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カテゴリー「 世界史」の記事

2022年8月31日 (水)

秦の昭襄王を苦しめた北方遊牧民義渠(ぎきょ)

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 あまり支那の歴史に詳しくない方は、春秋戦国時代の秦が早くから超大国で支那統一をしたのも当然だと思っているでしょう。ところが秦は中原諸国から見たら西戎と区別のつかない蛮夷の国で文化の遅れた後進国、しかも国家間の約束も守れない虎狼之国と蔑まれる存在でした。

 その秦が一気に強国となるのは孝公(在位前361年~前331年)の時代です。孝公は魏から亡命してきた商鞅を抜擢し厳格な法治主義からなる専制国家を作り上げました。ただこの段階では列強の一角になったというだけで、本格的に超大国の道を踏み出すのは孝公の孫にあたる昭襄王(在位前306年~前251年)の治世です。昭襄王は宰相に魏冄(ぎせん)や范雎(はんしょ)、将軍に白起を起用し、当時最強の軍事国家であった趙を長平の戦いで撃破、他の諸国家も圧迫し覇権を確立します。以後支那戦国時代は秦を中心に回り始めました。

 では昭襄王の治世が安泰であったかというとそうでもなく、そもそも即位の経緯から怪しいものでした。正嫡だった兄武王が不慮の事故で亡くなったために庶流の彼が即位しただけで、武王の事故死も疑えば疑える事件です。しかも治世の初めは母である宣太后が実権を握り幼い昭襄王は飾り物にすぎませんでした。宰相に彼女の弟魏冄が就任したことでも、武王の事故死が宣太后と魏冄の陰謀ではなかったかと疑われる所以です。

 当時の秦は本土のすぐ北、オルドス地方(黄河が几状に湾曲する内部、関中のすぐ北)に義渠という異民族を抱えていました。義渠については謎が多く、西周を滅ぼした犬戎の末裔だとも、チベット系あるいはトルコ系の遊牧民だったとも言われます。当時のオルドス地方は砂漠化の進んだ現在とは違い草原が広がる遊牧の適地でした。匈奴をはじめとする北方遊牧民がオルドスの地を欲したのもこれが理由です。

 戦国時代初期、魏の文侯が将軍呉起の活躍で黄河西岸の西河地方を征服すると、義渠は魏に臣従し秦を苦しめました。一時期支那大陸の覇権を握りかけた趙の武霊王(胡服騎射で有名)も義渠を利用し秦を征服しようとします。義渠軍は一時秦本土の渭水沿岸まで攻め寄せました。

 同じ西戎出身という事で近親憎悪があったのか秦と義渠はしばしば対立しました。昭襄王に我慢ならなかったのは、義渠王と母である宣太后が不倫関係になったことです。そればかりか、義渠王は秦の王宮まで堂々と出入りし宣太后と枕を共にしていたそうですからおぞましい関係でした。これを見ても、秦と義渠のパワーバランスは義渠側に傾いていたのかもしれません。なんと宣太后は義渠王との間に二人の子供まで設けたそうです。

 成長した昭襄王は、我慢の限界に達します。ある日、昭襄王は王宮で宣太后と同衾していた義渠王を引きずり出し首を刎ねました。間髪入れず義渠に攻め込みこれを滅ぼします。史記では義渠王を騙し討ちにしたのは宣太后自身だと書かれていますが、不倫して子供まで設けたのに裏切るか疑問です。おそらく息子の昭襄王に脅されたやったのかもしれません。

 ただ宣太后は摂政、弟の魏冄は宰相と一族で大きな権力を握っていたのでこの時は処断されませんでした。その後、范雎を宰相に抜擢した昭襄王は彼の建言を容れ宣太后を退位させます。魏冄はじめ高位高官に昇っていた一族をことごとく罷免、ようやく親政を始めることが出来ました。その後の活躍はご存知の通り。

 秦に滅ぼされた義渠の生き残りは北に走り匈奴と合流したそうです。

 

 ちなみに宣太后は義渠王の他に何人も愛人が居たそうで、生来の淫奔な性格だったのでしょうね。秦の始皇帝の母である趙太后と似ていたのかもしれません。王妃や王太后が淫乱だと国が乱れるというのは古今東西変わらないと思います。本当に困ったものです。ロシアのエカテリーナ2世のように淫奔の欠点を補って余りある外交内政の才能があれば話は別なんでしょうが…。

2022年8月29日 (月)

匈奴配下のローマ兵?

