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2024年7月

2024年7月31日 (水)

会津戦争8 『白虎隊の悲劇』

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 母成峠が突破されたことで、会津盆地に新政府軍が雪崩れ込みました。1868年8月22日、会津藩の前哨基地猪苗代城が落城します。同じころ北越戦争でも長岡藩敗北、援軍の会津軍と共に会津領に退くも、敵弾を受け負傷していた長岡藩執政河井継之助は会津領塩沢村(福島県只見町)で8月16日亡くなりました。

 実は北越戦線には松平容保の実弟松平定敬の桑名藩兵も一部参加していました。というのも越後柏崎に桑名藩の飛び地があったからです。ただ柏崎領は2万石しかなく、桑名藩兵全員を賄うことはできませんでした。新政府軍が東海道に来るという報告を受けた桑名藩では、主戦派と恭順派で分裂します。将軍慶喜と共に藩主定敬は江戸に逃げていたので、重臣会議の結果藩主定敬を廃嫡、前藩主定猷(さだみち)の子定教(さだのり)を新藩主として届け出、新政府と交渉して降伏無血開城しました。

 定教は父定猷が亡くなった時わずか3歳だったため、定猷長女初姫の婿養子として高須藩松平家から来たのが定敬でした。新藩主となった時も定教はまだ11歳、筆頭家老酒井孫八郎の奔走でお取り潰しや家老の切腹という最悪の結果は避けられます。なんといっても酒井が東海道軍参謀海江田信義と旧知の仲だったことが幸いしました。

 藩に見捨てられることになった前藩主定敬でしたが、江戸にいた藩士たちや、大坂城から逃げかえっていた桑名藩兵たちは依然として定敬を支持します。そして新政府に降伏するのを潔しとしない桑名藩士30名ほどは脱走して定敬のもとに至りました。定敬支持の藩士の中には後に日清・日露戦争で名将と称えられる立見鑑三郎(尚文)もいます。

 北越戦争で新政府軍が苦戦したのは近代装備の長岡藩と執政河井継之助の存在と共に立見鑑三郎がいたからでした。立見は桑名藩雷神隊隊長としてゲリラ戦で新政府軍を苦しめます。朝日山の戦いで長州奇兵隊参謀時山直八を討ち取ったのも立見でした。桑名軍は北越戦争で敗れると定敬と共に兄容保の鶴ヶ城に入り戦います。会津での戦いも敗れた桑名軍は庄内藩に逃亡し庄内藩と共に降伏しました。ただ定敬自身は蝦夷にまで逃げ延び最後まで新政府軍に抵抗します。

 会津藩は日光口、白河口に主力部隊を置いて新政府軍の侵攻に備えていました。しかし越後口からも新政府軍が来襲してくるとなると、全く無意味になります。各地に散らばった会津藩兵は一刻も早く鶴ヶ城に戻る必要がありました。この時、各方面から来襲する新政府軍は、薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩を中心として30藩以上、総兵力も3万を超えます。その中には紀州藩、尾張藩、彦根藩など本来なら徳川将軍家に殉じなければならない立場の藩もありました。

 8月23日、新政府軍は早くも鶴ヶ城郊外に達します。若松城下甲賀町口を守っていた家老神保内蔵助(修理の父)、田中土佐は敗北の責任を取り刺し違えて自刃しました。兵力が足りない会津藩は16歳と17歳で編成された白虎隊300名も戦いに投入します。その中で、白虎隊士中二番隊20名ほどは戸ノ口原の戦いで新政府軍に敗れ飯盛山中を彷徨っていました。

 二番隊の生き残りは山中で今後の行動を話し合います。傷を負ってない者は一人もいません。決死の覚悟で新政府軍に斬り込み玉砕すべきか、武士らしく潔く自刃すべきか話し合った結果自刃を選びました。その中で死にきれなかった飯沼貞吉だけが会津藩士の妻女に救われ一命をとりとめます。このような少年兵まで戦争に駆り出され死んでいくのですからまさに悲劇でした。

 今となっては結果論にすぎませんが、容保が西郷頼母ら家臣の諫言を受け入れ京都守護職就任を断っていたら結果は違ったものになっていたでしょう。数多くの藩士や家族の犠牲は避けられたかもしれないのです。会津藩にとって最期の時は迫りつつありました。次回凄惨とも言うべき鶴ヶ城攻防戦を描きます。

2024年7月30日 (火)

会津戦争7 『血戦!母成峠』

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 奥羽越列藩同盟にとって奥羽鎮撫総督府の九条総督は錦の御旗でした。彼を軟禁している限り人質としても新政府を脅す材料になるからです。ところが九条総督一行は仙台藩領から久保田(現在の秋田県)藩領に逃げ込みます。これは同盟側の大失態ともいえる出来事でしたが、九条総督一行を迎えた久保田藩は第12代藩主佐竹義堯(よしたか)以下、勤皇派が多かったことから反論を勤皇に統一し列藩同盟から離脱します。

 列藩同盟は、仕方なく上野戦争から逃れ東北に来ていた寛永寺門跡輪王寺宮(孝明天皇の実弟)を擁立し盟主に祭り上げました。輪王寺宮ご自身は複雑な心境だったと思いますが、官軍に対抗するには錦の御旗が必要な列藩同盟側も必死でした。久保田藩の勤皇思想は何といっても同藩出身の国学者平田篤胤の薫陶が大きかったと思います。それに佐竹氏は関ヶ原の戦後処理で幕府に恨みこそあれ恩など感じていませんでした。

 久保田藩に離脱されたら困る仙台藩は使者を送って説得しますが、久保田藩側はこれを殺害し完全に列藩同盟と断交します。仙台藩は激高し、久保田藩に向けて攻撃を開始しました。久保田藩の北隣、現在の青森県西半分を領地とする津軽藩は最初勤皇派でした。ところが周囲を佐幕派諸藩に囲まれ孤立することを恐れ嫌々列藩同盟に参加します。しかし、九条総督の久保田入り、勤皇派に鞍替えしたのを見て、自身も新政府側に恭順しました。

 津軽藩とは戦国以来因縁のある盛岡藩は、津軽藩の裏切りに怒り攻め込みました。1868年9月、藩境の野辺地で津軽藩とその支藩黒石藩の兵が南部藩兵と激しく戦います。戦争は主に久保田藩領で戦われたので津軽藩は軽微な損害で済みました。

 東北諸藩で最強の藩は出羽庄内藩酒井家でした。大富豪本間家から莫大な献金を受けていた庄内藩は近代装備で統一します。当時最新の元込め式小銃スナイドル銃も多数装備していました。久保田藩は南から酒井玄蕃率いる庄内軍に攻め込まれ一時滅亡寸前まで追い込まれます。新政府は薩摩、佐賀などの藩兵を次々と送り込み何とか守り切りました。

 実は盛岡藩も新政府側、列藩同盟側どちらに付くか迷っていたと言われます。だが、戦国以来恨みの深い津軽藩が新政府側に付いたのを受けて、感情的に列藩同盟に傾いたのです。この選択は間違いでした。東山道先鋒総督府参謀、土佐藩板垣退助、薩摩藩伊地知正治らは仙道筋、浜通り筋の二方向から北上します。7月14日、磐城平城陥落。7月23日には、北越戦線において新発田藩が新政府に恭順しました。7月26日、仙道筋の三春藩が降伏します。三春藩秋田家は過去に書いた通り本拠北出羽を追われ南陸奥の三春に転封させられたので幕府に恩を感じておらず、最初から新政府に心を寄せていました。周囲が旧幕府方だったので仕方なく同盟に加わっていただけです。

 加えて、仙台藩は三春藩を小藩と侮り傍若無人な態度で接しました。三春藩としては何とかして同盟を抜け新政府軍に加わるために時期を計っていただけだったとも言えます。このような藩は多かったはず。そんな中、二本松藩丹羽家だけが孤軍奮闘していました。二本松藩は10万700石。藩の兵力は1000人程度。これに子供や老人、農民兵を動員してやっと2000人前後の兵力を揃えます。しかし武装は火縄銃など旧式でゲベール銃があったら良いほうでした。

 二本松藩は主力部隊を白河口の戦いに出していたため、本拠二本松城は手薄でした。そこへ東の隣国三春藩が新政府に降伏したため側面から攻撃を受けることになります。新政府軍は二本松と白河の間にある本宮に攻撃を集中し二本松軍の分断を図りました。これが成功し二本松城は孤立します。二本松城を救援すべく会津藩、仙台藩が援軍を派遣しますが待ち構えていた新政府軍に攻撃され敗退しました。二本松軍は新政府軍の包囲網を破り何とか帰城しますが、一部は城外の取り残され二本松少年隊のように全滅した部隊も数多く出ました。7月29日二本松城落城。

 二本松落城で新政府側では二つの方針が議論されます。東京の本営では戦争の総指揮をとっていた大村益次郎(村田蔵六から改名)が、まず枝葉(仙台藩や米沢藩など)を刈って根元(会津藩、庄内藩)を枯らすべく、仙台藩や米沢藩への侵攻を指示します。ところが二本松にいた参謀の土佐藩板垣退助、薩摩藩伊地知正治らは逆に根元を刈って枝葉を枯らすべきだと主張しました。冬に入ると雪に慣れない新政府軍が不利になるという考えもありました。結局現場指揮官の方針を優先して会津攻めが決まります。

 この時、会津藩は日光口や白河口に主力を集めていました。また北越戦線にも1000人以上の部隊を派遣していたため、二本松城に官軍主力が集結しつつあるとの報告を受けても、それに兵力を割く余裕がありませんでした。会津藩は二本松と会津盆地を最短距離で結ぶ中山峠を官軍が攻撃すると見ていました。ところが裏をかき官軍は母成峠に殺到します。ここを守るのは会津軍と新選組など旧幕府軍残党800人余り。

 官軍は陽動で中山峠にも800人を割き、板垣、伊地知が指揮する主力部隊1300人は母成峠に、また土佐藩谷干城率いる別動隊1000人が勝岩の台場へ、河村純義率いる薩摩藩兵300人もこれに続きます。伝習隊を指揮していた大鳥圭介は、新政府軍の主攻が母成峠であることを察知していましたが、兵力が少なく手当できませんでした。

