2025年12月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

カテゴリー「 世界史」の記事

2025年11月 9日 (日)

バベルの塔は実在した?

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20251103-211507

 「砂の嵐に隠されたバビルの塔に住んでいる、超能力少年バビル2世 悪魔のヨミを倒すため三つのしもべに命令だヤッ!♪」

 横山光輝原作の懐かしの某アニメじゃありませんが、バベルの塔と言えば旧約聖書創世記に記された伝説の塔です。『人類が塔をつくり神に挑戦しようとしたので、神は塔を崩した』という話ですが、考古学者の中にはバビロンのマルドゥク神殿にあったエテメンアンキのジグラット(聖塔)がモデルではないかという者もいます。

 バベルの塔といえば、16世紀にオランダの画家ブリューゲルが描いた『バベルの塔』が有名ですが、エテメンアンキはそれとは似ても似つかない建造物です。絵画の円形の建物ではなく底辺91m×91mの方形。高さも91mで七層建ての高層建築でした。各層が七曜を表し、第一層が土星、二階が木星、三階火星、四階太陽、五階金星、六階水星、最上階の七階が月を象徴していました。太陰暦を採用していたメソポタミアでは月を神聖視していたそうです。

 エテメンアンキは現地語で『天と地の基礎となる建物』という意味だそうですが、この地に最初の文明を築いたシュメール人が建設を開始したそうです。ところが何らかの理由で中断、紀元前7世紀オリエント世界を統一したカルディア人の王国新バビロニアのネブカドネザル2世(大王)が完成させました。

 ネブカドネザル2世と言えば旧約聖書ではユダヤを征服しバビロン捕囚を行った人物として悪役に描かれていますが、バビロン捕囚時代にエテメンアンキを見たユダヤ人がバベルの塔のモデルにしたのではないかとも言われています。奴隷として酷使されるユダヤ人から見たらエテメンアンキは神をも恐れぬ冒涜の塔に見えたのでしょう。もしかしたらエテメンアンキの建設に動員されていたのかもしれませんね。

 ちなみにユダヤ人のバビロン捕囚を終わらせ祖国に帰還を許したのは、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャの創始者キュロス2世ですが、ユダヤ人は彼をどう思っていたのか気になります。キュロス2世は、征服した地域で宗教寛容政策を取っていたようで、アケメネス朝時代ユダヤ人は一度も反乱を起こしていないそうです。それなりに感謝していたのかもしれませんね。

 

 

2025年10月 7日 (火)

火薬の話

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

 現代の銃器には欠かせない火薬、その起源は唐王朝の時代だと言われます。当時の書籍に黒色火薬の原料である硝石、硫黄、炭を混ぜると燃焼・爆発が起こりやすいと書かれており黒色火薬は当時から知られていた可能性があります。

 黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)75%、硫黄10%、木炭15%を混合させて作られたもので、1132年の北宋と金の戦争時代、北宋軍が火槍と呼ばれる黒色火薬を使って槍を飛ばす兵器を使用したと記録にあり、これが実戦で使われた最初でしょう。13世紀後半の元寇でも元軍が『てつはう』と呼ばれる火薬で爆発する投擲兵器を使ったと言われ蒙古襲来絵詞にも描かれています。

 ちなみに、今回ネットで調べていて分かったんですが黒色火薬の威力を増すには硝石の代わりに過塩素酸カリウムを使うと燃焼力、破壊力が増すそうです。ただ不安定な化学物質だけに取り扱いが難しく普及しませんでした。

 シナ大陸で発明された火薬が西洋に伝わった時期ですが、どうも13世紀のモンゴルの中東侵攻がきっかけみたいです。タラス河畔の戦いで製紙法が西洋世界に伝わった経緯とそっくりですね。ただ、鉄砲を発明したのはシナではなく欧州でした。鉄の筒の一方を塞ぎ、空いた方から火薬と鉄の弾を詰めて火をつけると爆発的な威力で鉄の弾を発射できると発見したのは、フス戦争(1419年~1434年)のヤン・ジシュカ率いるボヘミア(現チェコ)の農民軍でした。

 この初期の鉄砲は、弓と違い素人でも簡単な訓練で扱えるため猛威を振るいます。神聖ローマ帝国の騎士たちはボヘミア農民兵の鉄砲に攻めあぐね多くの犠牲を払いました。実戦でその威力を発揮した鉄砲は、瞬く間に欧州各国に広がり洗練されて行きます。

 この頃登場したマスケット銃は、点火機構がマッチロック式でした。日本でいうところの火縄銃です。その後、17世紀にフリントロック式(燧石式)が発明されると、雨に弱いマッチロック式はすたれこちらが主流になりました。

 黒色火薬は当時としては画期的な発明でしたが欠点もありました。爆発力が弱い事と発射した後火薬のカスが残る事です。火縄銃発射実演で、発射した後長い棒で銃身を掃除している姿を見た方も多いでしょう。

