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カテゴリー「 世界史」の記事

2020年9月12日 (土)

内モンゴル雑感

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 最近シナ共産党政府による内モンゴルにおけるモンゴル人の民族浄化問題を取り上げました。私の悪い癖は、一つの事を書くとその関連項目を調べなくては気が済まなくなることです。ただその集中力は長く続かず熱しやすく冷めやすいので困ったものです。私の記事のテーマがあちこち飛ぶのはこのためです。ですから、歴史に興味のない方には全く面白くないと思うのでスルー推奨です(笑)。

 

 さて前記事でモンゴル民族は大きくハルハ部とチャハル部に分かれ、ハルハ系が外モンゴルであるモンゴル国、チャハル系が内モンゴル自治区に住んでいると書きました。それと明代強勢になったタタール(明側呼称韃靼、モンゴル民族の事)のアルタン・ハーンの関係がよく分かりませんでした。元朝が滅んだあと最初にモンゴル高原の覇者になったのはオイラートのエセン・ハーン(1407年~1454年)です。このオイラートというのはオイラート部族連合の事で、チンギス・ハーンの正統な子孫黄金氏族ではなく外様です。そればかりか当初はチンギス・ハーンに敵対もしています。

 そのオイラートがモンゴル高原の覇者になったのは、元朝崩壊後北に逃れた北元のモンゴル人たちが内紛によって勢力を衰えさせたのも原因でした。1388年北元のトグス・テムル・ハーンは明の将軍藍玉(?~1393年)の攻撃を受け敗退、逃亡の途中かつてフビライとハーン位を争った弟アリクブカの子孫イェスデルに殺害され、フビライ・ハーンから続く北元の正統な血統は断絶します。

 オイラートのエセン・ハーンはその間隙をついて急成長しました。1449年には土木の変で明の討伐軍を撃破、時の皇帝英宗正統帝を捕虜とするほどの大功をあげます。エセン・ハーンは自身のモンゴル高原支配を正当化するため、チンギス・ハーンの子孫である黄金氏族の多くを殺害したそうです。

 しかし遊牧民族の常としてオイラートでもエセン・ハーンの死後後継争いで勢力を衰えさせます。雌伏していたモンゴル族(タタール、明側呼称韃靼)のダヤン・ハーン(1473年~1516年)は内紛で混乱するオイラートを討って再びモンゴル高原を取り戻しました。ですからモンゴルではダヤン・ハーンを民族再興の祖と呼ぶそうです。

 このダヤン・ハーンが息子たちをトゥメン(万人隊)の長として組織し、これがハルハ部やチャハル部になったと書きました。ただ歴史書ではタタール部はその後アルタン・ハーンによって強勢になったと書かれています。アルタン・ハーン(1507年~1582年)はチャハル部でもハルハ部でもありません。ダヤン・ハーンの三男バルス・ボラド・ジノンの次男でした。最初アルタンはダヤン・ハーンの嫡孫で従兄弟に当たるチャハル部のボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認めていたそうです。ただこの頃からモンゴル高原西部で勢力を拡張し1550年には明に侵攻し首都北京にも迫っています。

 ボディ・アラグ・ハーンの死後、チャハル部はアルタン・ハーンの勢力を恐れ興安嶺山脈の南東側に逃亡しました。こうして内モンゴルも勢力下に収めたアルタン・ハーンはチベットやカザフスタン方面にも進出し最盛期を築きます。アルタン・ハーンの死後、遊牧民族の常として彼の勢力は急速に衰えました。そしてアルタン・ハーンのせいでモンゴル民族は分裂したと言われます。それゆえにモンゴルではアルタン・ハーンの評価は祖父のダヤン・ハーンに比べて低いそうです。

 チャハル部はアルタン・ハーンの死後勢力を取り戻し再び内モンゴルも勢力下に収めました。過去記事「玉璽と天命」で登場したリンダン・ハーン(1590年~1634年)はこのチャハル部最後のモンゴル高原の覇者でした。その後興安嶺山脈東側の満洲族が急速に台頭し、チャハル部もハルハ部も満洲族が建てた清朝に服属します。

 内モンゴル自治区が興安嶺山脈西麓まで含む細長い領域なのはまさにチャハル部の勢力範囲だったからでしょう。ノモンハン事件を考えるとハルハ部の勢力もこのあたりに伸びているはずですが、モンゴル高原東部と興安嶺西麓の間はチャハル部が支配していたのかもしれません。

 外モンゴル(モンゴル国)より内モンゴルのモンゴル人の人口が多いのは、遊牧民族にとって農耕民族の周辺に住んでいたほうが何かと都合良かったからでしょう。平時は交易、有事は略奪がしやすいですからね。内モンゴルはゴビ砂漠の印象しかありませんが、2000万人近い漢族が進出していることを考えると農耕適地も多いのでしょう。オアシスもあるそうですし、長城線のすぐ北側、黄河湾曲部周辺は耕作できそうな感じはします。

 近代に入り農耕民族側が銃で武装し始めると遊牧民族の優位は崩れます。ロシア然り、シナ然り。交易と略奪に都合が良いからとシナ人の居住地周辺に住んでいた内モンゴルのモンゴル人たちは、逆にシナ人の圧迫を受けるようになりました。これが近年のシナ共産党政府のモンゴル人民族浄化問題に発展していったのでしょう。

 

 歴史の流れとは言え、遊牧民族好きの私としては寂しいですね。

 

 

2020年8月25日 (火)

殷墟と朝歌と鄴

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 マニアックでごめんなさい。世界史に興味のない方にはチンプンカンプンだと思うのでスルーお願いします。

