肥後古代史Ⅱ 方保田東原遺跡
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前記事茂賀の浦話の続きです。熊本県山鹿市に弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落遺跡方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。恥ずかしながら茂賀の浦の記事を書くために調べるまで知らなかったんですが、史跡指定地11ヘクタール、遺跡の推定範囲35ヘクタールに及ぶ吉野ヶ里遺跡に匹敵する大環濠集落遺跡です。
環濠集落とは稲作の普及とともに発展した集住遺跡で城の原型となったものだと言われています。稲作は灌漑、治水など集団作業が必須で、外敵から守るために集落の周囲を柵と堀で囲んだものです。環濠集落の周囲には水田が広がり、古代には一つの『くに』を形成しました。邪馬台国はこういった『くに』の連合体で、くに同士のネットワークで交易をしたり、外敵に対しては共同で当たりました。
環濠集落が茂賀の浦の中、あるいは周囲に存在した事でも古代このあたりに王権があった証拠になろうかと思います。そういえば山鹿市のチブサン古墳に代表される独特な装飾古墳の4分の1は菊池川流域に存在するそうです。装飾古墳など共通の文化圏=支配地域を持つ王権があったのでしょう。
過去記事で書いた女王伝説の残る千田聖母(ちだしょうも)八幡宮は茂賀の浦南岸の丘陵上にありますし、これも過去記事で書いた焼米(やいごめ)五郎の焼米城は茂賀の浦推定地域の西岸丘陵上、同じく米原長者伝説のある米原地域は推定地域の東岸丘陵上に存在します。
今回紹介した方保田東原遺跡は茂賀の浦の推定地域の真っただ中にある感じですが、茂賀の浦自体が水深の浅い地域でこのあたりは陸地だった可能性もあります。時代が下って干上がったというのはそういう事でしょうからね。米原長者、焼米城に関し気になる方は過去記事をご参照ください。
千田聖母八幡宮の女王伝説、米原長者に仮託されている古代豪族の後身についてあくまで個人的な感想ですが、古代豪族日置氏だった可能性があると考えています。日置氏は一般には高句麗系の渡来人で奈良盆地を根拠地にする一族だと言われていますが、玉名市の郷土史では日置氏はもともとこの地を治めた古代豪族だと言われています。渡来系の日置氏とは別系統か、あるいはこの地から奈良に進出し大和朝廷に仕えたかのどちらかでしょう。
玉名市にも日置氏に所縁のある疋野神社がありますし、疋野長者伝説が残っています。日置は「へき」と呼ぶそうで日置野(へきの)が疋野(ひきの)になまったのだろうと想像しています。有名な江田船山古墳の被葬者も日置氏だと言われていますし、古代女王、そして米原長者の後身が日置氏だとしたら面白いですね。江田船山古墳に近い謎の遺跡トンカラリンも松本清張が卑弥呼の鬼道(シャーマニズム)遺跡だと推理していますし、卑弥呼の邪馬台国ではないにしてもこの地域に有力な国があったことは間違いないでしょう。
疋野長者も米原長者も全国にある炭焼き小五郎伝説の一つで、私は炭焼きで木炭を作り製鉄を行っていた豪族がこの地にもいたのだろうと思っています。小岱山周辺には製鉄遺跡もありますしね。鉄器は農機具にも武器にもなります。
古代史は謎だらけですが、調べれば調べるほど興味が湧いてきます。本当に面白いです。
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