ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。

ゲネピル女王の記事が割と評判良かったので、味を占めて世界史悲劇の女性をシリーズ化しようかと思っています。
世界史で習ったので覚えている人も多いと思いますが、イギリスのチューダー朝(1485年~1603年、テューダー朝ともいう。英語を日本語翻訳した時の違い)といえば、薔薇戦争に勝利したリッチモンド泊ヘンリー・チューダーによって創始された王朝です。即位してヘンリー7世となりました。
7世の息子ヘンリー8世の時に強勢になり8世の娘エリザベス1世(7世の孫)の時代に絶頂期を迎えます。それまで弱小国だったイギリスを一気に列強の一角に押し上げたのもエリザベス1世でした。しかしエリザベス1世も順風満帆に即位したわけではありません。ヘンリー7世は、薔薇戦争を争った一方の雄ランカスター家最後の生き残りではありましたが、ランカスター家の直系ではなく母系で繋がっているだけでしたので王朝創設時からその正統性に疑問を持たれ続けていました。本人もそれを気にしていたらしく、宿敵ヨーク家からリチャード3世の姪に当たるエリザベス・オブ・ヨークを正室に迎えその正統性を補完したくらいです。ですからチューダー朝は王朝初期から内紛の絶えない王朝でもありました。
ヘンリー8世は、生涯6人の妻を迎えるなど(しかも前の妻を無実の罪で処刑したりしている)問題の多い人物ではありましたが、イギリス国教会を創立してローマカトリックと一線を画すなど君主としては有能でした。彼には三人の子供がいました。最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に長女メアリー、二番目の妻アン・ブーリンとの間に次女エリザベス、三番目の妻ジェーン・シーモアとの間に長男エドワードです。他に非嫡出子も何人かいましたが、王位継承権があるのはこの三人でした。
詳しくは過去記事『チューダー朝』シリーズに書いているのでご参照ください。1547年ヘンリー8世が55歳で崩御すると、王位は正嫡の王太子エドワードが継ぎました。すなわちエドワード6世(1537年~1553年)です。エドワード6世は生来病弱の性質で即位した時わずか9歳。
生前父ヘンリー8世は、エドワードの母の実家シーモア家が権勢を握るのを警戒し顧問団に集団で息子を補佐させるよう仕向けたそうですが、母方の伯父エドワード・シーモアがこれを握りつぶします。エドワード6世治世の初期、シーモアはスコットランド女王メアリー・スチュワートとエドワードを結婚させスコットランドをイングランドの管理下に置こうと画策し、メアリー女王の拉致を図るなど陰謀の限りを尽くしますが大失敗します。反対派の巻き返しで1552年反逆罪の罪で処刑されました。
幼少のエドワード6世に親政などできませんから、次に権力を握ったのはノーサンバラント公ジョン・ダドリーでした。ダドリーは病弱のエドワードでは先が長くないと察し次の王位に向けて陰謀を巡らせます。順当にいけばエドワードの姉で年長のメアリーが継ぐはずでした。しかしそれではダドリーの権力は失われます。
そこでダドリーは、自分の息子ギルフォードにチューダー家所縁の女性を妻に迎えることでイングランド王位を簒奪する計画を練ります。白羽の矢に立ったのがジェーン・グレイ(1537年~1554年)でした。ジェーンはヘンリー7世の曾孫にあたり、ヘンリー8世の妹メアリー・チューダーを祖母にもっていました。母系ではあってもチューダー家の血を継いでいるというのは貴重で、ダドリーもそこに目を付けたのでした。
結婚した時ジェーンはまだ10代前半。夫ギルフォードも1535年生まれですからお飯事のような夫婦でした。もちろん政略結婚ですから愛などありません。国王エドワード6世が病床につくとダドリーは国王に迫って本来なら王位継承順位が低いジェーンを後継者にするよう要求しました。死期が迫っていたエドワードに反抗する気力はありません。結局ダドリーの言うがまま、遺言でジェーンの後継指名をした後1553年わずか15歳で崩御しました。
こうして即位したのがジェーン・グレイです。正当な王位継承権を持つメアリーは、身の危険を察知しいち早く逃亡しました。女王となったジェーン・グレイでしたが当然のことながら外戚ダドリーの操り人形に過ぎません。本人は王位継承を嫌がっていたそうですが、運命はそれを許しませんでした。
宮廷の家臣たちはダドリーに不満を持ちつつも、彼の権勢を恐れ何も言いませんでした。ただ、メアリーに密かに心を寄せる者も多くフラムリンガム城に居た彼女のもとに集まります。その勢力を結集しメアリーは挙兵しました。ダドリーは自ら軍を率いてメアリー討伐に向かいます。しかし、彼がいなくなるとロンドン宮廷の空気は一変し、一時はジェーンの即位を認めた枢密顧問官たちですらメアリーに寝返る始末。正統性を失った女王ジェーンとダドリー一派は惨めでした。
ダドリー軍は逃亡兵が相次ぎ進退窮まった末メアリー軍に降伏します。女王に即位したメアリー1世によって大逆罪を問われたダドリーは1553年8月22日斬首されました。女王ジェーンとその夫ギルフォードも許されるはずがなくロンドン塔に幽閉されます。ジェーンがイングランド女王として君臨したのはわずか9日でした。ですから彼女のことを9日間の女王と呼びます。最初メアリーはただの陰謀の犠牲者に過ぎないジェーンの命を奪おうとは思っていなかったそうです。ただ、内外の情勢から簒奪者を生かしてておくことはできないと覚悟を決めます。一説ではメアリーの母の実家スペイン王室がジェーンの処刑を執拗に要求したとも言われます。半年ほどの幽閉の末、ジェーンは夫ギルフォードと共に斬首されました。この時ジェーンはわずか16歳。運命に翻弄された一生でした。
イギリスの史家はジェーンを正当な王位と認めなかったそうですが、のちにイギリス王室は彼女をチューダー朝4代と公式に認めました。名誉回復された彼女ですが、それで無念が晴らされたわけではありません。処刑された時どんな心境だったのでしょうか?怒りか、それとも諦めか?私は自分の運命を受け止め静かに処刑の時を迎えたような気がします。
高貴な生まれでもそれだけで幸せになれるわけではないという事は、ジェーン・グレイの短い生涯を見ても分かりますね。
最近のコメント