匈奴に嫁いだ官女 王昭君
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世界史悲劇の女性をシリーズ化しようと思っていろいろ探しているんですが、自らの責任でなく運命に翻弄されて非業の最期を迎える女性ってなかなかおらず、ほとんどは自身の性格の弱さやしでかしたことが原因で悲劇を迎える人ばかりでした。
クレオパトラもそうだし楊貴妃もそう。楊貴妃の人生は確かに同情できるんですが、玄宗皇帝に取り入って楊一族を重用させたり、安禄山を過度に信用して増長させた結果安史の乱が起こり彼女の死なので自業自得という面もあります。クレオパトラに至ってはローマの実力者を誑かして己の権勢を拡大しようとして失敗し殺されたんですから完全に本人の責任です。
今回紹介する王昭君は、非業の最期こそ迎えていませんが運命に翻弄されたという意味では十分悲劇と言えるでしょう。時は前漢10代元帝(在位前48年~前33年)の御代、王朝成立以来の脅威だった北方の遊牧民族匈奴は、第7代武帝時代の積極的な外征によって勢力を衰えさせていました。とはいえ、まだまだ脅威であったことは確かで前漢王朝は警戒を怠りませんでした。
そんな匈奴ですが、周辺遊牧民族に対する統制力を弱め、かつて匈奴が滅ぼした東胡の末裔烏丸に反乱を起こされるなど内紛が巻き起こっていました。前漢は匈奴の宿敵で天山山脈北方に居た遊牧民烏孫と同盟を結ぶなど圧力を強めます。烏孫は強力で匈奴軍をしばしば破ったため、さしもの強勢を誇った匈奴も衰退が明らかになりました。
勢力が衰えてくると内紛で分裂するのは歴史の流れらしく、匈奴も東西に分裂します。東匈奴の呼韓邪単于(在位前58年~前31年)は西匈奴を討つため前漢に入朝、和親を求めてきました。当面の脅威が去るのは前漢としても大歓迎で、東匈奴が人質として呼韓邪の弟を差し出したのに対し、前漢の側も和親の印として官女を呼韓邪の妻に差し出すことを決定します。さすがに皇帝の親族を蛮族に差し出すことは躊躇したのでしょう。
そこで白羽の矢が立ったのが王昭君でした。伝説では元帝は三千人とも言われる後宮の美女のうち誰を選ぶか迷い、全員の絵姿を差し出させその中から一番の醜女(と言っても後宮の美女だからそれなりに美しい)を選ぼうとします。王昭君は裕福な家庭の出身でなかったため、絵を描く宦官に賄賂を贈ることができずことさら醜く描かれたといいます。こうして選ばれた彼女ですが、実際に元帝が彼女を見たとき、この世のものとも思えないような美しさに酷く後悔したそうです。この時王昭君は19歳でした。とは言え、国際的な約束ですから反故にはできず、泣く泣く王昭君を匈奴に送り出します。
王昭君を迎えた呼韓邪単于も大喜びで前漢との関係を維持し続けました。王昭君は呼韓邪単于との間に男子伊屠智牙師をもうけます。ところが、老年の呼韓邪は間もなく亡くなりました。この時王昭君は前漢の朝廷に帰国を願ったそうですが、元帝の後を継いだ成帝に「胡族の習俗に従うように」と拒否されました。前漢としてはせっかく結んだ東匈奴との和親を壊されるのが嫌だったのでしょう。
匈奴というより北方遊牧民の間では、前の単于の側室たちは後を継いだ単于の妻になるという習わしがありました。これは漢民族の習俗としては忌むべきものでしたが、王昭君は仕方なく義理の息子である復株累若鞮単于の側室となります。おそらく王昭君は嫌で仕方なかったと思いますが、漢と匈奴の和親を保つため受け入れたのでしょう。この復株累若鞮単于との間にも二女をもうけます。
その後の彼女の生涯は分かっていません。おそらく異郷の地で寂しく世を去ったのでしょう。王昭君の墓と伝えられるものは複数あるそうですが、一番有力なのは内モンゴル自治区フフホト市にあるものです。王昭君の生涯は多くの文人の詩興を誘ったらしく杜甫や白居易も詩文を残しています。雅楽にもなり後世に彼女の悲劇が伝わりました。
国際外交の犠牲になった王昭君の生涯、同情します。
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