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2024年6月

2024年6月30日 (日)

甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高

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20240627-014901

 誰も興味ないと思いますが、私は一つのことに興味を持つとその関連情報を調べたくなるのでせっかくなので備忘録として記します。

 黒水城(カラ・ホト)の記事で、甘粛省と青海省の境にそびえる祁連(きれん)山脈に源流を発した弱水は甘粛回廊部を北西に流れた後、酒泉あたりで北東に転じゴビ砂漠の内陸湖である居延海近くで砂漠に飲み込まれ消えると書きました。昔は居延海がかなり大きく、弱水も直接居延海に注いでいたそうです。

 地図をパッと見ただけだと、弱水は居延海あたりから流れ出し甘粛回廊に向けて南流するようなイメージですが実際は逆でした。では甘粛回廊とゴビ砂漠、モンゴル高原の標高はどうなっているのか調べてみました。

 甘粛回廊(河西回廊)のある甘粛省は平均標高2260mもあります。しかしこれは省域に祁連山脈があるためで、祁連山脈は4000m級の高山です。回廊自体の平均標高は分からなかったんですが、各都市の標高を調べると甘粛省の省都蘭州で1424m、武威市で1440m、張掖市で1820m、酒泉市で1483mでした。回廊部は大体平均標高1400m前後はありそうです。

 ついでゴビ砂漠を調べたんですが、西高東低で西部の平均標高は1200m、東部に下るにつれ低くなって900mほどになります。ゴビ砂漠の北モンゴル高原の平均標高は1580mですから、祁連山脈から見ると甘粛回廊は山脈に連なる裾野の高原地帯でそこからゴビ砂漠に向かって平均で200mほど下ります。そして居延海あたりが最低標高で、北に行くにつれ再び標高が上がりだしモンゴル高原で1500m級に達するようです。

 甘粛回廊は幅30㎞くらいの狭い土地でシナ本土と西域をつなぐ交易路(シルクロード)ですが、ゴビ砂漠よりは高い位置にあったんですね。意外でした。

 ついでに言うと、ゴビ砂漠はサハラ砂漠のように砂丘が永遠に続く不毛地帯のようなイメージでしたが、かつての居延海のように湿地もあればオアシスもあり、全体的に言えば荒野という表現が正しいのかもしれません。もちろん純粋な砂丘もありますが。そして、内モンゴル自治区に点在する都市はこのようなオアシスに発展していったのでしょう。

 実際灌漑すれば農耕に適した土地もあるようで、内モンゴル自治区では元からの住民である400万人のモンゴル族に対し後から入ってきた漢族が1900万人もいるそうです。実はウイグルやチベットでも同じような状況で漢族が多数派を占めます。明らかな人口侵略ですね。

 このような漢族の人口侵略は清代から始まったそうで、現地のモンゴル人、ウイグル人はさぞかし不快だったことでしょう。20世紀にはいるとチベットにまで漢族の人口侵略の魔の手が伸びます。遊牧民は大人口を養えないのでどうしても農耕民族に人口の面で負けますからね。共産党政権になってから漢族の移民は拍車がかかったそうですから、意図的に民族浄化を図ったのかもしれません。

 元朝が明に滅ぼされた後、残党の北元が内モンゴルにとどまったのも人口的、経済的に明と対抗できると思ったからでしょう。民族の故郷であるモンゴル高原のモンゴル国の人口は328万人しかおらず、内モンゴル自治区のモンゴル人のほうが400万人で多いですからね。それでも現在は少数派になっているんですから悲しい話です。

 こういうことを言うと非難する人もいそうですが、大東亜戦争中に日本が作った傀儡国家徳王の蒙古国は民族的、政治的には正しい選択だったのかもしれません。結局日本の敗戦で崩壊し、徳王も最初モンゴル人民共和国に亡命しましたがシナ共産党政権に引き渡され逮捕されました。モンゴル共産党にとっては旧世紀の遺物である黄金氏族(チンギス汗の子孫)の徳王は利用価値がなかったのかもしれません。同族に裏切られた徳王は哀れですね。世が世ならモンゴルの王(ハーン?)になってもおかしくないのに。

 その後の徳王は、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀と似ていました。徹底的な思想教育を受け民間人になって1966年病死します。話が甘粛回廊からかなり脱線しましたが、これが私のスタイルです(笑)。

2024年6月28日 (金)

大日本帝国陸軍の主要軽機関銃

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20240624-130600

 マニアックで恐縮ですが、以前明治期から大東亜戦争までの日本の主力小銃について書きました。そのついでに、小銃と同じ弾丸を使う分隊支援火器の軽機関銃についても調べました。せっかくなので記事にした次第です。参考までに九二式重機関銃と各国の軽機関銃(ドイツの場合は汎用機関銃)も載せておきました。

 十一年式は日本軍が初めて制式化した軽機関銃です。軽機関銃は分隊支援火器として1個分隊(10名前後。指揮官は軍曹)に1挺配備されました。三八式歩兵銃と同じ6.5㎜三八式実包を使用します。重機関銃と軽機関銃の違いは、重機関銃の方が威力が高いわりに重く一人で操作できないのに対し、軽機関銃は緊急時には一人でも操作可能です。とはいえふつうは給弾手が横に付きました。

 重機関銃は、制圧射撃、防御射撃が主な任務であるのに対し、軽機関銃は歩兵が突撃するための支援を行い、弾幕で敵兵が顔を上げられないようにするのが主任務です。まさに分隊支援火器ですね。

 九六式軽機関銃は十一式の改良型で、当時最優秀軽機関銃と評価されました。九九式は使用弾丸を九九式小銃と同じく7.7㎜にした軽機関銃です。驚くのは九六式、九九式で4万挺、5万挺と結構生産していることです。工業力の弱い当時の日本としては頑張った方だと思います。

 それにしても重機関銃、軽機関銃どちらにも使えるドイツのMG34、MG42が第2次世界大戦最良の機関銃と呼ばれるのも納得ですね。威力も発射速度も段違いです。その分重く、体格の小さい日本人ではまともに扱えなかっただろうと想像します。

 ちなみにチェコのブルーノZB26軽機関銃は、支那事変の時国民革命軍(蒋介石の軍隊)も使用しており、鹵獲した日本軍では無故障機関銃と呼んで喜んで使ったそうです。独特のキリキリといった発射音が特長だと言われます。とはいえ戦記物で読んだだけで実際に発射シーンを動画で見たわけではないので分かりません。

