2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

カテゴリー「 世界史」の記事

2024年7月 2日 (火)

カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20240627-205915

 誰もついてこれないマニアックな世界に入っていますが、私は一つのことに関心を持つとその関連情報も調べたくなる癖がありまして、只今のマイブームはシルクロードでございます。これを書いている最中にも懐かしのNHK特集『シルクロード』のテーマ曲(喜多郎 絲綢之路)が脳内を流れています(笑)。

 さて、ヤフーブログ時代私は貴種流離譚が大好きだと書いた記憶があります。高貴な出身の人物が国を追われ異郷で活躍したり失敗して非業の最期を迎えたりする話です。異郷での成功者は後ウマイヤ朝をイベリア半島に建国したアブドルラフマーン1世であり中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国した耶律大石でした。逆に運命に逆らえず寂しく没したのがササン朝最後の王子ぺーローズであり日本で言えば北条時行、足利直冬(ただふゆ)なのでしょう。彼らに関しては過去に記事を書いています。

 その中で、耶律大石がカラハン朝を滅ぼし首都にしたベラサグンの位置が謎だと書いた記憶があります。当時はイシククル湖畔か周辺の河川に面した場所ではないかと推定しました。ところが最近ネットで調べてみると、イシククル湖周辺ではなく湖の北、天山山脈の支流の北側、トクマクの南南東10㎞くらいにあるブラナ遺跡がベラサグンの跡ではないかと言われています。

 通常遊牧民族は王庭(単于庭)といって、要害の地に族長の大テントを中心に大小さまざまなテント群を設けて首都とします。これはいつでも移動できるようにすることと、緊急時には防衛しやすくするためです。通常は三方を山に囲まれ一方が開けた平野などに設けます。

 ところがブラナ遺跡は平野の真っただ中で周囲に要害となるような地形もなく本当に王庭があったのか疑問でした。ただカラハン朝時代からベラサグンは首都だったので、そこらへんに謎を解くカギがあるような気がします。カラハン朝もトルコ系遊牧民族が建てた国ですが、農耕民族を支配下に入れていたためテントではなく通常の都市を都としていたようなのです。

 実はシルクロードはイシククル湖ではなく山脈を隔てた北側を通っています。甘粛回廊の西端敦煌から西はタクラマカン砂漠が広がり、砂漠の南縁を通る西域南道と、北縁を通る西域北道に分かれます。西域北道も天山山脈の北を通る天山北路と南側を通る天山南路に分かれています。

 天山南路は5000m級のパミール高原を越えないといけないため、天山北路が主に使われました。その天山北路が通るのがまさにブラナ遺跡でありキルギスの首都ビシュケクも地方都市トクマクも天山北路沿いです。耶律大石は遊牧民族のセオリーである王庭方式ではなく、シルクロードの交易路を押さえ農耕民族を支配しやすいように都市を首都としたのかもしれません。

 そういえば、契丹族は北宋の北にあった遼時代も遊牧民を支配する北面官、農耕民を支配する南面官を設け巧みに統治していましたからね。西遼時代も似たような統治機構だったのでしょう。

2024年6月30日 (日)

甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20240627-014901

 誰も興味ないと思いますが、私は一つのことに興味を持つとその関連情報を調べたくなるのでせっかくなので備忘録として記します。

 黒水城(カラ・ホト)の記事で、甘粛省と青海省の境にそびえる祁連(きれん)山脈に源流を発した弱水は甘粛回廊部を北西に流れた後、酒泉あたりで北東に転じゴビ砂漠の内陸湖である居延海近くで砂漠に飲み込まれ消えると書きました。昔は居延海がかなり大きく、弱水も直接居延海に注いでいたそうです。

 地図をパッと見ただけだと、弱水は居延海あたりから流れ出し甘粛回廊に向けて南流するようなイメージですが実際は逆でした。では甘粛回廊とゴビ砂漠、モンゴル高原の標高はどうなっているのか調べてみました。

 甘粛回廊(河西回廊)のある甘粛省は平均標高2260mもあります。しかしこれは省域に祁連山脈があるためで、祁連山脈は4000m級の高山です。回廊自体の平均標高は分からなかったんですが、各都市の標高を調べると甘粛省の省都蘭州で1424m、武威市で1440m、張掖市で1820m、酒泉市で1483mでした。回廊部は大体平均標高1400m前後はありそうです。

 ついでゴビ砂漠を調べたんですが、西高東低で西部の平均標高は1200m、東部に下るにつれ低くなって900mほどになります。ゴビ砂漠の北モンゴル高原の平均標高は1580mですから、祁連山脈から見ると甘粛回廊は山脈に連なる裾野の高原地帯でそこからゴビ砂漠に向かって平均で200mほど下ります。そして居延海あたりが最低標高で、北に行くにつれ再び標高が上がりだしモンゴル高原で1500m級に達するようです。

 甘粛回廊は幅30㎞くらいの狭い土地でシナ本土と西域をつなぐ交易路(シルクロード)ですが、ゴビ砂漠よりは高い位置にあったんですね。意外でした。

 ついでに言うと、ゴビ砂漠はサハラ砂漠のように砂丘が永遠に続く不毛地帯のようなイメージでしたが、かつての居延海のように湿地もあればオアシスもあり、全体的に言えば荒野という表現が正しいのかもしれません。もちろん純粋な砂丘もありますが。そして、内モンゴル自治区に点在する都市はこのようなオアシスに発展していったのでしょう。

