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2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅳ 王制廃止と国王の死

 1792年4月に勃発した革命戦争。フランス革命の自国への波及を恐れるイギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどは攻勢を強めます。各地で連戦連敗のフランス軍ですが、祖国の危機に国民が立ち上がり義勇兵として続々と参加しました。この時、マルセイユの義勇兵たちが歌っていたのが『ラ・マルセイエーズ』で後にフランス国歌となります。革命政府は、国家総動員体制を整備し国民の革命への情熱を利用しました。
 ここまでなら美しい祖国愛で済む話なんですが、フランス国民の多くは自国が不利なのは国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがフランスの軍事機密を漏らしているからだと考え8月10日国王夫妻の住むパリ、チュイルリー宮殿を襲撃しました。私はほぼ軟禁状態で周囲の情報を遮断されている国王夫妻が外国と通謀し軍事機密を漏らすことは物理的に不可能で全くの冤罪だったと思っていますが、群集心理の恐ろしさなのでしょう。
 ルイ16世は宮殿を守るスイス衛兵隊に市民への発砲を禁じたため、衛兵たちは興奮する群衆に一方的に虐殺され全滅します。王権は停止され国王一家はタンプル塔に幽閉されました。これを8月10日事件と呼びます。スイス衛兵隊以外にも一部貴族や軍隊が国王を守って戦ったため、革命派パリ市民の怒りを買い9月にいると反革命派狩りが始まり数多くの犠牲者が出ました。9月虐殺は数日間に渡って行われ死者は1万4千人とも1万6千人とも言われます。中には無実の罪や誤解も多かったらしく、革命派が気に入らない者をどさくさで殺したケースも多発したそうです。
 9月20日、マルヌ県ヴァルミーの戦いでようやくフランス軍が勝利、以後は次第に盛り返していきます。21日パリに国民公会が招集され正式に王制が廃止されました。議会はジャコバン・クラブのうち穏健共和派のジロンド派、急進左派の山岳派、その中間の平原派で構成されました。ジロンド派と山岳派は主導権争いを始めます。山岳派を率いるロベスピエールは、必ずしも激高しやすく簡単に扇動に乗る市民を信頼していたわけではありませんでしたが、彼らのエネルギーを背景にし権力闘争を有利に進める狡猾さは持っていました。
 前線で戦っていたラファイエット侯爵は、8月10日事件の報告を受けパリ進軍と国王一家救出を図りますが、兵士たちが従軍を拒否したため孤立、オーストリアに亡命します。王権停止を受け臨時行政委員会が設置されました。9月虐殺の引き金は、委員会で法務大臣に就任したダントンの演説だったとも言われます。ただ彼に同情する向きもあり、ヴェルダンでフランス軍が降伏したのを受け国民を鼓舞するために行った演説がかえって聴衆の誤解を生み虐殺に向かったというのが真相だという意見もあります。
 国民公会に選出された議員は749名。ほぼすべてが革命の支持者でした。議会で優勢を占めたのは穏健共和派のジロンド派です。ジロンド派は、王制こそ廃止したもののルイ16世の処刑そのものには反対でした。元国王を殺せば外国に対する取引ができなくなるというのが理由ですが、諸外国やまだまだ依然として地方で信望のあるルイ16世を処刑した後の反発を恐れていたとも言われます。実は、ジロンド派と対立する山岳派のロベスピエールも個人的には国王処刑に反対でした。しかし、山岳派の権力奪取のためにあえて国王処刑に舵を切ります。政争の道具にされたルイ16世も哀れでしたが、山岳派の若手議員サンジュストは議会で国王糾弾の演説を行いました。ジロンド派の法務大臣ロランにもルイ16世が外国へ向けた書簡の事実を隠蔽した疑惑が出てきたため国王裁判は不可避となって行きます。
 裁判は国民公会議員によって開始されました。
「ルイ・カペー(16世の事)は国家転覆の陰謀によって有罪か?」賛成707票
「ルイ・カペーは死罪にすべきか?」賛成387票、反対334票
修正協議がなされた後の評決でも賛成361票、反対360票
わずか1票の差で元国王ルイ16世処刑が決まります。1793年1月13日、革命広場に引き出されたルイ16世は二万人の市民が見守る中、断頭台の露に消えました。享年38歳。彼の最期の言葉は「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないよう神に祈る」でした。これを見てもルイ16世は決して悪人ではなく、平凡で愛すべき人物のように思えます。ただ生まれた時代が悪かったとしか言えません。
 元王妃マリー・アントワネットもまた1793年10月16日コンコルド広場で夫の後を追います。37歳でした。悪女としてフランス国民に憎まれた彼女でしたが、贅沢好きで頭もあまり良くない欠点はあっても決して悪女ではなかったと私は思います。革命の熱狂が生活困窮した国民の憎しみの対象として実像以上に独り歩きした結果なのでしょう。元国王夫妻の処刑でジロンド派は国民の支持を失いました。1793年6月2日下層市民の支持を背景に山岳派のロベスピエールはジロンド派を追放、独裁政治を始めました。
 国王処刑に賛成票を投じた議員たちは王政復古時白色テロの標的となります。自業自得ですが、このように左右両派のテロの応酬という事実があるために私はフランス革命を手放しに評価できないのです。次回、ロベスピエールの恐怖政治とそれに対する反動を描きます。

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