2024年6月27日 (木)

黒水城(カラ・ホト)の話

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20240624-135121

 24日のあさ8の雑談で百田さんがたまたま黒水城の話を出されて非常に懐かしく思いました。と言いますのも昔NHK特集『シルクロード』第4回で黒水城が紹介されていたんです。

 黒水城は中世モンゴル語で『カラ・ホト』と呼びました。甘粛省と青海省の境界近く祁連山脈に源流を発し祁連山脈南麓に沿って、八宝鎮で八宝河と合流の後北西流、次いで北東に転じて祁連山脈を北に抜けて甘粛省に入る海に流入しない内陸河川に弱水という河があります。現地の言葉でエチナ川、別名黒水と言います。

 甘粛省酒泉市から弱水沿いに北東に300㎞ほど進んだところに黒水城があります。黒水城の名前の由来は弱水の別名黒水から来ているのでしょう。私は最初地図を見て黒水城のほうが上流、甘粛回廊のほうが下流と思っていたんですが、どうも逆のようです。たしかNHK『シルクロード』ではチンギス汗の西夏攻撃の際、西夏軍が激しく抵抗しモンゴル軍に滅ぼされたと紹介されていたと思います。

 私も長い間信じていたんですが、調べてみると落城後も復興されモンゴル帝国の宗主権のもと繫栄したそうです。西夏時代の3倍も市域が拡大したそうですからよほど栄えていたんでしょう。

 黒水城の歴史は1032年まで遡り11世紀には西夏の重要な交易都市として存在しました。地図を見ると弱水から15㎞くらい南東の内陸部に位置するので人が集まるのか疑問だったんですが、オアシスがあったのかもしれません。西夏は黄河几状湾曲部の西側の興慶(現在の銀川市)を首都としていました。興慶と黒水城は直接行こうと思えば砂漠を通らなければ連絡できません。

 古代からの主要な交易路であるシルクロードは、甘粛回廊の武威(漢代の涼州)、張掖、酒泉、敦煌という数珠繋ぎに連なるオアシス都市が主要交易路(甘粛回廊)だったはず。その南側は祁連山脈、北側はゴビ砂漠で挟まれ、弱水の近くとはいえゴビ砂漠の真っただ中にある黒水城が交易の中心地であることはにわかには信じがたいんですが、古代から中世にかけてはゴビ砂漠を横断するルートがあったのかもしれません。

 元朝15代皇帝トゴン・ティムール(順帝)は明軍に大都(現在の北京)を追われたあと黒水城に潜伏したと言われます。大都から直接モンゴル高原に逃亡したと思っていたので意外でした。その後順帝はモンゴル高原南部の応昌府(内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗)に逃亡しこの地で没します。

 赤峰市は北京の北東300㎞にあり、黒水城とかなり離れているので黒水城潜伏はただの伝説かもしれません。元朝残党が北走したと言っても、意外と明の領域の近くに居たのは驚きました。内モンゴルを根拠地にしたチャハル部がチンギス汗の正当後継者(黄金氏族)を名乗るのも納得できますね。

 黒水城は元代にも繁栄を続けたみたいですが、結局ゴビ砂漠の真っただ中にあることが災いして深刻な水不足に陥り(オアシスの湧水が枯渇した?)20世紀に至るまでには放棄されたようです。黒水城がいつ放棄されたかは調べた限り分かりませんでした。しかしシルクロードで紹介したような戦乱で滅びたわけではないことが分かり安心しました。

 

 

追伸:

 その後調べてみると、黒水城跡から北北西に70㎞程離れた湖居延海は古代にはもっと拡大していたようで周辺に湿地が広がり、黒水城も居延海のほとりにあったみたいです。現在の環境と当時はかなり違っていたのかもしれません。周辺の砂漠化で居延海が縮小し、黒水城も滅びたのでしょう。

2024年6月25日 (火)

徳川家の功臣大久保忠隣の子孫はどうなったか?

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 最近マニアックな記事が続いて申し訳ありません。たまたまYOUTUBEでNHK大河ドラマ『葵徳川三代』の切り取り動画を見ていたんですよ。関ヶ原で遅参した秀忠(西田敏行)に怒り「江戸へ追い返せ。顔も見たくないわ」と激怒する徳川家康(津川雅彦)。秀忠の軍監として付き従った三人の重臣、本多正信(神山繁)、榊原康政(清水綋治)、大久保忠隣(石田太郎)はなんとか取りなそうと奔走します。

 三人それぞれの奔走で親子対面にこぎつけ、秀忠の必死の謝罪でようやく家康は遅参を許します。その際、安堵の表情を見せる三人の重臣はセリフが無い中役者の演技力だけで魅せた名場面でした。

 大久保忠隣は、凡庸な秀忠を補佐し一度は世継ぎから見限ろうとした家康を必死に説得し思いとどまらせた忠臣でした。実際はどうか知りませんが、ジェームス三木さんの脚本を高く評価しているのでジェームス三木さんの解釈通り進めます。

 ドラマでも描かれますが、そんな忠隣も幕府内の権力争いに巻き込まれ謀反の濡れ衣を着せられ相模小田原藩十万石を改易させられます。忠隣は一切弁明せず従容と改易を受け入れ隠居して亡くなりました。その後の大久保家が気になったのです。

 なんといっても大久保家は忠隣の父忠世の時代から徳川家忠節一筋で仕えた家。本多忠勝の子孫がお家騒動とか色々やらかしても、最後は忠勝の功績を考え三河岡崎藩五万石として復活し幕末を迎えているので、大久保家にもそれなりの配慮があっただろうと調べたんです。

 忠隣改易(1614年1月)の時、嫡男忠常はすでに亡くなっていました。1611年10月10日、享年32歳です。忠常は家康の養女となった奥平信昌の娘(信昌の正室が家康の娘亀姫)を正室に娶っていたので忠隣とは別に武蔵国騎西藩二万石を拝領していました。忠隣改易事件の時忠常の息子忠職(忠隣の孫)が藩主でしたが、別家という事で騎西城蟄居という軽い処分で済みます。忠隣改易に連座し多くの大久保一族が処分されたのに、これは幸運でした。

 1625年(寛永二年)には、蟄居処分も解かれました。1626年には三万石加増で美濃加納藩五万石に転封となります。これは忠職が外祖母で家康の娘亀姫の血を引いていたことと大久保一族の長年の功績を考えての事でしょう。政敵であった本多正純(葵では渡辺いっけいさんが演じていましたな)が宇都宮釣り天井事件(1622年)で失脚していたのもあったのでしょう。

