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2019年5月

2019年5月30日 (木)

第2次大戦北アフリカ戦線イギリス第8軍戦闘序列

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 第2次大戦北アフリカ戦線と言えばドイツアフリカ軍団、ロンメルの活躍が印象深いです。一方、それに対する英中東軍隷下の第8軍がドイツアフリカ軍団(DAK)とイタリア軍に対峙しました。第8軍司令官はバーナード・モントゴメリー中将。モントゴメリーは常に敵より3倍の兵力を集め十分な兵站を維持しなければ攻勢に出ないほどの慎重派で、神出鬼没の機動戦を得意とするロンメルとは好対照でした。

 ドイツアフリカ軍団の編制は戦記物などで有名で知っている人も多いでしょう。第15装甲師団、第21装甲師団、第90軽歩兵師団を基幹とし、作戦ごとに応援の師団が入るか、それもないかという厳しい状況でした。これはドイツ軍の兵站能力の貧弱さに起因するのですが、対するイギリス中東軍は、主力の第8軍だけで4個機甲師団、7個歩兵師団という強力な兵力を有していました。これは緒戦ではなく、各地から増援を集めた後の編制ですが、それにしてもイギリスの兵站能力の高さ、援助するアメリカの国力の強大さを感じますね。

 白人国家のオーストラリア、ニュージーランドはともかくとして、インドや南アフリカの兵士は自分と全く関係ない北アフリカの砂漠で戦わされたことに複雑な心境だったでしょうね。

 

 

 

 

ようやく民主党政権時代の負の遺産の一つが解消か?

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【寄生虫】韓国産ヒラメなど検査強化 政府、輸入規制への対抗措置

 

 

 安倍総理の「悪夢のような民主党政権」という言葉は、むしろ国民の声だと思います。マスゴミと売国野党は基地外のように安倍発言を叩きましたが、連中が日本を滅ぼそうとしている国賊だと完全にばれました。

 

 今回の韓国産海産物を検査なしで受け入れるよう決定したのは民主党政権でした。民主党政権は事業仕分けで災害対策費を削り東日本大震災で万単位の犠牲者を出したばかりでなく、日本の円高とデフレを放置し日本経済を衰退させました。民主党の藤井財務大臣(当時)の「デフレはそんなに悪いものではない。」「今は状況を注視している(絶対に対応しないが…)」などという一連の売国発言は絶対に忘れません。民主党政権のおかげで日本の不景気は深刻になり、韓国は空前の好景気となりました。

 

 欧米では寄生虫だらけの韓国産海産物で死者すら出ています。当然輸入禁止。しかし日本は安倍政権に代わっても今まで放置してきました。この問題は深刻ですよ。国民の命より韓国への無用な配慮が優先ですから。その結果が韓国国会議長の天皇陛下侮辱発言だし、自衛隊機に対する韓国駆逐艦の火器管制レーダー照射事件です。ブラックジョークにすらならない(呆)。さすがの弱腰安倍政権も、国民の怒りを受けて秘かに韓国に対する制裁(それもごくごく小さいものだが…)をやっているようですが、売国低能媚韓の岩屋防衛大臣を更迭もせず未だに放置していることを見ても安倍政権が国民の怒りを真剣に分かっていない証拠だと思います。

 

 ただ、ここへきてようやく韓国産海産物の検査強化を打ち出したことは一応評価します。遅すぎたとは思いますがね。日本で流通するヒラメの半分以上が韓国産という話もあります。回転すしのヒラメは確実に韓国産。それを考えるとゾッとしますね。記事を読む限り、まだまだ検査が甘いと思います。100%検査し高い関税をかけるべき。寄生虫や細菌で汚染された毒物を日本に輸入する事自体が反対。その結果回転すし店でヒラメが100円で食べられなくなっても、命には代えられません。

 

 民主党政権時代の負の遺産は多いですが、その結果韓国が増長し暴走を重ねてようやく日本国民が韓国の正体を知り断交を言い出したんですからその点だけは良かったと思います。弱腰の安倍政権も、アメリカの厳しい姿勢、特にトランプ大統領の韓国切りを受け動き出したという事でしょうか。アメリカですら韓国に匙を投げているんですから、日本は追随しなければなりませんな。何しろ同盟国だから♪

 

 できることなら、日本から韓国へ輸出禁止、韓国から輸入禁止をしてくれれば自然に断交できるんですがね。皆さんはどう思われますか?

2019年5月28日 (火)

当然日本も追随するんだろうな?

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【対中規制法案】米国議会「中国人留学生や研究者のビザ発給禁止を求める」「ファイブ・アイズも同様の対応を」

 

 我々日本人としてはABCD包囲網から大東亜戦争に追い込まれた負の歴史を思い出して気分の良いものではないんですが、今回日本はアメリカ側、支那がアメリカに真綿で首を絞められていく様を冷静に見守ることができます。

 現在のアメリカと支那の対立は単に経済問題だけではないんですよ。21世紀の世界の覇権をかけた両国の戦いです。支那に厳しいのはトランプだけではない。逆に安易に妥協しようとするトランプを厳しく監視しているのが共和党、民主党です。アメリカ議会は対支那の厳しい法案をどんどん提出しています。東シナ海、南シナ海で支那が侵略やそれに準ずる行為を行った時、アメリカ政府はアメリカにある支那の資産を凍結することができるという法案も審議されています。

 支那人留学生がスパイや工作員であることは以前から噂されていましたが、この法案が通れば日本にも同じ行動を求めてくるでしょう。スパイ防止法すらない日本政府は大変なことになりますよ。アメリカの圧力でスパイ防止法制定という事にもなるでしょうね。外国からの圧力がなければ何も動かない平和ボケ日本には絶望ですが、良い方向に進むのなら納得できます。

 もし日本がアメリカからの要請を拒否すれば日本は詰みます。安倍政権は馬鹿ではありませんから追随するでしょう。特亜の工作員であるマスゴミの立場はますます悪くなります。アメリカどんどんやれと私は思いますが、皆さんはどう感じられましたか?

2019年5月26日 (日)

トランプ大統領、日本を満喫しているようですな

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【猛獣使い】海外メディア「安倍首相が付き合い方の手本を世界に示した」「欧州人はトランプ大統領への対処を完全に誤った」

 

 午前中のゴルフでの仲良さそうなツーショット写真、午後大相撲千秋楽の真剣な表情、表彰式優勝力士へのアメリカ大統領杯授与式での笑顔。トランプ大統領が心の底から日本を満喫しているようで何よりです、さらに二人で靖国参拝までしてくれれば特亜が発狂して心地良いんですが、流石にそこまでは望みすぎでしょう。

 日本人の特性として、たとえ意見の合わない人に対してもことさらに喧嘩腰にならず和をもって接するという美点がありますが、安倍総理とトランプ大統領は人間的な馬も合うんでしょう。例にあげて恐縮ですが、自分の主張ばかり繰り返し他人には一切譲らない韓国人では絶対にできない芸当。文在寅が個人的にトランプ大統領から嫌われているのも納得です。

 日本訪問の帰途韓国にも寄ると言われてますが、トランプさん下手すると在韓米軍基地から一歩も出ないかもしれませんね。現地の米兵を激励してそのまま帰国しそうwww文在寅はこの前の米韓首脳会談2分という赤っ恥を挽回するために何とか長時間の首脳会談を画策しているそうですが、5分会ってくれればいいね♪

 今後の外交展開ですが、私はブレグジットで苦しむイギリスをTPPに取り込み、ゆくゆくは日米英安保条約でも結んで海洋勢力の結集を図ったら良いと個人的には思っています。アメリカの支那の戦争は秒読み段階に入ったと思っていますから、戦後の世界秩序も見据えたら日米英の協力は不可欠だと考えているんですよ。

 此の際、できればロシアも支那陣営に追い込んで敗戦国にしたいんですが、ロシアは特亜と違って強かですからね。中立を保ってぎりぎりの段階で日米英の側に参戦し火事場泥棒で旧満洲を占領しかねないですな。その意味では支那には心を許せる味方はいません。唯一の味方とも言うべきパキスタンですら、いざとなったらどちらに付くか分かりませんよ。南北朝鮮はお荷物だし。

 令和最初の国賓としてトランプ大統領をおもてなししたのは安倍外交の成果だと思います。今後経済問題で厳しい交渉になるとは思いますが、安保などそれ以外の問題で日米が協調していれば対支那のような国家を揺るがすような制裁は避けられるはず。ファーウェイに対するアメリカ政府の態度などあまりにも露骨すぎますからね。日本の経済人も国際政治を読み誤ると致命傷になりますよ。我々一般国民も今後ファーウェイ商品を使わないなど自己防衛しないと駄目でしょう。

 皆さんは今回のトランプ大統領の訪日、どんな感想を抱かれましたか?

2019年5月24日 (金)

日韓議連の立場もだんだん怪しくなってきましたな

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「賠償を妨害しない発言なんてしていない」と日韓議連が韓国側の言い分を全否定 勝手に希望的願望を述べた

 

 この前の韓国議員団の訪問の際の「何しに来られたのですか?」と木で鼻を括ったような石原伸晃の発言もグッジョブと思ったけど、媚韓派の巨頭であるはずの二階幹事長ですら「会って話したら発言の一部を切り取って韓国に都合の良い発表をされたらたまらない」と危険を察知して韓国議員団との会見を拒否したというのに、この河村の馬鹿は会ったんですね(呆)。そして案の定言ってないことまで捏造され自分の立場を悪くするというまさに阿呆としか言いようのない結果。

 ただ唯一の救いはこれまではどんなに韓国側に曲解されてもスルーだったのに、今回は国民世論の怒りに押された自民党議員の糾弾で河村が釈明せざるを得なくなったところ。さすがに愚か者の河村ですら、今回の失策で日本国民が韓国に対しどれほど怒っているか理解したでしょう。もし理解してないとしたら岩屋並みの馬鹿ですよ。

 TBSの昼のワイドショーでコメンテーターの立川志らく師匠から「日本は韓国に舐められている」という発言まで出ました。売国媚韓のTBSですらそう報じざるを得ないほど日本人の対韓国世論が硬化しているという事。韓国政府は事の重大性を全く理解していない。日本は民主主義国家ですから世論に逆らう外交は難しい。そして日本国民を怒らせているのは韓国の反日行動と舐めた態度。これが改められない限り関係改善などあり得ないし、行きつくところまで行くでしょう。我々日本人はそれで構わないと思っている。

 文在寅は関係改善する意思がまったくないようで、この期に及んで日本企業も加わった財団を設立し原告側に賠償しようなどという世迷言をほざいています。日韓請求権協定はどうなった?この前慰安婦財団解散を発表したばかりだろ?本当に日本は舐められているんでしょうな。さすがの弱腰日本政府も国際司法裁判所提訴まで言い出してきました。おそらく韓国は提訴しても乗らないでしょうから今度こそ経済制裁ですよ。私が恐れているのは、韓国が国際司法裁判に応じるまで待つと称し日本政府が対応を先延ばしする事。さすがにそんなヘタレた対応したら私は参院選で自民党には絶対投票しない。維新と売国野党はもちろん論外だが…。白票かな?

