も攻め落とします。清原一族は金沢柵を最後の決戦場に定め集結していたのです。ですから半数近くは女子供など非戦闘員だったはず。源氏軍は増援も含め1万近くだったと思われます。沼柵の失敗に懲り、包囲策をとりました。この時、吉彦秀武が兵糧攻めを進言したそうです。源氏軍は前回の失敗を反省し十分な兵糧も用意していたでしょうし、清原氏の勢力を金沢柵に追いやったため仙北三郡の打通が成り、出羽国府からの兵糧の援助も期待できました。
 というのも陸奥守の職掌は陸奥国内だけで、管轄外の出羽に出陣するためには出羽守の許可が必要だからです。軍事的にも鎮守府将軍は陸奥限定で出羽の軍事を司るのは秋田城介でした。籠城二か月、厳重に包囲された柵内では非戦闘員も食事するため兵糧が不足し始めます。沼の柵で源氏軍が苦しんだのと同様、金沢柵でも軍馬を殺し食べる他、雑草、ネズミなどの小動物の類まで食べられるものはすべて食べ尽くしました。
 ある時、源氏軍から矢文が投げ込まれます。内容は「女子供を殺すに忍びない。柵から出れば命だけは助けよう」と書かれていました。安堵した者たちはぞろぞろと柵から出てきます。そこへ突如一群の武者が襲い掛かり容赦なくなで斬りを始めました。多くの者が討たれ恐慌状態になった者たちは再び柵内に命からがら逃げ込みます。これを指揮していたのは吉彦秀武だったと伝えられます。
 義家の本陣に呼び出された秀武は、「非道なことをする」と詰られました。しかし秀武は「食い扶持は女子供でも変わらないはず。戦わぬ者が多いほうが兵糧も早く尽きてこちらは助かるというもの。義家様のためにしたことで、怒られる筋合いはない」と逆に言い返したそうです。秀武の言い分は道理で、流石の義家も不問に付したと言われます。ただ、私はこの話は義家を悪人にしないための後世の創作のような気がしてなりません。秀武は確かに悪人でしたが、小悪党の類でした。悪人というなら無理難題を吹っ掛け戦争を仕掛けて奥六郡と仙北三郡を奪おうとした義家は大悪人でしょう。清衡もそうです。本来家督相続の資格がないのに、義家と結んで清原一族を破滅に追い込み清原氏の領土をそっくり奪おうというのですからこれ以上の悪はないでしょう。案外この虐殺事件は義家か清衡が命じた可能性があります。
 冬がやってきました。今回源氏軍は兵糧もたっぷりあり、本格的野戦陣地を築いていた為休養も十分です。金沢柵では家衡、武衡を囲んで軍議が開かれました。「このまま柵に籠っていれば餓死するしかない。動けるうちに一か八か打って出、再起を図ろうではないか」という結論になります。その動きは潜り込ませていた間者によって逐一義家のもとに知らされました。義家はわざと包囲網の一角を開けさせます。
 猛吹雪の夜、柵門がひそかに開かれ家衡はじめ柵内の者たちが続々と出てきました。源氏軍の陣地は静まり返り気付く様子もありません。脱出は成功したかに見えました。ところが松明の灯が掲げられるのを合図に周囲に潜んでいた源氏の武者たちが一斉に襲い掛かります。大混乱に陥った清原軍は、首謀者の一人武衡はじめ主だったものが次々と討たれました。絶食し動くのがやっとという者たちが多くほとんど抵抗もなかったそうです。家衡は下人に変装して逃亡を図りますが、蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいたところを発見され捕らえられました。
 義家の前に引き出された家衡は見苦しく泣き叫んで命乞いをしたと言われます。義家はどうしたものかと清衡に意見を求めました。清衡は冷然と「斬るしかありますまい」と答えます。刑場に引きたてられた家衡は斬首されました。家衡の生年が不明なため享年は分かりませんが清衡がこの時31歳なので24歳前後だったと推定されます。11月4日の事でした。
 家衡の死をもって清原氏は滅びます。清衡は奥六郡に加え仙北三郡も併せ持つ大豪族となりました。義家は戦勝報告を京の朝廷に送ります。その前年堀川天皇が8歳で即位し白河上皇の院政が始まろうとしていた時でした。朝廷は義家の功績を認めず、この度の戦役を源氏と清原氏の私戦だと断じます。朝廷にとっては年貢を怠らない清原氏を滅ぼす必要はありませんでした。義家が勝手に仕掛けた戦争だと苦々しく見ていたのです。朝廷の官符がなければ戦いに参加した武士たちに恩賞を与えることができません。義家は憤りますが、結局私財をなげうって論功行賞を行います。皮肉なことに、関東武士は源氏こそ我らが棟梁と感激し逆に信望が高まりました。
 後に頼朝が鎌倉幕府を開くのも、この時得た関東武士の信望だったことを思うと朝廷の判断は正しかったのかどうか?次第に力をつけ始める武士、緩やかな衰亡を辿る朝廷の貴族たち。
 奥羽において最後の勝利者となったのは清衡でした。清衡は朝廷に奏上して父の姓である『藤原』を名乗ることを許されます。すなわち奥州藤原氏初代清衡です。後三年の役のわずか一か月後、義家は陸奥守を解任され奥羽を去りました。1091年清衡は関白藤原師実に陸奥の名馬を献じます。源氏ではなく藤原摂関家と直接結ぶことで勢力の安定を図りました。
 以後、奥州藤原氏の本拠となった平泉は莫大な黄金の力を背景に文化を花咲かせます。奥州藤原氏政権はこの後100年続きました。清衡が晩年仏教に傾倒し中尊寺などの大寺院を建立したのは、前九年・後三年の役で倒れた敵味方の霊を慰めるためだったとも言われます。それは奥羽の覇者となった者の義務だと考えたのでしょう。1128年、清衡は中尊寺金色堂の落慶を待つように波乱の生涯を終えます。享年73歳。
                                (完)

平安奥羽の戦乱Ⅹ 後三年の役

 清原家衡が自邸のある陸奥国奥六郡ではなく出羽国仙北三郡の沼柵に籠城したのは、なんと言っても清原氏の本拠地であり一族の助力が期待できたからでした。奥六郡は滅亡した安倍氏の勢力が強く、安倍頼時の娘(有)と藤原経清の子である清衡に味方するものが多いだろうという判断もありました。実際、清衡が立ち上がった時瞬く間に2千の兵が集まったことからもそれが分かります。
 ところが、吉彦秀武に代表されるように自分ではなく源義家、清原清衡方に付いた一族が出たことは家衡にとって衝撃だったかもしれません。家衡の目論見は、源氏の主力を地の利を得た自軍が拘束し泥沼化させることでした。そうしておいて、手薄になった奥六郡に自軍の一部を送り込み後方を攪乱する。そうなれば遠く関東から遠征してきている源氏軍主力は敵中に孤立し撤退せざるを得なくなるという読みでした。そのためには自身が沼柵でできるだけ長期間源氏軍を引き付けておかなくてはなりません。雄物川とその支流皆瀬川が形成する大湿地帯に浮かび上がった水城沼柵はその格好の舞台でした。
 陸奥守源義家率いる源氏・清衡連合軍が沼柵を囲んだのは1086年冬です。家衡は貝のように閉じこもり源氏方の挑発にも乗りませんでした。湿地帯を小舟で渡り攻撃しようとしても、断崖と柵に阻まれ不可能です。結局、正門から順番に攻めていくしか手がありませんでした。義家は沼柵を望む八幡野に本陣を置きます。攻撃に際し、第一の難所は志戸ヶ池の隘路でした。家衡軍は、柵と空堀、水堀を巧みに組み合わせ源氏軍を待ち構えます。第一回総攻撃は隘路を進む源氏軍を正面と側面から家衡軍が矢の雨を降らせ始まりました。ここで淵が源氏軍の死者で埋まると言われるほどの大打撃を受けます。
 多くの犠牲も顧みず源氏軍が支戸ヶ池の隘路を突破すると今度は首塚の防御線です。首塚というのは後世の名付けのような気がします。というのも、ここでも多くの源氏方の武者が倒されたからです。首塚と沼柵主郭との間には川(水堀?)が流れていたそうで、この川を挟んで激戦が繰り広げられました。双方の戦死者は890名にも上ったそうです。それでも源氏軍の一部は突破に成功し本丸近くの棒突まで達します。が、ここまででした。逆茂木に進路を妨害されているうちに家衡軍の逆襲を受け敗退しました。
 思いもよらす損害を出して、源氏軍は一時兵を引きます。ただ同じような攻撃をしても犠牲が増えるだけなので攻めあぐねたというのが実情でした。睨み合いが続きます。戦いはその後数か月続きました。家衡というより清原軍の抵抗は見事でした。極寒の冬は、包囲する源氏軍により厳しいものとなります。ここまで長期化すると思っていなかった源氏軍は十分な兵糧を準備していなかったのです。陸奥国から兵糧を送ろうにも、奥羽山脈の峠道は豪雪で阻まれました。大雪の中、源氏方は軍馬を殺して食料にするほど追い詰められます。
 義家は清衡はじめ主だった幹部と相談し、ついに撤退を決断しました。家衡は緒戦で勝ったのです。家衡の叔父武衡は、これに気を良くし自らの本拠地で出羽一の要害と評判の高い金沢柵(秋田県横手市金沢)への移動を勧めました。家衡も納得し金沢柵に移ります。ここで私は疑問に思うのですが、何故沼柵を放棄したかです。実際に勝ったのは沼柵のおかげだったはず。もしかしたら、湿地帯の中にあって生活環境が悪かったからではないかと想像します。その点、金沢柵は周囲が断崖絶壁の丘陵上にあり過ごしやすかったかもしれません。
 一方、陸奥国府多賀城に逃げ戻った義家は軍の再編成に着手しました。今度こそは失敗は許されないのです。清衡も奥六郡を固めるとともに来るべき再遠征の準備に余念がありませんでした。その時期は雪解けを待った春。源氏軍と清原軍最後の決戦は刻一刻と迫っていました。
 次回、最終回金沢柵の戦いを描きます。