 実際灌漑すれば農耕に適した土地もあるようで、内モンゴル自治区では元からの住民である400万人のモンゴル族に対し後から入ってきた漢族が1900万人もいるそうです。実はウイグルやチベットでも同じような状況で漢族が多数派を占めます。明らかな人口侵略ですね。

 このような漢族の人口侵略は清代から始まったそうで、現地のモンゴル人、ウイグル人はさぞかし不快だったことでしょう。20世紀にはいるとチベットにまで漢族の人口侵略の魔の手が伸びます。遊牧民は大人口を養えないのでどうしても農耕民族に人口の面で負けますからね。共産党政権になってから漢族の移民は拍車がかかったそうですから、意図的に民族浄化を図ったのかもしれません。

 元朝が明に滅ぼされた後、残党の北元が内モンゴルにとどまったのも人口的、経済的に明と対抗できると思ったからでしょう。民族の故郷であるモンゴル高原のモンゴル国の人口は328万人しかおらず、内モンゴル自治区のモンゴル人のほうが400万人で多いですからね。それでも現在は少数派になっているんですから悲しい話です。

 こういうことを言うと非難する人もいそうですが、大東亜戦争中に日本が作った傀儡国家徳王の蒙古国は民族的、政治的には正しい選択だったのかもしれません。結局日本の敗戦で崩壊し、徳王も最初モンゴル人民共和国に亡命しましたがシナ共産党政権に引き渡され逮捕されました。モンゴル共産党にとっては旧世紀の遺物である黄金氏族(チンギス汗の子孫)の徳王は利用価値がなかったのかもしれません。同族に裏切られた徳王は哀れですね。世が世ならモンゴルの王(ハーン?)になってもおかしくないのに。

 その後の徳王は、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀と似ていました。徹底的な思想教育を受け民間人になって1966年病死します。話が甘粛回廊からかなり脱線しましたが、これが私のスタイルです(笑)。

2024年6月27日 (木)

黒水城(カラ・ホト)の話

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20240624-135121

 24日のあさ8の雑談で百田さんがたまたま黒水城の話を出されて非常に懐かしく思いました。と言いますのも昔NHK特集『シルクロード』第4回で黒水城が紹介されていたんです。

 黒水城は中世モンゴル語で『カラ・ホト』と呼びました。甘粛省と青海省の境界近く祁連山脈に源流を発し祁連山脈南麓に沿って、八宝鎮で八宝河と合流の後北西流、次いで北東に転じて祁連山脈を北に抜けて甘粛省に入る海に流入しない内陸河川に弱水という河があります。現地の言葉でエチナ川、別名黒水と言います。

 甘粛省酒泉市から弱水沿いに北東に300㎞ほど進んだところに黒水城があります。黒水城の名前の由来は弱水の別名黒水から来ているのでしょう。私は最初地図を見て黒水城のほうが上流、甘粛回廊のほうが下流と思っていたんですが、どうも逆のようです。たしかNHK『シルクロード』ではチンギス汗の西夏攻撃の際、西夏軍が激しく抵抗しモンゴル軍に滅ぼされたと紹介されていたと思います。

 私も長い間信じていたんですが、調べてみると落城後も復興されモンゴル帝国の宗主権のもと繫栄したそうです。西夏時代の3倍も市域が拡大したそうですからよほど栄えていたんでしょう。

 黒水城の歴史は1032年まで遡り11世紀には西夏の重要な交易都市として存在しました。地図を見ると弱水から15㎞くらい南東の内陸部に位置するので人が集まるのか疑問だったんですが、オアシスがあったのかもしれません。西夏は黄河几状湾曲部の西側の興慶(現在の銀川市)を首都としていました。興慶と黒水城は直接行こうと思えば砂漠を通らなければ連絡できません。

 古代からの主要な交易路であるシルクロードは、甘粛回廊の武威(漢代の涼州)、張掖、酒泉、敦煌という数珠繋ぎに連なるオアシス都市が主要交易路(甘粛回廊)だったはず。その南側は祁連山脈、北側はゴビ砂漠で挟まれ、弱水の近くとはいえゴビ砂漠の真っただ中にある黒水城が交易の中心地であることはにわかには信じがたいんですが、古代から中世にかけてはゴビ砂漠を横断するルートがあったのかもしれません。

 元朝15代皇帝トゴン・ティムール(順帝)は明軍に大都(現在の北京)を追われたあと黒水城に潜伏したと言われます。大都から直接モンゴル高原に逃亡したと思っていたので意外でした。その後順帝はモンゴル高原南部の応昌府(内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗)に逃亡しこの地で没します。

 赤峰市は北京の北東300㎞にあり、黒水城とかなり離れているので黒水城潜伏はただの伝説かもしれません。元朝残党が北走したと言っても、意外と明の領域の近くに居たのは驚きました。内モンゴルを根拠地にしたチャハル部がチンギス汗の正当後継者(黄金氏族)を名乗るのも納得できますね。

 黒水城は元代にも繁栄を続けたみたいですが、結局ゴビ砂漠の真っただ中にあることが災いして深刻な水不足に陥り(オアシスの湧水が枯渇した?)20世紀に至るまでには放棄されたようです。黒水城がいつ放棄されたかは調べた限り分かりませんでした。しかしシルクロードで紹介したような戦乱で滅びたわけではないことが分かり安心しました。