 殷墟というのは皆さんが世界史で習った殷王朝の首都遺跡です。ただ近年の研究では商王朝というのが正しいとされます。殷というのは金石文の解読からそれを滅ぼした周王朝が呼んだ名称で、殷の人々は商と自称したらしいのです。一部では商とは殷墟のあった首都の名前(大邑商)で、その国の名称そのものではないという声もあります。が、都市国家ローマが支配した地域を共和政ローマやローマ帝国と呼ぶ世界史的慣例からすると首都の名前が大邑商ならその国の名前も商と呼ぶのがふさわしいと私は考えます。

 殷墟は現在の河南省安陽市にあります。その領域は東西6㎞、南北4㎞もあり広大です。存在が確認されている中では支那最初の王朝である商の首都にふさわしい規模です。一応その前の夏王朝も決定的な証拠が出ていないだけで二里頭遺跡が夏王朝の首都だったと推定されているので存在したと私は思っています。

 ところで、史書(史記だったかどうかは自信なし)では、商王朝最後の王紂王(帝辛)は周の武王に牧野の戦いで敗れ最後の首都朝歌の宮殿で自害したと書かれています。殷墟から出土した甲骨文を解読した所紂王ではなく帝辛と呼ぶのが正しいそうです。商では歴代王に十干(甲乙丙丁戊己康辛壬癸)を付けたようです。例えば商王朝初代湯王は帝乙というように。

 私の印象では朝歌と大邑商は離れているように思ったんですが、地図を見てみると朝歌は安陽市のすぐ南隣の河南省淇県(きけん)。春秋時代には諸侯国の一つ衛(周王室の一族で姫姓)の首都となっています。ただ紀元前660年異民族狄に攻め落とされ、首都を黄河南岸の曹(現在の河南省滑県)に遷都しました。その後衛は楚丘、帝丘(河南省濮陽県)に都を移し最後は紀元前209年秦に滅ぼされました。

 大邑商の規模を考えると朝歌も商の領域に含まれるか、商の郊外にあった王朝の離宮だったろうと推定されます。ですから朝歌が大邑商の一部だと解釈して間違いなさそうです。

 さらに歴史が下って三国時代。有名な魏の曹操が首都と定めた鄴(ぎょう)も安陽市と河北省邯鄲市臨漳県にまたがっており、広い意味で大邑商の領域内と解釈できそうです。そう言えば曹操の墓だとされる遺跡が安陽市で見つかっていますよね。

 この地は古代から都市が成立する条件にあったのでしょう。鄴と殷墟が近いのは知っていましたが、朝歌ともごく近いというのは驚きました。やはり史書の記述は信用できますね。たまに誇張がありますが(苦笑)。

2020年7月15日 (水)

司馬懿の先祖と司馬遷の先祖

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 私(鳳山)の悪い癖は一つの記事を書くと関連項目を調べないと気が済まなくなることです。ですから熱中しているときの集中力は凄いんですが、熱しやすく冷めやすいのですぐ忘れます。支那史上の有名人の子孫、先祖を調べていくうちの関連話です。歴史に興味のない方は全く面白くないと思うのでスルー推奨です。

 過去記事で秦の将軍王翦(おうせん)の子孫が漢代の剛直の士王吉でその末裔は魏晋南北朝時代の門閥貴族琅邪王氏になったことが分かりました。そして支那史上で最も有名な書聖王義之が登場します。では王義之と並び称される書家・詩人である謝霊運はどうだったのでしょうか?謝氏に関しては先祖が分かりませんでした。ただ陳郡謝氏は琅邪王氏と共に魏晋南北朝時代何代にもわたって宰相を出した超名門の門閥貴族でしたので、もともと大地主だったのでしょう。陳郡は現在の河南省周口市一帯。八王の乱から始まる中原の混乱を避け江南に一族郎党で移り住んだのでしょう。このあたり山東の琅邪王氏と似ていますね。

 ちなみに王義之の大叔父には東晋の建国を助けた宰相王導がおり、謝霊運の祖父は淝水の戦いで東晋を滅亡から救った将軍謝玄で、謝玄の叔父が宰相謝安です。陳郡謝氏と琅邪王氏は何代にもわたって通婚を繰り返しており南北朝時代の南朝政権は王氏、謝氏に代表される有力貴族の連合政権でした。日本史的感覚から言うとただの貴族にそれだけ力があるはずがないと思われるかもしれませんが、支那の貴族、豪族は桁違いで広大な荘園を持ち部民を動員すると2~3万人かそれ以上の私兵を持っていました。イメージ的には江戸時代の大名家に近いかもしれません。その中で王氏、謝氏は加賀百万石前田家や薩摩七十七万石島津家レベル(あるいはそれ以上か?)だったと思います。

 では三国志で諸葛亮のライバルだった司馬懿はどうでしょうか?司馬懿の一族は河内(かだい)郡温(現在の河南省のうち黄河以北の土地)出身でした。調べてみるとその先祖は戦国時代趙の将軍だった司馬尚。名将李牧と共に滅びゆく趙を秦の侵略から守り抜き戦いますが、秦の賄賂を受けた趙王の側近の讒言で将軍職を解かれます。李牧は讒言を信じた趙王の命で自害しますが、司馬尚は上手く逃亡に成功したようです。子孫の司馬懿に繋がる要領の良さですね。司馬卬(しばごう)は司馬尚の息子で、秦末の混乱期に台頭、項羽により河内地方を中心とする殷王に封じられました。司馬一族が河内に定住したのはこの頃でしょう。その後、司馬氏は漢朝に仕え三国時代に司馬懿、司馬師、司馬昭を輩出、司馬懿の孫司馬炎の時代に主家である魏を滅ぼし晋(西晋)を建国しました。

