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2024年7月 2日 (火)

カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置

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 誰もついてこれないマニアックな世界に入っていますが、私は一つのことに関心を持つとその関連情報も調べたくなる癖がありまして、只今のマイブームはシルクロードでございます。これを書いている最中にも懐かしのNHK特集『シルクロード』のテーマ曲(喜多郎 絲綢之路)が脳内を流れています(笑)。

 さて、ヤフーブログ時代私は貴種流離譚が大好きだと書いた記憶があります。高貴な出身の人物が国を追われ異郷で活躍したり失敗して非業の最期を迎えたりする話です。異郷での成功者は後ウマイヤ朝をイベリア半島に建国したアブドルラフマーン1世であり中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国した耶律大石でした。逆に運命に逆らえず寂しく没したのがササン朝最後の王子ぺーローズであり日本で言えば北条時行、足利直冬(ただふゆ)なのでしょう。彼らに関しては過去に記事を書いています。

 その中で、耶律大石がカラハン朝を滅ぼし首都にしたベラサグンの位置が謎だと書いた記憶があります。当時はイシククル湖畔か周辺の河川に面した場所ではないかと推定しました。ところが最近ネットで調べてみると、イシククル湖周辺ではなく湖の北、天山山脈の支流の北側、トクマクの南南東10㎞くらいにあるブラナ遺跡がベラサグンの跡ではないかと言われています。

 通常遊牧民族は王庭(単于庭)といって、要害の地に族長の大テントを中心に大小さまざまなテント群を設けて首都とします。これはいつでも移動できるようにすることと、緊急時には防衛しやすくするためです。通常は三方を山に囲まれ一方が開けた平野などに設けます。

 ところがブラナ遺跡は平野の真っただ中で周囲に要害となるような地形もなく本当に王庭があったのか疑問でした。ただカラハン朝時代からベラサグンは首都だったので、そこらへんに謎を解くカギがあるような気がします。カラハン朝もトルコ系遊牧民族が建てた国ですが、農耕民族を支配下に入れていたためテントではなく通常の都市を都としていたようなのです。

 実はシルクロードはイシククル湖ではなく山脈を隔てた北側を通っています。甘粛回廊の西端敦煌から西はタクラマカン砂漠が広がり、砂漠の南縁を通る西域南道と、北縁を通る西域北道に分かれます。西域北道も天山山脈の北を通る天山北路と南側を通る天山南路に分かれています。

 天山南路は5000m級のパミール高原を越えないといけないため、天山北路が主に使われました。その天山北路が通るのがまさにブラナ遺跡でありキルギスの首都ビシュケクも地方都市トクマクも天山北路沿いです。耶律大石は遊牧民族のセオリーである王庭方式ではなく、シルクロードの交易路を押さえ農耕民族を支配しやすいように都市を首都としたのかもしれません。

 そういえば、契丹族は北宋の北にあった遼時代も遊牧民を支配する北面官、農耕民を支配する南面官を設け巧みに統治していましたからね。西遼時代も似たような統治機構だったのでしょう。

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