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2021年11月 7日 (日)

刀伊の入寇Ⅲ 異族襲来

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 1019年刀伊の入寇は日本史上初の異民族の来襲だったわけですが、実はそれまでにも小規模な侵略は何度もありました。新羅末期の893年新羅賊が内海の有明海を横断し肥後国飽田郡(現在の熊本市西部)に侵攻、民家が焼亡し賊は肥前国松浦郡に逃亡したという記録があります。新羅賊は翌894年にも来襲し北九州沿岸や対馬を略奪、住民を殺傷しました。この時の新羅賊は100隻の軍船で押し寄せたと言われ、対馬守文屋善友率いる国府の兵と合戦になったそうです。国府軍は奮戦し、賊徒302人を射殺、大将軍3人、副将軍11人を捕虜にしました。室町時代の応永の外寇を彷彿させる事件ですが、この時も賊は2500人以上いたと言われます。一方対馬の兵は数百人もいなかったはずで新羅兵が弱いのか対馬の日本兵が強すぎるのか分かりません。

 新羅賊というのもただの暴民ではないでしょう。軍船に乗っていたことから新羅の統治能力が弱体化し辺境の豪族か地方領主が組織した軍勢だった可能性が高いと思います。新羅末期地方豪族の反乱が相次いでいたそうですし、農民出身の甄萱(けんけん)が光州で挙兵し後百済を建国したのは892年のことでした。新羅王朝末期、王権が及ぶのはかつての本拠慶尚道くらいまで縮小し弱体化していたのでしょう。

 日本側の記録では、884年にも新羅賊来襲が記されており何度も壱岐対馬や北九州沿岸は海賊被害に遭っていたと言われます。これを見ると日本側の倭寇は大陸や半島側の侵略の報復という意味もありそうです。結局どっちもどっちだったのでしょう。

 藤原隆家が大宰権帥として赴任したのは1014年でした。隆家は中関白家の期待の星でしたから護衛として付き従う武士団も強力で、房総平氏の平致光(むねみつ 房総平氏の棟梁平公雅【きんまさ、平将門の従兄弟】の子か孫だといわれる)、藤原政則(蔵規とも書く)らの名前が挙がっています。藤原政則という人物は謎が多く、但馬出身だとされ、隆家が但馬に流されていた時側室に生ませた子だとも言われますがはっきりしません。その後肥後菊池地方に土着し菊池氏の祖となりました。これには異説があり、古代の狗奴国の官・狗古智卑狗が菊池氏の源流だという説もあります。大宰府に在庁官人として仕えていた時に藤原隆家に気に入られ藤原姓を与えられたとも言われており、私はこちらの説がしっくりきます。

 1019年3月、刀伊の兵船五十余艘が対馬に来襲、住民を殺傷し物資を略奪し牛馬を殺して食べたという急報が大宰府にもたらされました。賊は同じ日壱岐にも侵攻します。4月7日壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚は単身脱出し大宰府に到着、壱岐守藤原理忠(まさただ)以下多くの島民が賊に殺されたと伝えました。

 刀伊の軍船はその後筑前の怡土(いと)、志摩、早良の三郡(ともに博多湾に面している)を襲撃。略奪をほしいままにし老人や児童を斬殺、男女の捕虜500人を攫います。これは奴隷として売り飛ばすためでした。刀伊の賊は軍船に5~60人ほども乗っていたので総勢は2000人から3000人あるいはそれ以上という規模でした。この数は、侵略し領土を奪うには不足でしたが略奪するには十分すぎる数でした。防衛する側もある程度の人数を集めないと対抗できないからです。

 これを見ても刀伊の賊がただの暴民ではなく組織だったものであることが分かります。実際高麗水軍は刀伊の賊に敗北し略奪を許していたくらいでした。報告を受けた大宰権帥藤原隆家は前将監大蔵朝臣種材(藤原純友の乱鎮圧で活躍した大蔵春実の孫)、藤原朝臣明範、散位平朝臣為賢(常陸平氏、伊佐氏・伊達氏の祖、ただし別系統という説もある)、平朝臣為忠(為賢の一族か?)、前将監藤原助高、大蔵光弘、藤原友近らを博多警固所に派遣し防衛させます。