平安奥羽の戦乱Ⅸ 骨肉の争い

 陸奥守源義家の命で兄清衡の豊田館に入った家衡。兄弟の母有も同行したそうです。母にとっては久々に訪れた親子団らんの時でした。しかし清衡と家衡の間には表面上の和やかさと違い冷たい空気が流れます。おそらく清衡は弟家衡に決して気を許していませんでした。同じく家衡も兄を討つ機会を虎視眈々と狙います。
 私が想像するに、清衡と源義家の間に暗黙の了解があったように思います。家衡の落ち度を見つけて法の下に処断するつもりだったように見えるのです。その後奥六郡の支配権を清衡が取り戻す見返りに、源氏に奥州の良馬と金を供出し義家の覇業を助けると。
 家衡は豊田館の外に潜む部下たちと示し合わせ清衡が隙を見せるのを待ち続けました。ところがこの暗殺計画は既に清衡に漏れていました。しかし、清衡は何食わぬ顔で日常を過ごします。1086年清衡が奥六郡の年貢を取りまとめ陸奥国府に搬出する日がやってきました。清衡は定められた年貢を調べ間違いないことを確認すると豊田館を出立します。清衡が完全に館を離れたことを確認すると、家衡は館近くに潜ませていた部下たちを呼び寄せ火を放ちます。油断していた清衡の郎党たちは次々と討たれ、清衡の妻子は蔵に押し込まれました。家衡の討手は清衡にも迫ります。清衡は危険を察知し行方をくらましました。
 焦った家衡は、清衡に対し「妻子の命を助けたくば出頭せよ」と触れ回りました。清衡はこれを無視。結局清衡の妻子は家衡の軍勢によって焼き殺されます。清衡は何故妻子を見殺しにしたのでしょう?暗殺計画を事前に知っていたのなら妻子を逃がすこともできたはず。清衡はあえて目的のために鬼になったのか?ただ、そのために犠牲になった清衡の妻子は浮かばれません。一説ではこの時殺された清衡の家族の中に家衡の生母でもある有も入っていたといわれます。それならば清衡と同じくらい家衡も鬼畜という事になるでしょう。戦乱の世の習いとはいえ現代に生きる我々から見ると胸糞の悪くなる話です。
 清衡に同情的な見方をすると、家衡に対抗できる軍勢を集め人質の家族を救出するつもりだったとも言えます。実際清衡は軍勢を集め豊田館に戻ってきたからです。家衡は清衡の家族を惨殺するとすでに館から去っていました。おそらく奥六郡の中(それも胆沢城近く)にあった家衡の館には戻らず、遠く出羽国横手盆地の南西部にあった沼柵に籠城します。沼柵は雄物川とその支流皆瀬川に囲まれた湿地帯の中の半島状の丘陵にあり入り口は陸続きの南側のみ。攻めるに難く守るに易いと言われた難攻不落の水城でした。軍記物では家衡は5千の兵と共に立て籠もったと伝えられます。
 家衡の暴挙は、陸奥国府に駆け込んだ清衡によって訴えられました。陸奥守義家は待っていたとばかり軍勢を整え出羽に出陣します。清衡も手勢を率いこれに合流しました。この時の両軍の兵力を見てみましょう。義家率いる源氏軍は国府の兵3千と義家直卒の兵、そして地盤の関東から駆け付けた武士たちの兵を合わせ6千はいたでしょう。清衡も安倍氏の遺臣たちが次々と参加したため推定2千。一方、家衡は他の清原一族の兵を糾合し6千くらいでしょうか。ただ吉彦秀武の動向は不明で、いまだに沈黙を保ち続けていました。
 家衡の叔父武衡は、煮え切らない秀武の態度に怒り味方につけるため直接秀武の館に乗り込みます。本来なら家衡を焚きつけたのは秀武ですので、真っ先に味方するのが筋でした。ところが秀武は、源氏軍の動向を探らせ、義家の弟新羅三郎義光が官位を捨てて兄を助けるために3百の手勢と共に馳せ参じたという報告を聞いてついに決断します。これで関東武士の参加がさらに増加するはずだと読んだのです。秀武は別に家衡に恩など受けておらず、自分の私利私欲のために家衡を利用しただけでしたので、こうなるのは必然でした。
 秀武は武衡を口汚く罵り館から追い出します。そのまま同心の清原一族と語らい出羽に入っていた義家の陣に伺候しました。秀武は義家の前に出る時、揉み手をするようにして現れたと伝えられます。歯の浮くような阿諛追従をする秀武に武人である義家は苦々しく思ったそうですが、だからといって追い返すほど無能ではありませんでした。どのような人間であろうと味方は一人でも多いほうが良いのです。驚くべきはそれまで蔑ろにしてきた清衡にさえ臣下のような態度をとったこと。秀武の卑劣さを責めることはできません。生き残るのは一種の芸です。戦後の力関係まで読んでいた秀武が一枚上手だったというだけ。そんな秀武に見限られた事でも、家衡の器量の無さが分かります。
 一族にも裏切られ後が無くなった家衡。一方義家はこの戦いを源氏と清原一族との最後の決戦だと定めていました。次回、沼柵攻防戦から金沢柵へと向かう後三年の役の戦いを記します。

平安奥羽の戦乱Ⅷ 清原一族の内訌

 清原真衡の挑発に乗り出羽の領地に戻った吉彦秀武。吉彦氏のルーツは俘囚の吉美侯部(きみこべ)から来ているとも、毛野(けぬ)地方(栃木、群馬)の豪族毛野氏の一族が大和朝廷の出羽征服に従ってこの地に至り俘囚の長となったとも言われます。吉彦氏の本拠についても、一応出羽国荒川(現在の秋田県大仙市協和荒川)だとされますがはっきりしません。仙北三郡の有力豪族であったことは間違いなく、清原氏は通婚を重ねて一族に加えました。
 秀武は、もともと清原氏と自分は同格という意識があったのでしょう。それが一族の大叔父としての尊敬の念がないばかりか、臣下扱いして嘲弄した真衡を許すことはできませんでした。真衡側にも言い分があり、自分ではなく弟家衡を清原氏の家督に据えようと暗躍する秀武の存在は邪魔でいつか除こうと考えてました。秀武は6千の兵を集め挙兵したと伝えられます。ただ軍記物は誇張がつきものですので、その半分くらいが妥当な線だと思います。
 秀武の挙兵を待ち構えていた真衡は8千の兵を動員し秀武討伐の軍を発しました。家衡は、しぶる兄清衡を説得し揃って挙兵します。ところが家衡は、胆沢の真衡館を襲う役目を兄清衡に任せ、自分は南方の白鳥村焼き討ちに向かいます。最悪の場合、兄を首謀者として陸奥国府に差し出す狡猾な意図でした。清衡、家衡挙兵の報告を受けた真衡はすぐさま兵を返します。こうなれば兄弟に勝ち目はありません。各々自分の館に戻り籠城しました。これを見ると家衡も奥六郡のどこかに屋敷を構えていたことになります。
 ここで乗り出してきたのは陸奥守源義家でした。義家は国司の権限で戦を調停し清衡、家衡兄弟に降伏を勧告します。その処分も大甘で、首謀者家衡に対し、白鳥村を焼き討ちし収穫を灰にした罰としてその年の年貢を倍支払うという軽い処分で終わりました。義家にとって、真衡が勝って清原一族が盤石になってもらっては困るのです。
 