 司馬氏といえばもう一人有名人がいます。不朽の名著史記を記した司馬遷です。先祖を調べると秦の中期、蜀王国を滅ぼした将軍司馬錯(しばさく)でした。これは意外でしたね。ちなみに蜀王国は伝説の三星堆文明を滅ぼした望帝杜宇の末裔で中原とは違う独自の文明を築いていました。民族も漢民族ではなくおそらくチベット系の羌族ではなかったかとも言われます。

 司馬とはもともと軍政を司る役職で、それを姓としたものです。日本で言えば三善氏が問注所氏を称したようなものでしょう。代々軍人を輩出しそうな家系なのに司馬遷のような文人が出るんですから面白いですね。もっとも司馬錯のさらに先祖は周代記録係だった司馬氏だったそうですから、文系の血も流れていたのかもしれません。司馬遷の父司馬談も太史令(朝廷の祭祀、文書の起草や記録を司る役職)だったそうですから、漢代は文官の血が強まっていたのでしょう。

 歴史上の有名人の先祖や子孫を調べると本当に面白いですね。

2020年7月13日 (月)

竇猗房(とういぼう)、数奇な運命の皇后

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 宮城谷昌光氏の短編小説に『花の歳月』という作品があります。私の中では『鳳凰の冠』と共に宮城谷作品では五本の指に入る傑作短編だと評価しています。宮城谷さんはどんな主人公でも爽やかに書きすぎる悪癖がありますが、この二作に関してはそれが成功しています。花の歳月も全編に爽やかな風が吹き渡る美しい作品です。

 花の歳月の主人公竇猗房(とういぼう 不明~紀元前135年)は実在の人物で前漢三代皇帝文帝の皇后になった女性でした。花の歳月の元ネタは司馬遷が記した不朽の名作、史記・外戚世家です。史記によると竇猗房は現在の河北省南東部から山東省北西部にまたがる清河郡観津に生まれました。竇家は名家ではあったものの秦末から楚漢戦争の影響で没落し猗房の生まれたころは貧しい生活を送っていました。

 猗房には兄長君、弟広国がおり、弟広国とは特に仲が良かったそうです。幼少期二人で遊びまわりある時広国が姉のために桑の実を取ろうと木に登り落ちました。痛みにこらえながらも広国は姉に桑の実を渡し二人でそれを食べ口の中が真っ黒になって笑いあったというエピソードもあります。

 漢の高祖劉邦が天下を統一しようやく世の中に平和が戻りました。猗房は近所でも評判の類まれなる美少女だったといわれ、竇家では彼女を後宮の官女に差し出すことで貧乏生活を免れようと考えます。竇家は落ちぶれたとはいえ名門だったので後宮入りはすんなり決まりました。何も知らない猗房は両親に言われ長安に出発の日が来ました。弟広国は大好きな姉と別れるのを嫌がり泣いたそうですが、猗房は広国の髪を洗い優しく櫛で整え最後の別れを惜しみます。

 こうして後宮にあがった猗房ですが、彼女の知らない所で悲劇が起こりました。弟広国が何者かにさらわれ行方不明になったのです。竇家は必死に探したそうですがついに見つかりませんでした。情勢不安定な土地では誘拐が日常茶飯事だったのでしょう。猗房は後宮にあがったものの、その他大勢であることに変わりなく無為の日々を過ごします。当時高祖劉邦は亡くなり、呂太后の専横が始まっていました。ある時、各地に封じてある王(劉邦の息子たち)に五人ずつ官女を賜ることが決まります。猗房は仲の良い宦官に故郷に近い趙王如意のもとに送ってくれるよう頼みます。ところが宦官はそれをすっかり忘れ、趙ではなく辺境の代行きの名簿に猗房を加えてしまいました。

 歴史に詳しい方ならピンと来たと思いますが、趙王如意の母は劉邦が最も寵愛した戚夫人。そのため呂太后の憎しみを受け惨たらしい方法で殺されます。その息子である如意も毒殺されました。呂太后は戚夫人の両手両足を切り落とし目を潰し便所に落として人豚と呼んで罵ったそうです。これを見た息子の恵帝は優しい性格だっただけに衝撃を受け、以後酒色におぼれ早死にします。宦官はそういう宮中の空気を察し趙に猗房を送れば危ないと思って名簿から外したのかもしれません。猗房は知らない所でまたしても命を免れました。

 諸王に送り込まれた官女も決して歓迎されませんでした。呂太后は呂氏一族が天下を奪うために劉氏に所縁のある諸王の落ち度を見つけ取り潰そうと虎視眈々と狙っていたからです。猗房が送り込まれた代王、劉邦の四男劉恒は楚の母薄夫人がほとんど劉邦に愛されなかったため呂太后も警戒していませんでした。宦官は代なら安全だと思って猗房を名簿に加えたのでしょう。薄夫人の母は戦国七雄の一つ魏の公室に所縁の人物でしたが、国が滅び薄という庶人と結婚し薄夫人を生みました。成長すると秦末の混乱期群雄の一人西魏王魏豹の側室として後宮に入れられますが、美しくはあっても大人しい性格だったため魏豹にほとんど顧みられませんでした。その後魏豹は劉邦に滅ぼされ薄夫人も戦利品としてそのまま劉邦の後宮に入れられます。

