2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 今の日本はAUKUSに入る資格がない | トップページ | 政教癒着 »

2023年11月17日 (金)

熊本城

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20231116

 ちょうど、菊池一族の事を考えていたんですよ。菊池氏は南北朝時代15代菊池武光が征西将軍宮懐良親王を擁し一時は九州制覇するほどの勢いだったのに戦国時代衰退して、支流(一応嫡流とも言える)は日向国米良荘(西都市の西側山間部と西米良村の全域)に逃れて細々と命脈を保ちました。江戸時代、名家好きの家康に取り立てられ交代寄合の旗本(5000石格 本当にそれだけ米が採れたかは不明)になります。明治期に男爵。ちなみに江戸時代、菊池氏は米良氏と名前を改め、米良荘に在住を許されました。米良氏の扶養は人吉藩の相良氏に任されたそうで、2万2千石しかない相良家にとっては非常に迷惑だったと思います。幕府の命令に嫌々従っていたのでしょうね。

 菊池氏は、平安時代大宰府権帥として刀伊の入寇を防いだ藤原隆家の子孫を称していますが、実際は古代豪族狗古智(くくち)氏の流れをくみ大宰府の在庁官人として仕えていた藤原政則の子孫だと言われます。菊池氏の本拠は現在の菊池市菊池神社にあった隈府城ですが、歴史上何度も落城しています。そのたびに米良荘に逃れ再起しているのですから不死鳥のような一族だとも言えます。この辺り筑前の少弐氏と似ていますね。山地が多い九州地方独特の特徴なのかもしれません。他の地方で似たような例があったら教えてください。出雲の尼子氏がやや近いかな?

 前置きが非常に長くなりましたが、現在の熊本城の前身千葉城を築いたのは菊池氏の一族出田秀信(生没年不詳、応仁・文明年間)でした。現在の熊本城全域にあたる茶臼山ではなくその東端、現在のNHK熊本支局があるあたりです。本拠地隈府が肥後の北に偏りすぎており、肥後全域支配のために肥後の中央部にある千葉城を有力な支城として一族を配したのでしょう。律令時代の肥後国国府も現在の熊本市南部にあり、熊本平野を支配するにも都合良かったのかもしれません。

 もともとこの地は、肥後国を制する枢要な地であり古代から様々な城柵があったはずですが調べる時間がないのでここでは紹介しません。戦国時代、この地を支配した鹿子木寂心入道親員(ちかかず)が千葉城の南西、同じく茶臼山の一端に隈本城を築きます。これも現在の熊本県立第一高校のあるあたりでした。鹿子木氏は一応戦国大名と言いながら、実際は最盛期でも石高10万石前後という弱小大名で、豊後の大友氏が侵略してくるとそれに屈します。鹿子木氏は大友氏に隈本城を追われ現在の高橋稲荷近くに山城(高橋城)を築いて退きました。

 以後、肥後国は豊後の大友氏、肥前の竜造寺氏、薩摩の島津氏の草刈り場となり荒廃します。豊臣秀吉の九州征伐で肥後国は豊臣政権に組み入れられました。戦後の論功行賞で肥後国は二つに分割され、肥後北部25万石は加藤清正に、南部24万石は小西行長に与えられます。

 肥後半国25万石の太守となった加藤清正は、居城の選地に悩み、最初は現在の横島町にある横島山(標高55.5m)に城を築こうとしました。しかし横島が邪(よこしま)に通じるのと、領国の中央近くにあるものの、西国街道から外れて交通の便も悪いため諦め、千葉城や隈本城のある茶臼山に新たな城を築くことにします。これが隈本城で、旧千葉城や隈本城も包含する巨大な城になりました。隈本が熊本に改められたのも加藤清正によってです。

 茶臼山は北区植木町から南に延びる京町台地の先端にあり比高50.9m。熊本城は周囲5.9㎞、総面積98ヘクタールに及びました。東京ドーム21個分で全国有数の規模です。五層六重の大天守、三層の小天守を中心に第三の天守と呼ばれる宇土櫓はじめ49の櫓、櫓門18、城門29をもち、扇の勾配と言われる独特の石垣、何重にも設けられた虎口、坪井川から引いた堀など過剰ともいえる防御施設を誇っていました。

 これは仮想敵国島津氏に備えたものだとも言われますが、関ケ原以降は万が一の時に大坂城から豊臣秀頼を迎え徳川政権に対し抵抗するという意図もあったと言われ、西南戦争で激戦となった田原坂も熊本城築城と同時に清正が整備させたと言われます。現地を訪れた方なら分かると思いますが、田原坂は緩やかな坂ながら側面を土塁に囲まれ鬱蒼と茂る森で視界を遮られ非常に攻めにくい構造でした。しかも当時は他に街道がなく熊本に至るには田原坂を通るしかありません。これを見ると南側の島津氏に対しては白川をわざと決壊させ洪水をおこし防ぐ、北側を攻める徳川幕府軍に対しては田原坂を前哨陣地にするという戦略構想だったのでしょう。

 その後、熊本藩は清正の子忠広の代に断絶、代わって豊前国らから細川氏が肥後54万石の領主として入部しました。細川氏は江戸期を通して熊本藩の領主として続くのですが、熊本城の真価が発揮されるのは西南戦争でした。熊本鎮台兵3000人が籠る熊本城は西郷軍1万5千(その他九州各地の不平士族が参加して3万人以上に膨れ上がる)の攻撃を跳ね返し、清正の構想通り田原坂で明治新政府軍と激戦を演じるも敗退します。

 戦国期の築城でも、近代戦に十分耐えたことは清正の築城構想が正しかった証明なのでしょう。最近熊本地震で熊本城は大きな被害を受けましたが、再建されたらまた訪れたいと思います。

« 今の日本はAUKUSに入る資格がない | トップページ | 政教癒着 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 今の日本はAUKUSに入る資格がない | トップページ | 政教癒着 »