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2021年10月

2021年10月29日 (金)

カーボンニュートラル、理想は良いが現実は厳しいし命に関わることもある

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【カーボンニュートラル】中国が「炭素排出削減の加速化」を拒否…「我々は開発途上国」「歴史的には先進国のせい」

 いつもはシナを猛烈に非難するんですが、この件に関してだけは同情します。シナは石炭火力発電に頼り切っておりオーストラリアに対する愚かな経済制裁で石炭輸入を止めたため今年の冬、凍死者が続出するのでは?と心配されています。さすがに今は自らの愚を悟り石炭輸入を再開したそうですが、需要に追い付けず一般家庭は厳冬を越せないかもしれないと言われています。どうしても産業優先になりますからね。

 シナ共産党政権はどうなろうと知ったことではありませんが、シナの一般国民が政府の愚かなセルフ経済制裁で凍死するのは同情します。もし私がシナ人民だったらと思うとぞっとします。華南はともかく、華北の冬は厳しいですからね。北京のような大都市でも危ないのではと危惧しています。オンドルの燃料も練炭ですよね。今は灯油とかガスとか電気に切り替わっているそうですが、それは都市部だけ。農村部はどうするのでしょうか?

 カーボンニュートラルなどという綺麗事は馬鹿な人間を騙すにはちょうど良いですが、現実の生活を考えると恐ろしいです。まず火力発電を止め再生可能エネルギーだけにしたら到底今の電力需要を賄えないし、しかも電気自動車ばかりになったら現在の需要の軽く数倍に跳ね上がります。数字を見たら、そして普通の頭脳があったら原子力発電をしなかったら到底実現できないと理解できるはず。

 実際綺麗事ばかりの欧州でも原子力発電拡大の方向に進んでいますよね。原子力も確かに危険はあるが、より安全性の高い方向に技術を進歩させうまく付き合っていくしかないと思っています。今の日本の年間電力需要はだいたい7000億から8000億キロワットだと思いますが、火力発電を完全に止め電気自動車ばかりになったら1兆キロワットを軽く超えると私は見ています。もしかしたら2~3兆キロワットか?産業界は安定した電力供給が必須。そして我々の生活も電気無くしては成り立ちません。

 カーボンニュートラルの理想と現実、将来的に技術革新が起こって再生可能エネルギーだけですべての電力需要が賄えるようになれば話は別ですが、シナの惨状を見ると原子力発電とうまく付き合っていくしかないと私は思います。

2021年10月26日 (火)

韓国よ、いい加減日本に頼るのは止めて自立しろ(怒)

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財閥系に就職できなかった韓国人学生は「日本に行くしかない」と訪日を強く希望していると専門家が指摘

 本当は小室KとM子内親王の事を書きたかったのですが、KはともかくMの悪口オンパレードになりそうなので止めました。私の言いたかったことは最近の日本史記事『奈良朝の風雲』シリーズで言い尽くしたのでそれを持って現代の道鏡と現代の称徳天皇への私の主張とします。現代の和気清麻呂が出ないと救われないし、和気清麻呂は民間人ではなく検察や警察から出るべきですよ。民主党政権時代の尖閣シナ偽装漁船衝突事件の動画を勇気をもって公開した一色さんのような国士が出てくるべきです。一色さんは私利私欲ではなく己の職を賭して告発したんですよ。



 まあそれはともかく、無難な韓国ネタにしました(笑)。最近では戦略的放置か何か知らんが、全く韓国の話が出てきませんね。ようやく日本政府も国家間の約束を守る気のないならず者国家を相手にしても無駄と理解したのか向こうが何を言ってきても「約束を守れ」の一点張りで冷たく突き放してますな。良い傾向だと思います。馬鹿は相手にするからつけあがるんです。基本無視して日本に害を及ぼそうとする時だけガツンと厳しい反撃すれば良いと思いますよ。

 韓国の資金が入っているのかテレビではしきりに韓国上げネタを繰り返していますが、まともな日本人はほとんど相手にしてません。さっきちらっとテレビ見たらNiziUとかいう偽装日本人グループがCMに出てましたが、あれ逆効果ですよ。買おうという気を失わせる効果しかありません。日本人という設定なのにかたことの日本語喋ってましたなwww顔は全員サイボーグだし。むしろまだ活動していたのかと驚きましたよ。

 風の噂では韓国経済がやばいのだとか。いつものパターンだと韓国経済が危機になると日本が助けてましたが、さすがにあれほど反日行為やられると助ける気を無くしますよね。売国政府が助けようとしても国民が許しません。日本国民の総意は異常な韓国とは距離を置いてできれば断交したいと思っています。

 今回の衆議院選挙で万が一立憲共産党が政権を取るとこれまでのような媚韓土下座外交が復活しますが、有権者の皆さんはよく考えるべきですよ。前回も「自民党にお灸をすえる」と民主党に入れたらお灸をすえられたのは日本国民自身だったという笑えないオチだったじゃないですか!国民の半数近く馬鹿がいるから心配ですが、消去法で自民党しかありませんよ。

 韓国に話を戻すと、今後どんなに困っても日本に頼るのは止めるべき。さんざん嫌がらせしておきながら困ったら日本を頼るって甘ったれるのもいい加減にしろ!日本も馬鹿をいつまでも甘やかしてはいけません。馬鹿は酷い目に遭わないと分からないし、韓国の場合は滅亡する日まで気付かないでしょう。企業も間違っても韓国人など雇うなよ。数十年後強制連行されたと言って賠償金請求されるぞ。三菱など戦犯企業と言いがかりをつけられ今ひどい目に遭っている最中ですよ。

 まず国民が韓国に対してNOと言いましょう。そうすれば政府もおいそれと妥協できない。そして媚韓売国政治家、売国マスゴミを徹底給弾しましょう。その意味で今回の衆議院選挙、日本の未来を決める重要な選挙だと注目しています。

2021年10月25日 (月)

奈良朝の風雲Ⅷ 宇佐八幡神託事件(終章)

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 藤原仲麻呂の乱の戦後処理は苛烈を極めました。近江で最後まで仲麻呂に付き従った34人以外に、仲麻呂派と見做された者475人が連座します。斬刑に当たると判断され764年12月だけで13人が処刑されました。最終的に475人全員が処刑されたのか一部は許されて流刑で済んだかははっきりしません。ただ朝廷内の仲麻呂派を一掃したのは間違いありません。一番の被害者は淳仁天皇でした。孝謙上皇方に身柄を拘束され幽閉状態だった淳仁天皇ですが、謀反人藤原仲麻呂と共謀し上皇の排除を図ったとして廃位、身分を親王におとされ淡路公として淡路国に流刑になります。

 淳仁天皇は積極的に動かず何もしていない完全な被害者でしたが、孝謙上皇が復位するのに邪魔だったので言いがかりをつけて排除されたのです。一年後孝謙上皇方の圧力を受け失意のうちに亡くなります。孝謙上皇はすでに出家していました。にもかかわらず764年10月復位します。すなわち称徳天皇です。出家した者が復位して天皇になるのは異例でした。

 仲麻呂派の一掃で、失脚していた藤原豊成が右大臣として朝廷に返り咲きます。しかし一番の驚くべきことは称徳天皇が寵愛する弓削の道鏡が太政大臣禅師として朝廷のトップになったことでした。称徳天皇の言い分は「出家の天皇の補佐をするのは出家した僧がふさわしい」とのことでしたが、苦しい言い訳にすぎません。今回の藤原仲麻呂の乱で功があった吉備真備も参議に任ぜられました。766年には従二位右大臣にまで出世します。

 道鏡に対する称徳天皇の寵愛はこれだけにとどまりませんでした。道鏡の一族を参議など朝廷の高官に登用するなど乱脈を極めます。また猜疑心の強い彼女は、淳仁天皇の兄船王、池田王をそれぞれ隠岐、土佐へ配流しました。淳仁天皇の甥にあたる和気王に至っては謀反を起こそうとしたと言いがかりをつけ絞首します。称徳天皇は異母妹不破内親王にも疑いの目を向けました。不破内親王が藤原仲麻呂の乱で処刑された塩焼王に嫁いでいたからです。769年不破内親王は称徳天皇を呪ったという罪で息子志計志麻呂と共に土佐に配流しました。その際内親王の籍を剥奪するという徹底ぶりです。

 称徳天皇と道鏡による乱れた政治に貴族や庶民たちは怨嗟の声を上げますが、表立って諫める者はいませんでした。下手すると殺されるからです。皇族に対してすら容赦ないのですからそれ以外ならどんなむごたらしい殺し方をされるか分かりません。称徳天皇には皇統を守る意識はなかったと思われます。道鏡を溺愛しついには自分の次の天皇にしようとすら思い始めました。そこに阿る者が出てくるのはある意味自然だったのかもしれません。769年5月豊前の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるだろう」という神託がもたらされました。これは大宰帥だった道鏡の弟弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が共謀した偽の神託でした。

 さすがの称徳天皇もいくら寵愛しているとはいえ道鏡をいきなり天皇にすることは迷います。朝廷の百官も国民も許さないと思ったからです。そこで確認するため近衛将監(しょうげん)和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し神託が真実であるか確認させようとします。道鏡は清麻呂を出発前に招いて「そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう」とささやきました。