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 ネットでたまたま見たんですが、漢と匈奴の戦争の時、漢軍が匈奴に従っていた異質の軍隊を捕虜にし現在の甘粛省に連行、定住させたとありました。与太話の類かと思って調べたら出典は漢書・陳湯伝だそうです。

 該当部分を記すと『紀元前36年、漢西域、最高長官である甘延寿と、副校尉である陳湯が、4万人の精鋭兵を率いて西域を出発し、匈奴を討伐した。この出征中、彼らは匈奴軍の配下に、きわめて奇異な傭兵部隊がいるのを見た。』ということで、その傭兵はどうもローマ兵ではないかと言われているそうです。実際甘粛省永昌県にはローマ人の子孫と称する村があるそうですが、私は漢書の該当部分を読んだ記憶がないし、甘粛省のローマ人後裔の村も確認したわけではないので何とも言えません。

 ただ、可能性を考えると紀元前36年は漢11代元帝(在位前48年~前33年)の時代。陳湯も漢代末期の人で西域副校尉となって西域に赴任しています。西域都護の甘延寿と西域副校尉陳湯が4万の兵を率い匈奴と戦ったことは史実らしいです。では本当に捕虜となった異質の軍隊はローマ兵だったのか考察していきましょう。

 紀元前36年より前の欧州は共和制ローマの時代。近いところだと紀元前53年第一回三頭政治の巨頭の一人クラッススがパルティアと戦ったカルラエの戦いがあります。この時クラッスス率いる重装歩兵主力のローマ軍は騎馬民族パルティアの弓騎兵にさんざん翻弄されほぼ全滅してしまいました。総兵力5万2千のうち死者2万、負傷者4千を出し1万人もの捕虜を出しています。

 その後捕虜交換で戻ってきた兵士を数えても数千人が行方不明になっていたとされ、匈奴の傭兵になっていたとすればこれでしょう。その後、ローマではカエサルとポンペイウスの内戦からオクタヴィアヌスの覇権、ローマ帝国成立となりますから外国に目を向ける余裕はないはず。あるいは第2回三頭政治のオクタヴィアヌスの宿敵アントニウスがパルティア遠征も行っていますがこれは紀元前36年なので時系列的には違うと思います。

 ここまではあくまで可能性の話。人間の心理として外国で戦争があり脱出に成功した兵士がいたとしても故郷と逆の方向に逃げるか疑問です。というのもギリシャ人傭兵がアケメネス朝ペルシャとの戦争で敵中に孤立しながら軍隊として組織を維持し苦難の末故郷ギリシャに逃げ戻ったという有名な『アナバシス』という話もありますからね。

 パルティアの捕虜となったローマ兵が東の辺境(ホラサン地方からアフガニスタン辺り)に流され辺境警備の任務に就いたという話もありますが、当時パルティアが中央アジア諸国と大規模な戦争になったという史実は知りません。そもそも超大国ローマと対峙しているパルティアが反対方向の中央アジア諸国と戦争していたら馬鹿です。

 一説では匈奴の傭兵はローマ兵ではなくギリシャ兵だったのでは?という見解もあります。これは可能性が高いです。というのも中央アジアのアフガニスタンからトランスオクシアナあたりにバクトリアというギリシャ人国家がありましたから。なぜここにギリシャ人国家が存在したか、歴史に詳しい人ならご存知だと思います。マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征で成立した国家の一つでセレウコス朝シリアから独立しました。

 そこに紀元前176年現在の甘粛省から西域に勢力を誇っていた月氏を匈奴が攻撃し西に敗走させます。月氏は当時弱体化し国家としての体をなしていなかったバクトリアを征服しクシャン朝を建国しました。もっともクシャン朝は月氏ではなく月氏に支配されていた現地民族が建国したという説もありはっきりしません。月氏だったとしても現地民族だったとしてもどちらもイラン系ですから。

 バクトリアはギリシャ人が支配民族として君臨し軍隊もマケドニア風だったそうです。月氏がバクトリアに到達したとき、マケドニア風の軍隊が存在していたかは疑問ですが、これらが匈奴との戦争に駆り出され捕虜になっていた可能性は高いと思います。ローマ人がはるばるシナの甘粛省まで至ったというよりは、最初から中央アジアにいたマケドニア人の生き残りが捕虜になり甘粛省に連行されて定住したという方がしっくりきます。

 皆さんは、甘粛省の欧州人末裔の村ルーツはどれだと思いますか?

2022年8月27日 (土)

朝鮮出兵時の朝鮮八道石高

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 これは参謀本部が編纂した『朝鮮の役』に載っていたデータですが、参謀本部が同書で指摘していた通り正確なものではありません。というのも日本軍は短期間占領していただけで本格的検地などされなかったからです。朝鮮半島のように農業生産力の低い土地は石高=人口ですから、この数値通りなら当時1200万人以上いたという事ですが、とても信じられません。というのも1600年ころの日本の推定人口が2200万人くらいでしたから。