 

 

追伸:

 その後調べてみると、黒水城跡から北北西に70㎞程離れた湖居延海は古代にはもっと拡大していたようで周辺に湿地が広がり、黒水城も居延海のほとりにあったみたいです。現在の環境と当時はかなり違っていたのかもしれません。周辺の砂漠化で居延海が縮小し、黒水城も滅びたのでしょう。

2024年3月29日 (金)

イスファハーン ‐世界の都市の物語‐

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

 

20240327-015058

 現在のイランの首都は国土の北寄り、カスピ海とイラン高原を隔てるアルブルズ山脈南麓に位置するテヘランですが、イラン高原のほぼ中央にあるイスファハーンもかつて繫栄した都市でした。どちらの都市も高原にありテヘランは海抜1200m、イスファハーンは海抜1500mの高原都市です。イラン高原自体が海抜900mから1500mのところにあるので、イランはチグリス河に近い低地地方を除き、まさに高原の国と言って良いでしょう。

 イランという国名はアーリア人の国という意味で、実はインド亜大陸を征服したインドアーリア人と非常に近しい民族です。古代から文明が栄え、メソポタミア文明の時代にはエラム王国が成立しました。エラム王国は紀元前3200年ころから紀元前539年ころまで続きます。もちろんこの時はイラン高原ではなく、チグリス川に近い低地地方が中心地でした。

 エラム王国はチグリス河東岸の低地地方からイラン高原南西に広がり、スサを首都としていました。エラム王国を建国した民族はアーリア人ではありません。民族が不明ですが、メソポタミア文明を興したシュメール人と近いセム系民族ではなかったかと想像します。

 その後イラン高原に入ってきたアーリア人は、中央アジアの高原地帯に住んでいた遊牧民族でインド亜大陸に向かったのがインドアーリア人、イラン高原に来たのがイラン人(ペルシャ民族)だったのでしょう。アーリア人の移動は紀元前2000年ころから紀元前1000年ころにかけて行われたと言われます。

 ただし、イラン高原南西部にはエラム王国が存在したため浸透できなかったようです。最終的にエラム王国を滅ぼすのはイラク北部の高原地帯にいたアッシリアでした。遊牧民族だったアーリア人が農耕に従事するのはメソポタミアやエラム王国の文明世界に触れたからでしょう。遊牧社会と農耕社会では養える人口が桁違いですからね。

 とはいえイラン人の上層部は遊牧社会の伝統を持ち続けたようで、古代ペルシャ王国は騎兵が強力でした。イラン高原は何波もわたり最初はアーリア人、その後はトルコ系民族と侵略を受けます。そのため完全な農耕社会とはならず半農半牧の社会を保ったのだと思います。イラン高原は乾燥地帯のためカレーズ(カナートともいう)と呼ばれる灌漑施設が生まれました。これは高地の水源から地下水路を使って耕作地に水を導く施設で維持管理が必須でした。イラン人たちはこれを使って乾燥地帯で農業を営んでいたのですが、蛮族モンゴル人がイラン高原に侵入した時カレーズを破壊しまくったため荒廃が進んだと言われます。

 前置きが非常に長くなりましたが、イスファハーンの歴史はアケメネス朝ペルシャに遡るそうです。一説には紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源だと言われます。ササン朝時代、この地は軍隊の駐屯地になり、軍隊の複数形であるセパ―ハーンがイスファハーンの語源だそうです。

 イスファハーンは手工業が盛んでイスラム帝国時代も栄えたそうですが、16世紀サファビー朝第4代アッバース1世が首都と定めたことで繁栄を極めます。当時「イスファハーンは世界の半分」と称えられるほどでした。サファビー朝時代のイスファハーンは人口50万人を数えたそうです。同時代の世界の主要都市で人口50万人以上だったのはロンドン、パリ、北京、江戸、イスタンブールくらいでイスファハーンがいかに栄えていたか分かりますね。

 アッバース1世は壮麗なモスクをはじめ様々な建設をすすめ、商業を保護します。絹織物、貴金属細工、ミニアチュールなどの産業も育成しイスファハーンは一大文化都市となりました。繁栄を極めたイスファハーンですが、サファビー朝末期の1722年アフガン人の侵攻を受け破壊されます。サファビー朝自体は1736年滅亡しますが、アフガン人は都市だけでなく周辺の農耕地も破壊したため1756年から1757年にかけての大飢饉で4万人の市民が餓死したそうです。

 18世紀末イランにカージャール朝が成立するとイスファハーンも復興します。しかし首都機能はテヘラン、商業の中心はタブリーズに奪われ地方都市に転落しました。20世紀、パフラヴィー朝が興るとイスファハーンは近代都市に生まれ変わります。20世紀後半から人口が急激に増加し2006年ころには人口150万人に達しました。

 イマーム広場、イマームモスク、アリ・カプ宮殿など観光地が有名で一度は訪れたい都市です。現地に行って悠久の歴史を感じてみたいですね。

2024年2月29日 (木)

シアールコート ‐ 世界の都市の物語 ‐

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

 マイナーすぎて誰も知らないかもしれません。2億4千万人と日本の倍近くの人口を誇るパキスタン。最大の都市はインダス河河口に近くアラビア海に面する港湾都市カラチで都市圏人口2280万人です。パキスタン第二の都市は北部パンジャーブ地方の中心都市ラホールで、こちらも都市圏人口1025万人を誇ります。

