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2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅲ 革命戦争

 バスティーユ監獄襲撃は象徴的な事件でした。この段階でルイ16世の統治能力は崩壊していたと思います。国民議会は事態を収拾するため1789年8月4日封建的特権廃止を決議、ついでアメリカ独立宣言を範として人権宣言を採択します。自由、法的平等、所有権の不可侵、国民主権が含まれたこの宣言は、いまだ形式上は国王の承認が必要でしたが、ルイ16世は拒否しました。
 同年10月前年からの不作で食料が高騰、パリの女性たち数千人が武器を取って立ち上がります。男たちもこれに追随し食料を要求しヴェルサイユに行進、まさに無政府状態でした。暴徒化した群衆はヴェルサイユ宮殿に侵入、ルイ16世は圧力に屈し人権宣言を承認します。群衆はルイ16世一家を取り囲みパリに連れ戻しました。以後国王一家はパリに軟禁されます。
 統治能力を失った国王に対し、国民議会がフランスを支配するようになりました。この当時革命派はラファイエット侯爵やミラボーなど立憲君主派が主導し、国民的人気の高いラファイエットは国民衛兵司令官に就任します。このまま進めばフランス革命は穏健な道を進んだかもしれません。ところがそれをぶち壊す事件が起こりました。
 きっかけは穏健派のミラボーが1791年4月2日病死したことです。ミラボーは革命初期の指導者で立憲君主制を目指していたと言われます。王政への理解者の死で革命の暴走を恐れたルイ16世は妻の実家オーストリアへの亡命を考え始めます。すでに革命の行く末に絶望した貴族たちは続々と他国へ亡命していました。ただ、ルイ16世は最悪の人物に頼ります。妻マリー・アントワネットの愛人でスウェーデン貴族のフェルセン伯爵でした。
 フェルセンは不倫するくらいですから実務能力皆無で、国王一家を目立つ馬車で脱出させます。1791年6月20日パリを脱出した国王一家ですが、ドイツ国境手前のヴァレンヌで民衆に見つかり6月25日パリに連れ戻されました。国を捨てようとした国王に国民は激高します。これでルイ16世は完全に国民から見放されました。フランス各地で民衆の暴動が頻発、議会は国民衛兵を出動させ鎮圧します。多数の死者が生じ、国民議会内部に深刻な対立が生まれました。議会の主流派は立憲王政派でしたが、「国民の声を聞き革命を進めるべきではないか?」と主張するロベスピエールなどの左派が発言権を増したのです。
 フランス革命は国王を抱く周辺諸国に警戒されます。自国に波及すれば自分たちが危なくなるからです。特にマリー・アントワネットの実兄オーストリア皇帝レオポルド2世はフランス革命政府に対し国王一家の安全を保障し自国へ引き渡すよう要求します。さらにプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム2世と共同しピルニッツ宣言を行います。これはブルボン王家の保護とそのための武力行使をほのめかしただけに過ぎないものでしたが、革命政府はこれを最後通牒と誤解しフランス国民もブルボン王家を完全に見限りました。
 ここに一人の人物がいます。イギリス首相小ピット(ウィリアム・ピット 1759年~1806年)です。実の妹と義弟を心配するレオポルド2世とは別の意味でフランス革命の行く末を憂いていました。1783年、24歳というイギリス史上最年少で首相となった小ピットは、フランスの革命が他の欧州諸国に波及すると旧来の秩序が破壊しかねないとオーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどと対仏同盟交渉を進めます。これは1793年第一次対仏大同盟として具現しました。
 一方フランス革命政府側も危機感を募らせます。革命政府の状況を記すと、議会で指導的立場となったのはジャコバン・クラブでした。ジャコバン・クラブと言えばロベスピエールのイメージと重なり過激な左派という印象が深いですが、調べてみるとラファイエットやミラボー率いる立憲君主派(フイヤン派=右派)、穏健共和派のジロンド派も含めた左右両派を包含した政治クラブでした。パリのジャコバン修道院を本部としたことからジャコバン・クラブと呼ばれたのです。
 ロベスピエール、マラー率いる急進的共和派(左派)は山岳派と呼ばれます。ヴァレンヌ事件とその後の混乱を受け議会と王政を共存させようとするフイヤン派は発言力を失います。1790年ラファイエットらフイヤン派はジャコバン・クラブから離脱しました。1792年に入ると、外国の干渉戦争に軍事力で対抗しようとするジロンド派が議会の主導権を握り、4月20日オーストリアに対し宣戦布告します。革命戦争の始まりです。
 当時破産状態のフランスでは、貴族が多かった軍幹部に亡命したり軍務拒否が相次ぎ兵器もろくに行き渡らなかったため連戦連敗します。同年7月にはプロイセン軍も参戦、イギリス、オランダ、スペインが次々と敵側に加わったため各地で敗北を繰り返しました。政争に敗れ国民衛兵司令官を辞職していたラファイエットも祖国の危機でドイツ方面司令官に復帰します。が、アメリカ独立戦争で実戦経験のあるラファイエットですら苦しい戦いを余儀なくされました。
 革命戦争は結局1802年まで続けられ、その後はナポレオン戦争へと発展していきます。実権を失いパリで軟禁状態にされた国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット。彼らの命運も尽きようとしていました。次回は国王処刑について語りましょう。

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