2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »

2019年3月

2019年3月30日 (土)

他の国にこれ言ったら国際問題になるな

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村


いつも応援ありがとうございます。

学校現場での「日の丸掲揚、君が代斉唱」にILOが是正勧告 ネット「ILO委員のお里が知れる」「ほかの国にも言ったら?」

 いわゆる「国連の方から来ました」詐欺なんだろうけど、これが通ると思っている時点で異常です。国連は特亜の工作機関と化したと言われて久しいですが、国旗国歌は主権問題で、他国が絶対に干渉してはいけないはず。普通の国なら戦争になりますよ。日本政府は猛反発しなければいけない。猛抗議と日本にこれを言った首謀者の処分、国連分担金支払い拒否くらいはやっても良いくらい。

 日本政府外務省がいかにヘタレだったかを象徴するようなニュースです。本来ならこんな露骨な内政干渉、絶対に許してはならない。独立国家としての気概があるならね。稀代の悪法憲法9条で牙を抜かれヘタレになったからここまで舐められているんです。

 日本国民ももっと怒るべき。公務員でありながら国旗国歌を拒否するなどあり得ない。そんなに日本が嫌な奴は公職から追放するよう我々国民が声を上げるべきなんですよ。我々の税金で養っているんですから。国内の売国勢力と国外の特亜反日勢力が結託し国旗国歌を棄損し日本を弱めようとしている卑劣な工作です。絶対に許してはいけない!

 民主主義国家では国民のレベル以上の政治家は生まれない。我々国民の意識が変わらない限り、日本は絶対に良くならないと断言します。皆さんはいかが思われますか?

2019年3月29日 (金)

自由朝鮮と日本の取るべき道

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村


いつも応援ありがとうございます。

【自由朝鮮】「金正恩政権を根本から揺るがす」 脱北者の団体が新たな声明

 金正恩によって無残に暗殺された異母兄金正男。その長男金漢率(キムハンソル)の行方が不明でしたが最近になって北朝鮮の反体制組織自由朝鮮(元・千里馬民防衛)が保護していることが明らかになりました。金漢率の所在はアメリカだと言われます。

 私はてっきり支那共産党が保護しているものだと思っていました。というのは支那による北朝鮮支配に都合の良い駒だからです。ところが現実はアメリカ。当然CIAが絡んでいることは確実。これでアメリカはいつ北朝鮮と全面戦争になっても困らない。金正恩体制を根底から覆して金漢率を傀儡とする新政府を樹立できますからね。支那にとっては致命的な外交失策だと思いますよ。

 日本はこれを利用しない手はない。今まで通りの日本外交だと100年たっても拉致被害者は返ってきませんよ。一説では拉致被害者帰国の見返りに1兆円とも2兆円とも言われる経済援助をする密約があるとか。冗談じゃない!営利誘拐犯人に身代金を払って人質を返してもらうようなもの。ならず者国家にはびた一文払ってはいけません。

 同じ大金を使うなら、もっと有意義に使うべきです。私は自由朝鮮を日本が裏から援助し金王朝を倒させるべきだと考えます。アメリカがアフガンやシリアでしたように、中東でAK-47やRPG-7を大量に調達し革命組織に流すのです。もちろん革命成功の暁には条件を付けます。

①拉致被害者の全員帰国。もし死亡している場合は遺骨を返還。
②核をはじめ大量破壊兵器の完全廃棄。
③日本敵視政策の禁止。
④日米と平和条約を締結し、体制保障する代わりに資源開発の優先権を与える。

 革命援助に1兆円、その後の経済援助で1兆円。向こうがこれを約束出来たら、私は金漢率を全面バックアップすべきだと思います。もちろんそのためには日本も準備が必要です。

①スパイ防止法制定で国内の売国奴(売国野党、マスゴミ)を一掃。
②朝鮮総連の解体と在日朝鮮人の全員追放。
③韓国とは断交(北朝鮮革命に邪魔になるので…)

 日本の態勢を固めたうえで、本気で金漢率を日米で援助したら拉致問題も核問題も一気に解決すると思うんですよ。もちろん実現のためのハードルは高いでしょう。ただ日本の安全保障を考えたら真剣にアメリカと協議する内容だと思うんですよね。皆様はいかが思われますか?




追伸:
 北朝鮮革命が成功しても、日本は取るものを取ったらすぐ撤退すべき。朝鮮と関わるとろくなことはない。場合によっては持ち出しになっても核と拉致問題が解決したら御の字じゃないですか!

 北朝鮮革命政府が樹立されたら、アメリカの傀儡で良いと思いますよ。どうせそのうちロシアや支那と揉める。当事者はあくまでアメリカにしておくのがベストだと愚考します。日本はアメリカをバックアップすると称しながら蚊帳の外に自ら持っていくべき。

 一番望ましいのは北がアメリカの傀儡、南が支那の傀儡となる事。日本にとっては最良の結果だと思います(笑)。

2019年3月28日 (木)

祝!F-35A飛行隊、三沢基地で発足!!!

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

 

空自三沢基地に最新鋭ステルス戦闘機F-35A飛行隊が新設…12機、約80人態勢で発足!
 12機といえば最小限の飛行隊。昔で言う飛行中隊ですな。302飛行隊は301と共に唯一残ったF-4EJ改ファントムⅡを装備した飛行隊でしたが、今回F-35Aに機種変更し最新鋭の飛行隊となったわけです。ちなみに301もF-35Aに改編予定です。ファントムおじいちゃん、ご苦労様でした。

 おそらく将来的には、三沢と築城あたりにF-35A飛行隊が配備されると思います。余裕が出てきたら小松と新田原にも。これは北が対ロシア、九州の2基地は半島有事と尖閣有事を睨んでの配備です。対ロシアなら北海道の千歳のほうが良いような気もしますが、あまりに近いと有事の際巡航ミサイルの波状攻撃で基地機能を喪失する危険性があります。沖縄の那覇基地も同じ理由。もちろんこれは三沢や築城にも言えるんですが、そういう攻撃を想定して戦闘機用バンカーや防御施設を充実すべきでしょうね。

 前線基地ではまだまだF-15JとDJに頑張ってもらわないといけません。スクランブルも!私はF-35Aの用途としてJASSM-ERの発射母機、優秀なレーダー能力とデータリンクを利用してミサイルキャリアーのF-15Jを誘導する役目をしてほしいと思っています。

 とにかく最近防衛関係は良いニュースばかりでとても嬉しいです。これで外交もちゃんとやってくれれば安倍政権に不満無いんですがね。いい加減韓国に制裁してくださいな。制裁しない言い訳は聞きたくありません。

2019年3月27日 (水)

日本史上難攻不落の城一覧

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

 

 手抜き記事で申し訳ない。世界史難攻不落シリーズで精力を使い果たし、日本編は簡単に紹介するにとどめます。さらにランキング形式も止めます。時代背景、条件によって変わりますので。

 

 

 

【沼柵】

 

 平安時代中期、後三年の役の主要舞台の一つ。秋田県横手市。清原家衡が源義家・清原清衡の連合軍を迎え撃った城。文字通り周囲を沼沢地に囲まれ難攻不落を誇った。

 

 

 

【唐沢山城】

 

 栃木県佐野市。関東屈指の山城。藤原秀郷流佐野氏累代の居城で、上杉謙信、武田信玄、北条氏政と名だたる戦国大名の攻撃を撥ね退けた。

 

 

 

【久留里城】

 

 千葉県君津市久留里。里見氏上総支配の拠点。なかなかの規模の山城で小田原北条氏の大軍を撃退した。おかげで里見氏は滅亡を免れる。

 

 

 

【高天神城】

 

 静岡県掛川市土方。1571年武田信玄の攻撃を撃退。1574年武田勝頼の猛攻で落城。その後武田氏の城になるが、徳川軍が逆襲、勝頼が援軍を送らなかったことで家中の信望を失い滅亡の遠因となる。

 

 

 

【長篠城】

 

 愛知県新城市長篠。有名な長篠合戦(設楽原の合戦)の舞台の一つ。豊川と宇連川に挟まれた断崖の先端にある。奥平伸昌率いるわずか500の城兵が守る城を武田勝頼が1万5千の兵で囲むが落城させられなかったことで織田徳川連合軍に野戦に持ち込まれ完敗。武田家滅亡の原因となる。

 

 

 

【豊臣大坂城】

 

 ご存知城づくりの名手太閤秀吉が精魂込めて築いた城。秀頼の代に関東30万の大軍に囲まれるがびくともしなかった。家康に騙され外堀、内堀を埋められたのが運の尽き。

 

 

 

【吉田郡山城】

 

 毛利元就の居城。広島県安芸高田市吉田町。尼子晴久3万の大軍に囲まれるが持ちこたえる。元就の将器もあったと思うが、山城としての防御力もかなりあったはず。

 

 

 

【月山富田城】

 

 こちらは尼子氏の居城。島根県安来市広瀬町。標高184mの月山一帯が城域の広大な山城。大内義隆、毛利元就の攻撃を持ちこたえる。最後は調略で落とさざるを得なかったほど。

 

 

 

【豊後岡城】

 

 大分県竹田市。有名な荒城の月の舞台。大友家の重臣志賀氏の居城。戦国末期、志賀親次が島津軍の攻撃を何度も撃退し大友家滅亡を救った。大野川と稲葉川に挟まれた断崖の上にあり前方は湿地帯という難攻不落さを誇る。

 

 

 

【熊本城】

 

 城づくりの名人加藤清正が築く。大規模な石垣で有名。茶臼山全体が城域の平山城。その真価は西南戦争で発揮される。薩摩軍一万五千に囲まれた熊本城はわずか三千の守備兵で2か月の攻囲戦に耐えた。清正の城づくりが正しかった証明にもなると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 他にも色々あるんですが、今のところこれが私の日本の城ベスト10ですかね。もちろんダントツの1位は豊臣大坂城です。

世界史上難攻不落の城、襄陽城

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

2_1

 

 5回に渡って見てきた世界史上難攻不落の城。その半分は住民も防衛戦に参加する城塞都市でした。というのは、日本と違い洋の東西を問わず大陸では落城=自分たちの国の滅亡で住民は殺されるか奴隷に落とされるかの過酷な運命だったからです。その意味では、住民を巻き込まず武士や兵士たちだけで争われた(一部住民に被害があるとしても)日本は幸せだったのかもしれません。大陸における攻城戦が大量虐殺に終わるケースは多く、特に中央アジアの諸都市(サマルカンドやブハラ、メルブなど)は歴史上何度も落城しそのたびに数十万規模の犠牲を出してきました。

 支那大陸も同様で、北京、南京、中原の諸都市は戦争の度におびただしい死者を出したのです。古代支那の城壁は版築という工法で造られました。両側を板で覆い、上から土砂を流し込みます。そしてその上を大勢の人が乗って叩き棒で突き固めるのです。これを何回も繰り返し高い城壁を築きました。版築は主に黄土地帯で行われます。黄土は石灰分を多量に含んだ微粒子で成り立っていた為版築に特に適していました。支那事変の時の話ですが、版築の城壁は75㎜以下の火砲ではびくともしなかったそうです。

 ただ、淮河以南の南方では水分を多く含む黒土だったため、煉瓦や石造りの城壁が発達しました。おそらく今回紹介する襄陽も煉瓦か石造りだったと推定されます。三国志ファンなら群雄の一人荊州の劉表の本拠地だとご存知でしょう。襄陽の歴史は古く春秋時代から存在します。当時は楚国の副都で鄢(えん)と呼びました。

 襄陽は現在の湖北省、漢中地方に発し長江と合流する漢水の南岸にあります。後漢末期から三国時代にはすでに南、西、東に深い水堀をもうけ四方を高い城壁で囲まれた難攻不落の城塞都市だったようです。実際、呉の孫権の父孫堅はこの城を攻めて敗死しています。襄陽城の真価が発揮されたのは南宋時代末期でした。1268年、大元帝国初代ハーン、フビライは南宋を滅ぼすべく、襄陽城を攻めます。南宋側は漢水を挟んで北岸にある樊城(はんじょう)を前哨陣地とし頑強に抵抗しました。守るは名将呂文煥(りょぶんかん)。

 南宋軍の兵力は不明ですが、攻める元軍は10万人を超えていたそうです。元軍は襄陽と樊城を完全に包囲しました。南宋としても襄陽が陥落すると、長江沿いに攻め下られ首都臨安(現在の杭州)の防衛が崩壊するため何度も救援軍を送りました。フビライは南宋の動きは当然承知で、そのたびに撃退します。が、肝心の襄陽は士気旺盛で陥落する気配は全くありませんでした。驚くべきことになんと2年間も元軍の攻撃に耐えたそうです。呂文煥は兵糧の節約のために自分たちの妻女を城から追い出すという凄まじい覚悟を見せます。

 そんな難攻不落の城にも終焉の時が迫りつつありました。中東で開発された回回砲(巨石を撃ち出す投石砲の一種)が戦場に登場したのです。これはフビライの弟フラグから贈られたものでした。中東の技術者も同行していたと言われます。回回砲の威力はすさまじく、襄陽城の城壁を打ち砕きました。樊城から撃ち出された回回砲の巨石が襄陽城に届いたという話は眉唾物ですがそれだけ威力があったのでしょう。

 城将呂文煥はついに降伏を決断します。南宋の救援も絶望的でしたので致し方ない選択だったのでしょう。1273年2月の事でした。フビライは降伏した呂文煥を優遇します。優れた人材は敵であろうと登用する、この柔軟性がモンゴルが大陸を制覇した所以でした。襄陽陥落によって南宋の防衛線は崩壊、滅亡へ突き進みます。意外にも呂文煥を悪く言う者は当時も後世もあまりいないそうです。精一杯戦った結果の降伏でしたから。ただ、南宋最後の忠臣と言われる文天祥だけは呂文煥を口汚く罵ります。私は文天祥の批判は呂文煥にとって酷だと思います。もし文天祥が呂文煥の立場だったら最後の一兵まで戦ったと思いますが、その結果襄陽に住んでいる一般市民も道連れになったはずだからです。呂文煥の決断は良識を示したと私は考えますね。

 どんな難攻不落の城でも新兵器には勝てないというのが今回の教訓ですが、この逆パターンとして明末の寧遠城の戦いがあります。名将袁崇煥の守る寧遠城は、後金(後の清帝国)の初代ヌルハチの攻撃を受けますが、ポルトガル製の大砲を大量に準備し逆に後金軍を撃退しました。ヌルハチはこの時の傷がもとで亡くなったほどです。袁崇煥が生きている間、後金軍は寧遠城と長城線に近づけなかったそうですが、讒言にあい処刑されてしまいます。これは明の自滅に等しい暴挙でした。寧遠城の戦いも面白い話ですが、同じような難攻不落の城シリーズは読者も飽きてきているかと思い、いったん中断します。

2019年3月26日 (火)

世界史上難攻不落の城、マサダの城塞

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

2

 

 今回のマサダは知っている人が多いかもしれません。場所はイスラエル、死海の畔、西岸にある岩山です。死海から見ると標高400mもあります。ところが海抜0m。その理由は死海が海抜マイナス400mだからです。死海から地中海まで100㎞くらいしかありませんが、マサダのある山塊からみると、一度西側に大きく切れ込み、そこから緩やかに上って海抜をちょっと超えまた緩やかに下って地中海に至っています。

 マサダはローマ帝国に対するユダヤ民族抵抗の象徴でした。もともとユダヤはヘロデ王が時のローマの権力者にうまく取り入り保護国となっていました。ところがヘロデ王の死後、紆余曲折があって属州となります。ローマ人は、属州に対してもそこまで過酷な統治はしなかったのですが、ユダヤ教を信奉するユダヤ人にとっては多神教のローマの支配は我慢がならなかったのでしょう。

 反乱のきっかけは、ローマ総督がエルサレムのインフラ整備のためにユダヤ神殿から宝物を持ち出したことだとも、ローマ人によるユダヤ人殺害事件だったとも言われますが、おそらくこれらの原因が重なった結果なのでしょう。紀元68年から紀元73年まで続いた反乱を世界史ではユダヤ戦争と呼びます。当時のローマ帝国は地中海世界最強の軍隊、まともにぶつかってユダヤが勝てるはずはありません。70年、首都エルサレムは激しい攻囲戦の末陥落。生き残った反乱軍は最後の砦として死海の畔マサダの要塞に立て籠りました。

 周囲は断崖絶壁。頂上に至る道は蛇の道と呼ばれる細長い登山道一本。一見して難攻不落だと分かります。さすがのローマ軍もこれを攻めあぐみました。マサダはヘブライ語で要塞の意味ですが、ヘロデ王が築いた城でした。反乱軍の兵力は1000人弱。囲むローマ軍は1万5千ですから2個軍団と支援部隊というところでしょうか。世界史上でも一二を争うほど土木技術に長けたローマ軍は、マサダの崖を埋め立て突入路を開く作戦に出ました。ただ難工事でしたので3年もかかったそうです。

 ローマ軍の工事が間もなく完成しそうだと分かると反乱軍は絶望します。10人ずつ別れ籤で1人を選びました。その1人が残り9人を殺すという集団自決でした。生きて奴隷になるよりは潔く死のうという覚悟です。そして生き残った者は、ローマ軍に突撃し全員戦死しました。ローマ軍がマサダに突入したとき、まだまだ何か月も戦えるほどの食糧と水があったそうです。マサダに立て籠った反乱軍のうち、生き残ったのは隠れていた2人の女性と5人の子供たちだけだったと伝えられます。

 現在マサダは、イスラエル軍の入隊式が行われているそうです。まさにユダヤ民族の誇りと覚悟なのでしょう。

2019年3月25日 (月)

世界史上難攻不落の城、クラック・デ・シュヴァリエ

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

Photo_1

 場所はシリアのレバノン国境近く、標高650mの山頂にある十字軍の城です。もともとは地元イスラム土侯の城でしたが第一回十字軍(1096年~1099年)の時、ツールーズ伯レイモンに攻め落とされました。その後紆余曲折がありトリポリ伯レイモン2世から1142年聖ヨハネ騎士団に譲られます。

 

 当時の西欧築城術の粋を集めて築城され難攻不落を誇りました。この画像では分かりませんが、城門から内部に至る道も長いトンネルで覆われ、上には日本でいう狭間があり槍や弓矢で攻撃できます。入り口はこの一つしかありませんから、城兵は逃げ道がなく最初から背水の陣で挑まなければならなかったことも落城しなかった理由の一つでした。守るのも十字軍三大騎士修道会(他はテンプル騎士団、ドイツ騎士団)の一つ聖ヨハネ騎士団ですから士気旺盛で攻める側は苦労したと思います。

 

 その戦績も抜群で、1163年ザンギー朝のヌール・ウッディーン、1188年には有名なアイユーブ朝サラーフ・アッディーン(サラディン)の攻撃も撥ね退けています。落城したのは1271年マムルーク朝バイバルスの時ですが、調略によってようやく落としたほどでした。現在世界文化遺産に登録されていますが、シリア内戦でかなり破壊されたそうですから本当に残念です。

世界史上難攻不落の城、城塞都市ターボル

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

   

Photo


 チェコの首都プラハの南方80㎞、ルジュニツェ川と湖沼に囲まれた高台の上にターボルはあります。ここはフス戦争の時、ヤン・ジシュカ率いるフス派の根拠地として築城されました。実は前記事マリエンブルク城の戦いと関係なくもないんです。フス派はヤン・フスが起こしたカトリック改革運動でプロテスタントの先駆けともいうべき宗派でした。カトリックの権威を背景にしたドイツ騎士団の北方十字軍に対抗するため、ヤン・ジシュカは義勇兵を率いポーランド王国軍の援軍として1410年タンネンベルクの戦いに参加しています。


 


 神聖ローマ皇帝ジキスムントの宗教弾圧に我慢の限界を超えたフス派は1419年ついに立ち上がります。ターボルはフス派抵抗の象徴であり難攻不落を誇りました。10年間、神聖ローマ皇帝が組織した対フス派十字軍を寄せ付けなかったそうですから凄まじい。フス戦争はヨーロッパ史上初めて火器(初期の鉄砲)を使った戦いとしても有名で、ターボルはそれに備えた欧州初の城塞都市だったとも言えます。


 


 ドイツ騎士団との戦争に援軍として来てくれた恩返しにフス戦争では逆にポーランド王国からフス派義勇兵が6000人も派遣されたそうです。神聖ローマ帝国軍は騎士が主力。いわばプロの軍隊をフス派の農民兵はマスケット銃を最大限に活用して圧倒しました。ヤン・ジシュカも名将で何度も十字軍を撃破します。ただ、ボヘミア(現在のチェコ)は戦乱で荒廃しました。ヤン・ジシュカが1424年ペストで病没するとフス派は内紛で弱体化、1434年までに完全に鎮圧されます。


 


 城塞都市ターボルも神聖ローマ皇帝の統制下におかれますが、戦いで落城したわけではないので難攻不落の城塞都市だったと言えるでしょう。

世界史上難攻不落の城、マリエンブルク城

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村


いつも応援ありがとうございます。


Marien

 日本の城ベスト30に不満があったので私が独自に選ぶベスト10を書こうと思っているんですが、まずは世界の難攻不落の城をいくつか見ていこうかと思います。

 


 名前を聞いてもよほど世界史に詳しい方じゃないとご存じないと思いますが、この城はポーランドにあります。マリエンブルクはドイツ語読みで、ポーランドではマルボルクと呼ばれています。実はこの城、ドイツ騎士団領(1224年~1525年)の首都でした。ドイツ騎士団はもともと十字軍戦争時代パレスチナで聖地エルサレムに巡礼するドイツ人を保護するために結成されます。

 


 ところがご存知の通り十字軍運動は失敗、行き所を失ったドイツ騎士団は現在のポーランド北部からバルト三国に至る異教徒をキリスト教に改宗させるという大義名分で東方植民を開始しました。その実態は侵略で、騎士団が支配する強力な軍事国家でした。ある程度領土を獲得すると隣国ポーランドはカトリック、東隣のノブゴロド公国もカトリック、ロシアの前身であるモスクワ大公国はギリシャ正教とキリスト教圏なので改宗という大義名分が使えなくなりました。

 


 唯一の非キリスト教国だったリトアニアに侵略の矛先を向けたものの、リトアニアはカトリックに改宗の上隣国ポーランドと同君連合を組むという離れ業でこれを阻みます。当時のドイツ騎士団総長ユンギンゲンはリトアニアがキリスト教に偽装改宗をしていると言いがかりをつけ、ボヘミア、ハンガリーと同盟を結び北方十字軍を結成しました。同じキリスト教国に対する十字軍というのは異常でしたが、勝てばどうとでも言い訳できるとユンギンゲンは踏んだのでしょう。

 


 1410年、ドイツ騎士団はポーランド・リトアニア合同と戦端を開きます。これが有名なタンネンベルクの戦いですが、敵を侮ったドイツ騎士団は完敗、騎士団長ユンギンゲンが戦死するほどの壊滅的打撃を受けます。勝ち誇ったポーランド・リトアニア連合軍は騎士団領の首都マリエンブルク城を囲みました。

 


 マリエンブルクは、ポーランド中央を南北に流れる大河ヴィスワ河下流東岸にありました。河口西岸はハンザ同盟にも加盟している最重要港湾都市ダンチヒ(現在のグダニスク)、マリエンブルクはドイツ本土と東プロイセンを結ぶ要衝にありました。ポーランド・リトアニア連合軍はマリエンブルクを包囲しますが、敗残兵ばかりのドイツ騎士団に苦戦します。マリエンブルク城は城塞都市でおそらく市民も防衛戦に参加したのでしょう。攻囲2か月、騎士団側にリヴォニア騎士団の援軍が近づきつつあるという報告を受け、ついに連合軍は包囲を解いて撤退しました。

 


 当時の画像(推測)をみると、深い堀と高い城壁に囲まれ一見して難攻不落と分かります。ドイツ騎士団としてもここが落城すると領域支配が崩壊するので特に念入りに築城したんでしょうね。

2019年3月24日 (日)

日本の城ベスト30、1位以外は納得できないな

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。


【テレビ】お城好き1万人“ガチ”で選んだ「日本の城ベスト30」

第1位 姫路城(兵庫県)

第2位 大阪城(大阪府)

第3位 松本城(長野県)

第4位 熊本城(熊本県)
第5位 首里城(沖縄県)
第6位 名古屋城(愛知県)
第7位 竹田城(兵庫県)
第8位 五稜郭(北海道)
第9位 二条城(京都府)
第10位 弘前城(青森県)
第11位 江戸城(東京都)
第12位 彦根城(滋賀県)
第13位 小田原城(神奈川県)
第14位 安土城(滋賀県)
第15位 犬山城(愛知県)
第16位 会津若松城(福島県)
第17位 チャシ跡群(北海道)
第18位 群上八幡城(岐阜県)
第19位 備中松山城(岡山県)
第20位 松江城(島根県)
第21位 松山城(愛媛県)
第22位 今帰仁城(沖縄県)
第23位 金沢城(石川県)
第24位 上田城(長野県)
第25位 駿府城(静岡県)
第26位 高知城(高知県)
第27位 忍城 (埼玉県)
第28位 広島城(広島県)
第29位 岐阜城(岐阜県)
第30位 丸岡城(福井県)
    
 姫路城は分かるんですよ。縄張りも現存天守も素晴らしい。さすがは池田輝政だと納得できます。ただね、これ城好きというかライトなお城ファンが選んだものですよね。私は小谷城とか長篠城、高天神城に松代(海津)城など当然入ると思っていたらなかったので愕然としましたよ。あと多聞山城とかもね。多聞山城は松永久秀が築いた城で、日本で初めて長屋形式の櫓を作り多聞櫓と呼ばれるなど城郭史に残る城のはずなんですがね。
  
 それに沖縄に配慮か何か知らんが、首里城は城じゃなくて宮殿だろ?今帰仁城(ぐすく)は理解できるとしても…。首里城は防御のための城といういうより宮城の意味ですよ。北海道のチャシも城とは別のカテゴリーで見るべきです。一部戦争でも使われたが本来は宗教施設のはず。
  
 のぼうの城(忍城)の順位も低いね。関東屈指の水城で小田原の役の際の攻城戦などもっと高く評価すべき。まあ、私が選ぶと江戸期に築かれた近世城郭はなく、ほとんど戦国期以前の山城になりそうだけどね。歴史好きなら春日山城とか芥川城も入れたいし、千早・赤坂城もないと違和感がある。東北なら何と言っても金沢柵ですな。九戸城も!
   