 安倍政権の対応も含めて私は日韓関係を厳しく見守りたいと思います。

 

 

2019年5月22日 (水)

生まれて初めて伸晃グッジョブと思った(笑)

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関係改善に焦る韓国側 韓国議員団が自民議員らと面会 石原伸晃会長代行は議員団に向かって突き放すように「なんで来たの?」

 

 

 韓国議員団が訪日すると聞いて、自民党の議員どもが変な妥協をしないかと非常に心配していたんですが杞憂に終わりました。さすがに一連の韓国の反日行動で腹に据えかねる日本人が多いことを議員たちもひしひしと感じていたのでしょう。日韓議連のアホ議員といえども自分を取り巻く環境が日に日に厳しさを増していることは承知しているという事かもしれませんね。

 それにしても石原伸晃、よくぞ言った。これこそまさに取り付く島もないというやつです(笑)。ノビーはこの前の総裁選の時も空気の読めなさで顰蹙を買い、絶対有利の状況で安倍さんに総裁の座を奪われるという大失策を犯した稀有の人ですが、今回はその空気の読めなさが良い方向に転んだ発言です。

 結局二階幹事長にも会えなかったそうですから、韓国議員団の訪日も全くの無駄足。いかに韓国が焦っているか分かりますが、すでに韓国の国家としての信頼性が地に堕ちている(もともと無かったが…)という現実を連中は理解できないんでしょうな。安倍政権が韓国に対し「韓国の裁判結果がどうだろうと日本がそれに従う事はない」とはっきり言っているのにまだ目が覚めていないようです。本来なら国際常識なので言わずもがななんですが、韓国にはわざわざこんな事を言っても無駄なんでしょう。非常識の塊ですから。

 安倍政権が韓国に経済制裁する前に、日本企業の韓国からの撤退は着実に進んでいるようですし、それに追随して外国資本も逃げ出し始めています。韓国株価とウォンの暴落はその何よりの証拠。国際社会から見ればアメリカのトランプ政権が韓国を見限っているというのが常識ですからね。日本もその流れに乗っただけ。

 韓国議員団は天皇陛下に侮辱発言した国会議長文喜相の首を差し出すくらいの事は最低でもするべきでしたね。何もせずに要求だけ突き付けるなど論外。いくら日本の媚韓議員でも自分の身が可愛いから国民から総反発を受けかねない韓国への甘い対応など取れない。岩屋防衛大臣が例外中の例外ですよ。あれはただの馬鹿ですから。韓国議員団も岩屋にすがればよかったのに。そうすれば岩屋を更迭する大義名分にもなりました。

 まあ、とにかく日韓断交に向けて着実に進んでいるようで安心しました。これを加速するには韓国が暴走する事。斜め上の対応をぜひお願いします♪

個人的には韓国のトヨタ提訴は大歓迎

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【韓国】トヨタが韓国で「虚偽のPRをした」、大規模訴訟に~カタログに注意書きはあったが小さすぎて読めない

 


 だから言ったでしょ。韓国は難癖をつけて日本からお金をむしり取りたいだけ。しかもマウントしてくるから、これに謝罪要求まで入ってくる。こんな異常な国とまともに付き合えるはずない。すでに自称徴用工判決で三菱重工と新日鉄住金は韓国からの撤退をほぼ完了しているそうですから差し押さえがどうなろうと韓国に再び戻って商売することはないでしょう。

 また徴用工で訴えられている企業でもまともなところは撤退が終わっているか、撤退の最中だといいます。一説では韓国の株価と通貨が暴落しているのは、日本企業が秘かに撤退しているからだという見方もあります。日本企業の持っている韓国株を投げ売りしているとも言われますね。
 
 弱腰の日本政府はなかなか経済制裁に踏み切りませんが、損得勘定で動く日本企業はカントリーリスクを考え撤退しているという事でしょう。じゃないと株主総会で攻撃されるし、株主代表訴訟にもなりかねません。このブログでも何度も言っていると思いますが、韓国は完全に戦略を誤ったんですよ。弱腰の日本政府相手なら脅せばヘタレてお金を出したでしょうが、企業は損得勘定でしか動かないんだから、リスクが生じたら出ていくでしょう。当たり前の事です。その結果韓国経済は死滅する。ちょっと考えれば分かるはずなのに、薄汚い欲望に凝り固まっていると現実が見えなくなるんでしょうな。韓国は今までやりすぎたんですよ。

 韓国トヨタってトヨタの子会社だと思いますが、おそらく製造はせず販売だけしているんでしょう。撤退も簡単にできますね♪本社の持ち株を二束三文で売り払って在日社員と共に韓国に捨ててくればいい。今回の提訴も、他の日本企業が撤退する大義名分にできます。私は韓国が暴走すればするほど日本にとっては都合が良いと思っています。おそらく日本だけではなく外国資本も急速に韓国から逃げているんでしょう。じゃなければ株価とウォンの暴落は説明できません。

 果たして韓国がいつまでもつか楽しみでなりません。連中はいつも斜め上の反応をしますから、こうなったのは日本のせいだと対馬に軍事侵攻するかもしれませんね。下手すると北朝鮮よりも先に韓国が日米から滅ぼされるかもしれませんよ♪韓国よ、対馬侵攻より韓国に観光(という名の里帰り)をしている日本人観光客(と称する在日)をターゲットにしてくれんかね?その方が日本人は激高して憲法改正もすぐできると思うよwww

 私は、今年は韓国にとっても日本にとっても正念場だと見ています。皆さんはいかが思われますか?

なぜこんな愚か者を防衛大臣にしたのか?(呆)

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【朝鮮日報】岩屋防衛相「韓国との関係、元に戻したい」北朝鮮ミサイルへの共同対応を強調 韓日防衛省会談の来月開催を調整中

 

 

 私は最初から岩屋の防衛大臣起用を危惧してましたが、流石にここまで酷いとは思っていませんでした。韓国との関係を元に戻すのは、日本が言いなりになって韓国のやりたい放題に戻すという事だぞ。歴代最低の防衛大臣は民主党政権時代の『もしもし田中』だと思ってたけど、まさかそれを上回る酷い人間がいるとは…(絶句)。

 火器管制レーダー照射問題、旭日旗嫌がらせ問題、日本に対する敵視政策、何一つ解決していない。レーダー問題では自衛隊員に犠牲が出る可能性もあったのに、肝心の防衛大臣がこんな体たらくでは自衛官が本当に可哀想です。安倍総理の任命責任も重大だと思いますね。いつまで岩屋の売国行為を放置するのか?これは利敵行為に等しいと思いますよ。日本国民の安全を守るべき防衛大臣が、自衛官はおろか日本国民の生命財産まで危険にさらしているんです。

 いつまでも岩屋の暴走を許すという事は安倍総理も同じ意見という事か?日本人を舐めるなと言いたいですね。前任の小野寺さんが素晴らしすぎたせいで余計岩屋の酷さが目立ちます。パチンコチェーン協会アドバイザーの肩書は伊達ではないな。これでは在日から不正献金でも受けているのかと疑われるのも仕方ないでしょう。それくらいあり得ない対応ですよ。

 安倍さん、今からでも遅くない。日本の国を特亜に売り渡す気がないなら岩屋を一刻も早く更迭する事です。小野寺さんの健康問題もあるから再起用は難しいと思うが、岩屋よりはましな防衛大臣適任者はいくらでもいるでしょう。無能な働き者の岩屋よりは、何もできないもしもし田中の方がはるかにましだよ。厳しい方ですが、ここまで虚仮にされても韓国に制裁一つできない安倍政権の情けなさを象徴するのが岩屋防衛大臣でしょうね。

 岩屋よ、もしお前が日本人なら即刻腹を切れ!恥を知れと言いたいですね。まあ、心の底まで在日に支配されているからここまで反日行為が平気でできるんでしょうけど。

2019年5月19日 (日)

ローマ軍の野営地『カストラ』

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 これまで何回か書いたと思いますが、共和政期、帝政期と通じてローマ軍が強かった理由は兵站を最も重視した事です。海路を使えれば主要な港を押さえ、内陸を進軍する場合は要所要所に野営地をもうけ補給拠点としました。この野営地を『カストラ』と呼びます。西洋で城を意味するキャッスルの語源です。カストラ自体はエトルリア起源とも言われますが、すくなくともポエニ戦争時には骨格が出来ていたとされます。

 カストラは、3日間の野営地、4日間の野営地、行軍中の野営地、冬季の野営地、夏季の野営地、恒久的な野営地など多くの種類があり、ローマ軍は必要に応じでこれを造りました。軍の規模によってそのサイズも決まっており、そのためにローマ軍には測量技師や専門の工兵が従軍します。短期の野営地の場合は、テントを張って寝泊まりしましたが、恒久的な場合は城壁も石造り、宿舎も建設され要塞となります。

 軍団のどの部隊がどこに泊まるかも場所が詳細に決められており、ローマ軍は1日の行軍の終わりに土地を測量し、でこぼこした地形の場合は整地してカストラを建設しました。この動きはマニュアル化され、そのための資材もあらかじめ用意されます。カストラの適地は緩やかな丘陵の頂上部で広い土地が確保できるところ。近くに川が流れ飲料水と軍馬用の水、牧草が確保できる場所でした。

 ローマ軍の戦績を見ていると、緒戦で負けることもありましたがカストラに一時撤退して態勢を整え最終的に勝利するというパターンが多かったようです。古代、ローマ軍ほど兵站を重視した軍隊はなかったように思います。それはローマ人の几帳面な性格もあったのでしょう。兵站を重視するゆえに極端に多い軍隊も動員せず、必要十分な兵力で長期間戦える態勢を作りました。これではさすがのギリシャのファランクスも、ゲルマン人やガリア人も敵いませんよね。ローマが地中海世界を統一したのも必然だったのでしょう。

2019年5月17日 (金)

大慶油田の油質に関する問題

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※ この記事はヤフーブログにおいて2014年4月1日に書いたものです。

 

 よく大東亜戦争に関するIFで、満洲にある大慶(ターチン)油田が戦前に発見されていたら歴史は大きく変わっていたかもしれないと言われます。旧満州地区、現在の黒龍江省のハルビンとチチハルの間に広がる松遼盆地の湿原に存在する大慶油田は1959年発見され年間4000万トンから5000万トンの原油を産出する大油田です。

 陸軍燃料廠(石井正紀著 光人社NF文庫)などを読むと、戦前に発見するチャンスは十分にあったとされます。ところがそれに対する反論として大慶油田の原油は重質油で、例え発見しても戦局に寄与することはなかったと主張する者がいるのです。私は素人なので何とも言えないのですが、ネットで調べてみるとある技術者の方の意見として、「大慶油田の油は確かに重質油ではあるが、現在開発されている非在来型の重質油と比べればずっとまともな油質で輸送が難しいのなら油田近くに製油所を作れば問題ない」とのこと。

 その方は、大慶油田の重質油云々で非難する連中は大日本帝国無謬論者で発見できなかった失敗を認めたくないための言い訳に過ぎないと述べておられました。

 ここで重質油とは何ぞや?と思われる方がいると思います。ググってみると「アスファルトや重油などが得られる、比重が大きく粘り気の強い原油」とのこと。これなら効率は悪くなるものの油田の近くに製油所を設ければいいだけだと素人考えでも理解できますね。重油が多く取れるのなら艦船動かし放題、アスファルトなら道路や飛行場作り放題でラッキーとさえ思います(苦笑)。軽油(ガソリン、灯油、ナフサなど)が多く取れたとしても、おそらく日本の航空機生産力は低いのであまりアドバンテージにはならなかったかと愚考します。戦車もそんなに多くないし、歩兵師団の機械化もいまいちだしね。

 まあ戦争で負けた以上、大日本帝国陸海軍や政府が無謬であったはずはありません。無謬なら戦争に勝ってます。どんな戦争にも失敗や間違いはつきもの。より失敗の少ない方が勝つというのは歴史の鉄則です。現在に生きる我々が教訓とすべきは、失敗は失敗として正しく歴史を学ぶ事。それが未来における選択で失敗しなくなる(いや、しにくくなると言うべきか?)という事でしょう。いつまでも大日本帝国最強伝説に酔っているとまた同じ間違いを犯しますよ。

スキピオ・アシアティクスとマグネシアの戦い

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 ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス(紀元前2世紀、 生没年不詳)、どこかで聞いたことのある名だと思います。実はこの人、ザマの戦いでカルタゴのハンニバルを破った共和政ローマ救国の英雄スキピオ・アフリカヌスの実の兄です。スキピオ家は名門コルネリウス一門の有力貴族ですが、特にこの時代有能な人物を輩出しました。スキピオ兄弟は言うまでもなく、その父プブリウスも堅実な軍人・政治家でしたし、スキピオ・アフリカヌスの息子の養子となったスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)は第3次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼしています。