 8月21日、両軍はぶつかります。午前9時ころから始まった戦闘は、大鳥圭介率いる近代装備の伝習隊などの奮戦もあり同盟軍側が善戦しますが、多勢に無勢、数に勝る新政府軍に次第に押しまくられ午後4時ころには大勢が決します。最後まで母成峠にとどまっていた伝習隊ですが、会津藩兵は味方を置き去りにして敗走しました。伝習隊は壊滅的打撃を受け、仙台に逃れます。のちに蝦夷地に至り新政府軍と戦い続けました。仙台藩も他藩の兵を置き去りにして逃げることが多く、このように同盟軍は全く結束していなかったと言えます。負けるべくして負けたのです。

 ともかく、会津への関門はついに破られました。次回、官軍による会津鶴ヶ城包囲と白虎隊の悲劇を描きます。

2024年7月29日 (月)

会津戦争6 『白河口攻防戦』

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 奥羽越列藩同盟と言っても明治新政府が許すはずもない会津藩、庄内藩は別として奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵を殺害した仙台藩と何故か積極的抗戦派の米沢藩以外の諸藩は新政府と戦争したくなかったと思います。それはそうでしょう。関東や北陸以西(長岡藩など東越後は除く)の諸藩は、親藩譜代外様の別なくことごとく明治新政府に恭順していたのですから。

 尊王攘夷という思想は当時の流行でした。水戸藩の徳川光圀が編纂した大日本史は当時の教養人なら誰でも読んでいた歴史書で一般にも尊王思想が浸透していました。各藩に佐幕派もいれば勤皇派もいたので、幕府方が旗色悪くなると藩の勤皇派が実権を握るようになるのです。それまでは各藩程度の差はあれ勤皇派が弾圧されていたのですから、日本各地で勤皇派による佐幕派の粛清の嵐が吹き荒れました。

 もちろん長州征討や鳥羽伏見の戦いに積極的に参加したような佐幕主戦派の藩もありましたが、周囲が雪崩を打って明治新政府に帰順したら孤立し各個撃破されるので、生き残るためにも新政府に従うしかなかったのです。薩長の明治新政府は佐幕主戦派でありながら降伏した藩に対し、莫大な軍資金を要求し、幕府方との戦いでも先鋒を命じます。彦根藩など安政の大獄でやらかした藩などは、むしろ積極的に戦い新選組局長近藤勇を逮捕したのも彦根藩でした。

 関東地方から会津方面に入るにはいくつかの道がありました。一つは日光街道と会津街道の結節点である日光口。ここは大鳥圭介の伝習隊など旧幕府軍に会津藩の援兵を含めた1300人が守ります。奥州の玄関口白河口は、会津藩が最も重視した方面で国家老西郷頼母を総督とする会津藩の主力2000人が向かいました。中通り仙道地方から奥羽山脈を越えて猪苗代方面に抜ける母成峠などの仙道口は、二本松城など同盟側の要衝を落とさなければ入れないので、この段階で会津軍はほとんど配置されていません。

 白河の関は関東地方から奥州への入り口で古代から栄えていました。鎌倉時代、この地を支配したのは下総結城家の庶流白河結城氏です。白河結城氏は戦国時代まで続きますが、小田原陣に参陣せず秀吉の奥州仕置きで改易されました。関ヶ原以降、白河藩は丹羽氏、榊原氏、本多氏と頻繁に支配者が代わり最後は譜代の阿部家が領主となります。ところが老中だった最後の藩主阿部正静(まさきよ)が権力闘争に負け1867年1月隣の棚倉藩10万石に転封されたため戊辰戦争当時天領になっていました。

 新政府は白河小峰城を仙台藩、二本松藩など東北諸藩に管理させます。奥羽越列藩同盟ができて新政府との戦争が決まると、小峰城は自然に同盟側が支配しました。城には同盟側2500人が守っていましたが、新政府軍は薩摩軍を中心とする700人で奇襲攻撃し城を奪取します。

 慌てた同盟軍は会津藩仙台藩を中心に4500人の兵力を集め7回にわたり総攻撃しましたが失敗に終わりました。新政府は板垣退助率いる土佐藩兵を増援に送り小峰城の守りを固めます。1868年6月、白河小峰城に近い平潟の新政府軍1500人が上陸しました。こうなると白河方面の新政府軍は3000人を超えます。兵力はなお同盟軍より劣勢ですが、近代兵器で勝る新政府軍のほうが有利に戦いを進めました。

 6月24日、板垣退助は800人の兵力で棚倉城攻略に向かいます。同盟側はこれを好機とみて、棚倉城には援軍を送らず白河に総攻撃をかけました。しかしこれは失敗、棚倉城も占領されます。7月2日、失敗続きの白河口総督西郷頼母が罷免されました。誰が指揮しても困難な戦いだったと思いますが、白河方面は完全に新政府側が掌握、以後新政府軍は仙道方面、浜通り方面と進撃を続け同盟側は守勢に立たされることになります。

 白河口の戦いは会津戦争のターニングポイントでした。次回、新政府軍が会津盆地に雪崩れ込むことになった母成峠の戦いを描きます。

2024年7月28日 (日)

会津戦争5 『奥羽越列藩同盟』

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 会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。

 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかるべきでしょう。いくら慶喜に懇願されても断り、家臣と共に粛々と大阪城を撤退すべきでした。そうしていたら神保修理も死なずに済み、会津藩のその後の運命も変わっていたかもしれません。ところが現実には家臣を見捨てて逃亡し、その責任を神保修理に転嫁し切腹させたのです。その点、主君に家臣の恨みが向かわないようにすべての責任を被って粛々と切腹を受け入れた神保修理は立派でした。

 さて、慶喜はさっさと謹慎し容保にも江戸退去を命じました。いつもでも主戦派の会津藩と共にいると自分の命が危ないと踏んだのです。散々尽くしてきた慶喜にすらあっさり切られるんですから、会津藩の哀れさはどうしようもありません。幕末期、多くの長州藩士や尊皇派の浪士を殺しつくしてきた会津藩は、薩長の明治新政府に許されるとは思っていませんでした。そこで藩士を総動員して3500人ほどの正規兵を作ります。また農民や町民を動員して5900人の兵士を集め合計9400名で新政府軍を待ち構えました。その中には16歳から17歳の少年兵である白虎隊もいました。

 新政府軍は、江戸に迫り西郷隆盛と勝海舟の会談で無血開城が決まります。ところが旗本の不満分子が彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりました。江戸に赴任してきた長州の大村益次郎(村田蔵六から改名)の指揮で彰義隊は簡単に鎮圧されます。その後幕府残党は北関東を転戦し新政府軍と戦いました。

 その間、本来なら幕府に殉じなければならない立場の御三家、紀州藩、尾張藩、水戸藩が次々と新政府に帰順します。譜代筆頭で井伊直弼を出した彦根藩ですら新政府軍に投じました。これが時世の流れなのでしょう。宇都宮藩、館林藩など譜代大名家が次々と幕府を見限り新政府側に付きました。慶喜は新政府に咎められるのを恐れ、江戸に逃げ帰ると会津藩や桑名藩など主戦派の藩を登城禁止にしてすべて追放したのです。こういう扱いを受けたのですから、諸藩が幕府を見限ったのも当然でした。

 慶喜に切り捨てられながら最後まで戦った会津藩や桑名藩が例外だったのです。さて、関東の戦いもひと段落付き新政府は奥羽へ前左大臣九条道孝を総督、参議沢為量(ためかず)を副総督とする奥羽鎮撫総督府を派遣しました。実際に実務を司るのは下参謀薩摩藩の大山格之助と長州藩の世良修蔵でした。

 世良修蔵は横柄な性格で新政府に帰順した奥羽諸藩に高圧的に接します。諸藩のとりまとめ役であった仙台藩と米沢藩に、会津藩と庄内藩の討伐を命じ両藩藩主の首を持ってくるよう要求しました。仙台藩は会津藩、庄内藩の降伏を許し穏便に済ませようと考えていたところでしたから、世良に秘かに反発しました。

 そんな中、仙台藩家老で奥羽諸藩の会議を主催していた但木土佐のもとに驚くべき書状が届けられます。それは世良修蔵が当時出羽にいた同僚大山格之助にあてた手紙で、「奥羽皆敵」など奥羽諸藩を徹底的に嘲り会津庄内両藩を滅ぼした後仙台はじめ諸藩も理由をつけて滅ぼす旨の内容が書かれていました。激昂する仙台藩士たちから世良暗殺の要求が上がり但木がこれを許可したため、世良は寝込みを襲われ瀕死の重傷を負います。そのまま阿武隈川の畔で斬首、死体は川に投げ込まれました。九条総督らは仙台藩に軟禁されます。こうなると新政府との戦いは避けられなくなり、仙台藩、米沢藩を中心に奥羽越列藩同盟が結成されました。

 ここまでは従来の説。その後の研究では世良が容保の首を要求したのは誤解で、そもそも会津藩も降伏の意思はなかったとの事。越後長岡藩と同様武備中立という都合の良い立場を主張していただけで、そもそも許されるはずはなかったと言われます。世良が横柄な態度で接したのは事実でしょうが、鎮撫総督府の参謀を斬ったのは暴挙でした。その上九条総督らを軟禁するなど言語道断です。

 世良が出したという手紙も偽物で、仙台藩が新政府と戦争するために偽造したという話もあります。ではどうして仙台藩らが新政府と戦おうとしたかですが、新政府を主導する薩摩藩、長州藩に対する反発があったのだと思います。仙台藩は62万石という東北一の大藩でプライドもあったのでしょう。

 ともかく、新政府軍との戦争は避けられなくなりました。まずは最初の激戦白河口攻防戦を描きます。

2024年7月27日 (土)

会津戦争4 『鳥羽伏見の戦い』

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 第2次長州征討は大失敗に終わり幕府の権威は失墜します。1866年12月、会津藩と容保の頼みの綱、孝明天皇が崩御されました。薩摩藩と長州藩は武力討伐で合意し薩摩派の公卿岩倉具視や新しく即位した明治天皇の外祖父中山忠能(ただやす)らを通じ長州藩朝敵赦免、討幕の密勅など宮廷工作を活発化させます。

