2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« ルイ16世は、やりようによっては死ななくても良かったのでは? | トップページ | フランス革命Ⅱ バスティーユ監獄襲撃 »

2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅰ 革命への道

 1770年5月16日、フランスは祝賀ムードで溢れかえっていました。ルイ15世の王太孫ルイ・オーギュストとオーストリア女帝マリア・テレジアの11女マリア・アントーニアとの婚儀です。後のルイ16世と王妃マリー・アントワネット(フランス語読み)でした。この時ルイ15歳、マリー14歳。おままごとのような幼い夫婦が後に革命の嵐に巻き込まれ断頭台の露と消えるとはいったい誰が予測したでしょうか?
 フランス・ブルボン朝は第3代ルイ14世が72年、第4代ルイ15世が49年と長きにわたる治世だったため、太子である息子が父より先に亡くなりそれぞれ孫が王太孫になっていました。ですからルイ16世は14世から数えると5世の子孫となります。
 1775年、祖父ルイ15世が天然痘で死去すると王太孫ルイ16世が即位します。この時フランスの国家財政は火の車でした。ルイ14世は国土を今の五角形に広げフランスの領域を確定した偉大な君主でしたが、そのためにスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争など数々の戦争を仕掛けあるいは参戦し国土は疲弊しました。いくらフランスが欧州随一の大国と言ってもさすがに限度があったのです。
 皆さんも聞いたことがあると思いますが、当時のフランスの社会体制を示す言葉としてアンシャン・レジームがあります。日本語に訳すと旧体制あるいは旧秩序となるそうですが、第3身分である農民・市民を支配階級である第1身分の聖職者、第2身分の貴族たちが搾取する社会でした。
 もちろんこの不平等社会を是正する試みとして、それぞれの身分の代表が集まって重要議題を議論する三部会と呼ばれる身分制議会が設置されます。フランスでは1302年フリップ3世が貴族と聖職者の代表を招いて会議を開いたのが起源と言われ、後に第3身分もこれに加えたことから三部化が始まりました。
 ところがフランスの王権が強くなり絶対王政の時代になると、三部会は形骸化し王が戦争のための戦費調達目的で税金を課す時などに利用されるほかは、ほとんど開かれなくなります。
 また16世紀ルターから始まる宗教改革でフランスはカルバン派プロテスタント(フランスでは特にユグノーと呼ぶ)が商工業者の間に広がり、旧来のカトリック勢力と対立していました。ブルボン朝初代アンリ4世はカトリックとユグノーの融和に努めますが、最終的に失敗しその対立の芽は18世紀末に至っても未だに燻り続けます。
 危機的な国家財政にさらに追い打ちをかけたのは、1776年勃発したアメリカ独立戦争です。イギリス憎しで参戦したフランスはラファイエット侯爵(1757年~1834年)を司令官とする義勇軍を北米大陸に送り込み、独立派を援助します。一応義勇兵という事になっていますが、フランス政府の援助があったのは言うまでもありません。結果、残ったのは45億リーブルとも言われる巨額な財政赤字でした。
 即位して間もないルイ16世に何ができたでしょう。ルイ16世は読書好きで、当時流行していた啓蒙思想の本も読みこの方面の知識も明るかったと言われます。ただ内向的で大人しい性格だったことから、派手好きで明るい妻マリー・アントワネットとは性格的に合わなかったそうです。ルイとマリーの結婚は政略結婚でした。フランスはオーストリアと過去何度も戦争した仲でしたが、新興のプロイセンがイギリスの後押しを受け急速に台頭したことで互いに危機感を持ち外交革命とも呼ばれる電撃的同盟を結んだのです。その証が両者の結婚でした。
 ルイ16世は決して愚かではありません。平時ならまずまずの君主として生涯を終わったはずです。この時も、国家財政の危機を憂い啓蒙思想家のチュルゴを財務長官に起用、免税特権を持つ特権階級への課税など大胆な財政改革方針を打ち出します。ヴォルテールをはじめとする啓蒙思想家など進歩的知識人は大歓迎しますが、聖職者、貴族など免税特権を持った者たちから猛反発を受けました。その筆頭は王妃マリー・アントワネットで贅沢な宮廷生活を指摘されたことに逆切れ貴族たちの先頭に立って反対運動を展開します。結局、貴族層の反発を抑えきれなくなったルイ16世はチュルゴを罷免せざるを得なくなりました。
 同じころ、天候不順による不作から小麦の値段が急騰、生活に困窮した市民がフランス各地で暴動を起こすなど社会不安が広がります。王政打倒をもくろむ革命派は、暴動を利用し王政そのものが原因だと市民を扇動、社会不安はますます増大しました。政府に打つ手はなく、暴動を力で押さえつけるしかありません。この時有名なエピソードがあります。
 パリで起こったパンを求める市民の暴動を聞いたマリー・アントワネットが
「パンがないならケーキを食べれば良いじゃない?」
と言ったとか。マリー・アントワネットの無知と暗愚さを象徴する話として有名ですが、彼女に同情する面もあり、実際に当時主食だったパンよりも安価なお菓子があったそうでそれを素直に言っただけだともされます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの類で、何もかも悪く解釈するのは避けなければなりません。それはともかく、フランスは絶対王政の行き詰まりが明らかになりつつあり、革命の機運はそこまで来ていたとも言えます。
イギリスは1642年の清教徒革命から1688年の名誉革命で多くの血は流れたものの立憲君主制と議会制民主主義を確立させています。一方、それに百年以上遅れたフランスはどういう道を辿るのでしょうか?次回バスティーユ襲撃を描きます。

« ルイ16世は、やりようによっては死ななくても良かったのでは? | トップページ | フランス革命Ⅱ バスティーユ監獄襲撃 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: フランス革命Ⅰ 革命への道:

« ルイ16世は、やりようによっては死ななくても良かったのでは? | トップページ | フランス革命Ⅱ バスティーユ監獄襲撃 »