 ちなみに、スキピオ・アエミリアヌスの父もピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼしたアエミリウス・パウルスでした。パウルスはスキピオ・アフリカヌスの妻の弟で、スキピオ・アエミリアヌスは従兄弟の養子になったことになります。

 アレクサンドロス大王の後継者王朝であるアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアはすべて共和政ローマの軍が滅ぼしました。マケドニアはパウルスが、エジプトをオクタヴィアヌスが、そしてシリアはポンペイウスが引導を渡します。ただ、セレウコス朝シリアに関しては既に滅亡の130年前実質的に滅んでいたとも言えます。その立役者がスキピオ・アシアティクスでした。

 セレウコス1世が建国したセレウコス朝シリアは、小アジアからイラン高原に至る広大な領土を誇ります。アレクサンドロス大王の後継者王朝では最大の国力があったとも言えます。ところが、イラン高原で遊牧民族パルティアが興り独立、辺境のトランスオクシアナ地方、トハリスタンを領するバクトリアも離反しました。

 アンティオコス3世(紀元前241年~紀元前187年)は、東方遠征を敢行しパルティアを戦争で下し従属させ、離反したバクトリアにも再び臣従を誓わせます。セレウコス朝シリア中興の祖として大王と称えられるほどでした。ところが、セレウコス朝から独立していたペルガモン王国(アナトリア西部から南部にかけて)を再び服属させようと動いたことで共和政ローマとの対立が決定的になります。ペルガモン王国はセレウコス朝の支配を嫌いローマに支援を求めたからです。当時ギリシャ諸ポリスから成るアエトリア同盟もローマの進出を嫌い反発を強めていましたから、アンティオコス3世はこれと同盟を結びローマとの対決姿勢を示しました。

 ローマとセレウコス朝の対立はローマ・シリア戦争へと発展します。戦端はギリシャの地で開かれました。シリア・ギリシャ連合軍はテルモピュライの戦いで完敗、アンティオコス3世は同盟者のギリシャ諸都市を見捨て小アジアに逃れます。ローマ元老院は、この際危険なアンティオコス3世叩くべしとの声が大きくなり、スキピオ・アフリカヌスの兄スキピオ・アシアティクスを遠征軍司令官に任命しました。

 総勢2万と言いますから、スキピオ・アシアティクスの率いたのは3個軍団(1個軍団は約6千名から成る)と若干の補助部隊でしょう。大国シリアと戦うには随分と小勢ですが、これはシリアを舐めていたというより第2次ポエニ戦争が終わったばかり(紀元前201年に終結)で余裕がなかったからだと思います。紀元前190年、ローマ軍は小アジアのマグネシアでアンティオコス3世のシリア軍を捕捉しました。この時シリア軍の兵力は総勢6万人だったそうですからローマ軍の3倍の兵力です。

 さらに厄介なのは、この時シリア軍にカタフラクトイという重装騎兵部隊がいたことでした。カタフラクトイ(カタフラクト)は東ローマ帝国軍の主力として有名です。馬にも防具を施し、長距離では弓、中距離で槍、接近戦では剣とあらゆるレンジで戦えるのが強みの精鋭重装騎兵の事を指します。ただ、おそらくこの時代では単に馬にも防具を施した重装騎兵の意味だったでしょう。槍が主体、弓は装備していなかったはず。弓は軽装の弓騎兵がいたでしょう。とはいえ、ローマ軍にとって脅威だったのは間違いありません。

 重装歩兵も5m以上にも及ぶ長槍サリッサで武装する重装歩兵ペゼタイロイ。ペゼタイロイはマケドニアン・ファランクス(長槍密集歩兵陣)を組んで戦列の中央に布陣します。その両翼にカタフラクトイ。ただ、唯一の弱点はペゼタイロイが純粋なマケドニア人ではなく現地のシリア人やメソポタミアの住民で構成されていたこと。もちろんマケドニア人の子孫もいたでしょうが、質実剛健の本来の性格を失い当時の文明社会オリエントのぜいたくな生活に慣れ我慢心が無くなっていたと言われます。

 戦いは、数に勝るシリア軍が緒戦から押しまくります。アンティオコス3世は、両翼のカタフラクトイで弱体のローマ騎兵を追い散らしローマ軍の主力重装歩兵を包囲殲滅する、ちょうどカンネーの戦いのハンニバルのような戦い方をするつもりでした。一方、ローマ軍は両翼の騎兵が意外に頑張りました。ただ中央の重装歩兵は敵のファランクスに押され敗色濃厚になります。

 この時、戦場に濃霧が立ち込めました。ローマ軍右翼を指揮していたエウメネス(アレクサンドロス大王の書記官長エウメネスとは当然別人。時代も違う)はこの絶好の機会を逃しませんでした。自分の指揮下にあったクレタ軽装歩兵部隊を敵左翼に奇襲させます。濃霧の中突如現れたローマ兵にシリア軍は大混乱に陥りました。シリア軍左翼にいた鎌戦車の部隊が驚いて自軍に駆け込み収拾がつかなくなります。

 濃霧で状況が見えないアンティオコス3世は、自軍の攻勢が成功したものと勘違いし、右翼のカタフラクトイを率いてローマ軍に突撃しました。ローマ騎兵は軽装だったため全く歯が立たず敗走、ローマ軍はカタフラクトイの攻撃を支えきれず後方の野営地に逃げ込みました。野営地というと防御力はほとんどないようなイメージですが、ローマ軍は土木技術に長けており野営地と言えども整然と整地し深い堀と柵をめぐらし、一種の城に近い存在でした。これがローマ軍が一時的に戦闘で敗北しても最後に勝利する理由ですが、この時もその威力を十分に発揮します。

 野営地を守っていたのはマケドニア軍のファランクスでした。後にローマと対立し滅ぼされるマケドニアも、近親憎悪からこの時はローマ軍に協力し援軍を送っていたのです。さすがに本場のマケドニアン・ファランクスは頑強でシリア軍のカタフラクトイは攻めあぐねます。戦いは混沌としてきました。ローマ軍右翼、シリア軍左翼ではローマ軍の勝ち、逆にローマ軍左翼、シリア軍右翼ではシリア軍優勢、あとは我慢比べです。ローマ軍左翼が敗走しながらも友軍マケドニア軍の奮戦でなんとか持ちこたえているうちに、ローマ軍右翼の戦闘は次第に有利になり始めました。というのも、カタフラクトイは攻勢には強くても防御ではその威力を十分発揮できなかったからです。

 シリア軍左翼は崩壊、中央のシリア軍マケドニアン・ファランクスはローマ軍に包囲されつつありました。総司令官であるアンティオコス3世は、右翼のカタフラクトイ部隊を率いてローマの野営地攻撃に向かっており不在、ようやくアンティオコス3世が自軍の危機を知って戻ってきたときには、中央のペゼタイロイ部隊の敗色は濃厚になっていました。この時、アンティオコス3世が、率いてきたカタフラクトイと共にローマ軍に突撃していれば、また戦局も変わったかもしれません。が、彼は意気消沈し全軍に撤退を命じました。

 どんなに戦況が不利でも粘り強く指揮し情勢の変化を待ち続けたスキピオ・アシアティクス、一方一時的な有利を捨て不利になったらあっさりと戦争を諦めたアンティオコス3世、将器の違いが勝敗を分けたと思います。このようにスキピオ・アシアティクスは弟アフリカヌスのような際立った戦術能力はなくとも堅実で手堅い用兵が身上の良将だったと言えます。

 セレウコス朝シリア軍の損害5万。ほぼ壊滅と言ってよい数字ですが、これは敗走時に生まれたものでしょう。マグネシアの敗北でセレウコス朝シリアは小アジアやメソポタミアに持っていた宗主権を喪失、シリアの一地方勢力に落ちぶれました。イラン高原のパルティアは完全に離反し、逆にメソポタミアのセレウコス領を侵略します。

 ローマ軍の痛手も大きいものでした。一説では死傷者4千とも6千とも言われます。ローマ側も完勝ではなく紙一重の苦しい戦いでした。とはいえ、この勝利でローマの地中海東部への影響力は増大します。ペルガモン王国など親ローマ勢力が拡大し、ローマはこれを支援する形で旧支配者であるマケドニアやシリアを滅ぼすことになりました。

 ローマがオリエントの地で強力な遊牧国家パルティアと対峙した時、かつての宗主国セレウコス朝シリアはポンペイウス率いるローマ軍の前にほとんど抵抗なくあっさりと軍門に降ることとなるのです。紀元前63年の出来事でした。

 

2019年5月16日 (木)

東ローマ(ビザンツ)帝国の重装騎兵『カタフラクト』

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 ローマ帝国の主力は、共和制から伝統の重装歩兵でした。中央にピルム(投槍)とグラディウス(スペイン式短剣)を装備した重装歩兵が布陣し、両翼に同盟軍か傭兵からなる騎兵部隊が位置するというのが長い間の基本陣形でした。

 しかし、敵がフン族などの遊牧民族あるいはパルティアやササン朝ペルシャなど騎兵が主力の軍と相対するようになると、歩兵中心のローマ軍は翻弄され苦戦を強いられるようになっていきます。

 もちろん正面からぶつかってくれば重厚なローマの陣は有効で、重装歩兵の威力をいかんなく発揮できたのですが、敵もローマ軍の強さを知っているため正面攻撃を避け、遠巻きにして馬上から弓を射るという間接攻撃を主体としてきたのです。

 これにはローマ軍も閉口しました。追いかけようにも歩兵と騎兵ではスピードが違いすぎます。困り果てたローマ帝国は第34代ガリエヌス帝(在位253年~268年)の時、軍制を改革し皇帝直属の騎兵部隊を主力とする軍団を作り上げました。

 その新しい伝統は帝国が東西に分裂した後も受け継がれ、東ローマ帝国においてカタフラクトとして結実するのです。

 

 カタフラクトとは…
『カタフラクト(ギリシャ語:κατάφρακτος)は東ローマ軍で考え出された複数の武器と重装甲を持った重騎兵。特に突撃の際に重要になる軍馬の前方のみに装甲を施した騎兵をいう(軍馬全体に装甲を施した重騎兵はクリバナリウスと呼ばれる)。ギリシア語で「甲冑に囲まれた(もの)」に由来する。弓騎兵と重騎兵の機能を両立させようと、弓、剣、長槍、盾を持ち、敵の弓攻撃に耐える装甲を持つ。東ローマ軍の主力であり、火力、機動力、高い装甲を併せ持った重騎兵とされる。しかし、あまりの重装備のため、高い機動性は持てず、弓矢で敵の陣形を弱めた後に突撃による衝動攻撃が主体となった。結果、戦術的な利用は期待できなかった。

後の騎士と違い、軍団兵の延長であるカタフラクトは、あくまで兵隊としての騎兵であり、社会的地位は付帯していない。

サーサーン朝ペルシャとの戦争を教訓にし、重装歩兵によるそれまでの戦闘教義が維持不能と判断した東ローマが、重騎兵を使った新しい戦闘教義として生み出だした。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

というものです。

 

 画像を見ていただくと分かる通り、槍と弓、そして剣を持った重装騎兵です。遠くからは矢、突撃する時は槍、乱戦になると剣というあらゆるレンジで戦えるのが強みでした。唯一の弱点は機動力ですが、それは別に編成された弓主体の軽装騎兵がカバーしました。

 騎兵が決戦兵種となったため、東ローマ軍はあらゆる戦術が可能となり、作戦の柔軟性が広がりました。もちろん伝統的な重装歩兵も健在で、カタフラクトによって両翼から敵を包囲して重装歩兵の陣に追い込む事もできましたし、逆に混乱した敵陣にカタフラクトを突入させ、歩兵が後に続いて戦果を拡大するという戦法も選択できました。

 ユスティニアヌス1世(大帝)(在位527年 - 565年)の時代に、名将ベリサリウスやナルセスがイタリア半島、北アフリカ、スペイン南東部を回復しかってのローマ帝国に匹敵する領土を獲得できたのは、このカタフラクトが存在したからだといっても過言ではありません。