 そこで発明されたのが無煙火薬です。ニトロセルロースを主成分とする無煙火薬は、黒色火薬に比べ燃焼時の発煙量が少なく、高い圧力で弾丸を発射することができました。1884年フランスで発明されます。発射後に銃身に火薬のカスがほとんど残らないのも特長で、これが無ければ機関銃の登場もありませんでした。黒色火薬だと一々銃身を掃除しなければならないので連続発射できないからです。

 現代の銃器、大砲は無煙火薬を使っています。配合や材料によりいろいろな種類の無煙火薬がありますが、小火器は当分無煙火薬、大砲もレールガンが実用化され世界中に普及しない限り無煙火薬の天下が続くでしょう。

2025年10月 5日 (日)

可敦城の話 その2 可敦城の場所が分かった

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20250930-194817

 過去記事『可敦城の話』の続きです。3年前の2022年に書いた記事の続きをなぜ今頃書いたかというと、複雑な事情があるんです。

 実は、戦国史という無料(有料版もあり)のシミュレーションゲームのシナリオで水滸伝を舞台にしたものを作成しており、まずは時代背景にリアルさがなければならないと思いました。そこでコルテス氏の作成した方蝋の乱1115年シナリオをベースに改造し、金の拡大による遼の滅亡、北宋の裏切りにキレた金による1127年靖康の変、遼の遺臣耶律大石による西遼建国のイベントを作成し何回も観戦モードでテストプレイを繰り返しバランス調整しておりました。

 日本もマップに入っていたので、鳥羽上皇の政権から途中をすっ飛ばして平氏政権、1192年鎌倉幕府成立までイベントを作りました♪私は日本人なので思いっきり日本を贔屓して甘めの国力設定にしたので、日本担当すると東アジア制覇も夢ではありません。日本の武士は最強ですよ!

 それはともかく、私は耶律大石が大好きなので、彼がモンゴル諸族に推戴され西遼の皇帝に即位した可敦城がなければ話にならないと思い、まずこの拠点を作成しました。このマップでは新彊ウイグル自治区までしかマップに入っていないので、実際はもっと西ですが、西遼の首都ベラサグンも現在のカシュガルあたりに作りました。

 そこで問題になったのが可敦城の場所。ようやく本題に入ります。可敦城はモンゴル高原のどこかだという事は知っていましたが正確な場所が分からずネットで調べてみました。すると、現在のモンゴルの首都ウランバートルから西に220㎞、かつてのモンゴル帝国の首都カラコルムからは北東に100㎞のトーラ河畔に可敦城遺跡はありました。

 200m四方くらいの意外と小さな城跡ですね。まあ可敦城を建設したウイグル族は遊牧民族で、交易拠点としての役割だけなのでこの程度で良かったんでしょう。そういえばモンゴル帝国の首都カラコルム遺跡もこじんまりしています。過去記事でも書きましたが、可敦城は交易都市として長らく栄えたらしく、契丹族の遼もこの地をモンゴル支配の拠点としました。遼はここに鎮州建安軍という拠点を置きました。現在ではチントルゴイ城址と呼ばれているそうです。

 チンギス汗台頭前強勢を誇ったワン・ハン(トオリルハーン)のケレイト族が栄えたのは、この可敦城を支配下に置き隊商貿易を支配したからだと言われます。ケレイト族はトーラ渓谷を拠点にしていたそうですが、その場所もはっきりしません。これがオルホン渓谷の事ならウランバートルの西360㎞にあるオルホン川両岸に広がる渓谷ですが、トーラ川はオルホン川の支流なので、もしかしたらウランバートルのある渓谷がトーラ渓谷かもしれません。

 ケレイト族はウランバートルのあたりからオルホン川の近くまで勢力圏にしていたのかもしれませんね。

 

 

追伸:

 戦国史のオリジナルシナリオ『水滸伝』ですが、時代設定に満足して肝心の水滸伝関連には全く手を付けていません。梁山泊、曾頭市、祝家荘あたりは出そうかと思っているんですが。さすがに108人の好漢を出すのは無理なので梁山泊も首領の宋江と幹部7~8人くらいを出す予定です。ただ元禁軍の指揮官だった双鞭呼延灼は出さないと駄目でしょうね。曾頭市は曾家の五虎と武芸師範史文恭、武芸副師範蘇定、祝家荘は祝三兄弟と一丈青扈三娘は絶対出します。ちなみに扈三娘のイメージは懐かしの日テレドラマ水滸伝の土田早苗なんですよ(笑)。豹子頭林冲も中村敦夫です。

 

追伸2:

 前回紹介した『鳳山版 戦国の七雄』も全く反響がなかったので、今回の水滸伝シナリオを公開することは無いでしょう。どなたかが熱望したら話は別ですが…。

2025年9月30日 (火)

匈奴に嫁いだ官女 王昭君

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20250925-124945

 世界史悲劇の女性をシリーズ化しようと思っていろいろ探しているんですが、自らの責任でなく運命に翻弄されて非業の最期を迎える女性ってなかなかおらず、ほとんどは自身の性格の弱さやしでかしたことが原因で悲劇を迎える人ばかりでした。

