膳所(ぜぜ)藩本多家の幕末維新
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。
いつも応援ありがとうございます。
膳所藩は滋賀県大津市膳所町にあった藩です。領地は近江国各地に分散し合計で7万石ありました。実はこの記事を書いたのもYOUTUBE歴史系動画がきっかけで、膳所藩本多家が本多一族のうち一番石高が高かったことを知ったからです。本多宗家は意見が分かれるところですが、一応平八郎忠勝家とすると、伊勢桑名10万石から播磨姫路15万石まであがったものの、越後村上転封で10万石に減らされ、1709年無嗣断絶になりかけたところ、忠勝の功績を考えお情けで三河岡崎5万石を与えられ幕末に至りました。
膳所藩本多家は忠勝の子康俊から始まる家系ですが、実は血縁関係はありません。康俊は酒井忠次の次男で忠勝家に養子に入りました。ですから酒井忠次系というのが実情です。最初三河西尾2万石。大坂夏の陣の戦功で膳所藩3万石に加増転封。譜代大名の例にもれず各地に転封させられ孫の康長の代に膳所に落ち着きます。以後膳所藩7万石を継承していきました。
その膳所藩本多家ですが、幕末期には各藩と同じように尊王攘夷派と佐幕派で争っていました。京都に近いだけにその争いは激しく、徳川14代将軍家茂の膳所宿泊予定が中止になったほどです。結局両派の争いは佐幕派が勝ち、尊王攘夷派の急先鋒である川瀬太宰は新選組に捕らえられ処刑されました。そのほか、阿閉権之丞ら尊皇派11名も処刑されます。
しかし、川瀬太宰は膳所藩筆頭家老戸田資慶の叔父であったため藩内では尊皇派の恨みが残りました。時代は薩長同盟を経て尊皇派優勢になって行きます。その流れを受け、膳所藩でも尊皇派が主導権を取り戻しました。ネットでは詳しく分からなかったのですが、尊皇派が弾圧された報復で佐幕派も多くが処刑されたものと思います。何しろ筆頭家老が尊皇派ですからね。鳥羽伏見の戦いの後、他の佐幕諸藩や御三家と同じく徳川幕府を見限り明治新政府側に付くと、佐幕派の急先鋒桑名藩攻めに加わるなど徳川家の恩を忘れるような行動をしたりします。
まあ、徳川四天王の彦根藩井伊家も幕府を裏切ったのですから小藩の膳所藩を攻めるのは酷でしょう。同じ四天王の越後高田藩榊原家も裏切りましたし生き残るためには当然でしょう。近畿だと春日局の子孫淀藩稲葉家も裏切ったんですからね。四天王では一番イメージが悪い出羽庄内藩酒井家だけが佐幕派として頑張りました。当然宗家の岡崎藩本多家も新政府側です。
藩の立地もあると思うんですよ。京に近いと新政府軍に攻められる可能性が高いですからね。雪崩を打って新政府側に付いたのも納得です。よく会津藩贔屓の人が徳川家を裏切った各藩を口汚く罵っていますが、だったら関ヶ原で豊臣恩顧の大名が皆家康に付いたことも同じく非難しなければおかしい。ところがそんな声は聞いたことがない。自ロ他フ(自分がすればロマンス、他人がすれば不倫)のダブルスタンダードは世間から嫌われますよ。精神性が半島人と一緒。その前に150年以上前の出来事を未だにグダグダ言い募るのも異常ですが。
膳所藩に関してはウィキを参考にしただけでこれ以上の情報は出てきませんが、膳所藩は明治3年一番最初に廃城願を出したそうです。膳所城は琵琶湖に突き出た城で維持費が高く近代戦にも不向きだというのが理由ですが、石垣に至るまで売り払われ1200両も稼いだそうですから徹底しています。近江商人の血か?(笑)
しかし、膳所城廃城でショックを受けた藩士もいたらしく発狂して物乞いになった人も出たそうですから面白いですね。裏切りは歴史の常、これにいちいち目くじらを立てることなく歴史とはそういうものだという冷静な目が必要だという事でしょうね。









最近のコメント