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2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅱ バスティーユ監獄襲撃

 皆さんはフランス革命についてどのような印象をお持ちでしょうか?私のような中年以降のオールドファンなら『ベルサイユのばら』あるいは『ラ・セーヌの星』のイメージかもしれません。ただこれらは戦後左翼史観にどっぷりつかった革命絶対正義、絶対王政(=専制体制)絶対悪の立場で描かれているため歴史の真実が歪められていると私は思います。どちらの作品も革命までは絶対王政悪と描きながら、いざマリー・アントワネットが革命側に捕らえられ断頭台の露に消えるとこちらに同情的なストーリー展開でした。一貫性も正義もへったくれもないと当時子供心に思ったくらいです。マリー・アントワネットが捕らえられた原因を作ったのはオスカルやシモーヌたちですよ。偽善もいい加減にしろ!まあ、作品として面白いのでそこまで目くじら立てて非難するつもりは毛頭ありませんが…。
 かつて国民的歴史作家の司馬遼太郎も書いていたと記憶していますが、本来歴史には善も悪も無いんです。それぞれの個人、勢力に正義がありそのぶつかり合いにすぎません。勝った方が正義になり、負けた方は勝利者によって悪と断ぜられるのみ。勝てば官軍はこれを表した言葉でしょう。私がイギリスの清教徒革命・名誉革命をフランス革命より高く評価するのは、イギリスは王党派と議会派が自分たちだけで争い国民にはできるだけ迷惑が掛からないよう戦ったのに比べ、フランスでは左右両派の憎悪がぶつかり合い国民全体を巻き込んで甚大な被害を与えた点です。その結果も、イギリスでは立憲君主制、議会制民主主義を確立し以後は大きな混乱がなかったのに対し、フランスでは革命が終わった後もナポレオン戦争、王政復古、第二共和政、ナポレオン3世の第二帝政、第三共和政と大きく左右に揺れ動きそのたびに国民に多数の犠牲者を出しました。もしかしたら英仏両国の国民性の違いにあるのかもしれません。冷静なイギリス人と激高しやすいフランス人。フランス贔屓の方には怒られるかもしれませんが、私はそう感じています。
 前置きが長くなったので本題に戻ると、フランスのカトリック聖職者・貴族層は国家財政の悪化から免税特権を持つ自分たちの既得権益が取り上げられる危険性を感じていました。そこで国王を牽制し増税を葬り去るため175年間開かれていなかった三部会の招集を要求します。これを見ても革命期以降王党派と呼ばれた彼らが、ブルボン家やルイ16世に対する忠誠心ではなく自分たちの既得権益保護のみで動いてたことが分かります。ですから王党派ではなく王政で獲得した既得権益を保持したい勢力とでも言うべきでしょう。
 ところがいざ三部会を開いてみると、多数派を占めた第3身分の農民・市民層代表が自由主義的改革を要求し収拾がつかなくなります。従来三部会では特権階級である貴族・聖職者に有利な評決方法だったのですが、多数派の第3身分側がこれに異議を唱えたのです。皮肉なことに、アメリカ独立戦争に介入して以降アメリカの自由民主主義、立憲共和制思想がフランスに逆輸入され市民意識を大きく変えていました。独立戦争に義勇軍として参加したラファイエット侯爵などは、アメリカ独立派と交流するうちにフランスにも立憲君主制の導入が必要だと考え始めていました。
 第3身分を率いる勢力も、綺麗事を言うだけで実務能力に欠けた啓蒙思想家ではなくロベスピエールのような市民運動を利用し自分たちの私利私欲を図る扇動政治家達が台頭してきます。第3身分代表を以後革命派と呼びますが革命派と既得権益側の対立は激化、1789年6月革命派はヴェルサイユ宮殿の屋内球戯場を占拠し三部会を改めて国民議会とする宣言をしました。これを球戯場の誓いと呼びます。
 革命派の台頭は、国王ルイ16世とそれまで対立していた貴族・聖職者層を結び付けました。ルイ16世は表向き国民議会に譲歩の姿勢を示しながら、秘かに全国各地から軍隊を集結させ武力弾圧を目論みます。歴史にIFは禁物ですが、私はルイ16世がヴェルサイユに留まらず外で軍隊と合流しパリとヴェルサイユを軍事力で制圧すれば革命の動きは抑えられたと思います。しかし、国王は事態を楽観視しすぎていました。
 1789年7月11日、国民に人気のあった銀行家出身の財務長官ジャック・ネッケルが罷免されます。これが暴動のきっかけになったとも言われますが、実態を調べるとネッケルはそれほど有能な政治家ではなく、財政改革に反対した貴族層の反発を受けなくてもいずれ罷免されていたとは思います。が、ネッケル罷免は革命家たちにこれでもかというくらいに利用されました。パリの街頭に立った革命家の弁士たちは市民を相手に「ネッケル氏罷免は国民議会、そして我々民衆に対する国王の挑戦だ」とまくしたてます。
 おそらくパリ市民は、彼らの演説を理解したとは思えません。ただ重税で生活が困窮しいつ爆発してもおかしくない状況にあったのは確か。扇動家に乗せられ激昂した民衆はまずパリの廃兵院を襲撃、武器弾薬を奪います。この時動いた民衆は4~5万人にも上ったと言われ、3万2千挺の小銃、大砲20門が民衆の手に渡りました。その勢いのまま政治犯を収容していたバスティーユ監獄に押し寄せます。
 市民代表はバスティーユの司令官ド・ローネと会見、武器弾薬の引き渡しを求めました。ド・ローネは引き渡しこそやんわりと拒否したものの紳士的に接し食事すら出してもてなしたそうです。交渉が長引く中興奮した群衆が監獄内に侵入、恐怖にかられた守備兵が発砲したことから群衆はパニックになり偶発的な銃撃戦が始まります。さらに群衆の一人が「これは罠だ。ド・ローネが市民を皆殺しにするためわざと中庭に引き入れたのだ!」と叫んだため収拾がつかなくなりました。
 この騒動で、ド・ローネと守備兵たちは皆虐殺され、市民側も98人の死者、73人の負傷者を出します。監獄に入っていた囚人7名は釈放されますが、この中に政治犯は一人もいなかったそうです。これがバスティーユ監獄襲撃の実態です。何ともお粗末な結果ですが、暴走に暴走を重ねた革命派は封建的特権の廃止、人権宣言と革命の道を突き進んでいきます。
 ここに有名なエピソードがあります。バスティーユ監獄襲撃があったその日の夜、7月14日ルイ16世は日記に「何事も無し」と書き記したそうです。ルイ16世暗愚説を象徴するエピソードとして語られている物ですが、調べてみるとルイ16世は日記に狩猟の獲物を記すのが日課でこの日は何もなかったためにそう書いたというのが真実でした。
 こうしてみるともう一つの有名なエピソードも怪しくなります。就寝していたルイ16世に進歩派貴族リアンクール公がバスティーユ監獄襲撃の報告をしに来た際の会話
「陛下、大変なことが起こりました」
「暴動かね?」
「いえ陛下、革命でございます」
 ともかく、歴史は大きく動き始めました。当初は革命派も王政を打倒しようとまでは考えていなかったそうです。しかし時代の流れはそうなりませんでした。次回は国王一家の監禁、脱出失敗、革命の波及を恐れる外国からの干渉戦争について語ることとしましょう。

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