 実数はその半分くらいだと見たほうが良いでしょう。だいたい600万人くらいが当時の李氏朝鮮の人口だったと思います。多くても800万人は超えないくらい。ただ確実に言えることは、朝鮮八道のうち南部の慶尚道、全羅道だけで全体の44%くらいの石高、つまり人口があったという事です。首都を含む京畿道が低いのは意外でした。一番北東部にあり寒冷な咸鏡道も意外に石高が多いんですが、これはちょっと信用できません。咸鏡道まで進軍した加藤清正が自分の功績を誇るために過大に報告した可能性は高いですね。平安道(半島北西部)は小西行長の担当なので、こっちも過大報告の可能性があります。

 やはり稲作は寒冷地には向かない、ということは朝鮮半島から稲作がもたらされたという説も嘘だったと間接的に証明されたわけです。過去記事でも書きましたがシナの研究機関が調査した米の品種特性遺伝子も原産地のシナ江南地方と日本だけにあって朝鮮半島にないものがあるそうですから、これを見ても稲作はシナ江南地方→日本→朝鮮半島と伝播したと考えるのが自然です。

 皆さんは朝鮮半島に関わる物に興味ないでしょうが、面白いデータだったので紹介してみました。

2022年8月21日 (日)

可敦城の話

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 前記事で可敦城は遼王朝がモンゴル高原支配の拠点として建設したと書きましたが、その後調べた結果ウイグル時代(744年~840年)に唐から迎えた和蕃公主(唐が異民族君主を懐柔する目的で嫁がせた皇女)の居城として築かせたのが最初だと分かりました。

 ではその皇女は誰かという事ですが、はっきりとは分かりませんでした。有力なのは唐第12代徳宗皇帝(在位779年~805年)の娘咸安公主です。ちなみに可敦というのは古代トルコ語で皇妃を意味するハトゥンを語源とするそうです。ということから、ウイグルは咸安公主を迎えるためにシナ風の都城を築いた可能性が高いです。もっとも唐王朝を開いた李氏自体鮮卑族出身ですけどね。徳宗の時代はすでに安史の乱を受け王朝が衰退していた時代ですから、ウイグルはじめ周辺異民族がどう思っていたかわかりませんが、唐全盛期の2代皇帝太宗は北方遊牧民から天可汗と呼ばれ崇め奉れたそうですから、彼らが唐の皇帝は自分たちの仲間だと思っていた証拠です。

 契丹族の興した遼は、ウイグル時代の可敦城を引き継ぎモンゴル高原支配の拠点として改修、拡張したのだと思います。契丹族は遊牧民ですが、支那支配のために北面官(遊牧民担当)、南面官(農耕民族担当)を設けて巧妙に支配しました。その意味では漢化した鮮卑族の北魏に似ていますが、さらに上手く統治したと言えるかもしれません。

 のちに遼の王族だった耶律大石が、王朝滅亡後可敦城に逃げて態勢を立て直したのもここが軍事的政治的に重要な場所で物資も集積されていたからでしょう。その後西進した耶律大石は中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国しますが、遼の制度を受け継いだのならオアシス定住民担当の南面官、遊牧民担当の北面官を設けて支配しやすかったと思います。

 耶律大石が可敦城に来た時、モンゴル高原の遊牧民はみな従ったそうです。彼らにしたら遼を滅ぼした女真族の金は半農半牧で遊牧民らしくなく、純粋遊牧民の契丹族の方に親近感があったのでしょうね。同じモンゴル系ですし。女真族はツングース民族なのでその意味でもモンゴル諸族から見たら異質でした。

 しかし遊牧民族で長期に安定した王朝を築いたのは女真族やトルコ民族のように半農半牧の民族でした。遊牧民族と農耕民族の良いとこ取りできるのが強みだったと思います。軍事は遊牧民的、統治は農耕民的に、という風に。純粋遊牧民族国家は勃興するときは甚だしくとも農耕民族支配が安定しないためあっけなく滅びます。エフタルやフン族が典型です。

 そう言えば面白いエピソードを思い出しました。元王朝時代、支那本土に領地を貰ったモンゴル貴族(汗に近い皇族だったような気も?)が住民をことごとく殺して放牧地にしようとしたことがあったとか。これを聞いた宰相の耶律楚材(契丹族出身、遼の遺臣)が税収の大切さを説いて止めさせたと言われます。さすがにいくらモンゴル人でもここまで馬鹿じゃないと思いますよ。これは耶律楚材の功績を称えるために作ったフィクションだと信じたいです。

 遊牧民は平時には農耕民と交易し自分たちで作れない物資(絹とか茶など)と馬を交換していましたから農耕民族の重要性は知っていたはず。農耕民を殺したら誰が税を納めるんですか?誰が食料や物を作るんですか?