 日増しに徳川幕府を巡る情勢が不利になっていく中、15代将軍徳川慶喜は土佐藩後藤象二郎の建言を容れ1867年10月、京都二条城にて諸大名を集め政権を朝廷に返上するという所謂大政奉還を宣言しました。慶喜の読みとしては、朝廷に政治を行う能力がなく有力大名による連合政権にならざるを得ない。となると最大の領地(天領400万石、旗本の領地を入れて800万石)をもつ自分が政権の中心になるだろうという考えでした。

 しかし今後の政権運営を話し合う同年12月に行われた小御所会議で慶喜は出席を認められず、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助らの工作で慶喜に辞官納地(官を辞し領地をすべて朝廷に返す)を求められるという最悪の結果になります。慶喜はじめ幕府方は京都を追われ大坂城に引っ込みました。この時容保も京都守護職を解任されます。側近の神保修理は容保に会津に引き上げ幕府と距離を置くよう進言しますが、容れられませんでした。

 京都を追い出された幕府方は大坂城で不満を募らせます。明治天皇は大政復古の大号令を発し新天皇即位の恩赦で長州藩は朝敵認定を解除されました。京都と大坂のにらみ合いは続きます。慶喜は大坂城の要塞に籠り時世の変化を待つつもりでした。政権を取り戻したと言っても経済的に弱体だった朝廷の立ち枯れを待ったのです。

 焦った薩摩藩は江戸で御用盗を雇い暴れさせ幕府を挑発します。江戸の治安を担当していた庄内藩は、薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちし幕府と薩長の対立は決定的となりました。慶喜自身は戦を望んでいなかったそうですが、数々の挑発に激高した幕府方の各藩が慶喜に京都進発を突き上げました。主戦派の幕府方諸藩を抑えきれなくなった慶喜は渋々ながらも認めてしまいます。

 この時大坂城には1万5千人の兵力がありました。一方、薩長側は密かに京都に入った長州藩兵を加えても5000人程度。もし戦闘になっても簡単に勝てるという読みです。土佐藩の前藩主山内容堂は佐幕派でしたが、後藤象二郎、乾退助(板垣退助)らは勤皇派で薩長と気脈を通じていました。乾は容堂の許可を得ず勝手に土佐藩士を上洛させます。いざとなったら薩長に味方し幕府軍と戦えという密命でした。

 1868年1月、1万5千の幕府軍は大坂を出発、京へ向けて北上します。京への入り口鳥羽を守っていたのは薩摩藩でした。ここでもいつものように通せ通さないと押し問答が発生し幕府方が強行突破を図ったことから戦端が開かれます。同じころ伏見でも戦闘が発生しました。

 最初数に勝る幕府軍が優勢でした。しかし薩長軍に錦旗(錦の御旗)が翻ったことで戦況が一変します。これは岩倉具視と大久保一蔵が密かに用意した旗で正式なものではありませんでしたが、幕府方にそんな知識のある者はいません。自分たちが賊軍になったとパニックを起こし壊走します。会津藩や新選組は奮戦したそうですが、味方が総崩れになってはどうしようもありません。

 悪いことに大坂と京都の間にある淀藩は、自軍の兵士は受け入れましたが他の幕府軍の入城を拒否します。藩主稲葉正邦は現役の老中で江戸に詰めていましたが、その藩主を見捨てて家臣たちが勝手に官軍に寝返ったのです。たしかに薩長軍が次に攻めるのは淀藩です。血祭りに上げられるよりは寝返った方がましだという現実的な判断だったのでしょうが、裏切られた幕府方にとってはたまったものではありません。

 それでも山崎方面ではまだ幕府軍が粘っていました。山崎天王山の山頂に陣を構える伊勢津藩藤堂家にひそかに朝廷の使者が訪れます。すると津藩は一夜にして寝返り、大砲の砲門を南に向きかえそれまで味方だった幕府方に砲弾を撃ち込み始めました。最悪の裏切り行為です。消極的寝返りの淀藩より、積極的裏切りの津藩に対する世間の印象は最悪だったのでしょう。藩祖藤堂高虎まで裏切者の代名詞として罵られるようになります。子孫の裏切り行為で自分まで悪く言われたのですから高虎は草葉の陰でさぞ怒っていることでしょう。

 徳川慶喜としては、此処で負けても大坂城に籠城して戦えば勝機はあったと思います。しかし勤皇思想を幼少期から叩き込まれた慶喜にとって朝敵になったという衝撃は計り知れないものがありました。籠城を叫ぶ幕府方将兵を見捨て密かに大坂城を脱出します。その際責任が自分だけに及ぶことを避けたかったのか、前京都守護松平容保、前京都所司代松平定敬の兄弟も伴いました。最初容保は脱出を拒否したそうですが、慶喜に懇願され仕方なく従います。この時も、神保修理は主君に家臣を見捨てて逃亡することを諫めたそうですが容保は聞き入れませんでした。

 総大将に見捨てられた大坂城の兵士は哀れでした。各藩ごとに自分たちの国元へ脱出していきます。会津藩も例外ではありませんでした。江戸に集結した会津藩兵は主君容保に不満をぶつけます。藩上層部は容保を守るため側近の神保修理にすべての責任を押し付け切腹を命じました。修理と親交のあった勝海舟は何とか救い出そうとしますがこれが裏目に出ます。会津藩抗戦派の怒りが増幅しついに修理はすべての責任を負って自刃しました。歴史にIFは禁物ですが、もし神保修理が生きていたらその後の悲惨な会津戦争は避けられたかもしれません。その前に容保が自身の責任を認め藩主の座から降り慶喜同様謹慎していたら…。

 すべては後の祭りですが、会津藩はこの後坂道を転げ落ちるように転落の道を歩みます。次回は奥羽越列藩同盟の成立について語りましょう。

2024年7月26日 (金)

会津戦争3 『長州征伐と薩長同盟』

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 八月十八日の政変に敗れ京都を追われた長州藩では、高杉晋作が身分に関わらず広く人材を集め奇兵隊を創設、表向きは幕府に恭順を装いながら来るべき反抗の準備を進めます。また久坂玄瑞、桂小五郎らは密かに京都に潜入し、長州派の公家と連絡を取り合っていました。

 1864年8月、長州藩家老福原越後、益田右衛門介、国司信濃らに率いられた長州藩兵千数百名が京都に入ります。彼らは「藩主の冤罪を天皇に訴える」と称し御所に迫りました。蛤御門は会津藩が守っていましたが、御所に入れろ入れないで押し問答になり長州兵が強行突破しようとしたことから戦闘になりました。御所周辺の各所で長州兵と幕府方が戦闘に突入、多勢に無勢で長州兵は敗れ敗走します。絶望した久坂玄瑞は自害、桂小五郎は行方をくらましました。

 容保は、御所を守った功績で孝明天皇より御宸翰(ごしんかん 天皇直筆の文書)を賜りました。これは容保の功績をたたえるとともに今後も皇室を守るよう願った内容でした。感激した容保は御宸翰を大切に保管し生涯誰にも見せなかったそうです。

 さて長州藩の暴挙は幕府を怒らせました。幕府は孝明天皇を動かし長州征討の勅命を賜ります。最初征討総督には松平容保が推されたそうです。しかし孝明天皇は容保が京都を離れるのを好まれず沙汰止みになります。結局征長総督には尾張藩前藩主徳川慶勝が任命されました。動員された兵力は35藩15万人にも及び1864年11月には長州国境に展開します。

 長州藩では、幕府の大軍を見て動揺が起こり恭順派の椋梨藤太らが実権を握りました。禁門の変の責任者として福原ら三家老、四参謀を斬り首を差し出します。高杉ら勤皇派を粛清しようとしますが、肝心の高杉は蓄電しました。征長軍側でも参謀の薩摩藩西郷吉之助(隆盛)らが武力討伐に反対したため長州藩の恭順を受け入れ撤退しました。これが第1次長州征討です。

 ところが、長州藩内では椋梨に解散を命じられた奇兵隊など諸隊が反発、高杉晋作は奇兵隊らを説得し下関功山寺で挙兵しました。1864年12月の事です。功山寺決起はわずか84名でしたが、負ければ命がないので必死に戦います。椋梨率いる俗論派は討伐軍を送りますが、戦意に欠けクーデター軍に次々と敗退しました。

 戦は勢いと言いますが、あっという間に高杉率いるクーデター軍は萩城を掌握、椋梨ら俗論派を処刑し藩の実権を握ります。ここに但馬に潜伏していた桂小五郎が帰還、長州藩は藩を挙げて幕府との戦いを決意しました。桂は軍学者村田蔵六(大村益次郎)を抜擢し長州軍の全権を任せます。

 また土佐浪人坂本龍馬率いる亀山社中を通じてミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入、厳しい軍事訓練を施し来る日に備えました。一方薩摩藩では、このままいくと幕府が復権してしまうとの危機感から密かに長州藩に接近します。

 孤立無援だった長州藩も、恨みを忘れ実利のために薩長同盟を結びました。この動きは極秘に行われたため会津藩は最後まで気づかなかったそうです。1866年1月、幕府の要求をのらりくらりと躱す長州藩に幕府は業を煮やし第2次長州征討が決まりました。しかし、第1次の征長総督だった尾張徳川慶勝は総督就任を拒否します。幕府は仕方なく山陰道石州口の総督を紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)、九州小倉口を老中小笠原長行(ながみち)など各方面を分担して担当させることになりました。

 迎え撃つ長州藩ですが、蘭方医で西洋の技術にも明るい村田蔵六は稀有の存在でした。彼を見出した桂小五郎の慧眼だったとも言えます。西洋の兵学書を読み込み戦術や軍事技術を熟知した村田は、最新式の装備をそろえ近代軍隊の教練を長州軍に施します。これに対し幕府軍は、幕府歩兵隊こそ最新鋭の装備を持っていましたが、大半の藩が火縄銃など戦国時代さながらの装備で、発射機構をマッチロック式からフリントロック式(燧石式)やパーカッションロック式(雷管式)に改めだけのゲベール銃を最新式と有難がる始末でした。

