徳川幕府草創期の政争Ⅱ 大久保忠隣(ただちか)の失脚
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大久保忠隣(1553年~1628年)は、徳川二代将軍秀忠の側近として重きをなし相模小田原6万5千石の大名となります。三河一向一揆鎮圧を皮切りに姉川合戦、三方ヶ原合戦、小牧・長久手の役、小田原合戦など数々の戦いに従軍し武功をあげました。関ヶ原合戦の時は、秀忠の中山道軍に従軍したことから本戦に間に合わず秀忠は父家康から厳しく叱責されます。忠隣は秀忠を庇い家康に取りなして事なきを得ました。
1610年には老中に就任。忠隣は徳川家に武功を持って仕え、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、酒井忠次ら徳川四天王が第一線を退いた後は、武断派の筆頭として幕府内に影響を与えました。しかし、戦乱の時代が終わり平和がくると武断派の存在は軽くなります。それに代わって台頭してきたのが文治派で、その筆頭は家康の信頼が厚い本多正信、正純親子でした。
父正信は、処世術を心得ており周囲の嫉妬を買わないため決して二万石以上の知行を受け取るなと息子正純に忠告していたそうです。しかし、若いころから家康に重用された正純は奢り高ぶり父の遺言を無視します。大御所家康の意向を背景に、1608年には下野小山藩3万3千石を拝領し、早くも父の意向に逆らいました。
武断派の忠隣と、文治派の筆頭正純が対立するのは自然の流れです。両者は暗闘を繰り返し、それが最初に現れたのは1609年から1612年にかけての岡本大八事件でした。岡本大八は本多正純の重臣です。ポルトガルとの貿易を巡るこの事件で岡本大八は朱印状偽造の罪で火刑、これに連座した肥前島原藩主有馬晴信も切腹を命ぜられます。
その次が、武断派の資金源である大久保長安の財力を断つための大久保長安事件でした。長安は不正蓄財の疑惑のほかに、家康の六男松平忠輝改易にも関わっていると言われます。忠輝の正室は仙台62万石伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫でした。政宗は娘婿忠輝を将軍に据え幕府を牛耳ろうと画策し、大久保長安を通じて加賀の前田家、薩摩の島津家など有力大名の連判状を作っていたとされます。これは各外様大名にリスクが大きすぎるため虚偽情報っぽく正純ら文治派のでっち上げの可能性が高いと思います。本当にそんな陰謀があったら、忠輝改易と同時に伊達家も前田家も島津家も改易になっているはずだからです。
本多正純最後の仕上げは武断派の筆頭大久保忠隣の失脚でした。きっかけは忠隣の嫡男忠常が1611年病死したことです。期待していた嫡男の死に落胆した忠隣は幕府の政務を欠席しがちになります。これが家康の不興を買い文治派が力を持っていた幕府内で孤立していきました。
大久保長安事件と同じ年の1613年12月、家康が江戸から駿府に帰国する際小田原城に寄ろうとしていた時の事。旧穴山衆の浪人馬場八左衛門より「忠隣に謀反あり」と訴えがなされました。この報を受け家康は急遽江戸に戻ります。秀忠は「忠義の士である忠隣が謀反するはずはない」と弁護しますが、猜疑心にかられた家康は聴く耳持ちませんでした。
とは言え、腐っても武断派。本当に謀反を起こし小田原城に籠城されたら厄介とばかり、忠隣の処分は秘密裏に決まりました。翌1614年1月、忠隣は幕府の命でキリシタン追放令を実行するため上洛します。その翌日幕府の京都所司代板倉勝重が忠隣のもとを訪ねました。
勝重は上意であると忠隣に改易を申し付けます。これに対し忠隣は一言も弁明せず処分を受け入れたそうです。忠隣は近江国に配流され井伊直孝(直政の子、彦根藩主)預かりとなりました。忠隣はこの地で隠棲し1628年亡くなります。享年73歳。その後の大久保家ですが、忠隣の孫(嫡男忠常の子)忠職の代に赦免され1626年美濃加納藩五万石、次いで播磨明石藩七万石、肥前唐津藩八万三千石と累進します。忠職の養子忠朝(これも忠隣の孫)の代にはついに小田原十一万三千石に返り咲きました。
最大の政敵大久保忠隣を追い落とした本多正純。わが世の春を迎えた正純は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。順調に出世を重ね1619年には下野宇都宮藩十五万石の大封を得るに至ります。しかし満つれば欠けるが世の習い。彼にも危機が迫っていたのです。次回最終回、宇都宮釣り天井事件をご紹介しましょう。
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