 では、なぜ最強の軍隊を有した東ローマ帝国が滅んだかというと、カタフラクトのような精強な部隊を維持するには莫大な金がかかるのです。帝国が衰退期にさしかかると財政難からカタフラクトは縮小され質も落ちました。属州制からテマ制(軍管区制)に移行するとその傾向には拍車がかかりました。

 そして軍隊は弱体化し、最後にはオスマン朝に1453年滅ぼされる事になります。

 

共和政ローマ期の歩兵戦術

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 上の図は、なかなかいい画像がないために自作したものです。見にくいので拡大してください(笑)。

 なんでこの記事を書いたかというと、上記の理由もさることながら昔ネットで買った新紀元社の「共和制ローマの軍隊」をゲームの参考になるかもということで改めて読み直したところ、当時のローマの戦術が結構完成されていたことに今更ながら感心させられたからでございます。いつの頃完成したのかは分かりませんが、少なくともポエニ戦争までにはある程度の骨格は固まっていたと思います。

 私はアレキサンドロス大王の「ハンマーと金床」戦術が古代世界最高の戦術だと評価していたのですが、ローマの戦術も結構柔軟性を持ったものだったと思いまいた。「ハンマーと金床」は大王のような天才が指揮してこそその真価を発揮する戦術ですが、ローマの場合は戦術がマニュアル化しており、誰が指揮してもある程度の質が保てるというところに利点があります。

 上図でも説明していますが、ローマの場合歩兵部隊を3列に分けその前にウェリテス(散兵)を配するという陣形でした。これはマニプル(歩兵中隊)単位でなされたのですが、各戦列1個中隊が3つ合わさってコホルス(歩兵大隊)を形成します。コホルスが10個集まってレギオ(軍団・兵力4200名)でした。

 ローマ軍はいくつかのレギオを横陣に並べ、その両翼に騎兵を配するというのが基本陣形です。ハンニバルなど何人かの軍事的天才以外、この堅陣を破る者はいませんでした。

 例えば、ギリシャのファランクス(長槍密集歩兵陣)は前面に対する攻撃力・防御力は最強でしたが側面・背面に回られれば意外にもろいものでした。しかしマニプル単位で動くローマ軍は密集・散会が柔軟に運用でき、敵の弱点を見つけるとそこに集中的に部隊を集める事ができます。

 もちろん無能な指揮官はその戦機を発見できず敗れるケースもありましたが、一定以上の将官に指揮されたローマ軍はこの利点を生かし戦いに勝利しました。

 また武器の優越もローマ軍の大きな利点でした。先端が極端に細くなっているピルム(三枚目の画像左端のハスタティが持っています)は、通常の槍としても使えますし、投げたら敵の楯に刺さってくの字に曲がるため、重くて楯を持てなくなるのです。

 歩兵の主兵装であるグラディウス(スペイン式短剣)は刃身が非常に強固で切れ味も鋭いものでした。しかも短剣であるため乱戦になっても有効に使えました。これは白兵戦では反抗の手段がない長槍兵にはできない芸当でした。

 しかしローマ軍唯一の弱点は騎兵です。ローマ軍8万の大軍がハンニバルにカンネーで大敗したのは、両翼の騎兵がカルタゴの精鋭ヌミディア騎兵に敗れ両翼包囲を許したからでした。

 ローマ軍は馬を保有する金持ちの市民で形成した自国騎兵部隊に限界を感じ、外国の精強な騎兵を雇う事でこの弱点を克服します。ゲルマンや上記ヌミディア騎兵を自軍に加えたローマ軍は地中海世界最強の存在として覇者になるのです。

 私はアレキサンドロス大王指揮する『ハンマーと金床戦術』のマケドニア軍と、(カエサルはやや時代が違うので)大スキピオ率いる『マニプル戦術』のローマ軍の対決が見たくなりました。そのうち歴史のIFシリーズで検証する予定です。

クセノフォンとクナクサの戦い

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 ソクラテスの弟子クセノフォンが記した『アナバシス』。ギリシャ語で「上がり」という意味ですが、アケメネス朝ペルシャの王位継承戦争に傭兵として参加したクセノフォンたちが、敵中に孤立し苦難の末小アジアを抜けてギリシャに帰り着くという内容です。日本では岩波文庫から出ていますので興味のある方は一読をお勧めします。

 クセノフォンは紀元前427年から紀元前355年のギリシャ世界を生きました。当時、アケメネス朝ペルシャはギリシャとの戦争に敗北し王朝としては末期でした。といっても小アジアからイラン、エジプトに跨る世界帝国であったことは間違いなく、ギリシャ人たちは傭兵としてペルシャに赴き報酬を得ます。ギリシャ人重装歩兵のファランクス(長槍密集歩兵陣)は、オリエント社会にないものだったので戦争で重宝されました。しだいにペルシャ人たちはギリシャ人傭兵部隊のファランクスを決戦兵種として使い始めます。実際、アレクサンドロスがペルシャ遠征に赴いた時、最初に立ちはだかった強敵がギリシャ人傭兵隊長メムノンだったことでもそれが分かります。メムノンが病死しなかったらアレクサンドロス大王の覇業はならなかったという者もいるくらいです。

 クセノフォンたちを雇ったのも時のペルシャ王アルタクセルクセス2世の弟キュロス(小キュロス 不明~紀元前401年)でした。キュロスは、ペルシャの王位を狙い反乱を起こします。キュロスはダレイオス2世の次男として生まれますが、母パリュサティスは正室だったため溺愛され王位継承の有力候補となりました。ところが父、ダレイオス2世が指名したのはキュロスの異母兄アルタクセルクセス。キュロスの人間性に問題があったのかどうかは知りませんが、父は兄の方が王にふさわしいと思ったのでしょう。ダレイオス2世の死後、パリュサティスは息子を王にすべく色々画策したそうですが失敗に終わります。アルタクセルクセス2世にしても、宮廷にキュロス支持者が多い事は承知しており、それらと離すためキュロスを小アジアを支配するサルディス総督に任命しました。

 しかしこれは裏目に出ます。キュロスは秘かに1万人のギリシャ人傭兵部隊を雇い紀元前401年アルタクセルクセス2世打倒を唱え小アジアで挙兵しました。おそらく高額の報酬で釣ったのでしょう。ギリシャ人傭兵隊は目覚ましい活躍を見せ連戦連勝、国王アルタクセルクセス2世の軍とメソポタミアのクナクサで対峙する事になりました。挙兵からわずか180日後だったと言われます。キュロス軍はギリシャ人重装歩兵1万、ギリシャ人軽装歩兵2千5百、騎兵2千、ペルシャ人歩兵と総勢約2万余。一方クセルクセス2世のペルシャ軍は主力の騎兵6千、鎌付き戦車2百、歩兵の数は不明ですが総勢5万から6万はいたように思います。

 クセノフォンはこの戦いに従軍しますが、傭兵隊長ではなく幹部の一人だったようです。戦いはキュロス軍右翼のギリシャ人傭兵部隊の突撃で始まりますが、血気にはやったキュロスは敵がファランクスに押され後退していくのを見て勝ち戦だと興奮、騎兵で突出してあっさりと討たれました。これを見るととても王の器ではなく、父が後継者に指名しなかったのも納得ですが、ギリシャ人傭兵部隊を除くキュロス軍は総指揮官の戦死で動揺逃げ去り、ファランクスを組んだままクセノフォンたちは敵中に孤立しました。ペルシャ軍もギリシャ人傭兵隊の強さを知っているため容易に手を出しません。せっかくの勝ち戦に、怪我でもしたら馬鹿らしいからです。

 ギリシャ人たちは、撤退し故郷ギリシャに帰ることを決めます。ところがその最中傭兵隊長が戦死し、話し合いでクセノフォンが指揮官に選出されました。クセノフォンは意外な軍才を発揮し、追いすがるペルシャの追撃軍を凌ぎ、小アジア各地を転戦しながらエーゲ海東岸までたどり着き、ちょうど遠征してきたスパルタに雇われることで長い旅を終えました。この顛末を記したのがアナバシスです。

 その後のクセノフォンですが、敵国スパルタに加担したことで出身地アテネから追放されます。以後クセノフォンはコリントス戦争をスパルタ側で戦い戦功によってオリュンピア近くのスキルスに荘園を貰って悠々自適な隠棲生活を送りました。ところが、情勢は転変し新興国テーベがスパルタを紀元前371年レウクトラの戦いで破ったため、スキルスもテーベ軍に占領されました。クセノフォンはスキルスを追放され、皮肉なことにテーベと対抗するためアテネが長年の宿敵スパルタと結んだことで、クセノフォンはアテネ追放を解かれます。その後のクセノフォンの動向は分かりませんが、最後はコリントに移住しそこで生涯を追えたようです。

 

 思えば運命に翻弄された一生だったように思います。そのおかげで不朽の名著アナバシスが誕生したとも言えますが。クセノフォン享年77歳。

 

2019年5月15日 (水)

フィリッポス2世とカイロネイアの戦い

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 アレクサンドロス大王を生んだ国マケドニア。ギリシャ世界の北縁に位置しギリシャ世界のヘレネス(ポリスの市民である文明世界の住民という意味)とは異質のバルバロイ(蛮族)と蔑まれました。実際、ポリスの共和制とは違う王制を採用しますが、民族的にはギリシャ人で間違いありません。マケドニアは最初から強国というわけではなく、むしろ弱小国でした。

 ペロポネソス戦争時代のマケドニア王ペルディッカス2世(在位紀元前448年~紀元前413年)は、ペラに遷都します。王権は安定せず、王位継承問題や貴族の反抗で何人もの王が暗殺されました。北西の隣国イリュリア(バルカン半島西部、アルバニアからモンテネグロあたり)とは対立し戦争になります。紀元前359年にはペルディッカス3世が戦死したほどです。

 フィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)はペルディッカス3世の弟でした。弱小国の常として幼少期時の覇権国テーベに人質に出されます。この時フィリッポス少年は、テーベの指導者エパミノンダスの斜線陣を学んだと言います。斜線陣はギリシャ世界特有の重装歩兵による長槍密集歩兵陣(ファランクス)の片翼(主に左翼)を50列と極端に厚くし、これを先陣として他の部隊を斜め後方に斜線上に布陣したものでした。エパミノンダスが強敵スパルタ軍に対抗するために編み出した戦術で、味方の弱い部隊が敵に接敵される前に50列の斜線陣で敵の片翼を粉砕し包囲することで勝ちを収める目的を持っていました。

 実際、紀元前371年レウクトラの戦いでエパミノンダスはスパルタ軍を破り新興国テーベを覇権国に押し上げます。テーベの斜線陣を冷静に分析したフィリッポスは、50列の縦深ではなくより機動力の高い重装歩兵を決戦兵種にしたらどうかと考えました。というのはマケドニアはスキタイなど遊牧民族と接し、ギリシャ世界よりは騎兵を編成しやすい土地だったからです。またギリシャ世界で有力な騎兵を出すテッサリア地方と隣接していたことも大きかったと思います。

 フィリッポスがいつ『ハンマーと金床』戦術を考案したか分かりませんが、少なくとも原型はテーベの人質時代に生まれたと言えるでしょう。斜線陣では片翼の50列の縦深の他すべての部隊が機動しますが、これは主力の50列以外は戦いの帰趨が決まるまでできるだけ敵との接敵を避けるためでした。縦深の反対側、一番手薄な片翼に指揮官を置き、敵部隊を引き付ける役割もあります。敵から見て一番遠い片翼に敵指揮官がいれば、敵軍はそこをめがけて殺到します。すると50列の縦深から見て敵は側面を見せることにもなるのです。

 しかし、フィリッポスは5mにも及ぶ長槍サリッサで武装したマケドニアン・ファランクスを動かしませんでした。敵軍を支えるバックボーンの役割を与えたのです。敵がファランクスに拘束されているうちに、両翼の騎兵が迂回、側面や背後から敵軍に襲い掛かります。ギリシャ世界には有力な騎兵がいませんでしたから、フィリッポスのハンマーと金床戦術は非常に有効なものになり得ました。