 ある時、薄夫人は仲の良い側室たちと誰が一番早く劉邦の寵愛を受けるか話し合ったそうです。ところがいつまでも薄夫人は無視され続け、側室たちが「あの人だけは陛下の寵愛を受けられなかったね」と笑い合っていたそうです。これを聞いた劉邦は哀れに思いその日薄夫人を召し出します。そしてただ一度の寵愛で薄夫人は身ごもりました。その時の子供が代王劉恒です。劉恒を代王にしたのも、代は匈奴に近い危険な土地で死ぬ可能性も高かったため劉邦にほとんど愛されなかった劉恒に白羽の矢が立っただけでした。薄夫人は、息子が代に出立すると自分も同行します。おそらく母子ともども代の地で生涯を終える気だったのでしょう。彼女にとって息子だけが唯一の生き甲斐でした。

 最初、薄夫人も代王劉恒も呂太后から送り込まれた官女たちを警戒します。自分たちを監視するためのスパイと思ったのです。ところが猗房は聡明で誠心誠意仕えたためいつしか劉恒は心を開くようになります。そして五人のち猗房だけを寵愛しました。薄夫人にも気に入られようやく幸せを掴めたのでしょう。間もなく二人の間には娘と二人の息子が生まれました。

 時代は猗房の知らない所で大きく動きます。各地に封じられた劉邦の息子たちは呂氏一族の圧迫政策である者は殺され、ある者は落ち度を咎められ取り潰されました。そんな中、呂太后が亡くなります。漢朝創業の功臣陳平、周勃らは彼女の死をじっと待っていました。そしてそれを確認すると一気に動き出します。兵士を率いた周勃が宮中に乗り込み、呂氏一族をことごとく誅殺しました。このクーデターは成功しましたが、後を継ぐ皇帝を誰にするかで紛糾します。群臣会議の結果、外戚が呂氏一族のように専横の可能性がない代王劉恒が選ばれました。

 都から皇帝就任を懇願する使者が来ても、呂太后の罠ではないかと劉恒も薄夫人も警戒したそうです。しかし何度も来る使者に根負けしてついに決断します。こうして劉恒は長安に帰還し即位しました。すなわち前漢第三代皇帝文帝です。実は二代恵帝と文帝の間に二人の幼い皇帝がいるのですが、これは呂太后が立てた傀儡皇帝ですので正式な皇帝には数えません。

 夫劉恒が皇帝に即位したので、猗房も皇后に立てられました。新しい皇帝が立った事、その皇后竇氏は清河郡観津の出身であることを聞いた若者がいました。驚いた若者は、「もしかしたら自分の姉かもしれない」と主人に告げます。広国でした。実は広国は誘拐され奴隷に売られていたのです。十余家に転売され各地を転々としました。河南省の宜陽にいた時、炭作りをしていたそうですが休憩中突如崖が崩れ仲間の奴隷たちが生き埋めになります。一人離れた場所で休んでいた広国だけが助かりました。この奇跡に自ら占ってみると『まもなく侯になる』と出ました。広国は奴隷の自分が侯になれるはずがないと一笑に付します。

 猗房が皇后になった時、広国は偶然にも同じ長安にいました。新皇后が自分の姉かもしれないと主人に話すと、驚いた主人は広国を奴隷から解放し朝廷に訴え出ます。普通奴隷を使役するような者は悪人というイメージが強いですが、この主人は部類の善人だったのでしょう。意地悪な見方をすると皇后の縁者を奴隷としてこき使っていたと発覚すると重い処罰をされるのでそれを恐れたという見方もできますが、まあここでは善人として話を続けましょう。

 猗房は訴えを聞いて弟広国に違いないと思います。しかしこういう天一坊のような山師は当時から数多く居たようなので、念のために文帝自ら広国を引見して話を聞くことにしました。広国は堂々と皇帝の下問に答え幼少期の桑の実のエピソード、猗房が出立の時自分の髪を洗ってくれたことを話します。帳の影で聞いていた猗房は思わず駆け出しました。大粒の涙をうかべ「広国、広国」と抱きかかえます。広国もこれに応え号泣しました。この光景を見ていた群臣たちで涙を流さなかった者はいなかったそうです。

 こうして広国は皇后の弟として侯に立てられました。占いは当たったのです。陳平、周勃らは竇氏の兄弟が専横することのないように賢者を教育係にしました。そのおかげで、広国も後に召し出された兄長君も謙虚で慎ましい君子に育ったそうです。文帝は名君として名高い皇帝ですが、それには皇后猗房や、補佐をする竇兄弟の力もあったと思います。猗房の生んだ長男劉啓は後に第四代景帝として即位します。

 ただ晩年病気で失明した竇太后(猗房)はまがままで息子景帝を困らせたそうですが、国家を傾かせるほどではなかったのでこの二代の御代は文景の治と言って漢王朝が善政で良く治まった時期として称賛されています。

 

 

2020年7月10日 (金)

昌平君の数奇な運命

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 支那戦国時代、楚の滅亡関連話の一つです。

 

 秦の始皇帝が天下統一するころ、秦の重臣に昌平君(紀元前271年~紀元前223年)という人がいました。昌平君は称号で本名は熊啓。熊という氏から分かる通り楚人でした。では楚人がどうして秦の重臣になれたのか疑問に思われる方もいると思います。実は、昌平君は秦に人質となった楚の太子完の子供でした。秦の昭襄王(在位紀元前306年~紀元前251年)は人質となった楚の太子完に自分の娘を与え正室にしたのです。これを見ても、秦は人質とはいえ粗略に扱わなかったことが分かります。

 

 昭襄王は秦王政(後の始皇帝)の曾祖父に当たりますから、政にとって昌平君は大叔父になるわけです。昌平君の父太子完は紀元前263年父であった楚の頃襄王が病に倒れると秦に無断で帰国します。脱出に成功した完は即位して孝烈王となりました。この時昌平君は母である秦の公女と共に残されます。当然激怒した秦でしたが、楚は代わりに頃襄王の別の庶子を人質に送ってきたので丸く収まります。この庶子も秦で養育され昌文君となりました。