 1639年にはさらに二万石加増で播磨明石藩七万石、1649年にはまた加増で肥前唐津藩八万三千石となりました。前藩主寺沢堅高の悪政を正し藩政改革で善政を布いたそうです。1670年死去、享年67歳。

 忠職には3人の息子が早世し後継ぎがいなかったので従弟の忠朝(忠隣三男教隆の子)を養子に迎え二代藩主としました。忠朝は1677年老中に就任、1686年祖父忠隣の領地だった相模小田原11万3千石に復帰します。小田原復帰が大久保一族の悲願だったかどうかは分かりませんが、以後大久保家は7万3千石に減封されるものの幕末まで小田原藩主として続きました。

 江戸幕府初期、あれだけ権勢を誇った本多正純が失脚し配流先の出羽国横手で寂しく死んだのと比べると、大久保家は見事復活できたのだから忠隣も草葉の陰で満足していることでしょう。

2024年6月23日 (日)

幕末維新期に使われた銃の性能

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20240618-195203

 最近幕末から戊辰戦争にかけての各藩の兵備に興味を持って調べているんですが、ネットでちょうどよい資料を見つけたので嬉しくなって紹介したくなりました。

 ゲベール銃と言うのは火縄銃に毛が生えた程度の性能でして、銃身にライフリングも施されておらずマッチロック式(火縄で撃発する方式)ではなくフリントロック式(燧石式)やパーカッションロック式(雷管式)で撃発する発射方式です。それでも西洋の情勢に疎い藩(東国に多かった)は、新式銃として有難がったそうです。

 ミニエー銃は同じ前装式ながら銃身にライフリングを施した銃で、弾丸も椎実状で命中率と射程距離が飛躍的に伸びました。四境戦争(幕府の第2次長州征伐)で長州藩兵が主力として使ったのがミニエー銃で、火縄銃やゲベール銃で武装した幕府軍が長州軍に歯が立たなかったのも理解できます。その上、長州軍は村田蔵六(大村益次郎)の指導で、当時としては異様な伏せ撃ちをしていたわけですから、これじゃ勝負になるはずもありません。

 スナイドル銃は、後装式の新式ライフルとして日本にもたらされました。画期的な金属薬莢で信頼性も高く射程も長いため薩摩藩、長州藩はこれを重用します。ただその分値段が高く数をそろえられなかったのが難点でした。

 スペンサー銃は当時最新鋭のレバーアクションライフルですが、過去記事で書いた通り弾丸の威力が弱く軍用ライフルとしては採用されませんでした。戊辰戦争でも幕府歩兵隊や佐賀藩など一部が装備していただけです。

 結局明治新政府はスペンサー銃ではなくスナイドル銃を制式ライフルとして採用します。西南戦争で新政府軍が使った銃がスナイドル銃でした。

 幕末に詳しい方なら、フランスのナポレオン3世から幕府に贈られた画期的なボルトアクションライフルであるシャスポー銃があるではないかと指摘されると思いますが、高性能な反面、唯一の欠点である紙薬莢採用で高温多湿な日本ではしばしば故障したと言われます。

 ただシャスポー銃の構造を参考にして、陸軍火器専門家村田経芳少佐が日本初の国産ボルトアクションライフル村田銃を開発したんですから役に立ったと思います。ちなみにフランス本国でもシャスポー銃の欠点は承知しており、紙薬莢を金属薬莢に改造したグラース銃を開発します。村田少佐が参考にしたのはグラース銃の方でした。

 幕末から戊辰戦争期に使われた各銃のうちスナイドル銃が一番コストパフォーマンスが高かったと言えそうですね。

2024年6月21日 (金)

日本の歴史的人口推移

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 たまたま日本の古墳時代の人口を調べていて、ついでなので縄文時代から現在に至るまでの日本の人口推移に興味が湧きました。と言っても古代の人口は確定しているわけではなく研究者によって数値が違うのであくまで参考程度に考えてください。

 過去記事の鬼界カルデラの噴火で紹介したと思いますが、縄文時代も数が少ないながら人口が大きく変動しました。縄文時代は紀元前1万3千年前に始まり紀元前5世紀から紀元前3世紀頃終わったと言われます。ごく初期、紀元前1万年前は推定ですがわずか2万人しか日本列島に人が住んでいませんでした。

 縄文時代は世界史的にみれば新石器時代にあたります。これまで狩猟しながら移動生活していた人々が定住し始めたのが縄文時代でした。この当時、狩猟採集の生活ですから2万人くらいがせいぜいだったのでしょう。その後縄文土器が発達し木の実などを備蓄できるようになると縄文中期ころには26万人まで増えます。

 ところが、中期から晩期にかけて人口が8万人まで減少したのは鬼界カルデラの噴火などの自然災害と世界的な寒冷化の影響でです。その後再び人口は増加に転じますが、このころ縄文人たちは栗を栽培したり初期の稲作を始めたりして生活が安定化したからでしょう。

 弥生時代は3世紀中ごろまで続きますが、稲作が本格化し集落も発展します。しかし豊かになれば争いも起こるので殺伐とした世の中になったと想像します。銅器、青銅器などの金属器が登場したのも弥生時代でした。鉄器も弥生時代から使われ始めますが、ご存じの通り初期の鉄器は鉄鉱石を溶かして鋳型に流し込むだけの鋳鉄で硬くはあっても、もろいものでした。

 日本で鋳鉄を鍛えて強靭にする浸炭法が使われだしたのはたたら製鉄の6世紀ごろだと言われます。その弥生時代の人口ですが、農業生産力の向上で60万人まで増えたと言われます。それでも60万人くらいですから大したことありませんね。

 弥生時代が終わって古墳時代が始まるとなんと500万人まで人口が増えたとされます。これは大和朝廷が日本をほぼ統一したからなのでしょう。実は古墳時代の人口を調べようと思ったのは、三韓征伐や白村江の戦いの時兵士を2万人から3万人動員したのは日本社会にどれくらい負担があったのか興味があったからでした。

 通常人口の3%が外征兵力に使える数ですが、500万人なら15万人くらいまでは動員できますね。これはあくまで推定人口ですから、私は実際の人口はもっと少なかったのではないか(250万人くらい?)と考えます。もっとも兵役人口3%説はローマ帝国や秦漢帝国など中央集権の古代国家の数値ですから、古代日本の場合はもっと少ない比率しか動員できなかっただろうと思います。