 兄の死を受け帰国したフィリッポス2世は即位します。混乱した国を纏めると国力の伸張に力を尽くしました。ハンマーと金床戦術に適合できるよう国軍を作り変え、厳しい訓練を施します。ギリシャ世界で弱小国と侮られていたマケドニアはフィリッポス2世の時代急速に強大化しました。その国軍を使い、フィリッポス2世はまず兄の仇イリュリアを討ちます。以後積極的にポリス間の争いに介入、発言権を強めました。

 そんなマケドニアを苦々しく見ていた旧覇権国アテネとテーベは同盟して思い上がったマケドニアを叩こうと考えます。反マケドニアの急先鋒はアテネの指導者デモステネスで、彼はギリシャ世界を遊説反マケドニアで纏め上げました。両者の対立は先鋭化し、ついに紀元前338年ボイオテア地方のカイロネイアでぶつかりました。テーベ・アテネ連合軍は3万5千人を集めます。これに対しマケドニア軍は歩兵2万2千、騎兵2千でした。

 テーベ軍が右翼、アテネ軍が左翼を担当し両翼にそれぞれの騎兵を配します。これに対しマケドニア軍は中央に重装歩兵ペゼタイロイによるファランクス、左翼にフィリッポス2世の嫡男アレクサンドロス(後の大王)率いる重装騎兵ヘタイロイとテッサリア騎兵、右翼はフィリッポス2世直率の精鋭軽装歩兵ヒュパスピスタイとヘタイロイを置きました。マケドニア軍は最左翼、アレクサンドロスのテッサリア騎兵を最前列に、他の部隊を斜めにずらして配置しフィリッポス2世のヒュパスピスタイとヘタイロイが一番最奥に布陣します。見かけ上はエパミノンダスの斜線陣でした。フィリッポス2世は自身を囮として敵軍をおびき寄せ、アレクサンドロスの騎兵で包囲殲滅しようとしたのです。

 意外にも最初に戦端を開いたのは一番後方のフィリッポス2世でした。機動力のある精鋭ヒュパスピスタイはアテナイ軍を軽く叩くと敵軍を誘引するように後退します。自軍が押していると勘違いしたカレス率いるアテネ軍は功名心に駆られて突出、友軍テーベ軍との間に致命的な間隙ができました。アレクサンドロスはこれを見逃さず騎兵を率いてその間隙に突入します。マケドニア軍のファランクスとぶつかって身動きの取れなくなっていたテーベ軍は、アテネ軍と分断されました。アテネ軍は逆襲に転じたヒュパスピスタイとアレクサンドロスの騎兵に挟撃され潰走、完全に包囲されたテーベ軍は全滅に近い打撃を受けます。アテネは海軍は強くても陸軍はそれほどではなく、ギリシャ世界ではスパルタと並んで最強を誇るテーベ軍を叩くのがフィリッポスの目的だったのでしょう。

 カイロネイアの勝利は、マケドニアをギリシャ世界の覇権国に押し上げました。以後、ギリシャのポリスは二度とマケドニアに太刀打ちできなくなります。輝かしいハンマーと金床戦術が世界史上にデビューした戦いでした。ギリシャ世界の盟主となったフィリッポス2世は、コリントス同盟を提唱、アケメネス朝ペルシャに対し復讐戦を唱えます。しかし紀元前336年10月、娘の結婚式の席上、強権政治に反発した男に暗殺されるのです。この暗殺劇には息子アレクサンドロスを廃嫡しようとしたフィリッポス2世を憎んだ妻オリュンピアスの関与も疑われています。フィリッポス2世、享年46歳。

 彼の夢は息子アレクサンドロス3世(大王)に受け継がれます。が、ハンマーと金床戦術は結局フィリッポス2世とアレクサンドロス大王の二代で終わります。この戦術を使いこなすにはある程度の戦術能力が必要だったという事なのでしょう。大王の後継者たちの時代、決戦兵種が金床のはずのマケドニアン・ファランクスに移るほど退化しました。そしてこれら後継者王朝であるアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝リシア、プトレマイオス朝エジプトは、白兵戦に特化したコホルス戦術を駆使するローマ軍に敗れ去るのです。

 

 

 

 

 

2019年5月14日 (火)

丸山発言は軽率だったかもしれないが私は支持したい

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【国際】#維新の #丸山議員(元経産官僚)発言、ロシアがブチ切れ「最もひどい発言」

 

 

 最初に言っておきますと私は日本維新の会を全く信用していません。というのは大阪市長(当時)の吉村が、日本人を言論弾圧し朝鮮人を擁護するヘイトスピーチ条例を制定したからです。加えて今度の参院選では女性宮家創設を公約にすると言っています。女性宮家は女系天皇に繋がり、神武天皇以来綿々と続いて生きた皇統を破壊する悪行になりかねない。ここで詳しくは書きませんが、知らない人はネットなどで検索して欲しいですね。女系天皇は二千年続いてきた貴重な皇統を滅ぼし小室朝とか山田朝、酷いケースだと金朝や朴朝にもなりかねない日本の危機です。維新の創設者橋下徹も「竹島は韓国にあげろ」とか「女系天皇を認めろ」などと、とても日本人とは思えない売国発言を繰り返しています。

 

 基本的に維新は第二自民党ではなく隠れ売国野党だと見て良い。まあ自民党とて大半は売国奴の集まりですがね。維新が憲法改正を主張しているのも、本音は憲法9条改正ではなく日本破壊につながる地方分権、地方主権に持っていきたいからだと睨んでいます。大半がクズの維新。その中で比較的ましなのが足立、丸山の二人。その足立ですらKAZUYAの青山批判に便乗して最近は発言が怪しくなってきています。

 

 今回の丸山議員の発言、軽率だったかもしれませんが理屈としては当然だと思いますよ。人類の歴史上、軍事力を背景にしない外交交渉で奪われた領土が返って来たことはない。一見外交交渉で返って来たように見えても、その背後には軍事的外交的な恫喝がありました。そもそもロシア自体が、軍事力で奪った領土は絶対に返さないと嘯いているじゃないですか!

 

 丸山が情けないのは、酒に酔わないと本音が言えないのか、という事と批判されたらすぐ謝罪した所。だったら最初から言うな。政治家はその発言に責任を持つべき。まあ、ロシアが過剰反応しているところを見るとこの発言は正解だったと私は思いますがね。

 

 ロシアは北方領土を返す気などさらさらなく、返すそぶりを見せて日本を騙しお金をせびろうとしているだけ。そのヘタレ日本が武力奪還を示唆してくるとなると慌てるのは当然。自分たちの論理がそっくりそのまま日本から返って来たことになりますからね。私は北方領土にしろ竹島にしろ武力奪還の意思を示すべきだと思いますね。当然そのためには軍事力を増強しなければならない。尖閣も自衛隊を配備し防備を厳重にし守らなければならない。

 

 国際政治は綺麗事では済まないのです。自ら守る意思を示してこそ相手も初めて真剣に話に乗ってくる。憲法9条で絶対に戦争しない日本など舐められて当然。憲法9条が日本にとっていかに悪法か分かります。まともな国になるには憲法9条を改正し国防軍を持たなければならないと、今回の丸山発言を聞いて痛感しました。

 

 

2019年5月12日 (日)

厳しい現実を知った人の主張は説得力ありますね

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【日本のお花畑論客一蹴】ウクライナ人留学生「日本の自称平和主義者をウクライナの前線に連れて行きたい」

 

 ソ連崩壊時、ウクライナは100万人の軍隊と核兵器があったといいます。ところが、ウクライナにも戦後日本の反日パヨクのような現実認識できない阿呆がいたらしく、「核兵器を持てば周辺諸国から警戒される」「100万人の軍隊は維持費もかかるし、今更我が国を攻撃する国もいないはず」と核兵器はロシアにすべて譲渡、軍隊も20万人に削減しました。

 すると2014年、突如侵攻してきたロシアの特殊部隊によってクリミアが強奪されます。この時、死者1万3千名、6万人とも数十万人とも言われる行方不明者が出ました。おそらくロシア軍に殺されたのだろうといわれています。もしウクライナに核兵器があったら?100万人の軍隊を維持していたらロシアは果たしてこうも簡単に侵略してきたでしょうか?

 現在もウクライナは、ロシア軍の全面バックアップを受けた東部のロシア系住民との深刻な内戦が続いています。累計の死者がどれほどになるか想像もできないほどです。その当事者であるウクライナ人留学生の方の主張、重みがありますね。非武装中立とか平和外交などという空理空論がいかに現実離れしているか分かります。

 話し合いで解決しないから戦争は無くならないのだし、自国を守る軍隊が弱ければウクライナのように簡単に侵略を許してしまうのです。ウクライナの厳しい現実を見て日本の自称平和主義者は何も感じないのでしょうか?おそらく特亜の指令を受けて日本の弱体化を図っている連中でしょうから、現実など無視して無知な日本の愚民を騙しているんでしょうね。ロシアと特亜は世界的に見て札付きの悪。こういう危険な隣人に囲まれているんですから、日本は防衛力を強化しないといけないしスパイ防止法で日本国内で暗躍する特亜の工作員である売国奴どもを処断しなければならないのです。

 平和ボケにどっぷり浸かっていると、いつの間にか沖縄は奪われてしまいますよ。我々日本人もウクライナ人留学生の魂の主張に耳を傾けるべきだと強く思いました。皆さんはどう感じられましたか?

2019年5月11日 (土)

ベーラ4世とモヒの戦い

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 ヨーロッパ中央部、チェコからスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと半円形に広がるカルパチア山脈。山脈に囲まれた盆地あるいは平原をパンノニア地方と呼びます。この地は後にハンガリーとも呼ばれました。もともとパンノニア族やゴート族が住んでいましたが、紀元前1世紀、ローマに征服され属州となります。5世紀初頭アッチラ大王率いるフン族に占領されフン族の首都が置かれました。その後6世紀にはアバール人、9世紀にはマジャール人と東方のアジア系遊牧騎馬民族が進出してきます。パンノニアは彼ら遊牧民族にとって住みよい土地だったのでしょう。マジャール人はこの地に定住しハンガリー王国を建国しました。西暦1000年国王イシュトバーン1世がキリスト教に改宗、ハンガリーはキリスト教国としてようやく認められます。ただ出自がアジア系の蛮族マジャール人という事で、西洋諸国は心の底では自分たちの仲間とは認めていなかったと思います。どこか軽侮の気持ちがなかったとは言えないでしょう。ハンガリー人もそのことは十分承知していた為コンプレックスを持ち続けました。

 さて、アールパード朝は9世紀マジャール人たちを率いてパンノニアに定着した大首長アールパードを祖とするハンガリー最初の王朝でした。当初はハンガリー大公を名乗りますが、イシュトバーン1世はキリスト教改宗をきっかけに王号を称します。イシュトバーン1世から数えて21代目にベーラ4世(在位1235年~1270年)という国王がいました。ハンガリー王国はもともとマジャールの首長たちが連合した国だったため、大貴族の力が強くベーラ4世も王権伸張に苦労したそうです。

 そんなベーラ4世の時代、彼にとっても王国にとっても最悪の事態が到来しました。すなわりバトゥ率いるモンゴル軍の侵攻です。ルーシー諸国(ロシアからウクライナにかけて)を席巻したモンゴル軍は部隊をいくつかに分けます。もっとも北、ポーランドに向かったのがチャガタイの第6子バイダル率いる2万で、1241年4月9日リーグニッツで国王ヘンリク2世率いるポーランド軍、ドイツ騎士団、神聖ローマ帝国の援軍2万5千を撃破しました。戦場には連合軍の死体が累々と横たわりワールシュタット(死体の森)と呼ばれるほどの大敗でした。