 クレオパトラもそうだし楊貴妃もそう。楊貴妃の人生は確かに同情できるんですが、玄宗皇帝に取り入って楊一族を重用させたり、安禄山を過度に信用して増長させた結果安史の乱が起こり彼女の死なので自業自得という面もあります。クレオパトラに至ってはローマの実力者を誑かして己の権勢を拡大しようとして失敗し殺されたんですから完全に本人の責任です。

 今回紹介する王昭君は、非業の最期こそ迎えていませんが運命に翻弄されたという意味では十分悲劇と言えるでしょう。時は前漢10代元帝(在位前48年~前33年)の御代、王朝成立以来の脅威だった北方の遊牧民族匈奴は、第7代武帝時代の積極的な外征によって勢力を衰えさせていました。とはいえ、まだまだ脅威であったことは確かで前漢王朝は警戒を怠りませんでした。

 そんな匈奴ですが、周辺遊牧民族に対する統制力を弱め、かつて匈奴が滅ぼした東胡の末裔烏丸に反乱を起こされるなど内紛が巻き起こっていました。前漢は匈奴の宿敵で天山山脈北方に居た遊牧民烏孫と同盟を結ぶなど圧力を強めます。烏孫は強力で匈奴軍をしばしば破ったため、さしもの強勢を誇った匈奴も衰退が明らかになりました。

 勢力が衰えてくると内紛で分裂するのは歴史の流れらしく、匈奴も東西に分裂します。東匈奴の呼韓邪単于(在位前58年~前31年)は西匈奴を討つため前漢に入朝、和親を求めてきました。当面の脅威が去るのは前漢としても大歓迎で、東匈奴が人質として呼韓邪の弟を差し出したのに対し、前漢の側も和親の印として官女を呼韓邪の妻に差し出すことを決定します。さすがに皇帝の親族を蛮族に差し出すことは躊躇したのでしょう。

 そこで白羽の矢が立ったのが王昭君でした。伝説では元帝は三千人とも言われる後宮の美女のうち誰を選ぶか迷い、全員の絵姿を差し出させその中から一番の醜女(と言っても後宮の美女だからそれなりに美しい)を選ぼうとします。王昭君は裕福な家庭の出身でなかったため、絵を描く宦官に賄賂を贈ることができずことさら醜く描かれたといいます。こうして選ばれた彼女ですが、実際に元帝が彼女を見たとき、この世のものとも思えないような美しさに酷く後悔したそうです。この時王昭君は19歳でした。とは言え、国際的な約束ですから反故にはできず、泣く泣く王昭君を匈奴に送り出します。

 王昭君を迎えた呼韓邪単于も大喜びで前漢との関係を維持し続けました。王昭君は呼韓邪単于との間に男子伊屠智牙師をもうけます。ところが、老年の呼韓邪は間もなく亡くなりました。この時王昭君は前漢の朝廷に帰国を願ったそうですが、元帝の後を継いだ成帝に「胡族の習俗に従うように」と拒否されました。前漢としてはせっかく結んだ東匈奴との和親を壊されるのが嫌だったのでしょう。

 匈奴というより北方遊牧民の間では、前の単于の側室たちは後を継いだ単于の妻になるという習わしがありました。これは漢民族の習俗としては忌むべきものでしたが、王昭君は仕方なく義理の息子である復株累若鞮単于の側室となります。おそらく王昭君は嫌で仕方なかったと思いますが、漢と匈奴の和親を保つため受け入れたのでしょう。この復株累若鞮単于との間にも二女をもうけます。

 その後の彼女の生涯は分かっていません。おそらく異郷の地で寂しく世を去ったのでしょう。王昭君の墓と伝えられるものは複数あるそうですが、一番有力なのは内モンゴル自治区フフホト市にあるものです。王昭君の生涯は多くの文人の詩興を誘ったらしく杜甫や白居易も詩文を残しています。雅楽にもなり後世に彼女の悲劇が伝わりました。

 国際外交の犠牲になった王昭君の生涯、同情します。

2025年9月29日 (月)

9日間の女王 ジェーン・グレイ

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20250924-230343

 ゲネピル女王の記事が割と評判良かったので、味を占めて世界史悲劇の女性をシリーズ化しようかと思っています。

 世界史で習ったので覚えている人も多いと思いますが、イギリスのチューダー朝(1485年~1603年、テューダー朝ともいう。英語を日本語翻訳した時の違い)といえば、薔薇戦争に勝利したリッチモンド泊ヘンリー・チューダーによって創始された王朝です。即位してヘンリー7世となりました。

 7世の息子ヘンリー8世の時に強勢になり8世の娘エリザベス1世(7世の孫)の時代に絶頂期を迎えます。それまで弱小国だったイギリスを一気に列強の一角に押し上げたのもエリザベス1世でした。しかしエリザベス1世も順風満帆に即位したわけではありません。ヘンリー7世は、薔薇戦争を争った一方の雄ランカスター家最後の生き残りではありましたが、ランカスター家の直系ではなく母系で繋がっているだけでしたので王朝創設時からその正統性に疑問を持たれ続けていました。本人もそれを気にしていたらしく、宿敵ヨーク家からリチャード3世の姪に当たるエリザベス・オブ・ヨークを正室に迎えその正統性を補完したくらいです。ですからチューダー朝は王朝初期から内紛の絶えない王朝でもありました。

