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カテゴリー「 世界史」の記事

2021年11月21日 (日)

後百済の話

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 誰も興味ないでしょうが、日本史書庫で刀伊の入寇シリーズを書こうと調べていたときにふと興味を覚えたので残しておこうと思い記事にしました。と言ってもネット上で集めただけの情報なので非常に薄いものだということは予めお断りしておきます。

 新羅は朝鮮の三国時代(新羅・百済・高句麗)を統一した国家でした。新羅を正式な国号としたのは503年。660年に唐と結んで百済を滅ぼします。百済の遺臣は新羅の支配を嫌い同盟国だった日本に救援を求めます。日本は救援要請を受け4万余という大軍を朝鮮半島に派遣しました。当時の日本の人口は500万人弱だと推定されますからこれは恐るべき数でした。戦国時代で言うと12万人から15万人くらいに匹敵する数です。一方、新羅も唐に援軍派遣を要請し唐も13万人という大軍を派遣します。こうして行われたのが663年の白村江の戦いですが、数の劣勢は挽回できず日本・百済連合軍は敗北。日本は半島における権益をすべて失い、百済の遺臣も多くが日本に亡命したと言われます。

 これを見ても半島南部の任那が単なる日本の植民地ではなく最初から日本の領土だったと想像できます。そうじゃないとここまで本気で奪回しようとは思わないからです。シナの研究機関の研究成果から稲作が半島経由ではなく華南から海路で直接日本に渡り、海洋民族だった縄文人が人口希薄地だった朝鮮半島南部にも稲作と共に移住したことがほぼ分かっています。

 新羅はさらに668年、再び唐と結んで高句麗を挟撃、滅ぼします。この時唐は新羅もついでに服属させようと思ったそうですが、新羅の猛反撃に遭い半島支配を諦め緩やかな冊封体制にとどめざるを得なくなりました。この頃が新羅の全盛期だったのでしょう。その新羅も時代が進むにつれ王位継承争いや権臣たちによる権力闘争が激化し地方への統制力が弱まりました。

 新羅47代憲安王あるいは48代景文王の側室の子といわれる弓裔(きゅうえい 857年~918年)が899年反乱を起こし後高句麗を建国した話は日本史書庫刀伊の入寇第一話で紹介しました。この時同時にさらっと触れたと思いますが、農民出身の甄萱(けんけん 867年~936年)も新羅王朝に反旗を翻し百済の故地全羅道で後百済を建国します。

 後高句麗は将軍王建(877年~943年)にクーデターで乗っ取られ高麗が建国されます。後百済を建国した甄萱は農民出身で新羅王朝に仕え南海の防衛に功を上げ将軍になりました。おそらく新羅末期は地方の統制が緩み暴民が海賊化して沿岸部を荒らしまわっていたと言われますから、その鎮圧に活躍したのでしょう。甄萱は野心家で新羅の一将軍では満足せず全羅道に独自の勢力を築き899年弓裔が後高句麗を建国すると、これに対抗し900年に後百済を建国します。新羅はこれらの重大な反逆行為を討伐できなかったのですから、どれだけ弱体化していたか分かります。

 新羅の領土は後高句麗と後百済に蚕食されもともとの故地であった慶尚道くらいまで縮小しました。後百済は後高句麗とも戦争し最初は優勢だったようです。というのも後高句麗は背後にも契丹(後に遼を建国)や女真(後に金を建国)という強力な遊牧民族の敵を抱えていたため後百済や新羅に全勢力を傾けられなかったからです。この関係は後高句麗が高麗に代わっても変わりませんでした。

 926年、甄萱は新羅の首都慶州を陥落させ新羅の景哀王を殺します。彼がまともなら新羅を併合しさらに高麗を滅ぼし新たな統一王朝に成長できるはずでした。ところが甄萱は暴行略奪殺人の限りを尽くし景哀王の王妃を凌辱するなど新羅人の恨みを買います。これを見ても、とても統一王朝の建国者の器ではなく、ただの山賊風情が時流に乗り一時的に台頭しただけだとわかります。

 後百済の新羅支配は長く続かず、新羅の救援要請を受けた高麗の王建が逆襲に転じ930年後百済軍は新羅から叩き出されました。後百済はその後退勢に転じ936年熊津(百済の古都)以北の30城を高麗に奪われます。劣勢の中でも甄萱は愚かな行動をします。側室の子だった四男甄金剛を溺愛し太子で長男甄神剣(甄萱の子供は名前だけは格好良い)を廃嫡しようとしました。

 ところが神剣は次男良剣、三男龍剣と結託し逆に甄萱を幽閉、四男金剛を殺害して王位を奪います。このクーデター劇は935年ですので、高麗との戦争中に何をやっているんだと呆れ果てますね。金山寺に幽閉された甄萱はさらに愚かな行動を起こしました。娘と共になんと高麗に亡命したのです。そればかりか、高麗の王建に自らの国後百済の討伐を願う始末。王建は好機ととらえ後百済に遠征します。これには甄萱に従う後百済の反乱軍も加わったそうですから、ここまでくると情けなくなりますね。

