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カテゴリー「 世界史」の記事

2020年11月27日 (金)

なぜ七王国の一つ、ウェセックスは強大化したか?

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 マイナーなイギリス史ばかり続いて付いてこれない方も多いと思います。これでイギリスシリーズは一応打ち止めなので興味ない方はスルーお願いします。

 

 5世紀初頭、ローマ帝国がブリテン島から撤退したために生じた権力の空白。それに付け込むようにブリテン島に侵攻したのはゲルマン系民族、アングル人、サクソン人、ジュート人でした。ジュート人の故地はユトランド半島の語源となった現デンマークに当たる半島北部。アングル人はその南、現在の北ドイツ、ユトランド半島の付け根に当たるシュレスビヒ・ホルシュタイン州に住んでいました。サクソン人はドイツ語読みザクセン人で現在のハンブルクを中心とするニーダー(低地)ザクセン地方出身です。

 余談ですが、現在ザクセンというとベルリンの南に位置するドレスデンを中心とするザクセン州が有名ですが、ザクセン人は南東のザクセン州から北西のニーダーザクセン州にかけて広く分布していました。カロリング朝フランク王国のカール大帝を苦しめたのがザクセン人で征服するまでに32年もかかっています。ですからほぼ全民族で移動したジュート人、アングル人と違い、ブリテン島に渡ったサクソン人はごく一部だと思います。

 アングル人、サクソン人、ジュート人を総称してアングロサクソン人と呼びますが、彼らはブリテン島のもともとの住民であるケルト人を征服して七王国を建設しました。ジュート人が建国したのはケント王国、アングル人は北からノーザンブリア、マーシア、イーストアングリア王国を建国します。サクソン人はウェセックス(西サクソン)、サセックス(南サクソン)、エセックス(東サクソン)の三つの王国を築きました。

 その中で一番強大化したのはイングランドの南西部に当たるウェセックス王国です。七王国を築いたアングロサクソン人ですが、欧州の民族移動の波は終わらず9世紀にイングランドに侵攻したのはスカンジナビア半島からジュート人の居なくなったユトランド半島まで進出していたノルマン人でした。彼らはヴァイキングとも呼ばれます。アングロサクソンよりさらに野蛮なノルマン人たちはロンドンの北からノーザンブリア全域まで含む広大なデーンロウと呼ばれつ支配地域を確立しました。

 それに抵抗したのはウェセックス王国のアルフレッド大王(849年~899年)です。彼は875年エサンドゥーンの戦いでウェセックスからノルマン人を叩き出し、海上でもノルマン人に勝利を重ねウェドモーアの和議でノルマン人の支配地域をデーンロウだけに止めます。面積だけ見るとデーンロウはイングランドの6割くらい占める広大な地域のようですが、イングランドの人口はロンドン以南のウェセックス、サセックス、ケントあたりに集中しロンドン以北は土地が貧しく人口希薄地帯でした。人が少ないからノルマン人が征服出来たとも言えます。

 アルフレッド大王の勝利は、彼個人の力量もあったでしょうが何よりウェセックスの人口、国力が他の七王国を凌駕していたのが大きかったと思います。そしてウェセックスはその後のイングランドの基礎となりました。1066年ウィリアム1世によるノルマン・コンクエストで敗北したエドワード懺悔王(在位1042年~1066年)は最後のウェセックス朝イングランド王国の王でした。

 ブリテン島のもともとの住民はフランスのガリア人と同族のケルト人です。ブリテン人とも呼ばれた彼らですが、アングロサクソン人の侵略で異民族支配を嫌った人々は現在のウェールズ地方やアイルランドに逃れました。さらに一部はフランスのブルターニュ半島に移住します。ブルターニュの語源はブリテンですからガリア人と同族であるブリテン人には住みやすかったのでしょう。ちなみにスコットランドにいた剽悍な山岳民族ピクト人は、アイルランドから渡ったゲール人と同化しスコットランド人となります。

 ですからイングランドの正統な住民を名乗れるのはC・W・ニコルさんのようなウェールズ人かもしれませんね。アングロサクソンにしてもノルマン人にしても侵略者の子孫なんですから。

2020年11月25日 (水)

アーサー王の都キャメロット

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 アーサー王伝説にでてくる都キャメロット。アーサー王に仮託される5世紀後半から6世紀初頭頃イングランドを統一したとされる王は実在したと言われます。ただアーサー王物語にある聖杯伝説や円卓の騎士などは後世の脚色で史実とは言い難いとされます。ですからアーサー王が本拠と定めたキャメロットは正確な場所が分からないというより実在しなかった可能性が高いと思います。

 ではキャメロットが全くの嘘かというと、アーサー王に仮託される当時の王が本拠と定めた場所はあるはずです。イギリスでもその観点でキャメロットがどこだったのか色々考察されているそうです。一番有力なのはイングランド南東部エセックス州にある都市コルチェスター。人口10万人ほどの地方都市ですが、紀元前から存在するイギリス最古の都市とも言われます。

 コルチェスターはケルト語で戦神カムロスの要塞を意味するカムロドゥノンと呼ばれました。その後紀元前43年ローマ軍がブリテン島に侵攻、この町を要塞化しラテン語読みでカムロドゥノムとなります。カムロドゥノムは属州ブリタンニア最初の首都となりました。紀元61年ブーディカ女王の乱で破壊され、その後属州の首都はロンディニウム(現在のロンドン)に移ります。

