世界史上難攻不落の城 カーリンジャル城
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この城も前記事で出てきたシェール・シャー所縁の城です。と言ってもシェール・シャーが築いたわけではなく彼がこの城を攻める最中、砲弾の爆発事故で不慮の最期を遂げています。
敵はラージプート族。インド北西部ラージャスタン州を中心にインド北部、主にデカンの北縁部に分布した戦闘民族で歴代インド王朝を悩ませます。ラージプート族の起源ははっきりしません。5~6世紀ごろインドに侵入した遊牧民族エフタルと末裔とも、それより前のイラン系サカ(塞)族の末裔とも、これら遊牧民族と現地の民族の融合体とも言われます。四大カーストのうち戦士階級であるクシャトリアを称し武力をもって北インドに君臨しました。
13世紀前後から始まったイスラム勢力による北インド侵入でも最後まで抵抗したのがヒンズー教を奉ずるラージプート族で奴隷王朝などデリー・スルタン朝の歴代スルタンも婚姻政策で懐柔せざるを得ませんでした。そのあとに北インドを征服したムガール帝国のバーブルもラージプート族に悩まされた一人です。ムガール帝国を一時滅ぼし自らのスール朝を建国したシェール・シャーも最大の難敵としてラージプート族に当たりました。
カーリンジャル城はデリーの南東500㎞くらいにあります。マディア・プラーデシュ州の北部、ちょうどデカン高原の始まる北縁の山城です。城の歴史は古く2世紀からあるそうです。ラージプート族の興したチャンデーラ朝(9世紀~13世紀初頭)の支配下に入り、その時は王朝の首都となります。それほど要害堅固だったのでしょう。
1023年にはイスラム教徒のガズナ朝スルタンのマフムードに占領されました。1526年にはムガール帝国初代バーブルも一時占領したそうです。ところが間もなくラージプート族に奪回され侵略者イスラム勢力に対するラージプート族抵抗の一大拠点になりました。この時大改修されたのでしょう。ムガール帝国二代皇帝フマユーンをインド亜大陸から叩き出したシェール・シャーも北インド支配の総決算として1545年カーリンジャル城を攻めます。が、城はびくともせずシェール・シャーはバーブルがインドにもたらしたマスケット銃と大砲でこの城を攻略しようとしました。すでに1510年ポルトガルがインドのゴアを占領し植民地支配の拠点にしていますから、もしかしたらポルトガル経由で銃砲や弾薬を調達していたのかもしれません。
事故の詳しいいきさつは分かりませんが、カーリンジャル城の城壁がよほど堅固だったのでしょう。大量の火薬を集めて直接城壁を破壊しようとしたのかもしれません。ただ、シェール・シャーの率いていたインド兵は火薬の扱いに慣れておらず視察に来ていたシェール・シャーを巻き込んだ爆発事故を起こしたのでしょう。こうして不世出の英雄シェール・シャーは不慮の事故でその波乱の生涯を終えます。
シェール・シャーの攻撃を防いだという点で、私はカーリンジャル城を難攻不落の城の一つだと評価しました。ただ、その強靭な防御力も近代兵器を駆使するイギリス軍には敵わず1812年ついに占領されてしまいます。イギリスによるインド征服の象徴でした。
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