 結局、後百済王甄神剣は高麗軍に敗北し降伏、処刑されました。自らの国を滅ぼした甄萱ですが、その晩年は悲惨でした。利用価値の無くなった甄萱は高麗で冷遇され最後は黄山寺で凍傷にかかり亡くなったそうです。享年69歳。シナ大陸でも歴史上、ただ時流に乗っただけの流賊が一時的に大きな権力を握ることはありますが統治能力に欠けるため最後はあっけなく滅びます。同じ流賊出身ながら明王朝を築いた朱元璋とは人間の器が違いすぎたのかもしれません。

2021年7月26日 (月)

黄河の大洪水1938年

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1938

 

 

 東京オリンピックのおかげであまり報じられませんが、支那大陸黄河流域では豪雨による大洪水で深刻な被害が出ています。鄭州では地下鉄のトンネルが長さ4㎞にわたって冠水し6000名以上が亡くなったのでは?とも言われます。

 黄河はその名の通り上流の黄土高原から粒子状の土砂が流れ込むため黄色く濁ります。土砂は農耕に適した栄養分を含むため中流から下流にかけて肥沃な農耕地帯を形成しました。特に黄河が几状に曲がる湾曲部から東に流れを変える潼関(どうかん)付近から河南省、山東省の境に至る所謂中原は黄河文明揺籃の地となります。

 ただ、黄河は暴れ川としても有名で歴史上何度も大洪水で河道を変えました。北は北京辺りから南は淮河に合流する辺りまで。その度に数十万から数百万の人命が失われます。そのため、黄河の治水に成功させた者が王朝を開くこととなります。古くは伝説の夏の兎王です。その時の大洪水は紀元前1900年ころだとも推定されています。

 兎王を苦しめた共工氏は、暴れ川黄河の象徴だとも人面蛇身で洪水を起こす水神でありそれを信仰した羌(きょう)族の事だとも言われます。どちらにしろ黄河と関係があります。羌は現在のチベット民族の源流の一つで農業と牧畜を行い古代には支那大陸各地に住んでいたそうです。ちなみに周の武王を助けて周王朝建国に貢献した伝説の軍師太公望姜子牙(呂尚)もこの羌族出身だとされます。

 黄河は通常は年間降水量1000ミリ以下で平穏ですが、河の性質上土砂が堆積し洪水を防ぐために堤防を築いたため、河川と堤防が周囲の平野より高くなる天井川になりました。ですからちょっとした雨でも堤防が決壊し少なからず被害をもたらします。今回の大洪水のように千年に一度ともいわれる豪雨に見舞われると深刻な打撃となりました。

 歴代の黄河の大洪水でどれほどの犠牲が出たかははっきりと分かりませんが、近年人為的に起こされた洪水では少なくとも数十万人(一説では100万人!)が犠牲になったことが分かっています。それは支那事変最中の1938年6月。1937年に始まった事変は徐州会戦で蒋介石の国府軍(国民政府軍)の主力を取り逃がしたものの日本軍は一応の勝利を収めました。国府軍は日本軍の追撃を恐れ数万の農民を強制的に動員し黄河の堤防を破壊させました。それがまさに今回大洪水になった鄭州から開封にかけて。人為的に起こされた氾濫は河南省から安徽省、江蘇省に跨る5400平方キロという広大な地域に広がります。

 その被害は深刻で被災者も600万人、この地域の農業生産にも大きな打撃を与えました。その被災民を救助したのは日本軍です。自分たちが逃げるために自国民を犠牲にした国府軍は言語道断ですが、戦後この洪水被害を日本軍がもたらしたと嘘宣伝した悪辣さは日本人の精神性では理解できません。これが大陸人の特徴なのかもしれませんが、驚きますね。これは南京大虐殺という虚構にも通じると思います。

 支那大陸では軍隊の事を兵匪と呼んで忌み嫌ったそうですが、黄河決壊の悪事を見ると納得できますね。大東亜戦争後始まった内戦で共産党軍が勝利したのは、より人民にとってましな政権だったからかもしれません。蒋介石の国民政府は黄河決壊事件などですでに人民の支持を失っていたのでしょう。その共産党政権も歴代王朝の例に漏れず近年は圧政を布いて人民を弾圧しています。王朝の命脈も長くはないと思います。それが歴史の法則通り人民の蜂起になるか外国(アメリカを中心とした西側世界)との戦争になるかは分かりませんが。

 支那大陸では歴代王朝や政府を人民が信用しないそうですが、黄河決壊事件などの悪事を見ると納得できる気がします。こういう体制が続く限り国民国家にはなり得ないのでしょう。

2021年6月25日 (金)