 義家と清衡がいつ結んだかははっきりしませんが、もしかしたらこの時期だったかもしれません。義家は一番劣勢な清衡を秘かに応援することで清原一族をずたずたに引き裂こうと考えていました。一方、清衡側も義家のバックアップは望むところでした。清衡にとって義家は父経清の仇。同盟を結ぶのは複雑な心境だったことでしょう。しかし、情勢を冷静に分析した清衡は恩讐を超えて義家との同盟が得策と判断しました。互いに打算を持った同盟でしたが、これが後々大きな影響力を持ちます。
 真衡は、陸奥守義家が自分の味方につかなかったことに焦りました。そこで今度は確実に味方に付ける方策を考えます。再び秀武討伐の軍を発した真衡は、軍監として義家の家臣2名の出動を要請しました。家臣は胆沢の真衡館に留め置かれ供応を受けます。そこへ再び家衡の軍勢が襲ったため、行きがかり上義家の家来も防戦に協力せざるを得なくなります。一説では襲ったのは家衡ではなく、真衡が雇った武士たちだったとも言われますが、これで家衡は陸奥国府の官人を襲った朝敵となりました。報告を受けた家衡は善後策を講じるため豊田の清衡館に逃げ込み清衡も同罪となります。
 絶体絶命の清衡・家衡兄弟。ところが出羽の陣中にあった真衡が急死してしまうのです。あまりにも絶妙なタイミングに暗殺説もあります。犯人も清衡、あるいは自分を利用したことに怒った義家だとも言われますが、真相は闇の中です。
 当主真衡の急死で清原氏の家督は微妙になりました。通常であれば真衡の養子成衡でしょうが、清原一族は誰一人として納得せず家衡を推します。調停は陸奥守源義家に委ねられました。義家の調停案はこうです。
①清原氏の家督は家衡が継ぐ。
②ただし一時朝廷に弓引いた罪を考え奥六郡を二つに分割し兄弟にそれぞれ与える。
③南の胆沢、江刺、和賀の三郡は清衡に、北の岩手、紫波、稗貫を家衡に。
④奥六郡の年貢は胆沢郡を領する清衡がまとめて国府に納入する。
この事実を知った家衡は激高しました。二分と言っても奥六郡のうち清衡の取り分は石高で言うと9万石、一方家衡は3万石しかありません。出羽の仙北三郡12万石を貰っても家衡15万石、清衡9万石で拮抗します。加えて奥六郡の年貢を纏めるのは清衡の役目ですから、実質的に奥六郡の主という事になるのです。
 調停に不満を抱いた家衡は館に戻り挙兵の準備を始めました。これを咎めた義家は、家衡を拘束し豊田館で軟禁するよう清衡に命じます。ところが家衡は素直に応じ自ら豊田館にやってきました。誰が見ても良からぬことを考えていることは一目瞭然です。一方、血を分けた兄弟でもありますので清衡の心の片隅に弟を信じる心もありました。
 二人の仲はいったいどうなるのでしょうか?次回骨肉の争いと後三年の役勃発を描きます。

平安奥羽の戦乱Ⅶ 運命の子

 鎌倉時代の源氏を中心とした歴史を記した『吾妻鑑』によると、安倍頼時には三人の娘がいたそうです。長女は有加 一乃末陪(ありか いちのまえ、生没年不詳)といいました。次女は中加一乃末陪、三女が一加一乃末陪です。明らかに蝦夷風の名前ですから便宜的に長女を有(ゆう)、次女を中(なか)、三女を一(いち)と呼ぶこととしましょう。このうち有は亘理権大夫藤原経清に嫁ぎました。次女中は平永衡の正室となります。
 厨川柵が落城したとき、経清の妻だった有は息子清丸と共に清原軍に捕らえられました。戦乱の世ですから、一族が滅びると捕らえられた女は強姦され遊女として売り飛ばされるか、そのまま殺されます。一部、有力者の妻や娘はこのような敵兵の乱暴狼藉からは逃れられましたが、人権など無きに等しく味方の有力者に戦利品として配られるのが常でした。
 有も清原武則の息子武貞の妻にされます。そこに彼女の意思など皆無でした。この時武貞は真衡という成人した嫡男がいましたから40歳前後だったと思われます。欲深で悪人ともいえる父武則と違い、武貞は裏表のない単純な武人だったそうです。真衡を生んだ正室がすでに亡くなっていた為有を溺愛します。有の連れ子である清丸も養子として迎えました。まもなく武貞と有の間に家衡(不明~1087年)が生まれます。清丸も元服し清衡と名乗りました。
 武貞の嫡子真衡、三男家衡と違い養子だった清衡は、父の仇清原一族に囲まれ気の休まる暇はなかったでしょう。いつ殺されてもおかしくなかったからです。いつしか清衡は自分の心を表に出さないようになりました。沈着冷静な性格は不幸な少年時代に培われたのでしょう。成長した清衡は、滅亡した安倍氏の旧領奥六郡のうち江刺郡を任されるようになり豊田(岩手県奥州市江刺)に館を築きます。ただ郎党は60人にも満たず、鎮守府将軍として胆沢城に入っていた清原武貞の監視がしやすいという理由もありました。武貞自身はそうでなくとも、安倍氏の血を引く清衡は、他の清原一族から警戒されました。一方、滅ぼされた安倍氏の遺臣にとっては清衡の身が最後の希望です。
 清原武則がいつ死んだのか分かりませんが、父の死を受け鎮守府将軍職と仙北三郡・奥六郡の支配権を得た武貞もまた死の床が近づいていました。後を継いだのは嫡男真衡。この時40歳を超えていたそうです。清衡は27歳、弟家衡も20歳前後でした。そこから近い年、1083年源義家(1039年~1106年)が陸奥守として赴任することに決まります。義家にとっては思い出深い奥州です。今回の赴任は義家自らが運動したとも伝えられてますので、父の代からの悲願である奥州支配を完成させたいという野望があったのは確かでしょう。
 清原一族にとって悩みがありました。当主真衡は40歳にもなって子がなかったのです。養子の清衡に相続権はありませんから、三男家衡を後継者にしようという勢力が生まれるのも自然でした。ところが真衡は起死回生の打開策を表明します。武家の名門である元出羽国司平安忠の次男成衡と源頼義が前九年の役の帰途常陸の豪族の娘に生ませた姫を夫婦養子として迎え後継者にしようというのです。名門源氏と平氏の血を引く者が後を継ぐのですから表向きは反対できません。ただ清原一族の間では、自分たちを蔑ろにする真衡のやり方に反発を覚えるものが多く居ました。
 中でも、清原武則の娘を妻に持つ吉彦秀武(きみこ の ひでたけ、生没年不詳)はその急先鋒でした。もちろん真衡にも計算があります。母が違うとはいえ実の妹が嫁ぐのですから、陸奥守源義家も義理の父である自分を蔑ろにはすまいと考えていたのです。後は陸奥国府の権威を背景に家衡とその与党を潰すのみ。
 事件は夫婦養子を迎える婚礼の日に起こりました。吉彦秀武は祝いの砂金をもって真衡に面会を求めます。ところが清衡は奈良法師との囲碁に夢中となって秀武を無視しました。意図的に嘲弄したともとれますが、庭で何時間も待たされた秀武は激高し砂金をぶちまけて帰りました。その際、清衡、家衡兄弟を呼び寄せ「自分は出羽で兵を挙げるから、真衡が追討で出羽に入ったすきに挙兵せよ」と囁きます。この時清衡は沈黙を保ちますが、家衡は喜色満面で頷いたそうです。
 次回、清原一族の内訌と源義家の介入を見ていくこととしましょう。