 ヘンリー8世は、生涯6人の妻を迎えるなど(しかも前の妻を無実の罪で処刑したりしている)問題の多い人物ではありましたが、イギリス国教会を創立してローマカトリックと一線を画すなど君主としては有能でした。彼には三人の子供がいました。最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に長女メアリー、二番目の妻アン・ブーリンとの間に次女エリザベス、三番目の妻ジェーン・シーモアとの間に長男エドワードです。他に非嫡出子も何人かいましたが、王位継承権があるのはこの三人でした。

 詳しくは過去記事『チューダー朝』シリーズに書いているのでご参照ください。1547年ヘンリー8世が55歳で崩御すると、王位は正嫡の王太子エドワードが継ぎました。すなわちエドワード6世(1537年~1553年)です。エドワード6世は生来病弱の性質で即位した時わずか9歳。

 生前父ヘンリー8世は、エドワードの母の実家シーモア家が権勢を握るのを警戒し顧問団に集団で息子を補佐させるよう仕向けたそうですが、母方の伯父エドワード・シーモアがこれを握りつぶします。エドワード6世治世の初期、シーモアはスコットランド女王メアリー・スチュワートとエドワードを結婚させスコットランドをイングランドの管理下に置こうと画策し、メアリー女王の拉致を図るなど陰謀の限りを尽くしますが大失敗します。反対派の巻き返しで1552年反逆罪の罪で処刑されました。

 幼少のエドワード6世に親政などできませんから、次に権力を握ったのはノーサンバラント公ジョン・ダドリーでした。ダドリーは病弱のエドワードでは先が長くないと察し次の王位に向けて陰謀を巡らせます。順当にいけばエドワードの姉で年長のメアリーが継ぐはずでした。しかしそれではダドリーの権力は失われます。

 そこでダドリーは、自分の息子ギルフォードにチューダー家所縁の女性を妻に迎えることでイングランド王位を簒奪する計画を練ります。白羽の矢に立ったのがジェーン・グレイ(1537年~1554年)でした。ジェーンはヘンリー7世の曾孫にあたり、ヘンリー8世の妹メアリー・チューダーを祖母にもっていました。母系ではあってもチューダー家の血を継いでいるというのは貴重で、ダドリーもそこに目を付けたのでした。

 結婚した時ジェーンはまだ10代前半。夫ギルフォードも1535年生まれですからお飯事のような夫婦でした。もちろん政略結婚ですから愛などありません。国王エドワード6世が病床につくとダドリーは国王に迫って本来なら王位継承順位が低いジェーンを後継者にするよう要求しました。死期が迫っていたエドワードに反抗する気力はありません。結局ダドリーの言うがまま、遺言でジェーンの後継指名をした後1553年わずか15歳で崩御しました。

 こうして即位したのがジェーン・グレイです。正当な王位継承権を持つメアリーは、身の危険を察知しいち早く逃亡しました。女王となったジェーン・グレイでしたが当然のことながら外戚ダドリーの操り人形に過ぎません。本人は王位継承を嫌がっていたそうですが、運命はそれを許しませんでした。

 宮廷の家臣たちはダドリーに不満を持ちつつも、彼の権勢を恐れ何も言いませんでした。ただ、メアリーに密かに心を寄せる者も多くフラムリンガム城に居た彼女のもとに集まります。その勢力を結集しメアリーは挙兵しました。ダドリーは自ら軍を率いてメアリー討伐に向かいます。しかし、彼がいなくなるとロンドン宮廷の空気は一変し、一時はジェーンの即位を認めた枢密顧問官たちですらメアリーに寝返る始末。正統性を失った女王ジェーンとダドリー一派は惨めでした。

 ダドリー軍は逃亡兵が相次ぎ進退窮まった末メアリー軍に降伏します。女王に即位したメアリー1世によって大逆罪を問われたダドリーは1553年8月22日斬首されました。女王ジェーンとその夫ギルフォードも許されるはずがなくロンドン塔に幽閉されます。ジェーンがイングランド女王として君臨したのはわずか9日でした。ですから彼女のことを9日間の女王と呼びます。最初メアリーはただの陰謀の犠牲者に過ぎないジェーンの命を奪おうとは思っていなかったそうです。ただ、内外の情勢から簒奪者を生かしてておくことはできないと覚悟を決めます。一説ではメアリーの母の実家スペイン王室がジェーンの処刑を執拗に要求したとも言われます。半年ほどの幽閉の末、ジェーンは夫ギルフォードと共に斬首されました。この時ジェーンはわずか16歳。運命に翻弄された一生でした。

 イギリスの史家はジェーンを正当な王位と認めなかったそうですが、のちにイギリス王室は彼女をチューダー朝4代と公式に認めました。名誉回復された彼女ですが、それで無念が晴らされたわけではありません。処刑された時どんな心境だったのでしょうか?怒りか、それとも諦めか?私は自分の運命を受け止め静かに処刑の時を迎えたような気がします。

 高貴な生まれでもそれだけで幸せになれるわけではないという事は、ジェーン・グレイの短い生涯を見ても分かりますね。

2025年9月23日 (火)