 当時の兵站能力なども考えると3万人くらいが外征兵力の限界だったのかもしれません。過去記事で何回も書きましたが、古代の朝鮮半島南部には和人が住んでいて三韓征伐の日本軍の兵力の中には現地で徴兵した分も入っていると思います。

 その後日本の人口は奈良時代、平安時代、鎌倉時代を通じて人口500万人から600万人とあまり増加していません。これが急激に増えたのは室町時代以降です。農業技術の向上と新田開発が続いた結果なのでしょう。平安時代、荒れ地を開墾して荘園が全国に普及しましたが、それほど人口が増えなかったのは都の貴族どもが国衙領を蚕食していた分が多かったのかもしれませんね。まさに国家に巣食うシロアリどもですよ。

 江戸時代初期で人口1700万人。そこから人口は飛躍的に伸び江戸末期には3400万人の人口を誇る堂々たる大国でした。明治時代にも順調に増え明治末期で人口5000万人にもなりました。大東亜戦争直前の人口は7300万人。戦後1億人の大台を突破し2008年には1億2800万人とピークを迎えます。しかしその後少子化問題などで緩やかな減少に転じ、2100年ころには5000万に程度まで減ると言う予測もあります。

 ただ日本の耕地面積、農業生産力から輸入を全く考慮しない場合人口4000万人くらいが適正人口だそうですから、最終的にはそれくらいまで減るかもしれませんね。少子化対策は日本の安全保障にもかかわる重大な問題です。政府は利権でごまかすことは絶対にせず真剣に取り組んでもらいたいと願うばかりです。

2024年6月19日 (水)

光る君へに出てくる北宋商人朱仁聡の考察

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 例によってマニアックなネタなので歴史に興味ない方はスルーお願いします。

 私は細かいことが気になってしまう性格です。NHK大河ドラマ『光る君へ』に出てくる北宋の商人朱仁聡は北宋朝廷の命を受け日本と交易をするために来日したと描かれています。あるいは日本を侵略するためのスパイではないかという疑惑も出ていました。

 しかし私は当時の北宋を中心とする東アジア情勢を考えて果たして北宋朝廷が日本に侵略目的のちょっかいを出したり、わざわざ交易を求めるかと非常に疑問を感じました。というのも当時の北宋にそんな余裕はなかったと思うんです。

 藤原道長の治世は内覧に就任した995年から、嫡男頼通に摂政と藤原氏の氏の長者を譲り引退した1017年までです。平安時代最大の外患刀伊の入寇は1019年ですから道長が政界を表向き引退し院政(という表現も変ですが…)を行っていた時でした。道長はその後1028年まで生きますが晩年は持病の糖尿病を悪化させ合併症で亡くなっています。

 朱仁聡の生没年は不詳ですが、おそらく987年から1000年くらいにかけて何度か来日していたようです。その時期北宋はどのような時代か調べてみると、第3代真宗皇帝の治世(在位997年~1022年)でした。

 北宋を巡る国際情勢は、契丹族の建国した遼が最盛期にあたり聖宗皇帝(在位982年~1032年)が統治していました。1004年遼軍と北宋軍は激しくぶつかり黄河を挟んで戦線が膠着します。中原まで攻め込まれているのですから北宋が不利で澶淵の盟を結ばされます。これは遼を兄、宋を弟とし遼に毎年莫大な歳弊(貢物)を贈ると言う北宋にとって屈辱的な内容でした。

 しかも、北西部にはタングート族が勃興し後に西夏を建国する李元昊が1003年に生まれたばかりでした。タングート族はチベット系の遊牧民族で、唐末期藩鎮(その責任者が節度使)として甘粛地方からオルドス(黄河の几状湾曲部の内側)地方にかけて勢力を扶植していました。北宋が天下統一後もしばしば反乱を起こし最後に李元昊が北西部の領土を奪い取ったのです。李元昊は1038年西夏を建国します。

 遼も最盛期とはいえ陰りが見え、辺境の満洲では女真族が勃興しつつありました。完顔阿骨打(わんやんあぐだ)による金の建国は1115年です。遼はしばしば女真に討伐軍を送りますが、地の利に明るい女真軍のゲリラ戦術に悩まされ鎮圧できませんでした。契丹族の遼は完全な遊牧民族、女真族は半農半牧の民族で普通なら遼軍の圧勝のはずですが、北宋からの莫大な歳弊で贅沢に慣れ堕落していた遼軍は弱体化していたと言われます。

 刀伊の入寇もそんな激動の東アジア情勢がもたらしたものでした。ですから北宋は海外に目を向ける余裕などなかったはずです。朱仁聡が北宋朝廷の命で来日したというのは考えにくいと思います。ここで思い出されるのが明末の王直や鄭芝龍(有名な鄭成功の父)です。彼らは交易商人を自称しましたが、実態は海賊でした。ですから朱仁聡も良く言えば冒険商人、実態は海賊に近い存在ではなかったかと考えるのです。もちろん宋朝廷の命というのも真っ赤な嘘。

 海賊と言っても倭寇と同様、相手が平和的な接触をしてきたときは交易をします。逆に相手が敵対姿勢を示したとき海賊行為を働くのです。藤原道長政権が穏便にお引き取り願おうとしても拒否したのは善良な商人でなかった証拠です。皆さんは朱仁聡の正体、どのように思われますか?

2024年6月17日 (月)

幕末維新期、スペンサー銃が普及しなかった理由

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M1865_repeating_rifle

 NHK大河ドラマ八重の桜を見ていた方は、主人公八重が兄山本覚馬から贈られた新式銃スペンサー銃で戦っていたシーンを覚えて居る方も多いと思います。ただ、私は日テレ年末時代劇『白虎隊』の大ファンなので山本八重は綾瀬はるかではなくスーちゃん(田中好子)のイメージが強いですし、八重と別れた最初の夫川崎尚之介も長谷川博己ではなく田中健なんですよ。ストーリー的にも八重の桜より段違いで白虎隊のほうが面白かったですしね。さすが杉山義法さんだと思いましたよ。

 それはともかく、スペンサー銃は元込め式のレバーアクションライフルでした。イメージが湧かない人のために説明すると、西部劇でよく出てくるガンマンやインディアンが使っているライフルです。元込め単発のスナイドル銃が出てきていたとはいえ、主力は先込め式で砲身にライフリングが施されているミニエー銃でしたから、ボルトアクションライフルのシャスポー銃と共にスペンサー銃はオーバーテクノロジーともいえる新式銃でした。