 しかしカムロドゥヌムも再建され、エセックスの重要都市であり続けました。5世紀にローマ帝国の支配が終わりゲルマン系のアングル族、サクソン族、ジュート族らが侵攻してくると、いつしかこの町はコルチェスターと呼ばれるようになります。ただ、考古学者モーティマー・ホィーラーはコルチェスター、ロンドン、セント・オールバンズを結ぶ三角形はアングロサクソン侵略初期も以前としてローマ人支配が続いていたと指摘し「ローマ支配の三角形」と呼びました。

 この点からも、アーサー王に仮託される王がケルト族長だった可能性は低く、ローマ軍人出身の植民市の首長、あるいはローマ帝国に雇われた傭兵隊長(具体的にはイラン系遊牧民アラン人の族長)だったと私は考えます。そしてキャメロットのモデルはローマ支配の三角形を基盤として一時アングロサクソンの侵略を防いだ王が根拠地としたコルチェスターだったのでしょう。

 

 

2020年11月22日 (日)

アーサー王伝説とサルマタイ人

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 前記事でアーサー王伝説のモデルとなった当時のブリテンの王がいたと考察しました。

 

 ローマ帝国時代、スコットランドを除くブリテン島はローマ帝国の属州ブリタンニアでした。世界史に詳しい方ならご存知だと思いますが、属州には二種類あり比較的安定し文官でも統治できる元老院属州(元老院で総督を任命)と内政が安定しないか敵が近隣に存在し軍団が駐留し武断政治をしなければいけない皇帝属州(皇帝が総督を任命)がありました。ブリタンニアは現在のスコットランドに剽悍な山岳民族であるピクト人がいたため皇帝属州でした。そして一時は第9軍団が駐留します。

 ただローマ軍団には限りがあり、より大敵であるゲルマン人やパルティアに備えなければいけなかったので第9軍団もバルカン半島に移動しました。ではブリテン島にローマ軍が全くいなかったかというとそうでもなく、ローマの退役兵たちが建設したカムロドゥヌム(現コルチェスター)やイスカ・ドゥムノニオルム(現エクセター)、エボラクム(現ヨーク)などの植民市がありました。これらの都市は民兵を提供します。

 またローマに帰順したブリテン島各地の部族が有事には補助兵を提供する約束でした。さらにローマ帝国は傭兵を雇ってローマの正規軍団が到着するまでピクト人の侵攻や内乱に備える役割を持たせました。その一つが、イラン系遊牧民のサルマタイ(サルマティア)人です。サルマタイ人は最初ドニエプル川からドン川に至る草原地帯にいました。紀元前3世紀にはオリエント世界を恐怖に陥れた黒海北岸にいた遊牧民族スキタイの衰退に付け込む形で侵略を開始し、これを滅ぼします。

 ローマ帝国とイラン高原に興ったパルティアが全面戦争に突入すると、サルマタイ人は両陣営に傭兵として雇われたそうです。元来が農耕民族で騎兵戦力に不安のあるローマ側は納得できるのですが、もともと中央アジア発祥のイラン系遊牧民族であったパルティアですらサルマタイ騎兵を頼りにしたという事は、それだけサルマタイ人騎兵が精強だったからでしょう。

 サルマタイ人も遊牧民族ですから国境を接するローマ領の属州ダキア(現在のルーマニア)あたりで略奪をしていたのでしょうが、ローマ人たちは彼らに巨利を約束し傭兵として雇う事で軍事力とします。これはゲルマン人にも当てはまり、おかげでローマ軍の軍事力は上がりましたが、兵士が異民族だらけで安定しなくなります。傭兵は利益がある限り従いますが、その利益が無くなると簡単に裏切るからです。西ローマ帝国も最後はゲルマン人傭兵隊長オドアケルに476年滅ぼされました。

 さてローマ帝国が異民族を傭兵で雇う時は、部族単位でした。というのはその方が統治しやすいからです。ブリテン島に渡ったのはサルマタイ人の中でも有力部族であったアラン人だったと言われます。西ローマ帝国の滅亡は476年ですが、属州ブリタンニアはそれより早く407年には終焉を迎えます。というのも、もともとのブリテン島の住民でローマ帝国の支配を嫌ってアイルランドに逃れていたケルト人(フランスのガリア人と同族)と、スコットランド地方のピクト人の双方から侵略を受けていたからです。西ローマ帝国はブリタンニアに総督を派遣しなくなり、植民市の住民たちは自分たちで防衛しなければならなくなります。ブリテン島の住民でローマの支配に服していたケルト人部族たちも部族制を復活させ各地に部族国家が誕生しました。

 これがアーサー王登場前のブリテン島の状況です。アーサー王は5世紀後半から6世紀初めころの人だと言われます。ですからケルト人(ブリトン人)部族の長だったか、あるいは植民市の指導者で各地に残ったローマ勢力を糾合したローマ人か、あるいは傭兵としてブリテン島に渡りそのまま土着したアラン人の首長のどれかがアーサー王のモデルだと思います。

 ここで軍事力を考察した場合、一番弱いのはローマ人植民市の民兵、次がケルト人部族兵で一番精強なのは遊牧民族のアラン人だと思います。後のモンゴル帝国でも分かる通り、遊牧民族の騎兵は少数精鋭で農耕民族の歩兵(ローマ人もケルト人も主力は歩兵)がいかに多数でも太刀打ちできません。ですから可能性としてはアラン人首長説が個人的に一番納得できます。12人の円卓の騎士というのはアラン人部隊の部隊長たちだったのかもしれません。円卓の騎士という概念も平等を尊ぶ遊牧民的なにおいがします。短期間でブリテン島を統一できたという事は軍事的に優越していなければ難しいと考えます。そしてその統治が長く続かず再び群雄割拠に戻ったというのもいかにも遊牧民族らしい。

 

 こればかりは決定的な資料がなくあくまでも個人的な想像ですが、当時のことをいろいろ想像すると楽しくなりますね♪

 

 

2020年11月20日 (金)

アーサー王終焉の地アヴァロンはグランストンベリーか?