 それぞれ思い入れのある城がないと不満しか残りませんよね。そのうち私も自分の選んだ城ベスト10でも発表しますかね♪

2019年3月23日 (土)

韓国TPP加入くらいは反対して下さいよ

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

【制裁】日本、韓国のTPP加入「拒否」へ 「元徴用工」への異常判決に対抗措置

 安倍政権のヘタレ具合にはつくづく呆れ果てている次第ですが、韓国のTPP参加拒否くらいは実行してもらいたいですね。韓国駆逐艦による自衛隊機レーダー照射事件は結局有耶無耶、日韓基本条約違反の自称徴用工判決問題も原告が差し押さえた在韓日本企業の資産を売却し現金化した段階で制裁するなど、制裁しない言い訳ばかり。普通は差し押さえた時点で制裁ですけどね。

 さすがに韓国の異常さに怒っている国民の突き上げをくらって韓国TPP参加の拒否くらいは実行しそうですが、その前に他のTPP加盟国から反対が出るでしょう。国際ルールを守らない国の参加などあり得ませんから。安倍政権もこれくらいならお茶を濁せるを安易に考えたんでしょうが、本当の正念場はすぐきますよ。

 まず、アメリカが国連安保理を動かし制裁決議違反で韓国に対するセカンダリーボイコットを加盟各国に要求するのは時間の問題。従わなければ今度は日本が制裁をくらう。ヘタレ安倍政権はそれを待っているんでしょうが、本来なら率先して国連を動かすのは日本の役割。実際日本が一番被害を受けているわけですからね。フッ化水素など核兵器製造に必要な最重要戦略物資ですよ。それを韓国が北朝鮮に密輸している疑惑がある。日本は間接的に北の核開発を援助していたことになる。

 

 ですから韓国が北朝鮮にフッ化水素を密輸していようとしていなかろうと、日本は韓国にフッ化水素を輸出しない大義名分がある。それなのになぜしないのか?輸出が無理なら500%くらいの輸出関税をかければいいだけ。最近、韓国や北朝鮮の報道が下火になってきているのは特亜の手先であるマスゴミが沈静化を図っている証拠。我々日本国民は馬鹿ではないんだから、弱腰政府の尻を叩き韓国への制裁を行わせるべき。国家間の約束を平気で踏みにじる土人国家、韓国と付き合えるはずがない。

 断交はできなくとも関係を徹底的に断つ努力はすべきでしょう。もうすぐ迫る新天皇即位の儀、まさか韓国を招待はしないでしょうね?宮中でテロでも起こされたら日本は世界中から信用を失いますよ。韓国の首脳が新天皇に慰安婦に対する謝罪を要求すると公式に発言しているんです。これはテロ宣言に等しい。

 おめでたい儀式に穢れは要りません。南北朝鮮は排除し滞りなく儀式を終わらせるのは日本の義務であり責任です。テロ宣言までしている韓国要人を安倍政権が招待したら、本当に私は見限ります。皆さんのご意見をお聞かせください。

2019年3月22日 (金)

タンネンベルクの大殲滅戦

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村


いつも応援ありがとうございます。


Tannenberuku

※ この記事は2006年3月26日にヤフーブログで書いた記事をリニューアルしたものです。

 


 歴史上、ポーランドに位置するタンネンベルクでは2度大きな戦いが起きています。一度は1410年、ドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍との間で戦われドイツ騎士団は惨憺たる大敗北を喫しました。二度目は第1次大戦中です。それが今回紹介する戦いです。

 


 タンネンベルク会戦とは第1次大戦中、ドイツ領東プロイセンにおいて行われたドイツ第8軍によるロシア軍大殲滅戦の事。

 皆さんは「シュリーフェンプラン」という作戦計画を聞いたことがありますか?鉄血宰相ビスマルクと参謀総長大モルトケなき後、ドイツ軍参謀総長に就任したシュリーフェンの立案した作戦計画です。

 


 ビスマルクは、外交にによって常に敵を孤立させ戦争を優位に持っていきました。しかし、彼の引退後、両面作戦を余儀なくされたドイツ参謀本部が必死に立案したものです。

 


① 初期動員の遅いロシアに対しては全兵力の8分の1をもって持久する。

② その間に、残りの8分の7をもって西部戦線に投入。防備の固いフランス国境を軸に、ベルギーからアミアン、パリ後方を通ってスイス国境におおきく右翼を旋回させて片翼包囲を完成させ、その中に入ったフランス軍を包囲殲滅する。作戦終了予定は6週間。

③西部戦線でのフランス降伏を受けて、兵力を東部戦線に移動、ロシア軍を叩く。

という計画でした。

 


 大胆な作戦ですが、大きな問題がいくつもあります。まず、作戦を成功させるには中立国ベルギーを侵犯しなければならないこと。次に、英仏海峡を横目に移動するため、その脆弱な横腹を英軍に衝かれる恐れがあること。第三にロシア軍がそう都合よくお付き合いしてくれるか、ということです。

 


 そのために、参謀総長に新たに就任した小モルトケは不安を感じ一部の兵力を東部戦線にまわします。後の歴史家は、小モルトケが兵力を東部戦線にまわしたからパリを取れなかったと批判しますが、西部戦線における膨大な兵站維持も難しくもともと無理な作戦計画だったのです。

 


 さて、本稿の主題であるタンネンベルク会戦です。1914年8月26日から8月30日まで行われた会戦でドイツ第8軍はおよそ倍の兵力のロシア軍を包囲殲滅することに成功します。これで、東部戦線は安定しドイツは西部戦線に全勢力を注げるようになりました。

 簡単に経過をみていきましょう。

 


 1914年8月17日、ロシア第1軍レンネンカンプ将軍が独露国境を越えます。東プロイセン南方から迫るサムソノフ将軍の第2軍と共同してドイツ第8軍を包囲する構えです。

 当時、第8軍司令官はプリトウィッツ将軍。緒戦の敗退に恐れダンチヒまで撤退する事を参謀本部に申し出ます。参謀総長小モルトケは激怒して彼を更迭。退役していたヒンデンブルグに白羽の矢をたてました。補佐をする参謀長にドイツ陸軍の至宝ルーデンドルフ中将をすえ、ここに歴史上名高いHLコンビが誕生します。

 一方、第8軍でも作戦主任のホフマン大佐が、プリトウィッツ敗退後を想定し作戦計画を作り上げていました。着任したHLコンビはすぐさまホフマン大佐の作戦案を了承し、ここに名高いタンネンベルク会戦がはじまりました。

 


 ホフマン大佐の案はこうでした。東から来るレンネンカンプのロシア第1軍には最小限の押さえを残し、南方から突き上げてくるサムソノフのロシア第2軍を懐深くまで誘い込んで包囲殲滅、内線の利を生かし、東プロイセンに張り巡らされた鉄道網を使用して部隊をすばやく移動、ロシア第1軍を叩くというものです。

 


 第1軍と第2軍の間にはマズール湖沼群が広がっており両者の連絡が困難であるとの読みでした。

 ここで、問題のある人物が登場します。第8軍隷下第1軍団のフランソワ将軍です。もともと独断専行のきらいがあり、前軍司令官プリトウィッツを馬鹿にし命令を無視していました。ヒンデンブルグの命令にも素直に従わなかったほどです。ただ、彼自身と第1軍団の兵は東プロイセン出身で郷土防衛に燃えていました。右翼のフランソワ第1軍団が独断で突出したため、怪我の功名でサムソノフ軍を自然に包囲する形になります。敵左翼後方から攻め寄せる態勢になったフランソワ軍団はサムソノフ軍に猛然と襲い掛かりました。左翼の第8軍第17軍団マッケンゼン将軍も苦戦しながらも包囲に参加します。

 


 サムソノフ軍が危機に陥っているときレンネンカンプ軍は何をしていたのでしょう。実は緒戦でドイツ軍を破ったため、敵が敗走中であると誤認し、敗残兵が逃げ込んだと予測されるケーニヒスベルクへ向け行軍中でした。

 この事実は、平文でロシア軍が通信していたためドイツ軍に筒抜けになります。レンネンカンプ軍の救援はないとふんだ第8軍の賭けでした。

 


 ようやくレンネンカンプが僚軍の危機を認識したのは8月28日午後です。しかし、すでに大勢は決していました。サムソノフ軍は大きな損害を出して国境まで後退。レンネンカンプ軍正面には鉄道で移動を完了したドイツ第8軍が待ち構えていたのです。8月30日、形勢不利を悟ったレンネンカンプはついに撤退命令をだします。大敗したサムソノフは自決しました。41万6千人を数えたロシア軍の損害は死傷者7万8千人。捕虜も9万2千人を数えます。一方15万のドイツ第8軍は死傷者1万4千人弱で済みました。

 


 少数の兵力で、倍の敵を打ち破ったヒンデンブルグ、ルーデンドルフは国民的英雄になります。

 後にホフマン大佐が語ったエピソードですが、レンネンカンプとサムソノフは昔から仲が悪く、日露戦争のとき危機に陥ったレンネンカンプの救援要請をサムソノフが拒否し、奉天会戦のあと、奉天駅頭で殴り合いの喧嘩をしていたとの事。観戦武官としてその場にいたホフマンがそれを目撃していたそうです。眉唾ものの話ですが、面白いので載せました。

 


 ロシアはこの敗戦がきっかけで国境防衛線が崩壊、ドイツ軍に自国奥深くまで攻め込まれます。そして連合国から脱落して単独講和を結びました。これがロシア革命へと繋がっていくのです。

2019年3月21日 (木)

ジュゴンの命を弄んでいるのはどっちだ?(怒)

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

鳩山元首相「辺野古埋め立てでジュゴンが死んでしまった。人間のエゴで生き物を"殺"すのは止めにしようではありませんか」
 ジュゴンはカイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属に分類される哺乳類で、マダガスカルから紅海、インド洋沿岸、東南アジア海域に分布し北限は日本だそうです。沖縄で食料などで乱獲され1997年南西諸島のジュゴンは絶滅危惧種に指定されました。現在3頭のジュゴンが確認され、今回死んだジュゴンはその一頭だとされます。
  
 そんなに貴重な動物なら沖縄県は何故保護しないのでしょうか?ネット上で誰かが言っていましたが、法的拘束力のない辺野古移転の是非をめぐる住民投票をするムダ金があるならその費用をどうしてジュゴン保護に充てないのか?という至極まっとうな意見でした。私も全く同意します。
  
 信じられないのは今回のジュゴン死亡を辺野古基地反対に利用しようとしている反日左翼ども。死体が見つかったのは辺野古とは正反対の西側ですよ。もし埋め立てが原因というなら那覇空港の埋め立て工事が原因じゃないのか?違うというなら辺野古の埋め立て工事との合理的な因果関係を説明する責任が彼らにありますよ。結局、基地反対のためにジュゴンを利用しているだけ。ここまで卑劣な連中がいるでしょうか?
  
 私は別に基地反対なら反対でも良いと思うんですよ。思想信条の自由は憲法で保障されていますしね。ただそのために普天間基地周辺の小学生を人質にしたり、ジュゴンを持ち出すのはあり得ないと考えているだけ。自分たちの主張が正しいと思うのなら、卑怯なことをせず正々堂々と世論に訴えるべきでしょう。基地反対運動に特亜を引き込んで嫌がらせするのではなくね。というより基地反対運動自体が特亜の工作なのでしょう。しかも沖縄振興費も基地反対運動に流れている可能性がある。日本政府は厳しい監査をする必要がありますよ。加えて外国人の政治活動は法律違反。検挙して全財産没収の上強制送還、再入国禁止にすべきでしょう。外国人を引き入れた勢力にも外患誘致罪を適用し処刑すべきだと思います。
  
 もう売国奴どもを甘やかす時期は終わりました。皆さんはいかが思われますか?

2019年3月20日 (水)

ジョイフルハンバーガー

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ


にほんブログ村


いつも応援ありがとうございます。


Aoi


 


 飲食店の回し者かと疑われかねないグルメシリーズ(笑)。くどいようですが決して飲食店の回し者ではありませんよ、念のため。

 


 


 それはそうと、九州を中心に全国に展開するファミリーレストランチェーン『ジョイフル』。値段はそこそこで量が多いのが私の好感度が高い理由ですが、季節ごとにフェアを行っており、レギューラーメニューの他にその時期しか食べられないものがあります。年末によくあるのがステーキフェア。私は気に入ると何回も同じものを食べる癖がありまして、ステーキフェアの時など10回以上は食べた記憶があります。

 


 


 実は今回、トルコライスフェアが終わる前に食べてみようとジョイフルに入ったらすでに終了していました。トルコライスはピラフ(かドライカレー)にナポリタンスパゲッティ、それにデミグラスソースが乗ったとんかつというのが定番ですが、量のわりに胃もたれ率が高くてなかなか勇気がいるメニューでした。

 


 


 3月19日からは、ハンバーガーフェアが始まったとのこと。せっかくなんでジョイフルハンバーガー(税込み754円)を注文してみることに。ただハンバーガーだけなら少ないかなと同時にビーフカレーも注文しました。ジョイフルのカレーってちょうど良い辛さで私はココイチより好きかも?運ばれてきたジョイフルハンバーガーを見てびっくり。けっこう量があります。内心失敗したー!と思いました。

 


 


 まずビーフカレーを食べお腹いっぱいに。そのあとコーラーで無理やりハンバーガーを流し込みましたよ。でも味は美味しかったです。ファミレスが出すハンバーガーって結構おいしいイメージがあります。10年前ガストにあったガストバーガーも好物でしょっちゅう注文していましたから。この分ならジョイフルハンバーガーを食べに5~6回は通うかもしれません(苦笑)。

 


 


 お近くにジョイフルのある方は、一度お試しになると良いかも?一応ハンバーグが看板メニューなんでハンバーガーも美味しいですよ♪

2019年3月19日 (火)

越前守護代甲斐氏の没落

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。
いつも応援ありがとうございます。
Etizen_2


 よほど日本史に詳しい方じゃないとご存じないと思いますが、甲斐氏は越前・尾張守護で三管領家(室町幕府の最高職管領になれる家柄、斯波・細川・畠山氏のこと)斯波武衛家(斯波氏の嫡流)の執事(筆頭家老)を務めた家です。

 越前(現在の福井県の大部分)は北陸道随一の豊かな国で、太閤検地で49万石、その後の寛永検地では68万石を数えたほどでした。イメージから言うと越後(新潟県)が一番豊かそうですが、江戸初期まで越後国は荒蕪地や深田が多く40万石ほどしかありませんでした。土地改良や灌漑で100万石の米どころになったのは江戸中期以降です。ちなみに北陸道で越前に匹敵するほど豊かなのは越中国(富山県)でこれも50万石を超える石高がありました。俗に加賀百万石と言われますが、その半分以上を占めていたのは越中国で、加賀と能登は合わせても越中の石高には及びませんでした。

 室町時代越前の守護を務めたのは斯波氏ですが、南北朝時代斯波高経が越前守護に任命され南朝方の有力武将新田義貞を打ち取った功からこの国の守護を世襲することとなりました。斯波氏は越前ともともとの本拠地尾張の二か国しか守護領国がありませんでしたが、どちらも50万石(江戸期の数字。当然室町時代はこれより低い)を超える大国でしたので、細川京兆家、最盛期11か国の守護を兼ねた山名氏と対抗できました。応仁の乱前には遠江守護職も得ますが、ここはもともと駿河今川氏の守護領国で後に奪い返されます。

 応仁の乱は、足利将軍家(義視と義尚)、畠山家(義就と政長)の家督争いが原因ですが、この斯波武衛家も例外ではなく第9代義健(よしたけ)に子がなく、一族大野斯波持種の子義敏を養子に迎えたところ、将軍義政がこれを認めず足利一門の渋川氏から義廉(よしかど)を強引に斯波武衛家の家督に押し込んだことも発端の一つとなります。

 義廉の斯波家督相続には執事甲斐常春(?~1459年)の暗躍があったと言われ、斯波氏の実権を義敏の実父持種に奪われることを嫌ったための工作でした。常春は斯波家執事の他に越前・遠江の守護代を務めるほどの実力者で、越前においても持種の勢力圏である大野郡以外では圧倒していました。1452年、斯波武衛家第9代義健がわずか19歳で病死すると斯波氏の尾張守護代織田氏や他の重臣は斯波氏庶流義敏の家督相続を認めますが、常春は将軍義政の後押しを受け越前の有力国人衆を味方につけ義敏、その父持種一派と対立を深めます。

 この対立は長禄合戦と呼ばれる戦乱に発展。守護義敏方は勇将堀江利真の活躍もあり優勢になりますが、義敏が幕府の関東出兵命令を無視し守護代甲斐方の金ケ崎城を攻めたことで義政の激怒を買い、義敏から守護職と斯波武衛家家督を奪って周防に追放しました。結局長禄合戦は守護代甲斐方の勝利に終わります。この戦いで活躍したのが越前の有力国人朝倉孝景だと言われます。

 1461年9月、幕府の命で斯波武衛家家督は渋川氏出身の義廉に与えられました。とはいえこれは執事甲斐氏の傀儡にしかすぎません。面白くないのは追放された義敏、そして彼に味方した越前の豪族たちでした。甲斐氏では1459年常春が病死し、息子敏光が後を継ぎます。室町幕府は将軍家家督争いをしており、一方の雄、管領細川勝元は不遇の義敏に目を付けました。勝元の仲介で義敏は斯波武衛家家督と越前、尾張、遠江守護職を回復します。哀れなのは義廉で、一夜にしてすべての実権を奪われ斯波家から叩き出されました。怒った義廉は妻の父である山名宗全邸に駆け込みます。

 斯波武衛家の家督を巡っても細川勝元、山名宗全の対立は深まります。応仁の乱が勃発すると、義敏は勝元の東軍に参加、義廉は宗全の西軍に付きました。こうして越前、尾張、遠江は東軍と西軍二人の守護を頂く異常事態に陥ります。ただ、実力者執事甲斐敏光が後ろ盾となった義廉方が有利で、特に越前では朝倉孝景の活躍もあり義敏方はほとんど逼塞しました。京都における戦闘でも、朝倉孝景は越前勢を率いて参戦、東軍方の足軽大将骨皮道賢を討ち取るほどの大功を上げます。

 劣勢の東軍総大将細川勝元は、この朝倉孝景に目を付けます。主家斯波義廉の頭越しに越前守護代職を与えることを餌に寝返りを勧めました。野心家だった孝景はあっさりと勝元の申し出を受け入れ義廉を裏切ります。東軍の越前守護は義敏ですから、義敏方の守護代におさまったのです。怒った甲斐敏光は越前に攻め込みました。以後越前では朝倉氏と甲斐氏が血みどろの戦いを繰り広げることとなります。守護代とは言え京都にいることの多かった甲斐氏と、一貫して越前に留まった朝倉氏の力関係は差が開くばかりでした。1472年8月、越前府中(越前市)を朝倉勢に落とされた甲斐敏光は、越前国を叩き出され加賀に逃亡します。

 その後も敏光は何度も越前に侵入を試みますがことごとく失敗。1481年朝倉孝景死去を受け攻め込んだ時も孝景の子氏景に大敗しました。応仁の乱は1477年に終わっていましたが、越前では依然として戦乱が続いていたのです。1483年和睦が成立し、越前は朝倉氏、尾張は織田氏、遠江は甲斐氏が守護代となることで決着しました。

 ところが、遠江はもともと今川氏の守護領国で、斯波氏は勢力を扶植する前に今川氏に奪い返されます。結局一番馬鹿を見たのは甲斐氏でした。越前はそのまま朝倉氏の領国となり、尾張は斯波氏を傀儡とした織田氏が治めます。甲斐氏がいつ滅んだのか分かりません。甲斐氏は下野佐野氏の一族とも、肥後菊池一族の甲斐氏の流れともされますがはっきりしません。謎の一族だと言えますね。

2019年3月17日 (日)

学者は頭がおかしい

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

【正論】日本天文学会が防衛省の軍事応用研究公募に声明「人類の安全や平和を脅かすことにつながる研究や活動はしない」★2

 
 こいつら頭大丈夫だろうか?防衛省は別に侵略のための軍事研究を公募しているわけではなく、日本を守るための研究を求めてるだけでしょ?それもただではなく、資金を援助するとまで言っているのに。軍事アレルギーにもほどがあるし、自分たちの好き勝手な研究も日本という国が曲がりなりにも独立国として存在するからできるはずですよ。そういう想像力が欠如しているから利敵行為ともとれることを平気で言えるし、行動できるんでしょうな。
 
 もし支那の属国になったら、こういう態度を示したら即日秘密警察に逮捕されるぞ。よくて強制収容所、普通は裁判なしで銃殺だろうね。支那の人権活動家の末路をニュースで見ていないんだろうか?(呆)だとしたら相当深刻な専門馬鹿だし、知っていながら利敵行為をするのは特亜の工作員だと言われても仕方ない。どちらにしろアウトだと思いますよ。
 
 日本人は平和ボケが酷すぎる。戦後70年以上一度も戦争にならなかったのを憲法9条のおかげだと思っているおめでたい人間が多いんですかね?あれは明らかに日米安保のおかげだぞ。世界最強のアメリカの後ろ盾があったから平和が保てたにすぎません。それも昨今は支那の尖閣侵略、韓国の軍事挑発で随分怪しくなっているが…。
 
 それでも一般国民は目覚めてきていると思うんですよ。韓国を許せないという人が多数派になりましたからね。一方、学者はおかしいのが多い。日本天文学会もその一つなんでしょう。そんなに日本の国防に寄与するのが嫌なら、特亜に亡命したらどうかね?欧米は日本以上に利敵行為は許さないよ。スパイ防止法もあるしね。こういう馬鹿どものふざけた態度を見ると、スパイ防止法は絶対に必要だなと痛感します。
 
 皆様はいかが思われますか?

2019年3月16日 (土)

ンジンガ女王は民族の英雄かそれとも悪女か?

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

72e2c0be3551792042765a0505c61c87_2

Jinnga_2

 

 

 偶然ネットを見て最近知っただけで詳しい知識はありません。内容も浅くwiki程度ですので間違いや勘違いもあると思います。その際はコメントでご指摘いただければ修正いたします。

 

 

 

 ナポレオンやカエサル、アレクサンドロス大王にハンニバルなど有名どころは書き尽くし少々ネタ切れになってきた世界史書庫。自然、一般に知られていないマイナーな人物や事件に焦点を当てざるを得なくなっている今日この頃ですが(苦笑)、歴史に関しては一般の方よりは知識があると思っていた私ですらついこないだ知った人物です。それも本ではなくネットで!

 

 

 

 アフリカ大陸南西部、コンゴとナミビアに挟まれた大西洋沿いにアンゴラという国があります。面積124万6千平方キロメートルで世界22位。人口2400万人。懐かしい光栄の大航海時代というゲームを遊んだ方ならルアンダという港湾都市(人口450万でアンゴラの首都)のある国といえばピンとくるかもしれません。ゲーム上で現在のナイジェリアにあるサンジョルジュからルアンダまで遠く、風向き次第では水と食料が底を尽き冷や汗をかいたのは懐かしい思い出です。

 

 

 

 前置きが非常に長くなったので本題に戻ると、16世紀から17世紀にかけてこの地にはンドンゴ王国がありました。キンブンド語を話したと言われますから、現在アンゴラで25%を占める主要民族の一つキンブンド人が支配民族だったのでしょう。ンドンゴは最初コンゴ王国の属国でした。当時西洋諸国によるアフリカ進出、植民地化が本格化しており、コンゴやアンゴラにもポルトガル人が来ていました。1518年ンドンゴはコンゴ王国からの独立をポルトガルから間接的に認めてもらうべく使節を送ります。ポルトガルもこの地に楔を打ち込むことが得策と考え、独立を承認してンドンゴとの間に奴隷貿易契約を結びました。

 

 

 

 コンゴ王国としてはたまったものではなく1556年属国ンドンゴを懲らしめるため戦争を仕掛けます。ポルトガルは現地の民族王朝が弱体化するのは好都合だったのでンドンゴを秘かに支援し独立を勝ち取らせました。そして独立して日の浅いンドンゴ王国に介入し着々と植民地化を進めます。おそらくアフリカ各地で同様の事件は起こっていたと思います。ただンドンゴが他と違っていたのは侵略者ポルトガルに対し1590年戦争を仕掛けたことです。槍や弓くらいしか武器のないンドンゴ軍がマスケット銃で武装するポルトガル軍にまともにぶつかっても勝ち目はありません。ンドンゴは隣国マタンバ王国と同盟し、数の優位を生かしてゲリラ戦で対抗しました。これにはさしものポルトガル軍も苦戦します。局地戦でポルトガル軍が敗北することも多々あったそうです。戦争は泥沼化します。1623年一応和平が成りますが、ポルトガルは尊重するつもりは毛頭なく一時凌ぎに過ぎませんでした。

 

 

 

 ポルトガルの狡猾な態度を見たンドンゴ側は怒ります。ンドンゴ王国第7代ンゴラ(国王)ムバンディは弱腰でポルトガル王の臣下となって毎年奴隷百人を捧げる道を選びました。ところが彼の妹ンジンガ・ムバンデは強硬派でこれが気に入りませんでした。兄ムバンディはその後まもなく死去します。ンジンガは最初兄の子(名前は不明)が即位するとこれを補佐する摂政となりますが、まもなく幼王を殺害、自分が女王となりました。

 

 

 

 当時ンドンゴ王国の首都はアンゴラ北部ンバンザ・コンゴにあったそうですがンジンガ女王はポルトガルの手が届きにくい内陸カヴァンガに遷都します。この地はンドンゴ王国発祥の地でした。隣接するマタンバ王国を併合すると再び対ポルトガル戦争に立ち上がります。かつて兄王ムバンディがポルトガル戦争に立ち上がった時無謀であると反対したのは彼女でした。激怒したムバンディはンジンガの一人息子を殺し、彼女にも焼けた鉄棒を彼女の性器に突っ込み二度と子供の産めない体にするなどひどい仕打ちをします。結局彼女の予想通り敗北を重ねポルトガルに屈服しようとする兄にこれまでの恨みを爆発させたンジンガが殺したとも言われます。

 

 

 

 ンジンガは現実主義者でした。ポルトガル語も理解していたと言われます。単独でポルトガルに抗しえないと悟っていたンジンガは、ポルトガルのライバルだったオランダに接近し援助を勝ち取るなど彼女が生きている間、ポルトガルは植民地化できませんでした。彼女の生没年は不明(1663年死去説も)ですが、ポルトガルがこの地を併合したのは1671年です。

 

 

 

 

 

 ここまで書くとンジンガ女王は民族の英雄に見えます。ところが悪い話も残っており、食人嗜好を持つサディストの一面もあったと言われています。ある時視察に訪れた村で一人の村人が粗相をしたことに激怒したンジンガは村人600人を石臼で磨り潰して殺し、人肉は食事に、血は若返りの薬として自ら飲んだとされます。彼女の好物は幼い子供だったと言われ、柔らかい肉が美味いと嘯いていたそうです。

 

 

 

 またある時は、罪人たちを集め殺し合いをさせ勝った者を恩赦すると云いながら、その勝者を鎖につなぎ死ぬまで鞭打ったと言われます。夜の相手を賭けて若者たちに殺し合いをさせ、勝者と一夜を共にするも次の日にはその男を殺してしまうという暴虐ぶりでした。ここで読者の皆さんは矛盾点に気付かれたと思います。ンジンガ女王は兄に焼けた鉄棒で性器を壊され性行為ができなかったはず。語られるすべてが事実ではなく、敵であるポルトガル側がンジンガ女王を貶めるために流した悪意ある噂だった可能性もあります。

 

 

 

 こういう悪い面もありますが、私は侵略者ポルトガルに立ち向かったンジンガ女王の功績は認めます。その意味で民族の英雄であることは間違いありません。

2019年3月15日 (金)

祝!航空自衛隊ついにJSM導入決定!!!

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

 

【軍事】航空自衛隊が対艦・対地巡航ミサイル「JSM」を導入…ノルウェーの防衛企業と契約を締結

 
 いずれ時間の問題だとは思っていましたが、ついに航空自衛隊がJSM導入決定いたしました♪JSMはF-35に搭載する空対地巡航ミサイルで射程約300㎞。弾頭はHE破片効果弾頭で125㎏。ノルウェー製。威力は限定的ですが、ついに本格的空対地巡航ミサイル導入です。これで射程900㎞のJASSM-ER導入のハードルも大きく下がりました。
 
 すでに航空自衛隊は精密誘導爆弾のJDAMやぺイブウェイを配備しているので問題なくJSMも導入できるとは思っていたんですが、やっと実現できました。尖閣防衛もやりやすくなったし竹島奪還作戦にも役立ちます。一旦短射程でも巡航ミサイルを導入しさえすれば艦艇発射型も潜水艦発射型も理論的には導入できます。単に発射する元が違うだけで本質的には同じことなので。
 
 その意味では現在進行形で尖閣を侵略してきている支那や、核ミサイルで日本を恫喝している北朝鮮、そして外交的に敵対姿勢を明らかにしてきた韓国には感謝ですね。おかげで日本の防衛は正常化に向かってますよ。反日左翼も表立って反対できにくい空気になりましたからね。特亜の皆さん本当にありがとう。お礼にJASSM-ERを首都にお見舞いしましょうかね(爆)。
 
 余りの嬉しさに今夜は祝杯ですよ。改めて言います。JSM導入決定、本当に良かった!!!

それはこっちのセリフだと思うんだけど(苦笑)

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

 

 

「日本には我々との関係を改善する気があるのか?」と韓国が麻生発言に激怒 隣国に対する脅迫だぞ

 
 いやいや、関係壊してるのはどちらですかって話。1965年の日韓基本条約の請求権協定で完全かつ最終的に解決し日本は5億ドルも払っているにもかかわらず、国際合意を無視し今頃自称徴用工判決で在韓日本企業の資産を差し押さえしているのは韓国の方ですよ。しかも2015年の日韓慰安婦合意も最終的かつ不可逆的に解決したはずなのにそれを反故にして嫌がらせを続けているし、大多数の日本人は韓国と約束しても裏切られる、こんな卑劣な民族とは関係を断つ方が望ましいと思ってますよ。嫌韓が一般日本人にどんどん拡大しています。国家間の約束を守れない土人国とは話し合っても無駄。日本が一方的に損するだけです。
 
 それに日本政府はまだ何もやっていない。韓国に一方的にサンドバッグで殴らている状況。さすがに国民世論の怒りを受け事なかれ主義の安倍政権がようやく報復措置の話をし出しただけ。私はこれすら口だけで実行しないと見てますがね。韓国政府は日本の報復が心底恐ろしいんだろうね。日頃大人しい日本人も我慢の限界を超えたら留まるところを知りません。今まさにそういう状況になりつつある。だったら嫌がらせしなければいいのにと思います。ところが韓国は日本が絶対に報復しないと舐めているからやりたい放題してきました。実際、日本の歴代政権は特亜への不必要な配慮で最後はお金を払って解決しようとしました。今回はそのツケが日韓両国に同時に来ているというだけ。
 
 韓国の甘え、日本のヘタレ事なかれ主義は双方ともに破綻しました。今後は両国ともに厳しい局面に立たされます。まだ現実が見えているだけ日本人の方がまし。安倍政権は目が覚めていないようだが…。日本の財界ですら「日韓通貨スワップは永遠に無理」といっている状況ですよ。韓国からの日本企業撤退は時間の問題。これは同時に他の海外資産の韓国撤退に繋がります。
 
 正直、私は安倍政権が制裁しなくても韓国の自称徴用工判決で日本企業に実害が出たら撤退すると思うんですよ。これは韓国のセルフ経済制裁に他ならない。本来なら独立国家としての気概を見せるためにも韓国には経済制裁すべきですけどね。北朝鮮への瀬取りで国連安保理は韓国へのセカンダリーボイコットも秒読み段階です。それに日本が従うだけで韓国は死滅します。
 
 韓国はヘタレ日本政府に言いがかりの謝罪と賠償を求めているだけなら良かったんだろうけど、日本企業にまで喧嘩売ってきたのは致命傷だったね。企業は損得だけで動く。カントリーリスクが増大すれば撤退に向かうのは当たり前。結論としては韓国は余りにも調子に乗りすぎたという事ですよ。レッドチーム入りは確実ですから、我々は韓国が滅亡するさまをお茶でも飲みながら眺めていましょうかねwww
 
 皆さんは韓国の態度、どう思われますか?