陳勝・呉広の乱で農民が反乱に踏み切った理由

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 世界史で習ったので覚えている人もいるでしょうが、支那大陸最初の統一王朝秦滅亡の原因となった反乱として有名ですよね。知らない人も多いと思うので簡単に説明すると、秦は過酷な法治政治で人民を弾圧し不満が蓄積していました。どんな理由があろうと法律に反すれば厳しい罰則が科せられ酷い場合は死刑になります。秦の始皇帝は土木好きで自身の王宮である阿房宮、自分の死後埋葬される始皇帝陵、北方の異民族匈奴を防ぐための万里の長城建設など全国各地の農民を徴発し工事に従事させました。また辺境の守備のためにも各地から農民を兵士として強制的に集めます。

 陳勝、呉広という人は日雇いで生活していた貧しい農民出身だったとも、こういった農民を労役に引率する小役人だったともいわれます。二人を含めた一行は漁陽(現在の北京辺り)の辺境守備に駆り出され現地に向かっている途中でした。ところが現在の安徽省宿州市にあった大沢郷というところで長雨に遭い足止めを食らいます。このままでは漁陽に決められた期日までに到着できそうもありません。秦の法律では期日までに現地に到着しなければ斬罪に処せられるため、自棄になった陳勝、呉広は仲間の農民と語らい引率の秦の役人を斬り秦に対する反乱に踏み切りました。世間の不満が蓄積していたのでしょう。この反乱に各地の不満分子が多数参加したため大規模化し秦の地方軍を撃破するまでになりました。

 これが世にいう陳勝、呉広の乱ですが、秦は対応に苦慮し疲弊します。そして反乱に呼応し後に秦を滅ぼす項羽や劉邦らが挙兵したためついに秦は滅亡に至りました。

 ところで、どうせ死刑なるなら逃亡するというまでは分かるんですが、巨大な秦に対抗する反乱に至るか疑問に思いました。というのも後に前漢王朝を開く劉邦は似たようなケースで逃亡し山賊になったことがあったのです。この時は劉邦と気脈を通じる同郷の蕭何(しょうか)が当時沛県の役人だったため、県令(県の長官)にとりなし不問にしたのですが、下手すると劉邦は秦の討伐を受け殺される可能性すらありました。

 このように、死刑は怖くても反乱に踏み切るにはかなり心理的ハードルが高いのです。いくら陳勝、呉広が説得しても農民たちが同意するかは賭けでした。秦は戦国の七雄という斉や楚などの列国を武力で滅ぼした強大な敵でしたから。ここで私は考えたんですが、もともと彼らは秦に対する反感があったのではないかと。

 というのも、項羽や劉邦と同じく陳勝・呉広の乱に参加した者たちも全員旧楚国の出身でした。過去記事でも書いたんですが、秦は楚を滅ぼした後過酷な統治を行い楚の人々の恨みを買っていたのです。中には親や兄弟を秦軍に殺された者も数多くいたと思います。有名な言葉で「たとえ三戸(数が少ないことと例え)となろうとも秦を滅ぼすのは楚たらん」というものがあります。秦は天下統一に当たって各地で暴虐を行いましたが、楚国に対しては特に過酷に対処したため恨みもそれだけ大きかったのでしょう。

 では劉邦は同じ楚人ながらどうして秦帝国に対して反乱に踏み切らなかったかという疑問も生じると思います。ただ史記などを読めば分かりますが、劉邦は恨みよりも命あっての物種と合理的に考える人で、そういった選択肢はなかったのでしょう。実際、劉邦が秦に対する反乱に参加したのも多分に成り行きだったという印象が強いです。

 陳勝、呉広は勢いがあるうちは良かったんですが、所詮人望がなかったためわずか半年で秦に鎮圧され最後は二人とも仲間に殺されました。一方、劉邦は有能な文官である蕭何や元韓王国の宰相一族という名門の張良、もともと項羽の部下だった名将韓信など数多くの有能な人材の支持を得てついには天下を統一しました。こうしてみると劉邦はやはり天下を統一する器だったのでしょうね。

 支那の統一王朝が滅亡するときはだいたい農民反乱から始まるケースが多いですが、その反乱が成功し天下を統一できるかどうかは反乱指導者の器次第だという事です。

2021年5月 5日 (水)

春秋時代の晋、戦国時代の魏が強国になった理由

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 古代シナのマニアックな話なので興味ない方はスルーしてください。

 シナ大陸の地理をご存知の方は、古代の人口密集地は黄河中流域、几上湾曲部の東から河南省と山東省の境界くらいまでの所謂中原だったことをご存知だと思います。「中原に鹿を逐う」という言葉は天下を争うと同義でした。中原の西の中心地は洛邑(洛陽)、東の中心地は大梁(開封)ですが、その人口は東に集中します。というのも洛邑は東西を虎牢関と函谷関、南北を伏牛山地と邙山(ぼうざん)に挟まれた盆地で守るには易い難攻不落の土地ですが豊かさでは黄河平原が広がる東部とは比べ物になりませんでした。特に大梁は東西の黄河の水運、華北と華南を結ぶ陸運の交わる要衝、経済の中心地として巨大な都市に成長します。北宋時代、大梁が首都になったのも納得できます。

 古代王朝は守りやすいというところから東周や後漢も洛邑(洛陽)を首都とします。一応黄河の北岸も中原に含まれますが、人口の面では黄河南岸には及びませんでした。では春秋時代、黄河の北岸、しかも人口が中原に比べて希薄な山西省南部に中心地があった晋がどうして南方の楚と伍する超大国になったか分かりますか?

