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2023年10月31日 (火)

長安 - 世界の都市の物語 -

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 現在の支那大陸、陝西省の省都西安はかつて長安と呼ばれる大都市でした。黄河が几状に湾曲する内側(南側)に位置し、南を秦嶺山脈に隔てられ東は函谷関、潼関の険に守られています。西は細い回廊である甘粛回廊に囲まれた盆地を渭水(いすい)盆地と呼びます。中心には西から東に渭水が流れ黄河に合流しています。

 この地は決して肥沃ではありませんが、天然の要害として古くから国家が成立し中原(黄河中流域)の国家群と対峙しました。古くは周王朝、次いで秦が勃興します。西周の都鎬京(こうけい)は現在の西安市の西5㎞ほどにあったとされますが、まだ場所は特定されていません。秦の首都咸陽は長安とは渭水を挟んだ北側にありました。ちなみに咸陽の名は、九嵕山(きゅうそうざん)の南で渭水の北という風水上の山の南、川の北という条件を二つながら備えた咸(みな)陽という意味で名づけられたそうです。

 咸陽の南に都市らしきものが成立したのは、始皇帝の時代有名な阿房宮が渭水の対岸である南側に建てられてからです。漢の高祖劉邦は、項羽によって徹底的に破壊された咸陽の再建をあきらめ、阿房宮のあった渭水の南岸に新たな都を建設しました。これが長安の始まりです。阿房宮よりは北東側、より渭水に近いところに漢の長安城はありました。

 周は鎬京の他に、副都として黄河中流域、中原の西側の盆地に洛邑(らくゆう)を建設します。のちの洛陽で、後漢の首都となりました。洛邑を建設したのは周(西周)三代成王(在位紀元前1042年~紀元前1021年)だったと伝えられます。ですから都市としての歴史は長安より洛陽の方が遥かに古いのです。

 戦国時代末期、秦は渭水盆地の農業生産力を向上させるため渭水流域に大規模な灌漑工事を施しました。これが有名な鄭国渠(ていこくきょ)です。鄭国渠は秦王政(後の始皇帝)即位元年に起工され十数年の歳月をかけて完成します。これで渭水盆地の農業生産力はかなり向上したと言われますが、肥沃な中原の生産力にはまだまだ及びませんでした。後漢の光武帝劉秀が長安を諦め洛陽を首都としたのも農業生産力の高さを重視したのでしょう。広大な支那大陸を支配するにも西に偏った長安より、中原に位置する洛陽の方が都合良かったと思います。

 後漢の後、魏も晋も洛陽を首都とします。その後五胡十六国の混乱期、南北朝時代にも長安が首都となることはありませんでした。長安が再び首都となったのは隋の高祖楊堅によってでした。隋の後を受けた唐も長安を首都と定め、空前の繁栄期を迎えます。実は隋も唐も純然たる漢民族王朝ではなくモンゴル系の鮮卑族の王朝でした。実は遊牧民にルーツを持つ王朝には特徴があって、平野の中心より平野と草原の境界線に首都を設けるケースが多いと言われます。それは万が一支配下の農耕民が反乱を起こした時、容易に本拠地の北方草原地帯に逃れられるからです。元の首都大都(現在の北京)も似たような理由で首都に選ばれました。

 同じ鮮卑族の北魏は、大同から中原の真っただ中の洛陽に遷都したではないかと反論する方もいるでしょうが、北魏はあまりにも漢化政策を進めすぎたために北方遊牧民としての精強さを失い滅亡しました。唐の皇室李氏が鮮卑族出身であることは周辺遊牧民には周知の事実だったらしく、彼らは唐の皇帝を天可汗として崇めました。

 唐は中央アジアにも進出し空前の繁栄期を迎えました。首都長安は国際都市として栄え、色目人(中央アジアのイラン系民族ソグド人など)も多く住んでいたそうです。全盛期の長安は人口100万人を超える大都市だったと言われます。しかし、満ちれば欠けるが世の習い。さしもの唐王朝も末期には腐敗が進み地方の反乱に悩まされました。有名な安史の乱は唐王朝に実質的な止めを刺したと言われますが、唐末期に起こった黄巣の乱は長安にも波及し荒廃します。黄巣の乱で台頭した群雄の一人、朱全忠は衰退した唐王朝を簒奪し新たに後梁という新国家を樹立します。首都も本拠地だった大梁(開封 汴京【べんけい】とも呼ぶ)に移し、以後長安が統一王朝の首都となることはありませんでした。

 長安が西安と改められたのもこの頃だと伝えられます。渭水盆地の農業生産力の低さが歴代王朝で首都に選ばれなかった理由でしょう。現在の西安市は古都の面影を残していると言われます。悠久の歴史を感じるためにいつか西安に訪れたいですね。阿房宮跡、咸陽跡、始皇帝陵など周辺の遺跡も興味があります。

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