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 アーサー王は5世紀末から6世紀初頭ブリトン人(ケルト人)を率いて侵略者アングル人、サクソン人、ジュート人などのゲルマン系諸族と戦ったとされ一応実在したと言われます。

 アーサー王の出自には様々な説があります。ブリトン人の王子説、アルトリウスという西ローマ帝国軍の指揮官で、帝国滅亡後自立しブリテンで王となったという説、西ローマ帝国の傭兵でブリテン島に土着したイラン系遊牧民の首長説など。アーサー王物語にも様々なバリエーションがあるのですが、ここでは私が理解している一番ドラマチックなものを紹介しましょう。

 

 『ブリトン人の王ユーサー・ペンドラゴンの王子として生まれたアーサー。ペンドラゴン王は悪人どもの陰謀で暗殺され生まれたての王子アーサーは忠臣に守られ城を脱出、民間で育てられます。成長したアーサーは「この剣を抜く者はブリテンの王となるだろう」と書かれていた岩に刺さった剣を引き抜き見事王となりました。

 魔法使いマーリンの助けを得たアーサーは、湖の乙女に与えられた神剣エクスカリバーを手に入れ12人の円卓の騎士とともにブリテン島の統一戦争に乗り出します。ただアーサーの留守中本拠キャメロット城で妻ギネヴィアは、円卓の騎士の一人でキャメロットの留守を守っていたランスロットと道ならぬ恋に陥りました。アーサー王の従兄弟でもある湖の騎士ランスロットとの間に不義の子モルドレッドを生んだギネヴィア。

 いつしか不倫は発覚、ランスロットは追放されアーサーとの間に戦争となりました。悪妻ギネヴィアはアーサー王の怒りを買い火刑に処せられる瞬間ランスロットにより救出されました。ただアーサーはモルドレッドが実子だと信じていたようで、彼をキャメロット城に残しフランスに逃げたランスロット一味と戦争するため軍を率い渡仏します。長引くフランス遠征。成長したモルドレッドは自分がアーサー王の実子ではなく母と謀反人ランスロットとの間の不義の子だという事実を知りました。

 衝撃を受けたモルドレッドですが、結局アーサー王に背く道を選びます。モルドレッド謀反の報告を受けたアーサー王は、急ぎブリテン島に戻りモルドレッドと最終決戦カムランの戦いが起こりました。激戦の末モルドレッドとの一騎打ちに勝利し槍で討ち取るも、アーサー王自身も深手を負います。

 死期を悟ったアーサー王は、湖の乙女に神剣エクスカリバーを返し常春の島アヴァロンに渡りました。その後アーサー王はアヴァロンの地で亡くなったともアヴァロンで生き続け今でもブリテン島の人々を見守り国家が危機に陥った時には再び立ち上がるだろうとも言われます。』

 

 これがアーサー王伝説ですが、モルドレッドの出自についても様々説がありバリエーションも豊富でこれがメインストーリーだとは言えません。時代が下って12世紀末。イングランド南西部サマセット地方グランストンベリーの丘頂上でグランストンベリー修道院長がアーサー王とギネヴィア王妃(伝説と矛盾しますが…)の棺を偶然発見、改めて修道院に埋葬しました。

 サマセット地方は沼沢が多く、アーサー王の棺が見つかったグランストンベリー・トアという標高145mの丘は、当時湿地に浮かぶ島のようになっていたと言われます。伝説の常春の島アヴァロンはグランストンベリー・トアではないかという説が有力になりました。ただ異説もありはっきりしません。

 私の個人的考察ですが、アーサー王伝説はともかくアーサー王に仮託される当時のブリテンの王がこの地に埋葬されたのではないかと考えます。ですから王が不義を犯した妻ギネヴィアと一緒に埋葬されたとしてもおかしくないし、そもそもギネヴィアは不倫などしていなかったという事になります。12人の円卓の騎士自体があくまで伝説ですからね。

 最近ではアーサー王=ローマ帝国の指揮官アルトリウス説が有力だそうですが、ブリトン人の土着の王とした方が今のイングランドの人たちにも一番納得がいくと思います。ロマンが色々溢れる話ですが、皆さんはどのような感想を持たれましたか?