 そのラホールから北に100㎞程離れたところにシアールコートはあります。パンジャーブ州シアールコート県の県都です。人口は100万人。地方都市とはいえかなりの規模です。古代ではサカラ(サンスクリット語)、古代ギリシャ語ではサンガラと呼ばれていました。その歴史は古く、有名な叙事詩マハーバーラタにも登場しています。マハーバーラタの成立は紀元前4世紀ころだと言われますから、そのころには既に存在していたことになります。

 シアールコートのあるパンジャーブ地方は、大河インダスとその支流4つが流れる五つの河の地という意味で古代から穀倉地帯として有名でした。古代マドラ王国の首都でありアレクサンドロス大王がインド遠征した際マケドニア軍に抵抗し滅ぼされています。当時のサンガラは人口8万人いたそうですからかなりの規模の古代都市です。

 とは言え、交通の要衝だったことから間もなく復興されました。アレクサンドロス大王の広大な領土の東の端に位置したサンガラですが、大王の死後王国が分裂するとインドに興ったチャンドラグプタのマウリア朝に組み込まれます。アレクサンドロスの遺領は激しい内戦(ディアドコイ戦争)の末有力将軍に分割されました。現在のアフガニスタンに当たる地域はセレウコス朝シリアが支配しますが、あまりにも遠隔すぎてトハリスタン(現在のアムダリア、シルダリアの河間地方『ギリシャ人はトランスオクシアナ【オクサス河の向こうの土地という意味。オクサス河はアムダリアのギリシャ人呼称】と呼んだ。』からアフガニスタンのヒンズークシ山脈の北側まで)にはバクトリア王国が独立します。

 バクトリアは旧宗主国セレウコス朝と時には戦い時には和睦しながら、ヒンズークシを越えてインド亜大陸にも食指を伸ばしました。アレクサンドロス大王のマケドニア軍の流れをくむバクトリア軍は強力でインドの小国は対抗できませんでした。インド・グリーク朝(紀元前2世紀頃~西暦1世紀頃)はバクトリアの侵略から始まったインド北西部のギリシャ人王朝ですが、仏典で有名なミリンダ王は、インド・グリーク朝の王メナンドロス1世だと言われます。

 ミリンダ王の時代、サンガラは首都となりました。サンガラ一帯は古代から絹の名産地として有名で、経済的基盤がしっかりしていたのでしょう。トハリスタンのバクトリア本国は、中央アジアから流れてきたイラン系遊牧民族月氏に滅ぼされます。月氏の中から台頭したクシャーナ朝はインドへも侵攻を開始しインド・グリーク朝はこの時滅ぼされたとも、それ以前にインドへ移動した来たサカ族などの遊牧民に滅ぼされたとも言われはっきりしません。

 サンガラがいつ頃シアールコートと呼ばれれるようになったかははっきりしませんが、一説では2世紀頃カシミールのサルバン王が戦乱で荒廃したサンガラを復興しシアールコート砦を築いたのが始まりだと言われます。サルバン王はスキタイ系のジャート族で、シアールコートは現地の言葉でシアの砦という意味だそうです。

 シアールコートはパンジャーブ地方の有力都市だったことから何度も戦乱に巻き込まれます。5世紀末には中央アジアに興った強力な遊牧民族エフタルがこの地を征服し首都と定めました。その後はインド勢力が取り戻しますが、ムガール帝国第三代アクバル帝の時シアールコートをラホール州に組み込みました。

 ムガール帝国が衰えるとシアールコートはシク王国が占領します。イギリスがインド支配に乗り出すと、第2次シク戦争の結果シアールコート一帯はイギリスのものとなりました。パンジャーブ地方の中心都市がラホールに移ったのはムガール帝国時代ですが、シアールコートも古都として緩やかに衰退しつつも現在に至っています。

2023年12月15日 (金)

伏波将軍 馬援

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

 前記事陰麗華のところでちょっと名前が出た伏波将軍馬援(BC14年~49年)。実は祖先も子孫も面白い人物でした。馬援の先祖は戦国時代趙国を支えた名将馬服君趙奢(ちょうしゃ)。完璧の使者藺相如、名将廉頗と同時代の人で恵文王に仕えます。閼与(あつよ)の戦いで秦の大軍を破り恵文王から馬服君に封じられました。藺相如、廉頗、趙奢が健在な間、秦は趙を攻めなかったとも言われるほどの優れた人物でした。

 ただその息子趙括は父親に全く似ない不肖の息子で長平の戦いでやらかし趙を滅亡寸前に追い込みました。さすがに趙括の子孫というのは無いでしょうから他の兄弟の子孫なんでしょう。趙奢が馬服君に任じられたことから、子孫は馬氏を称しました。馬援の子孫も面白いんです。三国志で有名な西涼の馬騰、その息子馬超、甥馬岱も彼の子孫でした。

 馬氏は武門の名家として右扶風茂陵県(現在の陝西省咸陽市に含まれる)に代々続きました。前漢が外戚王莽に簒奪され新王朝ができた時、馬援は新王朝から郡の督郵に任じられます。督郵と言えば三国志演義のイメージから賄賂を貰って悪政をする役人というイメージ(そしてキレた張飛からタコ殴りされるwww)ですが、ただの監察官でした。

