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2024年5月25日 (土)

石高と人口

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 最近、戦国時代から江戸時代にかけての経済を考えています。俗に米一石とは人間が一年間に食べる量とされ10斗、100升を現し約180リットルだそうです。これを米の重さに換算すると140㎏から150㎏になります。これだと何だか分かりませんが、米1合の千倍になります。成人男性で1日2~3合は食べそうですから一石が人間一年間に食べる米の量というのも何となく分かります。

 米というのは保存がきく上に生活必需品ですから昔は貨幣の代わりになりました。戦国大名や江戸期大名の経済力を図る目安として石が使われたのも理解できます。江戸後期の天保年間、日本全国の総石高は3056万石あったそうです。米は主食であるとともに、それを売却し藩士の俸禄にしていましたから、藩が窮乏してくると五公五民以上の重税を課すところが多くなったそうです。過去記事で紹介した薩摩藩など一説では九公一民という考えられない重税だったと言われますが、さすがにこれは誇張が過ぎると思います。ただシラス台地で生産力の低い薩摩藩は、かなりの重税だったと想像できます。他藩なら農民一揆が起こるところ、薩摩藩は藩内各地に郷士を置き力で押さえつけていたそうです。米も満足に食べられない郷士が薩摩芋を食べながら藩内の治安を維持したかと思うと哀れを誘いますね。

 一般的に石高は人口とほぼ同じだと言われますが、温暖な西国は石高のほうが人口よりはるかに多かったと言われます。私の住む九州地方では人口のほぼ倍くらい石高があったともされますが、資料的に確認したわけではないのであくまで仮説としておきます。

 調べてみると、3000万石と言いながら、実際の米の収穫高は2200万石程度しかなかったそうです。それ以外は米に換算した畑の作物、麦や雑穀類、塩、紙などの専売品を総合したものが石高とされたと言われます。金山や銀山があるところはそれも換算したのでしょうね。もっとも主要な金銀山は幕府が支配していましたが。そのうち年貢は1200万石程度。これなら農民も何とか生きられます。米ではなく雑穀中心の生活にはなったでしょうが。

 戦国期、定められた軍役は1万石につき250人でした。所によっては300人という大名家もあったそうですが、西国の場合1万石の人口が仮に5000人とすると、人口の5%。これだと米だけで年間五千石が軍事に消費されるわけですから五公五民でもギリギリです。東国、特に寒冷な奥羽地方ならもっと負担が大きかったでしょう。農民の動員兵だと長期の戦はできないです。

 あくまで私見ですが、戦国大名として大きくなったところは米以外の収入源があったところのように思えます。島津氏や大友氏は南蛮貿易、大内氏も日明貿易、尼子氏は鉄の交易、武田氏や今川氏は金山、上杉(長尾)氏は青苧やそれを元にした越後緬の交易と直江津などの港湾収入、織田氏も津島の港湾輸入と楽市楽座による流通の利益など余裕があったから比較的長期間軍を動かせたのだと考えています。小田原の北条氏は調べたところ分からなかったんですが、米以外の収益があっただろうと想像します。

 大内氏と尼子氏が石見銀山の支配権をめぐって激しく争ったのも理解できますね。九州では貿易港の博多が大内氏、大友氏、毛利氏の争奪の的となりました。機内では堺の重要性が高かったのも分かります。近江国の大津や草津も流通の要だったのでしょう。

 米は主食であるとともに、貨幣の代替にもなる重要な作物だったんですね。江戸期や戦国期より生産量がはるかに低い律令期とかそれ以前はどうしていたのか非常に気になりました。

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