 清麻呂が佞臣なら道鏡の意を受け称徳天皇や道鏡が気に入る報告をしたでしょう。ところが彼は清廉潔白で剛直の臣でした。宇佐八幡宮に到着すると神官たちを厳しく問いただし「我が国は開闢以来君臣が定まっている。臣をもって君にすることがあってはならない。天つ日嗣(天皇の後継者)には必ず皇緒(皇族)を立てよ」という神託を得ました。帰京した清麻呂がそのまま報告すると称徳天皇は怒ります。道鏡も激怒しました。神託を偽ったと無実の罪を着せ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ一切の官位を剥奪、大隅国に流します。さらに清麻呂の姉で称徳天皇に仕えていた法均も還俗させられ備後に流罪としました。

 ただ清麻呂の活躍で道鏡の皇位継承は沙汰止みになります。貴族たちの反発が強かったからです。そしてこの事件から半年後の770年8月、称徳天皇は病気となり崩御しました。享年53歳。道鏡の権力の源泉は称徳天皇でしたから、後ろ盾のなくなった者を遠慮する者はいません。貴族たちの反撃が始まりました。道鏡は太政大臣禅師の官職を剥奪され造下野薬師寺別当を命ぜられ下野国に追放されます。二年後道鏡は失意のうちに亡くなりました。道鏡の一族も同様でした。朝廷の役職を解かれ土佐など各地に流されます。

 道鏡は皇位を狙った大悪人と言われましたが、私は称徳天皇も同罪だと思います。悪政は二人の合作でした。称徳天皇は自らの天武系皇族を猜疑心や憎しみのために排除し、しかも後継者を定めぬまま亡くなります。藤原永手(北家 房前の次男)、藤原良継(式家 宇合の次男)、吉備真備らは協議して後任を天智天皇の孫にあたる白壁王に決めました。白壁王が聖武天皇の娘井上内親王(母は県犬養広刀自)を妻にしていたからです。白壁王は即位して光仁天皇(在位770年~781年)となります。即位したとき60歳になっていました。現在に至るまで即位年齢は最高記録だそうです。

 壬申の乱を経て失われていた天智天皇系に皇位が戻ったことになります。それも称徳天皇の悪政が原因でした。光仁天皇が即位すると大隅国に流されていた和気清麻呂も許され官界に復帰します。道鏡は配流途中の清麻呂の暗殺を謀ったそうですが失敗していました。どこまで腐った破戒僧なのかと呆れますね。播磨員外介、豊前守などを歴任し光仁天皇の次の桓武天皇にも仕えます。晩年は従三位民部卿になりました。

 藤原仲麻呂の乱で活躍し今回の光仁天皇擁立にも貢献した吉備真備は右大臣のまま771年引退します。その後775年まで生きました。享年81歳。当時としては驚くべき長命です。最終官位前右大臣正二位。光仁天皇の御代は称徳天皇の時代に乱れた国政を正すことに費やされます。途中天武天皇の曾孫氷上川継の乱など揺り戻しもありましたが、治世はその子桓武天皇に受け継がれていきました。

 

 桓武天皇は平城京で肥大化していた仏教勢力の影響を嫌い784年長岡京、794年平安京を築き遷都しました。桓武天皇の脳裏には第二の道鏡を出してはならないという意識があったのかもしれません。そして奈良時代は終わりを遂げ彼の治世から平安時代が始まります。

 

 

 

 

 

  

 

                                            (完)

2021年10月24日 (日)

奈良朝の風雲Ⅶ 藤原仲麻呂の最期

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 橘奈良麻呂の変で右大臣藤原豊成は失脚します。左大臣橘諸兄はすでに引退していました。息子奈良麻呂の横死の衝撃でもともと病気がちであった諸兄は757年病死しました。享年74歳。これで大納言仲麻呂が太政官の首座に就き政治を行うようになります。ただ孝謙天皇は橘奈良麻呂の変に連座した者の死一等を減じ流罪にするよう仲麻呂に求めたにもかかわらず事実上無視されたことに良い感情を抱かなかったと思います。特に道祖王、黄文王など皇族までが拷問で殺されたことは世間の憎しみを受けました。道祖王などは聖武上皇の遺言で皇太子になったほどの人物です。せめて皇族は流罪にすべきだったと思います。仲麻呂の憎しみが激しかったのでしょうが、この狭量さは後に命取りになりました。

 孝謙天皇との関係に隙間風があるにも関わらず仲麻呂政権が続いたのは、孝謙天皇の母光明皇太后の絶大な信頼と庇護があったからです。758年孝謙天皇は譲位し大炊王が即位しました。すなわち淳仁天皇(在位758年~764年)です。淳仁天皇は舎人親王の子で皇族としては傍系に当たりました。しかし天武天皇系の皇族が少なくなっていたので白羽の矢が立ったのです。そういった経緯から淳仁天皇は権臣藤原仲麻呂の意のままに動く操り人形でした。

 淳仁天皇擁立の功績で仲麻呂は右大臣になります。さらに仲麻呂の一族は恵美朝臣を授けられ仲麻呂自身も藤原恵美朝臣押勝と名乗ります。ここでは紛らわしいので仲麻呂で通しますが、仲麻呂が嫌われたのは官職名を唐風に改めたことです。右大臣も唐風に太保と呼ばせました。儒教的な徳治政治を目指し様々な改革を推し進めますが、私は前漢を簒奪した王莽と同じ臭いを感じます。こういう時代錯誤な政策は現実に合わず政治は混乱し庶民は怨嗟の声を上げるものです。性格的にも仲麻呂は平安末期の悪左府頼長と被るように思えます。自信の能力は高いのでしょうが、周囲が見えず暴走しその結果人々の憎しみを買い滅びるものです。

 760年、仲麻呂は人臣としては初の正一位太政大臣に任ぜられました。このころが彼の絶頂期だったかもしれません。ところが同年6月最大の庇護者だった光明皇太后が崩御しました。後ろ盾を失った仲麻呂、そして母の生存中は不満があっても我慢していた孝謙上皇は仲麻呂の政治に口を出すようになります。761年近江国保良宮(大津京の近く)にいた孝謙上皇は病に臥せりました。そこで看病を担当した弓削の道鏡を寵愛するようになります。道鏡は河内国出身、法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学びます。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられました。道鏡は美男だった(俗説ではあそこが大きかったとも)と言われ、独身だった孝謙上皇は夢中になったのでしょう。

 孝謙上皇は道鏡への寵愛が深まるにつれ仲麻呂とその傀儡の淳仁天皇が疎ましくなりました。762年上皇とのパイプ役になっていた正室藤原袁比良が亡くなります。同年仲麻呂の腹心だった紀飯麻呂、石川年足も相次いで亡くなり仲麻呂政権の基盤は弱まりました。孝謙上皇側も来るべき仲麻呂追い落としの準備を着々と進めます。まず、橘諸兄に近いという理由で警戒され大宰大弐に左遷されていた吉備真備を764年朝廷に呼び戻しました。名目は造東大寺長官に任命するためでした。吉備真備はこのとき70歳の高齢でしたが、遣唐使時代多くの学問を修め特に兵法に通じていました。孝謙上皇方は吉備真備に軍師的役割を期待したのです。

 自分を取り巻く環境が次第に厳しくなっているのは、流石の仲麻呂も気付いていました。そこで不測の事態に備え娘婿藤原御楯を参議・授刀衛督・伊賀・近江・若狭按察使に任命し都と畿内周辺の軍事力を握らせました。仲麻呂自身も都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任して軍権を握ります。さらに仲麻呂八男辛加知を越前守、九男執棹を美濃守にするなど万全を期しました。が、一番信頼厚かった娘婿御楯が764年6月急死してしまいます。

 仲麻呂の周囲には次第に暗雲が立ち込め始めます。孝謙上皇はますます道鏡を寵愛し、政治を顧みなくなりました。仲麻呂は淳仁天皇を通じて上皇を諫めますが、逆に怒りを買ってしまいます。そんな中、大外記の高丘比良麻呂が上皇のもとに「藤原仲麻呂に謀反の計画あり」と密奏しました。これは実際陰謀があったとも実は無実であったとも言われはっきりしません。ただ孝謙上皇側に仲麻呂を追い落とす計画があったことは確かでした。皮肉なことに長屋王の失脚も密告なら仲麻呂を追い詰めたのも密告でした。

 密告は他の者からも相次ぎ、仲麻呂の謀反は既成事実化します。実際仲麻呂側も淳仁天皇を担ぎ6000人の兵士を動員、孝謙上皇と道鏡に弾劾状を突きつけ上皇は幽閉、道鏡は追放か死刑を計画していたとも言われますので、どっちもどっちです。現状、淳仁天皇を擁している仲麻呂側が有利でした。

 孝謙上皇側の軍師、吉備真備は次々と手を打っていきます。まず朝廷が諸国の軍勢を動かすのに必要な御璽、駅鈴を奪取させました。その上で錦の御旗になりうる淳仁天皇の身柄を仲麻呂より先に抑えました。淳仁天皇はそのまま幽閉されたとも言われます。兵を動かすための御璽も大義名分の淳仁天皇も失った仲麻呂は平城京を脱出するしかありませんでした。

