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2019年11月24日 (日)

楠木正儀、南朝の裏切り者と呼ばれた男

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 楠木正成、南朝の忠臣としておそらくほとんどの日本人は名を知っていると思います。その嫡男正行(まさつら)も湊川の戦で勝つ見込みのない中壮絶な決意で赴く父正成と桜井の駅での別れは太平記の中でも名場面の一つです。そして成長した正行は父の遺志を継ぎ四条畷の戦いで弟正時と共に壮絶な戦死を遂げます。父正成を大楠公、正行を小楠公と後の人々は称えました。

 今回紹介する正儀(まさのり、1333年~1388年)は、正成の三男です。二人の兄正行、正時が戦死したために楠木家の当主となりました。しかし正儀の評判は良くありません。南北朝の和平を図ったり、それが失敗すると怒って一時北朝に降ったりしたからです。だた、私は正儀が現実主義者だっただけだと好意的に見ています。

 それでは彼の人生を簡単に振り返りましょう。正儀が家督を継いだ時わずか15歳前後だったと言われます。南朝方は戦力の中核である楠木党に期待し、若輩の正儀にも実力以上のものを求めました。正儀は初陣で足利方の有力武将である高師直、師泰兄弟と戦うなどそこそこの頑張りを見せます。ただその後の戦いぶりを見ていくと、機略縦横の父正成、忠義一徹の兄正行と違い戦より政略の才に長けていたように見えるのです。

 北朝方で、足利尊氏、直義兄弟の争い観応の擾乱が起こると、正儀はこの機会を利用して南北朝の戦乱を解決するため和平を画策します。長年の戦で疲弊していた南朝方の武士にも賛同する者が多かったらしく、正儀は和平派の筆頭として足利直義と連絡を取り秘かに和平工作を進めました。ところが観応の擾乱は兄尊氏の巻き返して直義毒殺、正儀の進めていた和平工作も失敗します。南朝方にも北畠親房ら頑迷固陋な強硬派が多く正儀は次第に孤立していきました。

 結局南北朝の騒乱は再開し、正儀もその意に反して南朝方として各地を転戦せざるを得なくなります。南朝に帰順した旧直義派と共闘し一時は直義の養子直冬(ただふゆ、尊氏の妾腹の子)を総大将として京都を占領したこともありました。驚くべきことに南朝方による京都占拠は4回もなされたそうです。1354年、大黒柱北畠親房死去により南朝の衰退は明らかになります。

 南朝の後村上天皇は強硬派だったため最初正儀を嫌っていたそうですが、まともな武将は正儀しかおらず和解して綸旨の奏者という側近にしかなれない役職にしたそうです。ここうでようやく正儀は、天皇の意向を受け本格的な和平工作に乗り出します。すでに北朝方でも1358年足利尊氏が亡くなり二代義詮の時代に入っていましたから、和平の機運は双方に湧き上がっていたと思います。

 今回こそは本格的に和平交渉が動くかに見えましたが、皮肉なことに九州で南朝方の征西将軍宮懐良(かねなが)親王と菊池武光が優勢となり一時は九州全土を併呑するほどの勢いになったことで主戦派が勢い付きます。後村上天皇は正儀を右兵衛督(うひょうえのかみ)に昇進させるほど期待をかけられますが、主戦派の妨害で交渉が難航します。そのうち1368年足利二代将軍義詮死去、同じ年後村上天皇も崩御されたため和平交渉は自然消滅しました。

 正儀にとって最悪なことは、後を継がれた長慶天皇が最強硬派だったことです。正儀は南朝の中で立場を失い追い出されるような形で出奔、北朝方に降伏しました。激怒した長慶天皇は正儀の一族和田正武や橋本正督に追撃させます。これを救ったのは皮肉にもそれまで正儀と戦っていた足利方の赤松光範、細川頼元らでした。三代将軍足利義満は南朝の名将楠木正儀の降伏を歓迎します。特に幕府管領として幕政を司っていた細川頼之は、正儀に好意を抱き将軍にとりなしたため、足利将軍家と同等とも言うべき左兵衛督の官位を与えました。さらに河内、和泉両国守護、摂津住吉郡の一郡守護という破格の待遇をします。

 しかし正儀は、これほどの厚遇を受けてもあまり喜ばなかったと思います。彼の信念は南北朝の対立を解消し戦乱を収める事。幕府でも管領細川頼之は和平派であったため両者は親友となります。ところが幕府の中では越前守護斯波義将(足利一門で最高の家格を誇る)を筆頭とする反細川派が強力で、管領細川頼之の方針をことごとく妨害します。反細川派は正儀に対しても偽装降参ではないかと疑い、正儀が南朝方から攻められても一切協力しませんでした。

 1379年康暦の政変で反細川派の運動が功を奏し頼之は管領の地位を追われます。後を継いだのは斯波義将。正儀は有力な頼之党と目されていた為、河内、和泉、摂津住吉郡守護職を剥奪されました。今度は幕府内で孤立する正儀。この頃になると北朝・足利幕府の優位は明らかになり南朝方は衰退の一途でした。ようやく南朝方にも和平派が主流となり、意を決した正儀は1382年南朝への帰参を決意します。喜んだ南朝方は正儀を参議にしますが、滅亡寸前の南朝で高官になったとしても嬉しくもなんともなかったでしょう。ただ橘姓(と自称)の中で、参議になったのは399年ぶりだったそうです。

 南朝方に人材が払底していた証拠でしょう。南朝の実力者になった正儀は皇太弟で和平派の後亀山天皇の即位に尽力、ここの悲願であった南北朝統一に向けての工作が本格化しました。正儀の晩年ははっきりしません。1389年ごろ死去したとも言われます。1392年正儀の願いが実り南北朝合一がなされます。ここに57年間続いた南北朝の戦乱は集結しました。

 ただ和平条件であった皇統を持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)で交代で継承するという約束は破られます。怒った旧南朝方は再び蜂起し大和国や全国各地で抵抗を続けますが、もはや時代の流れを覆すことはできませんでした。楠木氏も正儀の死後、次第に振るわなくなり歴史の陰に消えていきます。一部は伊勢に逃れ伊勢楠木氏を称したそうですが、これも末裔は織田信雄に仕え小牧長久手の戦いで戦死、嫡流は絶えたそうです。

 楠木正儀は、忠臣楠木氏にあるまじき裏切り者、逆賊という評価が戦前なされますが、戦後になって南北朝和平に尽力した真の忠臣であったと再評価されています。私も戦後の評価を支持したいですね。

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