平安奥羽の戦乱Ⅵ 厨川柵陥落

 清原氏参戦で形勢は完全に逆転します。小松柵攻略後9月5日まで長雨が続き源氏軍は動きが取れませんでした。安倍貞任は数千の手勢を率い源氏軍に奇襲を試みますが失敗に終わります。頼義は直ちに追撃を命じ途中にある柵を次々と攻略、敵の本拠地衣川柵を包囲しました。翌9月6日、源氏軍は総攻撃を開始します。戦闘は午後2時から8時まで続きますが、安倍軍は頑強に抵抗し決着がつきませんでした。清原武則は秘かに兵士を潜り込ませ柵の内部から火をつけました。安倍軍と清原軍の軍装が似ていた為気づかれなかったのでしょう。内通者が出たと勘違いした貞任は驚いて衣川柵を放棄、鳥海柵に逃げ込みます。
 頼義は追撃の手を緩めず、途中発生した合戦で安倍一族は多くの犠牲者を出しました。安倍一族の時任(貞任の弟?)や貞行もこの時討ち取られます。貞任は奥六郡の最奥で最も要害だった厨川柵を最後の防衛線に定めました。厨川柵は現在の盛岡市天昌寺町から安倍館町一帯にあったとされ、天昌寺台地がその中核だったと言われます。当時は北上川がすぐ東を流れ、比高10mの台地の上にありました。西側にも深い堀を二重に設けた難攻不落の要塞です。
 もともと厨川柵は貞任の根拠地で勝手知ったる地、貞任はこの地で最後の決戦をしようと覚悟したのでしょう。1062年9月15日、源氏軍は早くも厨川柵に到達しました。途中にも柵はいくつかあったはずですが、貞任は厨川柵に戦力を集めるため放棄したのでしょう。16日朝8時より源氏軍の総攻撃が始まります。後のない安倍軍も激しくに抵抗しこの日は決着がつきませんでした。
 一度は撃退したものの安倍軍は疲れ果てていました。兵士も傷を負っていない者は少なく戦いが終わると倒れ込むように眠ったそうです。私の推定ですがこの時厨川柵には兵士2千もいなかったと思います。度重なる敗戦で死傷者も出るでしょうし、安倍氏の行く末を見限り逃亡する兵も出たでしょう。17日、頼義は作戦を変えてきます。土砂を運んで堀を埋め萱草を積んで火を放ったのです。このままでは焼け死ぬのを待つばかりだと悟った貞任は動ける手勢を率い柵門を開いて打って出ました。が、待ち構えていた源氏軍に包まれ貞任はじめ叔父良照ら主だった一族はことごとく討死します。藤原経清は負傷して動けなくなったところを生け捕られました。
 貞任の弟宗任は、一旦逃れたものの自首して降伏します。意外と頼義は生き残った安倍一族には寛大でした。貞任の嫡子だけは探し出されて斬られますが、それ以外の女子供は許されたようです。宗任も命を助けられ九州大宰府に流罪となりました。一説では最初伊予国に流され、その後筑前宗像の大島に再配流されたとも言われます。
 宗任は海外貿易の知識を買われ筑前の豪族宗像氏の客分となったそうです。宗任は宗像氏の日朝、日宋貿易を仲介し1108年77歳で亡くなりました。ちなみに現在の内閣総理大臣安倍晋三氏はこの安倍宗任の子孫だと言われます。
 安倍一族には寛大だった頼義ですが、一人だけ例外がいました。それは陸奥国府の官人でありながら裏切って安倍氏に味方した藤原経清です。頼義の前に引き出された経清は頼義を睨みつけ罵ったと言われます。それを冷酷な目で眺めていた頼義は、わざと刃こぼれし錆びた刀で経清の首を斬らせました。ただし、経清の正室である安倍頼時の娘と経清の忘れ形見7歳の少年清丸だけは助けられます。これも頼義の慈悲というより、奥六郡に長らく君臨した安倍氏の一族を根絶やしにするとその後の占領政策がやりにくくなるという打算もあったと思います。
 平安時代、奥州を揺るがした大乱前九年の役はここに終わりました。頼義は討ち取った貞任、重任、経清の首を掲げ京都に凱旋します。物見高い京都の民衆は凱旋将軍と叛徒の首を見るため溢れかえったと伝えられます。頼義は反乱鎮圧の功績で正四位下伊予守に任じられました。伊予は四国随一の大国、豊かな国で論功行賞としてはまずまずです。しかし陸奥国の良馬と黄金を手中にしようとしていた頼義にとっては、複雑な心境だったでしょう。さらに腹の立つことは、朝廷が頼義の後任の鎮守府将軍に俘囚長に過ぎない清原武則を任命したことです。朝廷としても武門の棟梁を自認する源頼義にこれ以上力をつけられては困るのです。その複雑な政治力学が清原武則の鎮守府将軍就任でした。俘囚長の鎮守府将軍任官はもちろん史上初です。
 ただこれで平和が続くはずはありません。戦後処理は多くの者に不満を残しました。次回清原一族の内訌と藤原経清の忘れ形見清丸の苦悩を描きます。

平安奥羽の戦乱Ⅴ 外交戦

 日本史で清原氏と言えば舎人親王を始祖とする皇別氏族。平安時代には中級貴族となり清少納言が有名です。出羽清原氏はこの清原氏の後裔を称しますが良く分かりません。出羽国府の在庁官人だったことは確かですが、朝廷から出羽の俘囚長に任命されたことから清原氏後裔説には疑問があります。ただ元慶の乱(平安時初期、俘囚が秋田城を襲った反乱)の時、清原令望(よしもち)が討伐軍に加わって出羽に来たという記録があり、そのまま在庁官人になったとすれば後裔説もあり得ます。要は日本人か俘囚の末か良く分からないという事です。一番あり得そうなのは、清原令望が俘囚長の娘を側室にし、その子が俘囚長の後を継いで清原氏を名乗ったというケース。

 清原氏も陸奥の安倍氏と同様、仙北三郡の年貢徴収を請け負いそのまま勢力を扶植しその地を支配する豪族となりました。戦国末期から江戸初期の数値ですが、この地の生産力は約12万石。奥六郡とほぼ匹敵する勢力です。安倍一族の抵抗に苦しんでいる源頼義にとっては、清原氏を味方に引き入れられるかどうかが戦いに勝利するカギでした。同時に安倍氏にとっても清原氏がどちらに味方するかどうかで戦いの帰趨が決まるのです。
 源氏、安倍氏どちらも清原氏に対し何度も使者を送りました。この頃清原氏の当主は光頼でした。生没年不詳ですが、老齢であったことは間違いないでしょう。清原氏は安倍氏と通婚を重ね、安倍貞任の弟宗任の母も清原氏出身でした。清原氏でも光頼の弟武則の妻は安倍頼清の娘です。すくなくとも安倍頼時が挙兵するまでは安倍氏と清原氏は良好な関係を保っていました。光頼は双方の使者を受け悩みます。そして出した結論は中立でした。現在戦争が起こっているのは陸奥国。出羽国は直接関係ない。出羽国の国司や軍事を司る秋田城介からの命令があるならともかく、他国に出兵するのは越権行為であるという言い訳は立ちます。
 ただ、陸奥国府と安倍氏の戦いである以上、清原氏がいつまでも中立を保ち続けることは許されませんでした。征討軍の大将源頼義は朝廷の命を受け叛徒を討ちに来ていたからです。使者の報告を受けた頼義は、光頼ではなく弟武則にターゲットを絞りました。「安倍氏を滅ぼしたらその領土はそっくり清原氏に差し上げる」という甘言に釣られた武則は、兄光頼に出兵して源氏に味方するよう詰め寄ります。兄弟の間で激論が繰り返され、一時は光頼が武則を義絶するほどの騒ぎになりました。清原一族の中で、光頼の慎重論より武則の積極策を支持する声が大きくなり、ついに光頼は源氏方に付く決断をします。そしてこの時点で清原氏の主導権は弟武則に移りました。
 清原武則は軍記物によると一万騎で陸奥に入ったとされますが、当時の生産力・人口からこれはあり得ません。妥当なところで3千から4千の間だったと推定されます。安倍氏の総兵力は、総力戦ですから7千くらいはいたでしょう。清原軍が加わったことで、源氏軍は総勢1万近くに膨れ上がります。清原氏の援軍が加わった源氏軍は、1062年8月貞任の叔父僧良照が籠る小松柵(一関市上黒沢)に襲い掛かりました。
 小松柵は東南を磐井川、西北を絶壁で囲まれた要害です。果敢に攻撃する源氏軍に、安倍軍は矢の雨を降らせ巨木を崖上から投げ落としたと言われます。源氏軍が怯むと柵門を開いて騎馬隊が突出し源氏軍は第三陣まで攻め込まれました。が、安倍軍の攻勢はここまででした。数の優位が物を言い源氏軍は安倍軍を押し戻します。安倍軍の騎馬隊が柵内に逃げ戻ると背後から火の手が上がりました。源氏軍の別動隊が柵の背後から秘かに侵入していたのです。猛火に包まれ小松柵は陥落、良照もたまらず逃げ出しました。
 この時安倍宗任率いる援軍8百が馳せ参じましたが、時すでに遅く待ち構えていた源氏軍に散々に撃ち破られます。形勢は完全に逆転しました。次回、安倍一族最後の戦い厨川柵攻防戦を記します。