 ある時、馬援は囚人を護送する任務に就いていましたが、囚人に同情し逃がしてしまいます。そうなると自分も罪に問われますから彼も逃亡しました。北方に逃げて牧畜業を始めます。役人になるより牧畜業を目指していたそうですから、晴れて希望が叶ったとも言えます。馬援は鷹揚な性格で面倒見が良かったことから彼を慕い人々が集まって地元の有力者みたいな形になりました。本人としては不本意だったのかもしれません。

 新は王莽のでたらめな政治で大混乱に陥ります。馬騰は隴西に割拠した群雄の一人隗囂(かいごう)に仕えました。当時群雄の中で勢いがあったのは河北に割拠した劉秀と、蜀(四川省)に勢力を張った公孫述でした。隗囂は両者の内情を調べるため馬援を使者として送り込みます。

 最初、公孫述に使いした馬援は、同郷であるため歓迎されると思っていました。ところが公孫述は傲岸不遜な態度で冷遇します。馬援を信用せず刺客とも言わんばかりの態度だったそうです。馬援は公孫述を「井の中の蛙」と評します。次いで劉秀のもとに赴いた馬援は、今度は歓迎されます。

 不思議に思った馬援は劉秀に尋ねました。「劉秀様はなぜ私を歓迎してくださるのでしょうか?敵でないにしても味方とも言えないのに。刺客であると疑わかねないでしょうに」と。

 劉秀は笑って答えました。「まさか刺客ではないだろう。説客ではあるだろうが」。そしてかねてから馬援の人物を買っていたとも言いました。これに感動した馬援は劉秀に心服します。隗囂のもとに戻った馬援は「同じ味方に付くなら劉秀のほうがはるかにまし」と説得しました。これを受け隗囂は劉秀に降ります。

 馬援は劉秀に重用され太中大夫(宮中顧問官)、隴西太守などを歴任しました。のち、軍人としての才能を見出され将軍となって劉秀の天下統一に貢献します。かつての主君隗囂は30年、結局反逆して滅ぼされました。しかし劉秀の馬援に対する信頼は揺らぐことがなかったそうです。それは皇子劉荘(後の明帝)の正室に馬援の娘を迎えたことでも分かります。

 劉秀の覇業を助けた馬援ですが、天下統一後もその活躍が衰えることはありませんでした。40年越(現在のベトナム北部)に起こった徴姉妹の反乱を鎮圧したのも馬援ですし(この時伏波将軍に任じられる)、48年武陵五渓の蛮族の乱を鎮めたのも馬援でした。この時62歳。光武帝(劉秀)は「もう年なのだから止めたらどうか」と諭したそうですが、馬援は「まだまだ馬にも乗れます」と言って実演して見せたそうです。光武帝は笑って出陣を許しました。『老いてますます壮ん』の故事の由来です。

 たださすがに無理が祟ったのか、馬援は陣中で病にかかり没します。享年63歳。死後、馬援を恨んでいた梁松から「馬援は戦利品を私物化していた」と讒言され、それを信じた劉秀は怒ったそうですが、孫の章帝の時に名誉回復され忠成候と諡(おくりな)されました。

 馬援は乱世をうまく生き抜いた名将と言えるでしょう。

2023年12月13日 (水)

妻を娶らば陰麗華

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

 支那の歴史上、どうしよもない悪女が多数登場します。その代表は前漢高祖皇帝劉邦の皇后で夫劉邦の死後漢王朝を乗っ取ろうとした呂后(呂雉)、唐三代高宗皇帝の皇后で夫を蔑ろにし国政を壟断した則天武后、清九代咸豊帝の側妃で事実上清を滅亡に追い込んだ西太后で、三大悪女に数えられます。

 ほかにも夏王朝を滅ぼした末喜、商(殷)王朝を滅ぼした妲己、春秋列国の一つ陳を滅ぼした夏姫、西周を滅ぼし周王朝を衰退させた褒姒など数え上げたらきりがありません。世界史上、悪女のしでかしたことは残るので彼女たちが有名になるのは仕方ないことかもしれません。一方善良な女性はなかなか残らないものです。

 過去に記事を書いた竇猗房(前漢五代文帝の皇后で六代景帝の母)などは稀有の例だと思います。こういった女性は賢いので子供の教育にも熱心で皇位を継いだ皇太子は大体名君になります。今回登場する陰麗華もそのような女性の一人です。

 前漢末期、南陽郡新野(しんや)県(現在の河南省南陽市に含まれる)の大豪族陰氏の娘に生まれた麗華(5年~64年)は近所でも評判の美人だったそうです。近隣の豪族の若者のあこがれのまとで後に後漢王朝を開く劉秀もその中の一人でした。麗華は男勝りで勝気な性格だったそうですが、聡明で優しくまさに理想ともいえる人だったと伝えられます。父の陰氏は麗華を溺愛し婚姻の申し出があってもことごとく断っていました。

 高嶺の花麗華を評して「妻を娶らば陰麗華」という言葉が流行ったとも伝えられますので、それだけ理想の美女だったのでしょう。

 平穏無事な時代なら地方の名もない女性で終わったかもしれません。しかし激動の時代です。前漢を簒奪した王莽は新を建国、周代の政治を理想とする時代錯誤な政策を行い世の中は大混乱に陥っていました。各地で反乱が相次ぎ、劉秀も兄の劉縯に誘われて反新の反乱に参加します。