 発射速度は、レバーをコッキングすれば良いだけのスペンサー銃のほうがスナイドル銃より段違いに速いんですが、これが主力銃とならなかった理由があります。当時長州の村田蔵六(大村益次郎)が日本で初めて採用したと言われる伏せ撃ちがやりにくいのです。長州兵の異様な動作に戦国期からあまり発展しておらず旧態依然とした幕府軍はとまどい「長州の伏せ撃ち」と呼んで警戒したそうです(司馬遼太郎『花神』情報)。

 スナイドル銃は伏せたまま次弾を装填できますが、スペンサー銃はレバーをコッキングするために伏せ状態から一々横に転がる必要がありました。加えて、当時日本に来ていたスペンサー銃はライフル弾ではなく拳銃弾を使用していたので威力が弱かったそうです。レバーアクションライフルは装弾するのにストック側から細長いマガジンを入れるか、銃身の横から一発ずつ弾を込めないといけません。スペンサー銃の場合はストック側から7発のマガジンを装填する方式でした。

 当時の銃弾に詳しくないので間違っているかもしれませんが、現在の銃で考えるとスペンサー銃は拳銃弾を使うサブマシンガンくらいの威力しかなかったと思います。のちに0.58インチライフルマスケットと同等の威力の弾丸が使用できるようになったそうですが、軍隊で採用されなかったのは発射速度以外はボルトアクションライフルが優れていたからです。

 幕末維新期の日本では、当然スペンサー銃用の弾丸も輸入でしたから尚更使いにくかったと思います。値段も高くスナイドル銃の4倍の価格がしたと言われます。スペンサー銃を装備していたのは幕府歩兵隊、佐賀藩、黒羽藩(下野国那須郡大関氏1万8千石)くらいでした。新政府軍は、高価で威力も微妙なスペンサー銃ではなくスナイドル銃を主力小銃に採用したのも納得できますね。世界各国の軍隊でレバーアクションライフルが採用されなかったのも同じ理由です。

 帝政ロシア時代、騎兵銃としてウィンチェスターライフルを輸入したそうですが、レバーアクションとはいえ馬上で操作するのは簡単ではなく騎兵の評判も悪かったそうです。それ以外の国での採用例は寡聞にして知りません。

 レバーアクションライフルは狩猟用か西部劇で楽しむくらいが丁度良いのでしょうね。

 

2024年6月15日 (土)

明治から大戦期までの日本の主力小銃

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 前記事で幕末の各藩の軍備について書いたので、維新後から昭和の大戦時までの主力小銃に関して調べたくなりました。いつものごとくマニアックなので軍事に興味のない方はスルーしてください。

 日本初の国産小銃は薩摩藩出身の陸軍火器専門家村田経芳が開発した村田銃でした。元込め式ですが単発で列強が採用しつつあったボルトアクションライフルと比べると旧式化が否めないものでした。しかし国産できたという事はその後の発展に大きく寄与したと思います。

 次の三十年式は、陸軍大佐有坂成章(なりあきら)が開発したボルトアクションライフルです。海外のボルトアクション式ライフルと遜色ない性能で、これを改良した三八式小銃、口径を7.7㎜に増大した九九式とともに海外ではアリサカライフルの名前で有名です。今でも愛好家がいるくらいの名銃だと言えます。

 米英ソ独の主力小銃がともに1000万挺超えの生産数に比べると100万挺単位は少ないような気もしますが、日本の工業力を考えると頑張った方だと思います。村田銃と九九式の有効射程が異様に長いのは狙撃銃としての数値だと思います。各国の小銃もスコープ付きの狙撃銃だと有効射程1000m超えますから。

 アメリカがチート国家だと言えるのが、第2次大戦中他国がボルトアクションライフルを主力小銃として使う中、近代的なセミオートライフルであるM1ガーランドにいち早く切り替えた事でも分かります。ドイツもセミオートのワルサーGew43を開発しましたが、わずか46万2000丁しか生産できずKar98Kを完全に切り替えるには至りませんでした。M1ガーランドを625万挺も生産したアメリカが凄すぎるのでしょう。

 とは言え、ドイツは現代の主力小銃であるアサルトライフルのMP43やStG44などの後の時代にも強い影響を与えた名銃を生み出したのでこちらも評価が高いです。

 現代ではアサルトライフルの口径が7.62㎜から5.56㎜と小さくなり、さらにアメリカの次期主力小銃M7では6.8㎜に戻りつつあります。7.62㎜では反動が強すぎ、5.56㎜では威力が小さすぎるということで6.8㎜に回帰しつつあるのでしょう。それを考えると大戦中の日本の小銃は口径6.5㎜で良かったと思いますね。たしか欧州では体格の小さいイタリア兵も6.5㎜のカルカノM1891を使っていましたよね。

 体格の小さい日本兵には7.7㎜は反動が強すぎてガク撃ちになったと想像します。それを考えると7.92㎜モーゼル弾を使っていたドイツ兵はどれだけガタイがでかいんだと驚きます。支那事変の時6.5㎜の九六式軽機関銃では発射音が小さくてシナ兵が逃げないと文句を言っていた現場兵士の声で7.7㎜の小銃と軽機関銃を開発したと言われますが、今考えると「いったい何を言っているんだ?」と呆れますね。

 シナ兵が逃げないなら八九式重擲弾筒を撃ち込めばよいだろ、と思います(苦笑)。

 

 

2024年6月13日 (木)

戊辰戦争時会津藩兵力

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 戊辰戦争時の各藩の兵力はどれくらいだったか気になり調べてみました。特に会津藩。会津藩は公称23万石ですが、幕府預け領5万石があり合わせて28万石だったと言われます。藩主松平容保が京都守護職に就任するにあたり幕府が気を使ってさらに天領の管理を会津藩に任せたため実質40万石あったという説もあります。ただしこの話は小説(会津士魂だったかな?)で見ただけなので実態は分かりません。

 一応公式の23万石+幕府預け領5万石の28万石として話を進めます。戦国時代の軍役は1万石につき250人から300人でした。しかし江戸時代に入り軍役だけはかなり軽減され1万石あたり50人まで減らされたそうです。ただ、参勤交代や天下普請の負担が増大したため藩の財政は苦しくなりました。

 1万石50人なら28万石でたった1400人にしかなりません。しかし流石にこれだけでは薩長主導の新政府軍と戦えないので1万石につき120名ほど動員したそうです。その内訳は各隊100人(白虎隊だけ50人)で