 可敦城は耶律大石が去った後もモンゴル高原の隊商貿易の中心地として栄え、ここを拠点としたケレイト族のトオリル汗はモンゴル随一の勢力を誇りモンゴル族テムジン最大の敵として立ちはだかりました。可敦城は中世の一時期モンゴル高原の中心地だったと言えるでしょう。

2022年8月19日 (金)

モンゴル遊牧国家の首都とオルホン川

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 久々の世界史記事、それもマイナーな話題で恐縮です。ほとんどの人は興味ないと思いますのでスルーしてください。過去記事『モンゴル五大河川と地勢』でモンゴル高原を本拠地とする遊牧国家(シナ呼称行国)は、モンゴル高原の中央を流れるオルホン川かその支流に本拠地を設けることが多いと書きました。

 モンゴル帝国の首都カラコルムもそうだし、ウイグル帝国の首都カラ・バルガスンもです。満洲南東部に興った契丹民族が建てた遼もモンゴル高原支配の拠点として可敦城を築きましたが、これもオルホン川の支流トーラ川沿いにありました。そして現在のモンゴル国の首都ウランバートルもトーラ川流域です。

 何で今回取り上げたかというと、匈奴帝国の首都ルウトホト(シナ呼称竜城)が発見されたという記事を見たからです。とはいえ一月前の記事を今頃私が知ったという事ですが…。このルウトホトもやはりオルホン川沿いだそうです。ただ皆さんが思い描くような首都の姿ではなかったと思います。というのも遊牧国家は常に移動しており農耕民族のようなしっかりとした都城ではなかったからです。

 遊牧国家の首都を王庭(単于庭、可汗庭ともいう)といいますが、通常三方を山などの障壁に守られ一方を平野に面する要害の地に築かれます。建物は無く単于の大テントを中心とした数多くのテント群で占められていました。後年になるとシナ文化を取り入れ城壁を持った都市が築かれますが、それはウイグル以降だといわれます。ただ、単于や貴族などは定住を嫌いしばしば都を離れ大テントを設けて暮らしていたとされます。

 ならばどうしてシナ風の都市が必要かというと、武器や家具、道具を作らせるための職人の家が必要だからです。農耕民族にテントに住めと言えば嫌がりますからね。その職人たちは遊牧民族が農耕民族国家を攻めたり略奪した時に連行した捕虜。職人たちにとっては、そもそもモンゴル高原に連れてこられたこと自体嫌だったとは思います。

 ちなみに、モンゴル高原を本拠とした遊牧国家のうち柔然は首都不明、突厥の首都はウテュケン山と言われますからハンガイ山脈のどこかだと思われます。突厥の王庭がもしかしたら本来の王庭らしい王庭だったのかもしれませんね。

 遊牧国家が本拠地を大河川の近くに設けたのは、水が無ければ生きていけないからです。普段は馬で移動したとしても緊急時には船での移動もあったのでは?と想像します。となればモンゴル高原の中央を流れ各地とも連絡しやすいオルホン川流域に本拠地を設けるのは自然だったのでしょう。

 話は戻りますが、匈奴の首都(というか本拠地)ルウトホトの全容解明してほしいですね。おそらくは大小のテント群、可能性は低いがシナ風の都城もあります。というのも匈奴もシナ本土から数多くの漢人を連行しているからです。李陵とか有名ですよね。ただ張騫(漢の武帝が匈奴を攻めるために大月氏国に派遣した使者)が匈奴に捕らわれたとき暮らしていたのはテントだったそうですかこればかりは分かりません。

2021年11月21日 (日)

後百済の話

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 誰も興味ないでしょうが、日本史書庫で刀伊の入寇シリーズを書こうと調べていたときにふと興味を覚えたので残しておこうと思い記事にしました。と言ってもネット上で集めただけの情報なので非常に薄いものだということは予めお断りしておきます。

 新羅は朝鮮の三国時代(新羅・百済・高句麗)を統一した国家でした。新羅を正式な国号としたのは503年。660年に唐と結んで百済を滅ぼします。百済の遺臣は新羅の支配を嫌い同盟国だった日本に救援を求めます。日本は救援要請を受け4万余という大軍を朝鮮半島に派遣しました。当時の日本の人口は500万人弱だと推定されますからこれは恐るべき数でした。戦国時代で言うと12万人から15万人くらいに匹敵する数です。一方、新羅も唐に援軍派遣を要請し唐も13万人という大軍を派遣します。こうして行われたのが663年の白村江の戦いですが、数の劣勢は挽回できず日本・百済連合軍は敗北。日本は半島における権益をすべて失い、百済の遺臣も多くが日本に亡命したと言われます。

 これを見ても半島南部の任那が単なる日本の植民地ではなく最初から日本の領土だったと想像できます。そうじゃないとここまで本気で奪回しようとは思わないからです。シナの研究機関の研究成果から稲作が半島経由ではなく華南から海路で直接日本に渡り、海洋民族だった縄文人が人口希薄地だった朝鮮半島南部にも稲作と共に移住したことがほぼ分かっています。