 最初麗華の父陰氏は、反乱を苦々しく思い距離を置いていたともいわれます。ところが緑林軍に参加した劉秀兄弟は西暦23年昆陽の戦いで40万人とも言われる新の大軍を撃破、一気に勢力を拡大しました。陰麗華が劉秀に嫁いだのは同じ年の23年だったと言われます。

 ところが劉秀は河北を転戦し24年地元の有力豪族郭昌の娘郭聖通を娶りました。政略結婚だったと言われますが、郭聖通は25年皇子劉彊(りゅうきょう)を産みます。劉秀が25年(建武元年)皇帝として即位するとき、正室の陰麗華を皇后に立てようとしました。しかし麗華は男子を産んでいないことを理由に断り、皇后の座を郭聖通に譲ります。

 聡明な彼女は、大きな勢力を持つ郭一族との関係が壊れることを憂いたとも言われます。このあたり麗華の人間性がよくわかりますね。夫劉秀の地位の安定を自分の栄華より優先させたのですから。そんな彼女も28年皇子劉荘を産みます。

 後漢王朝が安定してくると、実家の勢力を背景に我儘し放題の郭皇后を劉秀は次第に疎むようになっていきました。ついに我慢の限界にきた劉秀は、41年郭聖通から皇后の地位を剝奪、劉彊も皇太子を廃されます。実は劉彊は自ら廃太子を申し出たとも言われ、我儘な母とは似ないできた人物だったようです。劉秀もそんな劉彊を哀れに思い、中山王、次いで沛王に封じました。劉彊は領地で善政を布き賢王とたたえられます。

 郭聖通は皇后を廃されたものの、劉秀は郭一族に配慮し諸侯に封じるなど配慮したため大きな混乱は起こらなかったようです。郭聖通自身も不満は抱きながらも反乱を企てるなどの大それたことはせず52年、46歳で亡くなりました。

 郭聖通が皇后を廃された時、陰麗華は晴れて皇后に立てられました。しかし聡明な彼女はけっして驕らず夫劉秀を助け賢夫人と称えられます。息子劉荘も皇太子に立てられ後漢二代明帝となりました。麗華は皇后となっても質素な生活を守り自身の一族にも大きな権力を与えなかったと言われます。64年陰皇后死去、享年59歳。

 陰麗華は、唐太宗の皇后長孫皇后、彼女の息子後漢明帝の皇后馬皇后(伏波将軍馬援の娘)と共に支那史上でも優れた皇后として称えられています。まさに「妻を娶らば陰麗華」ですね。

2023年10月31日 (火)

長安 - 世界の都市の物語 -

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

Photo_20231031003701

 現在の支那大陸、陝西省の省都西安はかつて長安と呼ばれる大都市でした。黄河が几状に湾曲する内側(南側)に位置し、南を秦嶺山脈に隔てられ東は函谷関、潼関の険に守られています。西は細い回廊である甘粛回廊に囲まれた盆地を渭水(いすい)盆地と呼びます。中心には西から東に渭水が流れ黄河に合流しています。

 この地は決して肥沃ではありませんが、天然の要害として古くから国家が成立し中原(黄河中流域)の国家群と対峙しました。古くは周王朝、次いで秦が勃興します。西周の都鎬京(こうけい)は現在の西安市の西5㎞ほどにあったとされますが、まだ場所は特定されていません。秦の首都咸陽は長安とは渭水を挟んだ北側にありました。ちなみに咸陽の名は、九嵕山(きゅうそうざん)の南で渭水の北という風水上の山の南、川の北という条件を二つながら備えた咸(みな)陽という意味で名づけられたそうです。

 咸陽の南に都市らしきものが成立したのは、始皇帝の時代有名な阿房宮が渭水の対岸である南側に建てられてからです。漢の高祖劉邦は、項羽によって徹底的に破壊された咸陽の再建をあきらめ、阿房宮のあった渭水の南岸に新たな都を建設しました。これが長安の始まりです。阿房宮よりは北東側、より渭水に近いところに漢の長安城はありました。

 周は鎬京の他に、副都として黄河中流域、中原の西側の盆地に洛邑(らくゆう)を建設します。のちの洛陽で、後漢の首都となりました。洛邑を建設したのは周(西周)三代成王(在位紀元前1042年~紀元前1021年)だったと伝えられます。ですから都市としての歴史は長安より洛陽の方が遥かに古いのです。

 戦国時代末期、秦は渭水盆地の農業生産力を向上させるため渭水流域に大規模な灌漑工事を施しました。これが有名な鄭国渠(ていこくきょ)です。鄭国渠は秦王政(後の始皇帝)即位元年に起工され十数年の歳月をかけて完成します。これで渭水盆地の農業生産力はかなり向上したと言われますが、肥沃な中原の生産力にはまだまだ及びませんでした。後漢の光武帝劉秀が長安を諦め洛陽を首都としたのも農業生産力の高さを重視したのでしょう。広大な支那大陸を支配するにも西に偏った長安より、中原に位置する洛陽の方が都合良かったと思います。