 バトゥ(チンギス汗の長男ジュチの子)率いる本隊は、さらに三つに分かれました。北のボヘミア(現在のチェコ)からハンガリーを窺う北方軍、カルパチア山脈の南縁を通って南方からハンガリーを窺う南方軍、バトゥ自身は中央を進む中央軍を指揮します。当時、ハンガリーにはモンゴル軍に追われたクマン族(キプチャク人)の難民が多数逃げ込んでいました。ベーラ4世はキリスト教に改宗し、国王の命令に従う条件で駐留を認めますが、ハンガリー人はクマン族のおかげでモンゴル軍の侵略を受けたと憎んでおり、なんとクマン族の首長を殺してしまいました。怒ったクマン族たちはハンガリーを見限り南のブルガリアに逃れます。また、ハンガリーの大貴族たちは国王とモンゴル軍の共倒れを狙い従軍命令に従いませんでした。

 ぼろぼろのベーラ4世ですが、ドイツ騎士団、テンプル騎士団の協力を取り付けようやく1万の軍勢を動員します。バトゥのモンゴル軍も各地に支隊を派遣しこの頃は1万2千くらいに減っていましたから、モヒ平原で対峙したときは兵力的にはほぼ互角になっていました。両軍はモヒ平原を流れるシャイオ川にかかる石橋を巡って戦端を開きます。1241年4月11日の事です。

 モンゴル軍の得意戦術は、少数の先遣隊を派遣しわざと敗走、敵が追撃した所を隠れていた本隊が包囲殲滅するというものでした。この時も、ハンガリー軍はまんまと引っかかります。少数のモンゴル軍が敗走したのでモンゴル軍弱しと嵩にかかって攻めかかりました。ところがモンゴル軍はシャイオ川の上流と下流から別動隊を渡河させており、ハンガリー軍が正面のモンゴル軍にてこずっている間に背後から襲い掛かります。敗北したハンガリー軍は後退し、要塞化した野営地に立てこもりますが、モンゴル軍はこれを包囲、周囲から矢を射かけて削って行きました。

 そのうち、包囲網の一角が開きます。ハンガリー軍はそこに殺到し何とか逃げ出そうとしました。が、これもバトゥの罠で、包囲したままだとハンガリー軍が死兵となり激しく抵抗するためモンゴル軍にも少なからず損害が出ることを恐れたからです。結局、逃げるハンガリー軍を追撃したモンゴル軍は背後から矢を射かけるだけの楽な戦となりました。この戦いでハンガリー軍と援軍のテンプル騎士団、ドイツ騎士団は壊滅、国王ベーラ4世は逃亡し、最後はアドリア海沖の孤島まで逃れたそうです。

 モンゴル軍は、ハンガリー国内をすさまじい勢いで略奪して回ります。軍隊も国王もいないのですから当然です。国王を見捨てた大貴族たちも目論見が外れて大きな被害を出しました。ハンガリーの全人口の20%が失われたと言いますから恐ろしい。モンゴル軍の次の目標は神聖ローマ帝国でした。ところが、突如モンゴル軍は撤退します。モンゴル帝国の第2代オゴタイハーンが死去したからです。バトゥの遠征軍には多くの皇子たちが従軍していた為、次のハーンを決めるクリルタイに参加しなければいけなかったのでした。

 こうしてヨーロッパは危機を脱します。ただ騎兵中心のモンゴル軍は、森の多い西ヨーロッパではその威力が削がれた可能性もあります。攻城戦も多くなるはずで、元寇のように失敗したかもしれません。モンゴル軍は風のようにハンガリーに襲来し風のように去っていきました。残されたのは荒廃した国土のみ。

 転んでもただで起きないのがベーラ4世でした。モンゴル軍が去ったことを知ると、島から出てきて失われた領土の回復戦争を始めます。この時どさくさでオーストリア大公に奪われていた領土も取り戻したそうです。旧来の領土をほぼ回復したベーラ4世は、ハンガリー中興の祖と称えられます。モヒの戦いの際のぐだぐだぶり、その後の逃亡劇とあまり褒められた行動ではないと思うんですが、結果オーライなのでしょう(笑)。

 ベーラ4世はなかなか素敵な性格をしているようで、私は嫌いではありません。

2019年5月10日 (金)

「一里の厚にして千里の権を動かすものは地の利なり」

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※ この記事はヤフーブログにおいて2006年5月31日に書いたものです。

 

 非常にマニアックで申し訳ないのですが、私が長年疑問に思っている事があります。中国史で春秋戦国時代、中原にあった列国の「鄭」が、三晋の一つ「韓」にあっけなく滅ぼされたことです。
(世界史書庫「晋陽城水攻め」参照)
 色々調べた結果、すでに鄭は春秋時代末期晋の六卿の侵略を受け、領土を蚕食されていたということがわかりました。それでも有力な諸侯国である鄭が、なぜ六卿の一つに過ぎない韓氏に滅ぼされたのか、いまひとつ納得できませんでした。
 
 ところが、最近読んだ「戦国策」にその秘密の一端が解明できそうな記述を発見しました。

 三晋(趙・魏・韓)が知氏(知伯)を破って、その土地を分割する事になった。そのとき韓氏の謀臣、段規が韓氏に進言した。「土地の分割に関しては、ぜひとも成皐をお取りなさい」
韓氏「成皐は石だらけの土地である。私の役に立たない」
段規「それは違います。臣が聞くところでは『一里の厚にして千里の権を動かすものは地の利なり。万人の衆にして、三軍を破る者は、不意なり』と申します。君が臣の言をお取り上げになれば、韓はきっと鄭を取ることになりましょう。」
韓氏「なるほど」
 はたして、韓が鄭を取る事になったとき、成皐はその作戦基地になった。

 成皐の地は、黄河と伊水の合流点にあり交通の要衝でした。鄭の地を攻めるための死命を制する場所で、戦国時代なんども戦いが起こりました。後に鄭の故地に中心を移した韓が秦に攻められたときも、秦軍はまず成皐を占領して韓を滅ぼしました。
 さすがに段規は慧眼でした。彼がいたからこそ、韓は戦国の七雄として生き残る事ができたのかもしれません。

 その後の調べ(2019年)では、韓は本来の首都平陽(山西省臨汾市)から宜陽(河南省洛陽市宜陽県)、陽翟(ようてき 河南省兎州市)、そして最後に新鄭(河南省鄭州市)に首都を移しています。韓は反時計回りに鄭を侵略していき、最後に鄭の首都新鄭を落として征服を完了したのでしょう。魏も山西省の本来の領土から韓の上党郡(平陽がある)と趙に挟まれた狭い地峡を通って鄴と大梁(開封市)という中原で最も人口の多い穀倉地帯を征服したので、韓と似たような経緯て侵攻したのだと思います。

2019年5月 8日 (水)

アエミリウス・パウルスとピュドナの戦い(後編)

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 アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が作った『ハンマーと金床戦術』。サリッサと呼ばれる5mもの長さの槍で武装した重装歩兵ペゼタイロイのマケドニア式ファランクス(密集歩兵陣)を金床として敵部隊を拘束し、両翼の重装騎兵ヘタイロイがハンマーとなって側面から敵部隊に襲い掛かり殲滅するという戦術です。これはフィリッポス2世が幼少期人質生活を送っていたテーベでエパミノンダスの斜線陣を参考に独自に創意工夫を加えたものでした。エパミノンダスの斜線陣では敵部隊を粉砕する役目を50列もの極端に縦深が深い左翼の戦列に任せたのですが、『ハンマーと金床戦術』ではより機動力の高い重装騎兵にその役割を負わせたのです。

 ただ、軍事知識がある方ならお気づきでしょうが、この戦術の最大の欠点は攻勢に出る際ファランクスと重装騎兵の間に致命的な間隙が出来かねない事でした。敵に優秀な指揮官がいれば、この隙を見逃さず騎兵を投入してファランクスと重装騎兵部隊を分断、ファランクスの背後に回り攻撃を加えるでしょう。マケドニア軍のファランクスは、他のギリシャ諸国のそれよりは機動力があったと言われますが、騎兵と比べれば相手になりません。

 フィリッポス2世も、その弱点はとうに承知していました。彼はペゼタイロイと同じサリッサで武装していながら、より軽装のヒュパスピスタイという兵種を導入します。軽装歩兵ヒュパスピスタイはファランクスと重装歩兵の間隙を埋める役割を与えられ、両者を結ぶ接着剤のように広く展開することもできれば、総攻撃の際には機動力を生かして攻勢の中心になることもありました。いわば、ハンマーと金床戦術の要です。実はヒュパスピスタイの重要性を日本でおそらく初めて指摘したのは元陸上自衛隊幹部で退役後軍事研究家をされた故・松村劭(つとむ)氏でした。一般の歴史学者では絶対に気付かないところですが、軍事知識があったおかげで気付けたのでしょう。西洋の場合は、軍事知識が常識なので歴史学者でもまともなのです。

 ハンマーと金床戦術は、フィリッポス2世やその息子アレクサンドロス大王のような有能な指揮官でなければその威力を十分発揮できませんでした。将軍たちが大王の遺領を奪い合ったディアドコイ戦争では、すでにハンマーと金床の精緻な戦術は忘れ去られ、平押し一辺倒でペゼタイロイのマケドニアン・ファランクスが決戦兵種になるほど退化します。ハンマーと金床戦術ではありえない戦象を用いたのも彼らでした。

 さて、ギリシャ西岸に上陸したパウルスは、まずマケドニアの圧政下にあったギリシャ諸都市を開放、その上でマケドニア国境に迫ります。解せないのはペルセウスの行動で、ローマ軍が国境に迫るまで何もせずじっとしていました。ローマ軍が上陸するところを攻撃したり、行軍中を要撃するなどいくらでも選択肢はあったはず。凡庸なペルセウスは、臆して何もできなかったというのが実態だったのかもしれません。

 オリンポス山麓を行軍中、ローマ軍は飲料水の不足に悩まされました。パウルスは周囲の地形を見て山麓の森の青々としているところに水脈ありと判断しそこを掘らせます。するときれいな水が湧きだし兵士の喉を潤しました。パウルスの長年の戦場経験の賜物です。国境が近づいてもパウルスはなかなか軍を進めませんでした。斥候を放ち周囲の地形を把握すると、マケドニア軍の背後に回れる間道を発見します。腹心のスキピオ・ナシカ(スキピオ・アフリカヌスの娘婿)を呼ぶと、間道を伝って行軍するよう命じました。スキピオ・ナシカは8千の兵を率いて出発します。この中にはパウルスの長男でファビウス家に養子に入ったファビウス・マクシムスも加わりました。

 奇襲部隊は順調に行軍します。ペルセウスは、正面のローマ軍に動きがないのですっかり油断していました。ところがローマ軍に加わっていたクレーテ(クレタ?)人の脱走兵がマケドニアの陣営に駆け込み奇襲部隊の事を密告します。慌てたペルセウスは、急ぎ外国人傭兵1万人とマケドニア兵2千を送りました。奇襲部隊を指揮するスキピオ・ナシカも何の抵抗もなく行軍できるとは思っていませんでした。その覚悟の違いが勝敗を分けます。激戦の末マケドニア軍を破ったローマの奇襲部隊はマケドニアの本隊を脅かす位置に出現しました。

 驚いたペルセウスは、急ぎ陣を下げさせ平坦な地形でファランクスの威力が十分に発揮できるピュドナでローマ軍を待ち構えます。パウルスは堂々を軍をすすめマケドニア軍と対峙しました。戦いは紀元前168年6月22日に起こります。マケドニア軍は両翼に騎兵を従えながら自慢の重装歩兵ペゼタイロイによるマケドニアン・ファランクスを前面に押し出し粛々と行軍します。コホルス(歩兵大隊)を中心とする柔軟な用兵が強みのローマ軍ですら、かつて欧亜世界を席巻したマケドニア軍は難敵でした。中央に歩兵、両翼に騎兵を配したローマ軍ですが戦いはローマ軍が一方的に押しまくられ崩壊寸前まで追い込まれます。