 新羅はさらに668年、再び唐と結んで高句麗を挟撃、滅ぼします。この時唐は新羅もついでに服属させようと思ったそうですが、新羅の猛反撃に遭い半島支配を諦め緩やかな冊封体制にとどめざるを得なくなりました。この頃が新羅の全盛期だったのでしょう。その新羅も時代が進むにつれ王位継承争いや権臣たちによる権力闘争が激化し地方への統制力が弱まりました。

 新羅47代憲安王あるいは48代景文王の側室の子といわれる弓裔(きゅうえい 857年~918年)が899年反乱を起こし後高句麗を建国した話は日本史書庫刀伊の入寇第一話で紹介しました。この時同時にさらっと触れたと思いますが、農民出身の甄萱(けんけん 867年~936年)も新羅王朝に反旗を翻し百済の故地全羅道で後百済を建国します。

 後高句麗は将軍王建(877年~943年)にクーデターで乗っ取られ高麗が建国されます。後百済を建国した甄萱は農民出身で新羅王朝に仕え南海の防衛に功を上げ将軍になりました。おそらく新羅末期は地方の統制が緩み暴民が海賊化して沿岸部を荒らしまわっていたと言われますから、その鎮圧に活躍したのでしょう。甄萱は野心家で新羅の一将軍では満足せず全羅道に独自の勢力を築き899年弓裔が後高句麗を建国すると、これに対抗し900年に後百済を建国します。新羅はこれらの重大な反逆行為を討伐できなかったのですから、どれだけ弱体化していたか分かります。

 新羅の領土は後高句麗と後百済に蚕食されもともとの故地であった慶尚道くらいまで縮小しました。後百済は後高句麗とも戦争し最初は優勢だったようです。というのも後高句麗は背後にも契丹(後に遼を建国)や女真(後に金を建国)という強力な遊牧民族の敵を抱えていたため後百済や新羅に全勢力を傾けられなかったからです。この関係は後高句麗が高麗に代わっても変わりませんでした。

 926年、甄萱は新羅の首都慶州を陥落させ新羅の景哀王を殺します。彼がまともなら新羅を併合しさらに高麗を滅ぼし新たな統一王朝に成長できるはずでした。ところが甄萱は暴行略奪殺人の限りを尽くし景哀王の王妃を凌辱するなど新羅人の恨みを買います。これを見ても、とても統一王朝の建国者の器ではなく、ただの山賊風情が時流に乗り一時的に台頭しただけだとわかります。

 後百済の新羅支配は長く続かず、新羅の救援要請を受けた高麗の王建が逆襲に転じ930年後百済軍は新羅から叩き出されました。後百済はその後退勢に転じ936年熊津(百済の古都)以北の30城を高麗に奪われます。劣勢の中でも甄萱は愚かな行動をします。側室の子だった四男甄金剛を溺愛し太子で長男甄神剣(甄萱の子供は名前だけは格好良い)を廃嫡しようとしました。

 ところが神剣は次男良剣、三男龍剣と結託し逆に甄萱を幽閉、四男金剛を殺害して王位を奪います。このクーデター劇は935年ですので、高麗との戦争中に何をやっているんだと呆れ果てますね。金山寺に幽閉された甄萱はさらに愚かな行動を起こしました。娘と共になんと高麗に亡命したのです。そればかりか、高麗の王建に自らの国後百済の討伐を願う始末。王建は好機ととらえ後百済に遠征します。これには甄萱に従う後百済の反乱軍も加わったそうですから、ここまでくると情けなくなりますね。

 結局、後百済王甄神剣は高麗軍に敗北し降伏、処刑されました。自らの国を滅ぼした甄萱ですが、その晩年は悲惨でした。利用価値の無くなった甄萱は高麗で冷遇され最後は黄山寺で凍傷にかかり亡くなったそうです。享年69歳。シナ大陸でも歴史上、ただ時流に乗っただけの流賊が一時的に大きな権力を握ることはありますが統治能力に欠けるため最後はあっけなく滅びます。同じ流賊出身ながら明王朝を築いた朱元璋とは人間の器が違いすぎたのかもしれません。

2021年7月26日 (月)

黄河の大洪水1938年

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1938

 

 

 東京オリンピックのおかげであまり報じられませんが、支那大陸黄河流域では豪雨による大洪水で深刻な被害が出ています。鄭州では地下鉄のトンネルが長さ4㎞にわたって冠水し6000名以上が亡くなったのでは?とも言われます。

 黄河はその名の通り上流の黄土高原から粒子状の土砂が流れ込むため黄色く濁ります。土砂は農耕に適した栄養分を含むため中流から下流にかけて肥沃な農耕地帯を形成しました。特に黄河が几状に曲がる湾曲部から東に流れを変える潼関(どうかん)付近から河南省、山東省の境に至る所謂中原は黄河文明揺籃の地となります。