 吉備真備の恐ろしいところは、仲麻呂が根拠地の近江に逃亡するだろうと読んでいたことです。近江を中心に東国の兵を糾合されれば壬申の乱の時のように仲麻呂側が圧倒的有利になります。それを防ぐため山城(当時は山背)守日下部子麻呂に命じて瀬田橋を焼かせました。当時の近江国府は瀬田川の東岸にあったので仲麻呂一行は国府に入るのを諦め琵琶湖西岸を北上するしかなくなります。さらに吉備真備は、佐伯伊多智に手兵を与え越前に急行させました。越前守だった仲麻呂八男辛加知は官軍に斬られます。また別軍は美濃にも派遣され仲麻呂九男執棹も同じ運命をたどりました。

 越前への道も断たれた仲麻呂一行はわずかな手勢を率い高島郡三尾崎で追撃してきた官軍と絶望的な戦いを強いられます。多勢に無勢、それでも仲麻呂軍は4時間も粘ったそうです。仲麻呂は家族と共に琵琶湖を船で逃亡しようとしますが官軍に捕捉され家族郎党共々惨殺されます。栄華を誇った藤原仲麻呂の哀れな最期です。時に764年9月、享年59歳でした。生きて捕らえられた仲麻呂の家族も女性や幼児も含めことごとく処刑されました。それだけ孝謙上皇の憎しみが激しかったのでしょうが、戦国時代でも女性や女児まで皆殺しにすることは稀だったと思います。

 こうしてみると、仲麻呂が積極的に反乱を起こしたのではなく孝謙上皇側の罠にはめられて滅亡したという見方が正解のような気がします。仲麻呂の独善的な性格が災いし味方する者がいなかったことも敗因でした。

 邪魔する者がいなくなった孝謙上皇は、淳仁天皇を廃し自らが皇位に返り咲きます。すなわち称徳天皇です。称徳天皇の道鏡に対する溺愛ぶりは異常でした。道鏡は増長しついには皇位まで狙うようになります。次回最終回、宇佐八幡信託事件にご期待ください。

2021年10月23日 (土)

奈良朝の風雲Ⅵ 藤原仲麻呂の台頭

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 743年藤原仲麻呂は従四位上参議に任命されます。橘諸兄政権ではすでに兄豊成が参議となっていたので藤原南家は二人の参議が誕生したことになります。仲麻呂は藤原家嫡流南家(父武智麻呂が初代)の次男でした。幼少期から俊才の評判高く叔母に当たる光明皇后は凡庸な兄豊成より仲麻呂に期待しました。皇后の引き立てもあり仲麻呂は744年には恭仁京の民政を担当する左京大夫も兼任します。

 右大臣橘諸兄はこの時従一位左大臣に昇進しました。参議から中納言には諸兄派の巨勢奈弖麻呂、仲麻呂兄の藤原豊成が昇格します。橘諸兄の政治力は元正上皇の庇護あってのものでした。文武天皇が若くして崩御したので幼少の聖武天皇(首皇子)の成長まで文武の母である元明天皇(聖武天皇にとっては祖母)が即位したことは前に紹介しました。実は元明天皇の後もう一人の女性天皇が即位しています。それが文武天皇の姉に当たる元正天皇でした。

 聖武天皇は24歳の時、伯母にあたる元正天皇から皇位を譲られて即位したのです。ですから聖武天皇にとって元正上皇は頭の上がらぬ存在でした。証拠はないのですが元正上皇はどうも藤原氏が実権を握るのを良く思っていなかったのではないかと見ています。皇族出身の橘諸兄と藤原氏以外の貴族を優遇し藤原氏の力を押さえつけようと考えたのでしょう。一方藤原不比等の娘光明皇后は再び藤原氏の力を取り戻すため一族の俊英仲麻呂に期待します。俗な言い方ですが嫁小姑戦争が巻き起こったようなものでした。

 聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子基皇子が1歳にもならないうちに病死し、それを利用した藤原四兄弟によって長屋王が無実の罪を着せられ滅ぼされた事件がありました。聖武天皇には県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間にもう一人男子がおり安積皇子といいました。聖武天皇は生き残った唯一の男子である安積皇子を後継にしようと考えます。ところが744年16歳の若さで急死してしまいました。世間では光明皇后の意を受けた藤原仲麻呂が毒殺したのではないかと噂します。結局、皇太子には聖武天皇と光明皇后の娘阿倍内親王が選ばれました。

 745年5月、五年の彷徨の末聖武天皇は平城京に戻ります。同年9月知太政官事として太政官を総覧し最高の権威を誇っていた鈴鹿王が亡くなりました。鈴鹿王は武市皇子の子で長屋王の弟でした。鈴鹿王の死で微妙な均衡を保っていた藤原氏と反藤原氏の権力バランスが崩れ始めます。藤原仲麻呂は近江守を兼任するようになりました。近江国は父武智麻呂以来の南家の根拠地で勢力を扶植していたところです。以後失脚するまでの20年間、仲麻呂は近江守を手放しませんでした。

 ここに一人の人物が登場します。橘諸兄の息子奈良麻呂(721年~757年)です。奈良麻呂は藤原系の阿倍内親王の立太子に不満でした。彼は秘かに長屋王の子黄文王を擁立すべく動き始めます。これに同調したのは多治比、小野、佐伯、大伴氏ら藤原氏に押さえつけられている不平貴族たちでした。その背後には元正上皇がいたと言われます。

 746年藤原仲麻呂は大納言になりました。橘奈良麻呂の暗躍を知ってか知らずか、橘諸兄系の官人たちを次々と地方へ左遷します。その一方、自派に属する巨勢堺麻呂、大伴犬養、石川年足らを抜擢するのも忘れませんでした。さらに仲麻呂は東山道鎮撫使という諸国の国司の上位に当たりその地域の軍事警察権を一手に握る役職を設け自らが就任します。

 反藤原派の期待の星元正上皇は748年崩御しました。享年69歳。左大臣橘諸兄の政治力にも陰りが見え始めます。749年聖武天皇は娘阿倍内親王に譲位しました。すなわち孝謙天皇です。朝廷は新たに藤原南家の豊成が右大臣に就任しました。大納言には仲麻呂の他に巨勢奈弖麻呂が選ばれます。

 仲麻呂の長男真従(まより)は彼が最も期待した後継ぎでしたが若くして亡くなりました。そこで長女児従(こより)の婿に藤原北家房前の子御楯を迎えます。娘婿御楯は仲麻呂から期待され後継者と目されました。仲麻呂は聖武上皇の大仏建立を助けますます信任が厚くなります。面白くないのは橘奈良麻呂です。755年、聖武上皇が病に倒れました。奈良麻呂は佐伯全成を呼び黄文王を擁立するクーデターへ参加するよう促します。すでに大伴氏の協力は得ておりあとはいつ実行するかにかかっていました。

 そんな中、奈良麻呂は秘かに右大臣藤原豊成を訪れます。奈良麻呂がクーデター計画を打ち明けた時、驚くべきことに豊成は賛成こそしなかったものの黙認する姿勢を示しました。実は豊成は弟仲麻呂を嫌っていました。叔母光明皇太后が自分より仲麻呂に期待する姿勢が露骨だったからです。豊成は機会あれば弟仲麻呂を失脚させようと思っていました。

 756年、病床に臥していた聖武上皇がついに崩御します。同年長らく朝廷を主導していた橘諸兄が老齢と病気を理由に左大臣を辞任し引退しました。聖武上皇は孝謙天皇の皇太子に天武天皇の孫にあたる道祖(ふなど)王を立てるよう遺言します。道祖王の父新田部親王の母は藤原不比等の娘で藤原氏の血を引く数少ない王族です。ただこの人事は橘奈良麻呂にとっても藤原仲麻呂にとっても不満でした。そこで仲麻呂は孝謙天皇を動かし道祖王に不行跡があるとして皇太子を剥奪、新たに天武天皇の孫大炊王を皇太子にします。大炊王は後の淳仁天皇です。

 756年6月、橘奈良麻呂は右大弁に任ぜられます。右大弁は従四位上相当の官職で後の官制では少納言より上位、参議になる一歩手前の高官でした。757年右大臣藤原豊成の黙認を得た奈良麻呂は、同志大伴古麻呂、小野東人らと共に密謀を重ねます。ところが長屋王の子でクーデター成功後は政府首班に加えられる予定だった山背王は、失敗したら死刑になると恐れをなし仲麻呂に「橘奈良麻呂らに陰謀がある」と訴え出たのです。

 仲麻呂側の行動は素早く、首謀者の一人小野東人を逮捕、拷問にかけます。東人は拷問に耐えかねすべてを白状しました。藤原仲麻呂を殺した後皇太子を廃し、駅鈴と御璽を奪い右大臣藤原豊成を通じて天下に号令し、孝謙天皇を退位させ塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から次の天皇を出すというものでした。

 小野東人の自白をもとに橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、佐伯全成らが一斉に逮捕されます。佐伯全成は拷問に耐えかね自害。孝謙天皇はさすがに死刑にするのをためらい流罪にするよう勧告したそうですが、仲麻呂は彼らを許すつもりは毛頭ありませんでした。全身を訊杖で何度も打つ拷問を受け次々と獄死します。黄文王ら皇族に対してすらこの仕打ちですから仲麻呂の冷酷さが表れています。

 仲麻呂は、兄豊成の関与も疑い何とか証拠を探したそうですが見つからず右大臣を罷免し大宰府員外帥に左遷しました。事実上の流罪です。これを見ると、仲麻呂は兄弟や一族からも嫌われていたことが分かります。いくら有能でも孤立したら末路は悲惨です。一連の事件は橘奈良麻呂の変と言われますが実態は未然に防がれ不発に終わったと言えます。

