世界史上難攻不落の城 ロータス・フォート
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。
いつも応援ありがとうございます。
忘れたころにやって来る難攻不落シリーズ。一時中断したのは私の知識が欧州、中東、極東に偏っていて中央アジアやインドの難攻不落の城に自信がなかったからです。中央アジアの主要都市(当然周囲を城壁に囲まれた城塞都市)は、一見難攻不落に見えてもモンゴルやペルシャ、あるいはティムールなどに何度となく落城させられていますから、難攻不落としては紹介できませんでした。インドに関してはさらに知識不足で、ゴルコンダ要塞などは難攻不落っぽいイメージはあってもムガール帝国のアウラングゼーブ帝に落とされているので微妙だと思います。
中央アジアに関しては相手が悪すぎたというのもあるでしょう。いろいろ調べていく中で、スール朝の創始者シェール・シャーに関する二つの城は難攻不落を冠しても良いのではないかと思い今回記事にしました。まずはロータス・フォートです。
ちなみにシェール・シャー(1486年~1545年)という人物は、私がインド史の中で一二を争うほど好きな人物で過去記事『世界史英雄列伝38』でも書いています。ここで生涯を簡単に紹介すると、もともとアフガン系でデリー・スルタン朝の一つロディ朝に仕えていた彼は、インドに侵入したムガール朝のバーブルの将来性を見込み帰順しました。シェール・シャー自身も有能でバーブル旗下の武将としてムガール帝国建国に尽力します。
しかしまもなくバーブルの元を離れ故郷ビハールに戻り、バーブルが死んで息子フマユーンが立つと反乱を起こしフマユーンをインドから叩き出しました。自らのスール朝を建国したシェール・シャーはわずか6年で北インドを平定します。ところがラージプート族を攻撃中に砲弾の暴発事故で亡くなりました。一代の英傑シェール・シャーの死後スール朝は分裂し、ペルシャに亡命したフマユーンは、サファヴィー朝タフマースブ1世の援軍を受けついに北インドを奪還します。ですからシェール・シャーが長生きしていればムガール帝国は二代で滅びていたのです。
ロータス・フォート(城塞)はそのシェール・シャーがムガール勢力の逆襲に備えインド、パンジャーブ地方に築いた要塞です。場所はパンジャーブ地方のほぼ中央、インダス河から数えて二番目の川チェナーブ川の西岸にあります。ちなみに三番目がラビ川でパンジャーブ地方最重要都市ラホールのすぐ西を流れています。中央アジアからインド亜大陸に侵入するにはアフガン国境のカイバー峠を越えなければなりません。そこからパンジャーブ地方を突っ切って北インドのヒンドスタン平原に入るわけですが、ラホールを守るならラビ川が最終防衛線になります。
シェール・シャーはリスクの高い野戦での防衛より、その前に強力な前哨陣地を築き敵軍を防ごうと考えたのでしょう。ロータス・フォートはチェナーブ川沿岸のジェラムの西10㎞の丘陵上にあります。海抜818m。と言ってもこの地自体が平均高度が高く比高はそれほどないかもしれません。近くをアフガニスタンとインドを結ぶ主要街道(グランド・トランス・ロード)が通り、周囲は5㎞。丘陵の稜線沿いに城壁が築かれました。12の城門と68基の稜堡、3つの井戸、長期間の籠城に耐えられる構造です。城壁の高さも10mから18m。中には軍人を中心に3万人が住んでいたそうです。インドは規模が大きいですね。
シェール・シャーが健在ならこの城を中心に強力な防衛線を築きペルシャの援軍を加えたフマユーンのムガール軍を粉砕していたかもしれませんね。というより、シェール・シャーが生きていたらフマユーンはインドに戻ろうという気も湧かなかったでしょう。ただ、フマユーンが戻ってきたときシェール・シャーはいませんでした。王朝も分裂し、ロータス・フォートは降伏したのか籠城戦の末落城したのか分かりません。結局人あっての城なのでしょう。
インド史上一代の英傑シェール・シャーとロータス・フォート、ロマンがあります。一度訪れてみたいですね。
« 有屋峠の合戦 | トップページ | 世界史上難攻不落の城 カーリンジャル城 »
「 世界史」カテゴリの記事
- カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置(2024.07.02)
- 甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高(2024.06.30)
- 黒水城(カラ・ホト)の話(2024.06.27)
- イスファハーン ‐世界の都市の物語‐(2024.03.29)
- シアールコート ‐ 世界の都市の物語 ‐(2024.02.29)
コメント