玄武隊(50歳以上)…士中1隊、寄合1隊、足軽2隊で計4隊

青龍隊(36歳から49歳)…士中3隊、寄合2隊、足軽4隊で計9隊

朱雀隊(18歳から35歳)…士中4隊、寄合4隊、足軽4隊で計12隊

白虎隊(16歳から17歳)…士中2隊、寄合2隊、足軽2隊で計6隊

 これに砲兵隊300人、築城兵200人、指揮官200人で3500人ほどが会津藩の正規兵力でした。もちろんこれだけでは足らないので農・町民兵2700人、地方御家人、修験隊、力士隊など非正規の動員兵3200人で合計9400人ほどの兵力があったと言われます。

 ただし正規兵で使い物になるのは青龍隊と朱雀隊くらいで玄武隊と白虎隊は物の役には立たなかったと思います。非正規兵はそれ以上に駄目で新政府軍の攻撃を食らったら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑ったことでしょう。新政府軍も本気で戦争しているのは薩長土肥くらいでそれ以外の藩は時代の流れに逆らえず嫌々参加していただけでしょうから、グダグダの戦争だったという印象です。

 同時代の仙台藩はどうでしょうか?公称62万石、江戸期の新田開発で内高100万石以上あったとされる仙台藩ですが、7000人くらいしか動かせなかったそうです。本気で動員したら2万人くらいいけそうですが、仙台藩は一門や重臣の知行地が多く錯綜しており藩が統一して動員しにくい体制だったと言われます。となると会津藩は頑張った方なのでしょう。

 攻める側長州藩の兵力は5000人、薩摩藩で6000人くらいでした。実は石高(内高)を含む経済力は他藩を圧倒していて(どちらも100万石近い)、万単位の兵力も動員できたと言われます。しかし数よりも質を重視した両藩は新式のミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲などで武装した少数精鋭で戊辰戦争に挑みました。

 これじゃ旧幕府側が勝てるはずありません。もちろん幕府側にもこの当時オーパーツと言われたフランスのナポレオン3世から贈られたボルトアクションライフルのシャスポー銃で武装した洋式装備の幕府歩兵隊24000人がいましたが、この数はあくまで公式なもので、シャスポー銃を装備した本当の精鋭は2000人くらいしかいなかったと言われます。それ以外はさすがに火縄銃という事はないと思いますが、ゲベール銃が主力だったと思います。ゲベール銃は先込め式で砲身にライフリングが施されてない旧式銃でした。ミニエー銃も先込め式ですがこちらはライフリングが施されており射程と命中精度に段違いの差があったそうです。スナイドル銃はライフリング+元込めなので先込め銃より発射速度がかなり早くなりました。

 旧幕府側も洋式装備を熱心に取り入れた長岡藩(ガトリング砲で有名ですね)、庄内藩などがありましたが、全体的には旧態依然とした軍隊でした。会津藩も洋式装備取得に熱心だったそうですが、財政と時間が間に合わなかったというのが実情です。アームストロング砲といえば佐賀藩です。こちらも洋式軍隊では一日の長があり日本で唯一アームストロング砲を製造できた稀有の藩でした。

 色々見てくると、長崎に近い西国の藩のほうが情報に敏感で洋式軍隊の実力をよく認識し藩の軍制改革も熱心だったという事でしょうね。

2024年6月11日 (火)

フランスがウクライナにミラージュ2000を供与する意味

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 ウクライナのゼレンスキー大統領がフランスへ訪問しマクロン大統領と会談しました。その際マクロン大統領はミラージュ2000戦闘機の供与に言及したそうです。正直F-16があるのでミラージュ2000は要らないかなと思ったんですが、その後いろいろ調べてみるとウクライナ軍はミラージュ2000を対戦闘機戦闘ではなく空対地ミサイルキャリアーとして使うつもりのようですね。

 2022年2月24日ロシアが国際法を無視してウクライナを侵略した時、ウクライナ空軍はSu-24を14機保有していました。開戦奇襲で空軍基地をロシア軍に空爆された時どれだけ生き残ったかは不明ですが、おそらく10機以下になったと思います。ウクライナ空軍は貴重なSu-24を西側供与の巡航ミサイルストームシャドウや空対艦ミサイルハープーンの発射母機として使用していました。

 ところが最近になってSu-24の活動がほとんど確認されなくなっているそうです。おそらくスペアパーツ、燃料の不足で飛べなくなっているだろうと思われます。長距離攻撃兵器はウクライナの生命線です。これで兵站を叩くことで、ロシア軍の進撃を食い止めているのですから。一応MiG-29やSu-27も改修で西側ミサイルの発射はできるそうですが、Su-24は専門の戦闘攻撃機だけに使いやすいのでしょう。

 ミラージュ2000なら無改造でストームシャドウを撃てますし西側の各種誘導爆弾も搭載できます。おそらくウクライナ軍は対戦闘機戦闘ではなく西側ミサイルの発射母機として想定しているのではないかと想像します。これなら20機程度の供与でも十分役立つはずです。

 ちなみに、ドイツはウクライナが要望している巡航ミサイルKEPD350タウルスの供与を拒否しています。タウルスは弾頭重量481㎏、射程500㎞を誇る優秀なミサイルです。高度50m以下を飛行し敵のレーダーにも捕捉されにくいと言われます。ただトーネードIDS、F/A-18E/F、F-15Kくらいしか発射できず、ウクライナが現在運用しているか運用予定の戦闘機に搭載するには改修が必要です。ですから貰ってもすぐに使えないと思います。

 日本では西側諸国がウクライナ援助をしている意味を理解できない馬鹿者が多いですが、ロシアが弱体化することはわが日本の国防にも大いに役立つんですよ。本来なら日本もウクライナに積極的に武器援助すべきなんです。こう言ってはウクライナに酷ですが、日本のためにロシアと戦ってくれていると感謝すべきだと思いますよ。

 日本政府は戦後復興を見据えて巨額経済援助をする予定ですが、今戦っているウクライナを助けなければ感謝などされません。湾岸戦争で懲りたはずですよね。せっかく防衛費が増えたんですから、155㎜砲弾や各種ミサイルを増産して備蓄を増やすとともに、古い砲弾やミサイルをどんどんウクライナに供与すべきだと思いますよ。

 皆さんはフランスがミラージュ2000をウクライナに供与する意味、どのように考えますか?