 長州軍が主力小銃として使ったミニエー銃は、同じ前装式ながら銃身にライフリングが施されており椎実弾を発射しました。ゲベール銃に比べ有効射程で5倍近く(100mに対し500m)、命中率も段違いです。

 最新式の装備に最新の西洋の軍事思想、運用を叩きこまれた長州軍と幕府軍では勝負が見えていました。当時長州軍の兵力は4000人から7000人くらいだったと言われますが、戦意の低い幕府軍12万人を圧倒したのはこのような差があったからでした。

 第2次長州征討は7月20日14代将軍家茂が大坂城で病没したことで有耶無耶になります。この戦いの敗北でこれまで従っていた各藩は幕府を見限りました。小倉口で戦っていた肥後藩、福岡藩など勝手に撤兵する藩が続出します。そしてこれを幕府は咎めることもできませんでした。

 薩摩藩は、薩長同盟に従い長州征討を妨害するとともに密かに朝廷を動かし長州藩の朝敵撤回の運動を始めます。徳川15代、最後の将軍に就任したのは一橋慶喜でした。徳川幕府の運命、そして京都守護職松平容保と会津藩の運命はどうなるのでしょうか?次回、鳥羽伏見の戦いを描きます。

 

 

2024年7月25日 (木)

会津戦争2 『薩会同盟と新選組』

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 容保の京都守護職就任当時、京では浪士による騒擾が激しさを増していました。不逞浪士の逮捕は京都町奉行所の役目でしたが、あまりにも数が多く手に負えないため会津藩士が出動するケースが増えていました。容保は藩士に不浄の役目をさせるに忍びず、悩みます。

 そんな中、幕府が募集した京都治安維持を役目とする浪士団がありました。浪士団を率いる清河八郎は京都に着くやいなや浪士を集め、この浪士団の真意は徳川を守るにあらず尊王攘夷にあると暴露します。ところがそれに反発した浪士が多く浪士団は宙に浮きます。

 その中で、本来の役割である徳川家を守り京都の治安維持をすべきだと主張した30名ほどの浪士がいました。彼らは芹沢鴨、近藤勇などに率いられます。会津藩は渡りに船とばかりに、この浪士団を抱え込み会津藩預かり新選組を結成しました。

 新選組は、内部抗争から首領の芹沢鴨を粛清し新たに近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新体制に生まれ変わります。彼らの活躍は1864年の池田屋事件で発揮されました。そんな会津藩に接近してきた藩があります。薩摩藩です。長州藩に京都政界の主導権を握られていた薩摩藩は起死回生を目論み会津藩に近づいたのです。会津藩としても西国雄藩の薩摩藩との連携は願ってもない申し出でした。

 会津藩公用方秋月悌二郎が薩摩藩の高崎正風らと接触、薩会同盟の骨子が決まります。ここに一人の人物がいます。会津藩家老神保内蔵助の長男で容保の上洛に同行し会津藩公用方(外交官)に就任していた神保修理です。藩校日新館では秀才とうたわれ軍学者として名高かった井上丘隅(おかずみ)の次女雪子を妻とします。藩主容保の信頼も厚く側近として京都でも補佐をしていました。

 神保修理は開明的な人物で、京都でも各藩の要人と交際します。彼も心中では容保の京都守護職就任に反対で、なんとかして役を辞し会津に帰還することを願っていました。長州藩は攘夷派の公卿と結託し天皇の大和行幸を画策します。これは大和で討幕の狼煙を上げる陰謀でした。

 事件の真相を知った容保は驚愕し薩摩藩に連絡します。薩摩藩は薩摩系の皇族中川宮に奏請し天皇の大和行幸を中止させました。孝明天皇を動かし「奸臣(長州や攘夷派公卿のこと)を除くように」という勅命を賜りました。感激した容保は、薩摩藩、鳥取藩、備前藩、米沢藩、阿波藩の五藩と協力し御所の九つの門を2000名の兵士で固めます。

 一夜明け、真相を知った長州藩は藩士や浪士たちを集め抗議のために朝廷に詰め寄りますが、多勢に無勢、京都から撤退します。この時三条実美ら長州派の七卿を伴いました。これを八月十八日の政変と呼びます。

 京都政界を叩き出された長州藩の恨みは会津藩に向けられます。これが会津藩苦難の始まりになったことは、容保はじめ会津藩の誰も気づきませんでした。ただ長州藩もこの後苦難の時期が続くのです。

2024年7月24日 (水)

会津戦争1 『京都守護職』

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 江戸時代、美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)に高須藩3万石がありました。徳川御三家筆頭、尾張藩徳川家の支藩で尾張徳川宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役目を帯びていました。いわば徳川将軍家に対する御三家の役割の尾張徳川家版が美濃高須藩です。

 そんな高須藩松平家10代藩主松平義建(よしたつ)は子だくさんで10人の男子がいました。そのうち長男と末子の九男は早世しますが、次男慶勝は本来の役割通り尾張藩徳川家に養子に入り14代藩主となります。三男武成(たけしげ)は石見国浜田藩を継ぎ、五男茂栄(もちはる)は御三卿一橋大納言家の後継ぎとなりました。

 六男容保(かたもり)は会津藩松平家に養子に出され9代藩主を継ぎます。また七男定敬(さだあき)も伊勢桑名藩松平家を継承します。高須藩松平義建の子供たちが、戊辰戦争で敵味方に分かれ戦うのは悲劇でもあり歴史の皮肉でした。結局高須藩を継いだのは家に残った10男義勇(よしたけ)です。

 容保は幼少期から利発で将来を嘱望されていたそうですが、会津藩松平家は徳川将軍家第一の家で尚武の気風でしたから、14歳で養子に入った容保は藩祖保科正之が残した家訓を刻み込まれたそうです。養子として立場の弱い容保からしたら仕方ないことだったのでしょう。

 当時の日本は1853年のペリー来航から始まり安政の大獄、将軍継嗣問題、尊王攘夷運動の激化など動乱の時代を迎えていました。尊王攘夷の急先鋒長州藩は攘夷派公卿の三条実美(さねとみ)などを抱き込み幕府に攘夷決行を迫ります。しかし、そんなことをしたら欧米列強と大戦争になり幕府滅亡、日本植民地化の危険性がありました。

 京都には、一旗組の浪士たちが集まり要人暗殺、押し込み強盗など暴虐の限りを尽くします。幕府は、これまでの京都所司代体制では都を守り切れないと悟り、新たに京都所司代や大阪城代を管轄し京都の治安維持を役目とする京都守護職を設けました。

 本来なら、京都に近く実力もある御三家の尾張藩や紀州藩が就任すべき役職でしたが、誰も火中の栗を拾いたくないため就任依頼を断ります。御三家に次ぐ家格である越前松平家なども守護職就任を嫌ったため会津藩の松平容保に就任要請が来ました。

 もし守護職になったら尊王攘夷派の攻撃の的になり下手したら命も危なくなるので最初容保は就任を迷ったと言われます。国家老西郷頼母(たのも)、次席家老田中土佐なども会津から江戸に出てきて守護職就任を辞退するよう容保を説得しました。

 しかし幕府も強硬でどうしても容保に守護職就任してもらいたいと譲りません。一時は守護職候補で現在は幕府政治総裁職を務める越前福井藩主松平春嶽(慶永)は、容保に保科正之の家訓を持ち出して京都守護職就任を要請します。こうなると断れませんでした。

 自分は就任を断ったくせに嫌な役目を容保に押し付けた春嶽は狡猾だと思いますが、生真面目な容保は不本意ながらも受け入れざるを得なかったのでしょう。そしてそれが会津藩の悲劇の始まりでした。

 実は会津藩は、蝦夷警備を任され藩兵千人を蝦夷地に派遣していました。さらにペリー来航で三浦半島の警備も担当したため藩財政は火の車でした。西郷頼母もこれを理由に守護職就任を辞退すべきだと容保を説得したそうですが無駄に終わります。結局保科正之家訓の呪縛から逃れられない運命だったのでしょう。

 1862年(文久二年)12月、容保は会津藩士千人を率いて上洛します。京の市民は、整然と行進する会津藩兵を見て頼もしく思ったと伝えられます。容保は早速孝明天皇に拝謁し天杯と緋の御衣を賜りました。容保は感激し涕泣(有難く思って涙すること)したそうです。

 会津藩は黒谷金戒光明寺を本陣と定め京都の治安維持を開始しました。同時期桑名藩主で容保の実弟定敬も京都所司代に就任、兄弟で京都を守る役目を仰せつかります。

 

 次回は、会津藩の京都での活躍、新選組結成までを描きます。

2024年7月23日 (火)

会津戦争序章『会津藩の成り立ち』

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20240721-114341

 江戸期会津藩のあった会津地方は福島県の内陸部にありました。福島県の地勢は大きく3つに分かれます。すなわち奥羽山脈の西会津盆地を中心にした会津地方。奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた中通り。中通りは阿武隈川が中心を流れ主要幹線奥州街道が走っていることから仙道地方とも呼ばれました。阿武隈山地と太平洋に挟まれた地方を浜通りと呼びます。

 戦国時代には会津地方に割拠した蘆名氏が強大化し仙道地方の支配権をめぐって出羽米沢城主伊達氏と激しく争いました。一方浜通り北部には千葉一族の相馬氏が興り伊達氏と抗争します。戦国末期、伊達氏が蘆名氏を滅ぼし会津地方を併呑しますが、秀吉の欧州仕置きで伊達政宗はこれまで獲得した会津地方と仙道地方の大半を没収され、仙台に追いやられます。代わってこの地の支配者になったのは蒲生氏郷でした。

 会津地方を支配した蘆名氏は黒川城を本拠としますが、この地を若松と改めたのは蒲生氏郷でした。氏郷は黒川城を拡張し鶴ヶ城と名付けます。氏郷は会津92万石を領しますが1595年急死、代わって越後から上杉景勝が120万石で入部します。上杉氏の領地は浜通りを除く福島県の大半と、現在の山形県の米沢地方、庄内地方に及びました。その上杉氏も関ケ原敗戦で米沢30万石に減封、以後加藤氏(嘉明系)40万石の後、将軍家光の弟保科正之が23万石で会津藩に封じられます。

