反斜面陣地の実戦例 沖縄戦嘉数(かかず)の戦闘
沖縄県宜野湾市の南部に標高90mの東高地、標高70mの西高地からなる鞍状の小丘陵があります。米軍普天間基地を見下ろす事が出来、よく流れている基地の映像はこの高地から撮影したものです。
果たして彼ら(テレビ局)は、嘉数高地が沖縄戦の激戦地の一つでここで多くの英霊が倒れた(そして多くの英霊が眠っている)ことを知っているのでしょうか?日本の防衛力を弱める反日活動であるとともに、英霊を土足で踏みにじるという二重の冒涜を犯している彼らを私は絶対に許すことはできません。
それはともかく、嘉数の戦いは圧倒的劣勢の日本軍が善戦し一度は米軍を押し返した英雄的な働きを示した戦場として有名です。一般にはほとんど知られていないと思いますが日本人にぜひとも知ってもらいたくて今回紹介致します。
反斜面陣地に関しては、過去記事で説明しましたが簡単におさらいすると敵に向かった斜面ではなく稜線を越えた反対側斜面に陣地を築きさらに後方の主陣地からの砲撃で敵軍を撃滅する戦法です。これは火力や兵力が敵より劣っている場合に採用されることが多く、敵が稜線を越える前には曲謝弾道で上から砲撃し、稜線に達すると今度は主陣地や反斜面陣地から直接射撃して袋叩きします。敵側に向かった斜面を巨大な城壁とし機動的に反撃することを想定した陣地です。
良いことずくめの戦法のようですが、反斜面陣地が成立する条件は厳しく、まず敵が必ずそこを通る必然性がある事、次にそこに丘陵状の障害物がある事、そして反斜面陣地や後方の主陣地からの射撃、砲撃が可能である必要があります。そして、最後に部隊間の連携が取れ有機的に動ける事が絶対条件です。
嘉数高地は、東西約1kmの稜線。高地の脇を普天間方面から第32軍司令部のある首里へ至る主街道(中街道)が通り前方は両岸が5mほどの崖(比屋良渓谷)になっている比屋良川が流れています。海岸沿いの牧港低地は地積が狭く高地からの砲撃で制することができます。高地の東には西原高地が連なる天然の要害でした。反斜面陣地を採用するのにこれほど適した土地はありません。歩兵はともかく戦車は必ず中街道を通らなければならないからです。
沖縄を守る第32軍は、嘉数高地の陣地帯の防衛を第62師団に委ねました。第62師団は、支那戦線の治安維持を目的に編成された警備師団で、独自の砲兵連隊を持たない二線級の師団でしたが支那大陸での豊富な戦闘経験を持ち侮りがたい力を持っていました。師団の編制に編入されたのは独立歩兵大隊で通常の70㎜歩兵砲2門のほかに75㎜山砲2門を有する歩兵砲小隊を組み込み1200名を超える大規模大隊でした。(通常は800名前後)
嘉数方面には第62師団隷下の歩兵第63旅団(4個独立歩兵大隊基幹)が投入されます。ただし砲兵火力に不安があるため増援として独立速射砲第22大隊(47㎜速射砲装備)、独立迫撃砲第8中隊(81㎜迫撃砲×18)、野戦高射砲第81大隊の一部(75㎜高射砲×2)が加わります。さらに後方の仲間台地には第32軍直轄の野戦重砲兵第23連隊第1大隊(九六式15cm榴弾砲×12)、独立臼砲兵第1大隊の一部(32cm臼砲×8)が直協重砲兵として配されました。
日本軍は、米軍上陸まで半年間の時間的余裕があったため、嘉数高地の全山を要塞化し稜線上にはコンクリート製の監視所、要所に重機関銃陣地、坑道式の地下壕を縦横に張り巡らせていました。沖縄の土地は隆起珊瑚礁が多く、硬くて掘りにくい代わりに強靭でコンクリートに匹敵する強度を持っていたそうです。
