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2021年11月21日 (日)

後百済の話

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 誰も興味ないでしょうが、日本史書庫で刀伊の入寇シリーズを書こうと調べていたときにふと興味を覚えたので残しておこうと思い記事にしました。と言ってもネット上で集めただけの情報なので非常に薄いものだということは予めお断りしておきます。

 新羅は朝鮮の三国時代(新羅・百済・高句麗)を統一した国家でした。新羅を正式な国号としたのは503年。660年に唐と結んで百済を滅ぼします。百済の遺臣は新羅の支配を嫌い同盟国だった日本に救援を求めます。日本は救援要請を受け4万余という大軍を朝鮮半島に派遣しました。当時の日本の人口は500万人弱だと推定されますからこれは恐るべき数でした。戦国時代で言うと12万人から15万人くらいに匹敵する数です。一方、新羅も唐に援軍派遣を要請し唐も13万人という大軍を派遣します。こうして行われたのが663年の白村江の戦いですが、数の劣勢は挽回できず日本・百済連合軍は敗北。日本は半島における権益をすべて失い、百済の遺臣も多くが日本に亡命したと言われます。

 これを見ても半島南部の任那が単なる日本の植民地ではなく最初から日本の領土だったと想像できます。そうじゃないとここまで本気で奪回しようとは思わないからです。シナの研究機関の研究成果から稲作が半島経由ではなく華南から海路で直接日本に渡り、海洋民族だった縄文人が人口希薄地だった朝鮮半島南部にも稲作と共に移住したことがほぼ分かっています。

 新羅はさらに668年、再び唐と結んで高句麗を挟撃、滅ぼします。この時唐は新羅もついでに服属させようと思ったそうですが、新羅の猛反撃に遭い半島支配を諦め緩やかな冊封体制にとどめざるを得なくなりました。この頃が新羅の全盛期だったのでしょう。その新羅も時代が進むにつれ王位継承争いや権臣たちによる権力闘争が激化し地方への統制力が弱まりました。

 新羅47代憲安王あるいは48代景文王の側室の子といわれる弓裔(きゅうえい 857年~918年)が899年反乱を起こし後高句麗を建国した話は日本史書庫刀伊の入寇第一話で紹介しました。この時同時にさらっと触れたと思いますが、農民出身の甄萱(けんけん 867年~936年)も新羅王朝に反旗を翻し百済の故地全羅道で後百済を建国します。

 後高句麗は将軍王建(877年~943年)にクーデターで乗っ取られ高麗が建国されます。後百済を建国した甄萱は農民出身で新羅王朝に仕え南海の防衛に功を上げ将軍になりました。おそらく新羅末期は地方の統制が緩み暴民が海賊化して沿岸部を荒らしまわっていたと言われますから、その鎮圧に活躍したのでしょう。甄萱は野心家で新羅の一将軍では満足せず全羅道に独自の勢力を築き899年弓裔が後高句麗を建国すると、これに対抗し900年に後百済を建国します。新羅はこれらの重大な反逆行為を討伐できなかったのですから、どれだけ弱体化していたか分かります。

 新羅の領土は後高句麗と後百済に蚕食されもともとの故地であった慶尚道くらいまで縮小しました。後百済は後高句麗とも戦争し最初は優勢だったようです。というのも後高句麗は背後にも契丹(後に遼を建国)や女真(後に金を建国)という強力な遊牧民族の敵を抱えていたため後百済や新羅に全勢力を傾けられなかったからです。この関係は後高句麗が高麗に代わっても変わりませんでした。

 926年、甄萱は新羅の首都慶州を陥落させ新羅の景哀王を殺します。彼がまともなら新羅を併合しさらに高麗を滅ぼし新たな統一王朝に成長できるはずでした。ところが甄萱は暴行略奪殺人の限りを尽くし景哀王の王妃を凌辱するなど新羅人の恨みを買います。これを見ても、とても統一王朝の建国者の器ではなく、ただの山賊風情が時流に乗り一時的に台頭しただけだとわかります。

 後百済の新羅支配は長く続かず、新羅の救援要請を受けた高麗の王建が逆襲に転じ930年後百済軍は新羅から叩き出されました。後百済はその後退勢に転じ936年熊津(百済の古都)以北の30城を高麗に奪われます。劣勢の中でも甄萱は愚かな行動をします。側室の子だった四男甄金剛を溺愛し太子で長男甄神剣(甄萱の子供は名前だけは格好良い)を廃嫡しようとしました。

 ところが神剣は次男良剣、三男龍剣と結託し逆に甄萱を幽閉、四男金剛を殺害して王位を奪います。このクーデター劇は935年ですので、高麗との戦争中に何をやっているんだと呆れ果てますね。金山寺に幽閉された甄萱はさらに愚かな行動を起こしました。娘と共になんと高麗に亡命したのです。そればかりか、高麗の王建に自らの国後百済の討伐を願う始末。王建は好機ととらえ後百済に遠征します。これには甄萱に従う後百済の反乱軍も加わったそうですから、ここまでくると情けなくなりますね。

 結局、後百済王甄神剣は高麗軍に敗北し降伏、処刑されました。自らの国を滅ぼした甄萱ですが、その晩年は悲惨でした。利用価値の無くなった甄萱は高麗で冷遇され最後は黄山寺で凍傷にかかり亡くなったそうです。享年69歳。シナ大陸でも歴史上、ただ時流に乗っただけの流賊が一時的に大きな権力を握ることはありますが統治能力に欠けるため最後はあっけなく滅びます。同じ流賊出身ながら明王朝を築いた朱元璋とは人間の器が違いすぎたのかもしれません。

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