 それは塩でした。塩は人間が生きるのに必要で家畜も塩がなければ死んでしまいます。中国塩政史によるとシナ大陸沿岸部の海塩生産地は5つあったそうです。河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省の両淮塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩です。ただ、これら沿岸塩が生産されるようになったのは中世以降で、それ以前は岩塩でした。その最大の産地が黄河が几状湾曲部から東流する北岸、山西省南部のまさに晋の中心地にあったのです。

 現在の地名で言うと山西省運城市。実は晋の首都翼は運城の解池という塩湖の100㎞北東でごく近いところにありました。春秋時代の晋は塩の一大生産地である解池を握り、北方の遊牧民と接し軍事技術を取り入れたために強国となれたのでしょう。紀元前403年、晋が実質的に滅亡した後戦国時代最初の覇権国となった魏も、首都安邑は解池のすぐ北で現在では運城市に含まれる安邑県にありました。

 魏はこのほかに、中原の東の中心都市大梁、黄河北岸の重要都市鄴(ぎょう)まで支配していたんですから強国になるのも当然でした。魏の文侯が名君だったという事もあったでしょうが、国力の面からも覇権を握るのは自然だったのでしょう。その後、解池を含む安邑は商鞅の改革で急速に台頭してきた西の蛮国秦に奪われます。魏は副都の大梁に遷都してその後もしばらくは存続しますが、秦は安邑地域を奪ったことで天下統一の基礎が出来上がったのだと思います。

 

2020年11月27日 (金)

なぜ七王国の一つ、ウェセックスは強大化したか?

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 マイナーなイギリス史ばかり続いて付いてこれない方も多いと思います。これでイギリスシリーズは一応打ち止めなので興味ない方はスルーお願いします。

 

 5世紀初頭、ローマ帝国がブリテン島から撤退したために生じた権力の空白。それに付け込むようにブリテン島に侵攻したのはゲルマン系民族、アングル人、サクソン人、ジュート人でした。ジュート人の故地はユトランド半島の語源となった現デンマークに当たる半島北部。アングル人はその南、現在の北ドイツ、ユトランド半島の付け根に当たるシュレスビヒ・ホルシュタイン州に住んでいました。サクソン人はドイツ語読みザクセン人で現在のハンブルクを中心とするニーダー(低地)ザクセン地方出身です。

 余談ですが、現在ザクセンというとベルリンの南に位置するドレスデンを中心とするザクセン州が有名ですが、ザクセン人は南東のザクセン州から北西のニーダーザクセン州にかけて広く分布していました。カロリング朝フランク王国のカール大帝を苦しめたのがザクセン人で征服するまでに32年もかかっています。ですからほぼ全民族で移動したジュート人、アングル人と違い、ブリテン島に渡ったサクソン人はごく一部だと思います。

 アングル人、サクソン人、ジュート人を総称してアングロサクソン人と呼びますが、彼らはブリテン島のもともとの住民であるケルト人を征服して七王国を建設しました。ジュート人が建国したのはケント王国、アングル人は北からノーザンブリア、マーシア、イーストアングリア王国を建国します。サクソン人はウェセックス(西サクソン)、サセックス(南サクソン)、エセックス(東サクソン)の三つの王国を築きました。

 その中で一番強大化したのはイングランドの南西部に当たるウェセックス王国です。七王国を築いたアングロサクソン人ですが、欧州の民族移動の波は終わらず9世紀にイングランドに侵攻したのはスカンジナビア半島からジュート人の居なくなったユトランド半島まで進出していたノルマン人でした。彼らはヴァイキングとも呼ばれます。アングロサクソンよりさらに野蛮なノルマン人たちはロンドンの北からノーザンブリア全域まで含む広大なデーンロウと呼ばれつ支配地域を確立しました。

 それに抵抗したのはウェセックス王国のアルフレッド大王(849年~899年)です。彼は875年エサンドゥーンの戦いでウェセックスからノルマン人を叩き出し、海上でもノルマン人に勝利を重ねウェドモーアの和議でノルマン人の支配地域をデーンロウだけに止めます。面積だけ見るとデーンロウはイングランドの6割くらい占める広大な地域のようですが、イングランドの人口はロンドン以南のウェセックス、サセックス、ケントあたりに集中しロンドン以北は土地が貧しく人口希薄地帯でした。人が少ないからノルマン人が征服出来たとも言えます。

