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2019年2月28日 (木)

平安奥羽の戦乱Ⅺ 最後の勝利者(終章)

Sannkou_2
 源義家、清原清衡の連合軍が再び陸奥を発したのは1087年夏でした。春の予定がずれ込んだのは、前回の失敗を懲り十分な兵糧を準備したからかもしれません。義家の威信にかけても今回は負けられない戦でした。弟新羅三郎義光の参加があり、地盤の関東から参加した武士たちも加わり去年の戦で受けた損害も回復します。一方、清原家衡陣営は金沢柵(横手市金沢。現在の金沢八幡宮のある山が比定地)を中心に源氏軍を待ち構えました。
 有名な雁の乱れを見て伏兵を知ったという話も源氏軍が金沢柵に進軍する途中の出来事だと言われます。知らない人はいないと思いますが一応説明すると、義家は前九年の役が終わり京都で官途についていました。ある時、義家が同僚と軍事談議に興じていると「好漢、惜しむらくは兵法を知らず」という声が聞こえてきます。義家が不審に思って声の主を探すと、学問で朝廷に仕える大江匡房(おおえのまさふさ)でした。
 義家は匡房に教えを請います。義家の謙虚な態度に感心した匡房は孫子の兵法を教授したそうです。実は源氏と大江氏の友誼はこの時から始まり、義家の子孫頼朝が鎌倉幕府を開いた時、匡房の末裔大江広元が助けたのもこのためだと言われます。後三年の役の時、義家は単なる武辺一辺倒ではなく兵法を理解する武将になっていました。
 家衡は、現在の秋田県美郷町山本あたりの葦原に伏兵を置いて源氏軍を待ち構えます。ここは金沢柵に至る街道上にあり奇襲にもってこいの場所でした。義家が不穏な空気を察知し上空を見ると雁の群れが乱れていることを発見します。雁は人の出す殺気を感じそこを避けたのでした。義家は進軍を止め雁の乱れたあたりに矢を射かけさせます。すると潜んでいた敵兵が慌てて出てきました。源氏軍はそれを散々に撃ち破ったそうです。
 1087年9月、源氏軍は金沢柵に到達しました。柵に籠る家衡の兵力5千といわれますが、全員が兵士ではなかったでしょう。ここまでに源氏軍は家衡軍の前哨陣地を潰し各地に点在した柵も攻め落とします。清原一族は金沢柵を最後の決戦場に定め集結していたのです。ですから半数近くは女子供など非戦闘員だったはず。源氏軍は増援も含め1万近くだったと思われます。沼柵の失敗に懲り、包囲策をとりました。この時、吉彦秀武が兵糧攻めを進言したそうです。源氏軍は前回の失敗を反省し十分な兵糧も用意していたでしょうし、清原氏の勢力を金沢柵に追いやったため仙北三郡の打通が成り、出羽国府からの兵糧の援助も期待できました。
 というのも陸奥守の職掌は陸奥国内だけで、管轄外の出羽に出陣するためには出羽守の許可が必要だからです。軍事的にも鎮守府将軍は陸奥限定で出羽の軍事を司るのは秋田城介でした。籠城二か月、厳重に包囲された柵内では非戦闘員も食事するため兵糧が不足し始めます。沼の柵で源氏軍が苦しんだのと同様、金沢柵でも軍馬を殺し食べる他、雑草、ネズミなどの小動物の類まで食べられるものはすべて食べ尽くしました。
 ある時、源氏軍から矢文が投げ込まれます。内容は「女子供を殺すに忍びない。柵から出れば命だけは助けよう」と書かれていました。安堵した者たちはぞろぞろと柵から出てきます。そこへ突如一群の武者が襲い掛かり容赦なくなで斬りを始めました。多くの者が討たれ恐慌状態になった者たちは再び柵内に命からがら逃げ込みます。これを指揮していたのは吉彦秀武だったと伝えられます。