 会津藩松平家初代保科正之は家光の異母弟でした。2代将軍秀忠の御台所(正室)お江与の方は有名な浅井三姉妹の三女で大変嫉妬深い性格だったと伝えられます。秀忠が側室を設けるのを嫌い、秀忠がそんなお江与の束縛を逃れるため身分の低い侍女に産ませたのが正之でした。

 そのため、正之(幼名幸松丸)は存在を隠され信濃高遠藩主保科正光が預かり正光の子として養育されます。正之が異母兄の家光と初めて対面したのは、お江与の死後3年を経た1629年でした。1631年養父保科正光が死去したため、正之は信濃高遠藩3万石を継承し保科正之と名乗ります。家光は同母弟の忠長が秀忠、お江与の両親二人に溺愛され一時は三代将軍候補にもなったことから嫌いぬきました。一方、自分の地位を脅かす心配のない正之には愛情を示したそうです。

 保科正之は1636年出羽山形藩20万石に加増され1643年会津藩23万石に封じられます。以後保科松平家は幕末まで会津藩主を務めました。正之は徳川将軍家、特に家光の恩を忘れず子孫に「決して徳川将軍家を裏切るべからず」などの15か条の家訓(かきん)を残しました。これがのちの会津藩の運命を決めることになるのですから本当に歴史は分かりません。

 会津領は内高25万石以上あったそうですが、徳川御三家の水戸藩(当時25万石。のちに35万石になる)に遠慮して23万石に留めたとか。会津藩は藩祖保科正之の意向を受け、いざとなった時は徳川将軍家を助けるため尚武の気風を保ち続けます。そういう経緯から、幕末の危機の際幕府に頼られ矢面に立たされていくのです。

 

 次回、第1章では藩主松平容保の京都守護職就任と当時の会津藩や幕府の情勢について語ります。

2024年7月21日 (日)

アサシンクリードシャドウズ問題、笑い事では済まなくなってきました

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20240719-083629

 今ネット上で大問題になって炎上しているUBIソフトのアサシンクリードシャドウズ。たかがゲームとは言いながら最初はUBIソフトがこれを史実だと言い張り軽い炎上だけでした。当時は黒人である弥助を主人公に選んだことから、日本人差別、アジア人蔑視という問題だけがクローズアップされます。

 まともな歴史知識があれば弥助はアフリカ出身のただの従者で、キリスト教宣教師の奴隷として日本に連れてこられたのを信長が気に入られもらい受けた、言葉は悪いが珍獣扱いだった存在だったと理解しています。それを弥助は侍であり最強の戦士だとUBIがごり押ししたことに日本人のみならずアサクリシリーズをこれまで愛してきた世界中のファンが反発したのです。調べてみるとUBIの開発陣の中にゴリゴリのポリコレ活動家が入り込みゲームの本質を歪めたことが分かります。

 そしてUBIはこのゲームの監修に日大法学部准教授のトーマス・ロックリーという男を関わらせていることが発覚しました。このロックリーという男はとんでもない人物で、歴史の素人のくせに弥助が黒人侍であったというデマを本にして海外に紹介していたのです。そればかりかウィキペディアの弥助の頁を改竄したことが発覚し現在では海外版の弥助の頁が閲覧できなくなっているそうです。

 日本文化の根幹に関わり日本人蔑視の最悪の人種差別を行ったUBIは、さらに関ケ原鉄砲隊や日本の国宝などを無断使用し著作権侵害という別の問題も発生しています。またワンピースのゾロの刀も無断使用しこれも大問題になりつつあります。原作の尾田先生や集英社が訴えれば泥沼の法廷闘争にも発展しかねませんし、何より世界中のワンピースファンが怒っているそうです。

 トーマス・ロックリーは矛先が自分に向かいそうだと恐れたのかSNSを削除し逃亡を図っています。しかしまたまた燃料を投下してきました。彼は黒人奴隷を最初に使ったのは戦国時代の日本人だと言い始めたのです。これが史実に反することは日本人なら誰でも分かっています。

 世界史上最悪の人種差別である黒人奴隷は西洋の白人が始めたのにもかかわらず、この悪行の責任を日本人に擦り付けようとしているのですから許せません。もしこれが海外で真実として認識されたら第2の慰安婦問題として何十年にもわたって日本人を苦しめるでしょう。そんな極悪人を日本大学はいつまで雇うつもりなんでしょうか?日本人なら日大に抗議の声を上げるべきです。

 トーマス・ロックリーのような悪辣な人間は日本から永久追放すべきだと思いますよ。もうたかがゲームと笑い話で済ませる段階を超えました。日本人の魂、日本文化の根幹を揺るがしかねない大問題に発展したのです。ただ、アサクリシャドウズ問題に言及している政治家はNHK党の浜田聡議員のみ。他の政治家はいったい何をしているんだと呆れ果てます。

 私はNHK党も立花孝志党首も認めていませんが、浜田議員だけは日本に必要な存在だと思います。彼だけがアサクリシャドウズ問題の危険性に気付いているんですから。日本政府はこの謂れなき誹謗中傷にきちんとした対処をしないと第2の慰安婦問題として日本を苦しめることになりますよ。最低でもトーマス・ロックリーの日本追放、UBIに日本人差別、文化盗用を止めさせないと駄目です。そもそもこんな大問題を抱えながらUBIは本当にアサクリシャドウズを発売する気ですかね?

 呆れてものも言えないとはこの事ですよ。皆さんはアサクリシャドウズ問題、特に日本が最初に黒人奴隷を使ったという最悪のデマ、どのような感想を抱かれましたか?

 

 

追伸:

 ABEMAプライムが既存メディアではじめてアサクリシャドウズ問題を取り上げましたが、酷かったですね。UBIからお金を貰って火消しをしたのかと疑うくらい。特に茂木健一郎の論点ずらしは見ていて醜悪でした。アサクリ問題に詳しい一般人(ユーチューバー?)を呼んでいましたが、主演者全員でよってたかって袋叩きにしていた印象です。しかし、逆に炎上を加速させただけに終わり、火消しには完全に失敗した模様。さすがマスゴミですよ。

2024年7月19日 (金)

反日左翼に人の心は無い

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20240717-000255

 テロはいけない、しかし…というイエスバット論法は反日左翼マスゴミの得意技です。安倍さん暗殺の時も、似たような言説で事件の本質をずらしテロリスト山上の境遇に同情し統一教会が悪いと世論を歪めました。その結果、暗殺事件の真相は未だに分かっていません。おそらく永久に分からないのでしょう。もちろん何度も言ってきましたが統一教会のような反日邪教は一刻も早く叩き潰さなければなりません。しかしそれと安倍さん暗殺事件は直接関係ない。

 そして今回のトランプ前大統領暗殺未遂事件、犯人とされる男の写真が出てきたとき、いじめられっ子みたいな見た目をしていたことから、テロリスト同情論が出てくるだろうと思っていましたが、早かったですね。ただアメリカの健全なところは、犯人を擁護し「次にトランプを狙うテロリストは射撃訓練をしっかりやってもっと上手くやれ」とネットで発言した民主党議員の女性スタッフを即刻解雇したことです。さすがの民主党もこれは擁護できないと思ったのでしょう。

 一方日本では「安倍さんが殺されて良かった」「山上様様」などと暴言を吐いた政治家、文化人、学者などが一切処分もされず今も世間にのさばっています。その典型は変質者前川助平であり漫画家の石坂啓であり学者の宮台真司です。中央大学の某とかいう教授もいましたな。小物すぎて名前も忘れましたが。安倍さん暗殺を喜んだ立憲か共産の都議もいました。五十嵐なんとかという女ですよ。

 日頃人権人権とほざいているマスゴミは、こんな悪人どもを完全にスルーして報道しない自由を駆使していますよね。テロリズムは民主主義の根幹を揺るがす暴挙であり、その被害者(安倍さん)を死後も冒涜し続けることのどこに正義があるんでしょうか?トランプ暗殺未遂事件も、犯人の家庭の事情などどうでも良い。ただのテロリストとして報じるだけにすべきでしょう。

 アメリカで大統領が暗殺されたり暗殺未遂事件が起こったのは、民主党のケネディ大統領を除いてすべてが共和党の大統領だったそうですね。左翼のほうが暴力的で目的のためには手段を選ばない傾向があるんでしょう。そういえば日本の反日左翼も似ています。性質が悪いのはアメリカのマスゴミは民主党側、日本のマスゴミは立憲共産党側だという事です。ですから日本の国益を守り抜いた安倍さんを蛇蝎のごとく嫌うのでしょう。蛇蝎はむしろマスゴミと反日左翼の方だと思いますがね。

 TBSのサンモニで膳場貴子が事件を非難せずこれでトランプが有利になるだろうと暴言を吐いたそうですが、これに何の処分も下さなかったらTBSも同罪ですよ。おそらくスルーするでしょうが。ネットで大炎上したことを受けて膳場は釈明のコメントをしたそうですが、一切謝罪せず言い訳を繰り返しさらに炎上しているようですね。

 安倍さん暗殺事件を招いたのが日本のマスゴミなら、トランプ暗殺未遂事件を招いたのはアメリカのマスゴミでしょう。日米ともにマスゴミは本当に腐っていると思います。朝日新聞は赤報隊を非難できませんな。朝日の論法なら赤報隊にも襲撃したやむを得ない事情があったんでしょうから(棒)。もっともこの前紹介した『暗殺』みたいに、実際に赤報隊が襲撃したかどうかは分かりません。赤報隊を騙る別の組織だったかもしれませんから。

 一連の事件報道を見て、日頃綺麗事ばかりほざいているマスゴミの正体を改めて見せられたようで本当に気分が悪いです。皆さんは暗殺未遂犯に同情的な日米の報道、どのような感想を持ちましたか?