2019年3月14日 (木)

アッシリア伝説の女王セミラミス

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

Bakutoria

 

 

 最初に私事から。私は歴史全般が好きですが特に中央アジアの歴史には興味があります。昔から気になっていた『バクトリア王国の興亡』(前田耕作著)という本も、アマゾンの古本ですら6000円を超える高額な書籍で買えませんでした。ところが今回ちくま学芸文庫から出ると知って狂喜し予約注文して先日到着しました。現在じっくり読んでいる最中ですが、あまりの嬉しさに本書の冒頭に載っていたエピソードを記します。

 

 ここに一つの伝説があります。ギリシャの歴史家ディオドロスが記した歴史文庫の一節ですが、史上初の世界帝国を築いたアッシリアのニノス王がバクトリアを攻めたときの事。バクトリアというのは現在のアフガニスタン、ヒンズークシ山脈より北。アラル海にそそぐアムダリア(古代ギリシャ人はオクサス河と呼んだ)とシルダリアの両大河に囲まれた地域トランスオクシアナ地方(支那の史書では河間地方と呼ぶ)まで含めた地域の呼び名です。別名大夏あるいはトハリスタンとも言います。

 

 強大なアッシリア軍を率いたニノス王は、苦戦しながらもバクトリアを攻略、美女セミラミスを得ました。ディオドロスの歴史文庫ではセミラミスの出自について別の話を載せており、シリアのアシュケロン近くに捨てられた孤児だったとも言われます。羊飼いに拾われ育てられた彼女は、成長するにつれ美貌が際立ってきました。アッシリアのシリア総督オンネスの目に留まり妻となります。二人の子宝に恵まれるも、夫オンネスはニノス王のバクトリア遠征に従軍。敵の首都バクトラ包囲が長引くとオンネスは妻が恋しくなり陣中に呼び寄せました。

 

 ところが陣中でセミラミスに出会ったニノス王は彼女の美貌の虜となりました。王はオンネスに彼女と離婚し側室として差し出すよう命じます。代わりにオンネスへは自分の娘ソサネスを妻に与えると申し出るほどの入れ込みようでした。妻への愛と王への忠義の板挟みになったオンネスは悩みぬいた末自害します。セミラミスの心境は複雑だったでしょうが、王命に逆らえるはずもなく妻となりました。側室ではなく正室らしいので、ニノス王は彼女にぞっこんだったのでしょう。二人の間には王子二ニュアスが生まれました。

 

 ニノス王は、その後まもなく亡くなります。ここまでくると支那伝説の妖女夏姫を連想しますよね。男を破滅させる悪女だったのかもしれません。王が亡くなると幼い二ニュアスには統治できませんので、セミラミスが女王としてアッシリア王国を治めました。彼女はバビロンを都に定め帝国の首都として整備します。有名な空中庭園も彼女が作ったと言われます。メディア(現在のイラン)の旧都エクバタナとの間にセミラミスの道と呼ばれる公道を整備し、各地に灌漑を施すなど大きな功績をあげ『セミラミスの鴻業』と称えられたそうです。インド遠征だけは失敗したようですが、統治すること42年、息子二ニュアスに王位を譲って62年の生涯を終えたと言われます。

 

 

 以上の話は残念がら史実ではありません。まずアッシリアは世界帝国となる前の雌伏の時期が長く紀元前2500年から始まる歴史の長い王国でした。アッシリアの王統表というのも残っておりニノス王なる人物はそのどこにも載っていません。一応時期を考えると第102代シャムシアダド5世(在位紀元前823年~紀元前811年)に比定されます。セミラミスのモデルも王妃サンムラマトではないかと言われます。サンムラマトは夫の死後息子アダドニラリ3世の摂政を務めたそうですからセミラミスの生涯と似てなくもありません。

 

 ただアッシリア王統表ではシャムシアダト5世(102代)とアダドニラリ3世(104代)の間にシャミラム王(103代)という名が刻まれています。これを何と解釈するのか?謎です。ちなみに、バクトリア遠征も現実的にはあり得ません。というのはアッシリアとバクトリアとの間にはメディア王国があって当時はアッシリアに服属していなかったはずなのです。というよりメディアはイラン系の遊牧騎馬民族なのでアッシリアの強力な敵でした。

 

 バビロンに首都を移したという話も嘘。バビロンを含むメソポタミア地方(現在のイラク南部)はアッシリアの重要な領土ではありましたが、アッシリアの首都は初期のアッシュールから後期のニネヴェ(現在のモスル)に至るまで一貫してイラク北部のアッシリア本土にありました。おそらくギリシャ人のディオドロスは伝聞でしか知りえなかったので、伝説を史実と思い込み書いたのでしょう。ギリシャ人にとってバクトリアは夢の土地であり憧れがあったのかもしれません。

 

2019年3月13日 (水)

言ったからには実行しないと駄目だぞ

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

 

 

【日韓】送金・ビザ発給停止を例示~麻生太郎財務相、韓国への報復措置 [03/12] ★2

 
 私の正直な感想を言わせてもらうと、どうせこれも口だけだろうなと思います。維新の丸山議員の質問に嫌々答えただけのような気も。ちなみに、維新はこの丸山議員と足立議員以外は屑。他の野党と同様朝鮮マネーに汚染された薄汚い政党に過ぎません。だいたい橋下自身が売国奴だしね。維新の看板政策である地方分権など日本を切り売りして特亜に売り渡そうとする陰謀にすら見えます。
 
 ただ公式な場で麻生財務大臣が韓国への制裁を言及したことは大きい。麻生さんも制裁しないための予防線ははっているが、韓国側が日本企業の資産差し押さえを実行した場合、何もしなかったら確実に参院選に影響しますね。といって野党の方がさらに媚韓で売国だから自民党の議席が減ることはないと思うが、投票率は低くなるでしょう。安倍政権の支持率も落ちますよ。
 
 今やネット環境も無ければ政治も外交も分からないような一般国民の多くが韓国に怒っています。この流れは止められない。安倍政権は世論の動きを見誤らないようにしないと政権運営に失敗しますよ。ポスト安倍を目指す連中も今がチャンスだと思うんだよな。安倍政権以上に過激なことを言って韓国に厳しい姿勢を示せば、次期総裁総理の芽も出てくる。というのはアメリカがすでに韓国切りを決めていることが大きい。米韓軍事演習の中止は、トランプ政権が韓国を切り捨てている証拠。演習をしなければ有事の軍事協力などできません。トランプは在韓米軍撤退の大義名分を探しているとも言われますね。国連制裁違反の瀬取りなどうまい口実になりそうですよ。韓国を北朝鮮と一緒に処理しようとしているから、韓国叩きは国際情勢の動きとも合致します。
 
 石破のように逆張りで韓国と関係改善を主張しているような奴は総理総裁にはなれない。アメリカが許しませんから。私は自民党内で誰が一番目端が利くかの勝負にもなると思うんですよね。間違いなく石破や岸田、そして進次郎ではない。河野太郎ももちろん駄目。最初こそ威勢が良かったが今や完全にヘタレています。私は小野寺さんあたり、良いかなとも思いますね。まあ、どちらにしろ安倍政権の動きも監視しないといけないし、誰がまともな政治家かも見極める必要があります。
 
 韓国の末路ばかりでなく、日本の未来に関しても我々日本人は真剣に考えないといけない時期に来たと思います。

2019年3月11日 (月)

伝説の馬鹿

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

動物園で柵を乗り越えて自撮り写真を撮ろうとした女性がジャガーに襲われる・・・動物園「なぜ柵があるのか理解してほしい」 米アリゾナ州

 もう何十年も前の話ですが、大分県のサファリパークで車で移動中おじいさんが孫の顔見たさに車から降り息子夫婦の車に近づいた事件がありました。当然おじいさんは背後からライオンに噛まれ死亡。何のために「園内を車で移動中は絶対に車から降りないでください」と注意書きがあるか理解できない人がいるんだと当時衝撃を受けたことがあります。
 
 亡くなった方には非常に申し訳ないが、私の周囲ではあんな恥ずかしい死に方だけは絶対にしないようにしようというのが合言葉になっています。今回の動物園の柵内に入って自撮り写真を撮ろうとした女性も同じ類の人間なんでしょう。危険に対し鈍感というよりはっきり言って馬鹿。全く同情できません。
 
 最初のサファリパーク話に戻ると、このライオン殺処分になったそうですよ。ライオンは全く悪くないのに可哀想です。獲物が目の前に近づいたら噛みつくのが当然。悪いのはさんざん注意されていたのに車から出てきた馬鹿。笑い話ではあるんですが、動物愛護の観点からするとやるせない事件でした。

マヤ文明って平和なイメージあったけど現実は違ってましたな

ブログランキング参加しました。よろしければクリックお願いします。


歴史ランキング

いつも応援ありがとうございます。

 

【考古学】古代マヤ文明の要塞を発見、従来のイメージ覆す 意外な発見、「戦争は生活の一部だった」

 私の勝手なイメージですが、マヤ文明はメキシコ、ユカタン半島に興った都市国家群が形成した文明で農業生産力は高くなく主に交易で栄えたというものでした。鉄器が行き渡らないアメリカ大陸にあったため農機具も発達せず、疫病が流行って滅亡したと思っていました。ところがこの記事によると戦争が日常茶飯事だったみたいですね。マヤにしてもアステカにしてもインカにしても戦争は殺し合いではなく神に捧げる生贄を集めるためのものだと勝手に考えていました。
 
 マヤ文明に対するイメージがずいぶん変わりましたよ。高さ6メートルの城壁、投石機に使う丸い石、随分生々しいです。鉄器がなかったのは大西洋で旧大陸と隔たれていたからで、もし鉄器があったらもっと凄惨な歴史になっていた可能性があります。ただその場合はより武闘民族になっていたはずですから、スペイン人の征服も失敗するかより多くの犠牲を出したでしょう。
 
 日本が戦国時代に西洋列強の植民地にならなかったのは、まさに武闘民族だったからですから。1万や2万くらいの遠征軍を送っても皆殺しに遭うだけだと西洋諸国が悟ったから植民地化を免れたのです。その意味では、自らの国を守る気概を失ってはいけないという教訓ですね。そして国防のための軍事力整備も重要です。
 
 
 
 
※こちらもクリックお願いします。にほんブログ村です。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2019年3月 9日 (土)

亡国の民は蔑まれる 杞憂と宋襄の仁

Syunjyuu

 諺に『杞憂』というものがあります。心配する必要がないことをあれこれ心配する事、取り越し苦労を指す言葉です。由来を話すと、古代支那に杞という国がありました。杞の人がいつか天が崩れて落ちてくるのではないかと心配し夜も眠れなかったことから杞人の憂いという笑い話になり、それが杞憂という諺になったとのことです。

 ところで杞という国は、商(殷)の前の王朝夏王朝の子孫で国姓は姒(じ)。最初は河南省の開封市に属する杞県にあったそうですが、後に山東省に移動します。古代支那人は敵を滅ぼしても一部の遺民を残し先祖の祭祀を続けさせることで滅ぼした自分たちは祟りを免れるという思想があり、甲骨文によると商の時代にはすでに杞は諸侯国として存在していたそうです。周が天下統一するときも、これに倣い杞という国を残したのでしょう。

 商の遺民の国宋にしても夏の遺民の国杞にしても、時の王朝から見たらお情けで建ててやった国という軽侮の気持ちがあったのでしょう。ですから笑い話や嘲笑の対象として亡国の民を持ち出してこのような諺を作ったのだと思います。それを考えると国を滅ぼされた上に後世まで侮られるんですから、当事者にとってはたまったものではありませんね。

 当然、このような屈辱を跳ね返そうとした人物も現れます。宋の襄公(?~紀元前637年)という人でした。春秋時代最初の覇者斉の桓公が紀元前647年死去すると、中原(黄河中流域、文明の中心地)は混乱状態に陥りました。斉でも後継者を巡って壮絶な内戦に陥ります。宋の襄公は、衛や曹、邾(注)のような小国と会盟し桓公の子昭公を押し立てて斉の内乱に介入し、斉の君主に据えることに成功しました。この事から、襄公を覇者の一人に数える史家もいます。

 ただ、宋は小国。春秋時代晋と並ぶ超大国、南方楚の成王は身の程知らずの宋の襄公の存在を苦々しく思い、会盟に出てきた襄公を捕らえて幽閉しました。紀元前639年の出来事です。何とか脱出に成功した襄公はこの時の屈辱を晴らすため楚に宣戦布告します。楚は大軍を送り込みました。襄公はこれを首都商邱近くを流れる川泓水(おうすい)で迎え撃ちます。

 楚軍は大軍だったので渡河に手間取りました。これを見ていた宋の宰相目夷は「まともに戦っては勝ち目がありません。古来から『半渡を叩く』と申します。攻撃するのは今と存じます」と進言します。ところが襄公は「君子は人の弱みには付け込まないものだ。堂々と戦って雌雄を決すべきだ」とこれを退けました。目夷は「嗚呼、我が君は戦を知らない」と嘆いたそうです。

 楚軍が渡河を終え両軍は堂々と陣形を整え戦いを開始します。しかし数に勝る楚軍が当然のごとく勝利し、襄公はこの時受けた矢傷が原因で二年後死去します。後世の人々はこれを「宋襄の仁」といって笑いました。一旦戦争になれば卑怯もらっきょうもありません。勝てば官軍負ければ賊。これは古今東西を通じて真理です。ただ襄公に同情すべき点は、半渡を叩いて勝っても世間から卑怯な勝ち方だと余計蔑まれることを恐れたのでしょう。宋という国の成り立ちが亡国の民が建てた国じゃなかったら襄公もこのような選択はしなかったかもしれません。

 その意味では、単なる笑い話というより悲しい歴史があったとみるべきなんでしょうね。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

商人の語源

Syou_2

 一般に交易を生業とする人を商人(しょうにん)と呼びます。実はこの語源には悲しい話があり、本来は「しょうじん」と言いました。

 

 舞台は紀元前11世紀の支那大陸。日本では一般に殷王朝と呼ばれますが、当時支那大陸の中原(黄河中流域)を中心に周辺地域を支配していた商という王朝がありました。殷とは商王朝最後の都の名前で現在の殷墟の遺跡がそうだと言われます。殷という名は、これを滅ぼした周王朝が呼んでいた名前です。

 

 さてその商王朝は最後の王帝辛(日本では紂王の名前で有名)の時代に、現在の陝西省渭水流域に興った周の武王に牧野の戦いで敗北し滅亡しました。といってもその後の占領政策から商の遺民の不満を宥めるため、武王は帝辛の異母兄で賢人と名高かかった微子啓を召し出し宋の地に封じます。爵位も最高位の公爵を授けました。ですが、狭い宋の地だけで商の遺民を収容できるはずがありません。多くの者が周が封じた諸侯に追い出され流浪の民となります。

 

 土地を持たない彼らは、農業ができるはずもなく生産地で物資を仕入れ需要のある所に持っていって売るという交易業に携わります。ここから商の遺民が携わる仕事という事で商業、交易をする者たちを商人(しょうじん)と呼ぶようになりました。日本でこの「しょうじん」がなまって「しょうにん」となったと言われます。

 

 

 もう一つ、「あきんど」という言い方もありますよね。これは日本独特の表現らしく秋の収穫物を地方で仕入れて町に持ってきて売ることから秋に来る人という意味で「あきんど」と呼ばれその業務を「あきない」というようになったとか。

 

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2019年3月 8日 (金)

ワームビア法恐るべし!

※ ヤフーブログ閉鎖に伴い、今後はアメーバブログメイン、ココログ準メインにして記事更新していきます。時事問題カテゴリーを新たに設けましたのでよろしくお願いします。
 
 
 
ボルトン米補佐官「過去の手法は通用しない」 対北制裁強化に言及
 

 日本の安倍政権がヘタレで韓国に対し具体的制裁を何もできない中、アメリカは北朝鮮とそれに結託する韓国に対する締め上げを着々と進めています。今考えると、この前の米朝会談に対北強硬派のボルトン補佐官が同席した意味を金正恩も文在寅も良く考えたほうが良かったですな。手遅れですが…。
 
 金正恩は寧辺の核施設の廃棄だけで国連の経済制裁全面解除を狙っていたようだけど甘すぎでした。会談の席でアメリカからこれまで隠してきた核関連施設すべての廃棄を要求されしどろもどろになったそうです。核兵器を隠し持ったままアメリカを騙し通せると思っていたのでしょうが、アメリカはそこまで甘くない。会談決裂は当然の結果でした。
 
 次の米朝会談は、北朝鮮側がすべての核施設廃棄と国際査察団の受け入れを容認しない限り開かれないでしょう。という事は現実的に無理。金正恩は核を放棄するつもりは絶対になさそうですから、あとは北朝鮮が暴発してアメリカに軍事的に叩き潰されるしか道は無くなりました。あるいは経済制裁で死滅するか?面白い動きは、アメリカ議会で共和党、民主党の超党派で国連制裁決議の制裁強化法案、具体的には韓国に対するセカンダリーボイコット法案が出されたこと。
 
 これ、きついですよ。北朝鮮に不当拘束され殺されたワームビアさんの名前を冠していることでも分かる通りアメリカは本気だという事です。制裁逃れの瀬取りをしている韓国はもちろん、日本の一部企業も関与していると言われる北朝鮮への密輸、そして日本の銀行が韓国の銀行に出している支払信用状も対象になりそうです。この法案が通ったら北朝鮮はもちろん韓国も潰れる。外資が一斉に逃げ出しますからね。しかも下手したら日本もセカンダリーボイコットの対象になりかねないので、安倍政権も本気になって動かざるを得ません。一説では韓国を通じて北朝鮮に流れたフッ化水素(核開発に不可欠)は日本が輸出していたものだと言われますから、これも禁輸対象になりますね。
 
 本来日本がしなければならなかった韓国への経済制裁が、アメリカからの外圧で行われることには違和感と怒りしか湧きませんが結果オーライとしましょう。ともかく、北朝鮮と共に韓国も追い詰められています。安倍さん、今度こそはちゃんと制裁してくださいよ!

2019年3月 6日 (水)

遊女の子供だとされる歴史上の人物

 先日NHKでおそらく応仁の乱関連の番組だと思いますが、畠山義就(よしなり)のことを「よしひろ」「よしひろ」と連呼していたことに非常に違和感を覚えました。義就が偏諱を与えた人物、遊佐就家や遊佐就盛の就は普通「なり」と呼ばれることが多いんですから、義就は「よしなり」だろうと常識的には思いますよ。

 

 NHKは頭がおかしい。山城に関する番組の小谷城のコーナーで浅井氏研究の第一人者である宮島敬一氏にインタビューし、宮島氏が「あさい」と言っているにもかかわらず「あざい」と言い張っていたことにも不満を持ちました。宮島氏が著書で浅井を「あざい」と呼ぶようになったのは江戸期からだから、戦国期には「あさい」と呼んでいたと書いているにもかかわらずですよ。NHKの不遜な態度は何なんでしょうかね?

 

 それはともかく、畠山義就といえば遊女の子として知られていますよね。彼の母土用は当時の高級娼婦として有名で畠山持国との間に義就、信濃守護小笠原長将との間に持長、飛騨江間氏との間にも子をもうけています。畠山氏の家督争いが応仁の乱の原因の一つになったんだから罪深い女性ですよね。畠山持国は正室やほかの側室との間には子供が生まれなかったので、本当に彼の実子かどうか疑わしいと思います。

 

 遊女の子と言うと、足利直冬(ただふゆ)もそうです。父尊氏が青年時代に高級娼婦との間にもうけた子と言われ、尊氏から実子かどうか疑われます。その為疎まれ、哀れに思った尊氏の弟直義が養子に迎えました。直冬は父尊氏を憎み続け後に大乱を起こします。父尊氏が弟で嫡子の義詮ばかり可愛がることに嫉妬していたと言われます。

 

 戦国時代の阿波守護細川真之、守護代三好長治、十河存保兄弟、長曾我部元親の子右近太夫の母、小少将も娼婦ではありませんが、娼婦的な動きをした女性です。小少将は阿波の豪族岡本氏の娘だとされますが、阿波守護細川持隆に見初められ真之を生むも、持隆に隠れ守護代三好実休(義賢)と通じ、実休死後はその家老篠原自遁と通じるなどやりたい放題でした。長宗我部元親が三好氏から阿波を奪うと、ちゃっかりその側室におさまり右近太夫を生むんですから、たくましいというか何というか…。年齢を考えるとちょっと現実では考えられません。真之を12歳で生んだとしても元親の側室になった時56歳!!!支那の春秋時代に生きた悪女夏姫に通じる恐ろしさがありますねえ。どんなに年とっても美貌が衰えない一種の妖怪だったのかも?一応、オカルト的にはエーテル体の吸血鬼など説明はできるんですがね(苦笑)。

 

 平清盛の母祇園女御(あるいはその妹)にも娼婦疑惑があります。これに関しては歴史的事実だと確認できなかったのであくまで噂だけにとどめておきます。清盛が白河上皇のご落胤だという説もありますよね。他にもいろいろありそうですが、とりとめのない話になりそうですからここら辺で止めておきます。

2019年3月 2日 (土)

アメリカ海兵隊の遠征規模

Kaihei

 最近、故江畑謙介さんの最高傑作との呼び声高い『軍事とロジスティクス』を読了しました。10年以上前の本とは思えないほど現代でも通用する名著だと個人的には思います。ロジスティクスに関しては湾岸戦争で多国籍軍の補給を統括した米陸軍パゴニス中将の『山動く』という不朽の名著がありますが、日本人でもここまで書けるのかと江畑さんに改めて感心しました。
 江畑さん亡き後、まともな軍事評論家は日本にほとんどいません。かろうじて合格点を上げられるのは河津幸英氏だけ。朝日の田岡とか神浦さんなどの逆神(軍事予想がことごとく外れる恐ろしい存在www)などは論外です。
 それはそうと、本書には貴重な情報が満載でその中でもアメリカ海兵隊が遠征するときに準備する物資の一覧には狂喜乱舞しました。他ではちょっと見かけない貴重な情報なので嬉しくなってここでご紹介します。ただ11年前の数値なので現代では若干変わっているかもしれません。
 今後ニュースを見る時、MEUが出動したと聞いたら「作戦予定は15日なんだな」とか「派遣規模は海兵大隊か?」などと我々素人でも理解できると思います。MEFが出動したら、もはや戦争だと理解できるはずです。いろいろ勉強になりました。

大日本帝国陸軍物資弾薬の備蓄単位

Kisuu

 完全に趣味の世界ですから、兵站に興味のない方はご遠慮ください。知っている人には言わずもがなですが、万が一知らないけど読んでみようという奇特な方のために書いておくと、基数とは1回の戦闘で消費する(平均的な)弾薬物資の量です。帝国陸軍では基数×20でだいたい三か月で消費するであろう弾薬物資を一会戦分と呼びました。基数は1挺、1門単位で数えますから例えば75㎜野砲が36門あれば100×36で3600が基数です。
 ですからこれが弾薬物資を備蓄する際の目安となります。ちなみに上図では九一式十糎榴弾砲、機動九一式十糎榴弾砲が載ってませんが、75㎜山砲、野砲の項目に含まれると思われます。これも1門一基数100発、一会戦数2000発です。というのは同じ野砲兵連隊で三八式、改造三八式、九五式、九〇式野砲と同時に使われたからです。ちなみに山砲兵連隊は山砲のみ。
 一式機動四十七粍砲も37㎜と同じく一基数45発、一会戦数900発だったであろうと想像できます。軍需物資の単位を書き忘れましたがトンです。1基数が500トンというと多い気がしますが、数日分という計算なのでしょう。帝国陸軍の装備だと一日の物資消費量は200トンくらいだからです。
 たまたまネットで資料を見つけたので忘れないうちにと記事にしました(笑)。

大東亜戦争時日本の戦艦

Nihonsenkan

 せっかく調べたので載せておきます。これは最終形態かそのひとつ前の改装時のデータです。長門型の砲塔基部(バーベット部)装甲のデータは457㎜という説もありますが、厚いほうがいいと思い500㎜データの資料を採用しました(笑)。
 大和型の装甲は群を抜いていますね。アイオワ級はパナマ運河航行を前提にしているので防御力では難点があったと言われます。

アメリカ海軍戦艦一覧

Usasenkan

 えーいついでだ、アメリカ海軍の戦艦一覧もご覧くだされ。一応数が多すぎるので超弩級戦艦以降を記しています。これも紙面の都合でアラスカ級巡洋戦艦とかモンタナ級などの未成艦は割愛しました。
 コロラド級までがワシントン海軍軍縮条約以前です。当時41㎝(16インチ)砲搭載戦艦は、コロラド級の3隻、イギリスのネルソン級2隻、日本の長門・陸奥だけでビッグ7と呼ばれました。軍縮条約失効後建造されたのがノースカロライナ級でそれまでの旧式戦艦とは一線を画す高性能戦艦です。本級は以後の戦艦の基本形となります。ですから外見が似ているのはそのためです。
 イギリスは、軍縮条約失効後も条約に準じたキングジョージⅤ世級を建造しましたが、日米は秘かに条約超えの新戦艦(米はノースカロライナ級、日本は大和型)を建造するというずるをしていました(笑)。まあ造ったもん勝ちではありますがね(苦笑)。
 アメリカの旧式戦艦は籠マストなどユニークな構造なんですが、能力的には砲力はともかく全体的に低性能でした。出力も低いですしね。それがノースカロライナ級で一変して高速戦艦を造るんですから、やればできる子なんですよ(笑)。

八八艦隊計画艦一覧

88kantai

 十三号艦だけは満載排水量が分からなかったので基準排水量の数値です。おそらく満載は55000トンから56000トンくらいにはなっていたと思います。
 第1次大戦で敗北したドイツはともかくとして、ネルソン級という16インチ(40.6㎝)砲を搭載した新型戦艦を投入したイギリス、同じく16インチ砲を搭載したコロラド級を就役させたアメリカに対抗するため、日本は八八艦隊計画を策定し、米英に対抗しようとします。
 これは艦齢8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を主力とする大艦隊整備計画です。このほか二線級部隊として金剛型、扶桑型、伊勢型戦艦もいるので米英に伍する大艦隊になるはずでした。
 八八艦隊の特徴は、すべての艦が41㎝(実際は40.6㎝)砲以上の主砲を持ち高速、量より質という日本人好みの計画でしたが、各国とも財政負担があまりにも大きすぎワシントン海軍軍縮条約で葬り去られます。
 結果、長門と陸奥はそのまま。加賀と赤城は空母に改装されました。
 もし実現できたとしても、当時の日本の財政状況を考えると維持費だけで破産していた可能性があります。

第2次大戦ドイツ空軍対地攻撃の実情

 第2次大戦初頭、電撃戦の一方の主役空の砲兵として活躍したユンカースJu87スツーカ。初期型の250㎏爆弾から後期型で500㎏爆弾、1.4トン爆弾と搭載量を増やし続けついには対戦車攻撃の切り札として37㎜機関砲あるいは30㎜機関砲2門を搭載したG型まで登場しました。
 急降下爆撃機は大規模な地上戦闘がない戦場では意味がないので、中期以降は主に東部戦線に投入されます。ところが最高速度が300㎞/h台と低速なため開戦奇襲の壊滅的な状況から回復したソ連空軍の格好の餌食となり始めました。
 そこでドイツ空軍は、対地攻撃専用の機体に装甲を施したヘンシェルHs129と対地攻撃の後高速で離脱し敵戦闘機との空戦もこなすFw190G型/F型という戦闘攻撃機を導入します。ところが旧式化したはずのJu87は完全に退役せずドイツが降伏した最後まで使い続けられます。この理由が私には謎だったんですが、最近『東部戦線の独空軍』(R・ムラー著 朝日ソノラマ文庫)を読んで氷解しました。
 まずヘンシェルHs129に関しては、確かに機体は装甲に覆われていますがエンジン供給の都合から高馬力エンジンを選択できずわずか700馬力の貧弱なエンジンを採用、しかもそのエンジン部分には装甲がなかったため地上からの対空砲火に脆弱だという致命的な欠陥がありました。ガーランドなど実際に航空部隊を運用する空軍幹部などは明らかに失敗作だという烙印を押していたそうです。彼らは敵であるソ連空軍のイリューシンIl2シュトルモビク地上襲撃機の方を高く評価します。というのもシュトルモビクは単発ながらエンジン部分にも重厚な装甲を施し23㎜機関砲×2、7.62㎜機関銃×2、12.7㎜旋回機銃×1の他爆弾600㎏搭載でき戦車キラーとして東部戦線で猛威を振るいました。
 次にフォッケウルフFw190G型とF型。こちらは元が戦闘機。しかも余剰馬力の大きさから最大1トンの爆弾搭載量を誇ります。加えて最高速度は625km/h(G-3型)と戦闘機並み。爆弾投下後は高速離脱できるし最悪の場合は対戦闘機戦闘を普通にこなすという万能機でした。良い事ずくしの戦闘攻撃機で大戦後半の対地戦闘はこれ一機種に絞るべきだという意見もあったそうです。実際両型あわせて6600機以上生産されています。
 しかし『東部戦線の独空軍』を読んで謎が分かりました。Fw190G/FはBMW801エンジンが100オクタンのC3燃料しか使用できないため大量導入できないのです。貴重なC3燃料は戦闘機のMe109G型/K型、Fw190A型/D型にまわさないといけなかったので余裕がありませんでした。(粗悪燃料でも飛べないことはないが大きくパフォーマンスを落としFw190G型/F型の優位性が失われる。)一方Ju87は87オクタンのB4燃料で済むためこれがJu87が最後まで使われた理由です。
 要するに燃料の関係からFw190G型/F型は優秀性は分かっていても大量に使いたくてもできなかったのです。これが世界一のチート国家で莫大な石油を持つアメリカとの大きな違いでした。Fw190G型/F型はアメリカ陸軍航空隊で言えばリパブリックP-47サンダーボルトに近い機体だと思うんですが、こちらは対戦闘機戦闘でも対地攻撃でも大活躍しましたからね。結局すべての事情を把握しないとIFは語れないという事なのでしょう。非常に勉強になりました。