 

 実父に見捨てられた昌平君でしたが、同じ楚王室出身で叔母に当たる華陽夫人に養育されます。華陽夫人は昭襄王の太子で後継者となった安国君(のちの孝文王)の継室となっていました。昌平君は父方で楚の王室と繋がり、母方で秦王室の血を引いていたのです。楚人とはいえ秦で生まれ成長したので意識的には秦人だったと思います。

 

 昭襄王の孫にあたる荘襄王(孝文王の庶子)の時代に初めて出仕したそうです。紀元前246年秦王政が即位すると御史大夫(三公の一つで諸侯の監察を行う)になりました。紀元前238年嫪毐(ろうあい)の乱がおこると叔父昌文君と共に鎮圧に尽力、紀元前237年乱に連座して相国呂不韋が罷免されると右丞相に任命されました。

 

 ここまで見ると順風満帆の人生ですが、紀元前226年楚の攻略方針を巡って王翦(おうせん)を擁護したため、秦王政の不興を買い罷免されます。王翦は楚の平定に60万人の兵力が要ると主張し、20万人で十分だと主張する李信や蒙恬と対立したのです。王翦と共に職を解かれた昌平君ですが、秦が楚から奪っていた領土陳(河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため楚に所縁のある昌平君に鎮撫の役目が与えられました。あくまで個人的感想ですが、秦王政や側近の李斯(後に丞相となる)は楚人である昌平君を心の底からは信用していなかったのではないかと思います。鎮圧できれば良し、鎮圧できず陳人に殺されても構わないというのが本音だったかもしれません。

 

 ところが運命はここで大きく転換します。楚攻略に20万人の兵力で十分と大言壮語して出陣した李信や蒙恬らは楚の名将項燕(項羽の祖父)の奇襲を受け大敗するのです。項燕は勝利の勢いをかってかつての旧都だった陳までも奪回します。昌平君は進退窮まりました。秦の法律では、たとえ不可抗力であっても任務を遂行できないときは死刑が待っていました。この過酷な法律が庶民の怨嗟の的となり各地で反乱が起こって秦滅亡の原因となるのですが、李斯たちがこれを狙っていたとすればかなり狡猾です。

 

 昌平君は一か八かの賭けにでます。陳を奪回した項燕将軍の元に出頭するのです。項燕も昌平君が楚王室所縁の人物であることは知っていました。ただ現在の楚王である負芻(ふすう)はクーデターで王位を奪っていた為、彼のもとに行けば殺されるだろうと危惧します。そこで項燕は昌平君を食客として匿う事にしました。

 

 秦では李信、蒙恬らが失敗したので秦王政は改めて王翦に出馬を請います。王翦はかつての主張通り60万の兵を与えられ出陣しました。大軍に兵法無しと言われる通り、項燕率いる楚の正規軍は多くても10万。楚に勝ち目はありません。前記事では史記の記述通りこの時項燕が敗死し楚が滅亡したと書きましたが、本当はもう一悶着あったみたいです。

 楚各地で秦の扇動で反乱が起き、不安になった楚王負芻は項燕率いる楚の正規軍を呼び戻します。この時秦軍の追撃を受け壊滅したところまでは同じです。ただ、この時は項燕も昌平君も戦死しておらず脱出に成功したと言われます。正規軍が壊滅したため楚王負芻は秦軍に降伏、春秋時代以来の歴史を誇る南方の大国楚は滅亡しました。王翦は60万人の将兵を養うため楚各地で無理な兵糧調達を繰り返し楚人の反感を買います。

 この様子を見ていた項燕は紀元前223年残兵を集め反秦の挙兵をしました。秦の過酷な占領政策で怒りが沸騰していた楚人が多数参加したそうです。項燕は楚統合の象徴として昌平君を楚王に祭り上げます。この時の昌平君の気持ちが分かりませんが、やけっぱちになっていたという説、あるいは祖国楚の民が苦しむことに我慢できず義憤にかられ立ち上がったなど様々な説が言われます。

 

 ただ所詮は寄せ集めの兵。いくら項燕が名将とはいえ秦の正規軍に敵うはずもなく挙兵は失敗、乱戦の中昌平君は戦死しました。楚人でありながら秦で成長し、最後は祖国楚の地で散った昌平君、本当に数奇な運命でした。項燕もこの時自害したと伝えられますが、項燕は楚人の希望となり伝説となりました。一度は生き延びるのに成功したことから、「項燕将軍は死んでいない。時が来れば再び立ち上がり我らが楚国のために戦ってくれる」という声が無くなることはありませんでした。

 

 

 後年、項燕の子項梁と孫項羽が反秦の挙兵をしたとき多くの楚人が参加したのは救国の英雄項燕伝説のおかげだったと言えます。

 

 

 

項氏と王氏の因縁

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 久しぶりの世界史記事、マニアックな話題なので興味ない方はスルー推奨です。

 

 漢の高祖劉邦と天下を争った項羽。劉邦も項羽もともに戦国七雄の一つ楚国の出身で最初は協力して宿敵秦を滅ぼしました。楚人は祖国を滅ぼした秦に深い恨みを抱き「たとえ三戸(非常に数が少ない事の例え)となろうとも、秦を滅ぼすのは楚たらん」と復讐を誓いあいました。

 

 ではなぜ楚人が秦に対し深い恨みを抱いたかというと、占領政策が過酷だったからです。そしてそれを行ったのは秦の将軍王翦(おうせん 生没年不詳)でした。王翦は秦王政(後の始皇帝)の命令で楚を攻撃します。最初秦王政は若い将軍李信、蒙恬に20万の兵を与えて楚を攻めさせましたが、楚の将軍項燕(項羽の祖父)に半分以下の兵で奇襲され大敗しました。激怒した秦王政は名将と名高かった王翦に今度は60万という大軍を与えて遠征させたのです。