 後漢の後、魏も晋も洛陽を首都とします。その後五胡十六国の混乱期、南北朝時代にも長安が首都となることはありませんでした。長安が再び首都となったのは隋の高祖楊堅によってでした。隋の後を受けた唐も長安を首都と定め、空前の繁栄期を迎えます。実は隋も唐も純然たる漢民族王朝ではなくモンゴル系の鮮卑族の王朝でした。実は遊牧民にルーツを持つ王朝には特徴があって、平野の中心より平野と草原の境界線に首都を設けるケースが多いと言われます。それは万が一支配下の農耕民が反乱を起こした時、容易に本拠地の北方草原地帯に逃れられるからです。元の首都大都(現在の北京)も似たような理由で首都に選ばれました。

 同じ鮮卑族の北魏は、大同から中原の真っただ中の洛陽に遷都したではないかと反論する方もいるでしょうが、北魏はあまりにも漢化政策を進めすぎたために北方遊牧民としての精強さを失い滅亡しました。唐の皇室李氏が鮮卑族出身であることは周辺遊牧民には周知の事実だったらしく、彼らは唐の皇帝を天可汗として崇めました。

 唐は中央アジアにも進出し空前の繁栄期を迎えました。首都長安は国際都市として栄え、色目人(中央アジアのイラン系民族ソグド人など)も多く住んでいたそうです。全盛期の長安は人口100万人を超える大都市だったと言われます。しかし、満ちれば欠けるが世の習い。さしもの唐王朝も末期には腐敗が進み地方の反乱に悩まされました。有名な安史の乱は唐王朝に実質的な止めを刺したと言われますが、唐末期に起こった黄巣の乱は長安にも波及し荒廃します。黄巣の乱で台頭した群雄の一人、朱全忠は衰退した唐王朝を簒奪し新たに後梁という新国家を樹立します。首都も本拠地だった大梁(開封 汴京【べんけい】とも呼ぶ)に移し、以後長安が統一王朝の首都となることはありませんでした。

 長安が西安と改められたのもこの頃だと伝えられます。渭水盆地の農業生産力の低さが歴代王朝で首都に選ばれなかった理由でしょう。現在の西安市は古都の面影を残していると言われます。悠久の歴史を感じるためにいつか西安に訪れたいですね。阿房宮跡、咸陽跡、始皇帝陵など周辺の遺跡も興味があります。

2023年10月29日 (日)

ラージャグリハ(王舎城) - 世界の都市の物語 -

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

Photo_20231029095701

 今回はインド史や仏典に詳しくない一般の方は全く知らない都市だと思います。しかし仏教徒には忘れてならない重要都市です。釈尊が初めて布教した都市で時のマガダ国王ビンビサーラも釈尊に帰依しました。有名な竹林精舎もラージャグリハにあります。現在の市街地は山の北側にありますが、当時の市街地は東北東から西南西に細長く広がる南の盆地に存在しました。北インドでは珍しく温泉の湧き出るところで、当時は風光明媚な都市だったと思います。

 現在のビハール州の州都パトナは旧名パータリプトラといい歴代マガダ国の首都でした。有名なアショーカ王のマウリア朝もその後に興ったグプタ朝もパータリプトラを首都とするマガダ国です。ラージャグリハからパータリプトラに遷都したのはビンビサーラの息子アジャータシャトル王の時代だと言われますが、だいたい紀元前5世紀ころの話です。パータリプトラの記事の時に詳しく語ったのでここでは簡単に述べますが、遷都の理由は外征に有利なガンジス河流域で東西に軍勢を派遣しやすかったからだとも言われます。あるいは父殺しの汚名を解消したかったから心機一転遷都したとも言われます。

 はじめはビンビサーラ王との関係から仏教教団を敵視し弾圧したアジャータシャトル王も、後に和解し仏教を保護します。有名な祇園精舎は大富豪スダッタが旧コーサラ国(アジャータシャトル王が滅ぼした)の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に建設して寄進したとされますが、アジャータシャトル王も資金援助し協力したそうです。

 話をラージャグリハに戻すと、ラジャとは王の意味で王の支配する町というのが語源だそうです。ラージャグリハの成立には数々の伝説がありますが、周囲を山に囲まれた要害の地だったことが大きかったと思います。日本で言えば鎌倉や朝倉氏の本拠一乗谷みたいなイメージです。外輪山は自然の障壁になりますし、防御施設を作るのも容易ですからね。

 驚くべきは、こんな小さな盆地に最盛期10万人もの人口がいたことです。紀元前5世紀のパータリプトラに遷都直前の頃だそうですが、温泉が湧き出るくらいだから水は豊富だったのでしょう。『仏国記』で有名な支那東晋の仏僧法顕もラージャグリハを訪れました。405年から407年にかけてインドの仏教遺跡を巡っています。405年と言えばグプタ朝マガダ国の時代。首都はパータリプトラですが、ラージャグリハはかなり衰微していたと想像します。竹林精舎の跡を眺めたとき法顕は感慨深かったと思います。

 ちなみに法顕はシルクロードからアフガニスタンに入りカイバー峠を越えてインド亜大陸に入っています。インド各地の仏教遺跡を巡った後セイロン島に渡り、海路で東晋に戻ったそうです。荊州江陵で亡くなりました。享年86歳。現在ですら大変なのにこんな大旅行をできたのですから体力も運もあったんでしょうね。仏僧は各地で保護されたのかもしれません。イスラム教が普及する前で良かったと思いますよ。イスラム教全盛時代ならシルクロードの時点で殺されていたかもしれませんね。

 仏教の歴史と深い関わりのあるラージャグリハ、いつか訪れてみたいです。

2023年10月27日 (金)