 アルフレッド大王の勝利は、彼個人の力量もあったでしょうが何よりウェセックスの人口、国力が他の七王国を凌駕していたのが大きかったと思います。そしてウェセックスはその後のイングランドの基礎となりました。1066年ウィリアム1世によるノルマン・コンクエストで敗北したエドワード懺悔王(在位1042年~1066年)は最後のウェセックス朝イングランド王国の王でした。

 ブリテン島のもともとの住民はフランスのガリア人と同族のケルト人です。ブリテン人とも呼ばれた彼らですが、アングロサクソン人の侵略で異民族支配を嫌った人々は現在のウェールズ地方やアイルランドに逃れました。さらに一部はフランスのブルターニュ半島に移住します。ブルターニュの語源はブリテンですからガリア人と同族であるブリテン人には住みやすかったのでしょう。ちなみにスコットランドにいた剽悍な山岳民族ピクト人は、アイルランドから渡ったゲール人と同化しスコットランド人となります。

 ですからイングランドの正統な住民を名乗れるのはC・W・ニコルさんのようなウェールズ人かもしれませんね。アングロサクソンにしてもノルマン人にしても侵略者の子孫なんですから。

2020年11月25日 (水)

アーサー王の都キャメロット

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 アーサー王伝説にでてくる都キャメロット。アーサー王に仮託される5世紀後半から6世紀初頭頃イングランドを統一したとされる王は実在したと言われます。ただアーサー王物語にある聖杯伝説や円卓の騎士などは後世の脚色で史実とは言い難いとされます。ですからアーサー王が本拠と定めたキャメロットは正確な場所が分からないというより実在しなかった可能性が高いと思います。

 ではキャメロットが全くの嘘かというと、アーサー王に仮託される当時の王が本拠と定めた場所はあるはずです。イギリスでもその観点でキャメロットがどこだったのか色々考察されているそうです。一番有力なのはイングランド南東部エセックス州にある都市コルチェスター。人口10万人ほどの地方都市ですが、紀元前から存在するイギリス最古の都市とも言われます。

 コルチェスターはケルト語で戦神カムロスの要塞を意味するカムロドゥノンと呼ばれました。その後紀元前43年ローマ軍がブリテン島に侵攻、この町を要塞化しラテン語読みでカムロドゥノムとなります。カムロドゥノムは属州ブリタンニア最初の首都となりました。紀元61年ブーディカ女王の乱で破壊され、その後属州の首都はロンディニウム(現在のロンドン)に移ります。

 しかしカムロドゥヌムも再建され、エセックスの重要都市であり続けました。5世紀にローマ帝国の支配が終わりゲルマン系のアングル族、サクソン族、ジュート族らが侵攻してくると、いつしかこの町はコルチェスターと呼ばれるようになります。ただ、考古学者モーティマー・ホィーラーはコルチェスター、ロンドン、セント・オールバンズを結ぶ三角形はアングロサクソン侵略初期も以前としてローマ人支配が続いていたと指摘し「ローマ支配の三角形」と呼びました。

 この点からも、アーサー王に仮託される王がケルト族長だった可能性は低く、ローマ軍人出身の植民市の首長、あるいはローマ帝国に雇われた傭兵隊長(具体的にはイラン系遊牧民アラン人の族長)だったと私は考えます。そしてキャメロットのモデルはローマ支配の三角形を基盤として一時アングロサクソンの侵略を防いだ王が根拠地としたコルチェスターだったのでしょう。

 

 

2020年11月22日 (日)

アーサー王伝説とサルマタイ人

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 前記事でアーサー王伝説のモデルとなった当時のブリテンの王がいたと考察しました。

 

 ローマ帝国時代、スコットランドを除くブリテン島はローマ帝国の属州ブリタンニアでした。世界史に詳しい方ならご存知だと思いますが、属州には二種類あり比較的安定し文官でも統治できる元老院属州(元老院で総督を任命)と内政が安定しないか敵が近隣に存在し軍団が駐留し武断政治をしなければいけない皇帝属州(皇帝が総督を任命)がありました。ブリタンニアは現在のスコットランドに剽悍な山岳民族であるピクト人がいたため皇帝属州でした。そして一時は第9軍団が駐留します。

 ただローマ軍団には限りがあり、より大敵であるゲルマン人やパルティアに備えなければいけなかったので第9軍団もバルカン半島に移動しました。ではブリテン島にローマ軍が全くいなかったかというとそうでもなく、ローマの退役兵たちが建設したカムロドゥヌム(現コルチェスター)やイスカ・ドゥムノニオルム(現エクセター)、エボラクム(現ヨーク)などの植民市がありました。これらの都市は民兵を提供します。