モンゴル革命の犠牲者 ゲネピル女王

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20250919-095040

 YOUTUBEの歴史系動画で知ったのですが、モンゴル最後の女王ゲネピルの悲惨な生涯に驚きました。

 17世紀以降モンゴルは清朝に従っていましたが、臣従ではなく緩やかな従属関係である程度の自治も認められていたそうです。1911年辛亥革命で清朝が事実上崩壊すると、モンゴルの人たちはチベット人でラマ教の高僧ジェブツンダンバ8世を元首に推戴し清朝から独立を宣言します。当時のモンゴルはラマ教を国教化しておりモンゴルの遊牧部族の長の誰かを推戴するより都合が良かったのです。

 ジェブツンダンバ8世はボグド・ハーンと呼ばれたので以後はこの名前で通します。実はボグド・ハーンはラマ僧にもかかわらず妻帯していました。ボグド・ハーンは清朝から独立を守るために帝政ロシアに接近します。ところがそのロシアもロシア革命で大混乱に陥り、ロシア政府はモンゴルの独立を認めず1913年には露中宣言で中華民国の宗主権を認めました。

 1919年中華民国軍がモンゴルに進駐、ボグド・ハーンは軟禁されます。しかし、ロシア革命の中、白軍(赤軍に対する反革命派)の指導者の一人ウンゲルン男爵の軍が1920年モンゴルに侵入、駐屯していた中華民国軍(国府軍)を追い出し、ボグド・ハーンを復位させます。あくまで傀儡ではあってもボグド・ハーンのモンゴル王国は復活したわけです。

 最初モンゴルの人たちはロシア白軍を歓迎していました。ところがモンゴルに逃亡してきたロシア系ユダヤ人を虐殺し、モンゴルの革命派も弾圧するなど暴虐の限りを尽くし、ボグド・ハーンの政府は密かに北京政府に救援を乞う始末。北京政府は満洲に割拠していた軍閥張作霖にモンゴルのロシア白軍討伐を命じますが、彼は動きませんでした。

 そんな中、革命派のチョイバルサンが1921年3月キャフタでモンゴル臨時人民政府を樹立。ソ連赤軍の支援を受け1万人にまで膨れ上がった革命軍はウルゲルン男爵のロシア白軍を撃破、最初はボグド・ハーンを元首とする連合政府を作りました。

 ボグド・ハーンがラマ僧にも関わらず妻帯していてことは前に書きました。その最初の妻は1923年死去します。53歳になっていたボグド・ハーンは妻の死を嘆きますが、宮廷はハーンが妻帯していないと都合が悪いので、新たな妻探しを始めます。選ばれたのはモンゴル北方の貴族の娘ゲネピルでした。彼女はすでに夫がいましたが、強制的に離縁させられボグド・ハーンの後妻にされました。当時19歳の若さだったそうです。

 政略結婚ですから愛などなかったでしょう。王妃となったゲネピルでしたが、病弱だったボグド・ハーンは1924年に54歳で亡くなります。わずか1年足らずの結婚生活、ゲネピルは実家に戻されました。この時最初の夫と再婚できたかどうかは分かりません。しかし彼女が平穏な生活に戻ることはありませんでした。

 1924年、権力を握ったモンゴル人民党の指導者チョイバルサンはモンゴル人民共和国設立を宣言します。チョイバルサンは権力を維持するために反革命分子の大量粛清を開始しました。命を奪われた人は推定三万人から三万五千人。モンゴル王国関係者、ラマ教関係者、ジャーナリスト、学者、チョイバルサンに反対する反体制派、モンゴル帝国以来の貴族層など多岐にわたりました。ほとんどは無実の罪ですが、でっち上げられた罪状で処刑されたのです。理不尽な話ですが、ロシアやシナ、カンボジアなど共産党政権ではよくある話でした。

 その魔の手は、平穏な生活を送っていたゲネピルにも及びます。1937年、日本軍に通謀し政権転覆を図ったという無実の罪で逮捕されました。どう考えても民間人で何の力もない彼女が政権転覆できるはずがありません。その上日本軍とどうやって連絡を取れるのでしょうか?チョイバルサンが彼女を逮捕したのは、あくまで王政の象徴としての見せしめでした。

 この時彼女は妊娠していたそうです。1938年、ゲネピルは家族と共に処刑されました。まさに革命の犠牲者です。享年33歳。このような悲惨な話が20世紀に起こっていたことを知って衝撃でした。運命に翻弄されたゲネピルとその家族の冥福を祈らざるを得ません。

2025年9月11日 (木)

外輪蒸気船と蒸気タービン機関

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20250910-010732

 かなりマニアックな内容ですので誰も興味ないと思います。ですのでスルーお願いします。

 蒸気機関というのは、ボイラーで発生した蒸気の持つ熱エネルギーを機械的作業に変換する熱機関の一部でありボイラーなどと組み合わせて一つの熱機関となります。作業物質である水を外部より加熱する外燃機関に分類されます(ウィキペディアより)。

