会津戦争2 『薩会同盟と新選組』
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容保の京都守護職就任当時、京では浪士による騒擾が激しさを増していました。不逞浪士の逮捕は京都町奉行所の役目でしたが、あまりにも数が多く手に負えないため会津藩士が出動するケースが増えていました。容保は藩士に不浄の役目をさせるに忍びず、悩みます。
そんな中、幕府が募集した京都治安維持を役目とする浪士団がありました。浪士団を率いる清河八郎は京都に着くやいなや浪士を集め、この浪士団の真意は徳川を守るにあらず尊王攘夷にあると暴露します。ところがそれに反発した浪士が多く浪士団は宙に浮きます。
その中で、本来の役割である徳川家を守り京都の治安維持をすべきだと主張した30名ほどの浪士がいました。彼らは芹沢鴨、近藤勇などに率いられます。会津藩は渡りに船とばかりに、この浪士団を抱え込み会津藩預かり新選組を結成しました。
新選組は、内部抗争から首領の芹沢鴨を粛清し新たに近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新体制に生まれ変わります。彼らの活躍は1864年の池田屋事件で発揮されました。そんな会津藩に接近してきた藩があります。薩摩藩です。長州藩に京都政界の主導権を握られていた薩摩藩は起死回生を目論み会津藩に近づいたのです。会津藩としても西国雄藩の薩摩藩との連携は願ってもない申し出でした。
会津藩公用方秋月悌二郎が薩摩藩の高崎正風らと接触、薩会同盟の骨子が決まります。ここに一人の人物がいます。会津藩家老神保内蔵助の長男で容保の上洛に同行し会津藩公用方(外交官)に就任していた神保修理です。藩校日新館では秀才とうたわれ軍学者として名高かった井上丘隅(おかずみ)の次女雪子を妻とします。藩主容保の信頼も厚く側近として京都でも補佐をしていました。
神保修理は開明的な人物で、京都でも各藩の要人と交際します。彼も心中では容保の京都守護職就任に反対で、なんとかして役を辞し会津に帰還することを願っていました。長州藩は攘夷派の公卿と結託し天皇の大和行幸を画策します。これは大和で討幕の狼煙を上げる陰謀でした。
事件の真相を知った容保は驚愕し薩摩藩に連絡します。薩摩藩は薩摩系の皇族中川宮に奏請し天皇の大和行幸を中止させました。孝明天皇を動かし「奸臣(長州や攘夷派公卿のこと)を除くように」という勅命を賜りました。感激した容保は、薩摩藩、鳥取藩、備前藩、米沢藩、阿波藩の五藩と協力し御所の九つの門を2000名の兵士で固めます。
一夜明け、真相を知った長州藩は藩士や浪士たちを集め抗議のために朝廷に詰め寄りますが、多勢に無勢、京都から撤退します。この時三条実美ら長州派の七卿を伴いました。これを八月十八日の政変と呼びます。
京都政界を叩き出された長州藩の恨みは会津藩に向けられます。これが会津藩苦難の始まりになったことは、容保はじめ会津藩の誰も気づきませんでした。ただ長州藩もこの後苦難の時期が続くのです。
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