 政敵橘奈良麻呂の自滅という形で権力の絶頂期を迎えた藤原仲麻呂ですが、すでに孝謙天皇との関係は隙間風が吹き始めていました。次回藤原仲麻呂の失脚と敗死を語ることにしましょう。

2021年10月22日 (金)

奈良朝の風雲Ⅴ 大仏開眼

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 聖武天皇(在位724年~749年)という人は、父方の曽祖父天武天皇、母方の曽祖父天智天皇と比べると精神的な弱さをどうしても感じてしまいます。藤原広嗣が九州で反乱を起こすと、その鎮圧の報告が届く前に平城京を逃げ出しました。都を出た理由は、広嗣の乱に畿内の不満分子が呼応して蜂起するのを恐れた説、東国には軍団制の廃止で防人から帰還し動員可能な兵士が数多く存在し不安定要因になっていたのでそれを鎮めに行った説など様々な理由が古来から言われています。その中で私が一番しっくりいったのは藤原広嗣の乱に代表されるように聖武天皇や朝廷を執権する橘諸兄に対する国民の非難に動揺したという説です。

 740年に出奔してから平城京に帰還するまで実に5年、これを彷徨五年と呼ぶそうです。聖武天皇が貴族や民衆の蜂起をどれだけ恐れたかは、行幸を護衛する武官を臨時に任命したことでも分かります。まず御先(みさき)長官に塩焼王、前騎兵大将軍に藤原北家の藤原仲麻呂、後騎兵大将軍に紀麻呂を任命しました。彼らは諸国から動員された行幸騎兵を指揮して聖武天皇を護衛します。

 ここで藤原仲麻呂(706年~764年)という人物が初めて登場しますが、実は彼を抜擢したのは叔母の光明皇后だったとも言われます。光明皇后は仏教に深く帰依し慈悲深い女性だったというエピソードが数多く残っていますが、それとは別に藤原一族の娘という側面もありました。皇后は、兄たちである藤原四兄弟の天然痘による急死で一族の勢力が失われるのを恐れたのです。しかも式家の藤原広嗣は反乱を起こした逆賊。対応次第では藤原一族全体が没落する危険性もありました。

 彼女は藤原家嫡流南家で亡き武智麻呂の次男仲麻呂に期待します。仲麻呂は幼少期より俊英の評判高く藤原一族を仲麻呂なら再び興隆に導いてくれると思ったのでしょう。聖武天皇も仲麻呂だけは信頼し護衛部隊の指揮官に起用しました。彷徨の後戻ったのは平城京ではなく山城国相楽郡恭仁京でした。天皇の行幸には朝廷の高官も従ったのでさながら政府が移動していたようなものです。朝廷の諸官にとっても領民にとっても迷惑以外の何物でもなかったでしょう。

 聖武天皇は世が乱れているのは自分のせいではなく何者かによる悪行や天魔の所業だと思いました。古代シナの古い言い伝えでは世が乱れるのは時の政治が悪いからだと言われています。天が悪政を戒めるために天災を起こすという考えです。この言葉を聖武天皇に言い聞かせたいくらいです。聖武天皇は、仏教による国家鎮護を考えました。741年、全国に国分寺、国分尼寺の建立を命じます。

 そして743年、全国の国分寺、国分尼寺の総本山として奈良に東大寺大仏殿の建立を発願しました。とはいえ準備に時間がかかり実際に盧舎那仏(俗にいう奈良の大仏)の造像が始まったのは745年。752年に開眼供養会が実施されます。大仏には莫大な銅が必要です。その調達にも時間がかかりましたが、一番の悩みは完成した仏像の表面を覆う金でした。749年陸奥から発見された黄金の献上があり、聖武天皇は天平感宝と改元するほど喜びました。

 聖武天皇は749年7月、娘阿倍内親王に譲位します。すなわち孝謙天皇です。ですから752年の開眼供養会の時は上皇でした。盧舎那仏とそれを囲む大仏殿建造に延べ260万人が動員されたそうです。総工費は現代で換算すると4600億円以上でした。開眼供養会には聖武上皇、光明皇太后はじめ文武百官、国内外から1万人の僧が参列します。まさに一大国家行事でした。大仏建立で一つの時代は終わりました。聖武上皇は756年まで生きますが、時代は孝謙天皇、そして頭角を現した藤原仲麻呂を中心に動き始めます。

 

 次回は藤原仲麻呂の台頭を描きましょう。

2021年10月21日 (木)

奈良朝の風雲Ⅳ 藤原広嗣の乱

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 日本人の8割は自称も含め源平藤橘のどれかを先祖とするそうです。藤原氏は藤原鎌足が祖、平氏は桓武天皇を祖とします。源氏の場合は一番有名なのが清和天皇を祖とする一族ですが、他にも嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏など数多く存在します。そして橘氏の祖が今回登場する橘諸兄(たちばなのもろえ 684年~757年)でした。

 橘諸兄は敏達天皇の後裔で初名を葛城王という皇族でした。その後臣籍降下し橘朝臣姓を貰います。長屋王の変までは目立たぬ存在でしたが、長屋王の横死を受け729年参議となりました。737年天然痘の大流行で当時政治を主導していた藤原四兄弟はじめ多くの公卿が亡くなったため、朝廷に出仕できる者が参議の鈴鹿王と橘諸兄だけになります。そこで朝廷は鈴鹿王を知太政官事、諸兄を大納言に任命し政治を行わせました。翌738年諸兄は正三位右大臣(三位で右大臣は異例)に昇進します。

 鈴鹿王は朝廷の最高位ではあっても名誉職的意味合いが強く、実際は橘諸兄が朝廷を動かすことになりました。諸兄は聖武天皇に上奏し遣唐使として渡唐の経験がある吉備真備(695年~775年)や僧玄昉(?~746年)を抜擢、ブレーンとして登用します。吉備真備らは下級貴族出身でしたが唐の先進的な学問を学び非常に有能でした。739年従二位に昇叙されると、諸兄は自派の側近である県犬養石次(あがたのいぬかいのいわすき)、大野東人(おおののあずまびと)、巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)、大伴牛養(おおとものうしかい)を次々と登用し、政権の盤石化を図りました。

 こうなると面白くないのが藤原氏です。一応諸兄政権には嫡流南家武智麻呂の長男豊成が参議として入りますが、不比等三男宇合の式家嫡男広嗣(713年~740年)はまだ25歳と若いこともあって従五位下と低い位階に留め置かれました。さらに広嗣は新羅征伐論を主張する最強硬派で、疫病で疲弊した内政を立て直すため緊縮財政を進めている諸兄政権とは相容れず、式部少輔、大和守から738年大宰少弐(大宰府の三等官)に左遷されます。ただ、これを左遷とみるか九州の最前線に行って現実を見るようにという親心から出た人事かは意見が分かれます。

 広嗣本人は左遷人事だと受け取りました。恨みを募らせた広嗣は任地九州で秘かに兵を集め始めます。そして740年朝廷に対し「昨今の天変地異の元凶は政治を蔑ろにしている吉備真備、僧玄昉らの責任である。二人を追放すべきだ」という上奏文を送りました。さすがに元皇族の橘諸兄を直接攻撃するのを避けたのは広嗣に遠慮があったのか、それとも精神の弱さなのか?これが例え皇族であろうと政敵なら徹底的につぶすという父宇合らとの違いだったのかもしれません。名門の御曹司として何苦労無く我儘いっぱいに育った若造の限界だったのでしょう。

 当然広嗣の上奏は拒否されます。そればかりか、聖武天皇は広嗣に対し召喚の勅諚を出しました。740年9月、広嗣は弟綱手と共に大宰府の手勢、薩摩の隼人族ら1万人の兵を動員し朝廷に対し反乱を起こします。奈良時代の人口は500万人から600万人くらい(800万人という説も)と言われますから、これは驚異的な数でした。戦国時代なら3万人から5万人くらいに匹敵します。

 朝廷は大野東人を征討大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任命し東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道から1万7千の兵力を動員し鎮圧に向かわせました。筑前国遠賀郡に本営を築いた広嗣は、関門海峡に近い登美、板櫃、京都(みやこ)の三郡鎮に兵を入れ守りを固めました。広嗣は平城京で広嗣に同調する貴族や官人たちの蜂起を期待したと言われますが、現実はそう甘くなく誰しも命あっての物種で反乱に加わる者はいませんでした。

 これに対し征討大将軍大野東人の行動は早かったと言えます。9月21日長門国に到着すると間髪入れず渡海、広嗣派の三郡鎮を急襲しました。油断していた広嗣軍は大混乱に陥り降伏、1767人が捕虜となります。一方反乱軍は総大将藤原広嗣が大隅、薩摩、筑前、豊後の兵5千人を率い鞍手道から、弟綱手は筑後、肥前の兵5千人を率い豊後道、多胡古麻呂が田河道を進み三方から官軍を包囲殲滅する作戦でした。

 しかし戦場となった豊前国では官軍に対する寝返りが続出します。というより大宰少弐という権威と藤原氏という威光で嫌々集められただけの人々にとっては広嗣に忠誠心など有りません。しかも官軍に逆らえば死刑が待っているわけですから当然の行動でした。両軍は板櫃川(北九州市)を挟んで激突します。反乱軍は隼人を先頭に筏を組んで強行渡河を試みました。これに対し官軍は弩を発射し防ぎます。官軍の将の一人佐伯常人(さえきのつねひと)は自軍の中にいた隼人を通じて敵側の隼人に投降を促しました。これが功を奏し反乱軍の隼人は弓を射るのをやめます。