 その時百人隊長の一人が味方から軍旗を奪い取り敵陣に投げ込みました。軍旗を敵に奪われるのは負けることより屈辱でした。ローマ兵たちは驚くべき蛮勇を発揮し、軍旗を取り戻すべく敵の槍衾の中に飛び込みます。しかし、これすらも一時的に敵軍の動きを止めたにすぎませんでした。

 ピュドナの地は平坦とはいってもオリンポス山の裾野に連なり、緩やかな起伏が点在する地です。密集体形を取るファランクスにもこの時いくつかの間隙が生じます。パウルスはこれを見逃しませんでした。予備部隊を呼び寄せると、この隙間に突入させます。ローマ軍はピルムと呼ばれる投槍を投げ込むと、短剣グラディウスと盾をもって敵陣に突入白兵戦に入ります。外にいる敵には強いファランクスも内側に潜り込まれると成すすべがありませんでした。マケドニア軍がサリッサで対応できない間に、小回りの利くグラディウスは恐るべき威力を発揮しました。コホルス(歩兵大隊)戦術は、ローマがギリシャ諸国や周辺の蛮族たちとの戦いの中から編み出した戦術で白兵戦に最も特化したものです。

 こうなると動きの鈍いファランクスは致命的でした。各所で陣形を寸断され次々と討ち取られていきます。マケドニア騎兵は善戦していたそうですが、戦いに絶望したペルセウスは側近のみを引き連れ戦場から逃げ出します。戦の勝敗を分けたのはパウルスとペルセウスの将器の違いだったのかもしれません。国王に逃げられたマケドニア軍は哀れでした。総崩れになり潰走します。

 ローマ軍に捕らえられたペルセウスは、恥も外聞もなくパウルスの膝にすがり泣き叫んで命乞いをしたと言われます。これを冷静に眺めていたパウルスは、「気の毒な人だ。どうしてあなた自身がローマの敵であったことを誇りにしないのか」と言ったそうです。この敗北で、アレクサンドロス以来の伝統を誇るアンティゴノス朝マケドニアは滅亡します。ペルセウスは捕虜としてローマに連行され、同地で寂しく世を去ったと言われます。

 マケドニア王国は、4つの共和国に分割されますが、ローマに対し反乱を起こし第4次マケドニア戦争で完全に滅びました。パウルスはしばらくギリシャに留まり、ペルセウスに味方したギリシャ諸都市を厳しく処断します。この時奴隷に売られたものが実に15万人にも及んだそうです。ギリシャ各地の財宝は略奪され、この莫大な戦利品でローマ市民は数年間税を免除されるほどだったとも伝えられます。

 軍隊と共にローマに帰還したパウルスは凱旋式を上げると、再び隠遁生活に入りました。病を得て南イタリアで静養します。スキピオ家が贅沢の限りを尽くしていたのと対照的でした。パウルスの性格でもあったのでしょう。質素倹約に努め不必要な交際も避けます。ただ、ローマ市民たちはパウルスのローマ復帰を何度も嘆願したそうです。仕方なくパウルスはローマに帰還します。神官たちと共に病気平癒の儀式を済ませると、疲れたのか家に帰り床に就きました。そのまま失神状態になり3日後永眠。彼の葬儀には若者たちがこぞって棺を担ぎ、老人たちは葬列に付き従ったそうです。

 質素倹約の生活を送り、自分に厳しく他人に優しく、国家の危機には自ら進んでこれに当たる。パトリキ(ローマ貴族)の理想ともいえる人物がアエミリウス・パウルスでした。享年69歳。

アエミリウス・パウルスとピュドナの戦い(前編)

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 ギリシャの一角に興り欧亜に跨る大帝国を築いたアレクサンドロス大王。彼の死後将軍たちが大王の遺領を巡って激しく争い3者が生き残りました。すなわちアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトです。これをディアドコイ(後継者)戦争と呼びますが、大王本来の領土であるマケドニアを受け継いだアンティゴノス朝は、他の二国より経済力で劣る分プライドだけは高かったと言われます。

 イタリア半島で急速に台頭した新興国共和制ローマに対しても苦々しい目で見守っていました。ローマが交易大国カルタゴとポエニ戦争を始めると、時のマケドニア王フィリッポス5世(紀元前238年~紀元前179年)は、カルタゴの将軍ハンニバルと同盟しローマに対抗しました。しかし、援軍を送るでもなく、第2時ポエニ戦争が終わると逆にローマの攻撃を受けます。これが第1次、第2次マケドニア戦争です。紀元前197年、キュノスケファライの戦いでローマ軍に決定的敗北を喫したフィリッポス5世はローマに屈服、莫大な賠償金の他ギリシャ南部、トラキア、小アジアの領土を奪われました。フィリッポス5世の非凡なところは、ローマの実力を知りその後はひたすら恭順しながら秘かに国力を蓄え、軍備を増強した事です。フィリッポス5世は、ローマへの復讐を為さないまま紀元前179年死去しました。

 

 後を継いだのは息子ペルセウス。王位継承時に弟デメトリオスを殺害しています。デメトリオスは講和の時人質としてローマに赴きその明るい性格からローマ貴族と交流を持ち好感を得ていました。ローマとしてもデメトリオスがマケドニアの王位を継ぐのが望ましかったのです。ペルセウスは性格が陰険で親ローマ派の弟を憎んでいました。デメトリオス殺害でローマとの対決は決定的になります。ペルセウスは父の残した軍隊を頼りに紀元前171年ローマとの戦争に立ち上がりました(第3時マケドニア戦争)。

 ローマは軍隊を派遣しますが、流石にアレクサンドロス大王の流れをくむマケドニア軍は精強で何度となく敗北します。ローマ側は、このままでは威信にかかわるので一人の人物に白羽の矢を立てました。彼の名はアエミリウス・パウルス(紀元前229年~紀元前160年)。名門アエミリウス一門ですでに一度コンスル(執政官)を務めています。この時60歳と老齢でしたが、質実剛健、富よりも名声を重視する軍才豊かな典型的パトリキ(ローマ貴族)でした。その家系も華麗で、有名なスキピオ・アフリカヌスの義弟(姉がスキピオに嫁いでいる)であるほか、自分の息子をスキピオの長男(甥)の養子に出しています。これが第3次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼしたスキピオ・アエミリアヌスです。

 ローマの人々にコンスル就任を懇願されたパウルスは、民衆の前で演説しました。

「最初私がコンスルになった時はその職を求めたのだが、今回コンスルの職に就いたのは諸君が将軍を求めたのだ。従って自分は諸君に何ら恩恵を与えるつもりはない。この戦争に勝つため諸君は黙って私に従い必要な務めを果たして欲しい」

通常、コンスルに就任するときは民衆に利益を約束するものですが、パウルスの演説は逆に民衆に国家への奉仕を求めたものでした。ケネディの「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」発言に通じるものがあります。

 出陣の朝、パウルスは幼い娘テルティアが泣いているのを見掛けました。「どうしたのだ?」とパウルスが尋ねると、テルティアは「お父様、飼い犬のペルセウスが死んでしまったの」と言いました。パウルスは娘を慰めながら、「これは幸先が良い。この前兆を受け入れよう」と呟いたと伝えられます。

 ペルセウスは歩兵4万、騎兵4千を準備してローマ軍を待ち構えました。パウルスは歩兵3万4千、騎兵4千を率いてアドリア海を渡ります。アレクサンドロス大王の流れをくむマケドニア軍とコホルス戦術の柔軟な用兵を誇るローマ軍、地中海の覇権をかけた戦いでした。次回、ピュドナに相まみえた両軍の戦いとその後を描きます。

 

2019年5月 7日 (火)

墨守

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 古代支那戦国時代は諸子百家と言われる思想家たちが多数出てきた時代でもありました。有名なものでは孔子・孟子の儒家、老子・荘子の道家、儒家の荀子から発展した法家などがあげられます。その一つに兼愛非攻の博愛主義を掲げた墨子の墨家がありました。

 墨家は酒見賢一の小説『墨攻』でも有名になりましたが、あの小説の通り墨家たちは兼愛非攻が綺麗事では成り立たないことも十分理解していました。墨家は自らが武装することで侵略の被害に遭う国を助け自分たちの理想を貫こうとしたのです。当然、勝つためには技術がなければなりません。墨家の祖墨子は工匠だったとも言われ、新兵器を開発し戦争にも携行していきます。

 墨子は本名を墨翟(ぼくてき)と言いました。生没年は不祥ですがだいたい紀元前470年~紀元前390年頃の人だと言われます。当時、公輸盤(こうゆはん)という人が南方の大国楚のために雲梯という攻城用の新兵器を開発し、楚王はこれを使って弱小国宋を攻めようとしていました。この噂を聞いた墨子は魯(の出身だと言われる)から昼夜兼行で楚の都郢(えい 現在の湖北省荊州市あたり)に駆け付け、公輸盤に面会を求めます。

 「聞くところによると貴殿は雲梯という兵器を使って宋を攻めようとしているそうだが、宋にいったい何の罪があるのか?そもそも楚は広大な土地であるにもかかわらず人口が少ない。足りないものを殺して余っているものを奪うのは智とは言えますまい。加えて罪のない宋を討つのは仁とは言えないでしょう」

 これに対し公輸盤は「仰る通りだが、すでに楚王の裁可を得ている。今更中止はできない」と答えます。

「ならば楚王に謁見させてほしい」と墨子はさらに食い下がりました。

 楚王に面会した墨子は最初にこう発言します。

「立派な車があるにもかかわらず隣家の車を盗もうとする者がいます。王はこれをどう思いますか?」

「盗癖があるに違いない」王が答えると

「では申し上げますが貴国の国土は五千里四方、一方宋は五百里四方しかありません。物資も富も豊富な貴国が宋を攻めるのは盗癖のある男と何の違いがあるでしょうか?」

 楚王は「お話はその通りだが、せっかく雲梯を作った公輸盤の立場もある。今更攻撃を止めるわけにはいかない」と拒否しました。

 墨子は楚王に公輸盤との直接対決を申し出ました。図上演習をしようというのです。革帯を解いて城壁に見立て木札を兵器になぞらえて攻撃させました。すると公輸盤がどのように攻めようと墨子はことごとくこれを防ぎます。木札の尽きた公輸盤は「負け申した。だが自分には奥の手がある」と発言します。

 不審に思った楚王が尋ねると、墨子は「彼の意図は分かっています。私さえ殺せば守るものがいなくなってたやすく勝てるというのでしょう。しかしすでに私の高弟三百人が私の考案した防御兵器を持って宋で楚軍の攻撃を待ち構えています。私を殺しても宋を滅ぼすことはできませんぞ」と答えました。

 こうして宋攻撃は中止になります。墨子は満足して帰路につきました。途中、宋を通ると大雨に見舞われます。墨子が民家の軒差しで雨宿りをしていると門番から追い立てをくらったそうです。宋の人たちは自分たちの命を救った大恩人の功績を全く知りませんでした。墨子の著者(おそらく墨子の弟子)はこのエピソードをこの一文で締めくくっています。

 「人知れず危機を救えば人々はその功績に気付かない。これ見よがしに騒げばその功績は知られるのだが」

 墨子は兼愛非攻の博愛主義を説きましたが、それが綺麗事では実現しないことも十分承知していました。ただ、人類の歴史は戦争の歴史でもあり、博愛主義は理想ではあっても絶対に実現しないことを我々は知っています。墨家集団も時代の流れで衰退していき、現在は残っていません。結局戦争を避けるためには自らが武装しなければいけないという事なのでしょう。非武装中立論者がこの話を読んで現実に目覚めてくれれば良いのですが、まあ無理でしょうね。

2019年5月 5日 (日)

世界の宝なら韓国で採用すればいいだろ?