年々良くなってきている自衛隊の空対地兵装

 北朝鮮危機が囁かれる中、ようやく安倍政権・自民党で巡航ミサイルトマホーク導入が検討され始めました。検討ではなく即導入してほしいというのが本音ですが、巡航ミサイル以外では最近の自衛隊は良く頑張っています。尖閣危機でようやく平和ボケ日本が目覚めてきている証拠だと思います。現実無視の売国野党と反日左翼マスゴミは論外ですが。こいつらも共謀罪でそのうち追い詰められるでしょう。

 それでは私から見て嬉しいと思う装備を見て行きましょう♪
◇JDAM、LJDAM(航空自衛隊)
 JDAMはGBU-38/BでGPS/INS誘導の精密誘導爆弾。正確にはその誘導装置でMk82(500ポンド=227kg)爆弾に装着するものです。
 LJDAM(GBU-54)は、上記に加えセミアクティブ・レーザー・ホーミングを追加した優れモノです。どちらもF-2戦闘機に搭載します。
 
 この種の精密誘導爆弾は保有しているのが常識で、F-4EJやF-15Jからわざわざ精密爆撃装置を取り外した日本が異常だったのです。本来ならF-15C準拠のF-15JもJDAMやLJDAMを運用できないとおかしい。反日野党に気兼ねしていた平和ボケ日本政府がいかに異常だったか分かりますね。本気で国防する気があるのかと疑うくらい。F-35はF-2で実績があるから当然日本でも運用できるはず。というかできないように改装するほうが税金をドブに捨てる行為です。せっかくF-35を導入するんだからストームシャドウ巡航ミサイルもついでに採用してくれると嬉しい。
◇GBU-31JDAM(航空自衛隊)
 こちらはなんと2000ポンド(=908kg)、昔でいう所の1トン爆弾ですな♪2016年3月に調達が決定したほやほやの兵器。明らかに尖閣危機のおかげです。F-2で運用する気でしょう。良く日本政府も決断できたものだと感心します。地面で爆発すれば20mのクレーターができます。破片加害半径400m。強化コンクリートでも厚さ3.5mまでなら貫通する威力。尖閣に支那人民解放軍が不法上陸し陣地を築いてもこれで一掃できますね♪
◇GBU-39小型滑空爆弾(航空自衛隊)
 もはやなんでもありになっています。私は嬉しいけど。これは大型爆弾では威力がありすぎる場合、ピンポイントで目標を攻撃するために使われます。2015年12月15日採用です。弾頭93kgで射程は110km。CEP(半数必中界)は5~8mだと言われますね。
◇GBU-12ペイブウェイ(航空自衛隊)
 JDAMがあるから要らない気もしますが、レーザー誘導付きの精密誘導装置です。MK82 500ポンド爆弾用。向上型ペイブウェイならGPS/INS/SALH誘導で使い勝手は抜群に良いんだけど、どっちだろ?向上型だったら嬉しいな。
◇AGM-65マーべリック空対地ミサイル(海上自衛隊)
 不審船対策という大義名分で導入。ミサイル重量304kg、射程27km。赤外線誘導、超音速で飛行します。ばりばりの空対地ミサイルで、海自ではP-1で運用。不審船対策なんでしょう。有事には航空自衛隊にも回せるように大量購入してね♪
◇AGM-114MヘルファイアⅡ空対地ミサイル(海上自衛隊)
 これも不審船対策。SH-60K哨戒ヘリコプターで運用。他国では対戦車ミサイルですけど、日本は不審船用だと言い張ってますな。これで正解。もし支那が尖閣などに装甲車両で上陸した時お見舞いしてあげましょう。陸上自衛隊もAH-64Dロングボウアパッチ用で採用したけど、たった13機ではね。
 あとはスタンドオフ機能を持つ巡航ミサイルを採用できたら鬼に金棒。自衛隊がこれくらい頑張っているんだから、我々国民も憲法上改正で自衛隊を明記してあげたいですね。命かけている自衛隊の皆さんが違憲とか言われたら立つ瀬ありませんよ。憲法学者の7割は自衛隊は憲法違反だとほざいてるそうですが、だったら死んでほしい。今すぐ!売国左翼学者など日本には無用です。

日米開戦直前、米陸軍戦闘序列

Usasidan

 我ながら暇だとは思うんですが、1941年12月というまさに真珠湾攻撃直前のアメリカ陸軍の戦闘序列(Order of battle)です。
 何かの資料で、日米戦争に突入する前の両軍師団数は51個で拮抗していたというのを見た記憶があるのですが、調べてみると48個しかありません。海兵隊の師団を含めての数なのか、数個ある本土防衛用の砲兵師団を合わせた数なのか不明です。
 アメリカの資料が元なので、ハワイ軍区はハワイ州軍の方が適当かもしれません。NATO記号の表記から意訳しただけなので。戦史に詳しい方、ご教授ください。あとフィリピン防衛の極東軍隷下の軍団も米資料では軍となっていたのですが、これもNATO兵科記号から軍団とするのが適当だと判断しました。
 この表を作成して一番驚いたのは極東軍が12個師団もあった事!よく日本軍は勝てたなと改めて思いました。おそらく植民地軍なので装備も悪く士気も弛緩していたのでしょう。
 もう一つ、アメリカ陸軍も最初は機甲師団の集中運用を考えていたということに感心しました。あまり戦車の数も揃わなかったんでしょうね。ところが、最終的に5万両も生産されたM4シャーマン中戦車シリーズが登場すると戦車が余りまくり、機甲師団20個の他に普通の歩兵師団にも1個戦車大隊を組み込むという贅沢ぶり。わずか4個の戦車師団を旧式の九七式中戦車(さすがに新砲塔チハだとは思うが…)までかき集めて作った日本陸軍の惨状を考えると涙が出てきます。
 世界一のチート国家と言われたアメリカの恐ろしさが良く分かりますね。こんな国相手に日本はよく頑張りましたよ。
追伸:
 第1軍第6軍団と極東軍の南部ルソン軍団に同じ第1歩兵師団がありますが、フィリピンの方は植民地軍の第1歩兵師団かもしれません。なにせアメリカの某軍事専門サイトの資料が元ですので、わたしでは確認しようがありません。

C-17が変えた空挺作戦

C17

 マクダネル・ダグラス(現在はボーイングに吸収合併)C-17グローブマスターⅢといえば、アメリカが誇る戦術/戦略輸送機です。最大搭載量(ペイロード)77.5トンを誇り、航続距離5190km。アメリカ陸軍の主力戦車M1A2エイブラムズ(63トン)を楽々運べ、M2/M3ブラッドレー歩兵戦闘車なら3両、ストライカー装甲車なら4両(3両という説も)搭載できます。
 だったら、ロッキードC‐5ギャラクシーの方がペイロード122トンでM1A1戦車なら2両運べるから凄いと思われる方も多いと思いますが、C-5はあくまで戦略輸送機。C-17が優れているのは、整備の整った飛行場でないと運用できないC-5と違い、不整地飛行場でも運用でき前線に部隊を展開できるところです。このC-17の登場でアメリカ軍の空挺作戦に革命が起こったそうです。
 空挺作戦(エアボーン:Airborne)と言ってもピンとこない方が多いかもしれませんが、マーケットガーデン作戦を扱った傑作戦争映画『遠すぎた橋』やノルマンディ上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』の一シーンを思い浮かべていただければ御理解いただけると思います。輸送機から落下傘(パラシュート)降下して要地を占領する作戦です。
 空挺作戦は奇襲効果抜群で素晴らしいものですが、落下傘降下の関係上重装備を持ち込めず脆弱です。ですから空挺降下した後すぐさま地上部隊と呼応し連絡を取らなければ簡単に殲滅されます。実際、マーケットガーデン作戦では地上部隊の救援が間に合わなかったため空挺部隊に1万人以上の大損害が出ています。枢軸側でもドイツ軍によるクレタ島降下作戦が有名ですが、精鋭降下猟兵に大損害が生じ、以後大規模な空挺作戦は行われませんでした。日本軍のパレンバン降下作戦など例外的に上手く行った作戦です。
空挺作戦がもろ刃の剣である事は御理解いただけたと思います。アメリカ軍もマーケットガーデン作戦のトラウマから戦後本格的空挺作戦は実行されませんでした。それに代わって台頭してきたのがヘリコプターを使用するヘリボーン作戦です。ヘリボーンは、エアボーンに比べ作戦距離こそ短いものの展開も撤収も素早くでき、使い勝手が良かったので多用されます。ベトナム戦争などまさにヘリボーンの戦争でした。
 C-17の登場で空挺作戦がどう変わったか?ですが、その実例としてイラク戦争を上げましょう。イラク戦争と言えば、第3、第4歩兵師団(どちらも戦車247両を有する実質機甲師団)や第1海兵師団などの南方からの機甲突破だけが持て囃されますが、その成功をもたらしたのは実はイラク北部に展開した第173空挺旅団とグリーンベレーなど特殊部隊でした。
 第173空挺連隊は、飛行場補修要員を伴った第一陣(2個大隊基幹)がまずイラク北部の主要飛行場を奇襲占領。直ちに滑走路を補修し、その直後M1A1エイブラムス戦車を搭載したC-17が降り立ちます。その後C-17は戦闘車両、弾薬、補給物資、兵員をピストン輸送し、強力な防衛陣地を構築しました。現地のイラク軍はこのために手が出せず、アメリカ軍はイラク北部の要地を次々に占領していきます。
 すでに空爆で情報網を寸断されていたイラク軍は、イラク北部に展開したアメリカ軍の総数が分からず混乱します。実態はわずか2200名、それにクルド人の民兵数千から数万という兵力だったそうですが、疑心暗鬼にかられたイラク軍は、2個戦車師団を含む13個師団をこの地に釘付けにされたそうです。
 イラク北部の13個師団がもしバクダッド方面に投入されていたら、アメリカ軍は大苦戦するか、もしかしたら勝利は無かったかもしれません。いくら質が勝っていても量には敵わないからです。C-17輸送機はイラク戦争の勝利に大きく貢献したと言えます。
 現在C-17は緊急展開部隊ストライカー旅団戦闘団に欠かせない存在です。その搭載にはいくつかのパターンがあります。
パターン1:ストライカー装甲車×4両
パターン2:ストライカー装甲車×2両、兵員×54名
パターン3:ハンヴィ汎用車×8台、兵員×27名
パターン4:FMTV5トントラック×6台
パターン5:HEMTT重機動トラック×4台
パターン6:M198 155㎜榴弾砲×2門、FMTV5トントラック×4台
パターン7:ブルドーザー×3台、トレーラー×2台
などです。理論上ストライカー旅団のすべての装備、車両をC-17だけで空輸でき、世界中のどこにでも96時間以内に展開できます。C-17がアメリカ軍のプレゼンスを支えていると言っても過言ではありません。

各国主要戦術潜水艦の圧壊深度

Akkaisindo

 最近ちょっと潜水艦用高張力鋼にはまってまして、完全に趣味の記事です。軍事や日本の国防に興味が無い方にはチンプンカンプンだと思うのでスルー推奨です(笑)。
 さて、現代の潜水艦は最新技術の粋をあつめて建造され公表されるスペックも少ないですし、洩れてきている情報も正しいとは限りません。特に潜航深度(戦闘深度あるいは最大運用深度とも言う)や圧壊深度(これ以上潜れば船体が壊れる深度)などは軍事機密になっています。
 だとしたら潜水艦用高張力鋼の能力で推定できないかと思ったのがこれを書いたきっかけでした。それが上の表なんですが、実は全く自信がありません。というのも例えばおそらく現代最強の戦術潜水艦だと言われるアメリカのシーウルフ級ですが、耐圧殻用高張力鋼としてHY110が使用されているという資料とHY100が使用されているというものがあるのです。ちなみにHY100だったら耐力MPa(メガパスカル、圧力の単位)は690になります。
 さらに言えば、支那潜水艦の鋼材も本当に上表のものが使われているかは不明です。というのはAK-25鋼が使用されているとしたら圧壊深度280mというのはちょっとあり得ないと思うからです。当然商級のAK-29鋼というのも眉唾です。あるいは余程溶接技術が低いということか?
 高張力鋼の耐力と潜航深度・圧壊深度に矛盾があると考えられた方も多いと思いますが、実は高張力鋼の最大板厚が違うので一概に言えないのです。ちなみにそうりゅう型のNS110は最大板厚65㎜だと言われます。現代潜水艦に使われる高張力鋼は鋼材の板厚、溶接技術も含めて軍事機密だと御理解下さい。
 上表の潜航深度で一応信用できるのは、アメリカのロス級、シーウルフ級、バージニア級のみで圧壊深度はその2割増しで計算しています。日本のそうりゅう型に関してはもっと不明で、一応潜航深度600mと言われていますが高張力鋼の能力から650mはあるだろうという私の贔屓目の数字です。ただ一説では700mあるだろうとも言われますのでほぼ妥当な数字だろうと自負しています。
 あとドイツの212A型(その輸出タイプが214型)の潜航深度はもっと低いと思います。というのもドイツが想定する潜水艦運用海域はバルト海など浅海域が多いのでそこまで潜航能力が必要ないからです。ロシアのヤーセン級攻撃型原子力潜水艦に使用している高張力鋼も推定です。私の持ってる資料には載っていませんでしたしネットで検索しても不明でした。もしご存じの方は教えてください。
 ですから上表は欠陥だらけで後々修正はあるかと思いますが、あくまで現段階での数値(それも推定)だと御理解下さい。こういうの調べるの、面白いんですよ♪
追伸:
 おそらく今回の表、間違いが多いと思いますのでお気づきの方はどんどんお知らせください。その際は出典と根拠もお忘れなく。ただ本記事での修正は困難ですので今後の記事で訂正する予定です。

ロシア陸軍RPG一覧

Rpg

 軍事に興味の無い方はチンプンカンプンだと思いますのでスルーする事を強くお勧めします。読んでも後悔するだけですよ(苦笑)。
 さて、上の表(自作)だけで私の言いたい事のすべてですので本来文章を書く必要性はないのですが、RPGと言えば泣く子も黙るソ連/ロシアの個人携帯対戦車ロケット兵器です。無反動砲とか弾頭がロケットじゃない奴とか色々細かい違いはあるんですが、大雑把にRPGに関しては個人携帯対戦車ロケットと一括りします。
 万が一軍事に興味は無いけど暇だったのでここまで読み進めた方のために書くと、ISとかアフガンゲリラとか中東のテロリストが持っている発射筒の前にでっかい弾頭が付いているアレのことです(笑)。
 参考までに西側の対戦車ロケット/無反動砲を載せていますが、一見して分かるのはロシアのRPGの数の多さ。しかも西側兵器より高性能な物もあります。なぜかというと、西側には例えばアメリカのジャベリン(対空・対戦車兼用)など誘導式の個人携帯対戦車ミサイルがあるからなんですね。ロシアにもあるんですが、あまり有名じゃないので数がそれほど多くないのかもしれません。
 欧米(日本も含む)歩兵の対戦車戦闘は、もっぱら誘導式の対戦車ミサイルが担当するので、ロケット砲や無反動砲はどちらかというと陣地攻撃とか軟目標(ぶっちゃけ人間ですわな)や車両攻撃に使われます。対戦車戦闘に使うのは緊急時のみだそうです。値段は当然無誘導のロケット砲の方が安いです。
 ですから世界中にRPGは普及し、手ごろな対戦車兵器として愛用されているんです。支那などのコピー品も出回っていますからね。それでいて当たり所によっては最新式の戦車も撃破できるんですからコストパフォーマンスは最高です(ただし撃った兵士の安全には考慮せず)。チェチェンではかなりロシア軍戦車がやられたそうですよ。
 という事で当分RPG系列が廃れる事はないでしょう。何故こんな記事書いたかというと、有事に敵性国民が暴れる可能性を漠然と考えていたものですから。暴力団から押収した武器の中に入っていたんですよ。そして阪神大震災の時某国の総連支部からも見つかったそうです。恐ろしいですよね。

世界の主要戦術潜水艦一覧

Sensuikan

 最近、対潜作戦にはまってまして趣味が高じて世界の主要戦術潜水艦一覧を作成してしまいました。これ以外にも色々あるのですが、体力的にこれが限界でした(苦笑)。
 ざっと見られると分かる通り、退役したものもかなり含まれます。日本で言えばはるしお型より上はすべて退役済みです。現在はおやしお型10隻とそうりゅう型6隻が現役です。昨今の危機的状況で潜水艦16隻体制から24隻体制(現役22、練習2)に移行するのでそうりゅう型はもっと増えます。最新鋭のそうりゅう型が2015年現在6番艦まで就役し7番艦のじんりゅうも来年竣工予定というのを見ると感慨深いものがありますね。
 上表で注意しておかないといけないのは、この数値絶対じゃないという事です。あくまで推定値。資料によってかなり異なります。潜水艦は各国軍事機密なのでなかなか本当の数値を発表したがらないのです。最新型は特に!兵装も、書かれているもの以外にも色々搭載してるんですが知識がなかったり自信がなかったりで載せていません。例えばロシアの高速魚雷シクヴァルは、支那の潜水艦も当然搭載していると思います。ロシア海軍もシクヴァル以外に通常の魚雷も載せているはずですが、どの魚雷をどの艦型が積んでいるのか自信がなかったので書いていません。
 圧壊深度は過去記事でも書きましたが、日米英の戦術潜水艦でほぼ同程度の実力を持ち(速度は当然原潜の方がありますが…)潜航深度500m前後、圧壊深度650mと言うのが妥当だと思います。ですから上表の数値は信用出来ません。一応資料にはそう載っていたので違和感はありつつも書きました。ただシーウルフ級は一説によると潜航深度(戦闘可能深度)自体が610mと化け物じみているので圧壊深度は700mを軽く超えそうです。そのために建造費が高騰しすぎて3隻で建造中止、よりコストパフォーマンスの高いヴァージニア級に移行しました。それでもロス級よりは高騰しているので太平洋に配備する攻撃型原潜の数も減るそうですよ。ちょっと心配なニュースですね。
 ロシアの潜航深度が600mあるのは、数値通りだったら恐るべき能力です。冷戦期潜水艦大国だったソ連の面目躍如ですね♪通常動力型は輸出で外貨稼ぎ用です。ドイツの2種類は212Aが国内(と信用できる友好国)用で、214が輸出用です。韓国は214をライセンス生産して不具合出しまくり、イメージを地に落としました。ドイツは損害賠償と慰謝料を請求して良いと思います。営業妨害も甚だしいですから。栄光のUボートの輝かしいイメージをどうしてくれるんだ!(怒)
 ちなみに、話題の高速魚雷シクヴァルは発射管射出時の初速50ノット、ロケットモーターで200ノット(一説では300ノット)まで加速します。他国の魚雷が50ノット前後ですから恐るべき兵器です。ところが射程は13km程度。西側の主要魚雷は射程50km以上ありますし、精密誘導技術もはるかに上なんです。シクヴァルの役目は、敵が有線誘導で射出した魚雷を避けるために敵潜水艦本体に向けて射出し誘導ケーブルを切らせるのが目的だとか。となると防衛兵器と言う事になりますな。
 
 シクヴァルも、輸出型はかなり性能を落としているそうなので支那が持っているにしてもそれほど恐れる必要はないかもしれません。ただ油断しすぎるのも禁物ですが。ある海上自衛隊OBの発言によると、日本の潜水艦は支那潜水艦より潜航能力が高く、魚雷も深深度から発射できるので(89式長魚雷は900m)300mの深度に居る支那潜水艦を500mの深さから射程外で攻撃でき勝負にならないそうです。もちろん日本の圧勝。
 と言う事は米攻撃型原子力潜水艦にも言えるので、支那海軍としては嫌な話でしょうね。支那の潜水艦乗りがノイローゼになるのも分かります。索敵能力も勝負にならないと言いますしね。
 ただ、日本も原潜欲しいですな。表にしてみると原潜の出力が羨ましい。5万馬力とは言わないからせめて3万馬力くらいあればアスチュート級くらいのものは出来るのに!(嘆)まあ、日本は近海防衛が主任務なので無理なんでしょうけど。シーレーン防衛にはあれば便利なんですよ(笑)。

幻の重慶侵攻作戦

Jyukeisakusen

 上の戦闘序列(Order of battle)は、支那事変の際に計画された重慶侵攻作戦におけるものです。出典は『太平洋戦争のif』(秦郁彦編 グラフ社)です。昭和16年(1941年)11月5日に上奏された『帝国陸軍作戦計画第二章南方作戦ニ伴フ対支作戦』で大綱が決定しました。
 まさに対米開戦直前、戦争を有利に進めるために支那事変を一気に解決すべく国民政府の最終抵抗拠点重慶攻略を目指すものでした。ご覧になると分かる通り後の大陸打通作戦にも匹敵する規模です。北支方面軍からはほぼ全力(他に留守部隊として第12軍が残留)、中支方面軍からは最前線武漢三鎮にいた主力の第11軍が参加しています。
 作戦計画はこうでした。北支方面軍隷下の諸軍は関中(黄河が几状に湾曲する内部)の入り口潼関を突破し渭水盆地を西進、西安を攻略しつつ秦嶺山脈を越え漢中盆地、四川盆地に突入。中支方面軍の第11軍は、防備も堅く三峡の険で守られた長江沿いではなく(ただし陽動として攻撃は加える)いったん南下し湖南方面から山岳地帯を突破して貴州盆地に進出、そこから一気に北上して四川盆地の重慶を叩くという作戦です。
 作戦地域は陝西省、湖北省、湖南省、貴州省、そして重慶のある四川省という広大な地域にまたがりまさに乾坤一擲の大作戦だったと言えます。もしこれが成功していれば一気に国民政府は崩壊し戦争から脱落していたはずです。
 ただ、支那大陸の地理に詳しい方なら分かると思いますが、まず秦嶺山脈から漢中盆地までは比較的簡単に進めてもそこから四川盆地に入るには有名な蜀の桟道を越えなければなりません。また貴州省から四川省には割と簡単に入れますが、湖南省から貴州省への道は華南の山岳地帯を突破する必要があり近代装備の軍隊が進む際補給がとても困難であると思われます。分かりやすく表現すると規模をとてつもなく拡大したインパール作戦とでも言えるでしょうか。
 が、もし四川盆地に一部でも進出できた場合は歴史的故事からしても重慶政府は抗戦を諦めたかもしれません。作戦のカギは、補給の成否と陽動作戦の長江方面に敵主力をどれほど集められるかにかかっているでしょう。
 作戦図を見ると、私は南方の貴州ルートより襄陽から漢水沿いに漢中盆地に入る北支方面軍の別働隊の動きがキーポイントになるような気がします。別働隊がいち早く漢中盆地を押さえ秦嶺山脈を越えてくる北支方面軍の主力部隊と合流できれば、漢水を利用した補給線が確立でき北から四川盆地に入る作戦は案外成功したかもしれません。史実でも四川盆地に割拠する勢力を滅ぼしたのは北からの攻撃でしたから。
 南方ルートは、おそらく貴州盆地に入った時点で力尽きる可能性があります。そしてインパールの第15軍のようになったでしょう。
 史実では、あまりにリスクが高すぎるという事で作戦は中止になっています。そして支那戦線からは精鋭師団がことごとく南方に引き抜かれ大陸打通作戦時にはほとんど残っていないという絶望的状況になっていました。どうせ南方で壊滅するなら、この時大勝負してもよかったような気がしますが歴史の後知恵なんでしょうね(苦笑)。

反斜面陣地の実戦例  沖縄戦嘉数(かかず)の戦闘

Kakazu

 沖縄県宜野湾市の南部に標高90mの東高地、標高70mの西高地からなる鞍状の小丘陵があります。米軍普天間基地を見下ろす事が出来、よく流れている基地の映像はこの高地から撮影したものです。
 果たして彼ら(テレビ局)は、嘉数高地が沖縄戦の激戦地の一つでここで多くの英霊が倒れた(そして多くの英霊が眠っている)ことを知っているのでしょうか?日本の防衛力を弱める反日活動であるとともに、英霊を土足で踏みにじるという二重の冒涜を犯している彼らを私は絶対に許すことはできません。
 それはともかく、嘉数の戦いは圧倒的劣勢の日本軍が善戦し一度は米軍を押し返した英雄的な働きを示した戦場として有名です。一般にはほとんど知られていないと思いますが日本人にぜひとも知ってもらいたくて今回紹介致します。
 反斜面陣地に関しては、過去記事で説明しましたが簡単におさらいすると敵に向かった斜面ではなく稜線を越えた反対側斜面に陣地を築きさらに後方の主陣地からの砲撃で敵軍を撃滅する戦法です。これは火力や兵力が敵より劣っている場合に採用されることが多く、敵が稜線を越える前には曲謝弾道で上から砲撃し、稜線に達すると今度は主陣地や反斜面陣地から直接射撃して袋叩きします。敵側に向かった斜面を巨大な城壁とし機動的に反撃することを想定した陣地です。
 良いことずくめの戦法のようですが、反斜面陣地が成立する条件は厳しく、まず敵が必ずそこを通る必然性がある事、次にそこに丘陵状の障害物がある事、そして反斜面陣地や後方の主陣地からの射撃、砲撃が可能である必要があります。そして、最後に部隊間の連携が取れ有機的に動ける事が絶対条件です。
 嘉数高地は、東西約1kmの稜線。高地の脇を普天間方面から第32軍司令部のある首里へ至る主街道(中街道)が通り前方は両岸が5mほどの崖(比屋良渓谷)になっている比屋良川が流れています。海岸沿いの牧港低地は地積が狭く高地からの砲撃で制することができます。高地の東には西原高地が連なる天然の要害でした。反斜面陣地を採用するのにこれほど適した土地はありません。歩兵はともかく戦車は必ず中街道を通らなければならないからです。
 沖縄を守る第32軍は、嘉数高地の陣地帯の防衛を第62師団に委ねました。第62師団は、支那戦線の治安維持を目的に編成された警備師団で、独自の砲兵連隊を持たない二線級の師団でしたが支那大陸での豊富な戦闘経験を持ち侮りがたい力を持っていました。師団の編制に編入されたのは独立歩兵大隊で通常の70㎜歩兵砲2門のほかに75㎜山砲2門を有する歩兵砲小隊を組み込み1200名を超える大規模大隊でした。(通常は800名前後)
 嘉数方面には第62師団隷下の歩兵第63旅団(4個独立歩兵大隊基幹)が投入されます。ただし砲兵火力に不安があるため増援として独立速射砲第22大隊(47㎜速射砲装備)、独立迫撃砲第8中隊(81㎜迫撃砲×18)、野戦高射砲第81大隊の一部(75㎜高射砲×2)が加わります。さらに後方の仲間台地には第32軍直轄の野戦重砲兵第23連隊第1大隊(九六式15cm榴弾砲×12)、独立臼砲兵第1大隊の一部(32cm臼砲×8)が直協重砲兵として配されました。
 日本軍は、米軍上陸まで半年間の時間的余裕があったため、嘉数高地の全山を要塞化し稜線上にはコンクリート製の監視所、要所に重機関銃陣地、坑道式の地下壕を縦横に張り巡らせていました。沖縄の土地は隆起珊瑚礁が多く、硬くて掘りにくい代わりに強靭でコンクリートに匹敵する強度を持っていたそうです。
 嘉数方面に進出してきたのは米陸軍第27師団と第96師団でした。1945年4月5日嘉数高地の北隣85高地に米第383連隊が襲いかかったことからこの地での戦闘がはじまりました。85高地は嘉数陣地帯の前哨陣地でしたが守備をしていた独立歩兵第13大隊は大きな損害を出して嘉数の本隊と合流しました。4月8日、嘉数にも第383連隊の攻撃が始まりました。日本軍を舐めていた米軍はここも9日までに占領するつもりでしたが、それが甘い考えであることは間もなく判明します。
 4月9日、準備砲撃もせず嘉数高地北側斜面に取りついた米軍は稜線上に達しますが、反斜面陣地から出撃した日本兵が重機関銃、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾で猛烈な反撃を加えました。壮絶な白兵戦となりますが、こういう場合待ち構えていた方が有利で米軍は大損害を出して一時撤退しました。守備していた独立歩兵第13大隊も士官だけで20数名戦死するという損害を出し戦闘力をほとんど失います。歩兵第63旅団長は増援として独立歩兵第272大隊を投入しました。
 翌10日も米軍は第381連隊、第383連隊を投入して嘉数高地に攻め込みます。この時嘉数西高地の一部が米軍に占領されます。しかし日本軍は嘉数西70高地の南側と東側の陣地を堅守し米軍の突破を許しませんでした。大きな損害に懲りた米軍は、12日沖合の艦隊からの艦砲射撃、航空機による空爆を加えた入念な準備砲撃のあと再び総攻撃を開始します。
 が、猛烈な砲撃、爆撃にも関わらず嘉数の日本軍陣地は健在でした。激戦の末今回も日本軍はわずか3個大隊で米軍3個連隊を防ぎました。米第96師団は兵力再編のために一時撤退に追い込まれます。その後も小競り合いは続きますが、4月19日米軍は入念な準備砲撃のあとM4シャーマン中戦車24両、M7自走砲6両を先頭に押し立て攻撃を開始しました。
 戦車に対しては、歩兵の機関銃や擲弾筒は通用しません。中街道は簡単に突破されM4シャーマンの機甲部隊は嘉数高地を包囲するように背後の嘉数集落に向かいました。ところがこれこそ日本軍の設けた罠で、後続の歩兵部隊を機関銃や擲弾筒、迫撃砲で分断すると孤立した戦車群をキルゾーンに誘導します。
 47㎜速射砲は、先頭のシャーマンをやりすごし後続のシャーマンを側面からゼロ距離射撃で攻撃しました。巧妙に偽装された対戦車陣地を米軍は全く気付かず奇襲攻撃を喰らいます。嘉数-西原隘路口でまず3両が地雷で擱座。次に速射砲で4両が撃破されました。嘉数集落に侵入しようとした後続は曲がり鼻を75㎜高射砲の側面射撃をうけ破壊。残りは6両が肉薄攻撃でやられます。結局無事に後退出来たのはM4シャーマン2両とM7自走砲6両のみ。実に22両ものシャーマンがこの日の戦闘で撃破されたのです。
 絶対の自信を持っての米軍の総攻撃でしたが、結果は惨憺たるものでした。莫大な損害を出して米軍の攻勢は頓挫。しかし、兵力に劣る日本軍の損害も甚大でした。歩兵第63旅団は実質的に1個大隊弱の兵力にまで落ち込みます。側面の牧港に米軍の別働隊が上陸したため嘉数陣地帯の防衛が困難となり放棄を決定。首里を目前とした最終防衛線に退きました。
 4月24日、米軍が兵力を再編成して攻撃を行った時には嘉数高地の陣地帯は死体も残っていないほどもぬけの殻でした。大きな損害を出しながらも日本軍の将兵は嘉数では負ける気がしなかったそうです。一方米軍は、嘉数高地を「あの忌まわしい丘」「死の罠」と呼んで忌み嫌いました。
 嘉数の戦闘は、敗北必至の日本軍が大戦中最後に勝利した地上戦闘でした。絶望的な状況でも日本軍はかくも英雄的な働きをしたのです。我々後世を生きる日本人も誇って良い事実です。沖縄で戦った日本兵の皆さんに最大級の賛辞を贈りたいと思うのは私だけでしょうか?