 ただ、黄河は暴れ川としても有名で歴史上何度も大洪水で河道を変えました。北は北京辺りから南は淮河に合流する辺りまで。その度に数十万から数百万の人命が失われます。そのため、黄河の治水に成功させた者が王朝を開くこととなります。古くは伝説の夏の兎王です。その時の大洪水は紀元前1900年ころだとも推定されています。

 兎王を苦しめた共工氏は、暴れ川黄河の象徴だとも人面蛇身で洪水を起こす水神でありそれを信仰した羌(きょう)族の事だとも言われます。どちらにしろ黄河と関係があります。羌は現在のチベット民族の源流の一つで農業と牧畜を行い古代には支那大陸各地に住んでいたそうです。ちなみに周の武王を助けて周王朝建国に貢献した伝説の軍師太公望姜子牙(呂尚)もこの羌族出身だとされます。

 黄河は通常は年間降水量1000ミリ以下で平穏ですが、河の性質上土砂が堆積し洪水を防ぐために堤防を築いたため、河川と堤防が周囲の平野より高くなる天井川になりました。ですからちょっとした雨でも堤防が決壊し少なからず被害をもたらします。今回の大洪水のように千年に一度ともいわれる豪雨に見舞われると深刻な打撃となりました。

 歴代の黄河の大洪水でどれほどの犠牲が出たかははっきりと分かりませんが、近年人為的に起こされた洪水では少なくとも数十万人(一説では100万人!)が犠牲になったことが分かっています。それは支那事変最中の1938年6月。1937年に始まった事変は徐州会戦で蒋介石の国府軍(国民政府軍)の主力を取り逃がしたものの日本軍は一応の勝利を収めました。国府軍は日本軍の追撃を恐れ数万の農民を強制的に動員し黄河の堤防を破壊させました。それがまさに今回大洪水になった鄭州から開封にかけて。人為的に起こされた氾濫は河南省から安徽省、江蘇省に跨る5400平方キロという広大な地域に広がります。

 その被害は深刻で被災者も600万人、この地域の農業生産にも大きな打撃を与えました。その被災民を救助したのは日本軍です。自分たちが逃げるために自国民を犠牲にした国府軍は言語道断ですが、戦後この洪水被害を日本軍がもたらしたと嘘宣伝した悪辣さは日本人の精神性では理解できません。これが大陸人の特徴なのかもしれませんが、驚きますね。これは南京大虐殺という虚構にも通じると思います。

 支那大陸では軍隊の事を兵匪と呼んで忌み嫌ったそうですが、黄河決壊の悪事を見ると納得できますね。大東亜戦争後始まった内戦で共産党軍が勝利したのは、より人民にとってましな政権だったからかもしれません。蒋介石の国民政府は黄河決壊事件などですでに人民の支持を失っていたのでしょう。その共産党政権も歴代王朝の例に漏れず近年は圧政を布いて人民を弾圧しています。王朝の命脈も長くはないと思います。それが歴史の法則通り人民の蜂起になるか外国(アメリカを中心とした西側世界)との戦争になるかは分かりませんが。

 支那大陸では歴代王朝や政府を人民が信用しないそうですが、黄河決壊事件などの悪事を見ると納得できる気がします。こういう体制が続く限り国民国家にはなり得ないのでしょう。

2021年6月25日 (金)

陳勝・呉広の乱で農民が反乱に踏み切った理由

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 世界史で習ったので覚えている人もいるでしょうが、支那大陸最初の統一王朝秦滅亡の原因となった反乱として有名ですよね。知らない人も多いと思うので簡単に説明すると、秦は過酷な法治政治で人民を弾圧し不満が蓄積していました。どんな理由があろうと法律に反すれば厳しい罰則が科せられ酷い場合は死刑になります。秦の始皇帝は土木好きで自身の王宮である阿房宮、自分の死後埋葬される始皇帝陵、北方の異民族匈奴を防ぐための万里の長城建設など全国各地の農民を徴発し工事に従事させました。また辺境の守備のためにも各地から農民を兵士として強制的に集めます。

 陳勝、呉広という人は日雇いで生活していた貧しい農民出身だったとも、こういった農民を労役に引率する小役人だったともいわれます。二人を含めた一行は漁陽(現在の北京辺り)の辺境守備に駆り出され現地に向かっている途中でした。ところが現在の安徽省宿州市にあった大沢郷というところで長雨に遭い足止めを食らいます。このままでは漁陽に決められた期日までに到着できそうもありません。秦の法律では期日までに現地に到着しなければ斬罪に処せられるため、自棄になった陳勝、呉広は仲間の農民と語らい引率の秦の役人を斬り秦に対する反乱に踏み切りました。世間の不満が蓄積していたのでしょう。この反乱に各地の不満分子が多数参加したため大規模化し秦の地方軍を撃破するまでになりました。