 その上で、敵将広嗣を呼び出しました。「なぜ反乱を起こしたのか?」という問いかけに対し広嗣は「私はただ君側の奸である吉備真備と僧玄昉を除くよう求めただけだ」と答えます。「ならば軍兵を率いず自ら朝廷に出向いて訴えれば良いではないか」と言われた広嗣は返答に窮し本陣に引きこもります。

 板櫃川の戦いは反乱軍の敗北に終わり、広嗣は逃亡します。肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)にわたり、そこから新羅に亡命するつもりだったようですが、済州島の近くまで来て強風で船が進まなくなり逆に五島列島へ吹き戻されました。五島列島の北端宇久島に潜伏していた広嗣でしたが、追捕してきた安倍黒麻呂に捕らえられます。11月1日連行されてきた広嗣、綱手兄弟は肥前国唐津で処刑されました。これが藤原広嗣の乱の顛末です。

 その影響は大きく聖武天皇は鎮圧の報告が入る前、反乱が他の藤原一族に波及するのを恐れ突如東国に下ると宣言し平城京を逃げ出しました。伊賀、伊勢、美濃、近江と巡った天皇は山城国恭仁京に移ります。その後も一時的に平城京に戻ったり難波京に遷都したりと落ち着きませんでした。この反乱に連座し死刑16名、没官5名、流罪47名、徒罪(現在の懲役に当たる)32名、杖罪177名の処分が下ります。広嗣の弟たちも多くが流罪となり式家は聖武天皇から孝謙天皇時代南家や北家の後塵を拝するようになりました。

 

 日本全土に猛威を振るった天然痘、そして藤原広嗣の乱は聖武天皇の心をかき乱すのに十分でした。彼は社会の混乱を鎮めるため仏教に救いを求めようと考えます。次回、東大寺盧舎那仏建立の経緯を記しましょう。

2021年10月20日 (水)

奈良朝の風雲Ⅲ 藤原四子政権

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 左大臣長屋王の失脚により朝廷の公卿の入れ替えが行われます。まず大納言多治比池守が730年老齢により没しました。その後任として大宰府から呼ぶ戻された大伴旅人も一年後病死。位階は高くとも名誉職の意味合いが強い皇族の舎人親王、新田部親王は別格として、長屋王の変をうけ藤原武智麻呂が大納言に昇進します。中納言には阿部広庭、参議には引き続き藤原房前がいたものの、新たに藤原四兄弟三男式部卿藤原宇合、同じく四男兵部卿藤原麻呂が参議に列せられます。9人の公卿のうち実に4人が藤原四兄弟で占められたのです。彼らは光明皇后の威光を背景に絶大な力を発揮しました。これを藤原四子政権と呼び729年から737年まで続きます。734年には武智麻呂が右大臣に昇進、藤原一族を掣肘しうる皇族の舎人親王、新田部親王が相次いで亡くなったため朝廷内で四兄弟に逆らえるものはいなくなりました。

 当時の朝廷は、平安期の摂関政治と違い国家の重要事で最終決断を下すのは天皇です。ただ聖武天皇の皇后光明子は四兄弟の妹でしたので、彼女を通じて天皇の決断を促すことは可能でした。

 一応、四兄弟も私利私欲に走ることなく善政を心掛けたのでしょうが、長屋王の変前後から日本国内は混乱し強盗・海賊が横行するようになります。山陽道方面では死者を祭って大衆に邪教を説く者もあらわれました。さらには平城京の東でも数千から数万に達する民衆を集め妖言する者まで出てきます。ただし、都の東郊で妖言する者とは僧行基のことでした。行基は668年河内国大鳥郡の豪族高志氏の子として生まれ14歳で出家、薬師寺に籍を置きます。しかし、大寺院に籠って仏道修行するのに飽き足らず、禁を犯して村里に出て仏法を説くようになりました。

 最初は警戒していた朝廷も、行基が数万人を集めて説法するのを見ると反乱を起こされれることに恐れをなしたのか「行基法師に随行するもので法を守るものに限り僧尼になることを許す」と宣言せざるを得なくなります。こうして行基は朝廷に認められた行基法師となりました。光明皇后が仏道に帰依し保護したのも大きかったと思います。行基は聖武天皇が後に東大寺盧舎那仏建立を決意すると、大仏造営の勧進(寺院を建立するとき人手を集めたり、広く民間から寄付を集めること)に起用されました。行基は見事に期待に応え数万人の労働力と莫大な寄付を集めたそうです。この功績で行基は大僧正に任命されます。

 国内の治安悪化に対しては各地に鎮撫使、畿内に惣管を設置し治安維持に努めました。光明皇后も藤原一族が不比等から相続した莫大な封戸(食封ともいう。朝廷から与えられた私的な領地の事)のうち庸(律令制の税法の一つ。賦役の代わりにものを収めること)を除いた分から薬草を購入し民間の治療にあたる施薬院を設けます。

 732年、惣管、鎮撫使の役職は唐風に節度使と改称されました。東海・東山両道の節度使に藤原房前、山陰道に多治比県守、西海道に藤原宇合が任命されます。節度使は唐と同じく治安維持の他に軍権まで有する強大な権限を持っていました。四兄弟政権は奥羽に対する進出にも本腰を入れます。また関係の悪化した朝鮮半島の新羅との戦争に備えるなども行いました。

 ところが、皮肉なことに新羅からの侵略は物理的なものではなく疫病でした。735年朝鮮半島に近い北九州で謎の疫病が流行り死者が多数出ているという報告が朝廷にもたらされます。どのように発症したかははっきりしませんが、一説によると野蛮人の船から疫病をうつされた一人の漁師によって広まったとも言われました。天然痘です。疫病は猛威を振るいまもなく日本全土に拡大しました。当時の全人口の2割から3割が失われたと言われ農民が数多く犠牲になったことから農業生産が激減し飢饉が起こります。これを天平の疫病大流行と呼ぶそうですが、735年から737年まで続きました。

 天然痘は貴賤の別なく広がり、朝廷を主導していた藤原四兄弟の武智麻呂、房前、宇合、麻呂が737年同時に天然痘で亡くなるという悲劇に見舞われます。口の悪い者の中には、無実の罪で陥れられた長屋王の祟りだと噂する者もいたとか。朝廷の首脳が一気にいなくなったので、後任は生き残った者たちが担当するしかなくなります。その中で頭角を現したのは皇族出身の橘諸兄でした。

 聖武天皇も天然痘の大流行と同時に起こった飢饉で多数の犠牲者を出したことに衝撃を受け仏法に頼って国難を打破することを考え始めます。741年聖武天皇は仏法による国家鎮護のため各国に国分寺、国分尼寺を建立し都には東大寺盧舎那仏を造営することを決意しました。

 

 次回は橘諸兄政権と藤原広嗣の乱について語りましょう。

 

 

2021年10月19日 (火)

奈良朝の風雲Ⅱ 長屋王の変

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 長屋王(676年~729年)の父高市皇子は天武天皇の庶長子です。母の身分が低かったため皇太子には天智天皇の娘(後の持統天皇)を母に持つ草壁皇子が選ばれましたが、高市皇子はなんといっても672年壬申の乱で父大海人皇子(天武天皇)を助け美濃国不破で軍事の全権を預けられ勝利に貢献するという大活躍をしました。ゆえに粗略には扱われず、草壁皇子の母持統天皇が即位すると太政大臣となって朝廷を動かします。その息子長屋王の意識としては天武王朝が出来たのは父高市皇子のおかげという自負があったのだと思います。

 一方、藤原不比等は壬申の乱のとき13歳でした。不比等の父鎌足が中大兄皇子(天智天皇)と共に大化の改新で時の権臣蘇我入鹿を倒したことから、藤原一族の多くが天智天皇の死後も息子大友皇子(明治後諡されて弘文天皇)の近江朝廷に仕えていました。大海人皇子側の勝利で大友皇子方に付いた者たちは多くが処刑されましたが不比等は官途に就いておらず近江朝廷に何の関与もしていなかったことから許されます。天武朝の初期藤原一族は朝廷の中枢から一掃されました。ですから不比等はゼロどころかマイナスからのスタートだったのです。

 不比等は何の後ろ盾もないまま下級官人からスタートします。最初天武天皇の皇太子草壁皇子に仕えたそうです。不比等が頭角を現したのは飛鳥浄御原令の編纂に参加してからだと言われます。草壁皇子は689年皇位に就くことなく27歳で亡くなりました。母持統天皇は夫天武天皇の崩御を受け690年に即位します。というのも草壁皇子の子軽皇子(後の文武天皇)が幼少だったからです。697年軽皇子が15歳になった時、持統天皇は譲位しました。不比等は文武天皇擁立に功績があったと言われます。701年大宝律令編纂では中心的役割をはたし親の七光りではなくまさに実力で朝廷の高官になりました。

 文武天皇の即位後、不比等は自分の娘宮子を文武天皇に嫁がせます。文武天皇と藤原宮子の間には首(おびと)皇子が生まれました。首皇子は皇太子となり、不比等はさらに首皇子にも自分の娘光明子を嫁がせます。ですから首皇子にとっては母が違うとはいえ実の叔母と結婚したことになります。