異端の参謀八原博通と反斜面陣地

Hannsyamenjinti

 最近、歴史群像10月号を読んで嘉数(かかず)の戦いの記事に大変深い感銘を受けました。嘉数の戦いといっても御存じない方がほとんどだと思うので簡単に説明すると大東亜戦争沖縄戦の中の戦闘の一つで、シュガーローフの戦い、西原の戦いとともに最激戦の一つ。武器も兵力も劣る日本軍がアメリカの大軍を相手に善戦し16日にもわたって敵を釘付けにし最終的には撃退した戦闘です。ただし背後の牧港に米軍が上陸したため嘉数高地防衛が無意味になり日本軍は撤退しました。詳しくは歴史群像10月号の当該記事をご覧ください。
 寡兵の日本軍がなぜアメリカの圧倒的大軍を2週間以上も防げたかですが、これは日本の第32軍が採用したある戦法によってでした。その名を「反斜面陣地」と呼びます。通常、陣地は山の稜線などを中心に敵に向かった斜面を防衛正面としあらゆる火砲、機関銃陣地、塹壕を築きます。稜線上には観測拠点や、兵力に余裕のある場合レーダーや高射砲陣地を設けます。なぜなら、敵の進行方向に最大限の火力を集中すべきだからです。
 しかし、兵力に圧倒的な差がある場合敵の膨大な火力によって自軍陣地の火砲が沈黙し簡単に突破を許してしまいます。といって「どうせ負けるから」と撤退してしまっては意味がありません。なぜなら陣地を設けるという事は、そこがチョークポイント(要衝)だからです。ではどうしたらよいか?古来戦術家はこの難問に苦悩しました。そして、回答の一つとして考案されたのが反斜面陣地です。
 反斜面陣地とは、あえて敵に向かった斜面には兵力を配置せず、稜線上に警戒部隊(着弾観測員を兼ねる)を置き、主力部隊はその後方の斜面上に布陣します。敵からみて、反対側の斜面に主力部隊が位置するためこれを反斜面陣地と呼びます。
 敵が陣地のある山の斜面に取りつくまでは、稜線上の観測員による誘導で後方主陣地の火砲(榴弾砲か臼砲が望ましい)の曲射砲撃で叩きます。敵が斜面に取りついたら死角になって攻撃できませんが、山の稜線上に達すれば後方から砲撃(この場合は直射砲撃)してこれを叩きます。もし敵が警戒部隊のいる稜線を避け谷筋伝いに登ってくれば、主力部隊と警戒部隊で挟撃するのです。敵は、山の稜線が視界を遮り砲弾がどこから飛んでくるのか分からないため苦戦は必至です。
 とても素晴らしい戦法のようですが、ちょっと考えると分かるとおり陣地の位置、射角、部隊同士の連絡など緻密な事前準備を行わなければ各個撃破されてしまいます。その意味では諸刃の剣ともいうべきリスキーな作戦でもあるのです。ということで反斜面陣地はよほど切羽詰まった状況でなければ採用されません。
 沖縄防衛戦において反斜面陣地を採用したのは、第32軍高級参謀八原博通大佐でした。どちらかというと寡黙部下にすべてを任せ責任だけを負うと云った薩摩型将帥であった第32軍司令官の牛島満中将、壮士型の長勇参謀長(中将)と違い、実際の作戦を立案する八原大佐は、アメリカ駐在の経験もある合理的精神の持ち主。緻密な作戦を得意とする怜悧な参謀でした。硫黄島の栗林中将といい八原大佐といいアメリカ駐在経験のある合理的精神の持ち主が一番米軍を苦しめたかと思うと感慨深いものがありますね。
 八原大佐は、自分の主張が正しいと信じれば絶対に自説を曲げないため空気を読む陸軍内では浮いた存在でした。しかし、このような人物だからこそ反斜面陣地を採用したのだと思います。結局米軍は沖縄戦を通じて死者行方不明者12500人、戦傷者72000名という最大の損害を出します。それよりも日本軍の予想以上の抵抗に戦場ノイローゼになって戦列を離れた者が数万人に上ったとも言われます。
 ただ、大本営は第32軍の一見消極的な戦法(実はこれが一番合理的で有効な戦法だった)に不満を抱き、総攻撃命令を下します。これには牛島司令官、長参謀長始め司令部の参謀すべてが(大本営の意向に従うとして)賛成したそうですが、八原大佐は「無意味である。戦力が枯渇し抵抗できる時間と兵を失うだけだ」としてただ一人猛反対したそうです。しかし多勢に無勢、八原大佐は押し切られ大本営の命令通り総攻撃を行った第32軍は予備兵力のすべてを使い果たし沖縄は陥落を早めました。
 絶望的な戦場でも日本軍はかくも善戦したのだと考えると、誇らしいです。決して軍は沖縄を見捨てたのではなく精一杯国土を守るために戦ったのです。反日左翼によって歪められた沖縄戦の真実を知ることこそ沖縄で散って行った英霊の鎮魂になるのだと私は思います。皆様はどんな感想を抱かれましたか?

ボーイングB-52の心理的効果

 最近、空軍関連話が増えていますが、それは「現代の航空戦 湾岸戦争」(リチャード・P・ハリオン著 東洋書林)や「図解 現代の航空戦」(ビル・ガストン&マイク・スピック 原書房)など空軍関係の本を読みふけっているからです。特にここにあげた二冊は白眉で前者は現代の空軍戦略と運用を、後者は兵器と戦術面から航空戦をアプローチしています。
 その中で感銘を受けたのは、航空戦では兵器の性能だけでなく心理的効果も大きな要素になるという事でした。ボーイングB-52ストラトフォートレス、1952年初飛行しベトナム戦争で猛威をふるった巨大爆撃機です。登場から60年以上たつ古い機体ながら未だに現役だという事も驚かされますが、2045年まで使い続けられる予定となるとさらにびっくりします。
 性能から言うと、爆弾搭載量こそ多いものの(30t)それ以外は旧式化が否めません。にも関わらず湾岸戦争でも大きな役割を果たしました。
 現代のアメリカ空軍は、戦争がはじまるとまず巡航ミサイルとステルス爆撃機による精密爆撃で敵のレーダー網や指揮中枢、通信中枢を叩き相手が反撃できない態勢を築いてから本格的な空爆を始めます。航空作戦の最初の段階は戦略目標。次に第2段階として戦術目標である前線の地上軍、後方の兵站基地を攻撃します。地上軍が侵攻するのは最後の段階です。湾岸戦争がその典型ですが、アメリカ軍は(他の先進国も同様ですが)まず敵の反撃できないところから戦略目標を攻撃し、敵国家の目と神経をずたずたにしてからはじめて地上戦に移行します。これは自国の人的損害をできるだけ避けるためです。
 そのため、戦争初期の段階では湾岸戦争のボーイングF-117、イラク戦争のノースロップ・グラマンB-2スピリット戦略爆撃機などステルス機が出動し旧式のB-52の出番はありません。B-52は戦争の中盤以降にやっと出撃しますが、完全な制空権を握るまでは巡航ミサイルなどのスタンドオフ兵器(敵の射程外から攻撃する兵器)を使用し、通常爆弾による空爆はほとんど最終局面になってからしか使われません。
 それは前回の記事で書いた通り、無誘導の通常爆弾での絨毯爆撃など現代戦では効率が悪過ぎて意味をなさないからです。にもかかわらずB-52が使用されるのは心理的効果を狙ったに他なりません。
 実際、湾岸戦争においても空爆で指揮中枢、通信中枢をずたずたにされ前線の兵器をほとんど空爆で破壊されながらも頑強に抵抗し続けたイラク軍が、上空にB-52が飛来するのを見ると我先に逃げ出し地上軍の侵攻を待ったようにバタバタと降伏したそうです。ある捕虜になったイラク軍将校は、「トイレに行くときでもB-52の爆撃があるのではないかと恐怖が消えなかった」と証言しています。
 これはB-2などのステルス機では出来ない芸当です。レーダーで捕捉されにくいB-2は、上空に飛来した時点では誘導爆弾や空対地ミサイルで攻撃を終えており敵兵士は恐怖を感じる暇もないからです。いや、おそらく上空に飛来すること自体もないでしょう。スタンドオフ攻撃で任務完了ですから。B-52のような巨人機はそれだけで敵兵士の恐怖を誘います。戦術的効果は望めなくても心理的効果は絶大なのです。ベトナム戦争でのイメージもあるでしょう。湾岸戦争ではわずか74機(全体で122機のうち)参加したのみですが、地上戦での損害を最小限にとどめたという意味ではB-52は大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
 その意味ではB-52はまだまだ役に立つ兵器だと言えますね。カタログスペックだけでは決して分からない実戦の話でした。

現代戦の爆撃精度

Bakugekiseido

 最初に語句の説明から。半数必中界(CEP)というのはある目標に爆弾を投下した場合(あるいは砲弾を撃ち込んだ場合)目標を中心に50%の確率で着弾する確率円(の半径)のことです。ですから半数必中界が狭いほど精度が高いという事になります。
 数字が半端なのは、出典がアメリカの本でそれを日本語訳したもの(「現代の航空戦」リチャード・P・ハリオン著 東洋書林)だからです。ヤード・ポンド法で記されていたので分かりやすくメートル法に私が修正しました。ちなみに1フィートは約30.48cmです。
 表を見て分かるのは、ある目標を破壊するために第2次大戦では3000機以上必要だったのが現代戦ではたった8機で済むという事。湾岸戦争までしか資料がありませんが(イラク戦争の資料はあまり出てこないため)、おそらく現在でもそうは変わらないでしょう。若干命中精度が高くなったくらい。
 図表では目標を中心とする100フィート(30.48m)×60フィート(18.29m)の範囲に90%の確率で着弾するための必要爆弾数と必要機数が書かれています。軍事知識のない方は第2次大戦時の自由落下式の爆弾と現在の誘導爆弾の能力の違いに驚かれたでしょう。
 これを見ると我が航空自衛隊のF-15Jの爆撃能力はほとんど現代戦では役に立たないと分かります。何故日本がわざわざ誘導爆弾運用能力のあったF-15CのFCS(火器管制装置)から対地攻撃用プログラムを外してF-15Jに改修したか理解に苦しみます。導入当時、それだけ反日左翼から「攻撃用兵器」だと非難されるのを恐れたんでしょう。
 日本はその前のF-4EJでも同じような事をしています。反日勢力に要らざる配慮をして日本の防衛力を弱めたのですから国賊的行為に等しい。政治家に最低限の軍事知識、国防に対する責任感・覚悟があったらこんな馬鹿なことはしない。私が心配しているのは、対地攻撃機寄りのマルチロール機であるF-35Aでも同じことをしないかという事。今度こんな馬鹿な事をしたら国家反逆罪で死刑ですよ(怒)。
 今のところ、尖閣有事が起こった場合航空自衛隊で精密誘導爆弾(JDAM、LJDAM)を運用できるのはF-2だけ。尖閣にすぐ出動できるのは築城の第6飛行隊のF-2のみです。来年以降は三沢からF-2飛行隊が1個移動してくる予定ですが、これはF-35飛行隊を三沢で編成するのが前提条件。
 現代戦では、航空戦力は戦闘機同士て戦うだけが仕事ではありません。上陸部隊への空爆は言うに及ばず後背基地や策源地のレーダサイト、通信中枢を空爆で破壊する仕事があります。しかしF-2は対艦ミッションが主任務であるためそこまで手が回るか心配です。こんな時「F-15JにJDAM/LJDAM運用能力があったら!」とないものねだりをしたくなるのです。反日勢力への不必要な配慮で日本の防衛力が阻害されたらいったい何のための自衛隊ですか!
 こんな事を言うと、攻撃は日米安保によって米軍がやってくれるから問題ないと嘯く連中が必ず出てきますが、絶対に大丈夫だと言えますか?オバマ政権の昨今の態度を見てもそう思えるのなら反日左翼のお花畑を笑えませんよ。
 自国の国土は自分たちで守り抜く。そして戦いに勝つためには敵基地攻撃能力は絶対に必要。専守防衛は永遠に攻撃ターンが回ってこない野球の試合と同じ。これではいつか絶対に負けてしまいます。
 さらに言えば、精密誘導爆弾は軍事施設と通信施設だけを攻撃し民間人への被害を最小限に抑える人道兵器。空対地ミサイルも同様。国民の意識が変わらなければ日本が独立国として存在することもできなくなります。政治家が愚かだと非難しがちですが、その愚かな者を選んだのは国民ですよ。日本がまともになるために、我々一人一人が覚悟と正しい知識を持たなければならないと考えます。

対レーダーミサイルの話

 日本は、老朽化したF-4EJ改 ファントムⅡの後継機種としてロッキードF-35A ライトニングⅡを選定したわけですが個人的には同時に採用してほしいF-35用の何種類かの兵器があります。それは空対地ミサイルのAGM-65マーべリック、AGM-154JSOW、巡航ミサイルのストームシャドウ、そして対レーダーミサイルのAGM-88HARMなどです。
 せっかく攻撃機寄りのマルチロール機を採用するのだから、すべての能力を十二分に発揮できなければお金の無駄です。それでなくとも高い買い物なんですから。なんでわざわざこんな事を書くかというと、昔ファントムを採用した時、国内の反日左翼勢力に配慮して空中給油装置や爆撃コンピュータなどをわざわざ外すという愚かな事をしたからです。さすがに今の日本政府はそこまで馬鹿じゃないと信じたいですが、もし何らかの能力制限をわざわざ設けたら国家反逆罪級の罪だと思います。利敵行為にも等しい。
 さて今回は対レーダーミサイルの話です。対レーダーミサイルとは、目標となるレーダーサイトから発信されるレーダー波を受信し、その発信源にむけて自らを誘導するパッシブ・レーダー・ホーミングのミサイルです。おそらく一番有名なのはアメリカのAGM-88HARMでしょう。
 HARMは湾岸戦争で本格的に使用され(その前にリビア爆撃などで限定的に使用)、戦後米空軍幹部の「HARMが無かったら多国籍空軍の損害は全機数の半分にものぼっただろう」という証言に象徴される通り重要な役割を果たしました。
 アメリカを中心とした多国籍空軍は、ソ連に次ぐ濃密なソ連式防空コンプレックス(対空ミサイルと対空機関砲をレーダーと連動させた防空陣地)を有するイラク軍を対レーダーミサイルによって盲目状態にし、戦いを有利に進めます。近代兵器はレーダーという目が無ければその能力をほとんど発揮できません。
 イラク軍が、多国籍軍の航空機を撃墜しようとレーダーを照射すると、その発信源に向けてHARMなどの対レーダーミサイルが飛んできて破壊するのです。これを恐れたイラク軍はレーダー照射を止め、主に赤外線ホーミングの地対空ミサイルを発射して対抗しました。
 ところが赤外線ホーミングミサイルは対処も容易でフレアを射出したり高機動で交わせるのです。イラク軍はレーダーの破壊を恐れて照射をやめ、結果レーダーサイトは温存されましたが多国籍空軍に制空権を奪われてしまいます。レーダーが無ければ迎撃に戦闘機が上がることも不可能なのです。実際、湾岸戦争でイラク軍戦闘機と多国籍空軍機が戦闘した例は数えるほどしかありません。大半のイラク軍機は地上で破壊されました。
 HARMのほかにイギリスのALARMミサイルも湾岸戦争デビューですが、目標を捉えたらマッハ2以上の高速でそこへ向かうHARMよりさらに凶悪な代物です。敵が対レーダーミサイルの存在に気付いてレーダー照射をやめると高度13kmまで上昇してパラシュートを展開、滞空モードに入ってゆっくり降下します。そして敵が再びレーダー照射するのを待ちパラシュートを切り離して2個目のロケットモーターを点火、目標に向かっていき破壊します。
 どうです?日本も対レーダーミサイル欲しいでしょ?ところが日本は空対艦ミサイルのXASM-3がパッシブ・レーダー・ホーミング能力を持ち(アクティブ・レーダー・ホーミングと切り替え可能)対レーダーミサイルと似たような使い方ができることからAGM-88HARMの採用を見送ったという説があります。
 しかしこれは本末転倒も甚だしい。いくらXASM-3が高性能でもASM-2が1億5千万することから考えると少なくとも1億以上、もしかしたら2億近い価格になるのではないかと推定します。いくら対レーダミサイル的な運用ができるとはいえ、敵のレーダーは無数にあるんですよ。地対空ミサイルのレーダーもあれば空軍基地のレーダーもある。早期警戒用のレーダーもあります。これらを高価なXASM-3で攻撃してたらいくらあっても足りません。あくまでXASM-3は対艦ミサイルとして使用すべき。
 米軍でさえ1発3800万円のAGM-88HARMを高価すぎるからとコスト削減を図っているというのに…。XASM-3はそのままとして、別により安価な対レーダーミサイルを導入すべきだと思います。といってもライセンス生産すれば7~8千万にはなりそうですが。
 尖閣有事の際、支那沿岸部の航空基地や地対空ミサイル陣地、早期警戒レーダーサイトを叩いて無力化しておかなければ航空自衛隊は自由に尖閣上空を飛びまわれませんよ。これが近代戦と云うものです。敵基地攻撃能力とか専守防衛などと云う寝言を言っている場合ではないでしょう。政府がまともな選択をするように(愚かな選択をしないように)、国民も正論を持って後押しすべきあるいは圧力を掛けるべき問題だと考えますが、皆さんはいかが思われますか?

第二次世界大戦中 日本の軍用トラック

Gunyoutorakku

 軍のロジスティクス(兵站)に興味を持つ私は、陸上輸送の根幹輸送トラックに関しても関心があります。大戦中日本特に陸軍はどのような軍用トラックを使用していたか、ふと興味を持ち調べてみました。
 
 ところが日本では、ロジスティクスや軍用トラックに興味を持つ人がいないのか資料がほとんど見つかりません。一応「軍用自動車入門」(高橋昇著 光人社NF文庫)で調べてみましたが、あまりよく分かりませんでした。ほとんど諦めかけていたところ、同じ光人社NF文庫の「機甲入門」(佐山二郎著)の巻末に軍用車両の一覧表が載っているではありませんか!
 
 さすが佐山さん、火砲関係だけでなく車両方面にも一家言の持ち主だったとは!いやあおみそれいたしました。佐山さんの本をベースにネットなどで調べて一覧にしたのが上の表です。これでも民間呼称や最高出力などは分かりませんでした。トラックは民間用と軍用が同じなので特に分かりにくいのです。いすゞの他に豊田や日産も作っているため余計混乱します。同じ時期に採用された似たような性能のトラックを一括して一式とか二式とか名付けているのも混乱に拍車をかけているのです。
 
 九四式六輪自動貨車というのは、陸軍が採用した初期の実用輸送トラックです。ベースになったのは民間用のいすゞTU10型。初期の傑作トラックで、輸送の他に軽量の火砲の牽引にも使われます。ところがわずか1.5トンという積載量不足で一気に旧式化し、後継の輸送トラックが開発されていきました。特徴的なのは、石油の不足を鑑みガソリンエンジンからディーゼルエンジンに主流が移った事。これは日本の国情にあった変化でした。
 
 これらのトラックがどれくらい生産されたかは調べても分かりませんでしたが、自動車生産は1941年の数字で46100台。そのうち9割が商用車だそうですからこれをトラックと仮定すると毎年41000台前後が生産された事になります。日本にしてはなかなか頑張っていると思いますが、同年のアメリカの総自動車生産量は484万台。桁違いです。
 
 軍用トラックとしてだいたい年間2万5千台程が納入され、これを陸海軍が取り合ったそうですが末期には生産数自体が空襲などで落ち込み日本の兵站能力は大きく削がれました。これは海上の輸送船のケースと同様ですね。いくらディーゼル主体とはいえ、燃料は軽油。ガソリンとバッティングしないから航空燃料(ガソリン)の需要を圧迫しないとはいえ、ガソリンも軽油も同じ原油から精製しなければいけません。大戦末期にはタンカーの不足と執拗な米軍の通商破壊戦で原油そのものの供給が断たれたわけですからトラックも動かなくなったと思います。
 
 日本では完全自動化の機械化師団や自動車化歩兵師団など夢のまた夢だったのでしょう。陸軍虎の子の自動車化歩兵師団である近衛第2師団、第5師団、第48師団のうちガソリンも軽油も豊富に使えたのはスマトラ島の大油田地帯を防衛した近衛第2師団だけだったかもしれませんね。現地生産、現地補給ですから。しかし、拠点防衛ではあまり消費しないのです。痛し痒しですね。

スペイン内戦におけるコンドル軍団

Kondoru

 最近ドイツ空軍の戦史にはまってます(笑)。コンドル軍団とはスペイン内戦(1936年~1939年)においてナチスドイツがフランコ軍を支援するために派遣した遠征軍です。これとは別にフォン・トーマ陸軍大佐(WW2では装甲兵大将・ドイツアフリカ軍団長などを歴任)率いる少数の機甲部隊もいました。
 
 イタリアが、同じ全体主義者(反対派はファシスト呼ばわりするが、これは言いすぎ)のフランコ将軍を援けるために派遣した大規模な遠征軍(黒シャツ隊など4個師団を基幹とする陸軍と海空軍)と違い少数精鋭でしたが、それでも150機近い空軍部隊を有していました。
 
 コンドル軍団と言うと最新鋭機で固められた精鋭部隊というイメージがありますが、派遣当初は旧式の複葉戦闘機He51や、のちには低性能が露呈し爆撃任務に使えず輸送機になったJu52爆撃機などが主力でした。
 
 ところが共和国政府(こちらも後年のイメージでは共産党政権のイメージがありますが実態は右派以外のすべての政党が結集した連立政権。ただし最終的には共産党が主導権を握る)に、ソ連がポリカルポフI‐15、I‐16戦闘機を主力とする義勇軍を派遣すると苦戦し、当時ようやく主力戦闘機として採用されたばかりのメッサーシュミットMe109(Bf109ともいう)を急遽投入して制空権を奪回したというのが実態でした。
 
 このスペイン内戦は後の第2次世界大戦における兵器の実験場という側面もあり、Me109やユンカースJu87スツーカ急降下爆撃機はこれが初陣でした。
 
 Me109やJu87がソ連機と比べてあまりにも高性能だったためドイツ空軍は急降下爆撃や近接航空支援戦術を過信し、それとは性格の異なる戦略空軍であるアメリカとの戦いでは逆に苦戦することになります。
 
 ドイツ軍にとって、近接航空支援を地上部隊の侵攻と組み合わせた電撃戦はスペイン内戦で確立したと言ってもよいでしょう。ただし急降下爆撃機スツーカの成功によってドイツ空軍内の戦略空軍論者は発言力を失い戦術空軍に特化したのは失敗でした。
 
 
 ドイツもイタリアもソ連も義勇軍と称し多くのパイロットをスペインに送り込みました。武器援助も莫大で、ソ連だけでスペイン共和国政府軍に1000機以上も供給しています。
 
 スペイン内戦に関しては以前記事に書いたので詳しくは述べませんが、ナショナリストのフランコ軍が勝利し、ソ連の支援する共和国軍が負けたのは、英米が共和国政府をソ連の傀儡と見て援助をしなかったばかりか、独伊のフランコ軍支援に見て見ぬふりをしたからだと思います。

日米開戦直前の帝国陸軍戦闘序列

Kaisenji

 少し見難いと思いますが、エクセルで書いた表を一枚に収めるための苦肉の策です。これでもかなり簡略化しており例えば総軍直轄の師団は割愛しております。
 ちなみに、支那派遣軍・北支方面軍では27、35、110の3個師団が直轄で戦略予備となっていました。南方総軍の直轄は21、38師団と第21独立混成旅団でした。
 
 これは1941年12月時点での日本陸軍の戦闘序列(Order of battle)です。まさに開戦直前のものですね。ちなみに日米開戦時日本陸軍は51個の師団を保有していました。計算が合わないのはアメリカさんのリサーチミスの可能性が(苦笑)。
 これ実はアメリカの軍事系ホームページの資料を私が纏めたものです。私が一番に気付いたのはインパール作戦で有名な第31師団(烈兵団)が抜けているところ。と思って調べたら第18師団川口支隊(歩兵第124連隊基幹)と第13師団歩兵第58連隊、第116師団歩兵第138連隊、第40師団山砲兵第40連隊を基幹に1943年3月にタイのバンコクで編成されたそうですから無いはずですよ。いや、失礼しました。知ったかぶりの戦史オタって本当に恥ずかしいですね(汗)。
 戦史に詳しい方は、南方総軍の各軍の編成が微妙に違うと気付かれたでしょう。そういう貴方は鋭いです。これはあくまで計画で、実戦に入るといろいろ増援が加わっています。
 分かる範囲で書くと、
◇比島方面担当、第14軍
 第4師団(増援)
 第16師団
 第48師団
 第65旅団
◇蘭印方面担当、第16軍
 第2師団
 第38師団(南方総軍直轄)
 第48師団(比島方面から転用)
 坂口支隊(第56師団歩兵第146連隊基幹)
 南海支隊(第55師団歩兵第144連隊基幹)
くらいですかね。独立戦車連隊や独立重砲連隊などは煩雑になりすぎるので割愛しております。
 これで戦記ものを読む時の助けになりますね♪

イラク戦争の教訓   ②第101空挺師団の強襲

 最初に軍事や戦史に興味がない方(まあそんな人は記事読まないでしょうが…)に、空挺師団とは何ぞや?というところから説明しなければなりますまい。
 
 
 空挺師団というのは、もともと輸送機などで敵前線後方に落下傘降下し要地を占領する部隊を指します。機動性はあるのですが、その分武装は貧弱で単独で長期間戦い続けることはできません。降下占領後すみやかに進撃してきた友軍と合流しなければ壊滅してしまいます。友軍との合流が遅れるのは致命傷で、第2次大戦においてマーケットガーデン作戦などの悲劇が起こりました。
 
 戦後、ヘリコプターが発達してくると米軍は輸送ヘリと攻撃ヘリを組み合わせることで空挺部隊の生存性を高める事を考えました。そうして再編成されたのがヘリコプター強襲部隊としての第101空挺師団です。
 
 アメリカ陸軍はこの第101空挺師団に期待し強力な装備を集めました。2003年当時の師団戦力は、総兵力18000人、AH-64Dアパッチ・ロングボウ攻撃ヘリ×72機(3個大隊)、UH-60ブラックホーク汎用ヘリ×126機(3個大隊)、CH-47Dチヌーク大型輸送ヘリ×48機(1個大隊)、OH-58D斥候ヘリ×24機(1個大隊)という恐るべき戦力でした。これは日本の陸上自衛隊の全ヘリ保有数にも匹敵し戦力は遥かに上回ります。
 
 
 第101空挺師団は、3個空挺歩兵旅団を隷下に持ち装備する火砲(105㎜榴弾砲M119×18門など)も含めてすべてを自前のヘリ部隊で運べました。湾岸戦争でも大活躍し、アメリカ軍は第101空挺師団の威力に絶対の自信を持っていたのです。
 
 
 イラク戦争当時数の劣勢を質でカバーしようと、米軍は第101空挺師団にしばしば長距離強襲作戦を命じました。先鋒として進撃する第3歩兵師団(実質はM1A2エイブラムス戦車247両を擁する機甲師団)の後方で取り残された敵部隊の掃討を空中機動師団の機動力に期待したのです。
 
 
 開戦から4日目の2003年3月24日、第101空挺師団はイラク軍の最精鋭、共和国親衛隊のメディナ戦車師団撃滅の命令を受けます。戦車の天敵であるアパッチ・ロングボウ攻撃ヘリはヘルファイア対戦車ミサイルを満載して発進しました。
 
 ところが空軍との連絡が上手くいかず空爆直後に戦車部隊に襲いかかるはずが悪天候のせいもあり30分以上も予定より遅れます。そしてこの時間はイラク軍が攻撃に備えるには十分な時間でした。
 