 蒸気機関の源流は紀元後の古代アレクサンドリアの数学者ヘロンが考案したヘロンの機関だそうです。蒸気を噴出し、円周で回転力を得るものです。これが記録に残っているものとしては人類史上で蒸気機関が登場した最初のものだそうで、レシプロ式ではなく蒸気タービンの一種だったそうです。

 その後数々の学者、技術者が蒸気機関を発表しましたが実用的な蒸気機関を作ったのは18世紀のイギリスの技術者ジェームズ・ワットでした。ワットは以前の蒸気機関から復水器を分離して蒸気を冷やすことでシリンダーを高温に保つことができるようになり燃料効率が画期的に良くなる技術を確立します。

 ここで蒸気機関について簡単に説明すると、まずボイラーを加熱し中を通っているパイプの水を沸騰させます。すると蒸気が発生し高温高圧になります。発生した蒸気はパイプを通ってタービンに導かれ、タービンの羽根を激しく回転させます。その回転エネルギーを発電機に回せば火力発電ですし、軸動力に伝えれば船などの推進力になります。その後の蒸気は復水器で冷やされ再び水になってボイラーに戻ってきます。この繰り返しが蒸気機関です。

 最初は炭鉱などの作業で馬の代わりに使われていたそうで、馬力というのもワットの考案だと言われます。蒸気機関は陸上交通などさまざまなところで利用されますが、これを船の推進に利用できないかと考えるのは自然でした。初の実用的船の蒸気機関は1807年にアメリカの発明家ロバート・フルトンが作った蒸気船でこれは外輪式です。

 というのも、当時はスクリューが存在せず、船の舷側に水車のような外輪を付けて蒸気機関で生まれたエネルギーを使って動かす仕組みでした。どんなものか想像できない方に分かりやすい例を示すと、有名なペリーの黒船がまさにそれです。これを外輪式蒸気船と呼びます。

 外輪式蒸気船は、燃料(当時は石炭)を大量に消費するため常時蒸気機関で動かすわけにはいかず、従来の帆と併用するのが一般的でした。蒸気機関を使うのはあくまで緊急時のみ。素人がちょっと考えても分かりますが、外輪式蒸気船は効率が悪く、スクリューが発明されると船の蒸気機関はスクリュー式に取って代わられます。

 これは技術が発展し、船体に穴を開けても浸水しないようになったからです。必要は発明の母と言われますが、商船だけでなく軍艦にも蒸気機関が使われ始めます。18世紀から20世紀にかけて世界の覇権を争ったイギリスとフランスは競争するように汽走軍艦を建造しクリミア戦争などでも使われました。

 当時の蒸気船は熱エネルギーをピストン運動で動力に変えるレシプロ式でしたが、20世紀に入るとピストンではなくタービンを使う蒸気タービン式が主流になって行きます。蒸気タービンは熱効率、エネルギー効率を飛躍的に上昇させます。最初は石炭が燃料でしたが、それは当時のイギリスに豊富に石炭があったからです。

 1905年、第一海軍卿(日本でいうと海軍軍令部総長)に就任したイギリスのジョージ・アーバスノット・フィッシャー提督は蒸気タービンの燃料を石炭から石油(重油)に代える『石油専燃』を提唱します。石炭より重油の方がエネルギー効率が良いからです。当時石油を産出する中東地域を植民地にしていたのもイギリスの強みだったからでしょう。石油を産出しない他国と差をつけるという意味もありました。

 第一次世界大戦はまさに石油専燃の軍艦同士の戦いでした。これは第二次世界大戦になってもそうです。第二次大戦後、加熱に原子力を使う原子力機関も登場します。ですから原子力船も蒸気タービンなのです。一方、水蒸気ではなく燃料を燃焼させた高温高圧のガスでタービンを動かすガスタービン機関もできました。これはジェットエンジンの一種で、ボイラーの代わりに円心式または軸流式の圧縮機を使います。圧縮機で燃焼用に圧縮した空気を燃焼室に送り込み、同時に燃料を送り込んで燃焼させ燃焼ガスを発生させます。燃焼ガスはタービン室に送られ、タービンブレードを激しく回転させます。これを排出して推進力に使えばジェットエンジンであり、軸動力に使えばターボプロップなのです。

 現代の一見プロペラ機に見えるP-3Cなども、ターボプロップエンジンのジェット機だと言えます。ヘリコプターもターボシャフトエンジンなのでジェット機の一種です。現在ピストンエンジンを使っているのはセスナ機など民間の小型機くらいで、ほとんどはターボプロップやターボファン、蒸気タービンも原子力船くらいなのでしょう。

2024年11月13日 (水)

古代の武器の強靭さ

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20241112-022649

 たまたま古代の武器の強靭さを調べていて青銅剣や鉄剣でどれくらい強さが違っているか興味が湧きました。過去記事で『金属の硬度』について書いた記憶があるのですが、今回は古代から使われたであろう武器の材質に限定して調べてみました。参考までにタングステンとダイヤモンドの数値も載せておきます。

 過去記事と数値が微妙に違うのは資料によって異なるからです。ですからあくまで参考程度に捉えてください。ちなみにモース硬度はその材質の単純な硬さを示しており、ビッカース硬度とはその材質に圧力を加えた場合の反発力を示しています。私のような素人には分かりませんが、硬さというより強靭さを示しているように思えます。もし事実と異なるという方はお教えください。修正します。