 またローマに帰順したブリテン島各地の部族が有事には補助兵を提供する約束でした。さらにローマ帝国は傭兵を雇ってローマの正規軍団が到着するまでピクト人の侵攻や内乱に備える役割を持たせました。その一つが、イラン系遊牧民のサルマタイ(サルマティア)人です。サルマタイ人は最初ドニエプル川からドン川に至る草原地帯にいました。紀元前3世紀にはオリエント世界を恐怖に陥れた黒海北岸にいた遊牧民族スキタイの衰退に付け込む形で侵略を開始し、これを滅ぼします。

 ローマ帝国とイラン高原に興ったパルティアが全面戦争に突入すると、サルマタイ人は両陣営に傭兵として雇われたそうです。元来が農耕民族で騎兵戦力に不安のあるローマ側は納得できるのですが、もともと中央アジア発祥のイラン系遊牧民族であったパルティアですらサルマタイ騎兵を頼りにしたという事は、それだけサルマタイ人騎兵が精強だったからでしょう。

 サルマタイ人も遊牧民族ですから国境を接するローマ領の属州ダキア(現在のルーマニア)あたりで略奪をしていたのでしょうが、ローマ人たちは彼らに巨利を約束し傭兵として雇う事で軍事力とします。これはゲルマン人にも当てはまり、おかげでローマ軍の軍事力は上がりましたが、兵士が異民族だらけで安定しなくなります。傭兵は利益がある限り従いますが、その利益が無くなると簡単に裏切るからです。西ローマ帝国も最後はゲルマン人傭兵隊長オドアケルに476年滅ぼされました。

 さてローマ帝国が異民族を傭兵で雇う時は、部族単位でした。というのはその方が統治しやすいからです。ブリテン島に渡ったのはサルマタイ人の中でも有力部族であったアラン人だったと言われます。西ローマ帝国の滅亡は476年ですが、属州ブリタンニアはそれより早く407年には終焉を迎えます。というのも、もともとのブリテン島の住民でローマ帝国の支配を嫌ってアイルランドに逃れていたケルト人(フランスのガリア人と同族)と、スコットランド地方のピクト人の双方から侵略を受けていたからです。西ローマ帝国はブリタンニアに総督を派遣しなくなり、植民市の住民たちは自分たちで防衛しなければならなくなります。ブリテン島の住民でローマの支配に服していたケルト人部族たちも部族制を復活させ各地に部族国家が誕生しました。

 これがアーサー王登場前のブリテン島の状況です。アーサー王は5世紀後半から6世紀初めころの人だと言われます。ですからケルト人(ブリトン人)部族の長だったか、あるいは植民市の指導者で各地に残ったローマ勢力を糾合したローマ人か、あるいは傭兵としてブリテン島に渡りそのまま土着したアラン人の首長のどれかがアーサー王のモデルだと思います。

 ここで軍事力を考察した場合、一番弱いのはローマ人植民市の民兵、次がケルト人部族兵で一番精強なのは遊牧民族のアラン人だと思います。後のモンゴル帝国でも分かる通り、遊牧民族の騎兵は少数精鋭で農耕民族の歩兵(ローマ人もケルト人も主力は歩兵)がいかに多数でも太刀打ちできません。ですから可能性としてはアラン人首長説が個人的に一番納得できます。12人の円卓の騎士というのはアラン人部隊の部隊長たちだったのかもしれません。円卓の騎士という概念も平等を尊ぶ遊牧民的なにおいがします。短期間でブリテン島を統一できたという事は軍事的に優越していなければ難しいと考えます。そしてその統治が長く続かず再び群雄割拠に戻ったというのもいかにも遊牧民族らしい。

 

 こればかりは決定的な資料がなくあくまでも個人的な想像ですが、当時のことをいろいろ想像すると楽しくなりますね♪

 

 

2020年11月20日 (金)

アーサー王終焉の地アヴァロンはグランストンベリーか?

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 アーサー王は5世紀末から6世紀初頭ブリトン人(ケルト人)を率いて侵略者アングル人、サクソン人、ジュート人などのゲルマン系諸族と戦ったとされ一応実在したと言われます。

 アーサー王の出自には様々な説があります。ブリトン人の王子説、アルトリウスという西ローマ帝国軍の指揮官で、帝国滅亡後自立しブリテンで王となったという説、西ローマ帝国の傭兵でブリテン島に土着したイラン系遊牧民の首長説など。アーサー王物語にも様々なバリエーションがあるのですが、ここでは私が理解している一番ドラマチックなものを紹介しましょう。

 

 『ブリトン人の王ユーサー・ペンドラゴンの王子として生まれたアーサー。ペンドラゴン王は悪人どもの陰謀で暗殺され生まれたての王子アーサーは忠臣に守られ城を脱出、民間で育てられます。成長したアーサーは「この剣を抜く者はブリテンの王となるだろう」と書かれていた岩に刺さった剣を引き抜き見事王となりました。

