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2020年9月12日 (土)

内モンゴル雑感

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 最近シナ共産党政府による内モンゴルにおけるモンゴル人の民族浄化問題を取り上げました。私の悪い癖は、一つの事を書くとその関連項目を調べなくては気が済まなくなることです。ただその集中力は長く続かず熱しやすく冷めやすいので困ったものです。私の記事のテーマがあちこち飛ぶのはこのためです。ですから、歴史に興味のない方には全く面白くないと思うのでスルー推奨です(笑)。

 

 さて前記事でモンゴル民族は大きくハルハ部とチャハル部に分かれ、ハルハ系が外モンゴルであるモンゴル国、チャハル系が内モンゴル自治区に住んでいると書きました。それと明代強勢になったタタール(明側呼称韃靼、モンゴル民族の事)のアルタン・ハーンの関係がよく分かりませんでした。元朝が滅んだあと最初にモンゴル高原の覇者になったのはオイラートのエセン・ハーン(1407年~1454年)です。このオイラートというのはオイラート部族連合の事で、チンギス・ハーンの正統な子孫黄金氏族ではなく外様です。そればかりか当初はチンギス・ハーンに敵対もしています。

 そのオイラートがモンゴル高原の覇者になったのは、元朝崩壊後北に逃れた北元のモンゴル人たちが内紛によって勢力を衰えさせたのも原因でした。1388年北元のトグス・テムル・ハーンは明の将軍藍玉(?~1393年)の攻撃を受け敗退、逃亡の途中かつてフビライとハーン位を争った弟アリクブカの子孫イェスデルに殺害され、フビライ・ハーンから続く北元の正統な血統は断絶します。

 オイラートのエセン・ハーンはその間隙をついて急成長しました。1449年には土木の変で明の討伐軍を撃破、時の皇帝英宗正統帝を捕虜とするほどの大功をあげます。エセン・ハーンは自身のモンゴル高原支配を正当化するため、チンギス・ハーンの子孫である黄金氏族の多くを殺害したそうです。

 しかし遊牧民族の常としてオイラートでもエセン・ハーンの死後後継争いで勢力を衰えさせます。雌伏していたモンゴル族(タタール、明側呼称韃靼)のダヤン・ハーン(1473年~1516年)は内紛で混乱するオイラートを討って再びモンゴル高原を取り戻しました。ですからモンゴルではダヤン・ハーンを民族再興の祖と呼ぶそうです。

 このダヤン・ハーンが息子たちをトゥメン(万人隊)の長として組織し、これがハルハ部やチャハル部になったと書きました。ただ歴史書ではタタール部はその後アルタン・ハーンによって強勢になったと書かれています。アルタン・ハーン(1507年~1582年)はチャハル部でもハルハ部でもありません。ダヤン・ハーンの三男バルス・ボラド・ジノンの次男でした。最初アルタンはダヤン・ハーンの嫡孫で従兄弟に当たるチャハル部のボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認めていたそうです。ただこの頃からモンゴル高原西部で勢力を拡張し1550年には明に侵攻し首都北京にも迫っています。

 ボディ・アラグ・ハーンの死後、チャハル部はアルタン・ハーンの勢力を恐れ興安嶺山脈の南東側に逃亡しました。こうして内モンゴルも勢力下に収めたアルタン・ハーンはチベットやカザフスタン方面にも進出し最盛期を築きます。アルタン・ハーンの死後、遊牧民族の常として彼の勢力は急速に衰えました。そしてアルタン・ハーンのせいでモンゴル民族は分裂したと言われます。それゆえにモンゴルではアルタン・ハーンの評価は祖父のダヤン・ハーンに比べて低いそうです。

 チャハル部はアルタン・ハーンの死後勢力を取り戻し再び内モンゴルも勢力下に収めました。過去記事「玉璽と天命」で登場したリンダン・ハーン(1590年~1634年)はこのチャハル部最後のモンゴル高原の覇者でした。その後興安嶺山脈東側の満洲族が急速に台頭し、チャハル部もハルハ部も満洲族が建てた清朝に服属します。

 内モンゴル自治区が興安嶺山脈西麓まで含む細長い領域なのはまさにチャハル部の勢力範囲だったからでしょう。ノモンハン事件を考えるとハルハ部の勢力もこのあたりに伸びているはずですが、モンゴル高原東部と興安嶺西麓の間はチャハル部が支配していたのかもしれません。

 外モンゴル(モンゴル国)より内モンゴルのモンゴル人の人口が多いのは、遊牧民族にとって農耕民族の周辺に住んでいたほうが何かと都合良かったからでしょう。平時は交易、有事は略奪がしやすいですからね。内モンゴルはゴビ砂漠の印象しかありませんが、2000万人近い漢族が進出していることを考えると農耕適地も多いのでしょう。オアシスもあるそうですし、長城線のすぐ北側、黄河湾曲部周辺は耕作できそうな感じはします。

 近代に入り農耕民族側が銃で武装し始めると遊牧民族の優位は崩れます。ロシア然り、シナ然り。交易と略奪に都合が良いからとシナ人の居住地周辺に住んでいた内モンゴルのモンゴル人たちは、逆にシナ人の圧迫を受けるようになりました。これが近年のシナ共産党政府のモンゴル人民族浄化問題に発展していったのでしょう。

 

 歴史の流れとは言え、遊牧民族好きの私としては寂しいですね。

 

 

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