 さて、古代人類が最初に使った金属は銅だと言われます。これだと武器に使用すると脆すぎるので、銅に錫を5%~10%くらい混ぜた合金である青銅が普及しました。一方、武器になったかどうかは分かりませんが銅に亜鉛を35%くらい混ぜると真鍮ができます。

 鉄は銅と同じくらい前から知られていましたが、自然界に存在する鉄(自然鉄)は硬くはあるものの錆びやすく脆い金属でした。ですから青銅のほうが広く普及したのですが、鉄鉱石から木炭などを燃やして鋳造した鋳鉄が登場します。鋳鉄は炭素を2.1%~6.67%含んでいました。

 古代アナトリア半島に勃興したヒッタイト帝国は、鋳鉄を何度も焼き入れて硬化する浸炭法という技術を開発します。これが表面硬化鋼と呼ばれるもので鋼鉄の一種でした。浸炭法で作られた鉄剣がどれくらいの強靭さを持っていたかは不明ですが、それに近いと思われる錬鉄のビッカース硬度を見ると200となり銅剣や青銅剣を圧倒しています。

 ヒッタイトが古代オリエント世界を席巻した理由も分かりますね。ヒッタイトは浸炭法を国家機密として保持したそうで、浸炭法で作られた武器は同じ重さの黄金と取引されたほどだとも言われます。しかし栄枯盛衰は世の習い。ヒッタイト帝国滅亡で浸炭法はまず中東世界に拡散しました。

 その後森林資源が豊富な草原の道を通じてアジアに拡散します。遊牧民族である突厥やウイグルが優れた製鉄技術を持っていたのもそのためです。彼らは草原の北側に広がるシベリアの豊富な森林資源を利用しました。一方インドから東南アジア、シナ大陸や日本に渡った技術もあるそうです。日本に製鉄法が伝播したのは大陸から半島を通じて来たというのが通説ですが、私は東南アジア、シナ大陸沿岸部から海路渡ったケースもあったと考えています。

 なぜなら、朝鮮半島は森林資源が乏しいからです。製鉄に不可欠な木炭を作るために木を伐採すると森林の再生に時間がかかるか、再生そのものができない場合も多かったと思います。実際、アナトリア半島やシナの関中地方(長安を中心とする秦嶺山脈とオルドス地方に挟まれた盆地)が荒廃しているのは、古代に森林を伐採しすぎたせいだとも言われるくらいです。

 高温多湿な日本ですら、計画的に伐採、植林を続けなければ製鉄ができませんでした。それくらい木材資源を使うのです。製鉄に木炭ではなくコークス(石炭を1200度で蒸し焼きにしたもの)を使うようになったのは1735年だと言われますが、時代の要請だったのでしょうね。

2024年7月 2日 (火)

カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20240627-205915

 誰もついてこれないマニアックな世界に入っていますが、私は一つのことに関心を持つとその関連情報も調べたくなる癖がありまして、只今のマイブームはシルクロードでございます。これを書いている最中にも懐かしのNHK特集『シルクロード』のテーマ曲(喜多郎 絲綢之路)が脳内を流れています(笑)。

 さて、ヤフーブログ時代私は貴種流離譚が大好きだと書いた記憶があります。高貴な出身の人物が国を追われ異郷で活躍したり失敗して非業の最期を迎えたりする話です。異郷での成功者は後ウマイヤ朝をイベリア半島に建国したアブドルラフマーン1世であり中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国した耶律大石でした。逆に運命に逆らえず寂しく没したのがササン朝最後の王子ぺーローズであり日本で言えば北条時行、足利直冬(ただふゆ)なのでしょう。彼らに関しては過去に記事を書いています。

 その中で、耶律大石がカラハン朝を滅ぼし首都にしたベラサグンの位置が謎だと書いた記憶があります。当時はイシククル湖畔か周辺の河川に面した場所ではないかと推定しました。ところが最近ネットで調べてみると、イシククル湖周辺ではなく湖の北、天山山脈の支流の北側、トクマクの南南西10㎞くらいにあるブラナ遺跡がベラサグンの跡ではないかと言われています。

 通常遊牧民族は王庭(単于庭)といって、要害の地に族長の大テントを中心に大小さまざまなテント群を設けて首都とします。これはいつでも移動できるようにすることと、緊急時には防衛しやすくするためです。通常は三方を山に囲まれ一方が開けた平野などに設けます。

 ところがブラナ遺跡は平野の真っただ中で周囲に要害となるような地形もなく本当に王庭があったのか疑問でした。ただカラハン朝時代からベラサグンは首都だったので、そこらへんに謎を解くカギがあるような気がします。カラハン朝もトルコ系遊牧民族が建てた国ですが、農耕民族を支配下に入れていたためテントではなく通常の都市を都としていたようなのです。

 実はシルクロードはイシククル湖ではなく山脈を隔てた北側を通っています。甘粛回廊の西端敦煌から西はタクラマカン砂漠が広がり、砂漠の南縁を通る西域南道と、北縁を通る西域北道に分かれます。西域北道も天山山脈の北を通る天山北路と南側を通る天山南路に分かれています。