 魔法使いマーリンの助けを得たアーサーは、湖の乙女に与えられた神剣エクスカリバーを手に入れ12人の円卓の騎士とともにブリテン島の統一戦争に乗り出します。ただアーサーの留守中本拠キャメロット城で妻ギネヴィアは、円卓の騎士の一人でキャメロットの留守を守っていたランスロットと道ならぬ恋に陥りました。アーサー王の従兄弟でもある湖の騎士ランスロットとの間に不義の子モルドレッドを生んだギネヴィア。

 いつしか不倫は発覚、ランスロットは追放されアーサーとの間に戦争となりました。悪妻ギネヴィアはアーサー王の怒りを買い火刑に処せられる瞬間ランスロットにより救出されました。ただアーサーはモルドレッドが実子だと信じていたようで、彼をキャメロット城に残しフランスに逃げたランスロット一味と戦争するため軍を率い渡仏します。長引くフランス遠征。成長したモルドレッドは自分がアーサー王の実子ではなく母と謀反人ランスロットとの間の不義の子だという事実を知りました。

 衝撃を受けたモルドレッドですが、結局アーサー王に背く道を選びます。モルドレッド謀反の報告を受けたアーサー王は、急ぎブリテン島に戻りモルドレッドと最終決戦カムランの戦いが起こりました。激戦の末モルドレッドとの一騎打ちに勝利し槍で討ち取るも、アーサー王自身も深手を負います。

 死期を悟ったアーサー王は、湖の乙女に神剣エクスカリバーを返し常春の島アヴァロンに渡りました。その後アーサー王はアヴァロンの地で亡くなったともアヴァロンで生き続け今でもブリテン島の人々を見守り国家が危機に陥った時には再び立ち上がるだろうとも言われます。』

 

 これがアーサー王伝説ですが、モルドレッドの出自についても様々説がありバリエーションも豊富でこれがメインストーリーだとは言えません。時代が下って12世紀末。イングランド南西部サマセット地方グランストンベリーの丘頂上でグランストンベリー修道院長がアーサー王とギネヴィア王妃(伝説と矛盾しますが…)の棺を偶然発見、改めて修道院に埋葬しました。

 サマセット地方は沼沢が多く、アーサー王の棺が見つかったグランストンベリー・トアという標高145mの丘は、当時湿地に浮かぶ島のようになっていたと言われます。伝説の常春の島アヴァロンはグランストンベリー・トアではないかという説が有力になりました。ただ異説もありはっきりしません。

 私の個人的考察ですが、アーサー王伝説はともかくアーサー王に仮託される当時のブリテンの王がこの地に埋葬されたのではないかと考えます。ですから王が不義を犯した妻ギネヴィアと一緒に埋葬されたとしてもおかしくないし、そもそもギネヴィアは不倫などしていなかったという事になります。12人の円卓の騎士自体があくまで伝説ですからね。

 最近ではアーサー王=ローマ帝国の指揮官アルトリウス説が有力だそうですが、ブリトン人の土着の王とした方が今のイングランドの人たちにも一番納得がいくと思います。ロマンが色々溢れる話ですが、皆さんはどのような感想を持たれましたか?

2020年10月26日 (月)

古代支那の兄弟の呼び方

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 古代支那史に関心のない方にはチンプンカンプンだと思うのでスルーお願いします。

 俗に伯仲叔季という言葉があります。これは古代支那で兄弟の順番の呼び名です。伯が長男、仲が次男、叔は三男以下、季は末っ子を表します。四人兄弟なら綺麗に当てはまるんですが、それ以上だと叔が何人もいることになります。これとは別に長男を表す言葉に孟があります。例えば春秋時代晋で宰相となり権力を振るった趙盾。彼は家臣や部下から趙孟様と呼ばれました。

 これは伯が嫡流の長男、孟は嫡流庶流関係なくすべての兄弟の長男という意味です。ですから実質次男や三男でも正室の最初の子なら伯と呼ばれることになります。この場合孟と伯が別々に存在するということです。

 儒教の祖孔子関係の歴史書にも孔子の祖国魯の国政を壟断した三桓氏という大豪族が出てきます。三桓氏というのは魯第15代君主桓公の息子慶父(孟孫氏【仲孫氏とも言う】)、叔牙(叔孫氏)、季友(季孫氏)を家祖とする公族です。孔子の時代には魯公を挿げ替えるほどの実力を持つほどの勢力を誇りました。孔子が祖国を叩き出されたのは三桓氏と対立したからだとも言われます。

 三桓氏のうち、孟孫氏ですが桓公のあと16代を継いだのは長男荘公ですから彼が伯のはず。孟孫子の祖慶父は仲孫氏とも呼ばれます。どういうことか私なりに考えたんですが、本来は長男である慶父は母が側室だったために荘公の弟とされ次男を意味する仲孫氏と呼ばれたのかもしれません。