 
 アメリカ軍の戦法が空爆の後攻撃ヘリの強襲であるというパターンはとっくにイラク軍に知れ渡っていました。アパッチ部隊はイラク軍の濃密な対空機関砲、対空砲の待ち構える中突入したのです。最初に突入した第11攻撃ヘリ連隊は市街地やヤシ林に巧みに偽装されたイラク軍のM1939 37㎜対空機関砲、ZPU-4 4連装14.5㎜対空機関砲をはじめとするあらゆる対空兵器の洗礼を受けます。
 
 イラク軍も馬鹿ではありません。湾岸戦争で痛い目にあった経験を生かしヘリの侵入ルートを想定し防空陣地を構築していたのです。第11攻撃ヘリ連隊は30機のアパッチ攻撃ヘリすべてが被弾します。さすがに強力な装甲をもつアパッチ・ロングボウはわずか1機の損害だけで済みましたが、敵を完全に侮っていたアメリカ軍の衝撃は計りしれませんでした。
 
 以後もアパッチ・ロングボウは湾岸戦争時の無敵の攻撃ヘリとは違って戦争を通じ少なからず被害を出します。イラク軍は絶望的な戦況の中でも地形を最大限に利用し戦争とその後の占領時代を通じて連合軍は5000名以上(うち米軍は1687名)という戦死者を出しました。
 
 
 どうもアメリカ軍は、湾岸戦争のときと違い慢心があったように思えます。自軍の力に絶対の自信を持つがゆえに敵を侮り準備も情報収集もろくにせず攻撃を開始、思わぬ損害を出すケースが多く発生しました。
 
 
 このあたりが、現在世界最強を誇るアメリカ軍の弱点なのでしょう。

イラク戦争の教訓   ①ジェシカ・リンチ事件

 軍事書庫にするか世界史書庫にするか非常に悩んだんですが一応軍事関係なので軍事書庫にしました。
 
 
 イラク戦争とは2003年アメリカ軍が中心になってイラクのサダム・フセイン政権を倒した戦争です。本記事では大量破壊兵器の有無、アメリカの意図など国際政治に関わる部分には触れません。
 
 
 一般の印象では、1990年の湾岸戦争と同様圧倒的な近代兵器を誇るアメリカ軍が劣勢のイラク軍を文字通り一蹴した戦争だったと思われています。基本的には確かにそうです。しかも湾岸戦争と違い、最初からイラク軍は航空兵力皆無、圧倒的なアメリカ軍の制空権下で地上部隊だけで抵抗した絶望的な戦争でした。
 
 
 が、良く良く調べてみると湾岸戦争では表面化しなかったアメリカ軍の弱点が垣間見られた戦争でもありました。それを象徴する事例として二つ挙げようと思います。一つはジェシカ・リンチ人質事件、今一つは第101空挺師団アパッチ攻撃ヘリ部隊による地上攻撃作戦です。
 
 
 
 
 まずジェシカ・リンチ事件についてとりあげましょう。彼女は戦争中所属する輸送部隊を襲撃されイラク軍の捕虜となり奇跡的に救助された女性でした。戦後アメリカで英雄として祭り上げられますが、本人はそれを戸惑い拒否します。しかしアメリカにとっては自分の失態を取り繕うためにどうしても彼女を英雄にしなければならなかったのです。
 
 ジェシカ・リンチの属する第507整備補給中隊(以下第507中隊と表記)は第3軍団第31防空砲兵旅団(パトリオットミサイル装備)5/52防空砲兵大隊をサポートする部隊でした。親部隊がクウェートに派遣されたため第507中隊も同行します。
 
 もともと砂漠戦を想定した装備ではなく旧式のトレーラーや輸送トラックを装備した部隊であったため砂漠での補給任務に支障をきたすことは明白でした。しかも隊長は実戦経験がなく(当たり前ですが…)、不利な状況が重なりました。
 
 
 ある時第507中隊は司令部よりイラクの首都バクダッド攻略作戦における一大兵站基地ブッシュマスターへの補給任務を命じられます。しかし途中のナシリアにはまだイラク軍駐留部隊と民兵がおり司令部はナシリアを避けて行軍する命令書をCD-ROMに落とし第507中隊に渡します。ところが全く実戦素人であった中隊長はCD-ROMの見方が分からず、命令書を運んだ司令部の将校も「これくらいは説明しなくてもわかるだろう」とあえて説明しなかったそうです。まずこれが第1のミス。
 
 
 中隊は補給物資を満載したトラック群を国道8号線上で走らせます。ナシリア近郊でアメリカ海兵隊の部隊と遭遇しますが、海兵隊の将校はこれを見過ごします。戦後の証言では「武装を持たない補給部隊が戦闘部隊を追い越して戦場に入るのに違和感を覚えたが陸軍の作戦に口を挟むべきではない(揉めるから)と思って黙って通した」そうです。これが第2のミス。
 
 
 第507中隊の中隊長は、初めての戦場で緊張し地図を読み間違えていたのです。作戦計画ではナシリアの手前で左折し町を迂回して兵站基地に向かうはずが悪魔に魅入られたようにナシリアへ侵入するルートを取ってしまいます。
 
 
 そして致命的な第3のミスが発生します。慣れない砂漠の行軍で補給部隊は比較的馬力があり走破力の高いトレーラー部隊と、旧式で馬力が弱く故障が多発する部隊に二分されました。ジェシカ・リンチは不幸なことにこの鈍足部隊に取り残されたのです。
 
 
 最初イラク軍は、まさか戦場に敵の補給部隊が突っ込んでくるはずがないと町に入るのを見過ごしたそうです。もしこの段階でイラク軍の銃撃を受けていれば部隊が全滅する事はなかったと思います。
 
 
 不幸な第507中隊は、町の中心部に迷い込みました。中隊長がルートの選択ミスに気付くのはあまりにも遅すぎたのです。この頃イラク軍も間抜けな敵の補給部隊がナシリアに迷い込んできた事を分かります。イラク軍の兵士と民兵たちは補給部隊に激しい銃撃を浴びせました。
 
 ところが当たり前ですが実戦経験のない第507中隊の兵士たちは、応戦しようにもM16ライフルに砂が詰まって発射できなくなってしまいます。本来なら軍幹部が万が一の事態を想定して(銃のメンテナンスを)指導しておくべき事柄でした。
 
 
 こうして哀れな補給部隊は、故障せず自力で脱出できた一部を除いて全滅します。トラックの後部座席に座っていたジェシカ・リンチは銃撃を受け気絶したところをイラク軍の捕虜になったそうです。
 
 
 アメリカ軍の驕りが招いた悲劇でした。敵を舐め十分な準備をすることもせず行動した事がこのような事態を招いたのです。戦後アメリカ軍は己の失態をごまかすためにも生還したジェシカ・リンチを英雄に祭り上げるしかありませんでした。

ベッカー高原の戦車戦  1982年レバノン侵攻

 地中海に面する国、レバノン。古代海洋交易民族フェニキア人の故地で風光明媚な土地でした。国土を南北に縦断する二つの山脈(西側レバノン山脈、東側アンチレバノン山脈)はともに最大標高2000m級の山々です。地中海沿岸地域はシドン、ティルスなどフェニキアの古代都市が栄え現在の首都ベイルートもここにあります。
 
 アンチレバノン山脈の稜線がシリアとの国境を成しており、レバノン山脈との間のベッカー盆地(ベッカー高原)は海岸地方に比べると道路も整備されておらず機甲部隊の行動には不便でした。レバノンは南部国境を接するイスラエルに対しては守りやすい地形だったと言えます。
 
 人口は2009年現在で420万あまり。もともと平和だった国が何故戦争に巻き込まれたのでしょうか?それにはレバノンが抱える歴史的な事情がありました。レバノンはキリスト教徒が多い国です。狭義のレバノンとはフェニキア起源の諸都市が存在する沿岸部のみを指しました。ところがフランスがこの地を植民地化するに当たってベッカー高原、アンチレバノン山脈を含む大レバノンを一つの地域として纏めます。
 
 フランスによって人工的に国境線が引かれたためにもともと様々な民族対立、矛盾を抱えていたといえるでしょう。キリスト教徒内部でも対立がありましたし、イスラム教徒もいましたから国内は収拾がつかない状態でした。
 
 戦後独立を果たしてもこの矛盾は続き、隣国シリアの介入を招きます。しかも当然軍隊は弱く南レバノンは無政府状態でパレスチナ難民、そしてパレスチナゲリラが入り込み中央政府の統制が届かない地域となりました。
 
 
 国内の対立から内戦が発生する中PLO(パレスチナ解放機構)が入り込み、事実上レバノン南部をさながら独立国のように支配し始めます。PLOはここからイスラエル国内に対してロケット攻撃を繰り返しイスラエル政府をいらだたせます。
 
 1976年5月、無政府状態に陥っていたレバノンに対しシリアがついに武力侵攻を開始しました。シリア軍はしかしイスラエルへの敵対意識からPLOのテロ活動を黙認します。イスラエルもレバノン内戦の当事者キリスト教勢力の一部を後援していましたから、両者の激突は時間の問題となって行きました。
 
 
 こうして1982年6月6日のイスラエル軍武力侵攻となるのです。この作戦は「ガリラヤ平和作戦」と名付けられました。
 
 
 両軍の兵力はまず、平和維持軍と名乗った事実上の占領軍であるシリア軍が戦車1個旅団、歩兵2個旅団を基幹とする約3万の地上軍。そのほか国境線沿いに戦車1個旅団が控えました。在レバノンのシリア軍戦車総数は約300両。PLOも総数は不明ながら(15000くらいか?)各地に旅団規模の部隊を配置し130ミリ、155ミリの野砲、122ミリカチューシャロケット、旧式ながらソ連製T-34戦車100両を含む侮れない兵力を有していました。特にソ連から供与(シリア経由?)されていた対戦車ロケット、対空火器はイスラエル軍にとっても脅威でした。
 
 一方イスラエル軍は、沿岸を進む西部部隊、レバノン山脈沿いの山手を進む中央部隊、内陸のベッカー高原を進む東部部隊に分かれて侵攻しました。ともに機甲旅団を主力とする部隊でした。
 
 
 各地で空中戦を含む激戦が続く中、この記事で取りあげるのは東部戦線ベッカー高原の戦いです。イスラエルの資料でも戦略秘匿の意味があったのかどの部隊が進出したのか分かりませんでしたが機甲1個旅団を主力とする部隊だった事は間違いありません。
 
 シリア軍の対戦兵力は分かっています。第91機甲旅団、第62旅団の一部、第51旅団。シリア軍はイスラエル機甲部隊を迎撃するためここに700両の戦車を終結させます。イスラエル軍は新鋭の国産メルカバ戦車を初めてこの戦闘で投入しました。
 
 一応軍事系記事なので、何故ベッカー高原で戦車戦が発生したか考察を加えます。まずイスラエル軍の採るべき戦術として道路網が整備され機甲部隊の進撃に有利な沿岸地方を中心に電撃的に侵攻してベイルートを制圧するという選択肢もあったはず。ベッカー高原との連絡はレバノン山脈が邪魔するので抑え程度の兵力で良かったのではと愚考しました。
 
 しかし地図を見て謎が氷解します。まずベッカー高原南部はPLOテロ活動の根拠地の一つだったのでこれを叩く必要があった。ベッカー高原のシリア軍を放置すると沿岸部をいくらイスラエル軍が制圧しても補給路として残すため戦闘が長期化する恐れがあった。ベッカー高原を制圧することでシリア本土からの援軍を北周りで大きく迂回させる事が出来る。という理由でしょうか。
 
 
シリア軍の主力はソ連製のT-72.。125mm滑腔砲を装備し複合装甲を採用した当時ソ連自慢の戦車でした。いくらモンキーモデルとはいえ105mm砲しか装備していないイスラエル軍戦車によもや後れをとるとはだれも思っていませんでした。
 
 ところがメルカバは、イスラエルがこれまでの戦訓を取り入れ開発した戦車で複合装甲はもちろんのことエンジンを車体前面に置き人命を最優先にしていました。105mmライフル砲とは言いながらAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)と主砲の高い命中率にイスラエル陸軍は絶対の自信を持っていました。
 
 ベッカー高原では、両軍合わせて1000両にも及ぶ大戦車戦が繰り広げられます。結果はイスラエル陸軍の圧勝。命中精度、砲の威力でシリア軍のT-72は全く太刀打ちできず完敗しました。この戦闘でイスラエルのメルカバ戦車への評価が鰻上りに高くなったのと対照的に、ソ連製T-72の評価は地に落ちました。
 
 ソ連から東側諸国の離反が続いたのには、この戦いで明らかになったソ連の軍事力に対する不安も大きな要素だったと思います。後年湾岸戦争でもT-72は西側戦車に一方的にやられましたからソ連崩壊の原因の一つには戦車の能力不足もあったのでしょう。
 
 近代戦では、空軍の制空権を巡る戦いも重要でベッカー高原上空ではイスラエル、シリア両空軍による熾烈な空中戦が展開されます。(以前記事にしましたね♪)
 
 
 ゲリラには苦しめられても、正規軍同士の戦闘ではアラブ側はイスラエルの敵でない事がレバノン侵攻でもはっきりしました。
 
 イスラエル軍は、シリア軍とPLOの抵抗を排除し6月13日には早くも西ベイルートに突入。シリア軍とPLOを包囲しました。イスラエル軍は国際非難を受けながらもこれを無視し、ベイルート包囲を続けます。
 
 国際社会の圧力でようやく8月21日停戦が成立、PLOはチュニジアに撤退することになりました。
 
 
 ただこの戦いで平和が戻る事はなく、現在でもイスラエルを巡る紛争は続いています。

中東戦争航空戦Ⅲ    ヨム・キプールからレバノン侵攻(1982年)まで

 ヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)はアラブ諸国がイスラエルの油断に付け込んだ戦争でしたが、結局アメリカの全面支援を受けたイスラエルとはまともに戦ったらとても勝てないとアラブ側が悟った戦争でもありました。
 
 1979年3月、キャンプデービット合意を受けてエジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相の間で劇的な単独和平が実現します。人口6000万を数えるアラブ随一の大国であるエジプトの脱落は他のアラブ諸国の間に恐慌をもたらしました。
 
 エジプトは、これによってイスラエル占領下にあった自国領シナイ半島を取り戻したのですから名を捨てて実を取った形です。しかし同じくイスラエルに占領されたゴラン高原を抱えるシリアは頑なにイスラエルとの和平を拒否しました。
 
 
 空軍においても、イスラエルは最も手ごわいエジプト空軍を相手にしなくて済むようになったのは幸いでした。イスラエルの評価では量はもちろんパイロットの質においてもエジプト空軍をアラブ最強と目していました。イラク・ヨルダンがこれに次ぎもっとも低評価なのがシリア。
 
 同じようにソ連の援助を受け訓練をしてきたはずですからこの差は謎です。あるいは民族性の違いでしょうか?エジプト人の方が現実主義で資金もあるためより実戦的で訓練を長くできるメリットがあったのかもしれません。
 
 
 ヨム・キプール戦争の後各国はより軍備を増強していきます。イスラエルはアメリカ製のマクダネルダグラスF-15イーグル、ジェネラルダイナミックスF-16ファイティングファルコン、早期警戒機E-2Cホークアイなどを購入しました。
 
 エジプトは、ソ連製兵器に見切りをつけアメリカ製F-16を導入します。このあたりエジプト人の現実主義が見えて面白いですね。一方、シリアはソ連製のMiG-23、MiG-25、MiG-27、Su-20などを導入し空軍の近代化を図りました。
 
 
 正規戦で駄目ならゲリラ戦というのが常道ですが、シリアはPLO(パレスチナ解放機構)などのアラブゲリラ組織を支援して主にレバノン南部に展開させます。アラブゲリラは越境攻撃、テロなどを繰り返しイスラエルを苦しめました。業を煮やしたイスラエルはレバノン南部のゲリラ拠点を空爆してこれに応えます。シリアは空軍機を派遣してイスラエル機を妨害しましたからレバノン上空は両軍の空中戦が頻繁に発生しました。
 
 
 1979年6月、レバノン沖に展開したE-2Cは十数機のシリア軍機がイスラエル機に近づくのを発見します。レーダー管制によって導かれたイスラエル軍機はこれに襲いかかりました。この時初めてF-15イーグルが実戦に参加したとされます。
 
 結果はイスラエル側の圧勝。シリア軍のMiG-21を5機撃墜、2機に損傷を与え自軍の被害ゼロというパーフェクトゲームを演じています。F-15はF-22ラプターが登場するまで世界最強の制空戦闘機だと言われました。イスラエルは公式には空戦で撃墜されたイーグルは1機もないと発表しています。しかしこれに疑問を挟む声もあります。というのはレバノン上空では十数機から時には数十機単位の空戦がしばしば発生したため、それこそ「下手な鉄砲も数撃てば当たる」で撃墜されたイーグルがあった可能性もあるのです。実際シリアはイーグルの撃墜を主張しています。
 
 
 F-15イーグルは生存性が高い戦闘機である事は事実です。2基あるうちのエンジン1基が被弾しても、もう一つに被害が広がりにくい構造で片肺で帰還したイーグルもありました。ですからシリア軍の誤認という可能性も捨てきれませんが…。
 
 
 1982年6月、いたちごっこに業を煮やしたイスラエルは「ガリラヤ平和作戦」を発動、地上軍をレバノン南部に侵攻させます。この時レバノン南部ベッカー高原で熾烈な戦車戦が発生します。両軍合わせて1000両近い戦車の激突でした。ここでもイスラエル軍は圧勝します。イスラエル国産のメルカバ戦車を含む西側兵器の優秀性をまざまざと見せつけられた戦闘でもありました。
 
 
 空中でも激しい戦闘が起こります。両軍とも100機以上を投入した本格的なものでした。6月中旬になるとイスラエルの優位が決定的になり西ベイルートに展開していたシリア・PLO両軍は包囲され全滅の危機に瀕しました。
 
 アラブ諸国は調停に乗り出し、PLOがレバノン国内から撤退することを条件に7月ようやく和平が成立します。ただアラブゲリラの強硬派はレバノン国内に依然居座ったためイスラエル軍が完全撤退したのは1985年でした。
 
 
 この戦闘における航空機の損害は、イスラエル空軍3機、シリア空軍91機という恐るべき大差でした。もちろんこれはイスラエルの公式発表で実際はもう少し損害が多いとは思いますが、それにしても圧勝である事には変わりありません。
 
 
 バビロン作戦、シリア原子炉空爆、チュニスPLO本部空爆などをみると、最新の兵器と世界有数の技量をもつイスラエル空軍の中東における優位は当分揺るぎそうもないでしょう。

中東戦争航空戦Ⅱ    ヨム・キプール戦争

 ヨム・キプール戦争とは日本で言うところの第4次中東戦争(1973年10月6日~10月26日)の事。アラブ側がユダヤ教の神聖な休日である贖罪の日(ヨム・キプール)に奇襲攻撃を掛けたのでこの名前が付きました。
 
 
 第3次中東戦争とその後の消耗戦争においてアラブ側はイスラエル空軍に大きな被害を受けました。このままでは中東における自国の牙城が崩れる事を恐れたソ連はアラブ諸国により一層の大規模軍事援助を与えます。
 
 
 主力のMiG-21はもちろんSu-7攻撃機、IL‐2軽爆撃機、さらには新鋭のMiG‐25さえ少数ながら与えました。これによってエジプト空軍は620機、シリア空軍は310機と再び大規模な航空兵力を整えます。さらにソ連はイスラエル空軍機に対抗するためにSA-2、SA-3、SA-6などの各種地対空ミサイル、ZSU-23‐4自走対空機関砲とそれを統制するレーダーをセットでアラブ側に送り込みます。その操作習熟のためにソ連軍事顧問団が実に1万5千人もアラブ入りしました。
 
 一方、石油を盾に脅されたフランスはイスラエルに対する兵器売却を控えるようになります。さらにフランスはイスラエルに対する兵器禁輸さえ決定しました。困ったイスラエルでしたが、中東におけるソ連の勢力拡大を好まないアメリカが軍事援助に乗り出します。
 
 イスラエル空軍は、新たにF-4EファントムⅡ戦闘爆撃機やA-4スカイホーク攻撃機など信頼性の高いアメリカ製航空機を導入していきます。加えてミラージュ5を基に独自にネシェル戦闘機を開発するなどこちらも着々と軍備を進めました。
 
 戦争開始時、イスラエル空軍はF-4E127機、A-4各型162機、ミラージュⅢCJ35機、ネシェル40機など合計550機保有していました。
 
 
 当時の新鋭機を集めたイスラエル空軍は、自軍のパイロットの技量に絶対の自信があった事も加えてアラブ側を侮る空気がたしかにありました。これは地上軍にも言えるのですが、第3次があまりにも鮮やかな勝利で終わったため慢心していたのでしょう。
 
 
 ですからイスラエル諜報機関モサドから「アラブ側に戦争の兆候がある」と報告されても国家のトップは信じなかったそうです。まもなくその慢心は手痛いしっぺ返しを食らいます。
 
 
 贖罪の日を狙ったアラブの開戦奇襲はシナイ半島とゴラン高原で同時に開始されました。油断していたイスラエル軍は大混乱に陥ります。空軍は直ちに発進しイスラエル領土(占領地)に入ったアラブ軍を叩こうとします。ところがアラブ側はこれに戦闘機で対抗せず、周到に準備されたソ連式防空コンプレックスで対抗しました。
 
 戦争初日でイスラエル空軍は30機以上の攻撃機を失うという痛手を受けます。戦争を通じたイスラエル空軍機の損失数は115機。数において劣勢のイスラエルにとってこの損害は耐えがたいものでした。
 
 しかし戦争が進むにつれ地対空ミサイルのカバーがないところではやはりイスラエル空軍の技量が勝りました。地対空ミサイルとて無限ではありません。アラブ側がそれを撃ち尽くすとイスラエル空軍の反撃が始まりました。結局戦争を通じてイスラエル軍は451機のアラブ側空軍機を撃墜します。これは空中戦だけではなくアメリカ製のホーク地対空ミサイルが大きな役割を果たしました。
 
 慌てたソ連は、アラブ側の損害を補填するため輸送船団を送り込み戦闘機や武器弾薬を補充しました。これを見ていたアメリカもイスラエルに緊急軍事援助を与えます。F-4EファントムⅡ48機、A-4スカイホーク80機以上、C-130輸送機12機、莫大な武器弾薬、さらには大量のAIM-9サイドワインダー空対空ミサイル、シュライク対レーダーミサイル、ウォールアイ滑空爆弾、マーべリック空対地ミサイル、各種電子戦ポッドなどの高性能兵器も援助物資に含まれていました。
 
 これにはソ連とアメリカの補給力の勝負という一面もあったのです。そしてアメリカは勝ちました。空中でも地上でもイスラエル軍は緒戦の混乱から立ち直りむしろアラブ側を押し返す勢いでした。
 
 
 結局アラブ側はこれ以上戦争を続けても損害が増えるばかりで得るものはないと悟ります。ソ連はアメリカのキッシンジャー国務長官をモスクワに招いて停戦の条件を話し合いました。アラブ側はもちろん、多大な損害を受けていたイスラエルも停戦条件を受託、戦争は終わります。
 
 
 第3次中東戦争当時、空体空ミサイルの信頼性はそれほど高くなく機関砲による撃墜数がまだ上回っていましたが、このころになると空戦の主役はサイドワインダーやスパローなど空対空ミサイルに完全にとって代わられていました。
 
 また地上攻撃も、アメリカ製の対レーダーミサイル、レーザー誘導爆弾など新兵器が中東地域に登場してくるようになります。
 
 
 結果論ですが、イスラエル空軍の装備がフランス系からアメリカ系に代わったのは近代戦に適応するためには大成功だったと言えるかもしれません。遮蔽物の少ない中東の地上戦、そして常に晴天が続くアラブの空はアメリカ製近代兵器が最も実力を発揮できる戦場でしたから。
 
 
 以後、アメリカ製兵器で固めたイスラエル空軍優位の状況は現在でも続いています。エジプトがイスラエルと講和した後急速にアメリカに接近しF‐16などアメリカ製戦闘機を導入し始めたのもヨム・キプール戦争の苦い教訓があったからでしょう。

中東戦争航空戦Ⅰ    6日間戦争

 6日間戦争とは日本で言うところの第3次中東戦争の事です。1967年6月5日から6月10日まで6日間で終わったため欧米では6日間戦争という呼び名が有名です。
 
 第3次中東戦争の航空戦は実質的にフランス製のダッソー ミラージュⅢCJが主役でした。もちろん開戦初頭の航空奇襲でアラブ側の航空機の大半を撃滅していたという事もありましたが、アラブ側の主力戦闘機であるMiG-21と似たようなコンセプト、すなわち軽量小型の機体に大推力エンジンを搭載し運動性重視の軽戦闘機でありながらミラージュのキル・レシオ(自機が1機撃墜される間に相手を撃墜する数)5:1という結果になった理由は何だったのでしょうか?
 
 開戦時、イスラエル空軍は
ミラージュⅢCJ戦闘爆撃機×72機(3個スコードロン)
シュペル・ミステールB-2戦闘爆撃機×18機(1個スコードロン)
ミステールⅣ‐A戦闘爆撃機×50機(2個スコードロン)
ウーラガン戦闘爆撃機×40機(2個スコードロン)
が主な兵力でした。
 
 一方アラブ側は主力のMiG-21だけでもエジプト空軍120機、シリア空軍36機、イラク空軍40機など総勢1000機を超える大兵力を持っていました。
 
 まともに戦ったら数の差で劣勢に陥るのは明らか。ですから戦争開始と同時に航空奇襲で敵基地を叩き戦闘機が発進する前に破壊したのは大正解でした。イスラエル空軍は戦争開始の最初の60時間でアラブ側戦闘機を450機も破壊したそうですから凄まじい。これに対しイスラエル側の損失は45機。それも大半は対空砲火にやられたもので空中戦での被害はわずか4機だけでした。
 
 これで制空権を握ったイスラエル軍は、アラブ軍を一方的に押しまくりシナイ半島全域、ゴラン高原、ヨルダン川西岸など実に国土の4倍とも言える広大な占領地を得ました。
 
 
 ですからミラージューⅢCJとMiG‐21の公平な評価はできないのですが一応機体の性能を比較してみます。
 
 運動性のバロメーターともなる推力重量比はミラージュが0.61に対しMiG-21は0.76とむしろMiGが上回ります。推力重量比は加速力に影響を与えこれが1を超えると垂直上昇できるのです。
 
 また翼面荷重も運動性に影響します。特に旋回性に。これは低いほど運動性が高くなります。ミラージュは295、MiGは218。
 
 
 見てみると両者は運動性ではほぼ互角、というよりわずかにMiG-21の方が勝るとも言えます。
 
 
 とすればこの一方的な勝敗の原因は別のところにあったのでしょう。一つはミラージュの火器管制装置の信頼性の高さ。そしてもう一つの大きな要素としてイスラエル空軍パイロットの技量の高さ。
 
 
 イスラエル空軍の訓練はアメリカ海軍の訓練方法を取り入れ実戦的なものだったそうです。飛行時間も長くおそらく当時(もちろん現在も)世界有数の技量をもっていました。
 
 一方、アラブ側はソ連式の硬直した訓練方法を取り入れ地上のレーダー管制に従った機動しか許されていませんでした。これはベトナム戦争では有効な方法でしたが、技量差の大きいイスラエル空軍パイロットにとっては良いカモでした。
 
 
 エジプト空軍は、自軍の訓練方法に疑問を持ちソ連の軍事顧問団と衝突したほどだったそうです。両者の技量差を示す実例として、イスラエル空軍ではミラージュだけではなくウーラガンやミステールのような旧式機さえMiG-21の撃墜記録を持っていました。
 
 また使用するAAM(空対空ミサイル)の性能差も大きかったと思います。イスラエル軍ではこのころアメリカ製のAIM-9サイドワインダーと自国開発のシャリフを使用していました。一方アラブ側はサイドワインダーのデッドコピーであるR-3(AA-2アトール)。さすがにパクリ品だけに信頼性はサイドワインダーの方が上でした。
 
 イスラエル軍パイロットの報告では、敵機が自機の背後に着き一瞬危ないと思った場面でも、敵機がミサイルを発射せず助かった事が何度もあったそうです。発射の瞬間何らかのトラブルが発生したのでしょう。
 
 
 機体の信頼性、パイロットの技量、ミサイルの性能すべてにおいてイスラエル軍が上回っていた事が6日間戦争(とその後の消耗戦)圧勝の理由でした。
 
 このためアラブ側は戦略の再構築を余儀なくされます。次回はアラブ側の反撃と慢心による油断で苦戦するイスラエル、すなわちヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)における航空戦を描きます。

ベトナム航空戦Ⅱ    書き忘れた事など

 前記事で端折りすぎて書き忘れた事があったので補足的に記事にします。なんでこんなに間が開いたかというとその間世の中で色々な事があったからなんですね(笑)。
 
 ベトナム戦争は現代電子戦の走りともいえる戦争であったという事は前記事で書きました。色々調べていくと「えっ、こんなものまでベトナム戦争が最初なの?」と驚かれると思います。
 
 
 
◎まずはソ連の全面支援を受けた北ベトナム軍のほうから
 
◆防空コンプレックスとコンピュータ
 
 レーダーで統制し対空機関砲やミサイルを発射して敵航空機を撃滅する方法は昔からありました。ところがベトナム戦争では85㎜など第2次世界大戦中のような大口径高射砲が米軍のジェット戦闘機を撃墜しています。
 
 手動装填式の火砲でどうして音速を超えるジェット機を撃墜できるのか疑問に思われる方も多いと思います。これら高射砲はジェット機の登場と共に退役したという印象が強いでしょう。弾道計算と目標の飛行速度を連動し正確な射撃をしないといけないからです。実はそれを解決する方法として導入されたのがコンピュータです。
 
