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2021年9月10日 (金)

太田道灌の子孫は遠州掛川五万石の大名になった

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 太田道灌と言えば知らない人は居ないと思いますが、念のために簡単に紹介すると室町時代代々関東管領職を世襲してきた山内(やまのうち)上杉氏の諸流扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰で、主家扇谷家を嫡流山内家と伍する存在に押し上げ関東を二分する大勢力を築き上げた人物です。江戸城を築城した人としても有名で、教養人でもあり山吹のエピソードは人口に膾炙しています。

 ところがあまりにも有能だったため、主君扇谷上杉定正に警戒され道灌の声望が自分を圧するようになると怒った定正によって暗殺されました。その時道灌は「当方滅亡」と叫んだと言われています。その予言通り扇谷上杉家は定正の三代後の朝定の時代、河越夜戦で北条氏康に敗れ討死、滅亡しました。

 道灌の子孫と言えば戦国末期の岩槻城主太田三楽斎資正が有名ですよね。資正は小田原北条氏と対立し越後上杉氏、甲斐武田氏、常陸佐竹氏と結んで戦いますが、衆寡敵せず居城岩槻城を落とされてしまいます。その際、長男氏資は北条氏に味方し父子が戦うという状況になりました。結局資正は常陸佐竹氏を頼り亡命する羽目になり、最後は小田原攻めの際豊臣秀吉に拝謁するも居城岩槻城への帰還は叶わず1591年常陸片野城で病死しました。

 長男氏資が裏切ったため資正の家督は三男資武が継ぎ結城秀康に仕え福井藩士となります。ところが曽孫尹資の代に浪人、実子にも先立たれたため太田家は断絶しました。一方父資正を裏切った長男氏資ですが、こちらは北条氏に仕えそのまま岩槻城を任せられました。が、父を裏切ったことで北条家中の評判が悪く冷遇されます。結局、里見氏との三船山合戦で北条軍は大敗、殿を申し出た氏資は戦死しました。岩槻太田家は北条氏政の三男が継ぎ事実上乗っ取られます。

 だいたいこのように理解していたんですが、調べてみると岩槻太田氏は道灌の実子ではなく養子(道灌の甥とされる)資忠から始まっているため、同族ではあるものの道灌直接の子孫ではありませんでした。道灌の嫡流は他にあり長男資康から始まる江戸太田氏だったようです。こちらも北条氏に対抗したものの康資の代に国府台合戦で里見氏に味方して敗れ同族資正を頼り佐竹氏に仕えました。

 しかし、康資の娘は徳川家康の側室(英勝院)となりその縁で康資の孫(英勝院の兄重正の子)資宗が二代将軍秀忠に仕え側近となります。資宗は三代将軍家光にも気に入られ累進を重ね譜代大名格になり最後は遠州浜松藩三万五千石になりました。その後子孫は遠州掛川藩五万石に転封となり幕末まで続きます。こちらは勝ち組と言えますね。

 

 さて岩槻太田氏、江戸太田氏どちらが嫡流かは意見が分かれるところですが、江戸太田氏は徳川大名になったため有利で資料も改竄した疑いがあるそうです。結局力ある方が勝ちという事なんでしょうな。

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