2024年6月 9日 (日)

ソ連、ロシアの主力戦車生産数

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 例によって軍事に興味のない方はスルーお願いします。

 前記事で冷戦期ソ連は戦車師団を50個(52個という資料も?)も保有していたが、そのすべてが当時最新型のT-80であるはずがないと考察しました。そこで調べてみたんですが、T-80以外の師団はT-64を装備していたという考えも間違っていたようです。

 ちなみに、表の見方は左側がソ連時代の本国生産数、右の総生産数は冷戦期~現在の本国生産数と各国のライセンス生産数を合わせたものです。T-90は1991年制式採用ですから冷戦後の生産になります。

 計算しやすいように戦車師団の戦車保有定数を300両とします。これが50個師団ありますからだいたい1万5千両必要です。T-80とT-64を合わせても1万2400両ですから足りません。おそらくT-72もかなり配備されていたとみるのが自然です。あるいは、師団隷下の戦車連隊のうち1個をT-80にして、残り2個はT-64かT-72だったのかもしれません。

 大戦中のドイツ陸軍も装甲師団で2個ある戦車大隊のうち1個をⅤ号戦車パンター、残りをⅣ号戦車にしていたくらいですから。それとT-90が本当に1万両生産されたかも非常に疑問です。ロシア陸軍は2024年現在でわずか200両しかT-90を配備していないと言われます。インドとエジプトがライセンス生産をしていますが、エジプト軍はアメリカのM1A1エイブラムス(改修してA2相当にバージョンアップ)を1000両以上保有してこちらが主力ですから、T-90はあくまで保険なのでしょう。

 私見ですが、T-90は各型合わせても数千両くらいの生産が実態なのかもしれません。T-54/55の生産数が10万両で異様に多いのは、シナの59式戦車などライセンス生産あるいはパクリ生産分も含めているからです。T-80はレニングラード・キーロフ設計局が開発しましたが、冷戦期は主にハリコフ戦車工場で生産されたそうです。ですから、ウクライナは独立後T-80を改良したT-84を生産しますが、ウクライナ戦争中の2024年現在、T-80がわずか80両、T-84に至っては5両しか保有していないと言われます。

 いかにウクライナが平和ボケしていたか分かりますね。もしT-80系が1000両もあったらロシアはウクライナに侵略戦争を仕掛けたでしょうか?戦争前のウクライナは日本と似たような平和憲法を持ち、国防意識が低かったそうですからならず者国家に付け込まれたのでしょう。日本も決して他人事ではありませんよ。

 戦争を避けるためにはしっかりとした軍備を持ち、敵に侵略の意図を持たせないことが肝要。そしていざ戦争になっても軍備がしっかりしていれば侵略を跳ねのけられます。国際社会は綺麗ごとではなく、厳しい現実を認識するべきなのでしょうね。

 

 

2024年6月 7日 (金)

ロシアの極超音速ミサイル

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 最近ミリタリー関係の記事が続きますが、これも軍事研究2024年6月号からです。以前極超音速ミサイルに関する書評で紹介した軍事ライター能勢伸之氏が各国の極超音速ミサイルの現状について記事を書かれていました。

 その前に、極超音速ミサイルについて知らない人のために一応紹介しておくと、その定義はマッハ5を超える速度で弾道ミサイルのような放物線軌道ではなく終末時に不規則に動くミサイルです。大きく極超音速巡航ミサイルと極超音速滑空体に分類されます。発射時は通常のミサイルの通り滑空体なら放物線軌道、巡航ミサイルなら水平低空軌道です。ところが命中前の終末機動時に不規則な動きをします。ゆえに現在の迎撃システムでは撃墜不可能か著しく困難だと言われます。

 ウクライナ戦争でロシア軍が使用したとされる極超音速ミサイルは、空中発射型のキンジャールと艦上発射型のジルコン(ツィルコン)です。キンジャールは弾頭重量500㎏、マッハ10で飛翔し2000㎞の射程を持ちます。ジルコンは弾頭重量400㎏、速度マッハ9で射程1500㎞です。

 撃墜不可能と言われロシア軍は自信を持って実戦に使用したのでしょうが、何とウクライナ軍は分かっているだけでキンジャールを8発も撃墜しているそうです。ジルコンも2発以上迎撃しています。全体で何発ロシア軍が発射したのか分かりませんが、ウクライナ軍がどういう手段で撃墜したのか謎でした。

 ウクライナ軍が撃墜に使用したのはNATO供与のパトリオットPAC-3だったそうです。実はキンジャールはマッハ10、ジルコンはマッハ9とは言いながら週末段階ではマッハ2~マッハ4.5くらいまで速度が落ちるそうです。これならジェット戦闘機かちょっと速いミサイルくらいでパトリオットPAC-3で迎撃可能です。しかもジルコンは公称マッハ9とは言いながら実際はマッハ7.5に達するのも一時的でその後は速度が落ちていく性能でした。

 加えて精密誘導能力が低く、とてもじゃないが移動目標に当てるのは困難だと言われます。一方アメリカは精密誘導能力を持つ極超音速ミサイルの実用段階に近づきつつあります。日本もマッハ3の空対艦ミサイルASM-3をスクラムジェト化し射程を400㎞に延長したASM-3(改)を開発中です。スクラムジェット化することで速度もマッハ4以上にはなるそうですから、準極超音速ミサイルと言って良いかもしれません。

 ロシアやシナの極超音速ミサイルはいざとなったら核搭載できるのでそこまで精密誘導能力は求めていないのでしょうが、日米は核搭載前提ではないので精密誘導能力が絶対に必要です。極超音速ミサイルの技術的困難さについては過去記事

『書評『極超音速ミサイルが揺さぶる「恐怖の均衡」』(能勢伸之著 扶桑社新書)』

で紹介したのでご参照ください。

 ロシア軍の極超音速ミサイルは、宣伝されているより大したことないと一安心したところですが、技術は日進月歩。そのうち本当に撃墜困難な極超音速ミサイルが開発されるかもしれません。その前に日米が一刻も早く極超音速ミサイルを実用化したいですね。

2024年6月 5日 (水)

1980年型ソ連戦車師団編制図

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 非常に見にくいとは思いますが、できるだけコンパクトに纏めたつもりですが限界でした。例によって軍事に興味ない方はスルーしてください。

