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2021年10月19日 (火)

奈良朝の風雲Ⅱ 長屋王の変

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 長屋王(676年~729年)の父高市皇子は天武天皇の庶長子です。母の身分が低かったため皇太子には天智天皇の娘(後の持統天皇)を母に持つ草壁皇子が選ばれましたが、高市皇子はなんといっても672年壬申の乱で父大海人皇子(天武天皇)を助け美濃国不破で軍事の全権を預けられ勝利に貢献するという大活躍をしました。ゆえに粗略には扱われず、草壁皇子の母持統天皇が即位すると太政大臣となって朝廷を動かします。その息子長屋王の意識としては天武王朝が出来たのは父高市皇子のおかげという自負があったのだと思います。

 一方、藤原不比等は壬申の乱のとき13歳でした。不比等の父鎌足が中大兄皇子(天智天皇)と共に大化の改新で時の権臣蘇我入鹿を倒したことから、藤原一族の多くが天智天皇の死後も息子大友皇子(明治後諡されて弘文天皇)の近江朝廷に仕えていました。大海人皇子側の勝利で大友皇子方に付いた者たちは多くが処刑されましたが不比等は官途に就いておらず近江朝廷に何の関与もしていなかったことから許されます。天武朝の初期藤原一族は朝廷の中枢から一掃されました。ですから不比等はゼロどころかマイナスからのスタートだったのです。

 不比等は何の後ろ盾もないまま下級官人からスタートします。最初天武天皇の皇太子草壁皇子に仕えたそうです。不比等が頭角を現したのは飛鳥浄御原令の編纂に参加してからだと言われます。草壁皇子は689年皇位に就くことなく27歳で亡くなりました。母持統天皇は夫天武天皇の崩御を受け690年に即位します。というのも草壁皇子の子軽皇子(後の文武天皇)が幼少だったからです。697年軽皇子が15歳になった時、持統天皇は譲位しました。不比等は文武天皇擁立に功績があったと言われます。701年大宝律令編纂では中心的役割をはたし親の七光りではなくまさに実力で朝廷の高官になりました。

 文武天皇の即位後、不比等は自分の娘宮子を文武天皇に嫁がせます。文武天皇と藤原宮子の間には首(おびと)皇子が生まれました。首皇子は皇太子となり、不比等はさらに首皇子にも自分の娘光明子を嫁がせます。ですから首皇子にとっては母が違うとはいえ実の叔母と結婚したことになります。

 720年藤原不比等が亡くなると、長屋王が従二位右大臣(後に正二位左大臣に昇進)となって朝廷を動かすようになりました。不比等の四人の息子たちはまだ若く長男武智麻呂(南家)が中納言、次男房前(北家)が参議になったばかりでした。長屋王は大納言多治比池守、中納言巨勢邑治、大伴旅人(歌人としても有名)と共に政治を行い藤原四兄弟の台頭を抑えようとします。

 しかし724年聖武天皇が即位すると、藤原四兄弟の力は侮れなくなりました。何より聖武天皇の母宮子の兄弟でもあり、光明子の兄でもあったからです。最初の対立は光明子の立后問題でした。四兄弟は光明子を皇后にするよう主張し、長屋王は皇族以外の皇后の例がないと反対します。

 そんな中、聖武天皇と光明子の間に727年待望の男子基(もとい)皇子が生まれます。聖武天皇の喜びようは異常なほどでまだ生後一月で皇太子に立てるほどでした。ところが基皇子は満一歳の誕生日を迎える直前病死します。聖武天皇の落胆は大きく朝廷の百官はもとより全国民に対し三日間の服喪を命じたほどです。

 729年、従七位下漆部君足(ぬりべのきみたり)と無位中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまびと)より「長屋王が皇位を狙い基皇子を呪い殺した」との密告が朝廷にもたらされます。聖武天皇は基皇子の死の衝撃を未だ引きずっていたためこの誣告を簡単に信じました。当然これが無実であることは明らかでした。天皇の命を受け藤原氏側は待ってましたとばかり行動に移ります。長屋王が東国に逃亡しないように伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あたら)の三関の警備を固め、式部卿藤原宇合(うまかい 不比等三男 式家)率いる軍勢が長屋王の屋敷を囲みました。藤原一族の行動の早さから長屋王を追い落とすための陰謀の臭いを感じるのは私だけでしょうか?

 長屋王の屋敷は、藤原氏の私兵の他に衛門府、左右衛士府の軍勢も加わったためさながら朝敵となったようでした。その上で知太政官事舎人親王、知五衛事新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂らが糾問使となって長屋王の屋敷に乗り込みます。長屋王は無実を訴えますが何としても彼を罪に問いたい藤原氏側は一切の言い訳を認めませんでした。

 包囲は三日間続き、どう足掻いても助からないと絶望した長屋王は息子膳夫(かしわで)王、桑田王、葛城王、鉤取王と共に自害しました。長屋王の妻で皇族出身の吉備内親王も後を追います。長屋王派と目された従五位下上毛野宿奈麻呂(かみつけのすくなまろ)ら七人が流罪となりました。長屋王、吉備内親王らの遺骸は生駒山に葬られます。さすがに聖武天皇も反省したのでしょう。勅を発し「吉備内親王に罪はない。礼によって葬儀を営むように」と命じました。この一連の事件が長屋王の変です。

 

 長屋王の横死を受け藤原四兄弟政権が始まります。反対者が居なくなったので光明子は人臣で初めて皇后に立てられました。次回、藤原四子政権、天然痘の流行、聖武天皇の大仏建立の決意を描きます。

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