 720年藤原不比等が亡くなると、長屋王が従二位右大臣(後に正二位左大臣に昇進)となって朝廷を動かすようになりました。不比等の四人の息子たちはまだ若く長男武智麻呂(南家)が中納言、次男房前(北家)が参議になったばかりでした。長屋王は大納言多治比池守、中納言巨勢邑治、大伴旅人(歌人としても有名)と共に政治を行い藤原四兄弟の台頭を抑えようとします。

 しかし724年聖武天皇が即位すると、藤原四兄弟の力は侮れなくなりました。何より聖武天皇の母宮子の兄弟でもあり、光明子の兄でもあったからです。最初の対立は光明子の立后問題でした。四兄弟は光明子を皇后にするよう主張し、長屋王は皇族以外の皇后の例がないと反対します。

 そんな中、聖武天皇と光明子の間に727年待望の男子基(もとい)皇子が生まれます。聖武天皇の喜びようは異常なほどでまだ生後一月で皇太子に立てるほどでした。ところが基皇子は満一歳の誕生日を迎える直前病死します。聖武天皇の落胆は大きく朝廷の百官はもとより全国民に対し三日間の服喪を命じたほどです。

 729年、従七位下漆部君足(ぬりべのきみたり)と無位中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまびと)より「長屋王が皇位を狙い基皇子を呪い殺した」との密告が朝廷にもたらされます。聖武天皇は基皇子の死の衝撃を未だ引きずっていたためこの誣告を簡単に信じました。当然これが無実であることは明らかでした。天皇の命を受け藤原氏側は待ってましたとばかり行動に移ります。長屋王が東国に逃亡しないように伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あたら)の三関の警備を固め、式部卿藤原宇合(うまかい 不比等三男 式家)率いる軍勢が長屋王の屋敷を囲みました。藤原一族の行動の早さから長屋王を追い落とすための陰謀の臭いを感じるのは私だけでしょうか?

 長屋王の屋敷は、藤原氏の私兵の他に衛門府、左右衛士府の軍勢も加わったためさながら朝敵となったようでした。その上で知太政官事舎人親王、知五衛事新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂らが糾問使となって長屋王の屋敷に乗り込みます。長屋王は無実を訴えますが何としても彼を罪に問いたい藤原氏側は一切の言い訳を認めませんでした。

 包囲は三日間続き、どう足掻いても助からないと絶望した長屋王は息子膳夫(かしわで)王、桑田王、葛城王、鉤取王と共に自害しました。長屋王の妻で皇族出身の吉備内親王も後を追います。長屋王派と目された従五位下上毛野宿奈麻呂(かみつけのすくなまろ)ら七人が流罪となりました。長屋王、吉備内親王らの遺骸は生駒山に葬られます。さすがに聖武天皇も反省したのでしょう。勅を発し「吉備内親王に罪はない。礼によって葬儀を営むように」と命じました。この一連の事件が長屋王の変です。

 

 長屋王の横死を受け藤原四兄弟政権が始まります。反対者が居なくなったので光明子は人臣で初めて皇后に立てられました。次回、藤原四子政権、天然痘の流行、聖武天皇の大仏建立の決意を描きます。

2021年10月18日 (月)

奈良朝の風雲Ⅰ 平城遷都

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 皆さん、奈良時代についてどのような印象を抱かれていますか?私の勝手なイメージだと古墳時代から飛鳥時代に続く天皇中心の皇族政治から藤原摂関政治に移行する過渡期だったという感想を持っています。もちろん摂関政治の直接の始まりは藤原北家の冬嗣(775年~826年)が810年薬子の変で功績をあげ嵯峨天皇から蔵人頭に任ぜられたがきっかけだったと思います。その後冬嗣は順調に出世し正二位左大臣になりました。その子良房(804年~872年)はついに従一位摂政・太政大臣にまでなり以後藤原北家の覇権が確立します。

 ではその前の奈良時代、藤原一族が力を持っていなかったかというとそうでもなく藤原鎌足の息子不比等(659年~729年)は皇太子時代の聖武天皇に自分の娘光明子(こうみょうし)を嫁がせ、彼女は人臣初の皇后になりました。不比等の四人の子たちも国政を壟断し藤原四子政権と呼ばれます。しかし藤原氏に対する皇族側の反発も大きく、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱など数多くの反藤原闘争が起こりました。

 奈良時代は藤原氏とそれまで朝廷の高官を占めていた皇族(橘氏も敏達天皇の後裔葛城王が臣籍降下し橘諸兄となったのが始まり)との政治闘争の時代だったとも言えるのです。本シリーズでは、710年平城京遷都から始まり794年桓武天皇の平安遷都で終わる奈良時代を藤原一族の興亡を中心に描いていこうと思っています。

 奈良時代は、元明天皇(在位707年~715年)が710年奈良平野の中心地に平城京を築いたことから始まります。元明天皇は天智天皇の娘に当たり、息子文武天皇(父方で天武天皇の孫)が25歳で崩御したためワンポイントリリーフで即位しました。残された文武天皇の子首(おびと)皇子がまだ幼少だったためその成長までの特例措置だったのです。ちなみにこの首皇子こそ後の聖武天皇です。

 708年武蔵国秩父より銅が産出され献上されたことから和銅と改元し有名な和同開珎を鋳造させたのも彼女の時代でした。元明天皇は信頼の厚い藤原不比等を重用します。不比等は718年娘光明子を首皇子に嫁がせました。不比等は720年に亡くなりますが、その子たちは朝廷の高官を占め引き続き権力を持ちました。長男武智麻呂(南家)大納言、次男房前(北家)、三男宇合(うまかい 式家)、四男麻呂(京家)が参議と9人の公卿のうち4人を兄弟が占め729年から737年まで藤原四子政権は続きます。

 後世の感覚だと大納言は高官ではあってもそれほど偉くないイメージですが、当時の奈良朝廷は太政大臣や左右大臣は常設ではなく皇族が占めるのがほとんどでしたので実務能力に長ける藤原兄弟が国政を動かすようになったのです。特に724年聖武天皇が即位していたので、光明皇后の兄弟という威光は絶大でした。

 ただ、そんな藤原一族の台頭を激しく憎む皇族も居ました。天武天皇の孫にあたる長屋王です。彼の父高市皇子は母の身分が低かったため皇太子になれなかったものの、太政大臣になって朝廷をうごかしました。長屋王自身も721年従二位右大臣になります。長屋王は次第に藤原四兄弟と対立するようになりました。

 

 次回、長屋王の変を描きます。

2021年10月16日 (土)

高市さんが政調会長で良かった

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 今月末の10月31日に迫った衆議院選挙。そろそろ各メディアで当落予想が出ています。朝日などの反日メディアでは自民党単独過半数割れという予測も出ていますが、何とかギリギリ単独過半数は取れると思います。ただ油断は大敵。我々保守派が油断すれば売国容共政権が誕生するという危機感を持って動かなければなりません。

 自民党が勝つには岩盤支持層である保守層の支持を離さない事が肝要。その意味では今回の自民党の選挙公約は良かったと思います。政調会長高市さんの功績が何よりも大きい。敵基地攻撃能力もしっかり入っているし、甘利幹事長の影響か原発再稼働もしっかり取り入れらています。何より原発再稼働、原発も含めたエネルギー安全保障を打ち出したのは良かったと思います。小泉進次郎たちが進めた脱原発では日本産業が死滅しますから当然です。

 ただ岸田さんは人気ないから、選挙ポスターに一緒に映ったり選挙応援を頼む候補者はいなさそう。高市さんと並んだポスターが増えるような気がします。すでに安倍前総理は高市さんと並んだポスターを作っていますよね。高市さんと一緒に映った選挙ポスターを作った候補者には皆さん絶対投票してくださいね。

 いくら自分の選挙区の自民党候補者が売国奴でも血の涙を流して投票してください。例え売国奴でも立憲共産の売国政党に議席を与えるよりはましです。かくいう私も、売国奴野田毅の選挙区ですが、いつものごとく血の涙を流しながら投票するつもりです。まさか今回は無いと思いますが、私の投票する投票所にたまに朝日新聞とか熊本朝日放送の記者かバイトが出口調査に来るんですよ。この前もインタビューを受けました。本当に不快極まりない。ただ私も大人なので穏やかにインタビュー受けましたけどね。

 ともかく、立憲共産の容共政権が出来たら日本は滅亡します。そのくらいの危機感を持って皆さんも投票してください。

2021年10月13日 (水)

エネルギー安全保障の重要性

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 日本は四季に恵まれ主食である米の収穫率も高い反面、国土が狭く山がちで農耕地を含めた可住地はわずか27.3%しかありません。日本が食糧自給できるのは人口3000万人くらいが限界だとも言われています。

 日本は工業立国で海外から資源を輸入し、加工して輸出しています。ですから海外との貿易路は日本の生命線で、シーレーンを必ず死守しなければ干上がります。実際、大東亜戦争末期アメリカ軍による機雷封鎖で干上がる寸前まで追い込まれました。産業の要である電力も現在は天然ガスや石炭などの火力発電に頼っているため、ますます海外からの輸入が重要になりました。

 こういった現実を見ると、少しでもエネルギー安全保障上の脆弱性を打破するためには原子力が必須だし、再生可能エネルギーなど絵空事だと理解できるでしょう。もちろん技術革新が進み天候に影響されない宇宙での太陽光発電技術が採算ベースで確立できたら話は別です。ただそれはいつになるか想像もできません。

