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2024年8月 9日 (金)

長州藩諸隊の兵力

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 1963年、米英仏蘭4カ国艦隊による下関攻撃が起こります。これは長州藩が攘夷と称し馬関海峡を通る外国船を砲撃したことに対する報復でした。馬関戦争あるいは下関戦争と呼ばれる戦いで長州軍は4カ国艦隊による圧倒的火力に惨敗、攘夷の非現実性を思い知らされます。

 危機感を覚えた長州藩は、身分を問わない奇兵隊をはじめとする藩士以外の様々な身分の者で構成される義勇軍的な部隊を多数結成します。この数百にも達したと言われますが、これが国民皆兵の走りで長州諸隊と呼ばれました。奇兵隊のように新式小銃を装備した精鋭部隊もいれば、ならず者に毛が生えたような劣悪な部隊もいたそうですが、長州藩が四境戦争、戊辰戦争で勝利する原動力となりました。

 では、諸隊と呼ばれるものはどれくらいの兵力がいたか分かる範囲で調べました。

◎「奇兵隊」…400人

◎「第二奇兵隊」…300人

◎「御楯隊」…230人

◎「遊撃隊」…500人

◎「力士隊」…50人~60人

◎「干城隊」…176人(これは藩士で構成された部隊)

 ほかにも数多くいますが、総じて諸隊の兵力は2000人強は居たと思います。これに長州藩士で構成される正規兵力もいたわけですから、5000人以上の兵力はあるでしょう。四境戦争の時長州藩の兵力は7000人から1万人と言われますが、私の想像では芸州口1500人、石州口1000人、小倉口3000人、大島口200人、総予備で2000人くらいいたのではないかと考えます。

 ただし四境戦争前に長州が薩摩藩を通じて購入したミニエー銃は4300挺なのでもともと保有していたミニエー銃と合わせても5000挺くらいで、総予備の2000人というのは旧式のゲベール銃装備で役には立たなかったと想像します。ですから当時の長州藩の兵力が5000人というのもあながち間違いではないのかもしれません。

 そう考えると総兵力7000人前後というのが現実的な数字かもしれませんね。長州諸隊は戊辰戦争を通じて活躍しますが、戦争が終わると一部は官軍に昇格しますが大半は解散を命じられます。これを不満に思った奇兵隊などが反乱を起こしますが新政府に鎮圧されました。

 奇兵隊軍監の山縣有朋はじめ諸隊の幹部たちが新政府で出世したのに比べ、自分たちは用が済んだらお払い箱になったのは我慢できなかったのでしょう。結局、明治維新で活躍できた者と使い捨てられた大多数の兵士の違いでした。長州諸隊からそのまま官軍に移籍した者たちも多かったと思いますが、そこからこぼれた者は哀れでしたね。

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