 これも軍事研究6月号の特集からです。1980年代のソ連戦車師団の編制図ですが、まさに冷戦末期でソ連陸軍が最大規模だったころの戦車師団です。総兵力1万2380人。T-80戦車×331両、BRDM-2歩兵戦闘車×139両、122㎜自走榴弾砲×72両、152㎜自走榴弾砲×54両、OTR-21自走弾道ミサイル×4両、BM-21自走多連装ロケット砲×18両、この図には入りきらなかったんですがMi-24ハインド攻撃ヘリ×8機など恐るべき戦力でした。

 当時のソ連はこんな戦車師団を50個も保有していたのですから驚きです。他にも戦車1個連隊を隷下に持つ自動車化狙撃師団が138個あり、世界最大の陸軍大国でした。さすがに自動車化狙撃師団の戦車連隊には最新のT-80は回せず、T-72、T-62などの旧式戦車が主力だったようですが、それでも数の暴力でNATO諸国を圧倒するはずでした。NATO軍はソ連とワルシャワ機構軍を止めるために戦術核の仕様すら検討したくらいです。

 もちろん全戦車師団がT-80を装備していたとは生産数の面からも考えにくいです。T-80装備の師団は親衛○○師団みたいなエリート部隊限定で、他はT-72が主力だったとは思います。T-64もありますが、俗にいうT-72の先行生産型ではなく、本国仕様がT-64で輸出型がT-72と言う住み分けだったみたいです。ですから、T-80を装備していない戦車師団はT-64装備だった可能性もあります。

 アメリカと比べ経済規模がはるかに劣るソ連が、このような膨大な陸軍を維持できるはずはなくアフガニスタン侵攻の失敗と相まってソ連崩壊の原因の一つとなりました。ただ、戦車師団は崩壊後次々と解体されていきましたが、膨大な数の戦車はストックされ、ウクライナ戦争でも修理して次々と戦線に投入されています。万単位の戦車がストックされていると言われ、ウクライナ軍は破壊しても破壊してもロシア軍戦車を減らせないという賽の河原状態になっているようです。

 ウクライナにとっては、莫大なソ連時代の戦車ストックは迷惑この上ないですね。同情します。しかしいくら兵士が畑でとれるとはいってもロシアにも人的資源の限界は来るはずで、兵士の損害を最大目標に掲げる今のウクライナ軍の戦術は正しいとも言えます。

2024年6月 3日 (月)

ソドムは実在した?

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 皆さん、ソドムとゴモラの話はご存じでしょうか?旧約聖書の創成記に記された物語で、同性愛などあらゆる悪徳が栄え退廃したソドムとゴモラという都市に、唯一神ヤハウェが怒り天からの硫黄と火によって滅ぼしたというものです。

 長い間ただの伝説だと思われていたんですが、近年ヨルダン渓谷南部で発見された古代都市トール・エル・ハマムがソドムのモデルではないかと言われています。トール・エル・ハマムは紀元前1650年ごろ(今から3600年前)、TNT爆薬換算で12メガトン(広島型原爆の1000倍)の爆発で消滅したことが分かっているそうです。

 ちなみに、トール・エル・ハマムは紀元前4700年ころから存在し紀元前1650年に破壊されるまで3000年間栄えたと言われます。エルサレムの10倍、エリコの5倍の規模を持ちレバント地方(東部地中海沿岸地方。シリアやレバノン、イスラエルあたり)では最大の都市だったそうです。

 トール・エル・ハマムの遺跡では表面が解けた陶器の破片や建築材などが見つかっています。これらは摂氏2000度でないとできないそうで、当時そんな技術はなかった事から古代核戦争が起こったのではないかという意見も出ました。ただ現在はもう一つの可能性のほうが有力視されています。

 それは隕石の衝突です。近年だと1908年シベリア奥地で発生したツングースカ大爆発も隕石あるいは彗星の衝突だと言われています。一つの都市が消滅するくらいですから相当大規模な爆発だったろうし、聖書の記した硫黄と火が降ったというのも隕石の爆発なら納得できます。

 ただ、常識的に考えて隕石なり彗星なりが一つの都市の真上にピンポイントで落ちるのはそれこそ天文学的な確率だと思うんですよ。宝くじで1等当たるよりはるかに低いかもしれません。と言うのも地球の表面積の7割は海。私はツングースカの大爆発でも奇跡に近い確率だと思っているくらいです。

 ならば、古代核戦争なり神と称する宇宙人が意図的に隕石を落としたか核攻撃をした可能性のほうが高いとは個人的に思います。あくまで確率論ですが。白亜紀末期の6500年前、恐竜を絶滅させた原因も隕石衝突だったとされ、メキシコのユカタン半島沖で発見された巨大クレーターがその跡だと言われますが、有史以来都市部に落下した隕石の記録はないと思います。もちろん小規模な隕石の破片くらいは落ちたかもしれませんが、多くの人が死ぬような巨大隕石落下はそれだけ稀なのです。

 皆さんは、ソドムのモデルだとされる古代都市トール・エル・ハマム滅亡の原因、何だと思いますか?

2024年6月 1日 (土)

1941年型ソ連戦車師団編制図

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 マニアックな軍事ネタなので興味ない方はスルーしてください。

 最近私が軍事研究を定期購読しているのは、大戦中から現在に至る連合軍側の機甲師団、戦車師団を紹介しているからなんです。今まで米、英、仏、露と来ていて、最後のシナはどうでも良いので買いません。2024年5月号は大戦中のソ連の戦車師団編制の特集でした。

 戦車不足が深刻化した後の戦車軍団編制(戦車定数283両)は知っていたんですが、1941年型戦車師団は編制が分からなかったので非常に勉強になりました。

 1941年型戦車師団は、兵員1万1千名。戦車定数287両で、他に火炎放射戦車も54両編入しています。米機甲師団に匹敵する恐るべき戦力ですね。しかもT-34中戦車とKV-1重戦車が主力。しかし流石の陸軍大国ソ連と言えど、このような大規模戦車師団を多数維持する能力はなく、ほぼ同規模ながら支援部隊を減らし、軍直轄になった戦車軍団編制に代わっていきました。ちなみに戦車軍団には自動車化狙撃兵連隊は編入されておらず純粋な機甲戦力だけになっています。

 機甲師団、戦車師団、装甲師団と各国で機甲戦力を主体とした機動師団の名称は違いますが、こうしてみると1個師団で運用できる戦車数は300両未満が限界みたいですね。修理も整備も大変ですからね。機械は壊れるのが前提。それも含めた戦力なんでしょう。なかなか参考になりました。

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