 私は知らなかったんですが、経済評論家渡邉哲也氏によるとアルミ精錬で1トンのアルミを作るために13000~14000キロワットの電力が必要だそうです。昨今の電気代高騰で国内でのアルミ精練は難しくなり海外からの輸入に頼っているそうですから絶望的です。アルミはあらゆる産業で使う最重要金属の一つ。それすら国内で精錬できないとなると本当に危機的状況です。福島第一原発の事故とその後の反原発運動の影響がアルミ精練にも出ていたことを知り驚きました。

 私は日本の反原発運動の背後にはシナがいると睨んでいます。日本のエネルギー安全保障を崩壊させ産業を壊滅させるのが連中の企みでしょう。クリーンエネルギーは確かに素人には心地よい響きです。しかしその裏に邪悪な意図が隠されていると知ったら皆さんどう思いますか?日本の産業、ひいては私たちの生活を守るためには原発再稼働、増設が必須だと改めて確信しました。もちろん事故は起こってはならないので、核融合発電など新しい技術で安全性と効率を高めていくしかないと思います。

 私の計算なので間違っているかもしれませんが、日本の年間電気需要を賄うために100万キロワット/h級原子炉90基以上必要です。ここまでしろとは言いませんが、火力発電に頼らないためには原子力発電の依存度を高めていくしかないと思います。最低でも原発事故以前の30%くらいには戻すべきです。

 経産省はデータを握っているのでこういった事実を当然知っているはず。何故強く言わないのでしょうか?そして環境省の犯罪的な再生可能エネルギー政策。環境省には数字すら読めない馬鹿しかいないのか、それとも特亜の工作員が入り込み支配しているのか?マスゴミは特亜の工作員ですから嘘しか言わないでしょうが、政府は国民生活を守る義務があるんですから、現実的な数字を示し原発推進をはっきり打ち出すべきだと思います。

 皆さんは日本のエネルギー政策、どうすべきだとお考えですか?

2021年10月11日 (月)

日本は原子力発電を増やさなければどうにもならない

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 資料は経済産業省資源エネルギー庁のサイトの統計表を基に自作しました。2015年だけは書式が違ったので割合は他資料から計算しました。なので多少は違うかもしれません。

 ご覧になると分かる通り、現状日本は石炭火力と天然ガス火力発電に頼っています。もともと日本はオイルショックを契機にエネルギー安全保障の観点から原子力発電に頼り最盛期には総発電量の30%を原子力が占めていました。ところが2011年東日本大震災による福島第一原発の事故で反原発派が危険だと騒ぎだし全国の原発を止め再稼働にも抵抗したため現在でも5%未満に陥っています。

 石油や天然ガスは海外からの輸入に頼っているため電気代には輸送コストがかかっています。太陽光などの再生可能エネルギーは到底安定的な電力供給源とはなり得ず、もし原子力や火力発電をゼロにすれば日本の産業は死滅します。しかもカーボンニュートラルと称し再生可能エネルギー一本で日本の電力需要を賄うとすれば日本全土を太陽光パネルで埋め尽くしても到底足りません。物理的に不可能です。

 再生可能エネルギー推進派は、この数字を知らないか、知っているにもかかわらず日本産業を滅ぼすためにわざと言っているかのどちらかです。前者なら救いがたい馬鹿ですし、後者なら大悪人です。おそらく後者は特亜の工作員なのでしょう。

 エネルギー政策は厳然たる数字がすべてです。空理空論で進めれば日本は確実に滅亡します。現に欧州でもあれだけ再生可能エネルギーと騒いでいたのに逆に原子力発電の依存度が増しているそうです。それはそうですよね。火力や原子力を止めたら産業が滅ぶんですから。トヨタの豊田社長が当時の小泉進次郎環境大臣を痛烈に批判したのはこの点です。ただ進次郎は馬鹿なので理解できてないようですが。企業としては電力の安定供給は死活問題なんです。

 私のブログを読んでいただいている皆さんは、この事実をとうにご存知だと思いますが、マスゴミを中心に未だ空想論をほざいている馬鹿どもが多いので改めて記事にしました。皆さんのご感想をお聞かせください。

2021年10月10日 (日)

藤原四家の子孫たち

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 最近、一部の歴史系YOUTUBEで話題になっていた中公新書の『藤原仲麻呂』『刀伊の入寇』『中先代の乱』を買いました。時代ごとに読んでいこうと思い、現在『藤原仲麻呂』を読み始めています。若いころは一気に読了できたんですが、最近は寝る前に読むためなかなか進みません(苦笑)。昔は文庫本の小説なら2時間くらいで読めたんですがね(嘆)。

 それはともかく、藤原仲麻呂と言えば藤原四家のうち長男武智麻呂(むちまろ)から始まる藤原南家の人物です。藤原四家は高校日本史で習ったはずなので知らない人は居ないと思いますが一応説明すると、藤原氏の始祖藤原鎌足の子不比等の4人の子供から始まる家系です。不比等も父鎌足に劣らぬ権勢を誇った政治家で娘光明子を聖武天皇の皇后に送り込み、正二位右大臣になりました。当時は皇族が高位高官になるのが常でしたので人臣では異例の出世だったそうです。

 その不比等の息子たちも父の七光りで出世しました。長男武智麻呂(南家)正一位左大臣、次男房前(ふささき 北家)正三位参議、三男宇合(うまかい 式家)正三位参議・大宰府帥、四男麻呂(京家)従三位参議など高位に昇ります。当時は官職の数が少なく、そのうちの多くを皇族が占めていたので四兄弟は父不比等の死後も朝廷を牛耳りました。これを藤原四子政権と呼びます。729年から737年まで続きました。

 ところが四兄弟は奈良時代天平年間の735年から739年にかけて日本全土で蔓延した天然痘で相次いで亡くなります。一説ではこの疫病で日本人口の3割から4割が失われたそうですから恐ろしいです。藤原仲麻呂は武智麻呂の次男で、叔母光明皇后の引き立てで大出世し正一位太師(太政大臣)になりますが、聖武天皇と光明皇后の娘孝謙天皇(譲位して上皇となる)と対立し、764年反乱を起こして敗死しました。仲麻呂に関しては娘東子(とうし あずまこ)も含めて記事にするかもしれません。

 藤原北家は後に道長、頼通を輩出し権勢を誇り、その子孫も近衛、鷹司、一条、二条、九条の五摂家を形成するなど近世まで続きますが、他の南家、式家、京家はどうなったのか気になりました。

 

【藤原南家】

 武智麻呂の長男豊成は従一位右大臣で62歳で没。次男仲麻呂敗死、三男乙麻呂の子孫は地方に下り平将門の乱のとき鎮圧に活躍した藤原為憲も乙麻呂の後裔です。ちなみに為憲は平将門、伊勢平氏の祖平貞盛とは従兄弟になります。為憲の家系からは工藤氏が出ました。工藤氏嫡流は鎌倉時代以降あまり振るわなくなりますが、庶流の伊東氏(日向飫肥五万石)、相良氏(肥後人吉二万二千石)が江戸大名として続きますので、堂上貴族としては消えましたが武士として繁栄し成功した一族だったと言えます。安芸吉川氏もそうですが、これは毛利元就に息子吉川元春を養子で送り込まれ乗っ取られているので男系子孫とは言えません。

 あと、武智麻呂の四男巨勢麻呂の子孫からは平安末期権勢を誇った藤原信西入道を出しています。

 

【藤原式家】

 宇合の長男広嗣は九州で反乱を起こし敗死。ただ宇合の次男良継は内大臣、四男田麻呂は右大臣になっています。平安時代藤原北家が台頭すると勢力が振るわなくなり没落。三男清成の孫藤原薬子が乱を起こしたのも現状に不満があったのかもしれません。薬子の場合は平城上皇、嵯峨天皇兄弟の権力争いに巻き込まれただけという見方もありますが。その後は学問で朝廷に仕える下級貴族となって続きました。

 

【藤原京家】

 こちらも北家の台頭で窓際に押しやられた一族です。政治の第一線には立てず和歌や学問で身を立てました。一応越後の直江氏が京家の子孫を称していますが、怪しい話です。私は勝手に称しているだけだと思いますね。織田信長の平氏と同類ですよ。

 

 式家、京家に比べると子孫から江戸大名を出した南家はまだ幸せだったのかもしれませんね。

2021年10月 6日 (水)

日本の国防は順調に発展しています!