平安奥羽の戦乱Ⅳ 黄海(きのみ)の合戦

 亘理権大夫藤原経清の寝返りで源頼義の作戦は安倍軍に筒抜けになります。衣川柵を中心に領内各地の柵で頑強に抵抗する安倍軍を攻めあぐねた頼義は、奥六郡のさらに北、糠部の蝦夷(現在の八戸市を中心とした青森県東部)に使者を出し安倍氏を南北から挟撃しようと画策していました。この事を経清から聞いた安倍頼時は、自ら軍を率い糠部へ出陣します。頼時は戦争というより現地の俘囚長安倍富忠を説得し味方に引き入れようと考えました。ところが、富忠は源氏方=陸奥国府に味方すると決めていたので頼時の懐柔を拒否、逆に頼時の軍に奇襲をかけます。
 戦いは二日間続き、頼時は流れ矢に当たって負傷しました。頼時は鳥海(とりうみ)柵(岩手県一関市大東町)まで運ばれますが、そこで傷が悪化し亡くなります。後を継いだのは長男貞任(1019年~1062年)です。貞任は血気盛んで、父頼時の領土に籠って源氏軍の疲弊を待つ専守防衛策に反対でした。家督を継ぐと一転積極策に打って出、衣川柵を出て南の黄海柵、河崎柵に進出します。黄海柵は現在の一関市藤沢町黄海にありました。市の中心地からは東南に20㎞くらい。山間の盆地で北上川の支流黄海川が流れていました。
 頼義もこの挑戦を受けないわけにはいきません。今まで敵が柵に籠って出てこなかったから困っていたのですから。ただ、この時源氏軍は兵糧確保のため部隊を各地に派遣し頼義の手元にはわずか1800しかいませんでした。この頃陸奥国は凶作で兵糧が不足していたのです。1057年11月、頼義は不利を承知で出陣します。両軍は黄海川を挟んで対峙しました。戦いは猛吹雪の中行われたと言います。黄海柵の中で暖かい寝床とたっぷりの食糧を得ていた安倍軍、一方源氏軍は兵糧も不足し寒さに慣れないため疲弊していました。兵力も源氏側が劣勢、何故この状況で頼義が戦いを選んだか理解に苦しみますが、安倍軍が柵に籠って出てこない事に焦っていたとしか思えません。
 源氏方の兵は弓をつがえるのにも難渋したそうです。地理に暗い源氏軍は、安倍軍の誘いに乗り黄海柵と河崎柵の中間地点に引き込まれます。南北から挟撃された源氏軍は壊滅的打撃を受けて大敗しました。戦死者数百名、頼義自身も一時は敵に包囲され危なかったと言われます。頼義の嫡男八幡太郎義家は旗下の六騎と共に敵陣に斬りこみ頼義を救出しました。
 これは史実として確認できなかったのですが、ある時戦闘に負けた頼義、義家親子は郎党と共に安倍軍の軍装で敵中を突破しようとしていました。そこへ通りかかったのは藤原経清。経清は頼義・義家と見破ったものの、かつての恩を思い出しあえて見逃したと言われます。これも弁慶の勧進帳の話と同様後世の脚色のような気がします。ただそれに似たような状況はあったかもしれません。
 黄海の戦いの結果、再び戦争は膠着状態に陥りました。安倍軍がいくら局地的戦闘で勝とうとも、せいぜい源氏軍を領内から追い払うだけで戦争そのものの勝利にはならなかったからです。相手が陸奥国府である限り、たとえ源頼義が失敗しても新手は次から次へと現れます。ただ武家の棟梁を自認する頼義としたら、敗北は河内源氏の声望が地に堕ちることとなるので絶対に負けられない戦いでした。
 貞任は、戦略的には勝ち目がなくとも戦術的に勝ち続けることで起死回生の勝利を狙っていたのでしょう。その後戦争は五年続きますが、安倍軍は源氏軍を押し続けます。そのうちに頼義の陸奥守任期が切れました。新たに陸奥守に任命されたのは高階常重。ただ戦が続いていることに恐れをなした常重は赴任を拒否。結局頼義の陸奥守重任で落ち着きます。
 頼義のもう一つの官位、鎮守府将軍には任期がなかったようなので戦争指導自体は続けられますが、行政長官である陸奥守でないと自由に年貢を徴収し軍費に充てることができなくなるのです。安倍軍は攻勢に転じました。奥六郡から出撃し北上川下流の郡衙を襲うと勝手に兵糧を徴収し略奪を行います。追い詰められていたのは源氏方だったのかもしれません。困り果てた頼義は、出羽仙北三郡の主清原氏を味方に引き入れようと考えます。ところが何度使者を出しても、清原光頼は中立を保ちました。
 実は清原氏には安倍陣営からも味方に付くよう誘いが来ていたのです。清原氏自身も厳しい選択を迫られていました。この状況で中立は許されなかったからです。
 次回、前九年の役の帰趨を決めることになる外交戦を描きます。

平安奥羽の戦乱Ⅲ 安倍頼時起つ

 清和源氏の主流となった河内源氏と関東の関りは、頼義の父で河内源氏初代頼信が朝廷の命を受け1028年房総半島で起こった平忠常の乱を平定してからです。頼信は反乱鎮圧に際し関東の武士たちを動員し主従関係を結びました。頼義は、父頼信の勢力を引き継ぎ関東武士の棟梁として君臨します。武士の台頭を喜ばない朝廷は、頼義と関東の関係を苦々しく見守りますが、陸奥で起こった安倍氏の反乱を鎮圧できる者が他にいなかったため彼を陸奥守として起用したのです。
 頼義もこの機会を最大限に利用しようとしました。陸奥国は武士にとって重要な良馬の産地。そして陸奥が生み出す黄金も魅力でした。馬は武力、金は経済力、この二つを手に入れれば源氏の勢力は都の貴族も手出しできないほど強大になるのです。野望を胸に陸奥国に下向した頼義。ところが朝廷より上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願による大赦令が出されせっかくの頼義の野望は潰えたかに見えました。私は都の貴族による陰謀の臭いを疑っています。朝廷にとっては反乱した安倍氏が降伏すればよいだけで、下手に源氏が陸奥で勢力を拡大することは望まなかったはずだからです。
 源頼義の陸奥守は1056年で任期満了となります。安倍頼時は頼義の危険性を十分承知していましたから、ひたすら恭順し付け入る隙を与えませんでした。安倍頼時は退任する頼義を衣川の館に招いて惜別の供応をします。その帰途事件が起こりました。頼義一行が阿久利川(岩手県一関市を流れる磐井川だと言われる)河畔で野営していた時の事です。夜半、何者かが頼義の陣を襲い人馬を殺傷したという報告が入ります。報告者によると襲撃者は安倍氏の旗印をつけていたとのこと。そして頼義一行を見送るため同行していた安倍頼時の長男貞任もいつの間にか陣を抜け出していたという情報が入りました。
 どう考えても安倍氏側が頼義一行を襲撃するはずがありません。阿久利川事件は頼義の自作自演の疑いが濃厚です。貞任が陣を抜け出したのも、偽情報を流して頼義側があえて逃がした可能性が高いです。これは明らかに罠でした。表向き激高して見せた頼義は、安倍氏に対し襲撃者貞任の首を差し出せと無理難題を吹きかけます。
 あくまで私の印象ですが、猪突猛進型の貞任に対し頼時は慎重で軽挙妄動をしない人物に見えます。だからこそ、頼義の任期中は大人しくし彼が陸奥を去るのをじっと待っていたのでしょう。ところがそれでは困る頼義は何としても安倍氏を挑発し戦に持ち込まないといけなかったのです。安倍氏側は善後策を協議します。慎重派の頼時三男宗任は戦を始めても最後は朝廷の大軍を受けて負けるので何とか避ける方法を探りました。ところが罠にかけられた張本人である貞任は、怒りが治まらず徹底抗戦を主張します。一族の軍議をじっと聞いていた頼時はついに挙兵を決断しました。
 頼時は、陸奥守源頼義に対し貞任出頭を拒否し衣川柵を中心に奥六郡各地に築いた柵に立てこもります。安倍氏の総兵力は軍記ものでは一万以上と書かれていますが、当時の生産力を考えると外征で3千、領内の防衛戦で短期なら7千がせいぜいだと思います。一方頼義が集められる兵力も陸奥国府の兵と関東から下ってきた源氏方の武士を合わせても5~6千くらいだったと考えられます。これはあくまで戦国時代の石高から算出した数ですから、平安時代の人口、農業生産力を考えるとその半分くらいだったかもしれません。
 頼義にとっては待ってましたとばかりの好機です。早速朝廷に安倍頼時謀反を訴え、反乱鎮圧のため陸奥守の任期延長を勝ち取りました。この時頼義の軍には嫡男八幡太郎義家も同行しています。頼義、義家親子は叛徒鎮圧を大義名分に、その実河内源氏の勢力拡大を目的に前九年の役を戦うのです。
 官軍である陸奥国府の軍には、安倍頼時の娘婿である平永衡、藤原経清も加わります。頼義は、父頼信の代からの家人である経清は重用しても、一時は安倍陣営に加わった永衡を決して信用しませんでした。永衡は銀で飾られたきらびやかな鎧を着ていたと言われます。ある時、頼義に「永衡は安倍方と通じているのではないか?」という密告がありました。もともと疑っていた頼義は、永衡に弁明の機会も与えず斬殺します。これを見ていた経清は戦慄しました。次は自分の番ではないかと恐れ、経清は郎党と共に安倍陣営に奔ります。
 これは頼義の失策でした。永衡は幽閉だけしていたほうが良かったかもしれません。ともかく、経清の裏切りで頼義は窮地に立たされます。頼義はどう戦うのでしょうか?次回、頼時の死と黄海(きのみ)の戦いについて記します。