 刀伊の賊は1019年年4月博多湾にある能古島を拠点にし、対岸の博多警固所を攻撃します。日本側が必死に防戦したため刀伊軍は警固所を攻略できず能古島に引き上げました。大宰府は早良郡から志摩郡の船越津(糸島半島の博多湾とは反対側)にかけても別軍を派遣し刀伊軍に備えます。4月刀伊軍は再び博多湾に上陸しました。この戦いでは九州の武士である財部(たからべ)弘延、大神(おおが)守宮らが奮戦し賊徒40人を討ち取ったそうです。大蔵種材、藤原致孝、平為賢、平為忠らは軍船に乗って海路刀伊軍を攻撃します。

 形勢不利を悟った刀伊軍は博多湾を撤退、防備が手薄な肥前国松浦郡一帯を襲撃しました。前肥前介源知(しるす、肥前松浦氏の一族)は郡内の兵を集めこれを迎撃、大宰府からも軍船40艘が追撃してきたため刀伊軍は侵略を諦め4月13日ようやく退去します。その後朝鮮半島に引き上げた刀伊軍は半島の東岸を荒らしまわりますが、元山沖で高麗水軍と合戦になり壊滅したそうです。この時、日本で捕虜にしていた男女は戦の邪魔になるからと海に投棄したそうですから彼らがどれだけ鬼畜か分かりますね。

 刀伊の侵略を撃退した日本側ですが、その被害は甚大で殺害された住民300人以上、捕虜となった者1000人以上(大半は朝鮮半島沖で捨てられ溺死)、壱岐では国守まで殺されるという惨状でした。これは記録に残されている数ですので、実態はその数倍だったとも言われます。

 刀伊の入寇時、現地で迎撃を指揮した藤原隆家が断固たる態度で対応したのが日本側に幸いしたと思います。これが都の惰弱な貴族が指揮官だったらもっと被害が増大し下手したら国土の一部を占領されていたかもしれません。藤原隆家の武勇は後の武士団の憧れとなり、隆家を祖と称する者が多かったと言われます。菊池氏などまさにそうでした。

 論功行賞で大蔵種材は壱岐守、藤原政則も大宰少弐・対馬守に任ぜられました。その他、この度の戦に活躍した者には恩賞が与えられます。日本側は刀伊の捕虜に高麗人が混ざっていたことから最初高麗による侵略を疑ったそうです。しかし1019年6月、高麗側から元山沖海戦で救出した日本人捕虜259人の送還があり誤解が解けました。ただ日本の高麗に対する警戒は続いたと言われます。新羅海賊に苦しめられた経験があったからでしょう。高麗としては遊牧民の遼王朝や、その後勃興した女真族の金王朝に圧迫されたため日本とまで敵対する愚を避けたかったのです。

 その後、1019年12月藤原隆家は大宰権帥を辞して帰京します。刀伊の入寇を撃退した功績から隆家を大臣や大納言に登用すべしという声があがったそうですが、隆家自身は病気のため朝廷出仕を控えました。政敵だった摂政藤原道長は、これを幸いとし昇進の沙汰を取りやめます。隆家は1037年再度大宰府権帥に任ぜられ1042年まで務めました。1044年1月1日死去、享年66歳。最終官位は前中納言正二位。

 

 刀伊の入寇は、激動の東アジア情勢がもたらした事件でした。大陸では遼王朝が滅亡し女真族の金王朝が台頭します。半島国家高麗はそれに翻弄され続け、最後はモンゴルの元王朝に服属しました。元は日本にも侵略の触手を伸ばし鎌倉時代末期の元寇に至るのです。

 

 

                                           (完)

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