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 護衛艦いずもの空母化に向けて米海兵隊のF-35Bによる発着検証が行われたそうです。私もニュースで米海兵隊F-35Bがいずもの垂直着艦したり短距離発艦する動画を見ました。頼もしいという感想と共にちょっと前までは売国野党やマスゴミが「空母などとんでもない」「日本を再び軍国主義に戻すつもりか?」とぎゃあぎゃあ騒ぎ(河野太郎 談)、絶対に実現不可能だったことを思うと感慨無量です。

 もちろん一部には反発する声があると思いますが、北朝鮮の弾道ミサイルや極超音速ミサイルの発射実験を日本海に向けてどんどん撃ち込んでおり、反対者は「じゃあ国防力強化に反対する連中はいったいどんな対策があるの?」という一般国民の素朴な疑問に満足に答えられませんので、見限られつつあります。連中は話し合いで解決と言いますが、それが通用しないのはアフガニスタンの現状を見ても理解できるはずなんですが、どうも反日左翼には常識が通用しないみたいです。あるいはシナの指令を受けてわざと馬鹿の振りをして反対している可能性もありますが。ただそういう工作員はごく一部で大半は雰囲気だけで動く愚者なんでしょうね。

 ただ危機もあり、例えば河野太郎のようにシナとべったりの人間が総理大臣になったらいずもの空母化や敵基地攻撃能力は骨抜きにされ逆に国防力低下の可能性もあったかと思うとぞっとします。実際防衛大臣時代、河野は代替案も示さずイージスアショアを独断で停止しました。高市さんのように日本の国防を真剣に考える人が総理大臣になるのが理想ですが、岸田内閣も岸防衛大臣の留任で一応これまでも防衛政策は継続できそうなので一安心です。一抹の不安は肝心の岸田総理に危機意識が薄く見えること。有事が発生した時決断が遅れ出なくても済んだはずの国民の犠牲が激増するのを私は恐れています。これに関してはまともな国防意識を持つ岸防衛大臣に岸田さんの尻を叩いてもらうしかないでしょうね。本当に情けないことですが…。

 ともかく、我々の命を守るには国防力強化しかありません。弱腰政府の尻を叩いてまともな国防をさせるのは我々国民の役目です。自らの命がかかっているんですから平和ボケはいい加減卒業しましょう。この記事を読んでくださっている皆様にはそんな阿呆はいないと思いますが、まだまだ国民の大半は平和ボケばかりです。

 米海兵隊F-35Bのいずも発着検証、皆さんはどのような感想を持たれましたか?

2021年10月 4日 (月)

自民党が次の衆議院選挙で負けない秘策

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【環境大臣】小泉進次郎OUT 山口壮IN

 悪名高い小泉進次郎環境大臣が更迭され山口壮(つよし)議員が次期環境大臣に内定したそうです。レジ袋有料化、太陽光パネルで数々の被害を出し熱海では土石流災害で死者行方不明者27名も出した大悪党。始末に負えないのは、ここまで国民を苦しめているのに本人はけろっとして良いことをしていると信じ切っているところ。小石河連合でいろいろ透けて見えてきました。河野は日本端子、進次郎も父純一郎と同じく太陽光利権、そしてシナとべったり。河野太郎が総裁にならなくて本当に良かったと思います。

 YOUTUBEで篠原常一郎さんが仰っていましたが、今回の総裁選「河野だけは駄目だ」とアメリカから自民党議員に圧力がかかったそうですね。そりゃそうでしょ。自由主義陣営として悪の帝国シナと戦わないといけないときに、対シナ戦争の要である日本にシナに逆らえない売国政権が誕生したらたまったものではないからです。

 ただ後任の山口壮も信用できない人間です。元民主党、そして自民党に入って二階派。ミサイル防衛反対、拉致問題はまず北朝鮮に援助しろ、慰安婦問題も韓国と話し合え等まともな政治家とは思えない主張です。さすが元ミンス。屑中の屑です。どうしてこのような人間を選んだのか岸田さんの人間性すら疑います。

 ですから進次郎と似たり寄ったりの屑環境大臣になる可能性が濃厚ですが、もし大臣に就任して「レジ袋は環境にやさしい自然分解できるものは無料配布してよい」「太陽光パネルの斜面など危険な場所への設置は禁止、今まで設置した分はもし被害が出た場合は刑事責任を問う」と発言したら自民党は選挙で勝つでしょうね。まあ絶対にしないでしょうけど。

 アメリカに睨まれたという事は、小石河が浮上することは無いでしょうね。そして国家転覆トリオを応援した自民党議員、シナへの媚びをやめない公明党、明らかなシナの工作員である売国野党、マスゴミは覚悟しておいた方が良いぞ。日本政府は大甘でもアメリカは違う。遠くない時期に血の粛清が待っていると首を洗って待っておけ!

 一番の問題は、平和ボケ国民の象徴のような岸田新総裁。まあ無能で決断力がないからアメリカから圧力がかかると唯々諾々と従うんでしょうが、情けないことだが今はその方が良い。来るべき戦争でアメリカを中心とする自由主義同盟に属していないと未来はないという事です。戦争も当然参加。当事者ですから当たり前です。その意味では明らかなシナ陣営に入らないでも中立でもアウト。韓国はほぼ詰んでいます。

 我々日本国民も命が惜しかったらいやでも総選挙自民党に入れるべき。私の選挙区は売国奴野田毅ですが血の涙を流して投票しますよ。万が一でも野党が過半数を取って政権交代したらその時点で滅亡確定でしょうね。困るのは岸田さんにその危機感がなさそうな事。自民党が勝つには官房長官に高市さん起用しかなかったように思えます。そうなると靖国参拝で特亜とマスゴミがぎゃあぎゃあ文句言うから恐れたんでしょうけど、大局眼がなさすぎますよ。まず選挙は勝たないと話にならない。ジャーナリストの山口敬之さんが言ってましたが、閣僚の靖国参拝が嫌なら高市さんを来年の参議院選挙まで引っ張って8月15日前に交代させればよいだけ。岸田さんはそういう悪党っぽいことはできなさそうですけどね。

 さて話を戻すと、山口壮が大臣就任会見でどのような発言をするのか注目しています。進次郎以上に基地外発言したら総選挙は厳しいと思うし、我々まともな有権者も覚悟しておいた方が良いと思いますよ。大げさではなく、それほど日本は危機だという事です。皆さんは進次郎更迭、山口壮就任、どのような感想を持たれましたか?

 

2021年10月 1日 (金)

岸田内閣は短命に終わりそう

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「安倍カラー」脱せぬ岸田総裁 官房長官の人選、急きょ練り直し(朝日)


 先の総裁選で岸田さんが勝利し総理大臣就任も確定したわけですが、早くも党4役人事と組閣で赤信号が点滅しています。高市さん推しの保守層は政調会長就任を左遷だとみているようですが、私は違います。岸田さんは次の総裁選でライバルになることが確実な高市さんを世間にアピールできる重要閣僚や応援演説などで自民党員に広く浸透されるのを避けたかったんでしょう。ただ総裁選で勝利したのは高市陣営が岸田さんに決選投票で入れたのが最大の勝因。目立たなくてしかもある程度論功行賞的な人事となれば政調会長しかなかったんでしょう。総務会長だとちょっと格が落ちますからね。

 高市さんはすでに政調会長を経験しています。あまり知られていませんが、政調会長は党内で上がってくる法律案を承認し国会に提出する重要な役目。実際、高市さんは稲田朋美らから上がってきた売国夫婦別姓法案を政調会長権限で潰したという大功績があるそうです。私は知らなかったんですが、ネットで指摘されて目からうろこでした。今回も自民党内の特亜工作員から上がってくる売国法案を拒否してくれそうです。

 一番駄目なのは福田達夫の総務会長。これは悪手でしょう。福田は売国総理福田康夫の息子。しかも今回の総裁選で細田派を裏切り党風一新の会と称しあからさまに河野を応援した男ですよ。河野太郎を広報本部長という微妙なポストで処遇するのは良かったと思いますが、裏切り者福田達夫は徹底的に干さなければ駄目。どうしてこういう人事になったのか理解に苦しみます。おそらく決選投票でも福田は河野に入れたと思いますよ。康夫に対する配慮なんでしょうが、無用ですね。

 官房長官も微妙。手堅い人事だったんでしょうが、菅政権が駄目になったのは官房長官のアピール力がなかったのも原因でした。それこそアピール力がありマスゴミの意地悪な質問にも堂々と答えられる高市さんがベストだったように思います。次いで萩生田さん。官房長官は一番目立つので高市さんを起用すると確実に有力な次期総理総裁候補になるので岸田さんとしたら絶対にできない選択だったんでしょうが、逆に考えると高市さんを政権内に取り込むことで次の総裁選に出にくくするという高等戦術もあったと思うんですよ。岸田さんが出馬するのに、官房長官が裏切って総裁選に出るとなるとかつての石原伸晃のように令和の明智光秀と言われかねません。ですから岸田政権が長持ちするには高市官房長官がベストだったと私は思います。高市さんは人格者なので岸田政権を徹底的に守ってくれたはず。しかし、これで高市さんは次の総裁選も出やすくなったと思うので結果的には高市推しとしては良かったのでしょう。

 官房長官は総理の女房役なので岸田派から出すのなら国防で安定感のある小野寺五典さんが良かった気はします。小野寺さんはいつか総理になってもらいたい人材でもありますからね。

 この体たらくだと内閣人事も駄目そう。特に小泉進次郎はレジ袋有料化で国民の怨嗟の的になっているのでこいつが内閣に残ると岸田総理の支持率も上がりませんよ。衆議院選挙は何とか乗り切れそうですが、来年の参議院選挙までもつか疑問です。結局、岸田さんは各所に配慮しすぎて決断力のないダメダメ総理になりそうな気がします。

 高市さんを推したのは自民党岩盤支持層である保守派ですよ。これを取り込まないと菅総理のように短命に終わります。安倍さんが長期政権になったのは岩盤支持層である保守層30%が離れなかったから。逆に菅さんは保守派から見限られたから長期政権になれなかったんです。岸田さんはもともとリベラルだから保守層からは懐疑の目でみられています。その想像通りの駄目人事では岸田政権は菅政権と同じ道をたどりそうですね。

 あくまでマスゴミの報道なので変わる可能性はあると思いますが、皆さんは岸田新総裁の人事、どのような感想を持たれましたか?

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