2024年7月17日 (水)

奥羽越列藩同盟諸藩の事情

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 最近また戊辰戦争に興味を持ち『会津戦争のすべて』という文庫本を買いました。まだ手を付けてないんですが読了したら記事にするかもしれません。それはともかく、幕府に殉じ最初から薩長と敵対していた会津藩、庄内藩はともかくとして仙台藩、米沢藩はじめ他の藩はどういった動機で明治新政府と敵対したのか興味を覚えました。あくまで私見で史実とは違うかもしれませんが、各藩の事情を探りたいと思います。

 

【仙台藩】

 表高62万石の東北一の大藩。藩祖伊達政宗以来外様の最有力大名家の一つだったが、西洋の事情に疎いことから明治維新に乗り遅れ、幕府を倒し国政を壟断する(と仙台藩は勝手に思っていた)薩長の新政府に対する反感から奥羽越列藩同盟の盟主になった。実は奥羽戦争のきっかけになった奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵殺害の原因である奥羽を侮辱する手紙は最近の研究では仙台藩が作った偽手紙ではなかったかとも言われるが真相は不明。大藩であることを笠に着て、嫌々参加していた小藩を蔑ろにする行為が目立ち味方からも嫌われた。厳しい言い方かもしれないが、仙台藩の横柄な態度が列藩同盟の敗北を早めたともいえる。

 

【米沢藩】

 上杉家は関ヶ原の後120万石から30万石に減らされ、さらに後継ぎ問題で揉めて15万石にまで減封されていたので、どうして列藩同盟の盟主になったか本当に疑問。徳川家には恨みこそあれ恩など全く感じなかっただろうに。幕末時の藩主は12代斉憲だが、彼が佐幕派で幕府にも大事にされ幕末期19万石に加増された恩を感じていたのかも?そんなことで巻き込まれた藩士はたまったものではなかったと思う。

 

【久保田(秋田)藩】

 こちらも藩主佐竹家は常陸52万石から関ヶ原敗戦後出羽久保田21万石に減俸されていたから徳川家に恩は感じていなかった模様。藩内も勤皇派と佐幕派で争うが、平田篤胤の薫陶を受けた勤皇派が優勢で、嫌々列藩同盟に参加させられるも、奥羽鎮撫総督府一行が藩内に逃げ込んだことから同盟脱退、勤皇派に転じた。というより藩主佐竹義堯(よしたか)は最初から勤皇派で藩兵を率いて新政府軍に参加していたため藩主不在の状態だったとも言われる。同盟脱退は良いとしても、説得に来ていた仙台藩の使者を惨殺したことから同盟側の怒りを買い庄内藩、仙台藩、盛岡藩などから袋叩きに遭い滅亡寸前にまでなる。 新政府軍の援軍でようやく持ちこたえ藩の滅亡は免れたが、大きな被害を受け戦後復興に苦しんだ。

 

【弘前藩】

 藩祖津軽為信以来、生き残り戦術にかけては右に出る者がいないくらい要領が良い藩。最初は列藩同盟に参加するも諸般の情勢を分析し新政府側が有利で列藩同盟側に未来がなさそうだと悟るとあっさりと寝返った。私は裏切りよりも生き残り戦術に長けた者が好きなので、弘前藩津軽家も嫌いではない。戦国以来の宿敵盛岡藩の侵攻も撃退し戦後は恩賞として新政府より1万石の加増を受けた。久保田藩と比べると被害も少なく一番立ち回りが見事だったと言える。

 

【三春藩】

 戊辰戦争の裏切りで仙台藩からは蛇蝎のごとく嫌われるが、5万石の小藩に何ができただろうか?もともと藩主秋田(安東)家は出羽秋田城主。それが関ヶ原後の外様大名の大移動で南陸奥の三春に移されただけで徳川家に恩など感じていなかったと思う。小藩の悲しさで最初は周囲から攻められるのを恐れ嫌々列藩同盟に参加していたので、新政府軍が迫ってくると本来の希望通り寝返っただけだと思う。そもそも三春藩に対し横柄な振る舞いをしていたのは仙台藩の方で、怨むのはお門違いだと言える。

 

【二本松藩】

 これも藩主丹羽家は外様で徳川家に恩など感じていないはずだが、奥羽戦争では積極的に戦い二本松少年隊の悲劇を生む。真面目なところは要領より義を選びがちなので、結局は損をするという典型。弘前藩とは好対照。

 

【下手渡(しもてど)藩】

 藩主立花家は九州筑後柳河藩立花家の分家。外様とは言いながら1万石の小藩で若年寄など幕閣も勤めた家。心情的には勤皇派だったが、周囲が佐幕派なので攻められるのを恐れ嫌々列藩同盟に参加。しかし内々に新政府側と連絡を取っていたことが発覚し、仙台藩の怒りを買い攻撃される。これを救ったのは新政府軍に参加していた本家柳河藩兵で陣屋は落とされたものの何とか命脈は保った。小藩は生き残るために嫌々列藩同盟に参加した藩が多かったように思う。

 

 このように奥羽越列藩同盟は決して一枚岩ではなかったように思います。負けるべくした負けたのでしょう。同じ負けるにしても仙台藩など大藩がもう少し謙虚だったら小藩の早くからの裏切りはなかったと思うんですよ。勝手に他藩から兵糧を挑発したり、戦闘で負けそうになると小藩の兵を置き去りにして逃げたりしたら恨みを買うのは当然です。新政府側も暴虐行為はあったでしょうが、こちらは勝ち組なので不問にされただけでした。

2024年7月15日 (月)

安倍元総理暗殺事件とトランプ暗殺未遂事件の違い

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 2024年7月14日(現地時間で7月13日)、演説中のトランプ前大統領をテロリストが銃撃した暗殺未遂事件は世界に衝撃を与えたと思います。この事件を安倍さん暗殺事件と似ていると言っている人が多いですが、私は似て非なるものだと思います。この事件に関連して元陸上自衛隊レンジャー部隊隊員の方がYOUTUBEに動画を上げていらしたんですが、私も全く同感でした。

 彼が言うには、アメリカの警備は要人が撃たれることを前提にして動いているそうです。アメリカのシークレットサービスは6000人規模で日本とは桁違い。しかも日本の場合、総理など要人は例外かもしれませんが、ほとんどの場合一般の警察官が警備にあたっています。

 ですから、対テロ訓練も行っていない日本の警察はいざというとき敏速に動けないし警備者本人も「まさかここで銃撃事件は起こらないだろう」と油断しきっているそうです。一方、アメリカは警備のプロ(シークレットサービス)が最大限の警戒を行っているので、発砲音が聞こえたと同時に要人を庇い盾になるし、別の部隊は発射した犯人を即座に発見して拘束したり緊急時には射殺するそうです。また要人が撃たれた時の対処法も徹底的にマニュアル化され救急車も即座に呼べるし場合によってはドクターヘリを呼ぶケースも想定されています。テロリストが複数犯の可能性も想定し、防弾を施された大統領専用車で運ぶのが一般的なんでしょうが。

 今回のトランプ氏暗殺未遂事件でもシークレットサービスは即座に動いていましたよね。これを安倍さんの事件と比べたとき、日本の警察のあまりのお粗末な動きに呆れ果てました。昔レーガン大統領がテロリストに銃撃された時の動画を見たことがあるのですが、あの時もシークレットサービスの動きは見事でした。あれが日本ならレーガン大統領は確実に殺されていたでしょう。

 銃社会で警察も常に緊張状態で動いているアメリカと違い、いかに日本が平和ボケか分かります。おそらく安倍さん暗殺事件の後も政府や警察は警備体制を抜本的に変えたという話を聞いたことがありません。緊急時のマニュアルくらいは作成したでしょうが、警察の特殊部隊が警護に当たるなどという話は聞いたことがありません。

 元陸自レンジャーの人は、警察で警備できなければ陸自の特殊作戦群などから抜擢してシークレットサービス相当の部隊を作るべきではないかと指摘していました。もちろんライフルで武装し、いつでもテロリストを射殺できる態勢であることは言うまでもありません。そうするには法改正も必要でしょうが、岸田政権にそういった危機感は全く見えません。テロリズムは民主主義の根幹を揺るがす暴挙です。絶対に許してはいけないし、テロリストに関しては射殺も視野に入れて警備をすべきではないでしょうか?

 私はトランプさんを即座に守ったシークレットサービスの迅速な動き、事の是非はともかくとして犯人を即座に射殺した判断は正しかったと思いますね。山上もあの時射殺していれば現在の政治の混迷も無かったような気がするんですよ。そもそも安倍さん暗殺と直接関係ない統一教会問題ばかり報じたマスゴミは異常です。だから陰謀論が入り込む余地があるんです。

 その統一教会ですらいまだに潰せないのはどういうことか?呆れ果てます。統一教会のような邪教は有無を言わさず潰すべきでしょう。安倍さんとは関係なく。統一教会は韓国そのものなんですから、韓国との断交もすべきだと思いますよ。ネット上で壺壺騒いでいる連中は、在日なんでしょうか?あまりに騒ぐと自分たちの祖国である韓国へ対する日本人の憎悪が激しくなるのに気付いていなさそうですね。馬鹿ですから。

 ともかく平和ボケ日本と常に銃の危険性を認識しているアメリカの要人警護の違いが今回のトランプ暗殺未遂事件で浮き彫りになりました。皆さんは日本の要人警護、どのようにすべきだと思われますか?

