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2021年10月24日 (日)

奈良朝の風雲Ⅶ 藤原仲麻呂の最期

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 橘奈良麻呂の変で右大臣藤原豊成は失脚します。左大臣橘諸兄はすでに引退していました。息子奈良麻呂の横死の衝撃でもともと病気がちであった諸兄は757年病死しました。享年74歳。これで大納言仲麻呂が太政官の首座に就き政治を行うようになります。ただ孝謙天皇は橘奈良麻呂の変に連座した者の死一等を減じ流罪にするよう仲麻呂に求めたにもかかわらず事実上無視されたことに良い感情を抱かなかったと思います。特に道祖王、黄文王など皇族までが拷問で殺されたことは世間の憎しみを受けました。道祖王などは聖武上皇の遺言で皇太子になったほどの人物です。せめて皇族は流罪にすべきだったと思います。仲麻呂の憎しみが激しかったのでしょうが、この狭量さは後に命取りになりました。

 孝謙天皇との関係に隙間風があるにも関わらず仲麻呂政権が続いたのは、孝謙天皇の母光明皇太后の絶大な信頼と庇護があったからです。758年孝謙天皇は譲位し大炊王が即位しました。すなわち淳仁天皇(在位758年~764年)です。淳仁天皇は舎人親王の子で皇族としては傍系に当たりました。しかし天武天皇系の皇族が少なくなっていたので白羽の矢が立ったのです。そういった経緯から淳仁天皇は権臣藤原仲麻呂の意のままに動く操り人形でした。

 淳仁天皇擁立の功績で仲麻呂は右大臣になります。さらに仲麻呂の一族は恵美朝臣を授けられ仲麻呂自身も藤原恵美朝臣押勝と名乗ります。ここでは紛らわしいので仲麻呂で通しますが、仲麻呂が嫌われたのは官職名を唐風に改めたことです。右大臣も唐風に太保と呼ばせました。儒教的な徳治政治を目指し様々な改革を推し進めますが、私は前漢を簒奪した王莽と同じ臭いを感じます。こういう時代錯誤な政策は現実に合わず政治は混乱し庶民は怨嗟の声を上げるものです。性格的にも仲麻呂は平安末期の悪左府頼長と被るように思えます。自信の能力は高いのでしょうが、周囲が見えず暴走しその結果人々の憎しみを買い滅びるものです。

 760年、仲麻呂は人臣としては初の正一位太政大臣に任ぜられました。このころが彼の絶頂期だったかもしれません。ところが同年6月最大の庇護者だった光明皇太后が崩御しました。後ろ盾を失った仲麻呂、そして母の生存中は不満があっても我慢していた孝謙上皇は仲麻呂の政治に口を出すようになります。761年近江国保良宮(大津京の近く)にいた孝謙上皇は病に臥せりました。そこで看病を担当した弓削の道鏡を寵愛するようになります。道鏡は河内国出身、法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学びます。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられました。道鏡は美男だった(俗説ではあそこが大きかったとも)と言われ、独身だった孝謙上皇は夢中になったのでしょう。

 孝謙上皇は道鏡への寵愛が深まるにつれ仲麻呂とその傀儡の淳仁天皇が疎ましくなりました。762年上皇とのパイプ役になっていた正室藤原袁比良が亡くなります。同年仲麻呂の腹心だった紀飯麻呂、石川年足も相次いで亡くなり仲麻呂政権の基盤は弱まりました。孝謙上皇側も来るべき仲麻呂追い落としの準備を着々と進めます。まず、橘諸兄に近いという理由で警戒され大宰大弐に左遷されていた吉備真備を764年朝廷に呼び戻しました。名目は造東大寺長官に任命するためでした。吉備真備はこのとき70歳の高齢でしたが、遣唐使時代多くの学問を修め特に兵法に通じていました。孝謙上皇方は吉備真備に軍師的役割を期待したのです。

