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2021年5月 5日 (水)

春秋時代の晋、戦国時代の魏が強国になった理由

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 古代シナのマニアックな話なので興味ない方はスルーしてください。

 シナ大陸の地理をご存知の方は、古代の人口密集地は黄河中流域、几上湾曲部の東から河南省と山東省の境界くらいまでの所謂中原だったことをご存知だと思います。「中原に鹿を逐う」という言葉は天下を争うと同義でした。中原の西の中心地は洛邑(洛陽)、東の中心地は大梁(開封)ですが、その人口は東に集中します。というのも洛邑は東西を虎牢関と函谷関、南北を伏牛山地と邙山(ぼうざん)に挟まれた盆地で守るには易い難攻不落の土地ですが豊かさでは黄河平原が広がる東部とは比べ物になりませんでした。特に大梁は東西の黄河の水運、華北と華南を結ぶ陸運の交わる要衝、経済の中心地として巨大な都市に成長します。北宋時代、大梁が首都になったのも納得できます。

 古代王朝は守りやすいというところから東周や後漢も洛邑(洛陽)を首都とします。一応黄河の北岸も中原に含まれますが、人口の面では黄河南岸には及びませんでした。では春秋時代、黄河の北岸、しかも人口が中原に比べて希薄な山西省南部に中心地があった晋がどうして南方の楚と伍する超大国になったか分かりますか?

 それは塩でした。塩は人間が生きるのに必要で家畜も塩がなければ死んでしまいます。中国塩政史によるとシナ大陸沿岸部の海塩生産地は5つあったそうです。河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省の両淮塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩です。ただ、これら沿岸塩が生産されるようになったのは中世以降で、それ以前は岩塩でした。その最大の産地が黄河が几状湾曲部から東流する北岸、山西省南部のまさに晋の中心地にあったのです。

 現在の地名で言うと山西省運城市。実は晋の首都翼は運城の解池という塩湖の100㎞北東でごく近いところにありました。春秋時代の晋は塩の一大生産地である解池を握り、北方の遊牧民と接し軍事技術を取り入れたために強国となれたのでしょう。紀元前403年、晋が実質的に滅亡した後戦国時代最初の覇権国となった魏も、首都安邑は解池のすぐ北で現在では運城市に含まれる安邑県にありました。

 魏はこのほかに、中原の東の中心都市大梁、黄河北岸の重要都市鄴(ぎょう)まで支配していたんですから強国になるのも当然でした。魏の文侯が名君だったという事もあったでしょうが、国力の面からも覇権を握るのは自然だったのでしょう。その後、解池を含む安邑は商鞅の改革で急速に台頭してきた西の蛮国秦に奪われます。魏は副都の大梁に遷都してその後もしばらくは存続しますが、秦は安邑地域を奪ったことで天下統一の基礎が出来上がったのだと思います。

 

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