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2024年7月28日 (日)

会津戦争5 『奥羽越列藩同盟』

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 会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。

 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかるべきでしょう。いくら慶喜に懇願されても断り、家臣と共に粛々と大阪城を撤退すべきでした。そうしていたら神保修理も死なずに済み、会津藩のその後の運命も変わっていたかもしれません。ところが現実には家臣を見捨てて逃亡し、その責任を神保修理に転嫁し切腹させたのです。その点、主君に家臣の恨みが向かわないようにすべての責任を被って粛々と切腹を受け入れた神保修理は立派でした。

 さて、慶喜はさっさと謹慎し容保にも江戸退去を命じました。いつもでも主戦派の会津藩と共にいると自分の命が危ないと踏んだのです。散々尽くしてきた慶喜にすらあっさり切られるんですから、会津藩の哀れさはどうしようもありません。幕末期、多くの長州藩士や尊皇派の浪士を殺しつくしてきた会津藩は、薩長の明治新政府に許されるとは思っていませんでした。そこで藩士を総動員して3500人ほどの正規兵を作ります。また農民や町民を動員して5900人の兵士を集め合計9400名で新政府軍を待ち構えました。その中には16歳から17歳の少年兵である白虎隊もいました。

 新政府軍は、江戸に迫り西郷隆盛と勝海舟の会談で無血開城が決まります。ところが旗本の不満分子が彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりました。江戸に赴任してきた長州の大村益次郎(村田蔵六から改名)の指揮で彰義隊は簡単に鎮圧されます。その後幕府残党は北関東を転戦し新政府軍と戦いました。

 その間、本来なら幕府に殉じなければならない立場の御三家、紀州藩、尾張藩、水戸藩が次々と新政府に帰順します。譜代筆頭で井伊直弼を出した彦根藩ですら新政府軍に投じました。これが時世の流れなのでしょう。宇都宮藩、館林藩など譜代大名家が次々と幕府を見限り新政府側に付きました。慶喜は新政府に咎められるのを恐れ、江戸に逃げ帰ると会津藩や桑名藩など主戦派の藩を登城禁止にしてすべて追放したのです。こういう扱いを受けたのですから、諸藩が幕府を見限ったのも当然でした。

 慶喜に切り捨てられながら最後まで戦った会津藩や桑名藩が例外だったのです。さて、関東の戦いもひと段落付き新政府は奥羽へ前左大臣九条道孝を総督、参議沢為量(ためかず)を副総督とする奥羽鎮撫総督府を派遣しました。実際に実務を司るのは下参謀薩摩藩の大山格之助と長州藩の世良修蔵でした。

 世良修蔵は横柄な性格で新政府に帰順した奥羽諸藩に高圧的に接します。諸藩のとりまとめ役であった仙台藩と米沢藩に、会津藩と庄内藩の討伐を命じ両藩藩主の首を持ってくるよう要求しました。仙台藩は会津藩、庄内藩の降伏を許し穏便に済ませようと考えていたところでしたから、世良に秘かに反発しました。

 そんな中、仙台藩家老で奥羽諸藩の会議を主催していた但木土佐のもとに驚くべき書状が届けられます。それは世良修蔵が当時出羽にいた同僚大山格之助にあてた手紙で、「奥羽皆敵」など奥羽諸藩を徹底的に嘲り会津庄内両藩を滅ぼした後仙台はじめ諸藩も理由をつけて滅ぼす旨の内容が書かれていました。激昂する仙台藩士たちから世良暗殺の要求が上がり但木がこれを許可したため、世良は寝込みを襲われ瀕死の重傷を負います。そのまま阿武隈川の畔で斬首、死体は川に投げ込まれました。九条総督らは仙台藩に軟禁されます。こうなると新政府との戦いは避けられなくなり、仙台藩、米沢藩を中心に奥羽越列藩同盟が結成されました。

 ここまでは従来の説。その後の研究では世良が容保の首を要求したのは誤解で、そもそも会津藩も降伏の意思はなかったとの事。越後長岡藩と同様武備中立という都合の良い立場を主張していただけで、そもそも許されるはずはなかったと言われます。世良が横柄な態度で接したのは事実でしょうが、鎮撫総督府の参謀を斬ったのは暴挙でした。その上九条総督らを軟禁するなど言語道断です。

 世良が出したという手紙も偽物で、仙台藩が新政府と戦争するために偽造したという話もあります。ではどうして仙台藩らが新政府と戦おうとしたかですが、新政府を主導する薩摩藩、長州藩に対する反発があったのだと思います。仙台藩は62万石という東北一の大藩でプライドもあったのでしょう。

 ともかく、新政府軍との戦争は避けられなくなりました。まずは最初の激戦白河口攻防戦を描きます。

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