 自分を取り巻く環境が次第に厳しくなっているのは、流石の仲麻呂も気付いていました。そこで不測の事態に備え娘婿藤原御楯を参議・授刀衛督・伊賀・近江・若狭按察使に任命し都と畿内周辺の軍事力を握らせました。仲麻呂自身も都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任して軍権を握ります。さらに仲麻呂八男辛加知を越前守、九男執棹を美濃守にするなど万全を期しました。が、一番信頼厚かった娘婿御楯が764年6月急死してしまいます。

 仲麻呂の周囲には次第に暗雲が立ち込め始めます。孝謙上皇はますます道鏡を寵愛し、政治を顧みなくなりました。仲麻呂は淳仁天皇を通じて上皇を諫めますが、逆に怒りを買ってしまいます。そんな中、大外記の高丘比良麻呂が上皇のもとに「藤原仲麻呂に謀反の計画あり」と密奏しました。これは実際陰謀があったとも実は無実であったとも言われはっきりしません。ただ孝謙上皇側に仲麻呂を追い落とす計画があったことは確かでした。皮肉なことに長屋王の失脚も密告なら仲麻呂を追い詰めたのも密告でした。

 密告は他の者からも相次ぎ、仲麻呂の謀反は既成事実化します。実際仲麻呂側も淳仁天皇を担ぎ6000人の兵士を動員、孝謙上皇と道鏡に弾劾状を突きつけ上皇は幽閉、道鏡は追放か死刑を計画していたとも言われますので、どっちもどっちです。現状、淳仁天皇を擁している仲麻呂側が有利でした。

 孝謙上皇側の軍師、吉備真備は次々と手を打っていきます。まず朝廷が諸国の軍勢を動かすのに必要な御璽、駅鈴を奪取させました。その上で錦の御旗になりうる淳仁天皇の身柄を仲麻呂より先に抑えました。淳仁天皇はそのまま幽閉されたとも言われます。兵を動かすための御璽も大義名分の淳仁天皇も失った仲麻呂は平城京を脱出するしかありませんでした。

 吉備真備の恐ろしいところは、仲麻呂が根拠地の近江に逃亡するだろうと読んでいたことです。近江を中心に東国の兵を糾合されれば壬申の乱の時のように仲麻呂側が圧倒的有利になります。それを防ぐため山城(当時は山背)守日下部子麻呂に命じて瀬田橋を焼かせました。当時の近江国府は瀬田川の東岸にあったので仲麻呂一行は国府に入るのを諦め琵琶湖西岸を北上するしかなくなります。さらに吉備真備は、佐伯伊多智に手兵を与え越前に急行させました。越前守だった仲麻呂八男辛加知は官軍に斬られます。また別軍は美濃にも派遣され仲麻呂九男執棹も同じ運命をたどりました。

 越前への道も断たれた仲麻呂一行はわずかな手勢を率い高島郡三尾崎で追撃してきた官軍と絶望的な戦いを強いられます。多勢に無勢、それでも仲麻呂軍は4時間も粘ったそうです。仲麻呂は家族と共に琵琶湖を船で逃亡しようとしますが官軍に捕捉され家族郎党共々惨殺されます。栄華を誇った藤原仲麻呂の哀れな最期です。時に764年9月、享年59歳でした。生きて捕らえられた仲麻呂の家族も女性や幼児も含めことごとく処刑されました。それだけ孝謙上皇の憎しみが激しかったのでしょうが、戦国時代でも女性や女児まで皆殺しにすることは稀だったと思います。

 こうしてみると、仲麻呂が積極的に反乱を起こしたのではなく孝謙上皇側の罠にはめられて滅亡したという見方が正解のような気がします。仲麻呂の独善的な性格が災いし味方する者がいなかったことも敗因でした。

 邪魔する者がいなくなった孝謙上皇は、淳仁天皇を廃し自らが皇位に返り咲きます。すなわち称徳天皇です。称徳天皇の道鏡に対する溺愛ぶりは異常でした。道鏡は増長しついには皇位まで狙うようになります。次回最終回、宇佐八幡信託事件にご期待ください。

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