エルサレム - 世界の都市の物語 -

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

Photo_20231027225401

 考えてみたら世界の都市の物語シリーズもずいぶん長くなりました。最初はパリから始まってロンドン、テーベ、カイロ、北京、トレド、ウィーン、杭州、バルフ、セレウキアとクテシフォン、アンティオキア、メルブ、開封、パータリプトラ、アレッポ、サマルカンドと続きました。もしかしたら抜けている都市もあるかもしれません。現在も栄えている都市もあれば、すでに廃墟となって忘れられた都市もあります。今回はイスラエルの首都でありユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地でもあるエルサレムです。

 ちなみにイスラエルはエルサレムを首都としていますが公式には認められていません。公式にはテルアビブが首都です。アラブ諸国が反発するので欧米はじめ各国はエルサレムを首都と認めたくないのです。ただし2017年アメリカのトランプ大統領が公式にエルサレムをイスラエルの首都と認めたことから、既成事実となっていくのでしょう。

 エルサレムの歴史は古く紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて存在したユダ王国の首都となりました。地中海から内陸部に入った標高800mの小高い丘の上にあります。一般にエルサレムという場合この旧市街を指します。ユダヤ教とキリスト教の聖地であることは分かると思うんですが、実はイスラム教でも教祖ムハンマドが天に昇った所だとされ、メッカ、メディナに次ぐ第3の聖地に定められています。

 都市の起源はさらに古く、ユダヤ人が来る前の紀元前30世紀にも遡るとされます。この地はカナンとよばれセム系民族が住んでいたそうです。彼らが現在の旧市街に当たるオフェルの丘に集落を築いたのが起源です。実はユダヤ教や旧約聖書の舞台は現在のイスラエルではなく紅海沿いのメッカやメディナのあるアラビア半島西岸地方だとする説があります。ユダヤ人は牧畜民なのでカナンの地にも至ったことがあるでしょうが、もともとは先住民がいたのです。そして元来のユダヤ人もセム系民族でアラブ人に近い人種でした。今住んでいるイスラエルの白人系ユダヤ人はロシア平原にあったハザール汗国の末裔が多いと言われます。ユダヤ教を信仰したらユダヤ人になるので民族のルーツとかはあまり重視されないと言われます。このあたり知識がないので間違っていたらご指摘ください。

 ただしすべてがロシア系というわけではありません。ローマ帝国によりユダヤ王国が滅ぼされて以降、ユダヤ人はヨーロッパ各地に移り住みました。その地で金融業などを営み財を成し、現地で長く生活するうちに混血して白人化していったのです。トルコの場合と似ていますよね。トルコももともとはモンゴル高原西部に住む遊牧民でモンゴル人に近い風貌でした。言語もモンゴル語とは方言の違いくらいに似ていたそうです。ところが突厥(トルコの漢訳だと言われる)の拡大、セルジューク朝の西遷でまず中東に移り、オスマン朝時代に小アジアに定着して以降現地人と混血し白人化しました。イスラエルの900万人の人口のうちロシア系は120万人ほどだそうです。

 旧約聖書でもダビデ王がこの地に住むペリシテ人(パレスチナ人?)を倒して要害の地であるエルサレムに都を築いた話が載っています。このように歴史を遡れば誰が元々住んでいたと争うと収拾がつかなくなるため、現在誰が住んでいるかで定住権を認めるしかありません。ユダヤ人もローマに滅ぼされ各地に四散しましたからね。そのときエルサレムは徹底的に破壊されたそうです。

 その後セム系民族が戻ってきてこの地に定住し、トルコ人やモンゴル人などの遊牧民族もこの地を通ったり支配したりします。エジプトの領土となったこともありました。その後オスマン朝の領土となり、帝国主義時代にはイギリスが奪って植民地にしました。第1次世界大戦に協力させるため三枚舌外交でユダヤ人やパレスチナ人それぞれに甘い言葉で独立を約束し騙したイギリスが一番悪いと思いますが、イスラエルは曲がりなりにも建国し、周囲のアラブ諸国と4度に渡る中東戦争を勝ち抜いたんですから、定住する権利を獲得したと思うんですよ。

 厳しい話ですが世界は実力勝負。中東戦争で勝利できなかったパレスチナが悪いんです。綺麗事を言う連中は「パレスチナ人が可哀想と思わないのか?」と非難しそうですが、可哀想だとは思いますよ。でもどうしようもありません。アラファトのPLO(現ファタハ)はイスラエルを滅ぼして自分たちのパレスチナ国家を建設するという夢は諦め共存の道を探りました。昔はPLOも最悪のテロ組織だったんです。

 現実に目覚めずテロを繰り返しているのはガザ地区を実効支配するイスラム教原理主義テロ組織ハマスです。イスラエルにも生存権はあります。何度も戦争して大きな犠牲を払っているんですからね。ハマスは未だにイスラエル殲滅を謳っているんですから、どちらかが滅ぶまで徹底的にやるしかないでしょう。話し合いの余地はありません。

 綺麗事を言わせてもらうと、エルサレムの旧市街を国際管理にしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべての信者が平等に暮らしたり訪問する権利を保障するのが一番望ましいんでしょうが、現実はそう甘くないので実現は不可能でしょうね。

 イスラエルに平和が訪れるのはいつでしょうか?その前に聖書で言うハルマゲドンが起こって世界の終わりが来たら最悪ですよ。

より以前の記事一覧