 天山南路は5000m級のパミール高原を越えないといけないため、天山北路が主に使われました。その天山北路が通るのがまさにブラナ遺跡でありキルギスの首都ビシュケクも地方都市トクマクも天山北路沿いです。耶律大石は遊牧民族のセオリーである王庭方式ではなく、シルクロードの交易路を押さえ農耕民族を支配しやすいように都市を首都としたのかもしれません。

 そういえば、契丹族は北宋の北にあった遼時代も遊牧民を支配する北面官、農耕民を支配する南面官を設け巧みに統治していましたからね。西遼時代も似たような統治機構だったのでしょう。

2024年6月30日 (日)

甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高

ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。

歴史ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。 

20240627-014901

 誰も興味ないと思いますが、私は一つのことに興味を持つとその関連情報を調べたくなるのでせっかくなので備忘録として記します。

 黒水城(カラ・ホト)の記事で、甘粛省と青海省の境にそびえる祁連(きれん)山脈に源流を発した弱水は甘粛回廊部を北西に流れた後、酒泉あたりで北東に転じゴビ砂漠の内陸湖である居延海近くで砂漠に飲み込まれ消えると書きました。昔は居延海がかなり大きく、弱水も直接居延海に注いでいたそうです。

 地図をパッと見ただけだと、弱水は居延海あたりから流れ出し甘粛回廊に向けて南流するようなイメージですが実際は逆でした。では甘粛回廊とゴビ砂漠、モンゴル高原の標高はどうなっているのか調べてみました。

 甘粛回廊(河西回廊)のある甘粛省は平均標高2260mもあります。しかしこれは省域に祁連山脈があるためで、祁連山脈は4000m級の高山です。回廊自体の平均標高は分からなかったんですが、各都市の標高を調べると甘粛省の省都蘭州で1424m、武威市で1440m、張掖市で1820m、酒泉市で1483mでした。回廊部は大体平均標高1400m前後はありそうです。

 ついでゴビ砂漠を調べたんですが、西高東低で西部の平均標高は1200m、東部に下るにつれ低くなって900mほどになります。ゴビ砂漠の北モンゴル高原の平均標高は1580mですから、祁連山脈から見ると甘粛回廊は山脈に連なる裾野の高原地帯でそこからゴビ砂漠に向かって平均で200mほど下ります。そして居延海あたりが最低標高で、北に行くにつれ再び標高が上がりだしモンゴル高原で1500m級に達するようです。

 甘粛回廊は幅30㎞くらいの狭い土地でシナ本土と西域をつなぐ交易路(シルクロード)ですが、ゴビ砂漠よりは高い位置にあったんですね。意外でした。

 ついでに言うと、ゴビ砂漠はサハラ砂漠のように砂丘が永遠に続く不毛地帯のようなイメージでしたが、かつての居延海のように湿地もあればオアシスもあり、全体的に言えば荒野という表現が正しいのかもしれません。もちろん純粋な砂丘もありますが。そして、内モンゴル自治区に点在する都市はこのようなオアシスに発展していったのでしょう。

 実際灌漑すれば農耕に適した土地もあるようで、内モンゴル自治区では元からの住民である400万人のモンゴル族に対し後から入ってきた漢族が1900万人もいるそうです。実はウイグルやチベットでも同じような状況で漢族が多数派を占めます。明らかな人口侵略ですね。

 このような漢族の人口侵略は清代から始まったそうで、現地のモンゴル人、ウイグル人はさぞかし不快だったことでしょう。20世紀にはいるとチベットにまで漢族の人口侵略の魔の手が伸びます。遊牧民は大人口を養えないのでどうしても農耕民族に人口の面で負けますからね。共産党政権になってから漢族の移民は拍車がかかったそうですから、意図的に民族浄化を図ったのかもしれません。

 元朝が明に滅ぼされた後、残党の北元が内モンゴルにとどまったのも人口的、経済的に明と対抗できると思ったからでしょう。民族の故郷であるモンゴル高原のモンゴル国の人口は328万人しかおらず、内モンゴル自治区のモンゴル人のほうが400万人で多いですからね。それでも現在は少数派になっているんですから悲しい話です。

 こういうことを言うと非難する人もいそうですが、大東亜戦争中に日本が作った傀儡国家徳王の蒙古国は民族的、政治的には正しい選択だったのかもしれません。結局日本の敗戦で崩壊し、徳王も最初モンゴル人民共和国に亡命しましたがシナ共産党政権に引き渡され逮捕されました。モンゴル共産党にとっては旧世紀の遺物である黄金氏族(チンギス汗の子孫)の徳王は利用価値がなかったのかもしれません。同族に裏切られた徳王は哀れですね。世が世ならモンゴルの王(ハーン?)になってもおかしくないのに。

 その後の徳王は、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀と似ていました。徹底的な思想教育を受け民間人になって1966年病死します。話が甘粛回廊からかなり脱線しましたが、これが私のスタイルです(笑)。

より以前の記事一覧