 レーダーと連動したコンピュータによって一瞬で射角計算し正確な射撃ができるようになったのです。
 
 
◆個人携帯地対空ミサイル
 
 実は低空を飛行するヘリや低速の輸送機ならRPG-7のような無誘導の対戦車ロケットでも撃墜できるんです。アフガンやチェチェンでもそのような実例がありますよね。加えて航空戦で劣勢の北ベトナムは赤外線ホーミングのソ連製SA-7を導入しました。最大射程で3~4km。ますます米軍機の被害は続出します。
 
 
 
 
 
◎これに対しアメリカは当時から技術の最先端を行っていました。
 
◆チャフ・フレア
 
 名前くらいは聞いた事があるでしょう。レーダーと連動したソ連式防空コンプレックスに苦しめられた米軍の対抗手段がこれです。チャフとは電波を反射する物体を空中散布し一時的に敵レーダー探知を妨害する防御兵器です。初期(第2次世界大戦時)には銀紙がつかわれました。最近ではプラスチックフイルムやワイヤーにアルミを蒸着されたものが使われています。
 
 チャフはレーダー探知やレーダー誘導のミサイルに対しての対抗手段でしたが、赤外線ホーミングのミサイルにはフレアが使われます。名前からだいたい想像できると思いますが、これはマグネシウムなど燃えやすい金属を射出し排気口から出る赤外線と同じ周波数帯になるように燃焼させて敵ミサイルを欺瞞する兵器です。
 
 
◆電子戦ポッド
 
 チャフやフレアは一時的な無力化にすぎませんでした。そこで米軍はレーダー警報装置(RHAW)やALQ-71、ALQ-87のような各種ジャミング装置を開発、実戦投入します。これらは敵レーダの探知を妨害したり、妨害電波でレーダーそのものを壊したり、レーダーホーミングを狂わせたりと様々な局面で活躍しました。
 
 F-105サンダーチーフが被害を続出しながらも実戦に投入され続けたのは6.7トンと搭載力に余裕があり第2次大戦期の軽爆以上の能力を持っていたからです。もともと核を搭載し敵地を核攻撃する戦闘爆撃機として開発されたサンダーチーフは爆弾・電子線ポッド・空対空ミサイルと用途に合わせて様々な搭載バリエーションを持っていました。サンダーチーフの出現が軽爆を一気に旧式化したと言われる所以です。
 
 
◆レーザー誘導爆弾
 
実はこれもベトナム戦争デビューです。単機でも編隊でも使用でき、先頭の機体が地上目標にレーザー照射し、爆撃任務機はその目標に爆弾のシーカーを向けて投下すると数十センチの誤差で命中するという現在のスマート爆弾の走りでした。それまでの自由落下式の通常爆弾とは比べ物にならない高命中率で一説では90%以上とも言われる画期的兵器でした。
 
 
 
 1960年代から70年代にかけて現代に通じる技術を使用して戦争していたんですからアメリカ恐るべしです。まだまだ日本の防衛体制は甘いと言わざるを得ません。

ベトナム航空戦Ⅰ    近代電子戦の萌芽

 ベトナム戦争は現代までつながる電子戦の萌芽であり最初の大規模戦闘だったと思います。レーダーを使用した空対空ミサイル戦闘もそうだし、レーダーを中心にSAM(地対空ミサイル)対空機関砲を組み合わせたソ連式防空コンプレックスを巡る攻防もそうだったと考えています。
 
 
 最初に言葉の定義から。電子戦とはウィキによると「電磁波にまつわる軍事活動」だとされます。ここでレーダーは電波だから電磁波と違うと思われる方も多いでしょうが、電波とは30Hz から 3THz の電磁波を意味し超低周波・超長波・長波・中波・短波・超短波・マイクロ波と細分化されますから電磁波で間違いありません(笑)。
 
 
 ベトナム戦争といえば赤外線ホーミングのサイドワインダー(AIM‐9)が本格的に投入された戦争でした。サイドワインダー自体は1958年の中台紛争で台湾空軍がアメリカから供与されたサイドワインダーをF-86セイバーに積んで戦闘したのが使用された最初ですが、人民解放軍は不発だったサイドワインダーを回収しソ連に送ります。
 
 ソ連は、これをもとにR-3(NATOコード AA-2アトール)ミサイルを開発しました。全くのデッドコピーですが、これがソ連のミサイル技術発展を促したのですから歴史の皮肉です。
 
 
 
 戦争当初まともな空軍を持たなかった北ベトナムに対し、米軍は空爆を繰り返し我が世の春を謳歌していました。しかし北ベトナムはソ連式のレーダーとSAM各種対空砲を組み合わせた防空コンプレックスで対抗します。
 
 とくにレーダー統制式の対空機関砲の有効射程内である高度1500mまでは被害が続出しました。低空飛行の方が爆撃精度は上がるのですがあまりにも北ベトナム軍を舐めすぎていたと言えるでしょう。
 
 
 中高度以上を飛行して空爆しにきた米軍にたいし、北ベトナム軍はついにソ連から供与されたMiG‐15、MiG-17戦闘機を投入します。これらは米軍機に対し10年以上も前に開発された旧式ですが、要撃戦闘に特化した機体だけに重い爆弾を積んでよたよたと飛行する米軍機にとっては脅威となりました。
 
 
 おかげでマッハ2級の新鋭戦闘機であるF-105サンダーチーフが、マッハ1級のF-100スーパーセイバー戦闘機に護衛されるという屈辱に甘んじなければなりませんでした。
 
 
 もちろん爆弾を投棄すればサンダーチーフの方が有利に戦えましたが、北ベトナム軍としては空爆をさせなければ作戦目的は達せられたのでこれで良かったのです。MiGは米軍が爆弾を投棄するのを確認するとさっさと逃げ出したそうです。
 
 
 戦争が続くにつれ北ベトナム軍の防空体制はより巧妙になってきます。ダミーの防空陣地を設け米軍機が上空を避けるように仕向けダミー陣地がない空路に欺瞞された本当の防空陣地を構築していました。これには米軍もかなり被害を出します。
 
 
 業を煮やしたアメリカは、防空陣地攻撃専用機F-105F/Gワイルド・ウィーゼル機を投入しました。ワイルド・ウィーゼルとは「地対空ミサイルの発見及び制圧を専門とする航空機の初めての開発計画であった【ワイルド・ウィーゼル計画】に由来」する機体です。
 
 F-105ワイルド・ウィーゼルはAGM-45シュライク対レーダーミサイルを搭載していました。これは敵のレーダー照射を感知してホーミングするミサイルです。おかげで北ベトナム側はワイルド・ウィーゼルを確認するとレーダー照射をやめました。
 
 
 米軍としては、対空陣地は破壊できなくてもSA-2対空ミサイルを一定時間発射させなければ良かったのです。その間安全に空爆できるようになりますから。
 
 
 
 ところが北ベトナム軍もさる者で、空爆にくるF-105とワイルド・ウィーゼルのF-105の空中給油の高度が違うのを発見し見分けるようになりました。すると米軍はわざとワールド・ウィーゼル機を通常機の高度で空中給油させ北側を騙す作戦に切り替えます。このあたりキツネとタヌキの化かし合いで面白いですね。
 
 
 
 そんな中、1965年後半北ベトナム軍はついにソ連製の新鋭機MiG-21フィッシュベットを投入し始めました。この格闘戦に特化した戦闘機に対し、米軍で対抗できるのは爆弾を搭載しないサンダーチーフと新鋭のF-4ファントムⅡだけでした。
 
 
 とくにファントムは、セミアクテイブ・レーダーホーミングのAIM-7スパローAAM(空対空ミサイル)で近距離攻撃能力しか持たないMiG-21を圧倒します。セミアクテイブ・レーダーホーミングというのはレーダーを命中するまで敵機に照射し続けなければなりませんが当時としては画期的なミサイルでした。敵の射程外から攻撃できるからです。
 
 
 北ベトナム軍はこれに対し、防空レーダー管制を駆使しMiG‐21を敵編隊の後方から急上昇させ一撃離脱で襲いかかる戦術を取り始めました。こうなるとファントムは予期しない格闘戦に巻き込まれるため苦戦します。特にミサイル発射母機と割り切り自前の機関砲を搭載していなかったファントムは不利でした。
 
 米軍は、これ以後ファントムにM-61A1 20㎜バルカン砲ポッドを胴体下に搭載するようにしました。
 
 
 
 最終的に米軍戦闘機のキルレシオは5:1(自機が1機やられる間に敵を5機撃墜する)に落ち着きます。この数字を高いと見るのか低いと見るのか?
 
 私は貧弱な空軍戦力しか持たない北ベトナム軍はよく頑張ったと評価しています。同じような武器を装備していた中東戦争のアラブ諸国に比べると凄いのではないでしょうか?
 
 
 アメリカとイスラエルでは戦力的に段違いですし、アラブ諸国のキルレシオはたしか二桁じゃなかったですかね?むろん悪い数字の方がアラブ諸国ですが…。
 
 
 その意味ではベトナム人というのは戦争に強い民族なのかもしれませんね。支那はあまり侮らないほうがいいですよ。実際中越紛争でも痛い目に遭ってるわけだし…。

現用航空ターボファンジェットエンジン一覧

Jettoenjin

 まだレシプロエンジンも完全に把握してないのでジェットエンジンに進むのは気が引けるのですが一応調べたので載せておきます。
 
 なお単位をN(ニュートン)に統一していますが、資料によって誤差があるのとkgf(重量キログラム)単位のものは分かりやすいように1kgf=9.8Nで計算してますので若干市販のデータと違うかも?
 
 まあだいたいこんなものだと考えてくださいな。
 
 
 さすがに、F119やF135はドライ推力(ジェットエンジンがアフターバーナーを使用しないで発揮できる最大推力。ミリタリー推力ともいう)が100kN超えているんですから凄いですね。
 
 三野正洋さんの本「続戦闘機対戦闘機」によるとF-22ラプターの推力重量比(高いほど加速度が速くなる。1を超えると垂直上昇できる)は1.38でおそらく現用戦闘機では一番高いと思います。
 
 
 日本が将来国産戦闘機を開発するとして最大の弱点がこのジェットエンジンなんです。せめてF110-GE-129程度の推力は欲しいですね。あまりに推力が低いと機体を小型化しなくてはならず満足な性能にはならないでしょう。
 
 
 以上、知識のある方には当たり前、興味のない方にはチンプンカンプンの記事でした(苦笑)。

遠心式スーパーチャージャ-の仕組み

 航空機用レシプロエンジンの世界は奥が深いです。調べれば調べるほど面白い。メカに詳しい方には自明の理ですが私のような素人はとても興味深いです。
 
 遠心式スーパーチャージャー(機械式過給機)の動きって面白いですね。それを図解もなく文章だけで知識のない方にも理解できるように書くのは至難の業ですが、頑張って書いてみます(笑)。
 
 空冷星型エンジンの場合スーパーチャージャーのインペラー(羽根車)はエンジンにほとんど隣接しています。吸気の加圧に用いられるインペラーは分かりやすく書くと洗濯機の底に付いている丸い羽根(ただしもっとそそり立っている)みたいなものです。
 
 まず外気はフィルターを経てダクトを通ってインペラーまで導かれます。インペラーはエンジンのクランクシャフトから動力を得ますが、ここで空気は圧縮されます。インペラーまで送られる段階で気化器を通じてガソリンと混ぜられ混合ガスとなっていますから加圧した状態でシリンダーに送りこまれます。
 
 注意しなければならないのは、インペラーは離陸時と高空では高速回転、通常運転では低速回転と切り替える必要がある事です。インペラーの回転数を制御するためには低速用と高速用の2種類の歯車をギアチェンジしなければなりません。これが2速式です。
 
 
 一方、段というのはインペラー自体の数で、2段式なら低空用と高空用の2枚のインペラーを持っている事になります。ですから1段2速より2段2速の方がより高空性能が高いという事になります。1段目の過給機で圧縮された空気は高温高圧になる性質があるので途中にインタークーラーを挟んで一旦冷やし2段目の過給機に導く事でさらに効率良い圧縮空気(ガソリンと合わせて混合ガス)をシリンダーに送り込む事が出来るのです。
 
 
 実はアメリカのリパブリックP-47サンダーボルトの排気タービンの仕組みを調べて行くうちに理解が深まったというわけですよ(笑)。
 
 排気管から出された排気ガスのエネルギーを利用してタービンを回しその回転力で遠心式圧縮機(コンプレッサー)を動かして過給する排気タービン(ターボチャージャー)もそれだけでは十分でなく、さらにインタークーラー、2段目のスーパーチャージャーを通さなければ高い過給能力は得られません。
 
 という事でいかに排気タービン搭載機といえども2段目の過給機は機械式過給機を装備しているのが普通です。
 
 
 
 どうですか理解が深まりましたか?興味のない方にはまったくチンプンカンプンな記事でしたね(汗)。しかも私も素人だけに完全に理解しているとは言えないのが難点です(爆)。詳しい方、色々アドバイスくださいな♪
 

第2次世界大戦 主要航空機関銃/機関砲一覧  (未完) 

Kikanhou

  相変わらずのマニアック記事で申し訳ない。以前の飛燕の記事で日本の20ミリ機関砲とドイツのマウザー砲(MG151)で威力が違うという事を書きましたが、それがどのくらいか調べてみました。
 
 弾の威力は、(初速×初速×弾丸重量)/2000で算出できるといいます。単位はJ(ジュール)。外国の機関砲はデータが揃わなかったので不完全ですが、マウザー砲と日本のものとの比較はできるかと思います。
 
 威力という項目がそれですね。ただしこれは1発の威力で機関砲というのは発射速度があるので単純には比較できません。
 
 ところで、データには発射速度を毎分○○と表記されます。しかし機関銃/機関砲は装弾数がせいぜい200~300発で1分間撃ち続けることはできません。そこで最大公約数的に10秒間の発射弾量で比較してみました。
 
 マウザー砲は10秒で392万J、一方日本の99式1号は193万J、ホ5でも285万Jしかありません。海軍の99式は改良を重ねられて2号銃になりますが、それでもやっと300万Jでしかありません。2号銃5型でようやくマウザー砲を超えますが、これは烈風装備の機関砲ですので実戦では使用されていません。
 
 それよりも驚くべきはアメリカのブローニングM2で12.7㎜にもかかわらず威力が20㎜の99式1号より上の289万Jもあります。これは陸軍のホ5より上なんです。弾道の直進性などを考えると恐るべき威力と言わざるを得ません。
 
 
 航空機関砲の威力は、単純に口径だけでは分からないんだなと改めて理解できました。
 
 
 
追伸:
 ドイツ空軍のフォッケウルフFw190A型はこのMG151 20㎜機関砲4門とMG131 13㎜機銃を2挺装備という恐るべき重武装でした。
 
 これがB‐17とB‐29の機体性能差はありますがドイツ空軍のB‐17撃墜率の高さ(10%以上)に繋がっているんでしょうね。
 
 日本軍パイロットの証言でB‐17は20㎜機関砲を撃ち込んでもなかなか火を吹かなかったそうですが、MG151ならもっと短時間で撃破できたでしょう。

日本の主要航空エンジン  性能諸元、生産数など

Enjinseisan

 表の通りなんで分かる人には分かるし分からない人にはチンプンカンプンなんですが(苦笑)、一応補足説明しておくと2速全開出力・高度というのは、遠心式スーパーチャージャ(機械式過給機)で2速の時の出力と、2速に切り替える高度の事です。
 
 これが高高度性能の一つのバロメーターで、出力は大きいほど良く、2速高度も高いほど性能が良いと言えます。
 
 
 こうしてみてみると、金星60系の生産数はわずか3700あまり、これでは彗星艦爆33型、キ102、五式戦、百式司令部偵察機でいっぱいいっぱいで零戦54型に回す余裕はなさそうですね。零戦54型を量産するよりは紫電改をもっと増産するほうがましですし…。
 
 欲を言えば栄のラインを減らして誉にもっと移す、火星のラインを増設するのが理想でした。あくまで資料が無いので机上の空論ですが。
 
 調べてみると栄は昭和20年まで生産してます。これは無駄でしょう。18年くらいで打ち切って火星と金星を増産すべきでしたね。誉はまだできてないから増やせませんが…。
 
 
 あと火星を18気筒化したハ42(四式重爆飛龍のエンジン)は、もっと増産しても良かったかも?これは発動機生産工場のラインの関係も調べないといけないので軽々な事は言えませんか。
 
 
 液冷でハ140が99+となってるのは生産数が不明だからです。ハ140搭載の飛燕Ⅱ型改が99機生産ですから少なくてもここまでは生産しています。ただそれ以上はないと思います。というのはハ140の生産が絶望的だったから金星62型に換装した五式戦闘機ができたわけですからね。
 
 
 ちなみに飛燕Ⅱ型改は高度10000mで唯一編隊を組めた機体だそうです。大量生産されたらもっとましな戦い方ができたでしょうが、それが出来ないから負けたわけで…。ハ140程度のエンジンさえ量産できないんですからね(嘆)。
 
 
 ちなみに英国の誇る液冷エンジン、マーリンは、アメリカのバッカードのライセンス生産分まで含めると168000基、う~ん桁違いです。ドイツのDB601、605の生産数は分からなかったんですが空冷のBMW801でも81000基生産、怖ろしすぎますね。

ニューギニア戦線における三式戦闘機「飛燕」戦闘機隊

Hien

 1941年12月8日真珠湾攻撃で開始された対米戦。緒戦の快進撃は1942年6月5日のミッドウェー海戦の敗北で頓挫し、1942年8月には早くも米海兵隊がガタルカナル島に上陸、日米両軍はソロモン諸島の支配権を巡って泥沼の消耗戦に突入していました。
 
 もともと日本海軍のガ島進出は、米豪連絡線を遮断しオーストラリアを戦争から脱落させる目的でしたが、その一環としてニューギニア島を攻略し連合軍の一大航空基地ポートモレスビーを攻略するため1942年3月7日、東部ニューギニアのサラモア、ラエに日本軍は上陸していました。
 
 最終的に同地に展開した日本陸軍は20万にもおよび、その上空支援のために第6飛行師団が編成されました。当初陸軍航空隊はラバウルの海軍航空基地を間借りして展開していましたが、ニューギニア北部沿岸地帯を地上部隊が占領すると、1943年4月ニューギニア北部ウェワクに移動します。
 
 第6飛行師団は、戦闘機部隊として第1戦隊、第11戦隊を持っていました。ところが装備する一式戦闘機隼が、米軍のロッキードP-38ライトニングに対抗できず非常な苦戦をします。
 
 高速で一撃離脱戦法に徹するP-38を、隼では捕捉できないのです。敵が格闘戦に付き合えば運動性の高い隼は十分勝機がありましたが、パワーダイブで逃げられると手も足も出ません。脆弱な機体の隼では、無理に追いかけても空中分解するのがオチでした。
 
 当時空戦でP-38に対抗できるのは二式戦闘機鍾馗だけでしたが、こちらは航続距離が短く侵攻作戦には不向きでした。
 
 そこで、陸軍はより高性能でそこそこの航続距離がある新鋭戦闘機、三式戦闘機飛燕のニューギニア投入を決断します。
 
 しかし、飛燕はようやく航空審査部での試験を終えたばかりでぼつぼつ量産体制に入っていた所でした。ドイツ製ダイムラーベンツDB601をライセンス生産したハ40液冷エンジン(離昇出力1175馬力)を搭載した飛燕は、非常にデリケートな機体でした。
 
 わりあい乱暴に扱っても大丈夫な空冷エンジンと違い、液冷エンジンは冷却液の液漏れでも致命傷になってしまいます。ニューギニアのような過酷な戦場では十分な整備体制もとれずまともに稼働するかどうかも危惧されていました。
 
 しかし軍上層部は、関係者の反対を無視し戦局を挽回するため強引に飛燕のニューギニア派遣を決めたのです。
 
 1943年3月第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の飛燕装備部隊として満洲で編成されました。九七式戦闘機や隼のような運動性重視の軽戦闘機に慣れていたパイロットたちは勝手の違う戦闘機に戸惑います。また初めての液冷機を扱う整備陣にとってもそれは同様でした。しかもただでさえ新鋭機は故障が多いものです。部隊長は軍上層部にもう少し錬成の時間をくれれば戦力として使い物になると意見具申しますが、戦局の悪化で余裕の無くなっていた上層部はこれを拒否、直ちにニューギニアへの移動を命じました。
 
 部隊はまず空母でトラックに運ばれ、そこからラバウルまで長距離飛行の訓練も兼ねて空中移動する運びとなります。しかし洋上飛行に慣れない陸軍機は水先案内の大型機がなければとても目的地到着は難しいのです。
 
 ところが68戦隊を先導するはずの一〇〇式司令部偵察機が故障し発進できないというトラブルが発生します。
 
 ここで出発を延期する事も出来ましたが、戦場で苦戦する友軍を考えるととてもそんな事ができる余裕はなく、戦隊長下山中佐は、先導機なしで発進させました。
 
 そしてやはり慣れない洋上飛行でコースを外れ次第に東にずれだします。しかも最悪な事に無線機が故障していたため戦隊がコースのずれに気付いたのはかなり後でした。
 
 飛燕は、トラックからラバウルに移動するのがぎりぎりの航続距離で、コースのずれは致命的でした。燃料切れで次々と洋上に不時着し先発隊12機のうち10機を失うという大事故になりました。遭難者の捜索も広い洋上で困難を極め3名のパイロットが未帰還者となってしまいます。飛燕戦隊の未来を暗示させる悲劇でした。
 
 
 様々な困難を経験しつつ、飛燕戦闘機隊はまずラバウルを根拠地に作戦を開始します。第6飛行師団の稼働戦闘機数は80機、そのうちわずか20機が飛燕でした。(残りはすべて隼)。一方、東部ニューギニアを担当する米第5航空軍は1943年5月当時で作戦機750機を数える大軍でした。日本軍第6飛行師団は爆撃機を含めてもわずか283機、実質的な戦力差は3倍もありました。
 
 飛燕は、カーチスP-40に対しては有利に戦えましたがやはりP-38にはようやく互角、数の上での不利を考えると依然劣勢でした。稼働率も当初予想されていた通り資材がそろわず整備陣の必死の努力にもかかわらず落ち込む一方でした。
 
 一時期は、稼働機6機という惨状まで経験します。
 
 
 6月に入ると先発していた第68戦隊に続き、満洲で錬成を終えた第78戦隊がようやくニューギニアに到着しました。
 
 68戦隊、78戦隊を擁する第14飛行団はウェワクに展開し、すっかり消耗しきった第12飛行団(1、11戦隊)は再編成のため内地経由で満洲に戻ります。
 
 ウェワクを発進し地上部隊支援や重爆の護衛ミッションをする時もあれば、飛行場に来襲したノースアメリカンB-25ミッチェル、ロッキードP-38ライトニングの戦爆連合との死闘もありました。
 
 数で劣勢な飛燕戦闘機隊は苦戦の連続でしたが、それでも必死に戦い続けます。10月、米軍は新鋭のリパブリックP-47サンダーボルト戦闘機を擁する第348戦闘航空群をニューギニア戦線に投入してきました。
 
 ところが日本軍パイロットの証言では、最初は意外と戦いやすい相手だったそうです。というのも機体性能に自信のあるサンダーボルトはパワーダイブで逃げず格闘戦に付き合ってくれたからです。さすがに中盤以降は、P-38に習ってパワーダイブで逃げるようになったそうですが…。
 
 
 苦しいばかりの戦場で、日本軍にも良い事がありました。ドイツから輸入したマウザー(モーゼル)MG151 20㎜機関砲が到着したのです。MG151は、捕獲したアメリカがコピーしようとして失敗したほどの優秀機関砲で威力も大きく何よりも故障しにくいという利点がありました。
 
 わずか800門の輸入でしたが、陸軍は優先的に飛燕に装備させることに決定します。これが飛燕1型丙ですが、先行生産された1型甲、1型乙もマウザー砲を搭載すべく改修されました。マウザー砲搭載型飛燕は1944年7月までに388機生産されます。
 
 マウザー砲の威力をみたパイロットは、「これならB-17も1発で撃墜できる」と感嘆したそうです。
 
 
 しかし、このレベルの20㎜機関砲を開発できないのが技術力の低い日本の弱点で、マウザー砲の代わりに航空機搭載すべく開発されたホ5 20㎜機関砲はマウザー砲に比べるとかなり威力が劣ったそうです。
 
 
 マウザー砲搭載型飛燕は、ニューギニアの戦場にもぼつぼつ到着してきました。実戦での威力は絶大で双発のB-25なら1発、大型の4発重爆B-24でも数発当てれば空中分解させられたそうです。
 
 ただマウザー砲装備のわずかな飛燕だけで戦局がひっくり返されるほど甘くはなく、増強される一方の米軍航空部隊の前に苦戦は続きました。
 
 1944年3月に入ると日本軍の劣勢は明らかとなります。4月米海軍第58任務部隊の艦載機群によってホーランジャが大空襲され第6飛行師団の装備機はほぼ全滅しました。間もなくホーランジャに米軍が上陸、装備機を失った陸軍航空隊は山中に立て籠って抵抗します。
 
 7月25日、もはや戦力再建の可能性はなく参謀本部は第14飛行団および68、78両戦隊の解散を命じました。
 
 
 解散命令から2日後の7月27日、第68戦隊の生き残りわずか3機の飛燕が100機以上の米軍航空隊に戦いを挑み玉砕しました。これがニューギニアにおける飛燕戦闘機隊最後の戦いです。
 
 
 以後航空隊の生き残りはジャングルを彷徨し、あるいは餓死、あるいは病死し、撤退する地上部隊と合流できたわずかな数が現地自活で何とか生き延びました。
 
 
 
 補給能力の限界を超えたニューギニアの過酷な戦場、その中で苦闘を続けた飛燕戦闘機隊。絶望的な戦況でも戦い続けた彼らには頭が下がります。
 
 
 一方彼らを地獄の戦場に追いやった国家指導部は反省しているのでしょうか?環境を整えるはずの彼らに戦争のグランドデザインが無かった事が一番の悲劇だと思います。
 
 
 竹島、尖閣問題を見るにつけ現在の日本政府もいき当たりばったりの対応をしているにすぎません。当時の国家指導層と全く同じなのではないでしょうか?確固たる信念に基づいた国家戦略、これなくしては外交も戦争もままならないのです。

四式戦闘機疾風と稼働率の話

Hayate

 先日、第2次大戦中陸軍の飛行第47戦隊整備隊に属していた人の手記を読んでいたんですが47戦隊では四式戦疾風の稼働率が100%近かったという事。
 
 戦史に詳しい方か大戦機好きの方はご存知ですが、搭載エンジンハ45(誉)の不調から稼働率が低いイメージのある疾風で100%近いというのは驚くべき数字です。
 
 そこで当時疾風の稼働率はどれくらいあったのかを調べてみると平均で40%くらいだったそうです。
 
 
 意外にあるって思いませんか?というのは隣国韓国のF-15K(通称キムチイーグルwww)は30%しかないんです。資料によっては50%ともありますがこれは韓国が吹いている可能性大。マンホールに撃墜された経験のあるキムチイーグルですから30%程度が妥当でしょう(苦笑)。ちなみにKF-16は5~60%くらいだそうです。
 
 我が日本航空自衛隊はなんと90%ほど。これは世界平均からいっても驚くべき数字(良い意味で!)です。米空軍の平均が70%。米軍の場合は空自と保有機数が一ケタ違いますからこのくらいでしょう。米海軍は60%意外と低いですね。
 
 
 普通は保有機数が少ない方が整備に目が行き届けるので稼働率は高くなるはずと素人考えでは思うんですが、国民性もあるかもしれませんね。台湾空軍は80%だそうですから日本に近いです。勤勉な国民かどうかというのも稼働率に影響するかもしれません。
 
 
 途中で脱線しましたので本題に戻します(汗)。
 
 
 誉エンジンは二千馬力級エンジンとしては世界一投影面積が小さい(直径1180㎜)ですがその分デリケートで稼働率が低いという欠点を持っていました。
 
 誉を搭載した疾風もまともに動けば当時世界トップクラスの性能だったと言われています。47戦隊ではそれが稼働率100%、別資料では87%とありこれでも高いです!平均して90%前後はあったでしょう。
 
 
 実際、疾風を駆ってアメリカのP-51マスタングを中心とする18機以上を撃墜した若松幸禧のようなエースパイロットも出ていますし。彼の疾風はスピナーが赤かったことから「赤鼻のエース」と呼ばれていたそうです。85戦隊第2中隊長機はスピナーと垂直尾翼前縁を赤く塗っていたらしい。
 
 
 ところで整備ですが、冒頭の47戦隊整備班の人の話だと疾風は前に装備していた二式戦鍾馗より整備しやすい機体だったそうです。47戦隊では、整備班長刈谷中尉を中心に
 
①機体受領時に整備点検、
②50時間飛行後戦闘に出す、
③20時間ごとにチェック、
④80時間でプラグ交換、
⑤400時間でオーバーホールと徹底していたそうです。
 
 これなら高い稼働率も納得ですね。整備の人の感想ですが、疾風は確かにデリケートな機体だが全体的に稼働率が低かったのは整備の質が悪かったのではないか?と疑問を呈しています。
 
 冷静に考えると、エンジン全体が悪いのなら90%近い稼働率の部隊が出現するはずありませんものね。パイロットの質の低下と同様整備士も質が低下していたのでしょう。また大戦末期には整備資材もそろわなかったそうですから稼働率はさらに低下しました。稼働率が高いイメージがある零戦でも末期は50%まで低下していたそうですよ。
 
 
 量産機疾風は、まともな状態なら660km/h出たという証言もありますし再評価しなければいけませんね!

