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2021年10月21日 (木)

奈良朝の風雲Ⅳ 藤原広嗣の乱

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 日本人の8割は自称も含め源平藤橘のどれかを先祖とするそうです。藤原氏は藤原鎌足が祖、平氏は桓武天皇を祖とします。源氏の場合は一番有名なのが清和天皇を祖とする一族ですが、他にも嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏など数多く存在します。そして橘氏の祖が今回登場する橘諸兄(たちばなのもろえ 684年~757年)でした。

 橘諸兄は敏達天皇の後裔で初名を葛城王という皇族でした。その後臣籍降下し橘朝臣姓を貰います。長屋王の変までは目立たぬ存在でしたが、長屋王の横死を受け729年参議となりました。737年天然痘の大流行で当時政治を主導していた藤原四兄弟はじめ多くの公卿が亡くなったため、朝廷に出仕できる者が参議の鈴鹿王と橘諸兄だけになります。そこで朝廷は鈴鹿王を知太政官事、諸兄を大納言に任命し政治を行わせました。翌738年諸兄は正三位右大臣(三位で右大臣は異例)に昇進します。

 鈴鹿王は朝廷の最高位ではあっても名誉職的意味合いが強く、実際は橘諸兄が朝廷を動かすことになりました。諸兄は聖武天皇に上奏し遣唐使として渡唐の経験がある吉備真備(695年~775年)や僧玄昉(?~746年)を抜擢、ブレーンとして登用します。吉備真備らは下級貴族出身でしたが唐の先進的な学問を学び非常に有能でした。739年従二位に昇叙されると、諸兄は自派の側近である県犬養石次(あがたのいぬかいのいわすき)、大野東人(おおののあずまびと)、巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)、大伴牛養(おおとものうしかい)を次々と登用し、政権の盤石化を図りました。

 こうなると面白くないのが藤原氏です。一応諸兄政権には嫡流南家武智麻呂の長男豊成が参議として入りますが、不比等三男宇合の式家嫡男広嗣(713年~740年)はまだ25歳と若いこともあって従五位下と低い位階に留め置かれました。さらに広嗣は新羅征伐論を主張する最強硬派で、疫病で疲弊した内政を立て直すため緊縮財政を進めている諸兄政権とは相容れず、式部少輔、大和守から738年大宰少弐(大宰府の三等官)に左遷されます。ただ、これを左遷とみるか九州の最前線に行って現実を見るようにという親心から出た人事かは意見が分かれます。

 広嗣本人は左遷人事だと受け取りました。恨みを募らせた広嗣は任地九州で秘かに兵を集め始めます。そして740年朝廷に対し「昨今の天変地異の元凶は政治を蔑ろにしている吉備真備、僧玄昉らの責任である。二人を追放すべきだ」という上奏文を送りました。さすがに元皇族の橘諸兄を直接攻撃するのを避けたのは広嗣に遠慮があったのか、それとも精神の弱さなのか?これが例え皇族であろうと政敵なら徹底的につぶすという父宇合らとの違いだったのかもしれません。名門の御曹司として何苦労無く我儘いっぱいに育った若造の限界だったのでしょう。

 当然広嗣の上奏は拒否されます。そればかりか、聖武天皇は広嗣に対し召喚の勅諚を出しました。740年9月、広嗣は弟綱手と共に大宰府の手勢、薩摩の隼人族ら1万人の兵を動員し朝廷に対し反乱を起こします。奈良時代の人口は500万人から600万人くらい(800万人という説も)と言われますから、これは驚異的な数でした。戦国時代なら3万人から5万人くらいに匹敵します。

 朝廷は大野東人を征討大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任命し東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道から1万7千の兵力を動員し鎮圧に向かわせました。筑前国遠賀郡に本営を築いた広嗣は、関門海峡に近い登美、板櫃、京都(みやこ)の三郡鎮に兵を入れ守りを固めました。広嗣は平城京で広嗣に同調する貴族や官人たちの蜂起を期待したと言われますが、現実はそう甘くなく誰しも命あっての物種で反乱に加わる者はいませんでした。

 これに対し征討大将軍大野東人の行動は早かったと言えます。9月21日長門国に到着すると間髪入れず渡海、広嗣派の三郡鎮を急襲しました。油断していた広嗣軍は大混乱に陥り降伏、1767人が捕虜となります。一方反乱軍は総大将藤原広嗣が大隅、薩摩、筑前、豊後の兵5千人を率い鞍手道から、弟綱手は筑後、肥前の兵5千人を率い豊後道、多胡古麻呂が田河道を進み三方から官軍を包囲殲滅する作戦でした。

 しかし戦場となった豊前国では官軍に対する寝返りが続出します。というより大宰少弐という権威と藤原氏という威光で嫌々集められただけの人々にとっては広嗣に忠誠心など有りません。しかも官軍に逆らえば死刑が待っているわけですから当然の行動でした。両軍は板櫃川(北九州市)を挟んで激突します。反乱軍は隼人を先頭に筏を組んで強行渡河を試みました。これに対し官軍は弩を発射し防ぎます。官軍の将の一人佐伯常人(さえきのつねひと)は自軍の中にいた隼人を通じて敵側の隼人に投降を促しました。これが功を奏し反乱軍の隼人は弓を射るのをやめます。

 その上で、敵将広嗣を呼び出しました。「なぜ反乱を起こしたのか?」という問いかけに対し広嗣は「私はただ君側の奸である吉備真備と僧玄昉を除くよう求めただけだ」と答えます。「ならば軍兵を率いず自ら朝廷に出向いて訴えれば良いではないか」と言われた広嗣は返答に窮し本陣に引きこもります。

 板櫃川の戦いは反乱軍の敗北に終わり、広嗣は逃亡します。肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)にわたり、そこから新羅に亡命するつもりだったようですが、済州島の近くまで来て強風で船が進まなくなり逆に五島列島へ吹き戻されました。五島列島の北端宇久島に潜伏していた広嗣でしたが、追捕してきた安倍黒麻呂に捕らえられます。11月1日連行されてきた広嗣、綱手兄弟は肥前国唐津で処刑されました。これが藤原広嗣の乱の顛末です。

 その影響は大きく聖武天皇は鎮圧の報告が入る前、反乱が他の藤原一族に波及するのを恐れ突如東国に下ると宣言し平城京を逃げ出しました。伊賀、伊勢、美濃、近江と巡った天皇は山城国恭仁京に移ります。その後も一時的に平城京に戻ったり難波京に遷都したりと落ち着きませんでした。この反乱に連座し死刑16名、没官5名、流罪47名、徒罪(現在の懲役に当たる)32名、杖罪177名の処分が下ります。広嗣の弟たちも多くが流罪となり式家は聖武天皇から孝謙天皇時代南家や北家の後塵を拝するようになりました。

 

 日本全土に猛威を振るった天然痘、そして藤原広嗣の乱は聖武天皇の心をかき乱すのに十分でした。彼は社会の混乱を鎮めるため仏教に救いを求めようと考えます。次回、東大寺盧舎那仏建立の経緯を記しましょう。

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