 これが世にいう陳勝、呉広の乱ですが、秦は対応に苦慮し疲弊します。そして反乱に呼応し後に秦を滅ぼす項羽や劉邦らが挙兵したためついに秦は滅亡に至りました。

 ところで、どうせ死刑なるなら逃亡するというまでは分かるんですが、巨大な秦に対抗する反乱に至るか疑問に思いました。というのも後に前漢王朝を開く劉邦は似たようなケースで逃亡し山賊になったことがあったのです。この時は劉邦と気脈を通じる同郷の蕭何(しょうか)が当時沛県の役人だったため、県令(県の長官)にとりなし不問にしたのですが、下手すると劉邦は秦の討伐を受け殺される可能性すらありました。

 このように、死刑は怖くても反乱に踏み切るにはかなり心理的ハードルが高いのです。いくら陳勝、呉広が説得しても農民たちが同意するかは賭けでした。秦は戦国の七雄という斉や楚などの列国を武力で滅ぼした強大な敵でしたから。ここで私は考えたんですが、もともと彼らは秦に対する反感があったのではないかと。

 というのも、項羽や劉邦と同じく陳勝・呉広の乱に参加した者たちも全員旧楚国の出身でした。過去記事でも書いたんですが、秦は楚を滅ぼした後過酷な統治を行い楚の人々の恨みを買っていたのです。中には親や兄弟を秦軍に殺された者も数多くいたと思います。有名な言葉で「たとえ三戸(数が少ないことと例え)となろうとも秦を滅ぼすのは楚たらん」というものがあります。秦は天下統一に当たって各地で暴虐を行いましたが、楚国に対しては特に過酷に対処したため恨みもそれだけ大きかったのでしょう。

 では劉邦は同じ楚人ながらどうして秦帝国に対して反乱に踏み切らなかったかという疑問も生じると思います。ただ史記などを読めば分かりますが、劉邦は恨みよりも命あっての物種と合理的に考える人で、そういった選択肢はなかったのでしょう。実際、劉邦が秦に対する反乱に参加したのも多分に成り行きだったという印象が強いです。

 陳勝、呉広は勢いがあるうちは良かったんですが、所詮人望がなかったためわずか半年で秦に鎮圧され最後は二人とも仲間に殺されました。一方、劉邦は有能な文官である蕭何や元韓王国の宰相一族という名門の張良、もともと項羽の部下だった名将韓信など数多くの有能な人材の支持を得てついには天下を統一しました。こうしてみると劉邦はやはり天下を統一する器だったのでしょうね。

 支那の統一王朝が滅亡するときはだいたい農民反乱から始まるケースが多いですが、その反乱が成功し天下を統一できるかどうかは反乱指導者の器次第だという事です。

2021年5月 5日 (水)

春秋時代の晋、戦国時代の魏が強国になった理由

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 古代シナのマニアックな話なので興味ない方はスルーしてください。

 シナ大陸の地理をご存知の方は、古代の人口密集地は黄河中流域、几上湾曲部の東から河南省と山東省の境界くらいまでの所謂中原だったことをご存知だと思います。「中原に鹿を逐う」という言葉は天下を争うと同義でした。中原の西の中心地は洛邑(洛陽)、東の中心地は大梁(開封)ですが、その人口は東に集中します。というのも洛邑は東西を虎牢関と函谷関、南北を伏牛山地と邙山(ぼうざん)に挟まれた盆地で守るには易い難攻不落の土地ですが豊かさでは黄河平原が広がる東部とは比べ物になりませんでした。特に大梁は東西の黄河の水運、華北と華南を結ぶ陸運の交わる要衝、経済の中心地として巨大な都市に成長します。北宋時代、大梁が首都になったのも納得できます。

 古代王朝は守りやすいというところから東周や後漢も洛邑(洛陽)を首都とします。一応黄河の北岸も中原に含まれますが、人口の面では黄河南岸には及びませんでした。では春秋時代、黄河の北岸、しかも人口が中原に比べて希薄な山西省南部に中心地があった晋がどうして南方の楚と伍する超大国になったか分かりますか?

 それは塩でした。塩は人間が生きるのに必要で家畜も塩がなければ死んでしまいます。中国塩政史によるとシナ大陸沿岸部の海塩生産地は5つあったそうです。河北省の長蘆塩、山東省の山東塩、江蘇省の両淮塩、福建省の福建塩、広東省の両広塩です。ただ、これら沿岸塩が生産されるようになったのは中世以降で、それ以前は岩塩でした。その最大の産地が黄河が几状湾曲部から東流する北岸、山西省南部のまさに晋の中心地にあったのです。

 現在の地名で言うと山西省運城市。実は晋の首都翼は運城の解池という塩湖の100㎞北東でごく近いところにありました。春秋時代の晋は塩の一大生産地である解池を握り、北方の遊牧民と接し軍事技術を取り入れたために強国となれたのでしょう。紀元前403年、晋が実質的に滅亡した後戦国時代最初の覇権国となった魏も、首都安邑は解池のすぐ北で現在では運城市に含まれる安邑県にありました。