2024年7月13日 (土)

ドイツF126型フリゲートに関する個人的感想

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F126

 あまり興味のない方が多いとは思いますが、個人的に気になっていたので記事にしてみました。

 ドイツ海軍の前級バーデン・ヴュルテンベルク級フリゲートは私に言わせると明らかな失敗作でした。対空兵装が近接防空のSeaRAM×2基しかなく7300トンの艦体にしては中途半端な性能しかなかったと思います。ドイツ海軍は海外派遣もにらんで非対称戦争、戦争以外の軍事作戦を重視してバーデン・ヴュルテンベルク級を開発したそうですが、ロシアのウクライナ侵略で国際情勢が緊迫化した今無用の長物になったというのが私の感想です。

 この反省から次のF126型フリゲートでようやくMk.41VLS(垂直発射装置)が採用されました。満載排水量10550トン、最大速力26ノットで127㎜単装砲×1基、NSM艦対艦ミサイル4連装発射筒×2基、Mk.41VLS×64基搭載します。ただ他の資料ではVLSがたったの16セルという話もありはっきりしません。

 1万トンなら昔で言うなら重巡洋艦クラスですよ。現代ではミサイル駆逐艦がそれくらいの排水量になっているんですが、さすがにこれをフリゲートと言うのは無理があるような気がします。VLSには個艦防空のESSM(発展型シースパロー)が1セルにつき4発積めるので、16×4で64基と誤記された可能性もあります。

 ドイツは陸軍国なので海軍にはあまり力を入れていないのかもしれませんが、1万トンでVLSがたったの16基というのはあり得ません。日本のもがみ型FFMは5500トンでVLS16セルですよ。ですから64セルという資料を信じたいです。本来ならもがみ型もVLSは24セルとか32セル欲しいくらいなのに。ちなみにF126型は就役したらニーダーザクセン級と名付けられる予定です。

 ドイツ海軍は長期の海外派遣を視野に入れており、艦艇も戦闘能力より居住性重視だと言われますが、本末転倒も甚だしいと思いますよ。日本とは別の意味で平和ボケなんですかね?ドイツはNATOの一員でありドイツ海軍の任務もバルト海限定になっているなら中途半端な性能でも良いのかもしれませんが…。

 F126型フリゲートは2028年1番艦(ニーダーザクセン)が就役し6隻が建造予定です。就役したらVLSの数もはっきりすると思うんですが、建造費2000億円もするそうですから、中途半端な性能だと税金の無駄遣いだとドイツ国民から糾弾されますよ。日本もドイツを反面教師にしてまともな防衛力を整備してほしいですね。

 

 

追伸:

 上の画像が実際の艦だとするとVLSのスペースがあまり取れなさそうな気はします。やはり16セルが本当なのかな?というかSesRAMが邪魔なんだよ。艦体前方のSeaRAMを廃止してVLSのスペースを広げた方が良かったと思うんですよ。ESSMがあるから近接防空のSeaRAMは1基で十分だと個人的には思います。まあ今更手遅れかもしれませんが…。

 

追伸2:

 海外ウィキを見ると2×8セルと書いてあるから16セルが正解っぽいです。

 

2024年7月11日 (木)

岸田政権、外務省が毅然たる態度をとっていればこんな事にはなっていなかった

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20240711-085951

 自分の引用ポストで記事を書くのもなんですが、ようやく警察も本腰を入れてきたようですね。例の反日シナ人による靖国神社放尿落書き事件ですよ。事件発生から1か月半。一番の問題は主犯の男を逮捕もできずシナ本国への逃亡を許したことです。一説では岸田政権が国際問題になることを恐れわざと逃がしたとも言われます。

 ところが、日本人の魂のよりどころである靖国神社を汚されたことに怒った国民の声を受け、今頃になって申し訳程度に動き出したという見方もあります。結局国外逃亡した主犯を捕まえることはできないでしょう。本来なら国際指名手配してシナ共産党政府に犯人の引き渡しを要求すべきです。おそらくシナとは犯人引き渡し条約(現状はアメリカ、韓国のみ)を結んでいないので実現はしないでしょうが、日本政府は毅然たる態度をとるべきだと思いますよ。

 そもそも岸田総理に国家観も国防意識もプライドも無いからこんなことになっているんです。私利私欲で自分がいかに長く総理の座にしがみついているかだけに熱心な屑にまともな外交はできないのでしょう。そして外務大臣の上川陽子も酷い。国会答弁も外務官僚から渡されたペーパーを棒読みするだけ。ちょっと突っ込んだ質問をされると右往左往してまともな答弁もできません。ここまで酷い外務大臣は最近ではちょっと記憶にありません。

 林芳正、茂木敏充、河野太郎、岸田文雄もかなり酷い外務大臣でしたが、上川は群を抜いて最低です。記憶をたどってみると田中真紀子と別の意味で同じくらい最低の外務大臣だとすら思えます。こんな女が次期総理と持て囃された時期もあったんですから、日本の政治は本当に終わっていますね。

 その上川を起用したのは岸田。すべての責任は岸田本人に返ってくるんです。最初国際問題に発展することを恐れ靖国侮辱犯をわざと逃亡させ、国民の怒りの声を受けて今頃になってアリバイ工作のように動き出す。何もかもがちぐはぐで話になりません。それでも全く動かないよりはまし。

 岸田総理には、シナに犯人引き渡し要求をしてほしいですね。国民は見ていますよ。それすらできないなら総理大臣としての存在価値はありません。まあ私は絶対にしないと見ていますが。岸田総理を見限っていますから。皆さんは、靖国侮辱犯の引き渡し要求、岸田政権はすると思われますか?

 

 

2024年7月 9日 (火)

現代ドローン戦争と水上ドローンの可能性

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20240707-161627

 ウクライナ戦争は大砲で耕して歩兵が突っ込むという、あるいは塹壕を設けて持久戦をするという第1次大戦のような古い戦争形態に戻ったと言われます。一方バイラクタルTB2に代表されるような無人機やドローンによるハイテク戦闘の側面もある奇妙な戦争です。

 砲兵の砲撃にしても従来は観測員がやっていた仕事をドローンが行い、偵察・目標選定・射撃評価などすべてを担っています。ただ、開戦当初持て囃されていたバイラクタルTB2の名前を最近全く聞かなくなりました。それは混乱していたロシア軍の防空体制が元に戻りバイラクタルが活動できにくくなっているからです。

 安価な無人機とは言えバイラクタルTB2は6億円くらいします。潤沢な国防予算があるわけでないウクライナにとっては、バタバタと落とされたらかなりの打撃になります。という事で最近はより小型で手榴弾程度しか積めないドローンや、小型~中型で戦車の上面装甲を破壊できる程度の爆薬しか搭載できないドローンを多用しています。これはロシア軍も同様で、小型から中型のドローンが主に活躍しているそうです。

 ただ手榴弾程度の爆薬でも、小型ドローンは数万円なので敵兵士一人を倒せればコスト的にペイするそうです。兵士の命も随分安くなったものです。一方、水上ドローンには無限の可能性があると見ています。というのも見た目は完全にモーターボート。40ノット以上の高速で移動でき、航続距離も800㎞あります。搭載している弾頭重量が300㎏もあるので、敵艦船に直撃すれば魚雷並みの威力で一発轟沈も可能です。私の敬愛する軍学者兵頭二十八氏の言う「安心・安価・有用」な兵器が水上ドローンだと思うんですよ。

 水上ドローンの価格は分からなかったんですが、高くても1億円はしないと思います。数千万円程度か下手したら数百万くらいでできそう。これで何百億円もする敵艦船を沈められるのならこれほど良い話もありません。現代の魚雷はハイテク化し価格も高騰しているので、下手したら水上ドローンのほうが安価になっているかもしれません。いくら命中率が高く威力があっても魚雷の射程はせいぜい80㎞くらいです。その10倍以上の射程があり、しかも安価であれば水上ドローンは今後どんどん発展していく可能性があると思います。破壊されても人命は失わないので、値段分だけの損で済みますからね。

 日本が空中ドローンや水上ドローンに力を入れてくれれば良いのですが、平和ボケが酷いと世界の動きに取り残されていく危険性もあります。国民の命を守るためにも日本政府はウクライナ戦争を真剣に研究して必要な装備はどんどん取り入れるべきですね。

2024年7月 7日 (日)

チェンタウロⅡMGS

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20240707-092729

 1991年に配備開始されたイタリアのチェンタウロ戦闘偵察車は8輪で52口径105㎜砲搭載、最高速度108km/h、行動距離800㎞、重量26トンの装輪戦車でした。この種の車両はアメリカのM1128ストライカー機動砲、フランスのAMX-10RC、南アフリカのルーイカットなどがあります。イタリアの場合日本と国情が似ていて、長大な海岸線を守らなければいけないため、敵が上陸してきたとき主力戦車到着まで戦線を持ちこたえなければなりません。そこで機動的に動き、ある程度の対戦車戦闘も可能な車両の必要性が生じました。日本の16式機動戦闘車も同じ理由で採用されたと思います。

 一昔前なら主砲が76㎜など主力戦車よりは劣る火力しかありませんでしたが、最近の装輪戦車は105㎜ライフル砲という戦後第2世代戦車並みの主砲を備えたものが出てきました。とはいえ、軽い車体で戦車並みの主砲を撃つのですから反動が強く、発射した瞬間大きく車体が揺れます。ですから走行間射撃は緊急時のみで通常は停止してから発射するのだと思います。

 16式機動戦闘車のように走行間射撃でほとんど反動無く撃てる方が異常なのです。反動を押さえる工夫がなされているのか、演習時には火薬量を抑えた砲弾か空砲を撃っているのか分かりません。ご存じの方はご教授ください。

 それはともかく、2020年120㎜滑腔砲を搭載したチェンタウロⅡが登場しました。重量30トンに増えたのは120㎜の射撃に耐えうるよう構造を強化したのと、防御力を上げたのでしょう。とはいえ、これらの装輪戦車は前面装甲で20㎜機関砲の直撃に耐える程度、側面・背面で12.7㎜機関砲の直撃に耐える程度の防御力しかありません。チェンタウロⅡはIED(即席爆発装置)や地雷に対する防御力が向上したと言われます。追加装甲で40㎜弾までなら耐えうる防御力にもなるそうです。

 これでは敵主力戦車と正面から撃ちあうことはできないんですが、あくまで味方の主力戦車が到着するまでの時間稼ぎなのでしょう。チェンタウロⅡの射撃動画を見たんですが、30トンではさすがに120㎜滑腔砲の反動を押さえることは困難なようです。発射の瞬間大きく車体が揺れました。ただ装輪戦車は待ち伏せが基本で戦車同士の直接の撃ち合いは想定していないのでこれで良いのでしょう。