2020年10月26日 (月)

古代支那の兄弟の呼び方

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 俗に伯仲叔季という言葉があります。これは古代支那で兄弟の順番の呼び名です。伯が長男、仲が次男、叔は三男以下、季は末っ子を表します。四人兄弟なら綺麗に当てはまるんですが、それ以上だと叔が何人もいることになります。これとは別に長男を表す言葉に孟があります。例えば春秋時代晋で宰相となり権力を振るった趙盾。彼は家臣や部下から趙孟様と呼ばれました。

 これは伯が嫡流の長男、孟は嫡流庶流関係なくすべての兄弟の長男という意味です。ですから実質次男や三男でも正室の最初の子なら伯と呼ばれることになります。この場合孟と伯が別々に存在するということです。

 儒教の祖孔子関係の歴史書にも孔子の祖国魯の国政を壟断した三桓氏という大豪族が出てきます。三桓氏というのは魯第15代君主桓公の息子慶父(孟孫氏【仲孫氏とも言う】)、叔牙(叔孫氏)、季友(季孫氏)を家祖とする公族です。孔子の時代には魯公を挿げ替えるほどの実力を持つほどの勢力を誇りました。孔子が祖国を叩き出されたのは三桓氏と対立したからだとも言われます。

 三桓氏のうち、孟孫氏ですが桓公のあと16代を継いだのは長男荘公ですから彼が伯のはず。孟孫子の祖慶父は仲孫氏とも呼ばれます。どういうことか私なりに考えたんですが、本来は長男である慶父は母が側室だったために荘公の弟とされ次男を意味する仲孫氏と呼ばれたのかもしれません。

 魯は周の武王を助けた弟で聖人である周公旦を祖とする由緒ある国ですが、三桓氏のような公族が権力を振るうようになったため公室の力が衰え衰退したのでしょう。もともと隣国で太公望姜子牙(呂尚)を祖とする斉よりも中原に近く有利な立場にあった魯ですが、周公旦の方針である公族を大事にしすぎたために衰えました。逆に斉は太公望の方針で家臣をあまりに大事にしすぎたために権臣田氏に乗っ取られたのでしょう。

 国を保つのは本当に難しいですね。バランスが一番大事です。孔子が中庸の徳を最上としたのは祖国魯の惨状と隣国斉の行く末を見て思い立ったのかもしれませんね。何事も極端が良くないのでしょう。我々の生き方にも参考になります。

2020年9月24日 (木)

サマルカンド - 世界の都市の物語 -

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 古代ギリシャ人はアラル海にそそぐ大河アムダリアをオクサス河と呼びました。アラル海にそそぐアムダリアともう一つの大河シルダリアの間の土地をトランスオクシアナと言います。同じく古代支那の史書ではこれを河間地方と名付けました。トランスオクシアナは別名ソグディアナとも呼びます。

 紀元前数千年前の農耕遺跡が見つかるなど世界史的にも開けた地方の一つで、その中心都市がサマルカンドでした。ソグディアナはソグド人の土地という意味です。ソグド人は古来商業民族として有名でモンゴル帝国が世界支配した時彼らを起用し統治に利用しました。高い生産性を持つ農耕地帯でしたから早くから他の地方との交易も盛んだったのでしょう。シルクロードの重要な中継地点でもあるので、ソグド人が商売に長けたのは自然だったかもしれません。

 サマルカンドは分かっているだけで紀元前10世紀頃には既に存在し、イラン系(ソグド人もイラン系)の住民が住んでいたそうです。ギリシャの資料では紀元前4世紀に登場しマラカンダと呼ばれました。紀元前4世紀でピンときた人も多いと思いますが、マケドニアのアレクサンドロス大王に最後まで抵抗した都市です。当時から難攻不落で知られ、マケドニア軍も攻めあぐねたと言われます。ようやくこの地域を攻略した時、アレクサンドロス大王は一人の美女を得ます。その名はバクトリアの王女ロクサネ(ロクサンヌ)。ロクサネを側室に加えたアレクサンドロスは彼女を溺愛したそうです。

 後漢書にもサマルカンドの記述があり、サマルカンドを中心とした都市国家連合を康国と呼びました。康国の支配者は月氏だと書かれています。月氏はイラン系の遊牧民で最初は甘粛回廊あたりに住んでいました。匈奴が勢力を拡大するとこれに追われ中央アジアまで逃れたのです。ソグド人も月氏も同じイラン系ながら、早くから農耕民族として定住していたソグド人にとって野蛮な遊牧民である月氏の支配は苦痛でしかなかったと想像します。

 ちなみに、月氏はソグディアナで勢力を回復し北インドに侵入、大帝国を築きます。これが世界史に出てくるクシャン朝でカニシカ王が有名ですね。サマルカンドはササン朝時代、イスラム帝国時代もこの地方の中心都市であり続けました。その後11世紀のセルジューク朝の前後あたりから、トルコ系遊牧民が侵入、トルコ化が進みます。1077年に成立したホラズム・シャー朝はトルコ人の王朝でした。

 1210年、ホラズム・シャー朝はウルゲンチからサマルカンドに遷都します。そしてチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の侵攻を迎えました。1220年、徹底抗戦したサマルカンドはモンゴル軍によって破壊されます。この時市民の4分の3が殺されたそうですから恐ろしい。当時の人口は不明ですが、おそらく100万人は住んでいたと思います。

 このようにソグディアナの中心都市であったサマルカンドは歴史上何度も破壊されます。その度に再建され大都市に戻るのですから不死鳥のような都市です。それだけ地政学上重要な位置にあったのでしょう。14世紀から15世紀にかけてティムール帝国の首都となったサマルカンドは繁栄します。ティムールは自身の広大な帝国の首都として整備しました。この時の人口は一説では200万人を超えていたとも言われます。

 その後ソグディアナの中心都市の地位はブハラに奪われました。ソ連邦が成立するとウズベキスタン共和国として自治国となりソ連崩壊で独立しました。ウズベキスタンの首都はタシケント。サマルカンドは18世紀中ごろから周辺遊牧民族やロシア人の抗争の的となり荒廃します。ソ連邦時代、一時的にウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となりますが、長年の荒廃からついに立ち上がることはできませんでした。