嘉数方面に進出してきたのは米陸軍第27師団と第96師団でした。1945年4月5日嘉数高地の北隣85高地に米第383連隊が襲いかかったことからこの地での戦闘がはじまりました。85高地は嘉数陣地帯の前哨陣地でしたが守備をしていた独立歩兵第13大隊は大きな損害を出して嘉数の本隊と合流しました。4月8日、嘉数にも第383連隊の攻撃が始まりました。日本軍を舐めていた米軍はここも9日までに占領するつもりでしたが、それが甘い考えであることは間もなく判明します。
4月9日、準備砲撃もせず嘉数高地北側斜面に取りついた米軍は稜線上に達しますが、反斜面陣地から出撃した日本兵が重機関銃、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾で猛烈な反撃を加えました。壮絶な白兵戦となりますが、こういう場合待ち構えていた方が有利で米軍は大損害を出して一時撤退しました。守備していた独立歩兵第13大隊も士官だけで20数名戦死するという損害を出し戦闘力をほとんど失います。歩兵第63旅団長は増援として独立歩兵第272大隊を投入しました。
翌10日も米軍は第381連隊、第383連隊を投入して嘉数高地に攻め込みます。この時嘉数西高地の一部が米軍に占領されます。しかし日本軍は嘉数西70高地の南側と東側の陣地を堅守し米軍の突破を許しませんでした。大きな損害に懲りた米軍は、12日沖合の艦隊からの艦砲射撃、航空機による空爆を加えた入念な準備砲撃のあと再び総攻撃を開始します。
が、猛烈な砲撃、爆撃にも関わらず嘉数の日本軍陣地は健在でした。激戦の末今回も日本軍はわずか3個大隊で米軍3個連隊を防ぎました。米第96師団は兵力再編のために一時撤退に追い込まれます。その後も小競り合いは続きますが、4月19日米軍は入念な準備砲撃のあとM4シャーマン中戦車24両、M7自走砲6両を先頭に押し立て攻撃を開始しました。
戦車に対しては、歩兵の機関銃や擲弾筒は通用しません。中街道は簡単に突破されM4シャーマンの機甲部隊は嘉数高地を包囲するように背後の嘉数集落に向かいました。ところがこれこそ日本軍の設けた罠で、後続の歩兵部隊を機関銃や擲弾筒、迫撃砲で分断すると孤立した戦車群をキルゾーンに誘導します。
47㎜速射砲は、先頭のシャーマンをやりすごし後続のシャーマンを側面からゼロ距離射撃で攻撃しました。巧妙に偽装された対戦車陣地を米軍は全く気付かず奇襲攻撃を喰らいます。嘉数-西原隘路口でまず3両が地雷で擱座。次に速射砲で4両が撃破されました。嘉数集落に侵入しようとした後続は曲がり鼻を75㎜高射砲の側面射撃をうけ破壊。残りは6両が肉薄攻撃でやられます。結局無事に後退出来たのはM4シャーマン2両とM7自走砲6両のみ。実に22両ものシャーマンがこの日の戦闘で撃破されたのです。
絶対の自信を持っての米軍の総攻撃でしたが、結果は惨憺たるものでした。莫大な損害を出して米軍の攻勢は頓挫。しかし、兵力に劣る日本軍の損害も甚大でした。歩兵第63旅団は実質的に1個大隊弱の兵力にまで落ち込みます。側面の牧港に米軍の別働隊が上陸したため嘉数陣地帯の防衛が困難となり放棄を決定。首里を目前とした最終防衛線に退きました。
4月24日、米軍が兵力を再編成して攻撃を行った時には嘉数高地の陣地帯は死体も残っていないほどもぬけの殻でした。大きな損害を出しながらも日本軍の将兵は嘉数では負ける気がしなかったそうです。一方米軍は、嘉数高地を「あの忌まわしい丘」「死の罠」と呼んで忌み嫌いました。
嘉数の戦闘は、敗北必至の日本軍が大戦中最後に勝利した地上戦闘でした。絶望的な状況でも日本軍はかくも英雄的な働きをしたのです。我々後世を生きる日本人も誇って良い事実です。沖縄で戦った日本兵の皆さんに最大級の賛辞を贈りたいと思うのは私だけでしょうか?
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