火国と筑紫国と豊国
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本日の内容はまったく資料的裏付けがなく私の勝手な妄想なので与太話の類と受け取ってください。
古代日本の九州地方、火国(ひのくに)というのは肥前国と肥後国を合わせた地域でした。同じく筑紫国(ちくしのくに)は筑前、筑後。豊国(とよのくに)は豊前、豊後です。これらは律令制時代に分割されました。
火国というのはおそらく阿蘇山があったからでしょう。筑紫国と豊国は隣接しているのに、肥前と肥後が有明海を挟んで離れ地続きでないのは、もともと有明海を通して同じ文化圏に属していたからだと考えます。一方528年に大和朝廷に反乱を起こし筑紫君磐井の勢力範囲が筑紫国だったと思います。
これに対し豊国ですが、豊国の産物である鉱物の丹(水銀)や植物のボケ、楠が魏志倭人伝で書かれていた邪馬台国の産物と共通することから少なくとも邪馬台国の中心地は豊国ではなかったかと考えるのです。そうなると邪馬台国宇佐説が信憑性を持ってきますよね。
となると火国は古代の奴国(なこく)の領域だったのではないかと想像します。佐賀県にある吉野ケ里遺跡はもしかしたら奴国の首都ではなかったかとも思います。あるいは、現在の熊本県菊池地方は古代狗奴国の中心地だったとも言われます。これに対し奴国は現在の福岡平野にあったという説があります。
どういうことか考えたんですが、一説では狗奴国の狗は大きいという意味だそうです。奴国が福岡平野に存在した場合、狗奴国が本国で、奴国はその出先機関かあるいは狗奴国から移民してできた国だったのではないかと考えます。
豊国がかつての邪馬台国の中心地、火国が古代狗奴国あるいは奴国だとすれば、筑紫国の位置づけが気になります。大陸からの玄関口にあたるのが筑紫国ですから、古代から先進地帯だったはず。邪馬台国が強力な間は邪馬台国連合に属していたのかもしれませんが、大和朝廷が九州に支配を及ぼしてきたとき、筑紫国の支配者であった筑紫君はそれに協力し特別な地位を得たのかもしれません。火君、豊君が没落していった後も筑紫君は勢力を保ち528年、大和朝廷の半島政策に反抗して新羅と組み反乱を起こしたのでしょう。
新羅が筑紫君と結んだという事は、向こうも筑紫国が大和朝廷と対抗できる勢力だと認めたからでしょう。筑紫君磐井の墓だといわれる福岡県八女市の岩戸山古墳を見に行ったことがありますが、古墳総長が170m(墳丘長135m)もありかなり巨大でした。磐井の勢力の強さが実感できましたよ。
ただ、それが前方後円墳だったという事は筑紫君も大和朝廷の勢力を認めていたという証拠にもなると思います。あくまで同格だと思っていたり、対抗心が強かったら大和朝廷とのつながりを示す前方後円墳を作るはずがありませんから。これは関東で大きな勢力を誇った毛野君(けぬのきみ)にも言えます。ちなみに毛野君の勢力範囲は上野国(現在の群馬県)と下野国(現在の栃木県)ですからかなり巨大な勢力だったのでしょう。
江戸時代初期の各国の石高を見ると、肥前・肥後で100万石強、筑前・筑後で80万石強、豊前・豊後で70万石強ですからかなりの大国だったことは間違いありません。古代には生産力はそこまでなかったと思いますが、この比率は全国変わらなかったでしょうから大和朝廷も筑紫君磐井の反乱鎮圧に手を焼いたことでしょう。
ちなみに火国である肥前・肥後には岩戸山古墳ほどの巨大古墳はありません。ただ調べてみると火国の領域のうち熊本県の岩原(いわばる)古墳群の岩原双子塚古墳で墳丘長107m、佐賀県の船塚古墳で墳丘長114mが存在します。長崎県は壱岐の双六古墳が最大(墳丘長91m)が最大ですから火国とは別です。
火国の前身であったと考えられる奴国あるいは狗奴国は邪馬台国連合と同様連合国家で各地に首長が存在し緩やかな統合状態だったのかもしれません。ヤフーブログ時代の過去記事で書いた記憶がありますが、私の住んでいる熊本県玉名市は古代には玉杵名(たまきな)と言いました。これも一説では『奴国の輝ける都』という意味だそうです。となると奴国あるいは狗奴国のある一時期の首都は玉名市だったのかもしれません。
過去記事で地元の環濠集落遺跡塚原遺跡や方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡について書いた記憶がありますが、方保田東原遺跡が奴国の首都、当時有明海に面していた塚原遺跡が奴国の貿易港だったのかもしれません。
なんでこういうことを書いたかと言えば、ちょうどNHK大河ドラマ光る君へでまひろの父藤原為時が越前守に任官した回があったからです。越前は律令時代に大国に分類されています。肥後も13国ある大国の一つに数え上げられているのです。石高から言えば筑前や肥前も同規模(50万石以上)なのに、肥後だけが大国に分類されているか謎でした。調べてみると生産高だけでなく古代における重要性から選ばれていると考えました。大国の一つ上野も入っています。上野は毛野国の中心地、肥後も火国の中心地だったから選ばれたのだと思います。
ちなみに、平安時代のどろどろとした権力闘争を描いた光る君へは最近観たり観なかったりします。もうすぐ刀伊の入寇という平安時代を揺るがす大事件が起こるのに、くだらない権力闘争をしている場合かと呆れているからです。同じ大河ドラマ『風と雲と虹と』で藤原純友が堂上貴族どもを「国家に巣食うシロアリどもだ」と吐き捨てた気持ちも分かりますよ。
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