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2021年10月18日 (月)

奈良朝の風雲Ⅰ 平城遷都

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 皆さん、奈良時代についてどのような印象を抱かれていますか?私の勝手なイメージだと古墳時代から飛鳥時代に続く天皇中心の皇族政治から藤原摂関政治に移行する過渡期だったという感想を持っています。もちろん摂関政治の直接の始まりは藤原北家の冬嗣(775年~826年)が810年薬子の変で功績をあげ嵯峨天皇から蔵人頭に任ぜられたがきっかけだったと思います。その後冬嗣は順調に出世し正二位左大臣になりました。その子良房(804年~872年)はついに従一位摂政・太政大臣にまでなり以後藤原北家の覇権が確立します。

 ではその前の奈良時代、藤原一族が力を持っていなかったかというとそうでもなく藤原鎌足の息子不比等(659年~729年)は皇太子時代の聖武天皇に自分の娘光明子(こうみょうし)を嫁がせ、彼女は人臣初の皇后になりました。不比等の四人の子たちも国政を壟断し藤原四子政権と呼ばれます。しかし藤原氏に対する皇族側の反発も大きく、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱など数多くの反藤原闘争が起こりました。

 奈良時代は藤原氏とそれまで朝廷の高官を占めていた皇族(橘氏も敏達天皇の後裔葛城王が臣籍降下し橘諸兄となったのが始まり)との政治闘争の時代だったとも言えるのです。本シリーズでは、710年平城京遷都から始まり794年桓武天皇の平安遷都で終わる奈良時代を藤原一族の興亡を中心に描いていこうと思っています。

 奈良時代は、元明天皇(在位707年~715年)が710年奈良平野の中心地に平城京を築いたことから始まります。元明天皇は天智天皇の娘に当たり、息子文武天皇(父方で天武天皇の孫)が25歳で崩御したためワンポイントリリーフで即位しました。残された文武天皇の子首(おびと)皇子がまだ幼少だったためその成長までの特例措置だったのです。ちなみにこの首皇子こそ後の聖武天皇です。

 708年武蔵国秩父より銅が産出され献上されたことから和銅と改元し有名な和同開珎を鋳造させたのも彼女の時代でした。元明天皇は信頼の厚い藤原不比等を重用します。不比等は718年娘光明子を首皇子に嫁がせました。不比等は720年に亡くなりますが、その子たちは朝廷の高官を占め引き続き権力を持ちました。長男武智麻呂(南家)大納言、次男房前(北家)、三男宇合(うまかい 式家)、四男麻呂(京家)が参議と9人の公卿のうち4人を兄弟が占め729年から737年まで藤原四子政権は続きます。

 後世の感覚だと大納言は高官ではあってもそれほど偉くないイメージですが、当時の奈良朝廷は太政大臣や左右大臣は常設ではなく皇族が占めるのがほとんどでしたので実務能力に長ける藤原兄弟が国政を動かすようになったのです。特に724年聖武天皇が即位していたので、光明皇后の兄弟という威光は絶大でした。

 ただ、そんな藤原一族の台頭を激しく憎む皇族も居ました。天武天皇の孫にあたる長屋王です。彼の父高市皇子は母の身分が低かったため皇太子になれなかったものの、太政大臣になって朝廷をうごかしました。長屋王自身も721年従二位右大臣になります。長屋王は次第に藤原四兄弟と対立するようになりました。

 

 次回、長屋王の変を描きます。

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