シアールコート ‐ 世界の都市の物語 ‐
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マイナーすぎて誰も知らないかもしれません。2億4千万人と日本の倍近くの人口を誇るパキスタン。最大の都市はインダス河河口に近くアラビア海に面する港湾都市カラチで都市圏人口2280万人です。パキスタン第二の都市は北部パンジャーブ地方の中心都市ラホールで、こちらも都市圏人口1025万人を誇ります。
そのラホールから北に100㎞程離れたところにシアールコートはあります。パンジャーブ州シアールコート県の県都です。人口は100万人。地方都市とはいえかなりの規模です。古代ではサカラ(サンスクリット語)、古代ギリシャ語ではサンガラと呼ばれていました。その歴史は古く、有名な叙事詩マハーバーラタにも登場しています。マハーバーラタの成立は紀元前4世紀ころだと言われますから、そのころには既に存在していたことになります。
シアールコートのあるパンジャーブ地方は、大河インダスとその支流4つが流れる五つの河の地という意味で古代から穀倉地帯として有名でした。古代マドラ王国の首都でありアレクサンドロス大王がインド遠征した際マケドニア軍に抵抗し滅ぼされています。当時のサンガラは人口8万人いたそうですからかなりの規模の古代都市です。
とは言え、交通の要衝だったことから間もなく復興されました。アレクサンドロス大王の広大な領土の東の端に位置したサンガラですが、大王の死後王国が分裂するとインドに興ったチャンドラグプタのマウリア朝に組み込まれます。アレクサンドロスの遺領は激しい内戦(ディアドコイ戦争)の末有力将軍に分割されました。現在のアフガニスタンに当たる地域はセレウコス朝シリアが支配しますが、あまりにも遠隔すぎてトハリスタン(現在のアムダリア、シルダリアの河間地方『ギリシャ人はトランスオクシアナ【オクサス河の向こうの土地という意味。オクサス河はアムダリアのギリシャ人呼称】と呼んだ。』からアフガニスタンのヒンズークシ山脈の北側まで)にはバクトリア王国が独立します。
バクトリアは旧宗主国セレウコス朝と時には戦い時には和睦しながら、ヒンズークシを越えてインド亜大陸にも食指を伸ばしました。アレクサンドロス大王のマケドニア軍の流れをくむバクトリア軍は強力でインドの小国は対抗できませんでした。インド・グリーク朝(紀元前2世紀頃~西暦1世紀頃)はバクトリアの侵略から始まったインド北西部のギリシャ人王朝ですが、仏典で有名なミリンダ王は、インド・グリーク朝の王メナンドロス1世だと言われます。
ミリンダ王の時代、サンガラは首都となりました。サンガラ一帯は古代から絹の名産地として有名で、経済的基盤がしっかりしていたのでしょう。トハリスタンのバクトリア本国は、中央アジアから流れてきたイラン系遊牧民族月氏に滅ぼされます。月氏の中から台頭したクシャーナ朝はインドへも侵攻を開始しインド・グリーク朝はこの時滅ぼされたとも、それ以前にインドへ移動した来たサカ族などの遊牧民に滅ぼされたとも言われはっきりしません。
サンガラがいつ頃シアールコートと呼ばれれるようになったかははっきりしませんが、一説では2世紀頃カシミールのサルバン王が戦乱で荒廃したサンガラを復興しシアールコート砦を築いたのが始まりだと言われます。サルバン王はスキタイ系のジャート族で、シアールコートは現地の言葉でシアの砦という意味だそうです。
シアールコートはパンジャーブ地方の有力都市だったことから何度も戦乱に巻き込まれます。5世紀末には中央アジアに興った強力な遊牧民族エフタルがこの地を征服し首都と定めました。その後はインド勢力が取り戻しますが、ムガール帝国第三代アクバル帝の時シアールコートをラホール州に組み込みました。
ムガール帝国が衰えるとシアールコートはシク王国が占領します。イギリスがインド支配に乗り出すと、第2次シク戦争の結果シアールコート一帯はイギリスのものとなりました。パンジャーブ地方の中心都市がラホールに移ったのはムガール帝国時代ですが、シアールコートも古都として緩やかに衰退しつつも現在に至っています。
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