 現在サマルカンドの人口50万人。一地方都市になりましたが、歴史ある都市として観光産業にも力を入れているそうです。いつかは訪れたい都市ですね。

2020年9月12日 (土)

内モンゴル雑感

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 最近シナ共産党政府による内モンゴルにおけるモンゴル人の民族浄化問題を取り上げました。私の悪い癖は、一つの事を書くとその関連項目を調べなくては気が済まなくなることです。ただその集中力は長く続かず熱しやすく冷めやすいので困ったものです。私の記事のテーマがあちこち飛ぶのはこのためです。ですから、歴史に興味のない方には全く面白くないと思うのでスルー推奨です(笑)。

 

 さて前記事でモンゴル民族は大きくハルハ部とチャハル部に分かれ、ハルハ系が外モンゴルであるモンゴル国、チャハル系が内モンゴル自治区に住んでいると書きました。それと明代強勢になったタタール(明側呼称韃靼、モンゴル民族の事)のアルタン・ハーンの関係がよく分かりませんでした。元朝が滅んだあと最初にモンゴル高原の覇者になったのはオイラートのエセン・ハーン(1407年~1454年)です。このオイラートというのはオイラート部族連合の事で、チンギス・ハーンの正統な子孫黄金氏族ではなく外様です。そればかりか当初はチンギス・ハーンに敵対もしています。

 そのオイラートがモンゴル高原の覇者になったのは、元朝崩壊後北に逃れた北元のモンゴル人たちが内紛によって勢力を衰えさせたのも原因でした。1388年北元のトグス・テムル・ハーンは明の将軍藍玉(?~1393年)の攻撃を受け敗退、逃亡の途中かつてフビライとハーン位を争った弟アリクブカの子孫イェスデルに殺害され、フビライ・ハーンから続く北元の正統な血統は断絶します。

 オイラートのエセン・ハーンはその間隙をついて急成長しました。1449年には土木の変で明の討伐軍を撃破、時の皇帝英宗正統帝を捕虜とするほどの大功をあげます。エセン・ハーンは自身のモンゴル高原支配を正当化するため、チンギス・ハーンの子孫である黄金氏族の多くを殺害したそうです。

 しかし遊牧民族の常としてオイラートでもエセン・ハーンの死後後継争いで勢力を衰えさせます。雌伏していたモンゴル族(タタール、明側呼称韃靼)のダヤン・ハーン(1473年~1516年)は内紛で混乱するオイラートを討って再びモンゴル高原を取り戻しました。ですからモンゴルではダヤン・ハーンを民族再興の祖と呼ぶそうです。

 このダヤン・ハーンが息子たちをトゥメン(万人隊)の長として組織し、これがハルハ部やチャハル部になったと書きました。ただ歴史書ではタタール部はその後アルタン・ハーンによって強勢になったと書かれています。アルタン・ハーン(1507年~1582年)はチャハル部でもハルハ部でもありません。ダヤン・ハーンの三男バルス・ボラド・ジノンの次男でした。最初アルタンはダヤン・ハーンの嫡孫で従兄弟に当たるチャハル部のボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認めていたそうです。ただこの頃からモンゴル高原西部で勢力を拡張し1550年には明に侵攻し首都北京にも迫っています。

 ボディ・アラグ・ハーンの死後、チャハル部はアルタン・ハーンの勢力を恐れ興安嶺山脈の南東側に逃亡しました。こうして内モンゴルも勢力下に収めたアルタン・ハーンはチベットやカザフスタン方面にも進出し最盛期を築きます。アルタン・ハーンの死後、遊牧民族の常として彼の勢力は急速に衰えました。そしてアルタン・ハーンのせいでモンゴル民族は分裂したと言われます。それゆえにモンゴルではアルタン・ハーンの評価は祖父のダヤン・ハーンに比べて低いそうです。

 チャハル部はアルタン・ハーンの死後勢力を取り戻し再び内モンゴルも勢力下に収めました。過去記事「玉璽と天命」で登場したリンダン・ハーン(1590年~1634年)はこのチャハル部最後のモンゴル高原の覇者でした。その後興安嶺山脈東側の満洲族が急速に台頭し、チャハル部もハルハ部も満洲族が建てた清朝に服属します。

 内モンゴル自治区が興安嶺山脈西麓まで含む細長い領域なのはまさにチャハル部の勢力範囲だったからでしょう。ノモンハン事件を考えるとハルハ部の勢力もこのあたりに伸びているはずですが、モンゴル高原東部と興安嶺西麓の間はチャハル部が支配していたのかもしれません。

 外モンゴル(モンゴル国)より内モンゴルのモンゴル人の人口が多いのは、遊牧民族にとって農耕民族の周辺に住んでいたほうが何かと都合良かったからでしょう。平時は交易、有事は略奪がしやすいですからね。内モンゴルはゴビ砂漠の印象しかありませんが、2000万人近い漢族が進出していることを考えると農耕適地も多いのでしょう。オアシスもあるそうですし、長城線のすぐ北側、黄河湾曲部周辺は耕作できそうな感じはします。

 近代に入り農耕民族側が銃で武装し始めると遊牧民族の優位は崩れます。ロシア然り、シナ然り。交易と略奪に都合が良いからとシナ人の居住地周辺に住んでいた内モンゴルのモンゴル人たちは、逆にシナ人の圧迫を受けるようになりました。これが近年のシナ共産党政府のモンゴル人民族浄化問題に発展していったのでしょう。