平安奥羽の戦乱Ⅱ 鬼切部の戦い

 平安時代の奥羽地方を揺るがした前九年の役の原因は諸説あります。一つは奥六郡の郡司として強大な勢力に成長した安倍氏を危険視し陸奥守藤原登任(なりとう)が故意に仕掛けたという説。あるいは奥六郡の金を独占しようとした登任が邪魔になった安倍氏を挑発し滅ぼそうとしたという説。どちらにしろ安倍氏は奥六郡の実質的支配者として朝廷を軽んじ貢租を怠り陸奥国府の権威に対する挑戦者となっていたのは事実でしょう。
 この時安倍氏を率いていたのは頼良(不明~1057年)という人物でした。ただの文官に過ぎない登任が単独で安倍氏に対抗することは不可能です。そこで彼は現地の豪族で伊具郡の郡司を務める平永衡、亘理郡の郡司藤原経清(不明~1062年)に協力を求めるとともに、都に安倍頼良の謀反を訴え秋田城介として新たに平繁成の派遣を要請しました。実は出羽国の軍政官である秋田城介と陸奥国の軍事を司る鎮守府将軍は長らく平和が続いていた為常設されていなかったのです。
 藤原経清、関東は下野国の名門藤原秀郷の後裔で父頼遠の代に下野守と揉め陸奥に下向、亘理郡に定着したのでした。自身も従七位下陸奥権守を務め後には従五位にまで昇進します。陸奥国府に在庁官人として仕え亘理権大夫と称しました。平永衡とは陸奥国府の相役でした。ただ、陸奥国府にとって都合が悪かったのは経清と永衡は安倍頼良の娘婿だったのです。安倍氏が強大な力を誇ったのは、こういった国府の有力者ですら婚姻や金銭で懐柔していたことも原因の一つでした。
 本来、秋田城介の任地は出羽国で陸奥国は担当外です。登任は新たに秋田城介に任命された平繁成が任地に向かう途中、安倍氏の反乱に遭遇し陸奥国府と協力して戦ったという体裁で連合軍を結成します。1051年繁成、登任の連合軍は安倍氏を討つため北上しました。国府軍が現在の宮城県大崎市の鬼切部に達したとき、安倍頼良の長男貞任(さだとう)率いる安倍軍の奇襲を受けます。この時国府軍は数千を数えたそうですが、油断していた為奇襲を受け浮足立ち大損害を出しました。さらに実質的総司令官秋田城介平繁成まで捕虜になるという醜態をさらします。
 戦の始まる前、繁成は軍議の席で慎重論を述べた平永衡を安倍頼良の娘婿だという事で信用せず罵倒、永衡を安倍陣営に奔らせるという失策すら犯していました。結局登任も繁成も軍を率いる器量がなかったという事でしょう。さすがに安倍軍も秋田城介平繁成を殺害する愚挙は犯さず捕虜交換で返します。そのまま睨み合いが続きました。事実上この戦いが前九年の役の発端となります。
 国府軍が俘囚軍に大敗したという報告がもたらされると、朝廷は大騒ぎになりました。このままでは朝廷の威信は地に堕ち全国各地で反乱を誘発しかねないからです。善後策を協議した朝廷は、満を持し登任に代わる陸奥守として武門の名門源頼義を任命しました。源頼義(988年~1075年)は清和源氏の嫡流です。始祖六孫王経基から数えると四代目、清和源氏の主流となった河内源氏頼信の嫡男で二代目棟梁でした。朝廷はさらに頼義に鎮守府将軍職を加えました。陸奥の軍事行政の全権を与えるという事です。鬼切部の敗戦の責を受け藤原登任は解任されました。
 陸奥に赴任した源頼義は、国府のある多賀城に入ります。頼義としたら、安倍氏を滅ぼす気満々でしたが間の悪いことに朝廷において後冷泉天皇の祖母上東門院の病気平癒のため大赦令が発せられました。こうなると頼義としても安倍頼良を許さざるを得ません。頼良は莫大な貢物と共に多賀城を訪れ頼義に降伏しました。この際、自分の名前が頼義と同じであることを遠慮し頼時と名を改めます。
 しかし、頼義は安倍頼時を許す気はさらさらありませんでした。いつか機会を得て安倍氏側を蜂起させ、それを理由に討つつもりだったのです。頼義の挑発はどのように行われるのでしょうか?次回、再び蜂起した安倍氏と本格的戦争に突入した奥六郡の情勢について語ります。

平安奥羽の戦乱Ⅰ 11世紀の奥羽

 1993年NHKで放送された大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』。藤原経清を主人公に前九年の役を描く第一部、その子藤原清衡を主人公に後三年の役を描く第二部、奥州藤原氏最後の当主泰衡を主人公に奥州藤原氏滅亡を描く第三部の三部構成で私の中では五本の指に入る大河ドラマの傑作です。
 物語の舞台は11世紀の奥羽地方。東北地方は現在の秋田県・山形県である出羽国、現在の青森・岩手・宮城・福島を領域とする陸奥国に分かれていました。余りも広大な地域で、戦国末期から江戸初期の数字で出羽国80万石余、陸奥に至っては167万石もあったそうです。ただ当時の農業技術で寒冷の北部では稲作が難しいため貧しく、豊かな地方は南部に限られました。出羽国で言えば現在の山形県に当たる羽前が50万石、陸奥国では福島県に当たる磐城・岩代で90万石、宮城県に当たる陸前で50万石でした。
 これは戦国大名たちが農地開墾、干拓で農業生産力向上に努力した結果であって、平安時代はその半分も生産量があれば良い方でした。ただ良質の馬の産地で豊富な金山もあったことから奥羽地方は別の意味で豊かな地方だったとも言えます。
 古代の関東から東北地方にかけて、蝦夷(えぞ、えみし、毛人とも書く)と呼ばれる人々が住んでいました。一昔前は蝦夷は現在のアイヌ人だと言われましたが、最近の研究では縄文人の末裔で大和朝廷の支配に属さない人々、大部分は大和朝廷に服し日本人となり、一部が北海道に逃れてアイヌになったとも、もともと蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は別民族であり、蝦夷(えぞ)がアイヌ人となったという説もあります。私は蝦夷(えみし)=原日本人説を採りたいですね。
 古くは7世紀阿倍比羅夫による出羽征服に始まり、朝廷は豊かな東北地方を手に入れるべく遠征と現地住民の懐柔、農民の入植、土地開発を通じて東北の支配を進めます。平安時代中期から末期にかかろうとする11世紀には、出羽国に関してはほぼ全域、陸奥国でも奥六郡と言われる北上川流域の北上盆地まで朝廷の支配が及びました。蝦夷のうち、朝廷の支配に服したものは俘囚と呼ばれますが彼らに対する差別は残ります。
 このような征服に対し蝦夷達も反抗し8世紀末から9世紀初頭にかけての阿弖流為(あてるい)の乱など激しい抵抗運動が起こりました。ちなみに蝦夷というのは朝廷側がつけた蔑称で、彼ら自身は日高見国と称したとも言われます。北上川は日高見川が語源だという説もあるくらいです。現在の北上盆地、北から岩手郡、紫波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡は奥六郡と呼ばれました。奥羽山脈を隔てて西側、出羽国の山本郡、平鹿郡、雄勝郡は仙北三郡と呼ばれます。どちらも江戸初期の数値で石高12万石前後。ただ良馬と金山で経済的には豊かな地方でした。
 朝廷は出羽国支配のために現在の秋田市に当たるところに秋田城を設け出羽守と共に秋田城介という軍政官を置きます。一方、陸奥国に関しては多賀城に陸奥守、胆沢城に鎮守府将軍を置いて支配しました。とはいえ、辺境の奥六郡に目が行き届くわけでもなく、朝廷の年貢徴収を代行することで力をつけた豪族安倍氏が台頭します。同じように仙北三郡では清原氏が力を持ちました。どちらも朝廷からは俘囚長だと見做されましたが出羽清原氏は在庁官人で中央貴族清原氏の末裔を称し、安倍氏も長脛彦の兄で大和朝廷の迫害を逃れ東北に至った安日彦(あびひこ)の子孫を名乗ります。
 当時は城と言っても、官衙とそれを囲む柵くらいで防御力は大したことありませんでした。ただ朝廷は軍事に特化した柵と呼ばれる防御施設を各地に設け支配を固めます。陸奥で鎮守府将軍が常駐した胆沢城は防御力に重きを置いた作りだったとも伝えられます。
 11世紀、陸奥国に藤原南家という主流から外れた下級貴族藤原登任(なりとう)という人物が陸奥守として赴任してきたことから事態が動き始めます。次回、登任と安倍頼良との対決をきっかけとした前九年の役の勃発を描きます。

ヤフーブログからメイン変更のためのテスト

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 この記事はテスト用です。私がメインに使っているヤフーブログが2019年8月いっぱいで投稿できなくなるため、ミラーブログである本ブログをメインにしようかと検討しています。
 そのために一応書いてみました。画像投稿とかリンクのしやすさとかチェックするための記事です。
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2019年2月 1日 (金)

開封  - 世界の都市の物語 -

 本当に忘れたころにやってくる『世界の都市の物語』シリーズ。最近の私の世界史記事傾向から遊牧民か黄河関係の記事になるだろうと想像していた貴方、正解です(笑)。
 今回紹介する記事も黄河と無関係ではありません。突然ですがクイズです。皆さんは長江と黄河の大きな違いが分かりますか?地図を見てもらうと分かる通り、長江は河沿いに都市があるのに黄河は主要都市が河川から少し離れた場所にあるでしょ?これは当然で、黄河が暴れ河だからです。黄土高原から豊かな黄土を運んで中流域に氾濫原を形成し、そこが小麦生産の適地だったことから黄河文明は発祥しました。
 ただ黄河は、几上湾曲部のオルドスでは平均標高1000mもあります。鯉の滝登りの伝説で有名な竜門をはじめ大きな瀑布がいくつもあり河南省の潼関のあたりで東流すると一気に標高が下がります。ですから上流で豪雨になると黄河の水は急速に溢れ大洪水になりました。歴史上黄河は洪水の度に河道を大きく変え北は天津近くの渤海湾から南は直接淮河に合流するルートまでありました。
 黄河は、恵みの河であると同時に危険な河でもあったのです。古代から黄河の治水に功績をあげた者が王朝を築いたりしました。人々は黄河に二重の堤防を築きます。河に沿った第一堤防、そこから数キロ離れた第二堤防。しかし、堤防と堤防の間にも住民が住んでおり、時の政府は彼らの犠牲など全くお構いなしでした。一旦洪水が起こると何十万人も犠牲者が出たのはこのためです。最近だと、支那事変の時、日本軍の追撃を恐れた蒋介石の国府軍が黄河の堤防を破壊し人為的に洪水を起こした事件がありました。この時も数十万の犠牲者が出たそうです。国民政府も含め支那の歴代王朝は余り人民の命を重要視していなかったようです。
 ところで、中原の東の端にある重要都市開封だけは、割と黄河に近い所に位置します。それは開封が交通の要衝で河北と河南を結ぶ南北の陸路と黄河水運の水路の交点だったからです。開封は歴史上何度も名前を変えています。春秋時代、この地を支配した鄭の荘公が開封近くに城(城壁に囲まれた都市)を築き啓封と名付けたのが起源でした。戦国時代には大梁と呼ばれ、戦国七雄の一つ魏の後期の首都となります。この時は人口30万を数え戦国時代でも有数の大都市になりました。
 漢代には陳留郡が置かれ兗州に属します。開封が大発展を遂げたのは唐を滅ぼした朱全忠が自らの後梁の首都に定めてからです。以後、開封はかつての旧都洛陽が次第に衰亡していくのに比べ、華北経済の中心地として大発展に向かいました。宋を建国した太祖趙匡胤も開封を首都にして東京開封府と名付けます。当時世界最大の経済大国の首都として大拡張された開封は100万都市になりました。
 この時がピークだったと思います。宋が女真族の金に滅ぼされ、その金もモンゴルに滅ぼされると開封は何度も戦場になり、そのたびに数十万人規模の犠牲者を出しました。モンゴル族が建てた元朝は、江南の杭州と大都(現在の北京)を結ぶ大運河を新たに整備し、開封はそこから外れたため衰微します。と言っても河南省の省都であることには変わりなく重要都市であり続けました。
 現在開封市は郊外も含めて人口530万人。省都自体は中華人民共和国成立後鄭州に奪われたままになっています。今の市街の下に明代の街が眠っていると言われ、その下には宋代と全部で6層もあるそうです。これは黄河がたびたび大氾濫を起こしたためで当然当時生きていた何十万人もの白骨死体が埋まっていることになります。加えて数々の戦乱による犠牲者!
 観光に行きたい気はありますが、白骨は怖いので一生行くことはないでしょう(笑)。

女真族が強いのか漢族が弱すぎるのか?

 今、『遊牧民から見た世界史』(杉山正明著 日経ビジネス文庫)を読んでいるんですが、よく見てみたらすでに10年前くらいに読んだ本でした。最近ボケが進んでいるんでしょうね、同じ本を何度も買う事が頻繁にあります。本棚を整理してみると『失敗の本質』という本は三冊、『大内義隆(人物叢書)』という本は二冊もありました。自分の記憶力のなさに死にたくなります。
 『遊牧民から見た世界史』も読んでいて、この表現以前にも見たことあると思って調べてみたら案の定でした(苦笑)。記憶力が良いのか悪いのか、本当に情けない。
 愚痴はこれくらいにして、世界史では時々あり得ないくらいの番狂わせがあります。これも同書に載っていたエピソードですが、時代は12世紀初頭の支那。当時は北宋が支配していました。宋王朝は当時世界最大の経済大国だと言われましたが、逆に軍事では全く振るわない国でした。150万もの常備軍を持ちながら、北は遊牧民族契丹(キタイ)族の建てた遼に圧迫され澶淵の盟という屈辱的和睦を結ばされます。
 遼が宋を攻めない代わりに毎年絹二十万匹、銀十万両を歳弊として贈るという事実上の属国に成り下がります。さらに黄河のオルドス地方に興ったチベット系党項(タングート)族の西夏にすらぼろ負けし、陝西地方に50万の守備軍を置いて西夏の侵略を防ぐという情けなさでした。西夏へも歳弊を贈っていたそうです。
 いくら世界最大の経済大国でも、150万の常備軍、そして遼と西夏に贈る莫大な歳弊は宋の国家財政に大きな負担となってきました。そんな中、満洲の地に女真族が台頭してきます。女真族はツングース系半農半牧の民族で後には満洲族と名乗り清を建国しました。この時女真族に出現した英雄が完顔阿骨打(かんわんあくだ)です。
 阿骨打は遼の支配を脱し独立、国号を金と定め遼に対し戦争を仕掛けます。皮肉なことに契丹族はモンゴル系の精強な騎馬民族でしたが宋からの歳弊で贅沢に慣れすっかり弱体化していました。この動きを見た宋は、屈辱的な状況を脱するのは今とばかり、女真族と結んで1120年契丹族の遼を南北から挟み撃ちします。
 ところが宋軍は、弱兵と化した遼軍にすら連戦連敗、結局女真族の金が遼軍を押しまくり滅ぼします。約束では宋側が金に莫大な謝礼を払うはずでした。金はその話し合いのためわずか17騎の使節団を宋に派遣します。
 が、宋としては蛮族の金に謝礼を払うのが惜しくなったのです。弱いくせに国際信義もへったくれもない宋には心底呆れ果てます。適当にごまかし金の使節団を帰らせると、その帰途2000名の歩兵で襲撃しました。現地指揮官の個人的判断だともされますが、私は中央の命令があったのだと疑っています。それくらい当時の宋の朝廷は腐っていました。水滸伝の話はある意味真実なのです。
 番狂わせがあったのはまさにこの場面です。使節団ですから全員が精強な兵士ではなかったでしょう。ところが女真族は中央に7騎、左右に5騎ずつ別れ得意の騎射で馬を駆け巡らせ宋軍を大混乱に陥らせます。信じられないのは、宋側に歩兵が騎兵に対するときは弩などの投射兵器を大量に準備するという常識すらなかった形跡があるのです。いかに宋軍の指揮官が無能か分かりますが、結局わずか17騎の女真族に追いまくられ2000の宋軍が潰走してしまいました。
 この時、金の皇帝は二代太宗呉乞買(うきまい)でした。太宗は帰還した使節団から報告を受け激怒、すぐさま軍を発し宋を討ちます。結局、宋はくだらない裏切りのために首都開封を落とされ徽宗上皇、欽宗皇帝はじめ皇帝一族、文武百官すべてが満洲へ連行されました。1126年北宋は滅亡し、難を逃れた欽宗の弟趙構(高宗)が長江以南に南宋を建国するのです。
 私は、宋が裏切らなければ金は支那本土まで進攻する気はなかったと思います。遼の旧領燕雲十六州までは取られるでしょうが、宋の領土は保全されたはず。ところが変なプライドと異民族蔑視、謝礼が惜しくなったなどというくだらない理由でついには国を滅ぼしてしまいました。宋を建国した趙匡胤は史上でも名高い名君で信義に厚い性格だったそうですが、国が豊かになると人間はここまで腐敗堕落するんでしょうね。
 我々もこれを反面教師にしなければならないと強く感じました。