 攻撃力だけなら現用主力戦車並みの恐ろしい装輪戦車だと思います。チェンタウロⅡの優秀性に目を付けたブラジルは、早速2022年採用決定、98両調達予定だそうです。最終的には228両にもなると言われ、イタリア陸軍の96両を上回るユーザーになるかもしれません。では日本に120㎜滑腔砲搭載の装輪戦車が必要かと言えば、私は今の105㎜ライフル砲で十分だと思っています。あくまで主力戦車が到着するまでの時間稼ぎなので、敵上陸部隊と正面から撃ち合う必要はないと考えるんですよ。待ち伏せで側面や背面を攻撃するなら105㎜砲でも十分ですしね。敵戦車を正面から破壊したいなら各種対戦車ミサイルもありますから。

 ブラジルの場合、戦車がレオパルド1やM60A3なので戦車の代替としてチェンタウロⅡを採用したのでしょう。ブラジルは今のところ他国と戦争する可能性は低いですしね。局地的紛争程度ならチェンタウロⅡで十分だし120㎜滑腔砲の威力で十分な抑止力になると考えているのかもしれません。

 これからの世界の流れは、本格的な戦車と装輪戦車の二段構えになるのでしょう。

2024年7月 5日 (金)

米軍、三沢基地にF-35Aを配備決定

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米軍が三沢にF35A初配備へ 中朝露への抑止力強化で戦力向上、嘉手納の戦闘機も新型に


 実は米海兵隊岩国基地にはすでにSTOVL(短距離離陸垂直着陸)のF-35Bが配備されています。これだけでもロシアやシナにとってはかなりの抑止力になると思っていたんですが、米空軍も三沢基地の戦闘機をそれまでのF-16C/DからF-35Aに更新すると発表しました。

 しかも三沢のF-16部隊は36機定数ですから通常のSquadron(飛行隊)で18機定数×2個飛行隊でしたが、F-35A部隊は48機定数になるので大型Squadronで24機定数×2個飛行隊になりそうです。それだけでもアメリカの本気度が分かりますね。しかも嘉手納基地の装備機もF-15EXになるそうなので明らかに台湾有事に備えての事でしょう。

 嘉手納基地のF-15C/D部隊は退役が進み、F-22Aラプターのローテーション配備に変わると聞いた時私は不安でした。F-22は確かに世界最強のステルス戦闘機ですが、メンテナンスに非常に手間がかかりローテーション配備だと稼働率もかなり落ちるのではないかと心配していたんです。しかしここにきて常駐部隊が復活し、F-15EX装備になるという事は日本の防衛にとって朗報です。

 F-15EXはこれまで世界最強の戦闘攻撃機だったF-15Eストライクイーグルを大幅に改良した機体で、米空軍は旧式化した(とは言えまだまだ第一線で通用する)F-15C/D装備部隊の更新用に開発しました。F-15EXは兵装最大搭載量こそストライクイーグルの11トンから10トンとやや減っていますが、その分F-15C/Dに匹敵するかそれ以上の空戦能力を持っていると言われます。

 日本もF-15J/DJの更新用にぜひ欲しいと思っていたくらいです。一説ではアメリカは日本にF-15EXを売らない方針という話も聞きますが、韓国にF-15K(ストライクイーグルの韓国仕様)を売ったくらいですから、日本にも当然売るはずと個人的には思っています。今のところ米空軍の調達予定数が104機なので、日本が100機前後購入すれば調達価格も下がりウィンウィンだと思うんですがね。

 すでに巡航ミサイルトマホークすら購入しているんですから、戦闘爆撃機くらいなんともないでしょう。ペイロード10トンもあればJASSM-ERでもなんでも搭載できるのでシナもロシアも嫌でしょうね。これでシナが台湾進攻を諦めてくれればうれしいんですが、ロシアが国際法無視でウクライナに侵略したように専制独裁国家は何を考えているか分かりませんし、国際常識も通用しません。有事になれば被害を被る日本としてもシナがいつか侵略戦争を始めるという前提で備えなければならないと覚悟しています。

 それにしても三沢基地のF-35A配備、嘉手納基地常駐部隊復活でF-15EX配備は日本の防衛にとっても嬉しいニュースでした。

2024年7月 3日 (水)

F-16と聖域

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20240629-221743

 ベトナム戦争の時、米軍は北ベトナム勢力を叩くため大規模な北爆を実行しました。ところが戦争が拡大しソ連が介入して世界大戦に発展するのを恐れるあまり、最初は北ベトナムの空軍基地(ソ連の軍事顧問団がいた)を攻撃対象から外したり、明らかに陸路シナから武器弾薬が運ばれているのにシナ本土への爆撃は避けました。その上、北ベトナム軍やベトコン(南ベトナム民族解放戦線)は米軍との戦闘で消耗するとカンボジアやラオス領内に入り勢力を回復、再びベトナムに戻って戦います。ホーチミンルートもラオスやカンボジアの領内を通っていました。

 これを当時聖域と呼びます。さすがに米軍も腹に据えかねたのかカンボジア侵攻という暴挙を犯しましたが、米政府の腰が引けた戦争指導により結局南ベトナムを見捨て撤退することとなるのです。

 一方、ソ連も聖域に苦しめられた経験があります。ソ連崩壊の一因にもなったアフガニスタン侵攻です。アフガンゲリラはソ連軍との戦闘で大きな損害を受けるとパキスタン領内に逃げ込んで勢力を回復しました。さすがにソ連もパキスタン領に越境攻撃するわけにはいかないので、これが聖域となっていつまでもアフガンゲリラを根絶できなかったのです。

 そしてウクライナ戦争でもどうやらF-16の聖域ができそうです。ニュースソースは失念したんですが、たぶん乗り物ニュースだったと思います。今年の7月には西側供与のF-16戦闘機の第一陣が到着し作戦に参加すると言われています。最終的には80機前後のF-16が揃うそうですが、整備や修理はどうするのだろうかと疑問に思っていたんです。ウクライナ空軍の整備陣もソ連製戦闘機の整備は慣れているはずですが、西側戦闘機の整備ができるようになるには非常に長い時間がかかると見ていました。

 どうやらその問題は、ポーランドなどがF-16の整備・修理を引き受けることで解決しそうです。F-16は西側のベストセラー戦闘機なので運用しているポーランドは整備も慣れているはずだし、部品も豊富にあると思います。ウクライナ軍パイロットは、損傷したり修理が必要になったら国境を越えポーランドに来ればよいのですから楽です。そして整備や修理が終わって万全な状態でウクライナに戻れます。

 一方、ロシア側はF-16がウクライナ領内にいるうちに撃墜しなければいつまでもいたちごっこが続きます。もし業を煮やしてポーランド領に逃れたF-16を攻撃したらそれこそ第3次世界大戦です。ですから、不愉快でもポーランド領内への攻撃はできません。せいぜいNATOを非難するくらいでしょう。

 ソ連時代アフガン侵攻で聖域に苦しめられたのに、今度はロシアが聖域で再び苦しめられようとは、まさに歴史の皮肉ですね。ロシアは、アメリカ大統領選挙でトランプが勝つのを熱望していることでしょう。最悪アメリカの軍事援助が止まる可能性もあるのですから。という事でまだまだウクライナ戦争は予断を許しませんが、日本の国防のためにもロシアには負けてほしいですね。

2024年7月 2日 (火)

カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置

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20240627-205915

 誰もついてこれないマニアックな世界に入っていますが、私は一つのことに関心を持つとその関連情報も調べたくなる癖がありまして、只今のマイブームはシルクロードでございます。これを書いている最中にも懐かしのNHK特集『シルクロード』のテーマ曲(喜多郎 絲綢之路)が脳内を流れています(笑)。

 さて、ヤフーブログ時代私は貴種流離譚が大好きだと書いた記憶があります。高貴な出身の人物が国を追われ異郷で活躍したり失敗して非業の最期を迎えたりする話です。異郷での成功者は後ウマイヤ朝をイベリア半島に建国したアブドルラフマーン1世であり中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国した耶律大石でした。逆に運命に逆らえず寂しく没したのがササン朝最後の王子ぺーローズであり日本で言えば北条時行、足利直冬(ただふゆ)なのでしょう。彼らに関しては過去に記事を書いています。

 その中で、耶律大石がカラハン朝を滅ぼし首都にしたベラサグンの位置が謎だと書いた記憶があります。当時はイシククル湖畔か周辺の河川に面した場所ではないかと推定しました。ところが最近ネットで調べてみると、イシククル湖周辺ではなく湖の北、天山山脈の支流の北側、トクマクの南南東10㎞くらいにあるブラナ遺跡がベラサグンの跡ではないかと言われています。

 通常遊牧民族は王庭(単于庭)といって、要害の地に族長の大テントを中心に大小さまざまなテント群を設けて首都とします。これはいつでも移動できるようにすることと、緊急時には防衛しやすくするためです。通常は三方を山に囲まれ一方が開けた平野などに設けます。

 ところがブラナ遺跡は平野の真っただ中で周囲に要害となるような地形もなく本当に王庭があったのか疑問でした。ただカラハン朝時代からベラサグンは首都だったので、そこらへんに謎を解くカギがあるような気がします。カラハン朝もトルコ系遊牧民族が建てた国ですが、農耕民族を支配下に入れていたためテントではなく通常の都市を都としていたようなのです。

 実はシルクロードはイシククル湖ではなく山脈を隔てた北側を通っています。甘粛回廊の西端敦煌から西はタクラマカン砂漠が広がり、砂漠の南縁を通る西域南道と、北縁を通る西域北道に分かれます。西域北道も天山山脈の北を通る天山北路と南側を通る天山南路に分かれています。

 天山南路は5000m級のパミール高原を越えないといけないため、天山北路が主に使われました。その天山北路が通るのがまさにブラナ遺跡でありキルギスの首都ビシュケクも地方都市トクマクも天山北路沿いです。耶律大石は遊牧民族のセオリーである王庭方式ではなく、シルクロードの交易路を押さえ農耕民族を支配しやすいように都市を首都としたのかもしれません。

 そういえば、契丹族は北宋の北にあった遼時代も遊牧民を支配する北面官、農耕民を支配する南面官を設け巧みに統治していましたからね。西遼時代も似たような統治機構だったのでしょう。

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