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2024年6月13日 (木)

戊辰戦争時会津藩兵力

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 戊辰戦争時の各藩の兵力はどれくらいだったか気になり調べてみました。特に会津藩。会津藩は公称23万石ですが、幕府預け領5万石があり合わせて28万石だったと言われます。藩主松平容保が京都守護職に就任するにあたり幕府が気を使ってさらに天領の管理を会津藩に任せたため実質40万石あったという説もあります。ただしこの話は小説(会津士魂だったかな?)で見ただけなので実態は分かりません。

 一応公式の23万石+幕府預け領5万石の28万石として話を進めます。戦国時代の軍役は1万石につき250人から300人でした。しかし江戸時代に入り軍役だけはかなり軽減され1万石あたり50人まで減らされたそうです。ただ、参勤交代や天下普請の負担が増大したため藩の財政は苦しくなりました。

 1万石50人なら28万石でたった1400人にしかなりません。しかし流石にこれだけでは薩長主導の新政府軍と戦えないので1万石につき120名ほど動員したそうです。その内訳は各隊100人(白虎隊だけ50人)で

玄武隊(50歳以上)…士中1隊、寄合1隊、足軽2隊で計4隊

青龍隊(36歳から49歳)…士中3隊、寄合2隊、足軽4隊で計9隊

朱雀隊(18歳から35歳)…士中4隊、寄合4隊、足軽4隊で計12隊

白虎隊(16歳から17歳)…士中2隊、寄合2隊、足軽2隊で計6隊

 これに砲兵隊300人、築城兵200人、指揮官200人で3500人ほどが会津藩の正規兵力でした。もちろんこれだけでは足らないので農・町民兵2700人、地方御家人、修験隊、力士隊など非正規の動員兵3200人で合計9400人ほどの兵力があったと言われます。

 ただし正規兵で使い物になるのは青龍隊と朱雀隊くらいで玄武隊と白虎隊は物の役には立たなかったと思います。非正規兵はそれ以上に駄目で新政府軍の攻撃を食らったら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑ったことでしょう。新政府軍も本気で戦争しているのは薩長土肥くらいでそれ以外の藩は時代の流れに逆らえず嫌々参加していただけでしょうから、グダグダの戦争だったという印象です。

 同時代の仙台藩はどうでしょうか?公称62万石、江戸期の新田開発で内高100万石以上あったとされる仙台藩ですが、7000人くらいしか動かせなかったそうです。本気で動員したら2万人くらいいけそうですが、仙台藩は一門や重臣の知行地が多く錯綜しており藩が統一して動員しにくい体制だったと言われます。となると会津藩は頑張った方なのでしょう。

 攻める側長州藩の兵力は5000人、薩摩藩で6000人くらいでした。実は石高(内高)を含む経済力は他藩を圧倒していて(どちらも100万石近い)、万単位の兵力も動員できたと言われます。しかし数よりも質を重視した両藩は新式のミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲などで武装した少数精鋭で戊辰戦争に挑みました。

 これじゃ旧幕府側が勝てるはずありません。もちろん幕府側にもこの当時オーパーツと言われたフランスのナポレオン3世から贈られたボルトアクションライフルのシャスポー銃で武装した洋式装備の幕府歩兵隊24000人がいましたが、この数はあくまで公式なもので、シャスポー銃を装備した本当の精鋭は2000人くらいしかいなかったと言われます。それ以外はさすがに火縄銃という事はないと思いますが、ゲベール銃が主力だったと思います。ゲベール銃は先込め式で砲身にライフリングが施されてない旧式銃でした。ミニエー銃も先込め式ですがこちらはライフリングが施されており射程と命中精度に段違いの差があったそうです。スナイドル銃はライフリング+元込めなので先込め銃より発射速度がかなり早くなりました。

 旧幕府側も洋式装備を熱心に取り入れた長岡藩(ガトリング砲で有名ですね)、庄内藩などがありましたが、全体的には旧態依然とした軍隊でした。会津藩も洋式装備取得に熱心だったそうですが、財政と時間が間に合わなかったというのが実情です。アームストロング砲といえば佐賀藩です。こちらも洋式軍隊では一日の長があり日本で唯一アームストロング砲を製造できた稀有の藩でした。

 色々見てくると、長崎に近い西国の藩のほうが情報に敏感で洋式軍隊の実力をよく認識し藩の軍制改革も熱心だったという事でしょうね。

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