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2024年8月29日 (木)

義経=チンギス汗説が物理的に成立しない理由

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 まさか現在義経がチンギス汗だったという説を信じている人は居ないと思いますが、日本史の英雄である源義経が衣川で死なず大陸に渡ってチンギス汗になったというロマン溢れる説が流布したことがあります。大真面目なものからネタ的なものまで学者や作家、民間史家が考察しました。

 ただ、私はチンギス汗のモンゴル軍の戦い方と義経の戦い方があまりにも違うためこの説は成立しないと昔から思っていました。なによりチンギス汗は軍事だけでなく政治にも長けていますが、義経は軍事以外の才能が皆無でとても同一人物とは思えないからです。個人的に義経は韓信より酷いと評価しています。両者とも軍事の才能は突出していますが、政略など他の才能が乏しく下手したら一般人以下です。ただ韓信は可愛げがありますが、義経にはそれがない。義経に致命的なのは場の空気を読めないところでしょう。韓信はすくなくとも一度は劉邦を説得し謀反の誤解を解いていますからね。二度目は本気で謀反を起こそうとして殺されましたが。

 それはともかく、義経=チンギス汗論者が見逃している事実をネット上で指摘した人がいました。私もなるほどと感心したんですが、チンギス汗の実子の話です。チンギス汗と正室ボルテの間には4人の子供がいました。長男ジュチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、四男ツルイです。

 このうちツルイは1192年生まれなので、義経が衣川で非業の最期を遂げた1189年にはいません。もしチンギス汗が義経なら他の三人は確実にいたはずです。このうち生年が比較的はっきりしている三男オゴタイは1186年生まれ。次男チャガタイは諸説ありますが1185年生まれ説を私は採ります。長男ジュチは1184年(か、それ以前)に生まれたと推定されます。

 となると、義経が死んだ1189年、ジュチ5歳、チャガタイ4歳、オゴタイ3歳と三人の子供がいたはずです。ところが義経にこのような子どもがいたという記録はありません。幼少の男子がいたという記録もありますが、表に出てこないので密かに殺されたのでしょう。伊達家の祖である中村朝定が義経の忘れ形見であるとも言われますが、信憑性は薄いです。そもそも伊達氏は藤原氏ですしね。中村朝定が本当に義経の子なら謀反人の子なので頼朝が生かしておくはずありません。

 史実での義経は正室河越氏との間に4歳の娘がいたが、正室と娘を殺した後自分も自害して果てたとされます。もし三人も有力な男子(しかも正室の子)がいたら、それこそ頼朝は草の根分けても探し出して殺すでしょう。

 ですから義経が衣川で死んでおらず蝦夷地か大陸に逃れたとしても3人の子供と正室を連れて逃げられるはずがないんです。言われてみれば目から鱗、これで義経=チンギス汗説は成り立たなくなりました。日本史には似たような都市伝説が数多くありますが、もし義経=チンギス汗説を本気で信じていた人がいたら、ロマンを壊してしまって申し訳ございません。

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