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2023年7月15日 (土)

後南朝と熊沢天皇

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 久々の日本史でどマイナーな話題ですが、不思議書庫に入れたほうが良いかもしれません。

 皆さんは後南朝という名称を聞いたことがありますか?おそらく学校の歴史教育ではほとんど出ないので知らない方が多いと思います。1392年室町幕府三代将軍足利義満の斡旋により対立していた南北朝が合一しました。その時の約束では今後北朝と南朝の天皇が交互に即位するという話だったそうですが、どうも義満は北朝側に説明していなかったらしく(あるいは南朝を騙すつもりで)、北朝の後小松天皇の後に息子の称光天皇が即位、以後も北朝が天皇位を独占し現在に至っています。

 南朝側は約束が違うではないかと怒り、南朝後亀山天皇の孫(あるいは曾孫)にあたる小倉宮を推戴し北朝と幕府に対し抵抗運動を起こしました。伊勢国司北畠満雅が1429年小倉宮を擁して挙兵、一時は大きな騒動になりますが、これは鎮圧され北畠満雅は敗死、小倉宮も行方不明になったと言われます。

 しかし南朝の遺臣たちの抵抗運動は続き、1443年には皇居から三種に神器のうち草薙剣、八尺瓊勾玉を奪うという大事件(禁闕の変)を起こします。剣は何とか奪回しましたが、神璽(勾玉)は奪われたままで、遺臣たちは長慶天皇の子孫(小倉宮の子孫とも?)といわれる自天王、忠義王を奉じて吉野の山中に立て籠もりました。

 困り果てた幕府は、嘉吉の変で将軍義教を暗殺し滅ぼされた赤松家遺臣にお家再興を約束して神璽を取り返させようとします。こういう汚れ仕事は逆賊の遺臣にちょうど良いと押し付けられたのでしょう。1457年赤松遺臣たちは吉野に攻め入り自天王、忠義王を殺し見事神璽を奪回しました。これを長禄の変と呼びます。

 その後も南朝の子孫と称する者が登場し幕府に反旗を翻しますが、大勢は動かずそのうち下火になり忘れ去られました。この一連の流れを後南朝と呼びます。実はこれに関し過去に『美作後南朝と山名氏の関係』という記事を書いていますので興味ある方はご覧ください。

 

 時は流れ20世紀、戦後の混乱期GHQに対し「我こそ南朝の正統な天子である」と名乗り出た人物がいました。彼の名は熊沢寛道(ひろみち)。実は熊沢家は寛道の養父(寛道も傍系から養子になったので一族ではある)の大然(ひろしか)の時代から、明治政府に何度も嘆願書を差し出し自分を南朝の正統な子孫と認めるよう要求していたそうです。

 が、当然のことながら黙殺されました。ところがGHQは昭和天皇の権威を失墜させ皇室を破壊しようという狡猾な意図から熊沢天皇を認めるような動きをします。しかし、昭和天皇は戦後全国巡回し国民を慰撫して回ったため国民の天皇に対する信頼は微動だにしませんでした。むしろ現人神の戦前より尊崇の念が上がったと思います。

 一時はマスコミに取り上げられ話題の人となった熊沢天皇ですが、そのうち忘れ去られ1966年東京板橋の病院で膵癌のために死去、享年76歳でした。

 

 ここで熊沢天皇が本当に南朝の子孫だったか考察してみましょう。熊沢家は愛知県で農業を営む家でした。わりと裕福な家だったそうです。実は愛知県西部の尾張国は南朝と関係なくもないのです。室町時代尾張守護を務めた斯波氏は、足利将軍家に含むところがあったのか宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏の子孫ら南朝所縁の者が多く移り住んでいるのです。斯波氏がこれを弾圧したという記録はないので、いざというとき使えるくらいは考えていたかもしれません。ちょうど山名氏が美作国に南朝の子孫を匿ったように。

 という事で、熊沢天皇が南朝所縁の人物の可能性は高いと思います。ただ、正統な南朝天皇の子孫かどうかは疑問が残ります。熊沢大然が明治政府に証拠として提出した家系図に矛盾があるからです。熊沢家が始祖と称する小倉宮のお名前は恒敦親王。ところが家系図では実仁親王となっています。実は実仁親王は北朝の称光天皇のお名前です。

その他、家系図に様々な矛盾がある上、熊沢家が確かに南朝の流れをくむという物的証拠(懐剣とかお墨付きとか宝物の類とか)が無いという致命的弱点がありました。明治新政府が学者に依頼して調べさせたところあり得ないと分かったので黙殺したという事です。

 もし、証拠があったら皇族にはなれなくともある程度の処遇は受けていたかもしれませんね。実は南朝の正統な子孫は別のところに存在し、証拠を受け継ぎひっそりと暮らしている可能性はあると思いますし、ロマンがありますね。

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