 魯は周の武王を助けた弟で聖人である周公旦を祖とする由緒ある国ですが、三桓氏のような公族が権力を振るうようになったため公室の力が衰え衰退したのでしょう。もともと隣国で太公望姜子牙(呂尚)を祖とする斉よりも中原に近く有利な立場にあった魯ですが、周公旦の方針である公族を大事にしすぎたために衰えました。逆に斉は太公望の方針で家臣をあまりに大事にしすぎたために権臣田氏に乗っ取られたのでしょう。

 国を保つのは本当に難しいですね。バランスが一番大事です。孔子が中庸の徳を最上としたのは祖国魯の惨状と隣国斉の行く末を見て思い立ったのかもしれませんね。何事も極端が良くないのでしょう。我々の生き方にも参考になります。

2020年9月24日 (木)

サマルカンド - 世界の都市の物語 -

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 古代ギリシャ人はアラル海にそそぐ大河アムダリアをオクサス河と呼びました。アラル海にそそぐアムダリアともう一つの大河シルダリアの間の土地をトランスオクシアナと言います。同じく古代支那の史書ではこれを河間地方と名付けました。トランスオクシアナは別名ソグディアナとも呼びます。

 紀元前数千年前の農耕遺跡が見つかるなど世界史的にも開けた地方の一つで、その中心都市がサマルカンドでした。ソグディアナはソグド人の土地という意味です。ソグド人は古来商業民族として有名でモンゴル帝国が世界支配した時彼らを起用し統治に利用しました。高い生産性を持つ農耕地帯でしたから早くから他の地方との交易も盛んだったのでしょう。シルクロードの重要な中継地点でもあるので、ソグド人が商売に長けたのは自然だったかもしれません。

 サマルカンドは分かっているだけで紀元前10世紀頃には既に存在し、イラン系(ソグド人もイラン系)の住民が住んでいたそうです。ギリシャの資料では紀元前4世紀に登場しマラカンダと呼ばれました。紀元前4世紀でピンときた人も多いと思いますが、マケドニアのアレクサンドロス大王に最後まで抵抗した都市です。当時から難攻不落で知られ、マケドニア軍も攻めあぐねたと言われます。ようやくこの地域を攻略した時、アレクサンドロス大王は一人の美女を得ます。その名はバクトリアの王女ロクサネ(ロクサンヌ)。ロクサネを側室に加えたアレクサンドロスは彼女を溺愛したそうです。

 後漢書にもサマルカンドの記述があり、サマルカンドを中心とした都市国家連合を康国と呼びました。康国の支配者は月氏だと書かれています。月氏はイラン系の遊牧民で最初は甘粛回廊あたりに住んでいました。匈奴が勢力を拡大するとこれに追われ中央アジアまで逃れたのです。ソグド人も月氏も同じイラン系ながら、早くから農耕民族として定住していたソグド人にとって野蛮な遊牧民である月氏の支配は苦痛でしかなかったと想像します。

 ちなみに、月氏はソグディアナで勢力を回復し北インドに侵入、大帝国を築きます。これが世界史に出てくるクシャン朝でカニシカ王が有名ですね。サマルカンドはササン朝時代、イスラム帝国時代もこの地方の中心都市であり続けました。その後11世紀のセルジューク朝の前後あたりから、トルコ系遊牧民が侵入、トルコ化が進みます。1077年に成立したホラズム・シャー朝はトルコ人の王朝でした。

 1210年、ホラズム・シャー朝はウルゲンチからサマルカンドに遷都します。そしてチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の侵攻を迎えました。1220年、徹底抗戦したサマルカンドはモンゴル軍によって破壊されます。この時市民の4分の3が殺されたそうですから恐ろしい。当時の人口は不明ですが、おそらく100万人は住んでいたと思います。

 このようにソグディアナの中心都市であったサマルカンドは歴史上何度も破壊されます。その度に再建され大都市に戻るのですから不死鳥のような都市です。それだけ地政学上重要な位置にあったのでしょう。14世紀から15世紀にかけてティムール帝国の首都となったサマルカンドは繁栄します。ティムールは自身の広大な帝国の首都として整備しました。この時の人口は一説では200万人を超えていたとも言われます。

 その後ソグディアナの中心都市の地位はブハラに奪われました。ソ連邦が成立するとウズベキスタン共和国として自治国となりソ連崩壊で独立しました。ウズベキスタンの首都はタシケント。サマルカンドは18世紀中ごろから周辺遊牧民族やロシア人の抗争の的となり荒廃します。ソ連邦時代、一時的にウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となりますが、長年の荒廃からついに立ち上がることはできませんでした。

 現在サマルカンドの人口50万人。一地方都市になりましたが、歴史ある都市として観光産業にも力を入れているそうです。いつかは訪れたい都市ですね。

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