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2019年9月12日 (木)

後漢、三国時代の地方行政

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 マニアックな記事が続いて申し訳ない。過去記事で後漢時代の各州の人口を書いたんですが、その際地方行政の仕組みに関し説明不足だったかなと思い改めて記すことにします。一応過去記事の肝である人口表を載せておきます。

◇幽州(ゆうしゅう)…204万

◇并州(へいしゅう)…70万

◇冀州(きしゅう)…593万

◇青州(せいしゅう)…370万

◇兗州(えんしゅう)…405万

◇徐州(じょしゅう)…280万

◇豫州(よしゅう)…618万

◇司隷(しれい)…310万

◇涼州(りょうしゅう)…42万

◇楊州(ようしゅう)…434万

◇荊州(けいしゅう)…626万

◇益州(えきしゅう)…724万

◇交州(こうしゅう)…110万

 

 漢代の地方行政は、大きな方から州、郡、県が設置され、例えば冀州には魏郡、鉅鹿郡、常山郡など9個の郡がありました。郡の下に複数の県があるわけですから俗に支那四百余州という場合の州は県を指しているわけです。通常、治安・行政を担当するのは郡の長官である太守で州の長官刺史は郡太守の監察権しか有しませんでした。

 ところが、日本において同じような立場であった鎌倉時代の守護が南北朝、室町期にはその国の支配権を握るのと同様、後漢末期の刺史は監察権ばかりか州の行政権まで握るようになります。さらに後漢末期益州(現在の四川省)の刺史となった劉焉(りゅうえん)は朝廷に上奏し刺史に軍事警察権まで有する牧の設置を認めさせます。三国志に詳しい方ならご存知の通りこの劉焉、のちに劉備に益州を乗っ取られる劉璋の父です。劉焉はなかなか野心家だったらしく益州に赴任すると牧の地位を最大限に利用し独立勢力を築くのです。お人好しの息子とは大違いですね。

 後漢十三州と言われますが、そのうち首都洛陽と旧都長安を含む一帯は司隷とよばれ刺史ではなく司隷校尉が支配しました。通常牧で四品、刺史で五品の位階であるところ司隷校尉は三品の高官でした。三品と言えば中央政府では尚書令、中書令、侍中に匹敵する高い地位で、それだけ首都圏の行政が重視されたという事でしょう。三国志ファンなら河南尹という官職を聞いたことがあると思います。これは首都洛陽を含む河南郡の長官で、位階は三品でした。通常の郡太守は五品なので驚くべき地位の高さです。

 司隷校尉と河南尹、同じ三品ということで互いにやりにくかっただろうと想像します。ちなみに劉備が初めて官職を与えられたのは安熹県尉。小さな県の警察署長くらいの役職で位階は最下層の九品。こんな安月給の卑役で都の悪徳役人に賄賂を要求されたら誰でもブチ切れるわなと納得します(笑)。演義では賄賂を要求した督郵(とくゆう 監察官の職)を殴ったのは張飛になってますが、正史では劉備本人でした。

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