 

 歴史の流れとは言え、遊牧民族好きの私としては寂しいですね。

 

 

2020年8月25日 (火)

殷墟と朝歌と鄴

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 マニアックでごめんなさい。世界史に興味のない方にはチンプンカンプンだと思うのでスルーお願いします。

 殷墟というのは皆さんが世界史で習った殷王朝の首都遺跡です。ただ近年の研究では商王朝というのが正しいとされます。殷というのは金石文の解読からそれを滅ぼした周王朝が呼んだ名称で、殷の人々は商と自称したらしいのです。一部では商とは殷墟のあった首都の名前(大邑商)で、その国の名称そのものではないという声もあります。が、都市国家ローマが支配した地域を共和政ローマやローマ帝国と呼ぶ世界史的慣例からすると首都の名前が大邑商ならその国の名前も商と呼ぶのがふさわしいと私は考えます。

 殷墟は現在の河南省安陽市にあります。その領域は東西6㎞、南北4㎞もあり広大です。存在が確認されている中では支那最初の王朝である商の首都にふさわしい規模です。一応その前の夏王朝も決定的な証拠が出ていないだけで二里頭遺跡が夏王朝の首都だったと推定されているので存在したと私は思っています。

 ところで、史書(史記だったかどうかは自信なし)では、商王朝最後の王紂王(帝辛)は周の武王に牧野の戦いで敗れ最後の首都朝歌の宮殿で自害したと書かれています。殷墟から出土した甲骨文を解読した所紂王ではなく帝辛と呼ぶのが正しいそうです。商では歴代王に十干(甲乙丙丁戊己康辛壬癸)を付けたようです。例えば商王朝初代湯王は帝乙というように。

 私の印象では朝歌と大邑商は離れているように思ったんですが、地図を見てみると朝歌は安陽市のすぐ南隣の河南省淇県(きけん)。春秋時代には諸侯国の一つ衛(周王室の一族で姫姓)の首都となっています。ただ紀元前660年異民族狄に攻め落とされ、首都を黄河南岸の曹(現在の河南省滑県)に遷都しました。その後衛は楚丘、帝丘(河南省濮陽県)に都を移し最後は紀元前209年秦に滅ぼされました。

 大邑商の規模を考えると朝歌も商の領域に含まれるか、商の郊外にあった王朝の離宮だったろうと推定されます。ですから朝歌が大邑商の一部だと解釈して間違いなさそうです。

 さらに歴史が下って三国時代。有名な魏の曹操が首都と定めた鄴(ぎょう)も安陽市と河北省邯鄲市臨漳県にまたがっており、広い意味で大邑商の領域内と解釈できそうです。そう言えば曹操の墓だとされる遺跡が安陽市で見つかっていますよね。

 この地は古代から都市が成立する条件にあったのでしょう。鄴と殷墟が近いのは知っていましたが、朝歌ともごく近いというのは驚きました。やはり史書の記述は信用できますね。たまに誇張がありますが(苦笑)。

2020年7月15日 (水)

司馬懿の先祖と司馬遷の先祖

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 私(鳳山)の悪い癖は一つの記事を書くと関連項目を調べないと気が済まなくなることです。ですから熱中しているときの集中力は凄いんですが、熱しやすく冷めやすいのですぐ忘れます。支那史上の有名人の子孫、先祖を調べていくうちの関連話です。歴史に興味のない方は全く面白くないと思うのでスルー推奨です。

 過去記事で秦の将軍王翦(おうせん)の子孫が漢代の剛直の士王吉でその末裔は魏晋南北朝時代の門閥貴族琅邪王氏になったことが分かりました。そして支那史上で最も有名な書聖王義之が登場します。では王義之と並び称される書家・詩人である謝霊運はどうだったのでしょうか?謝氏に関しては先祖が分かりませんでした。ただ陳郡謝氏は琅邪王氏と共に魏晋南北朝時代何代にもわたって宰相を出した超名門の門閥貴族でしたので、もともと大地主だったのでしょう。陳郡は現在の河南省周口市一帯。八王の乱から始まる中原の混乱を避け江南に一族郎党で移り住んだのでしょう。このあたり山東の琅邪王氏と似ていますね。

 ちなみに王義之の大叔父には東晋の建国を助けた宰相王導がおり、謝霊運の祖父は淝水の戦いで東晋を滅亡から救った将軍謝玄で、謝玄の叔父が宰相謝安です。陳郡謝氏と琅邪王氏は何代にもわたって通婚を繰り返しており南北朝時代の南朝政権は王氏、謝氏に代表される有力貴族の連合政権でした。日本史的感覚から言うとただの貴族にそれだけ力があるはずがないと思われるかもしれませんが、支那の貴族、豪族は桁違いで広大な荘園を持ち部民を動員すると2~3万人かそれ以上の私兵を持っていました。イメージ的には江戸時代の大名家に近いかもしれません。その中で王氏、謝氏は加賀百万石前田家や薩摩七十七万石島津家レベル(あるいはそれ以上か?)だったと思います。