 魏はこのほかに、中原の東の中心都市大梁、黄河北岸の重要都市鄴(ぎょう)まで支配していたんですから強国になるのも当然でした。魏の文侯が名君だったという事もあったでしょうが、国力の面からも覇権を握るのは自然だったのでしょう。その後、解池を含む安邑は商鞅の改革で急速に台頭してきた西の蛮国秦に奪われます。魏は副都の大梁に遷都してその後もしばらくは存続しますが、秦は安邑地域を奪ったことで天下統一の基礎が出来上がったのだと思います。

 

2020年11月27日 (金)

なぜ七王国の一つ、ウェセックスは強大化したか?

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 マイナーなイギリス史ばかり続いて付いてこれない方も多いと思います。これでイギリスシリーズは一応打ち止めなので興味ない方はスルーお願いします。

 

 5世紀初頭、ローマ帝国がブリテン島から撤退したために生じた権力の空白。それに付け込むようにブリテン島に侵攻したのはゲルマン系民族、アングル人、サクソン人、ジュート人でした。ジュート人の故地はユトランド半島の語源となった現デンマークに当たる半島北部。アングル人はその南、現在の北ドイツ、ユトランド半島の付け根に当たるシュレスビヒ・ホルシュタイン州に住んでいました。サクソン人はドイツ語読みザクセン人で現在のハンブルクを中心とするニーダー(低地)ザクセン地方出身です。

 余談ですが、現在ザクセンというとベルリンの南に位置するドレスデンを中心とするザクセン州が有名ですが、ザクセン人は南東のザクセン州から北西のニーダーザクセン州にかけて広く分布していました。カロリング朝フランク王国のカール大帝を苦しめたのがザクセン人で征服するまでに32年もかかっています。ですからほぼ全民族で移動したジュート人、アングル人と違い、ブリテン島に渡ったサクソン人はごく一部だと思います。

 アングル人、サクソン人、ジュート人を総称してアングロサクソン人と呼びますが、彼らはブリテン島のもともとの住民であるケルト人を征服して七王国を建設しました。ジュート人が建国したのはケント王国、アングル人は北からノーザンブリア、マーシア、イーストアングリア王国を建国します。サクソン人はウェセックス(西サクソン)、サセックス(南サクソン)、エセックス(東サクソン)の三つの王国を築きました。

 その中で一番強大化したのはイングランドの南西部に当たるウェセックス王国です。七王国を築いたアングロサクソン人ですが、欧州の民族移動の波は終わらず9世紀にイングランドに侵攻したのはスカンジナビア半島からジュート人の居なくなったユトランド半島まで進出していたノルマン人でした。彼らはヴァイキングとも呼ばれます。アングロサクソンよりさらに野蛮なノルマン人たちはロンドンの北からノーザンブリア全域まで含む広大なデーンロウと呼ばれつ支配地域を確立しました。

 それに抵抗したのはウェセックス王国のアルフレッド大王(849年~899年)です。彼は875年エサンドゥーンの戦いでウェセックスからノルマン人を叩き出し、海上でもノルマン人に勝利を重ねウェドモーアの和議でノルマン人の支配地域をデーンロウだけに止めます。面積だけ見るとデーンロウはイングランドの6割くらい占める広大な地域のようですが、イングランドの人口はロンドン以南のウェセックス、サセックス、ケントあたりに集中しロンドン以北は土地が貧しく人口希薄地帯でした。人が少ないからノルマン人が征服出来たとも言えます。

 アルフレッド大王の勝利は、彼個人の力量もあったでしょうが何よりウェセックスの人口、国力が他の七王国を凌駕していたのが大きかったと思います。そしてウェセックスはその後のイングランドの基礎となりました。1066年ウィリアム1世によるノルマン・コンクエストで敗北したエドワード懺悔王(在位1042年~1066年)は最後のウェセックス朝イングランド王国の王でした。

 ブリテン島のもともとの住民はフランスのガリア人と同族のケルト人です。ブリテン人とも呼ばれた彼らですが、アングロサクソン人の侵略で異民族支配を嫌った人々は現在のウェールズ地方やアイルランドに逃れました。さらに一部はフランスのブルターニュ半島に移住します。ブルターニュの語源はブリテンですからガリア人と同族であるブリテン人には住みやすかったのでしょう。ちなみにスコットランドにいた剽悍な山岳民族ピクト人は、アイルランドから渡ったゲール人と同化しスコットランド人となります。

 ですからイングランドの正統な住民を名乗れるのはC・W・ニコルさんのようなウェールズ人かもしれませんね。アングロサクソンにしてもノルマン人にしても侵略者の子孫なんですから。

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