亡国の民は蔑まれる 杞憂と宋襄の仁
諺に『杞憂』というものがあります。心配する必要がないことをあれこれ心配する事、取り越し苦労を指す言葉です。由来を話すと、古代支那に杞という国がありました。杞の人がいつか天が崩れて落ちてくるのではないかと心配し夜も眠れなかったことから杞人の憂いという笑い話になり、それが杞憂という諺になったとのことです。
ところで杞という国は、商(殷)の前の王朝夏王朝の子孫で国姓は姒(じ)。最初は河南省の開封市に属する杞県にあったそうですが、後に山東省に移動します。古代支那人は敵を滅ぼしても一部の遺民を残し先祖の祭祀を続けさせることで滅ぼした自分たちは祟りを免れるという思想があり、甲骨文によると商の時代にはすでに杞は諸侯国として存在していたそうです。周が天下統一するときも、これに倣い杞という国を残したのでしょう。
商の遺民の国宋にしても夏の遺民の国杞にしても、時の王朝から見たらお情けで建ててやった国という軽侮の気持ちがあったのでしょう。ですから笑い話や嘲笑の対象として亡国の民を持ち出してこのような諺を作ったのだと思います。それを考えると国を滅ぼされた上に後世まで侮られるんですから、当事者にとってはたまったものではありませんね。
当然、このような屈辱を跳ね返そうとした人物も現れます。宋の襄公(?~紀元前637年)という人でした。春秋時代最初の覇者斉の桓公が紀元前647年死去すると、中原(黄河中流域、文明の中心地)は混乱状態に陥りました。斉でも後継者を巡って壮絶な内戦に陥ります。宋の襄公は、衛や曹、邾(注)のような小国と会盟し桓公の子昭公を押し立てて斉の内乱に介入し、斉の君主に据えることに成功しました。この事から、襄公を覇者の一人に数える史家もいます。
ただ、宋は小国。春秋時代晋と並ぶ超大国、南方楚の成王は身の程知らずの宋の襄公の存在を苦々しく思い、会盟に出てきた襄公を捕らえて幽閉しました。紀元前639年の出来事です。何とか脱出に成功した襄公はこの時の屈辱を晴らすため楚に宣戦布告します。楚は大軍を送り込みました。襄公はこれを首都商邱近くを流れる川泓水(おうすい)で迎え撃ちます。
楚軍は大軍だったので渡河に手間取りました。これを見ていた宋の宰相目夷は「まともに戦っては勝ち目がありません。古来から『半渡を叩く』と申します。攻撃するのは今と存じます」と進言します。ところが襄公は「君子は人の弱みには付け込まないものだ。堂々と戦って雌雄を決すべきだ」とこれを退けました。目夷は「嗚呼、我が君は戦を知らない」と嘆いたそうです。
楚軍が渡河を終え両軍は堂々と陣形を整え戦いを開始します。しかし数に勝る楚軍が当然のごとく勝利し、襄公はこの時受けた矢傷が原因で二年後死去します。後世の人々はこれを「宋襄の仁」といって笑いました。一旦戦争になれば卑怯もらっきょうもありません。勝てば官軍負ければ賊。これは古今東西を通じて真理です。ただ襄公に同情すべき点は、半渡を叩いて勝っても世間から卑怯な勝ち方だと余計蔑まれることを恐れたのでしょう。宋という国の成り立ちが亡国の民が建てた国じゃなかったら襄公もこのような選択はしなかったかもしれません。
その意味では、単なる笑い話というより悲しい歴史があったとみるべきなんでしょうね。
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