 義家の本陣に呼び出された秀武は、「非道なことをする」と詰られました。しかし秀武は「食い扶持は女子供でも変わらないはず。戦わぬ者が多いほうが兵糧も早く尽きてこちらは助かるというもの。義家様のためにしたことで、怒られる筋合いはない」と逆に言い返したそうです。秀武の言い分は道理で、流石の義家も不問に付したと言われます。ただ、私はこの話は義家を悪人にしないための後世の創作のような気がしてなりません。秀武は確かに悪人でしたが、小悪党の類でした。悪人というなら無理難題を吹っ掛け戦争を仕掛けて奥六郡と仙北三郡を奪おうとした義家は大悪人でしょう。清衡もそうです。本来家督相続の資格がないのに、義家と結んで清原一族を破滅に追い込み清原氏の領土をそっくり奪おうというのですからこれ以上の悪はないでしょう。案外この虐殺事件は義家か清衡が命じた可能性があります。
 冬がやってきました。今回源氏軍は兵糧もたっぷりあり、本格的野戦陣地を築いていた為休養も十分です。金沢柵では家衡、武衡を囲んで軍議が開かれました。「このまま柵に籠っていれば餓死するしかない。動けるうちに一か八か打って出、再起を図ろうではないか」という結論になります。その動きは潜り込ませていた間者によって逐一義家のもとに知らされました。義家はわざと包囲網の一角を開けさせます。
 猛吹雪の夜、柵門がひそかに開かれ家衡はじめ柵内の者たちが続々と出てきました。源氏軍の陣地は静まり返り気付く様子もありません。脱出は成功したかに見えました。ところが松明の灯が掲げられるのを合図に周囲に潜んでいた源氏の武者たちが一斉に襲い掛かります。大混乱に陥った清原軍は、首謀者の一人武衡はじめ主だったものが次々と討たれました。絶食し動くのがやっとという者たちが多くほとんど抵抗もなかったそうです。家衡は下人に変装して逃亡を図りますが、蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいたところを発見され捕らえられました。
 義家の前に引き出された家衡は見苦しく泣き叫んで命乞いをしたと言われます。義家はどうしたものかと清衡に意見を求めました。清衡は冷然と「斬るしかありますまい」と答えます。刑場に引きたてられた家衡は斬首されました。家衡の生年が不明なため享年は分かりませんが清衡がこの時31歳なので24歳前後だったと推定されます。11月4日の事でした。
 家衡の死をもって清原氏は滅びます。清衡は奥六郡に加え仙北三郡も併せ持つ大豪族となりました。義家は戦勝報告を京の朝廷に送ります。その前年堀川天皇が8歳で即位し白河上皇の院政が始まろうとしていた時でした。朝廷は義家の功績を認めず、この度の戦役を源氏と清原氏の私戦だと断じます。朝廷にとっては年貢を怠らない清原氏を滅ぼす必要はありませんでした。義家が勝手に仕掛けた戦争だと苦々しく見ていたのです。朝廷の官符がなければ戦いに参加した武士たちに恩賞を与えることができません。義家は憤りますが、結局私財をなげうって論功行賞を行います。皮肉なことに、関東武士は源氏こそ我らが棟梁と感激し逆に信望が高まりました。
 後に頼朝が鎌倉幕府を開くのも、この時得た関東武士の信望だったことを思うと朝廷の判断は正しかったのかどうか?次第に力をつけ始める武士、緩やかな衰亡を辿る朝廷の貴族たち。
 奥羽において最後の勝利者となったのは清衡でした。清衡は朝廷に奏上して父の姓である『藤原』を名乗ることを許されます。すなわち奥州藤原氏初代清衡です。後三年の役のわずか一か月後、義家は陸奥守を解任され奥羽を去りました。1091年清衡は関白藤原師実に陸奥の名馬を献じます。源氏ではなく藤原摂関家と直接結ぶことで勢力の安定を図りました。
 以後、奥州藤原氏の本拠となった平泉は莫大な黄金の力を背景に文化を花咲かせます。奥州藤原氏政権はこの後100年続きました。清衡が晩年仏教に傾倒し中尊寺などの大寺院を建立したのは、前九年・後三年の役で倒れた敵味方の霊を慰めるためだったとも言われます。それは奥羽の覇者となった者の義務だと考えたのでしょう。1128年、清衡は中尊寺金色堂の落慶を待つように波乱の生涯を終えます。享年73歳。
                                (完)

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