 では三国志で諸葛亮のライバルだった司馬懿はどうでしょうか?司馬懿の一族は河内(かだい)郡温(現在の河南省のうち黄河以北の土地)出身でした。調べてみるとその先祖は戦国時代趙の将軍だった司馬尚。名将李牧と共に滅びゆく趙を秦の侵略から守り抜き戦いますが、秦の賄賂を受けた趙王の側近の讒言で将軍職を解かれます。李牧は讒言を信じた趙王の命で自害しますが、司馬尚は上手く逃亡に成功したようです。子孫の司馬懿に繋がる要領の良さですね。司馬卬(しばごう)は司馬尚の息子で、秦末の混乱期に台頭、項羽により河内地方を中心とする殷王に封じられました。司馬一族が河内に定住したのはこの頃でしょう。その後、司馬氏は漢朝に仕え三国時代に司馬懿、司馬師、司馬昭を輩出、司馬懿の孫司馬炎の時代に主家である魏を滅ぼし晋(西晋)を建国しました。

 司馬氏といえばもう一人有名人がいます。不朽の名著史記を記した司馬遷です。先祖を調べると秦の中期、蜀王国を滅ぼした将軍司馬錯(しばさく)でした。これは意外でしたね。ちなみに蜀王国は伝説の三星堆文明を滅ぼした望帝杜宇の末裔で中原とは違う独自の文明を築いていました。民族も漢民族ではなくおそらくチベット系の羌族ではなかったかとも言われます。

 司馬とはもともと軍政を司る役職で、それを姓としたものです。日本で言えば三善氏が問注所氏を称したようなものでしょう。代々軍人を輩出しそうな家系なのに司馬遷のような文人が出るんですから面白いですね。もっとも司馬錯のさらに先祖は周代記録係だった司馬氏だったそうですから、文系の血も流れていたのかもしれません。司馬遷の父司馬談も太史令(朝廷の祭祀、文書の起草や記録を司る役職)だったそうですから、漢代は文官の血が強まっていたのでしょう。

 歴史上の有名人の先祖や子孫を調べると本当に面白いですね。

2020年7月13日 (月)

竇猗房(とういぼう)、数奇な運命の皇后

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 宮城谷昌光氏の短編小説に『花の歳月』という作品があります。私の中では『鳳凰の冠』と共に宮城谷作品では五本の指に入る傑作短編だと評価しています。宮城谷さんはどんな主人公でも爽やかに書きすぎる悪癖がありますが、この二作に関してはそれが成功しています。花の歳月も全編に爽やかな風が吹き渡る美しい作品です。

 花の歳月の主人公竇猗房(とういぼう 不明~紀元前135年)は実在の人物で前漢三代皇帝文帝の皇后になった女性でした。花の歳月の元ネタは司馬遷が記した不朽の名作、史記・外戚世家です。史記によると竇猗房は現在の河北省南東部から山東省北西部にまたがる清河郡観津に生まれました。竇家は名家ではあったものの秦末から楚漢戦争の影響で没落し猗房の生まれたころは貧しい生活を送っていました。

 猗房には兄長君、弟広国がおり、弟広国とは特に仲が良かったそうです。幼少期二人で遊びまわりある時広国が姉のために桑の実を取ろうと木に登り落ちました。痛みにこらえながらも広国は姉に桑の実を渡し二人でそれを食べ口の中が真っ黒になって笑いあったというエピソードもあります。

 漢の高祖劉邦が天下を統一しようやく世の中に平和が戻りました。猗房は近所でも評判の類まれなる美少女だったといわれ、竇家では彼女を後宮の官女に差し出すことで貧乏生活を免れようと考えます。竇家は落ちぶれたとはいえ名門だったので後宮入りはすんなり決まりました。何も知らない猗房は両親に言われ長安に出発の日が来ました。弟広国は大好きな姉と別れるのを嫌がり泣いたそうですが、猗房は広国の髪を洗い優しく櫛で整え最後の別れを惜しみます。

 こうして後宮にあがった猗房ですが、彼女の知らない所で悲劇が起こりました。弟広国が何者かにさらわれ行方不明になったのです。竇家は必死に探したそうですがついに見つかりませんでした。情勢不安定な土地では誘拐が日常茶飯事だったのでしょう。猗房は後宮にあがったものの、その他大勢であることに変わりなく無為の日々を過ごします。当時高祖劉邦は亡くなり、呂太后の専横が始まっていました。ある時、各地に封じてある王(劉邦の息子たち)に五人ずつ官女を賜ることが決まります。猗房は仲の良い宦官に故郷に近い趙王如意のもとに送ってくれるよう頼みます。ところが宦官はそれをすっかり忘れ、趙ではなく辺境の代行きの名簿に猗房を加えてしまいました。

 歴史に詳しい方ならピンと来たと思いますが、趙王如意の母は劉邦が最も寵愛した戚夫人。そのため呂太后の憎しみを受け惨たらしい方法で殺されます。その息子である如意も毒殺されました。呂太后は戚夫人の両手両足を切り落とし目を潰し便所に落として人豚と呼んで罵ったそうです。これを見た息子の恵帝は優しい性格だっただけに衝撃を受け、以後酒色におぼれ早死にします。宦官はそういう宮中の空気を察し趙に猗房を送れば危ないと思って名簿から外したのかもしれません。猗房は知らない所でまたしても命を免れました。

