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2019年11月15日 (金)

阿蘇流北条氏の最期

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 久々の日本史記事ですが、マイナーすぎるので一般の方は全く面白くないと思います。

 このブログの前身であるヤフーブログを開設して間もなく『肥後小国郷と北条時定』の記事で鎌倉末期から南北朝期の肥後小国地方を領した北条氏の最期が良く分からないと書いた記憶があります。興味のある方のために、記事のアドレスを載せておきます。ただしヤフーブログは終了して現在閲覧できない状況ですので、転載したアメブロ版のアドレスを載せておきます。

https://ameblo.jp/houzankai/entry-12444178806.html

 一応簡単に過去記事の概略を述べると、鎌倉幕府の実権を握った北条得宗家(嫡流)が九州支配の要として五代執権北条時頼の同母弟時定(不明~1290年)に肥後国阿蘇郡小国郷の地頭職を与え下向させたことから阿蘇流北条氏が興りました。阿蘇流北条氏は時定が鎮西探題、八代執権時宗の弟で時定の養子となり後を継いだ阿蘇流北条氏二代定宗が肥前守護、その子で三代の随時(ゆきとき)が鎮西探題と要職を務めます。ただ阿蘇流北条氏最後の当主で随時の子治時(はるとき)の最期が良く分からないと書きました。

 というのは、隋時の後鎮西探題に就任したのは治時ではなく、第十六代執権守時の実弟赤橋英時だったからです。ちなみに英時の妹は足利尊氏の正室赤橋登子でした。鎌倉幕府滅亡の時、九州では鎮西探題の英時が宮方と戦い敗北して博多で一族240名と共に自害しました。英時の養子規矩(きく)高政、糸田貞義兄弟が南北朝期九州で蜂起し滅ぼされたことも過去記事で書きました。

 阿蘇流北条氏最後の当主治時(1318年~1334年)がなぜ鎮西探題にならなかったのかは、父随時が死去した1321年当時わずか3歳で職務を遂行できなかったからです。その後調べてみると、北条得宗家に近い治時は成長すると鎌倉に上り幕府の要職を歴任したようです。といっても死去したのが17歳の若さですから、飾りのような存在だったと思います。

 1333年2月、楠木正成が籠城した上赤坂城の戦いでは北条高時に命じられ鎌倉幕府軍の名目上の大将として出陣します。実際に軍を指揮したのは軍奉行長崎高貞(内管領長崎円喜入道の子、高資の弟)だったのでしょう。この時は城の水の手を断ち陥落させるという戦功をあげています。ただ、その後楠木正成は再起し千早城に籠城しました。治時はまだ畿内に残っていた為、北条一門の大仏(おさらぎ)貞宗、高直兄弟と共に討伐軍の大将に任ぜられます。が、楠木勢の抵抗は頑強で攻めあぐみ、そのうち六波羅探題が宮方に攻め滅ぼされたため治時らは進退窮まります。

 鎌倉軍は大和国に撤退し興福寺に立て籠もりますが、刀折れ矢尽き宮方に降伏。1334年7月京都阿弥陀寺で治時は長崎高貞、大仏貞宗、高直兄弟と共に処刑されました。北条一門の最期は悲惨なものが多いですが、阿蘇流北条氏最後の当主治時の最期も哀れを極めます。わずか数え17歳(満15歳)、処刑の際の心境はどうだったのでしょうね。同情してしまいます。

 

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