 

 楚はかつての覇権国ですが、連年秦に攻められこの時すでに本拠地の湖北、湖南を失って全盛時の半分以下の領土に落ちぶれていました。首都郢(えい 湖北省荊州市)は秦将白起によって陥落させられ、何度かの遷都の後寿春(安徽省淮南市)が最後の首都になります。楚は連年の戦で兵役人口が激減し項燕が率いた楚軍も10万もいなかったと伝えられます。

 

 俗に大軍に兵法無しと言います。しかも今回秦軍を率いるのは名将王翦。王翦は項燕に付け入る隙を与えないため防備を厳重に固め楚軍の挑発を受けても動きませんでした。攻めあぐむ楚軍。そうしておいて秦は楚の宮廷に賄賂をばら撒き国王の近臣を抱き込みます。楚王は近臣の進言を受け項燕に撤退を命じました。この時楚の各地に反乱が起き(これも秦の謀略)、首都が危なくなっていました。項燕といえど国王の命令には逆らえません。仕方なく撤退の準備に入りました。項燕は秦軍が追撃するのを恐れ慎重に準備を進めますが、内通者が出てこの情報が秦軍に漏れます。これを見ても楚の命運が尽きたと分かりますが、撤退中を秦軍に襲い掛かられ項燕は壮烈な戦死を遂げました。

 

 楚の正規軍が壊滅したわけですから、首都寿春は簡単に落ち楚は滅亡します。ただ楚の領土は広く王翦は各地に軍を派遣し全土を平定しなければいけなくなりました。記録では王翦は会稽(浙江省)まで行ったとありますからこの時初めて海を見たのかもしれません。軍事に詳しい方なら当然想像つくと思いますが、紀元前3世紀頃の世界は兵站が非常に脆弱でした。60万人もの兵士を養うには莫大な兵糧が要ります。秦の本拠地である現在の陝西省から楚のある安徽省、江蘇省、浙江省まで長大な補給線を維持するのは困難、というよりほとんど不可能です。

 

 秦軍は自軍を維持するために占領地で兵糧を挑発、はっきり言えば略奪したと考えられます。ただ自国防衛のためにすら10万人の兵士しか集められなかった楚は連年の戦争で疲弊し住民の食糧すら満足になかったと思います。そこへ無理やり秦軍が兵糧を挑発するのですから、暴力や殺人が各地で起こったはず。まとまった兵糧を得るために一つの町や村の住民が秦軍に皆殺しに遭ったケースもあったでしょう。そりゃ恨みが深くなるのも当然です。

 

 皮肉にも秦軍の行った過酷な占領政策が楚人の復讐の原動力になり、秦末の混乱期に項燕の子項梁、孫の項羽が義兵を起こした時数多くの楚人が参加したのも頷けます。王翦は名将ではあっても人の心までは読めなかったようです。あるいは独裁者始皇帝の命令は絶対でそれを遂行するためには後のことは知ったことではないと思っていたのかもしれません。

 

 時代が流れて秦末、楚の項羽は反乱軍内で指導的立場を確立し秦本土に向け軍を動かします。この時それを迎え撃ったのは王翦の孫王離でした。互いの祖父、項燕、王翦とは立場が逆になります。項羽はシナ史上でも一二を争う軍才を持っていたため、王離率いる秦軍は簡単に撃破されました。王離は降伏したそうですがその後の記録がありません。項羽の性格上祖父の仇を許すはずありませんから処刑したと思います。

 

 その後、秦は章邯(しょうかん)率いる20万の主力軍も項羽に降伏したため滅亡は時間の問題になりました。項羽の恨みはすさまじかったのでしょう。降伏した秦兵20万人は就寝中夜襲を受け唯一空けてあった逃げ口に殺到した所、そこは断崖絶壁の崖でした。次々と落ちる秦兵の重みで先に落ちた兵士は圧死します。秦兵の最後の一人が谷底に落ちたのを確認すると、項羽は楚兵に命じ土を被せ穴埋めにしました。あまりにも残酷な処置ですが、かつて秦軍が楚の占領地で行った蛮行を忘れていない楚兵にとってはようやく復讐できたという気分だったかもしれません。

 

 ただ一つ指摘しておかないといけないのは王離が率いた兵士は秦の正規軍だったのに対し、章邯率いた最後の秦軍は兵士の数が足らないため徭役で来ていた民衆や罪人を解放し兵士にしただけでした。ですから純粋な秦人というより大陸各地から集められた民衆だった可能性が高いです。中には楚から徴発された人もいたかもしれません。とばっちりで殺された兵士は気の毒ですよね。穴埋めするなら王離の兵にすべきでした。結果論ですが…。

 

 さらに時代が下って漢代。王離の子孫に王吉という人物がいました。彼が司馬遷の史記を読んだかどうか知りませんが、漢の高祖劉邦も楚出身だったため敵であった秦の関係者は悪しざまに書かれます。漢代になっても秦にネガティブイメージしかなかったかもしれません。司馬遷が秦を虎狼之国と評したのもそういった世間の気分を反映したものだったのでしょう。王離に至っては三代に渡って秦の将軍を務め数多くの人を殺してきたため人々の恨みを買い負けるのも当然で因果応報だとすら司馬遷は書いています。

 

 こういう世間の気分に王吉は反発したのでしょう。勉学に励み直言の士として世間に名を上げました。王吉の子孫は後に書聖王義之を出した琅邪王氏、三国時代司徒王允を出した太原王氏となったそうです。新を建国した王莽の王氏はこれとは別系統の魏郡王氏。戦国七雄の一つ斉の公室田氏にルーツを持ちます。

 

 有名人の子孫を調べると面白い発見ができますね。

2019年10月23日 (水)

リシャット構造はアトランティスか?