一式戦闘機隼の主翼構造

Hayabusa_2

 第2次世界大戦中の日本陸軍主力戦闘機、一式戦闘機隼。九七式戦闘機譲りの高い運動性で大戦初期大活躍をするも、米英が新鋭戦闘機を投入してくると貧弱な武装が祟り次第に劣勢を余儀なくされます。
 
 ただ運動性が高いため「(敵を)落としにくいが(自分も)落とされにくい」という妙なポジションの機体となりました。機体を自在に操る事が出来るベテランパイロットは生存性が高いことから意外に好まれていたともいいます。
 
 
 隼の初期武装は機首上面の7.7㎜2挺のみ。さすがにこれでは攻撃力不足なので12.7㎜2門に強化されました。しかし主翼の構造から翼内機銃を装備できないという弱点がありました。
 
 隼に関する本を読んでいると、主翼が3本桁構造だったので翼内装備できなかったとあります。最初私はこれが理解できませんでした。
 
 ちなみに、桁というのは主翼の骨組みで主翼を貫くように横にのびる構造材です。横から見るとIの字状になっています。通常桁は1本か2本。それが隼は3本なのです。3本なら頑丈なので機銃装備するのも容易ではないか?と素人考えで疑問に思ったんです。
 
 ですが、三面図と内部図解をみて謎が氷解しました。他の機体のそれと比べると分かりますが隼の主翼は薄いんですよね。ですから3本桁で補強しなければならなかったわけです。
 
 運動性を上げるためには機体を極限までスリムにしなければなりませんが、その分主翼構造も薄くする必要があったのでしょう。同時期に出現した海軍の零戦は翼内装備していますが20㎜機関砲の発射の際振動で命中率に影響があったという話も聞きます。エリコン社製で初速が遅いというだけではなく主翼構造上も問題があったのかもしれません。
 
 
 陸軍は当初、格闘戦重視で武装強化をそれほど考えていなかったことが隼の要求に現れていたのだと思います。しかし時代は重武装、高速化、一撃離脱戦法という重戦闘機全盛の時代に入っていました。それが隼の悲劇に繋がったのです。

水メタノール噴射とインタークーラー

 これまで何回かのシリーズで、航空機用エンジンの肝は過給機だという事を述べてきました。機械式過給機(スーパーチャージャー)であれ排気タービン(ターボチャージャー)であれ、この能力が優れていなければ高高度性能が良くなるはずもありません。
 
 高度1万メートルを飛来するB29を初めとする四発重爆を迎撃するには、過給機で薄くなった空気を圧縮しエンジンに送り込み、混合気の燃焼効率を高めてある程度のエンジン出力を維持しなければなりません。
 
 
 理想的には、敵重爆より高度を取り逆落としで銃撃を加えそのまま急降下で抜ける一撃離脱戦法が最も有効な戦術でした。これだと護衛の敵戦闘機も対応する時間が限られてしまいます。
 
 
 しかし現実はそう甘くありません。ターボチャージャー付きライト R3350(2200馬力)4発のエンジンを持つB29は、高度1万メートルを576km/hという高速で飛ぶ事が出来ます。しかも与圧キャビンで搭乗員の負担も少なく、よたよたで上がってくる日本機を容易に駆逐できました。
 
 
 日本軍戦闘機はほとんどが空冷エンジンです。液冷エンジンよりもさらに高度の影響を受ける空冷エンジンは、優秀な過給機なしにはまともに高高度で活動できませんでした。
 
 空冷エンジンで最も困るのはシリンダーの過熱でした。水密空間にシリンダーを閉じ込め冷却液で均等に冷却する液冷エンジンと違い、空冷エンジンはどうしても冷却にむらができます。これをホットスポットというらしいですが、ほうっておくとその部分からエンジンが過熱して溶け出し火災が起こるのです。パイロットはそれを避けるために常にエンジンの温度に気を配り、出力を絞らなければなりませんでした。
 
 これでは高高度でB29を有効に迎撃できませんよね。高高度性能の高い空冷エンジンというと以前紹介したBMW801Jがありますが、おそらく日本の技術ではこのレベルのエンジンは製造できなかったでしょう。
 
 ドイツ空軍も、わざわざBMW801J搭載のFw190を作るよりは、Me262のようなジェット機を量産するほうがましでした。実は上の有効な戦術はまさにMe262が得意とするものでした。
 
 
 前置きが長くなりましたが、高高度で有効に働くエンジンには優秀な過給機が必要だとお分かりになったと思います。そしてその過給機の能力を決める重要な要素に「水メタノール噴射」と「インタークーラー」があります。
 
 
 過給機を上げればエンジン出力も上がりますが、空気は圧縮されると高温になる性質があるため何らかの手段で温度を下げてやらなければなりません。さもないとエンジンが過熱して危険な状態に陥ります。
 
 その対策の一つが水メタノール噴射です。これは過給機で断熱圧縮された吸気に噴射して熱を下げる方式で水にメタノールを混ぜるのはそのほうが冷却効率が高いからです。また高高度で凍結を防止する意味もありました。気化熱で温度を下げる仕組みです。
 
 ノッキングが抑制され高いブースト圧で運転でき、だいたい100馬力~150馬力くらいの出力向上効果があったと伝えられます。
 
 
 一方、インタークーラーというのは多段過給機の間に設置された中間冷却機です。これも過熱した圧縮空気を冷却する仕組みですが、こちらは水冷式、空冷式の2タイプがありました。
 
 
 どちらも一長一短があるのですが、水メタノール噴射は各シリンダーに均等に噴射するのが難しくその場合激しい振動が発生します。また直接液体を噴射するため腐食や整備性の悪化など稼働率に悪影響がありました。
 
 
 という事は高高度戦闘機の場合はインタークーラー一択なんですよね。あえて言えばエンジンも液冷が理想。しかも液冷ならスーパーチャージャー2段2速あればある程度の高空性能が維持できるのです。
 
 
 日本で言えば、三式戦飛燕か…。でもハ40は1段過給機だからな。ハ40の改良型で水メタノール噴射装置を装備したハ140があるけど、それを装備した三式戦飛燕Ⅱ型はわずか99機生産ですからね。
 
 エンジンの精度というもっとも根本的な問題はあるけど、空冷の変な排気タービン装備機(キ87など)を試作する暇があったらこちらに本腰入れた方がましだったかもしれません。ただ精密加工技術、整備性、熟練工の問題など難問山積であった事は確か(苦笑)。
 
 
 まあ、それを言っちゃーおしめえよ!(爆)

モーターカノンの話

Motakanon

 モーターカノン、直訳するとエンジン砲。日本ではあまりなじみありませんがエンジンのプロペラシャフトを中空構造にしてそこを通して発射する機関砲(銃)の事です。
 
 レシプロ機の時代、主武装は7.62㎜~20㎜位までの機関銃、機関砲でした。なかには30㎜、37㎜機関砲搭載機もありましたが…。
 
 機関砲の命中率を上げるには、主翼よりは機体、機首上方よりはエンジン同軸が理想的なのは誰にも分かっていました。
 
 空力的にも重い物(機関砲は弾倉まで含めると意外と重量を食う)を主翼に装備すると、戦闘機の肝ともいえるロール率(横回転)に悪影響を受けるのです。
 
 
 同軸火器の先進国はフランスでしたが、ドイツもモーターカノンを熱心に取り組んだ国の一つでした。ドイツ空軍が主力戦闘機Bf109にダイムラーベンツDB601液冷倒立V型12気筒エンジンを採用したのもモーターカノンを装備するためでした。
 
 
 たださしものドイツもBf109の同軸機銃装備にはトラブルが続出して難航し、モーターカノンを標準装備できたのはF型以降でした。
 
 
 ところで米英の主力戦闘機ノースアメリカンP51マスタングやスーパーマリンスピットファイアはモーターカノンを採用していませんよね?
 
 冷静に考えると理解できると思いますが、確かに命中率は良くなるとしてもただでさえ狭いエンジン回りに重い機関砲を搭載すると、燃料タンクなど本来搭載しなければならない装備の搭載スペースがなくなってしまうんです。という事はエンジンそのものの発展性も阻害し、新しく大馬力エンジンを搭載する時も機体設計を大幅にいじらないといけなくなります。
 
 英米は、モーターカノンの利点・欠点を冷静に分析しこれを採用するよりは主翼の機関砲の数を増やす事で事足りると判断しました。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式です。またモーターカノンの大火力は防御力の高い4発重爆に対抗するためでもありましたが、敵である日独伊にまともな4発重爆が無かったことも理由の一つでした。
 
 
 一方、B17・B24などの猛威に苦しめられていたドイツでは30㎜モーターカノンまで登場します。
 
 
 実は日本の三式戦闘機飛燕もDB601のライセンス生産品であるハ四〇を搭載していたのでモーターカノンを装備できなくはありませんでしたが(実は日本も搭載を模索していた)、それ以前に過給機の問題で高高度性能に難があったため実現はしませんでした。マウザーMG151のようなモーターカノンに最適の20㎜機関砲もなかったですしね(苦笑)。エリコンの20㎜は構造上シリンダーの間に銃身が入らなかったりエンジン振動の影響を受けやすくてドイツでもトラブル続出だったらしい…。
 
 今思い出したんですが、マウザー砲(MG151)は潜水艦で800挺輸入され飛燕一型丙に搭載されましたな。まあ同等の機関砲を生産できないって時点でアウトですが。海軍も輸入してたかな?こっちは九九式20mm二号機銃四型がカタログデータ上はMG151と同等という事で採用はされなかったんだっけ?って話はどんどん脱線していきますな(爆)。
 
 
 まあモーターカノン凄い!って記事ではなく「こんなのもありましたよ~」程度の与太話として聞いて頂ければありがたいです(笑)。

要塞、陣地の材料には何が一番適当か?

Anzenatu

 またまた趣味全開の記事ですみません(汗)。一般の方はどこが面白いのかさえチンプンカンプンでしょうからスルーして下さいな(笑)。
 
 
 
 という事でここから先読まれるのはある程度知識がある方だと思って進めます。まずは上図を見てください。各種砲弾爆弾に対する防御施設の材料ごとの安全厚です。
 
 例えば土なら15cmカノン砲に対して20mの厚さがあれば耐えられるという事を現しています。ですから土だけの場所で洞窟陣地を構築するには20m以上掘らないといけません。データはありませんが他の数値から推測すると40cm艦砲なら概算で40m前後の深さが無いと耐えられないでしょう。
 
 これは、この前紹介した「海軍設営隊の太平洋戦争」巻末資料にあった図表から抜粋しています。これだけでも買う価値があるというほどレアな資料ですね♪
 
 
 もうかなり以前になりますが、「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍上層部が防御施設の資材をけちって105mm榴弾砲に耐えられない物しか作れなかった事が敗因の一つだったと考察した事がありました。
 
 上図を見ると、すくなくても鉄筋コンクリートで1mの厚さは防御施設に必要だったことになりますね。
 
 
 要塞は絶対に鉄筋コンクリートで作らないといけないというのも分かります。第2次世界大戦中なら連合軍の最大口径砲はアイオワ級戦艦の16インチ(40.6cm)砲なので、鉄筋コンクリートで5mの厚さがあればひとまず安心でしょう。
 
 
 日本陸軍が満洲に築いた虎頭要塞のべトンの厚さが5mだったのも理に適っていたわけですね。資材がそろわない場合は、各種材料を組み合わせて陣地構築する必要があります。
 
 例えば南方の島嶼防衛で日本軍は椰子の木を利用しました。椰子は意外に強靭でこれを陣地の骨組みに使いその上から珊瑚の欠片や土を厚く敷き詰めるとかなり防御効果があったと伝えられます。
 
 さすがに戦艦の主砲弾は耐えられなかったでしょうが105㎜以下の火砲にはかなり耐えられたそうなのです。
 
 
 
 日本軍は(というより各国軍隊は)こういう実測データをもとにして陣地構築してたそうですから凄いですね。命に関わる話でどんぶり勘定で陣地を作ったらだめだという事でしょう。勉強になりました♪
 

陸軍飛行戦隊

Hikousentai

 飛行戦隊というのは、大東亜戦争期の日本陸軍航空隊で単一の機種(戦闘機なら戦闘機、軽爆撃機なら軽爆撃機だけ)で構成された飛行中隊を2個~3個集めて編成された基本単位です。
 
 だいたい戦闘機中隊で12機、その他で9機が定数ですから、
戦闘機戦隊で12×3で36機、そのほかの飛行戦隊で9×3=27機が定数でした。もちろん例外はあり、これより多い場合もあれば戦闘で消耗して定数割れの部隊も多かったのであくまで目安です。
 
 他国の空軍では航空大隊に当たります。今ちょうど懐かしの朝日ソノラマ文庫「陸軍航空隊全史」(木俣滋郎 著)を読んでいまして、マイブームなので記事にしてみました(笑)。
 
 一般の方でも名前くらいは聞いた事があると思いますが、加藤隼戦闘機隊というのがこれにあたります。正式な部隊名は飛行第64戦隊です。ちなみに64戦隊は一番よい時は42機保有してました♪
 
 
 
 陸軍航空隊の編制単位は大きい方から
 
◇航空軍…ある地域の航空作戦を統括する戦略単位。複数の飛行師団から成る。千機を超える事もある。
 
◇飛行師団…複数の飛行団、あるいは飛行戦隊から成る。200機~500機くらい。
 
◇飛行団…地上部隊では旅団に相当。2個戦隊で編成。
 
◇戦隊…基本単位。飛行団を通さず直接飛行師団隷下として編制する場合もあった。地上部隊の連隊に相当。
 
◇飛行中隊…単一機種で構成。戦隊から分離されて独立行動するケースもあった。
 
 ただし時代によって若干の変遷があります。
 
 
 戦隊の話に戻りますと、飛行戦隊には整備隊がくっついていました。整備しないと飛行機は飛べないからです。一方、警備や補給を担当する飛行場隊は最初戦隊の編制内に入っていたそうですがのちに大隊となって独立しました。
 
 これは当然で、飛行場大隊は主に飛行場の維持管理を担当するからです。どんどん移動することが前提の戦隊と分けられたのです。大規模な飛行場なら複数の戦隊が存在しますから、飛行場大隊がいくつもあっては指揮命令系統からも困ります。
 
 
 日本の戦隊と米英の航空大隊との違いは予備機の数でしょうか。日本の場合定数を満たすのも一苦労でしたが、あちらは最低でも定数の50%、へたしたら定数以上の予備機をもっていたそうですから凄いですね。日本の飛行戦隊で予備機をたくさん持っていたら贅沢だと羨ましがられた事でしょう。
 
 まあこれもケースバイケースで、「第○○戦隊は昭和19年には予備機○機持っていたはず」とかマジレスしないように(苦笑)。あくまで一般論として書いてますので(汗)。日本の全戦隊がすべて潤沢に予備機を持っていたら戦争に勝ってます(爆)。
 
 
 
 あまり一般受けしない趣味の記事ですが、最近戦記に凝りだしてるんでしばらくこの系統の記事が続くかもよ?(笑)

近代戦の補給

Kindaisen

この話に付いてこれる方は少ないかもしれませんが、某サイトから転記した1980年代のソ連軍、米軍の各師団の一日補給所要量です。
 
 おそらく現在でもそうは変わらないはず。上段は戦闘時における補給量です。下段は米軍歩兵師団しか見つからなかったんですが攻勢、防御、追撃、戦闘準備の各段階での一日補給所要量です。
 
 表を見ると米軍歩兵師団で攻撃戦闘時3300t、防御戦闘時4000tという莫大な物資を消費します。イメージだと機甲師団の方が物資を消費しそうですが現代の米歩兵師団は名前だけが歩兵師団であって実質は機甲旅団+機械化歩兵旅団×3+ヘリ強襲旅団という怖ろしい戦力の旅団戦闘団を持っていますのでこちらの方が物資消費量が多いのでしょう。機甲師団との違いは戦車がちょっと少ない分、歩兵戦闘車(+歩兵)が多いだけ。
 
 1万t級の輸送艦で1個師団2~3日分しか補給できないんですから現代の軍隊はもの凄い金食い虫ですね。さすがの超大国アメリカといえど10個師団前後しか現役師団を保有できないはずですよ。
 
 ソ連軍も米軍ほどではないにしても物資消費量が半端ないですね。だいたい米軍師団が21000人前後、ソ連軍師団が16000人前後なので一人当たりに換算すると余り変わりません。
 
 これはアフガン戦争でソ連が崩壊するはずですよ。一方アメリカは常時50万の大軍をベトナムに貼り付けておきながら良く保ちましたね。海上輸送の方が効率良いとはいえ、やはり恐るべき国力です。
 
 
 湾岸戦争時、何もない砂漠に一大補給基地を出現させた(しかも短期間で!)アメリカの怖ろしさを改めて実感しました。
 
 
 アメリカほど補給に力を入れる国はありません。専門の輸送コマンド(U.S.Transportation Command)をもち多数の輸送機と多数の輸送艦、輸送船、陸上輸送システムも持っていて、世界中で米軍の作戦を可能にしています。
 
 M1A2エイブラムス戦車1000台も積める6万トン級の大型輸送艦さえ持っているんですから感心させられます。
 
 正面装備だけでなく、後方兵站まで含めた力が米軍の強さの源泉なんでしょうね。日本がこのレベルまで達するには防衛費を今の10倍くらいにしないといけません(苦笑)。

八九式重擲弾筒

Tekidan

 グレネードランチャーの一種。どうしても体格の劣る日本帝国陸軍兵士は手榴弾の投擲距離で欧米列強に不利でした。
 
 そこで手榴弾のおよそ3個分に匹敵(爆発半径10m)する簡便な投擲装置の開発が求められます。これで体格による不利を補おうというのです。最初に制式化された十年式擲弾筒は威力と信頼性の面で不満でした。そこで開発されたのが八九式擲弾筒です。
 
 有効射程120m、最大で650mにも達するなかなかの優れ物でした。重量も4.7kgと軽く一人でも運用できました。ただ通常は2~3人で運用するケースが多かったようです。歩兵小隊内で戦銃分隊(分隊支援火器に軽機関銃1挺持つ歩兵分隊)4個、擲弾筒分隊(擲弾筒2門)1個というのが理想的編制だったらしいです。(1個連隊では63門が定数)
 
 運用的にはむしろ軽迫撃砲的使われ方をされました。他国の同口径(50mm)軽迫撃砲と比べると威力射程でほぼ同等ながら重量が半分という理想的携行火器でした。
 
 アメリカ軍が最も苦しめられたのも、九九式軽機関銃と八九式擲弾筒だったといわれています。その分アメリカ軍の評価も高くこれを捕獲すると物珍しさから試し撃ちしたくなる米兵が後を絶たなかったそうです。
 
 しかしマニュアルもなかったため膝の上に乗せて発射すると誤解した米兵の間で、複雑骨折する者が多発したとか。見た感じ支柱の底がちょうど膝に乗せるような形状にはなってますよね(苦笑)。
 
 正しくは、写真のように地面に据えて発射します。なんといっても簡易軽迫撃砲なんですから。
 
 
 現在では、回転バレル式【ダネルMGL(南アフリカ)など】やアンダーバレル式【アサルトライフルのオプションとして銃身下部の取り付ける方式 M203(アメリカ)など】が主流になっています。

日米独 第2次大戦中主要迫撃砲一覧

Photo_4

 またまたマニアックな記事で申し訳ございません(苦笑)。最近郷土史から戦史に興味が移っておりまして日米独の主要迫撃砲の諸元一覧をつくってしまいました。(私の趣味は定期的に循環するんですよ 爆)
 
 
 戦史や軍事に詳しい方、戦争映画などをご覧になった方は御存じでしょうが一応知らない人のために説明しておくと…
迫撃砲(はくげきほう、: mortar)は、簡易な構造からなる火砲で、高い射角をとることから砲弾は大きく湾曲した曲射弾道を描く。】(ウィキペディアより)
というものです。
 
 
 斜めになった砲口の上から砲弾を落として発射させる大砲で、弓なりに飛ぶため砲弾は相手の頭上から落ちます。ということは敵陣地がどんなに堅くても後方を叩くことができるのです。一見便利この上ないように見えますが、そのために一般の大砲より射程はかなり短くなります。
 
 以前紹介した歩兵砲(覚えてますか?)から平射(水平射撃)機能をなくした大砲だと思っていただければ幸いです。
 
 
 そのため歩兵砲が対戦車ロケットや無反動砲の発達で廃れても、迫撃砲だけはまだまだ現役です。だいたい口径から3つのタイプに分かれます。
 
 
軽迫撃砲…70mm以下の迫撃砲。軽いのが特徴で2~3人で扱えるため歩兵分隊で使用されるケースが多い。
 
中迫撃砲…80㎜~105㎜くらいの迫撃砲。標準的な迫撃砲で火器小隊、火器中隊でまとまって運用される。
 
重迫撃砲…口径120㎜以上。重いので人力移動は難しい。自走砲化が進んでいる。威力は大きい。
 
 
 表も見ていただくとアメリカ、ドイツの生産数が空欄になってますね。これはあまりに生産数が多くて全体像が把握できないためです。一方、日本軍は生産数が少ないです。これは簡易な大砲なので砲弾の無駄な消費が増えるのを嫌ったためです。貧乏って本当に嫌!
 
 日本軍は、これよりも小さな擲弾筒と呼ばれる小型迫撃砲を多用しました。歩兵小隊のなかに1個擲弾筒分隊が入るのが標準編成でした。
 
 この擲弾筒、敵であった米軍の評価も高い兵器です。ただその形状から膝の上で撃つと誤解した(実際は地面に据える)米兵が、捕獲した擲弾筒を発射しようとして負傷が後を絶たなかったそうです。物珍しさが祟ったか?(苦笑)
 
 擲弾筒に関しては、いつか独立して記事にしますね♪
 
 
 本当は大砲先進国のソ連の迫撃砲を紹介しなければならないんですが、そこまで調べる気力がなかった…。ただドイツ軍のGrW42 120mm重迫がソ連のPM-43 120mm重迫撃砲のまるまるコピーだという事実でもその優秀性が分かります。

ドイツ第3帝国陸軍 主要火砲一覧

Photo_3

 この前日本軍の保有火砲を紹介したので、今度は懲りずにドイツ軍のやつを調べました。ただマニアック過ぎて誰もついてこれないだろうなあ(苦笑)。
 
 
 戦車とは飛行機は生産数がだいたい分かっているのに、こと大砲となると分かっている方がレアケースです。日本の場合は生産数が少なすぎて分からないんですが、逆にドイツは生産しすぎて全体像が把握できないケースです。
 
 
 leFH18系は、保有定数の関係から少なくともsFH18の3倍は生産されたでしょうから合計15000門以上にはなると思います。重砲は数が少なくて不明なケースでしょう。
 
 山砲・歩兵砲も製造が容易で数が揃えられることからおそらく合計すると万単位の生産数はあったはず。
 
 88mm高射砲が不明だというのは意外ですが対戦車砲も含めた全ファミリーで少なくとも数千門、ひょっとしたら万は超えていたように感じます。
 
 
 88mmの陰に隠れていますが、黄色が付いている火砲は私が独断で選んだ優秀火砲。とくにK44 128㎜カノンなどは対戦車砲にも転用された優秀砲です。ヤークトティーガーの主砲といえば分かりますかね?(笑)
 
 
 
 う~んアメリカ軍とまではいかないがせめてドイツ軍レベルの火砲装備が欲しいですな。日本の場合冶金技術が低すぎて同口径の徹甲弾でも列強のそれより威力が一段落ちたそうですから残念至極!
 
 
 今度は米軍ソ連軍でも調べますかね♪ただ良い資料を持ってないので途中で断念する可能性が大ですが(爆)。
 
 
 とその前に誰も読んでいないというオチであった(核爆)。

連合軍輸送船団の陣形

Photo_2

 上図は第2次世界大戦中連合軍(おもに米英)で確立された輸送船団の標準的な陣形です。
 
 図はかなりデフォルメされてますが実際は横に極端に広がった形をしています。
 
 これは増大する輸送船被害に対抗するため、多くの戦訓を取り入れ最も被害が受けにくい陣形をオペレーションズ・リサーチによって統計学的・科学的に導き出したものでした。
 
 
 中央に横12列、縦5列で60隻の輸送船が碁盤の目状に並びます。その4隅に小回りのきくコルベットを配し、潜水艦による被害が一番受けやすい側面の防御には護衛駆逐艦が両翼を固めます。
 
 そして後方からは護衛駆逐艦に守られた護衛空母がエアカバーを行います。
 
 潜水艦の被害を受けやすい側面からの雷撃を防ぐために極端に縦幅を短くしているのです。素人考えではガラ空きの正面から潜水艦が侵入したら防ぎようがないではないか?と考えがちですが意外に正面から魚雷は撃ちにくいものなのです。しかも船団の中に紛れ込んだらそれこそ袋のねずみで、爆雷攻撃で簡単に撃沈されてしまいます。
 
 また横方向から攻撃しようとしても、護衛駆逐艦がいるため接近すら難しいのです。
 
 
 連合軍がこの陣形を採用して以来商船被害は激減しました。さらに航路の要所要所に哨戒基地を設けたためさしものドイツ海軍Uボート(潜水艦)艦隊も今までのような大戦果をあげる事が出来なくなりました。
 
 
 だったら枢軸側もこの陣形をまねればいいだろう?と思われた方もいたんじゃないですか。攻撃するほうが一番この陣形の防御力を実感できますからね。
 
 
 ところがそううまくはいかないんです。まず護衛空母と護衛駆逐艦の数が必要です。一番効率よく配置したとしてもある程度数がないといけません。
 ボーグ級(一番上の写真)護衛空母だけで45隻、護衛空母全体では100隻以上、護衛駆逐艦に至っては写真二枚目のキャノン級72隻をはじめ総数400隻以上が大戦中に就役しました。
 
 
 生産力の低いドイツ軍にしても日本軍にしても真似したくても真似できない陣形でした。
 
 
 ただ日本の場合は3列横隊で縦長の船団を少数の海防艦(とごくたまに軽空母)が守るだけでしたから、米軍潜水艦にとっては雷撃機会がふんだんにあるという最悪の陣形でした。失敗はどこにでもあります。大事な事は失敗を教訓にして次に生かす事です。しかしまじめに研究することさえせずいたずらに商船被害を出していたのですから犯罪的です。
 
 ある資料によると日本の商船員の損害率は全体の51%という破滅的な数字でした。その教訓は現在に生かされているのでしょうか?東北関東大震災における政府のお粗末な対応を見ているととても生かされているとは思えません。

大日本帝国陸軍 主要火砲一覧

Photo

 誰も興味ないと思いますが最近火砲に凝ってまして(笑)、第2次大戦中に日本軍が使用した主要火砲の一覧表を作ってみました。
 
 ただし迫撃砲、曲射砲、ロケット砲などは(面倒くさいので)除外しています。あと空欄は本やネットで調べても分からなかったところです。
 
 
 黄色がついているのは、一応世界標準(かなり甘め)として通用する火砲です。
 
 
 
 知識のない方(そういう人はまず記事を見ないでしょうが…苦笑)は火砲の種類についてチンプンカンプンでしょうから一応解説。
 
◇野砲…別名師団砲とも呼ばれ、各師団隷下の砲兵連隊の主力火砲。列強標準では105㎜が主流だったが日本は旧式の三八式(75㎜)野砲が主力だった。
 
◇重砲…軍団以上(日本では軍以上)直轄の大口径火砲。独立重砲連隊編制される事が多く必要に応じて師団に配属させられた。
 
◇山砲…野砲より威力は劣るが、軽量で分解可能な場合も多く山岳地帯で有効。日本の師団は基本的に山岳師団で、野砲兵連隊と山砲兵連隊はほぼ半数ずつ編成された。
 
◇歩兵砲…歩兵連隊に属し、歩兵直協の火砲。砲兵ではなく歩兵が扱うところがミソ。
 
◇速射砲…厳密にいえば違うが日本の場合は対戦車砲を指す事が多かった。
 
◇高射砲…説明の必要もないと思うが念のため。航空機を攻撃する火砲。
 
 
 
 ところで同じ火砲でも頭に機動という文字が付くものがある事に気付かれましたか?日本軍の場合馬匹牽引が主力で、特別にゴムタイヤを付け車両牽引できるようにしたものを機動○○野砲などと呼びます。
 
 
 どうです一見して種類が多すぎる気がしませんか?アメリカ軍が実質三種類の火砲(M2/3 105㎜榴弾砲、M2 155㎜重砲「ロングトム」、パックハウザー75㎜空挺砲[歩兵砲])だけだったの比べると余計そう感じます。
 
 車両牽引前提で砲自身の能力よりも運用のしやすさに重点を置いているアメリカと、モータリゼーションが進んでおらず馬匹牽引が前提だった日本の違いと言ってしまえばそれまでですが、一応日本軍も世界標準に近づけた九一式十糎(センチ)榴弾砲を主力野砲にすべく1100門も生産していたんです。
 
 工業生産力の低い日本としてはかなり頑張ったほうです。
 
 
 これはあくまで私の理想ですが、この九一式十榴を24門、九二式十糎加農(カノン)砲を師団砲に回して12門の36門定数で砲兵連隊を編制すれば師団の戦闘力は飛躍的に向上したと思いますね。
 
 その分機動九○式野砲を対戦車砲に転用できますしね。三八式は箸にも棒にもかからないので廃棄!
 
 
 ただどちらも致命的に生産数が少なすぎます。大戦末期の粗製乱造の師団まで入れると180個もある師団の砲兵連隊すべてに配備しようとすれば損耗率を度外視しても24×180で4320門、12×180で2160門必要ですからね。
 
 せめて常設師団くらいはこの編成でいってほしかった!(嘆)

« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »