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2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅵ 総裁政府の混迷

 独裁者ロベスピエールを倒して誕生したテルミドール右派による政権は1795年革命色の強すぎる1793年憲法を修正し、行政権は新たに設けられた5人の総裁が担うようになりました。これを総裁政府と呼びます。総裁政府というとフランス史にある程度知識がある方はバラスの名前をあげるでしょう。
 ポール・バラス(1755年~1829年)はプロヴァンス地方の下級貴族の家に生まれ軍に入ります。インドの植民地戦争に従軍し大尉に昇進。フランス革命が起こるとジャコバン・クラブに属しました。1792年国民公会議員。ルイ16世処刑の裁判では賛成票を投じます。人間性にかなり問題があったらしく好色、公金横領、贈収賄でロベスピエールの怒りを買いパリに召喚されました。バラスの場合思想信条でロベスピエールを倒そうとしたわけではなく、自分が捕まるのを防ぐために打倒を決意するという不純な動機でした。
 ではなぜクーデターが成功したかというと、一人の人物と結託したからです。彼の名はジョゼフ・フーシェ(1759年~1820年)。もともとはロベスピエール率いる山岳派。実務能力の高さから革命政権で重宝されますが、かえってロベスピエールに警戒され疎まれます。この事からロベスピエールを憎み打倒を考え始めました。バラスとフーシェ、どちらが先に接近したのかは分かりませんが、フーシェを味方につけたことで反対派はクーデター成功の確率を飛躍的に上げたとも言えます。
 部下を使い情報を集める能力でも、その情報を基に他人を動かす能力でも当代一流だったフーシェは、国民公会でのロベスピエール追い落とし計画を着々と進めました。こんな男を敵に回したのがロベスピエールの不幸ですが、クーデター後フーシェは総裁政府で警察大臣に就任します。フーシェは数多くの密偵をフランス各地に放って陰謀の芽を早いうちから摘み取りました。バラスを筆頭に無能揃いの総裁政府が曲がりなりにも政権を保てたのはフーシェの力が大きかったと思っています。
 そしてもう一人、総裁政府を支えた人物について語りましょう。皆さんご存知、ナポレオン・ボナパルトです。ロベスピエール派と見られ反逆罪の罪で逮捕収監されたナポレオンでしたが、間もなく疑いが晴れ釈放されます。が、危険人物と目され予備役に編入されました。実はバラスとナポレオンは旧知の仲でした。トゥーロン包囲戦で指揮を執ったナポレオンを監督したのがバラスです。
 総裁政府の下、国会は下院に当たる五百人議会と上院である元老院が設けられました。新憲法のもと選挙をすれば王党派が躍進すると思われていました。そこで総裁政府は王党派が立候補できない難しい条件を設定したり、王党派に対する選挙妨害を行います。これに怒った王党派は、1795年10月パリにおいてヴァンデミエールの反乱を起こしました。鎮圧を担当したバラスは、旧知のナポレオンを起用、ナポレオンは市民に大砲を放つなどの強硬手段でこれを鎮圧、その功により師団陸将(中将相当)に昇進しました。その後国内軍副司令官、国内軍司令官と順調に出世し軍事面から総裁政府を支えます。
 バラスは好色で欲深、人間的には欠陥だらけで世間からは悪徳の士とまで酷評される始末でした。そんな男がどうして長らく政権の中枢に居れたかというとバランス感覚が抜群に優れていたからです。フーシェとナポレオンという車の両輪をうまく使い続けていられる限りその地位は安泰でした。バラスとナポレオンに関しては有名なエピソードがあります。好色で何人も愛人がいたバラスですが、その中でジョセフィーヌという女性がいました。社交界の花で美貌を誇る彼女は、バラスにも負けないほど好色で贅沢好き、浪費家だったためさすがのバラスも持て余します。そんなとき、ナポレオンがどうやらジョセフィーヌに惚れたらしいことを察知すると、強引に彼女をナポレオンに押し付けました。体の良い厄介払いでしたが、この頃のナポレオンは女性に関して経験が浅くジョセフィーヌを溺愛します。ジョセフィーヌ本人は最初あまりナポレオンを好きではなかったそうですが、ナポレオンが皇帝に即位したとき皇后になれたんですから運命は本当に分かりません。俗な言い方をすると、ジョセフィーヌはあげまんだったのかもしれません。事実、ジョセフィーヌを手放した時から、バラスの運命に陰りが生じたという見方もできます。
 バラスは政治思想的には鵺でした。バラス以外の総裁には左右両派が入り乱れ勢力争いをします。そのたびに総裁政府は右に左にぶれました。1796年ジョセフィーヌと結婚したナポレオンは、イタリア方面軍司令官に就任、任地に赴きます。ナポレオンは北イタリアでオーストリア軍を破り1797年4月にはオーストリアの首都ウィーンに迫りました。この時ナポレオンは総裁政府に無断で和平交渉に入り勝手に講和します。無力な総裁政府にこれを止める力はなく、結果第一次対仏大同盟は崩壊。ナポレオンの中で、総裁政府軽視の思いが生じたのはこの時かもしれません。野心家である彼は、いつかフランスの実権を握ってやろうという野望が芽生えていたのでしょう。少なくとも総裁政府よりはまともな政治ができるという自負があったのかもしれません。
 そんな不穏な空気を秘めた中、ナポレオンはパリに凱旋します。パリの民衆はナポレオンを熱狂的に迎え入れたそうです。とはいえイギリスのフランス革命政府に対する敵対姿勢は変わらず、依然として強大なイギリス海軍が大西洋と地中海の制海権を握っていました。ナポレオンは、難敵イギリスの息の根を止めるためエジプト遠征を決断します。エジプトを占領し、イギリス本土と最重要植民地インドとの連絡を絶ち、立ち枯れさせようという意図でした。1798年7月、ナポレオンは二万の兵を率いてエジプトに上陸します。陸戦ではピラミッドの戦いで現地マムルーク軍を撃破しカイロに入城しますが、アブキール湾海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗したため、ナポレオンはエジプトに孤立しました。
 そんな中、本国フランスでは総裁政府が行き詰まりを見せます。新しく総裁に就任したシエイエスは、議会で王党派が多数を占め革命が崩壊しかねないと危機感を抱きました。これを打破するには強力な武力しかないと確信した彼は、秘かにナポレオンに使者を出し帰国を求めます。ナポレオンはこれに関しどういう行動を起こすのでしょうか?
 次回、フランス革命最終章ブリュメール18日のクーデタにご期待ください。

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