オルドスの重要性

 チベット高原の北西の辺縁、青海省バヤンカラ山脈を源流とし黄土高原を巡って中原に達し渤海湾にそそぐ全長5464㎞の大河黄河。黄土高原を通るため黄砂が交じり黄土色の河になります。上流の肥沃な土砂が中下流に氾濫原を形成しました。そこは麦作の適地で豊かな生産力を背景に黄河文明が生まれます。
 黄河は、上流付近では透明な河川でした。黄土高原に入ると途中蘭州から几状に大きく北流します。包頭のあたりから南流し潼関で東流に戻り開封を過ぎて北東に転じ渤海に至るのです。この几状湾曲部の中で一番南を流れる黄河の支流渭水の流域は関中盆地と呼ばれ支那古代文明揺籃の地でした。周の都鎬京(こうけい)、秦の都咸陽(かんよう)、前漢の都長安もこの地にあります。
 オルドス地方とは、几状の中で渭水流域を除く北半分ほどの部分を指します。現在でこそ不毛な砂漠が続きますが、紀元前後頃までは豊かな草原が広がっていました。ただ緑の部分が全くないわけではなく、几状の西部、黄河の西岸あたりは灌漑されています。その中心都市は現在寧夏回族自治区の首府となっている銀川市。中世は興慶府と呼ばれチベット系の党項(タングート)族が建国した西夏の首都となりました。
 オルドスは地図で見るとずいぶん狭い土地ですが、北方遊牧民族にとっては重要な意味を持っていました。黄河上流は冬季には凍結し馬で渡ることができます。五原(現在の内蒙古自治区バヤンノールあたり)で氷結した黄河を渡った匈奴などの遊牧民はオルドスを拠点とし渭水流域や中原に侵入したのです。
 秦代や漢代の長城は几状の北方を走っていましたから、一旦オルドスに入ってしまえば遊牧民族の侵略を防ぐ手立てはありません。秦の始皇帝時代、将軍蒙恬は30万の大軍を率いオルドスに侵入した匈奴を撃破、長城線の外に叩き出しましたが、いつも成功するとは限りませんでした。
 当時のオルドスは豊かな草原が広がり、遊牧民族たちはここだけで割拠できるほどだったと言われます。ですからオルドスの地は遊牧民族にとってもあこがれの土地だったのです。漢民族側にとって一番脆弱だったのが関中盆地に隣接するオルドス地方でした。ですから後の王朝は、関中盆地とオルドスの間にも長城を築きます。
 歴代の支那の王朝は、長城を守るため屯田兵を置きました。長城が後の時代になるほど南遷するのは屯田できる年間降水量500mlの線まで下がった結果でした。オルドスも乾燥化が進み砂漠化しますから几状の内部北半分は捨てても構わなかったのでしょう。
 ではなぜ乾燥化が進んだかというと、漢民族の人口が増加し灌漑で黄河の水量が激減したからです。酷い年は渤海湾にそそぐ下流が完全に干上がったこともあったそうです。その意味では砂漠化も漢民族の自業自得とも言えますね。中央アジアのアラル海の縮小と全く同じケースです。人間の業の深さを感じます。

蒙古馬と汗血馬

 最近、『馬と黄河と長城の中国史』(西野広祥著 PHP文庫)という本を読みました。著者の支那史理解は怪しいものがありますが、馬の歴史と黄河の地理は私の知識が乏しかったこともあり大変興味深く読めました。
 ちなみにこの本の歴史記述で明らかな間違いは
①春秋時代に趙国は存在しない。趙は晋が三つに分裂した後継国家の一つで分裂した時が戦国時代の始まり。
②赤壁の戦いのときの呉軍の総指揮官は大都督周瑜(しゅうゆ)。黄蓋は宿老ではあるが総指揮官ではない。
③西晋の皇帝一族が建国したのは東晋。南朝宋は東晋の有力武将劉裕が建国。
です。その他歴史解釈にも若干怪しい所があるのでこの本を読む人は歴史記述に関しては話半分か三分の一くらいに思ってください。
 ただ馬に関する記述は目からウロコでした。モンゴル帝国は何故蒙古馬を使い続けたのか?体高140㎝もなくポニーくらいの小さな馬でした。チンギス汗が中央アジアを征服したときいくらでも優秀な馬が手に入ったにもかかわらずです。長年の疑問だったのですが、本書を読んで謎が氷解しました。現代のサラブレッドに代表されるスピード重視の大型馬は、主に穀物を餌にします(干し草にもイネ科の栄養素の高い植物を使用)。一方、蒙古馬は粗食に耐え平原に生える草だけで生きていけました。
 大型馬はスピードはあるものの持久力がなく、一方蒙古馬はスピードはないものの持久力に優れました。モンゴル軍が欧州に侵攻したとき、欧州の騎士たちは「ネズミのような馬に乗った野蛮人」と嘲笑したそうです。ところがいざ戦闘になると、モンゴル軍はろくに戦わず退却、嵩にかかった欧州騎兵が追撃しばてたところを伏兵で遠巻きに矢を射かけ皆殺しにしたそうです。欧州の騎士は特に重い甲冑を装備し馬にすら鎧を着せていたのでばてるのが早くモンゴル騎兵の格好の餌食となりました。
 とはいっても農耕民族側がモンゴルに代表される北方遊牧民の騎兵に対抗するには持久力は無くてもスピードで勝る大型馬に頼るしかなく、欧州にしてもアラブにしても後のサラブレッドに発展する大型馬を育成しました。そうでなければ幼少期から馬に慣れ親しんだ遊牧民族に対抗できないからです。
 そういう観点から見ると、匈奴と戦うため汗血馬を求めた前漢武帝の気持ちが良く分かります。汗血馬は寄生虫の影響で走ると血がにじみ出てそれがあたかも血の汗に見えるという伝説があり一日千里を走ると言われました。中央アジア・フェルガナ地方(当時は大宛と呼ばれた)原産で、現在トルクメニスタンに存在するアハルテケ種が汗血馬の子孫だとされます。
 アハルテケは写真を見るとサラブレットに近い馬格をもっています。ただサラブレットとの違いは顎が張っており草も食べることができるという事です。何よりひ弱なサラブレットと違い頑丈なことが取り柄で、軍馬として申し分のない存在でした。武帝が苦労の末汗血馬を手に入れた時、喜びのあまり漢詩を作ったというエピソードも納得できます。
 ただ、せっかく手に入れた汗血馬も繁殖に成功したとは言えません。というのも大型馬は穀物を餌にするため育成に莫大な費用が掛かるからです。その辺の大草原に放牧していれば自活できる蒙古馬とは決定的に違うのです。武帝時代は汗血馬を使い支那在来馬の馬格改良に努力したそうですが、北方の脅威が薄れるにつれ莫大な維持費がかかる汗血馬とその子孫たちは顧みられなくなります。ただその血脈は細々としてはいましたが着実に受け継がれ、三国時代の赤兎馬はこの汗血馬の子孫だと言われます。
 ポニーのように小さな蒙古馬を使って世界征服を果たしたモンゴル帝国。一方、それに対抗するため大型馬を育成した欧州、西アジア、中央アジア諸国。こうしてみると歴史はなかなか面白いですね。ちなみに、中央アジアに興ったティムールは、蒙古馬ではなく中央アジア原産の大型馬(当然汗血馬の子孫も含む)を使ったはずで、同じ遊牧民族と言っても全く異質の軍団でした。

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