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 タイトルで超古代文明好きを騙し釣るというのも心苦しいので、最初に言っておきます。伝説のアトランティスとは全く関係ないと思います。ですからオカルト好きとか超古代文明ファンはスルーしてください。がっかりするだけですから。

 ネットで見たんですが、アフリカ大陸西北部モーリタニア中央部に存在する巨大な環状構造リシャット構造が伝説のアトランティスの首都と同じ大きさで、この地が伝説のアトランティス大陸ではないかと推定した動画がありました。皆さんもグーグルマップですぐ見つかりますのでご覧ください。

 伝説のアトランティスの都は環状都市で周囲に水をめぐらせ直径24.5㎞あったとされます。サハラの目と言われるリシャット構造も中心部は約24㎞、ここからアトランティスは大洪水で水没したのではなく逆に隆起し、気候変動で砂漠化したため滅亡したのではないかと考える人が出てきました。

 最初は私も非常に興味を持ちました。発見当初隕石の衝突でできたクレーターではないかと言われましたが、調べてみると隕石特有の鉱石がない事、直径に比べ深さが浅すぎることから否定されています。標高100m~200mの高台の中に100mほどの山と窪地が同心円状に広がり何とも不思議な形をしていますが、現在では山を形成するのがカンブリア紀の固い岩石であり、ドーム状の隆起運動で形成されたと考えられています。同心円状の不思議な形になったのは長年の風化によるものだそうです。

 もし伝説のアトランティスの首都だとすると、何らかの人工物が存在しなければいけませんが、発見されたという話は寡聞にして聞きません。ですから現状は自然が作った不思議な地形という認識です。それにしても本当に面白い形をしていますね。「砂漠のアトランティス」と呼ばれたオマーンのウバール都市遺跡から始まった関連話もこれでひとまず終わりです。

 ただ最後に夢のある話を一つ。現在では広大な砂漠になっているサハラ砂漠も古代の一時期(12000年前)には緑が広がる楽園だったそうです。人類もそこに住み野生動物を狩って生活していました。その様子が壁画に描かれています。9000年前頃には気候変動で砂漠化が進んだそうですが、伝説のアトランティスが滅亡したと言われるのもこの頃。広大なサハラ砂漠がかつて豊かな緑が広がる楽園だったという伝承が古代エジプトに伝わりアトランティスの超古代文明という話に変わっていったのかもしれません。

 皆さんはいかが思われますか?

2019年10月20日 (日)

プント国

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 世界史マニアック話が続きますが、これも紅海・インド洋交易関連話です。一般の方は全く興味ないと思うのでスルー推奨です。

 世界地図やグーグルマップを見ていただくと分かる通り、エジプトは国土のほとんどを砂漠が占めます。ただ世界有数のナイル河の流域だけは緑が広がり、地中海に注ぐ河口域所謂ナイルデルタ地帯は豊かな農耕地帯になっています。この地域に人類が住み始めたのは1万年以上前だとも言われますが、シリア発祥の小麦栽培を通じて大人口を形成、紀元前4200年ころにはエジプトの原始王朝が始まったと言われます。

 文明の条件は効率的な食糧生産、大人口、金属器だそうですが、エジプトは金属を精錬するための木材も不足がちで国内で賄えなかったため早くから海外交易が盛んでした。地中海沿岸のレバノン杉もそうですが、紅海を使って南方諸国とも交易を行いました。その中の一つにプント国というものがあります。古代文明に詳しい方なら聞いたことくらいはあるでしょう。その比定地には諸説ありアラビア半島南西部イエメン地域にあったという説もあれば紅海に面したスーダン沿岸部、さらに下ってエリトリア、ジブチ、ソマリア沿岸部など様々な説があります。

 ただ、エジプトがプント国から輸入した交易品は金、香料、黒檀(こくたん、家具や弦楽器に使用されるカキノキ科カキノキ属の熱帯性常緑高木数種の総称。エボニーとも呼ばれる)、象牙、野生動物、奴隷などがあり、イエメンやアラビア半島では産しないものもあったため、現在ではイエメン説は否定されています。紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント王から黄金がもたらされたという記録もあり、かなり早くから紅海貿易が行われていたことが分かります。

 古代スーダンにはメロエを中心とするクシュ王国が存在し一時はエジプトを占領するくらいの強勢でしたが、ここの特産も黄金でした。そこから類推するとスーダン沿岸からエリトリア沿岸にプント国はあったと私は思います。ただその支配民族はクシュが黒人種であったのに対し、イエメン同様セム語族だったのでしょう。黒人種の国であったとすると同族である黒人種の奴隷は輸出しにくいからです。もっとも周辺の黒人種の国と戦争して獲得した捕虜を奴隷として輸出した可能性もありますが。

 私がプント国の支配民族がセム語族だったのではないかと推定する理由の一つとして、後にイエメンにあったとされるシバの女王と伝説のイスラエル、ソロモン王の子と称するメネリク1世がエリトリアとエチオピアの地にアクスム王国を建てているからです。ちなみに後のエチオピア王国ソロモン朝はこのメネリク1世の子孫だと言われます。

 紅海の南の出口であるバブ・エル・マンデブ海峡は30㎞と狭くイエメンからジブチに古代の航海術でも容易に渡れます。紅海を船で行き来できた民族なら尚更です。もしかしたらプント王国はジブチ、エリトリアとイエメン地域を含んだ海峡国家だったかもしれませんね。そのプント国との交易もエジプト第20王朝(紀元前1185年頃~紀元前1070年頃)の時代、突然途絶えます。