 諸王に送り込まれた官女も決して歓迎されませんでした。呂太后は呂氏一族が天下を奪うために劉氏に所縁のある諸王の落ち度を見つけ取り潰そうと虎視眈々と狙っていたからです。猗房が送り込まれた代王、劉邦の四男劉恒は楚の母薄夫人がほとんど劉邦に愛されなかったため呂太后も警戒していませんでした。宦官は代なら安全だと思って猗房を名簿に加えたのでしょう。薄夫人の母は戦国七雄の一つ魏の公室に所縁の人物でしたが、国が滅び薄という庶人と結婚し薄夫人を生みました。成長すると秦末の混乱期群雄の一人西魏王魏豹の側室として後宮に入れられますが、美しくはあっても大人しい性格だったため魏豹にほとんど顧みられませんでした。その後魏豹は劉邦に滅ぼされ薄夫人も戦利品としてそのまま劉邦の後宮に入れられます。

 ある時、薄夫人は仲の良い側室たちと誰が一番早く劉邦の寵愛を受けるか話し合ったそうです。ところがいつまでも薄夫人は無視され続け、側室たちが「あの人だけは陛下の寵愛を受けられなかったね」と笑い合っていたそうです。これを聞いた劉邦は哀れに思いその日薄夫人を召し出します。そしてただ一度の寵愛で薄夫人は身ごもりました。その時の子供が代王劉恒です。劉恒を代王にしたのも、代は匈奴に近い危険な土地で死ぬ可能性も高かったため劉邦にほとんど愛されなかった劉恒に白羽の矢が立っただけでした。薄夫人は、息子が代に出立すると自分も同行します。おそらく母子ともども代の地で生涯を終える気だったのでしょう。彼女にとって息子だけが唯一の生き甲斐でした。

 最初、薄夫人も代王劉恒も呂太后から送り込まれた官女たちを警戒します。自分たちを監視するためのスパイと思ったのです。ところが猗房は聡明で誠心誠意仕えたためいつしか劉恒は心を開くようになります。そして五人のち猗房だけを寵愛しました。薄夫人にも気に入られようやく幸せを掴めたのでしょう。間もなく二人の間には娘と二人の息子が生まれました。

 時代は猗房の知らない所で大きく動きます。各地に封じられた劉邦の息子たちは呂氏一族の圧迫政策である者は殺され、ある者は落ち度を咎められ取り潰されました。そんな中、呂太后が亡くなります。漢朝創業の功臣陳平、周勃らは彼女の死をじっと待っていました。そしてそれを確認すると一気に動き出します。兵士を率いた周勃が宮中に乗り込み、呂氏一族をことごとく誅殺しました。このクーデターは成功しましたが、後を継ぐ皇帝を誰にするかで紛糾します。群臣会議の結果、外戚が呂氏一族のように専横の可能性がない代王劉恒が選ばれました。

 都から皇帝就任を懇願する使者が来ても、呂太后の罠ではないかと劉恒も薄夫人も警戒したそうです。しかし何度も来る使者に根負けしてついに決断します。こうして劉恒は長安に帰還し即位しました。すなわち前漢第三代皇帝文帝です。実は二代恵帝と文帝の間に二人の幼い皇帝がいるのですが、これは呂太后が立てた傀儡皇帝ですので正式な皇帝には数えません。

 夫劉恒が皇帝に即位したので、猗房も皇后に立てられました。新しい皇帝が立った事、その皇后竇氏は清河郡観津の出身であることを聞いた若者がいました。驚いた若者は、「もしかしたら自分の姉かもしれない」と主人に告げます。広国でした。実は広国は誘拐され奴隷に売られていたのです。十余家に転売され各地を転々としました。河南省の宜陽にいた時、炭作りをしていたそうですが休憩中突如崖が崩れ仲間の奴隷たちが生き埋めになります。一人離れた場所で休んでいた広国だけが助かりました。この奇跡に自ら占ってみると『まもなく侯になる』と出ました。広国は奴隷の自分が侯になれるはずがないと一笑に付します。

 猗房が皇后になった時、広国は偶然にも同じ長安にいました。新皇后が自分の姉かもしれないと主人に話すと、驚いた主人は広国を奴隷から解放し朝廷に訴え出ます。普通奴隷を使役するような者は悪人というイメージが強いですが、この主人は部類の善人だったのでしょう。意地悪な見方をすると皇后の縁者を奴隷としてこき使っていたと発覚すると重い処罰をされるのでそれを恐れたという見方もできますが、まあここでは善人として話を続けましょう。

 猗房は訴えを聞いて弟広国に違いないと思います。しかしこういう天一坊のような山師は当時から数多く居たようなので、念のために文帝自ら広国を引見して話を聞くことにしました。広国は堂々と皇帝の下問に答え幼少期の桑の実のエピソード、猗房が出立の時自分の髪を洗ってくれたことを話します。帳の影で聞いていた猗房は思わず駆け出しました。大粒の涙をうかべ「広国、広国」と抱きかかえます。広国もこれに応え号泣しました。この光景を見ていた群臣たちで涙を流さなかった者はいなかったそうです。

 こうして広国は皇后の弟として侯に立てられました。占いは当たったのです。陳平、周勃らは竇氏の兄弟が専横することのないように賢者を教育係にしました。そのおかげで、広国も後に召し出された兄長君も謙虚で慎ましい君子に育ったそうです。文帝は名君として名高い皇帝ですが、それには皇后猗房や、補佐をする竇兄弟の力もあったと思います。猗房の生んだ長男劉啓は後に第四代景帝として即位します。

 ただ晩年病気で失明した竇太后(猗房)はわがままで息子景帝を困らせたそうですが、国家を傾かせるほどではなかったのでこの二代の御代は文景の治と言って漢王朝が善政で良く治まった時期として称賛されています。

 

 

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