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後藤謙次「金大中元大統領も、世界の宝・憲法9条をなぜ日本は変えようとしているのかと…」 ネット「自衛隊を守るために改正すべき



 日本のマスゴミ関係者が特亜の手先だと良く分かる発言です。そもそも自衛権は独立国家固有の権利。国防のための軍隊保有は国連憲章で認められているし国防のための交戦権も同様。軍隊の保有も国の交戦権も否定する憲法9条が国際法違反なのは明らかです。憲法9条をあくまで金科玉条とするなら国連から脱退し全世界に向けて宣戦布告しないとおかしい。これは現実的にあり得ないから、国際法違反の憲法9条を変えて普通の国のように軍隊保有も交戦権も認めましょうというのが改憲派の論理ですよ。

 護憲派がいかに異常か分かります。だいたい70年前にできた憲法を今まで一度も変えたことがないこと自体あり得ない。同じ敗戦国のドイツやイタリアでさえ何度も変えている。これは当たり前で、憲法ができた時と今では事情が変わっているのだから、その時々の現実に合わせるのが当然でしょう。憲法をあたかも聖典のように扱い、絶対に変えてはいけないというのはもはやカルト宗教です。

 ところが自民党内部にさえ憲法9条カルト教の信者がいます。野党に至ってはほぼ全員。日本の政治は絶望的ですね。国民も平和ボケで憲法9条の異常性に気付かない者が多い。厳しい言い方ですが、憲法9条を改正してまともな条文にしていれば自衛隊も国軍になり北朝鮮による拉致事件も起こらなかったと思いますよ。ですから護憲派は国賊。

 日本を巡る国際環境は厳しさを増しています。平和ボケ日本人は気付かないかもしれませんが、北朝鮮問題は深刻でいつ米軍による空爆が起こってもおかしくない。台湾情勢も人民解放軍幹部が武力統一の可能性に言及している通り、いつ有事が発生するか分かりません。南沙諸島に至っては、士気の低い人民解放軍兵士が恐怖にかられ米艦船に発砲した時点で紛争ぼっ発です。台湾と南沙諸島の場合は、日本のシーレーンも脅かされるため国民生活に深刻な影響も出ます。輸送コストがかかりますから、石油関連製品の値上げが凄くなる可能性もある。

 もう一つあり得る可能性として日韓戦争も上げられます。韓国は日本と和解する気ゼロで挑発を続けています。日韓請求権協定違反の自称徴用工判決、韓国海軍艦船による日本哨戒機への火器管制レーダー照射事件、韓国国会議長による天皇陛下(昭和天皇陛下と上皇陛下)に対する侮辱発言。普通の国なら即戦争になる案件ですよ。差し押さえた日本企業資産の売却が行われれば安倍政権は報復すると言っていますから、事実上の日韓断交となるでしょう。韓国は常に斜め上の反応をしますから、自分たちの悪事は棚に上げ日本の制裁を受けて逆ギレ、攻撃を仕掛けないとも限らない。

 マスゴミ関係が護憲派なのは、日本の牙を抜く憲法9条が特亜にとって宝だからなんでしょうね。憲法9条があるために日本は反撃できないから特亜のやりたい放題になる。我々国民が厳しい現実に目覚めない限り日本は特亜に今後も酷い目に遭わされるという事です。この現実を打破するには、まず韓国に対する厳しい経済制裁しかないと考えます。

 皆さんはいかが思われますか?

2019年5月 4日 (土)

テキサス問題と米墨戦争

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 1776年の独立以来膨張を続けるアメリカ合衆国。イギリスの植民地だったミシシッピ河東岸を獲得したのは1700年代末から1800年代初頭にかけてでした。当時人口の大半はアパラチア山脈から大西洋岸にかけての独立した13州とその周辺に密集していました。ただ自由農民による入植がアパラチア山脈以西ミシシッピ河東岸にかけて進んでおり、合衆国政府はさらなるフロンティアとしてミシシッピ河西岸、当時フランス植民地だったルイジアナに目を突けます。ナポレオン戦争最中の1803年、フランスの弱みに付け込む形でルイジアナ買収に成功。アメリカの領土は大きく西に前進しました。

 しかし、現在のテキサス州からカリフォルニア州にかけてのアメリカ南西部はスペイン領でアメリカ自由農民の進出はここで一時ストップします。ところが自由農民の中にはスペイン領テキサスに入植希望する者が出てきました。テキサスのスペイン総督府はこれを認め1821年まず300家族の入植を認めます。スペイン領北アメリカでは1810年メキシコが独立しており、テキサスやカリフォルニアはいわば取り残される形になっていたので、スペイン当局としても人口を増やし国力を蓄えるのが急務だったのでしょう。

 が、孤立したスペイン領北アメリカは間もなくメキシコに編入されました。1831年テキサスの人口は2万人でしたが1836年には5万2千人に増加します。増えた分の大半はアメリカ人で南部同様黒人奴隷を使った綿花のプランテーションを経営していました。メキシコ政府は、このままではテキサスがアメリカに乗っ取られかねないと危機感を抱き、合衆国からの移民を禁止します。合わせてテキサスにおける奴隷制廃止を宣言しました。

 これに対し入植したアメリカ人たちはメキシコ政府の命令を無視、逆に1835年テキサス独立を掲げ武装蜂起します。1836年テキサス独立戦争に発展し、有名なアラモ砦の戦いはこの戦争中に起こった出来事でした。ここまで見てきて加害者はアメリカ入植者、被害者がメキシコ政府だと分かるでしょう。1836年3月、テキサスのアメリカ人たちは一方的に独立を宣言します。

 アメリカ合衆国政府は、独立したテキサスが合衆国編入を希望したため自国に併合するかどうかで紛糾しました。併合賛成派は奴隷州の増加で勢力拡大を図ろうとし、反対派(主に北部)はこれ以上奴隷州が増えることを危惧したのです。この対立は後に南北戦争へと発展しました。結局声の大きい併合賛成派が勝ち1844年テキサスは合衆国に編入されました。

 アメリカ人の西部入植熱は北部と南部で別々の道を歩みます。奴隷制を否定する北部は自由農民が主流で商工業が発達していた為市場に出す商品作物栽培が行われました。一方、南部は綿花を欧州に輸出するため黒人奴隷を使った大規模なプランテーション経営を行います。ですから、西部に進出するにしても北部は自由農民の入植、南部は黒人奴隷のプランテーション中心となりました。テキサスに移民したのは奴隷制の大規模農場経営者が中心で、もともとガラの悪い連中でした。

 領土を強奪された一方的被害者のメキシコが黙って引き下がるはずありません。アメリカとメキシコの対立は先鋭化し1846年ついに米墨戦争が勃発します。時の米大統領ポークはこの戦争を正当化するため「テキサス再征服のためメキシコ軍が一方的に越境し攻撃を加えたので、やむなく応戦するに至った」と議会にメッセージを送ります。この主客を逆転した身勝手なアメリカ政府の態度に怒りを覚えますね。

 戦争は両国とも辺境の地で兵站能力も低かったため米軍7万8千、メキシコ軍4万と小規模なものに終わります。ですが結局数が多いほうが勝ち、米軍はメキシコ領だった太平洋岸に進出、ロサンゼルスなどカリフォルニア各地を占領、テキサスからカリフォルニアに至る広大な地域を占領しました。さらにスコット将軍率いる部隊がカリブ海沿いの重要都市ベラクルスに上陸・占領。その勢いをかって首都メキシコシテイーを占領した時点でついにメキシコは屈します。1847年1月カフエンガ条約でメキシコはテキサスからカリフォルニアに至る北部領土を喪失しました。これはメキシコ領土の3分の1にもあたる広大な土地で、国民の支持を失った時の独裁政権は崩壊、再び中央集権のメキシコ合衆国に戻ります。

 米墨戦争はアメリカによる明らかな侵略戦争でした。正義はメキシコにあると言っても良かったのですが、戦争は勝ったものが正義でメキシコは泣き寝入りせざるを得ませんでした。こうして見てくると国防がいかに重要か分かるでしょう。弱い国は大国に利用されるだけの惨めな存在なのです。米墨戦争の歴史を通じて、日本の国防力を強化しなければいけないと痛感した次第です。

2019年5月 2日 (木)

現金化するならさっさとしろ。まだやってなかったのか?(呆)

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【韓国外相】現金化に介入せず 「政府が介入することではない」=徴用工問題で

 


 韓国政府もよくやるよ。自分から焚きつけておいて自称徴用工判決で日本企業の資産差し押さえ、売却が現実化してくると知らんぷり。ここまで無能で無責任な政権があったでしょうか?本来なら日韓請求権協定に基づいて韓国政府が原告に補償すればよいだけ。完全に国内問題なのに日本が嫌いだからと言ってすべての責任を日本に押し付ける。韓国国民も調子に乗って日本にだけは何をしても良いとばかり無理難題を押し付けお金をむしり取ろうとする。

 こんな国と国交を結ぶ意味がありますか?私は国交断絶しかないと思いますよ。日韓基本条約で最終かつ完全に解決しているのに「今回だけ」「今後は二度と要求しない」と何回も嘘をつかれ、その度に日本はしなくても良い謝罪をしお金を払ってきました。何度も同じ手で騙される日本政府・外務省も酷い。どんな馬鹿でも三回騙されたらその相手を二度と信用しませんよ。外務省は馬鹿以下なのか?(呆)

 韓国が今回間違ったのは日本政府ではなく日本企業に喧嘩を売ったこと。ヘタレ日本政府なら脅せば金を貰えたが、企業は損得勘定でしか動きません。韓国で商売するといつ無理難題で金をせびられるか分からないとなれば撤退するでしょう。すでに勘の良い企業は撤退を済ませているし、利口な企業はそもそも韓国には進出していません。残るのは空気が読めない無能な日本企業だけ。このような馬鹿企業は韓国から血祭りに遭えばよい。日本としては報復の材料になるから大歓迎です。

 さすがのヘタレ安倍政権も、日本中が祝賀ムードの令和元年初日に喧嘩売られたんだから今度こそ制裁しないと駄目でしょう。何もしなかったら参院選に悪影響があると思いますよ。安倍政権の支持率も下がりますね。といって、野党の方がさらに売国だから政権交代は絶対になさそうだが安倍総理は退陣に追い込まれるでしょうね。

 令和元年を日韓断交元年にしたいですね!

2019年5月 1日 (水)

ベネズエラのクーデター、詳細を知りたい

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ベネズエラ、反政権の国会議長が決起呼び掛け

 


 令和最初の記事が戦争というのも悲しいですが、世界の現実はかくも厳しいという事で書きました。4月30日まさに平成最後の日に第一報が入った南米ベネズエラのクーデター。前のチャベス政権から続くマドゥロ大統領の反米左翼独裁政権。アメリカからの厳しい経済制裁でベネズエラ国民は困窮しました。これに対し、おそらくアメリカCIAのバックアップも当然あると思いますが、民主化を求めて立ち上がったグアイド国会議長を首班とする改革派との対立が先鋭化していたという話は聞いていました。

 クーデターの詳細は分かりません。マドゥロ政権側の発表ではクーデターは鎮圧されたとのことですが、まだまだどう転ぶか分からないというのが現状なのでしょう。軍の一部もクーデター派に同調しているそうですから深刻な内戦に突入するかもしれませんね。おそらくYouTubeにあげられていると思いますが、衝撃的な動画を見ました。反政府デモに集まった群衆に対し政府軍の数台の装甲車が突っ込んでいるものです。装甲車は明らかにアクセルを踏んでいますから、殺意があったはず。左翼独裁政権は人権など屁とも思っていないのでしょう。遠目で分かりませんが、何人か逃げ遅れた人がひき殺されていたように見えます。私は天安門事件を思い出しゾッとしました。

 ベネズエラの事情に他国の我々が口を挟むべきではありませんが、ベネズエラの人に望ましい展開はルーマニアのチャウシェスク政権のように国民と軍が協力し左翼独裁政権を倒すことだと思います。民主主義にも欠点はありますが、人権を抑圧する左翼独裁政権よりははるかにましなはず。

 令和の祝賀ムードで日本ではほとんど報道されていませんが、ベネズエラの今後について見守っていかなければならないと思います。

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