 私はこの時期に、ナイル河中流域に栄えたクシュ王国からの侵略があったのではないかと考えています。エジプトとクシュは互いに支配したり支配されたりの関係で、紀元前11世紀まではエジプト王国がクシュを植民地支配していました。しかしエジプトで内乱が起こり衰退するとクシュ王国は独立を勝ち取りピイ王の時代逆にエジプトに攻め込んで征服、第25王朝(紀元前747年~紀元前656年)を開いたほどでした。クシュによるエジプト支配が終わったのは、紀元前671年世界帝国アッシリアがエジプトに攻め込んだからです。ただこの時はエジプトから撤退したのみで、クシュ王国は紀元後ローマ帝国のネロ帝時代も存続していたそうですから驚かされます。クシュ王国が完全に滅んだのは600年頃で支配民族の反乱が原因だそうです。

 プント国とクシュ王国の関係には非常に興味があります。クシュ王国はメロエ語、メロエ文字を持ちエジプト文明に影響を受けたピラミッド群を建設するほど栄えた文明でしたが、プントから学んだものもあったかもしれません。そしてプントの後を受け紅海貿易を担ったとすると、この地域の歴史はもっと掘り下げるべきかもしれませんね。

 

 

2019年10月19日 (土)

乳香の話

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 前記事で「砂漠のアトランティス」と呼ばれたアラビア半島、オマーン西部にあるオアシス都市遺跡ウバールを紹介しました。その際乳香が主要な交易品で、エジプトやシリア、メソポタミアに輸出し栄えていたと書きました。では乳香とはどんなものかと興味を覚えました。皆さんは興味ないと思いますのでスルーお願いします。

 お香ですから植物から採れるんだろうなと思い調べたらその通りでした。乳香はムクジロ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹液です。樹液の塊を焚いて香にするほか鎮痛・止血などの漢方薬としても重宝されました。古代には同じ重さの黄金と取引されたほど貴重なもので、アラビア半島南部オマーンやイエメン東部が原産。ウバールを含むオマーン西部の乳香貿易で栄えた都市遺跡群は「乳香の土地」としてユネスコ世界遺産に指定されました。

 乳香がいかに貴重なものだったかは、聖書でイエス・キリストが誕生した時東方の三博士が献上した贈り物の中に没薬、黄金と共に乳香も入っていたことで分かります。紀元前40世紀のエジプトの墳墓にも埋葬品として乳香が入っていたそうですから驚きます。古来イエメン地域は海のシルクロードの重要拠点の一つとしてハッピーアラビアと呼ばれたのも納得しますね。漢方薬にもなったくらいですから、遠く支那も交易圏に入っていたんでしょうね。日本にもシルクロードを通じて渡来したそうです。

 現在も良質な乳香はオマーンの特産品だそうですが、乱獲や火災、農地への転換、虫害などで生産量が激減し、今後50年で生産できなくなるだろうと言われています。本当に残念ですね。

 

 

2019年10月16日 (水)

砂漠のアトランティスは実在した?

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 ノーティドッグの傑作アクションゲームに『アンチャーテッド3 砂漠に眠るアトランティス』というものがあります。アラビア半島ルブアルハリ砂漠のどこかにあったとされる伝説のアトランティス文明を継承した古代都市の遺跡に隠された秘宝を巡って主人公ネイサン・ドレイク一行と中世から存在する秘密結社が争うという大変面白い内容でした。

 

 私は完全にフィクションだと思っていたんですが、ネットで調べてみると実際に「砂漠のアトランティス」と呼ばれる古代都市が実在したようです。ただしアトランティス文明とは無関係。場所はオマーン西部ドファール特別行政区内にあります。インド洋に面した港湾都市サララから内陸に200㎞程進んだところ。ウバールあるいはシスルと呼ばれるオアシス都市遺跡です。紀元前2世紀ごろが最盛期で紀元3世紀頃に忽然と姿を消します。

 オマーン西部は古代乳香を産する土地でした。乳香は重要な貿易品でインド洋交易で栄えます。海のシルクロードの拠点の一つで紅海を通じてエジプトやギリシャに輸出されました。内陸の通商路もアラビア商人によって開拓されメッカやメディナへと向かう道や、反対にペルシャ湾岸、メソポタミア地方に向かう道もできたそうです。ウバールはオアシス都市ですが気候変動で衰退しルブアルハリ砂漠に埋もれ幻の都市と言われました。

 ただその存在はコーランやアラビアンナイトにも記されます。人々は伝説の都市として憧れ「砂漠のアトランティス」という名称もこの時与えられたのでしょう。現代に至って科学が発達すると、人工衛星を使ってラクダの隊商が踏み固めた砂漠の交易路が見つかり、そこを辿っていくうちに通商路の交点に都市があっただろうと推定されます。そしてその地点を発掘した結果1990年代にウバール遺跡は発見されました。

 調べてみるとウバールは人口が増加し地下水を汲み上げすぎたために地盤沈下によって滅亡したことが分かりました。ウバール周辺が石灰岩質の土地だったことが原因です。コーランに記された伝説に「繁栄を極めたウバールの市民は、強欲で不道徳な生活を改めなかったため、アラーによって滅ぼされた」とあるのですが、あながち間違いではなかったのでしょう。

 そういえばアンチャーテッドでもウバール遺跡は岩山の地下にあって豊富な水がありました。ゲームを制作したノーティドッグのスタッフはこの事実を知っていたんでしょうね。まだまだ発掘は続いていて全貌が分かるのは当分先そうですが、機会があればいつか訪れてみたいですね。

 

 

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