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2021年10月25日 (月)

奈良朝の風雲Ⅷ 宇佐八幡神託事件(終章)

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 藤原仲麻呂の乱の戦後処理は苛烈を極めました。近江で最後まで仲麻呂に付き従った34人以外に、仲麻呂派と見做された者475人が連座します。斬刑に当たると判断され764年12月だけで13人が処刑されました。最終的に475人全員が処刑されたのか一部は許されて流刑で済んだかははっきりしません。ただ朝廷内の仲麻呂派を一掃したのは間違いありません。一番の被害者は淳仁天皇でした。孝謙上皇方に身柄を拘束され幽閉状態だった淳仁天皇ですが、謀反人藤原仲麻呂と共謀し上皇の排除を図ったとして廃位、身分を親王におとされ淡路公として淡路国に流刑になります。

 淳仁天皇は積極的に動かず何もしていない完全な被害者でしたが、孝謙上皇が復位するのに邪魔だったので言いがかりをつけて排除されたのです。一年後孝謙上皇方の圧力を受け失意のうちに亡くなります。孝謙上皇はすでに出家していました。にもかかわらず764年10月復位します。すなわち称徳天皇です。出家した者が復位して天皇になるのは異例でした。

 仲麻呂派の一掃で、失脚していた藤原豊成が右大臣として朝廷に返り咲きます。しかし一番の驚くべきことは称徳天皇が寵愛する弓削の道鏡が太政大臣禅師として朝廷のトップになったことでした。称徳天皇の言い分は「出家の天皇の補佐をするのは出家した僧がふさわしい」とのことでしたが、苦しい言い訳にすぎません。今回の藤原仲麻呂の乱で功があった吉備真備も参議に任ぜられました。766年には従二位右大臣にまで出世します。

 道鏡に対する称徳天皇の寵愛はこれだけにとどまりませんでした。道鏡の一族を参議など朝廷の高官に登用するなど乱脈を極めます。また猜疑心の強い彼女は、淳仁天皇の兄船王、池田王をそれぞれ隠岐、土佐へ配流しました。淳仁天皇の甥にあたる和気王に至っては謀反を起こそうとしたと言いがかりをつけ絞首します。称徳天皇は異母妹不破内親王にも疑いの目を向けました。不破内親王が藤原仲麻呂の乱で処刑された塩焼王に嫁いでいたからです。769年不破内親王は称徳天皇を呪ったという罪で息子志計志麻呂と共に土佐に配流しました。その際内親王の籍を剥奪するという徹底ぶりです。

 称徳天皇と道鏡による乱れた政治に貴族や庶民たちは怨嗟の声を上げますが、表立って諫める者はいませんでした。下手すると殺されるからです。皇族に対してすら容赦ないのですからそれ以外ならどんなむごたらしい殺し方をされるか分かりません。称徳天皇には皇統を守る意識はなかったと思われます。道鏡を溺愛しついには自分の次の天皇にしようとすら思い始めました。そこに阿る者が出てくるのはある意味自然だったのかもしれません。769年5月豊前の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるだろう」という神託がもたらされました。これは大宰帥だった道鏡の弟弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が共謀した偽の神託でした。

 さすがの称徳天皇もいくら寵愛しているとはいえ道鏡をいきなり天皇にすることは迷います。朝廷の百官も国民も許さないと思ったからです。そこで確認するため近衛将監(しょうげん)和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し神託が真実であるか確認させようとします。道鏡は清麻呂を出発前に招いて「そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう」とささやきました。

 清麻呂が佞臣なら道鏡の意を受け称徳天皇や道鏡が気に入る報告をしたでしょう。ところが彼は清廉潔白で剛直の臣でした。宇佐八幡宮に到着すると神官たちを厳しく問いただし「我が国は開闢以来君臣が定まっている。臣をもって君にすることがあってはならない。天つ日嗣(天皇の後継者)には必ず皇緒(皇族)を立てよ」という神託を得ました。帰京した清麻呂がそのまま報告すると称徳天皇は怒ります。道鏡も激怒しました。神託を偽ったと無実の罪を着せ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ一切の官位を剥奪、大隅国に流します。さらに清麻呂の姉で称徳天皇に仕えていた法均も還俗させられ備後に流罪としました。

 ただ清麻呂の活躍で道鏡の皇位継承は沙汰止みになります。貴族たちの反発が強かったからです。そしてこの事件から半年後の770年8月、称徳天皇は病気となり崩御しました。享年53歳。道鏡の権力の源泉は称徳天皇でしたから、後ろ盾のなくなった者を遠慮する者はいません。貴族たちの反撃が始まりました。道鏡は太政大臣禅師の官職を剥奪され造下野薬師寺別当を命ぜられ下野国に追放されます。二年後道鏡は失意のうちに亡くなりました。道鏡の一族も同様でした。朝廷の役職を解かれ土佐など各地に流されます。

 道鏡は皇位を狙った大悪人と言われましたが、私は称徳天皇も同罪だと思います。悪政は二人の合作でした。称徳天皇は自らの天武系皇族を猜疑心や憎しみのために排除し、しかも後継者を定めぬまま亡くなります。藤原永手(北家 房前の次男)、藤原良継(式家 宇合の次男)、吉備真備らは協議して後任を天智天皇の孫にあたる白壁王に決めました。白壁王が聖武天皇の娘井上内親王(母は県犬養広刀自)を妻にしていたからです。白壁王は即位して光仁天皇(在位770年~781年)となります。即位したとき60歳になっていました。現在に至るまで即位年齢は最高記録だそうです。

 壬申の乱を経て失われていた天智天皇系に皇位が戻ったことになります。それも称徳天皇の悪政が原因でした。光仁天皇が即位すると大隅国に流されていた和気清麻呂も許され官界に復帰します。道鏡は配流途中の清麻呂の暗殺を謀ったそうですが失敗していました。どこまで腐った破戒僧なのかと呆れますね。播磨員外介、豊前守などを歴任し光仁天皇の次の桓武天皇にも仕えます。晩年は従三位民部卿になりました。

 藤原仲麻呂の乱で活躍し今回の光仁天皇擁立にも貢献した吉備真備は右大臣のまま771年引退します。その後775年まで生きました。享年81歳。当時としては驚くべき長命です。最終官位前右大臣正二位。光仁天皇の御代は称徳天皇の時代に乱れた国政を正すことに費やされます。途中天武天皇の曾孫氷上川継の乱など揺り戻しもありましたが、治世はその子桓武天皇に受け継がれていきました。

 

 桓武天皇は平城京で肥大化していた仏教勢力の影響を嫌い784年長岡京、794年平安京を築き遷都しました。桓武天皇の脳裏には第二の道鏡を出してはならないという意識があったのかもしれません。そして奈良時代は終わりを遂げ彼の治世から平安時代が始まります。

 

 

 

 

 

  

 

                                            (完)

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