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カテゴリー「 世界史」の記事

2019年10月23日 (水)

リシャット構造はアトランティスか?

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 タイトルで超古代文明好きを騙し釣るというのも心苦しいので、最初に言っておきます。伝説のアトランティスとは全く関係ないと思います。ですからオカルト好きとか超古代文明ファンはスルーしてください。がっかりするだけですから。

 ネットで見たんですが、アフリカ大陸西北部モーリタニア中央部に存在する巨大な環状構造リシャット構造が伝説のアトランティスの首都と同じ大きさで、この地が伝説のアトランティス大陸ではないかと推定した動画がありました。皆さんもグーグルマップですぐ見つかりますのでご覧ください。

 伝説のアトランティスの都は環状都市で周囲に水をめぐらせ直径24.5㎞あったとされます。サハラの目と言われるリシャット構造も中心部は約24㎞、ここからアトランティスは大洪水で水没したのではなく逆に隆起し、気候変動で砂漠化したため滅亡したのではないかと考える人が出てきました。

 最初は私も非常に興味を持ちました。発見当初隕石の衝突でできたクレーターではないかと言われましたが、調べてみると隕石特有の鉱石がない事、直径に比べ深さが浅すぎることから否定されています。標高100m~200mの高台の中に100mほどの山と窪地が同心円状に広がり何とも不思議な形をしていますが、現在では山を形成するのがカンブリア紀の固い岩石であり、ドーム状の隆起運動で形成されたと考えられています。同心円状の不思議な形になったのは長年の風化によるものだそうです。

 もし伝説のアトランティスの首都だとすると、何らかの人工物が存在しなければいけませんが、発見されたという話は寡聞にして聞きません。ですから現状は自然が作った不思議な地形という認識です。それにしても本当に面白い形をしていますね。「砂漠のアトランティス」と呼ばれたオマーンのウバール都市遺跡から始まった関連話もこれでひとまず終わりです。

 ただ最後に夢のある話を一つ。現在では広大な砂漠になっているサハラ砂漠も古代の一時期(12000年前)には緑が広がる楽園だったそうです。人類もそこに住み野生動物を狩って生活していました。その様子が壁画に描かれています。9000年前頃には気候変動で砂漠化が進んだそうですが、伝説のアトランティスが滅亡したと言われるのもこの頃。広大なサハラ砂漠がかつて豊かな緑が広がる楽園だったという伝承が古代エジプトに伝わりアトランティスの超古代文明という話に変わっていったのかもしれません。

 皆さんはいかが思われますか?

2019年10月20日 (日)

プント国

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 世界史マニアック話が続きますが、これも紅海・インド洋交易関連話です。一般の方は全く興味ないと思うのでスルー推奨です。

 世界地図やグーグルマップを見ていただくと分かる通り、エジプトは国土のほとんどを砂漠が占めます。ただ世界有数のナイル河の流域だけは緑が広がり、地中海に注ぐ河口域所謂ナイルデルタ地帯は豊かな農耕地帯になっています。この地域に人類が住み始めたのは1万年以上前だとも言われますが、シリア発祥の小麦栽培を通じて大人口を形成、紀元前4200年ころにはエジプトの原始王朝が始まったと言われます。

 文明の条件は効率的な食糧生産、大人口、金属器だそうですが、エジプトは金属を精錬するための木材も不足がちで国内で賄えなかったため早くから海外交易が盛んでした。地中海沿岸のレバノン杉もそうですが、紅海を使って南方諸国とも交易を行いました。その中の一つにプント国というものがあります。古代文明に詳しい方なら聞いたことくらいはあるでしょう。その比定地には諸説ありアラビア半島南西部イエメン地域にあったという説もあれば紅海に面したスーダン沿岸部、さらに下ってエリトリア、ジブチ、ソマリア沿岸部など様々な説があります。

 ただ、エジプトがプント国から輸入した交易品は金、香料、黒檀(こくたん、家具や弦楽器に使用されるカキノキ科カキノキ属の熱帯性常緑高木数種の総称。エボニーとも呼ばれる)、象牙、野生動物、奴隷などがあり、イエメンやアラビア半島では産しないものもあったため、現在ではイエメン説は否定されています。紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント王から黄金がもたらされたという記録もあり、かなり早くから紅海貿易が行われていたことが分かります。

 古代スーダンにはメロエを中心とするクシュ王国が存在し一時はエジプトを占領するくらいの強勢でしたが、ここの特産も黄金でした。そこから類推するとスーダン沿岸からエリトリア沿岸にプント国はあったと私は思います。ただその支配民族はクシュが黒人種であったのに対し、イエメン同様セム語族だったのでしょう。黒人種の国であったとすると同族である黒人種の奴隷は輸出しにくいからです。もっとも周辺の黒人種の国と戦争して獲得した捕虜を奴隷として輸出した可能性もありますが。

 私がプント国の支配民族がセム語族だったのではないかと推定する理由の一つとして、後にイエメンにあったとされるシバの女王と伝説のイスラエル、ソロモン王の子と称するメネリク1世がエリトリアとエチオピアの地にアクスム王国を建てているからです。ちなみに後のエチオピア王国ソロモン朝はこのメネリク1世の子孫だと言われます。

 紅海の南の出口であるバブ・エル・マンデブ海峡は30㎞と狭くイエメンからジブチに古代の航海術でも容易に渡れます。紅海を船で行き来できた民族なら尚更です。もしかしたらプント王国はジブチ、エリトリアとイエメン地域を含んだ海峡国家だったかもしれませんね。そのプント国との交易もエジプト第20王朝(紀元前1185年頃~紀元前1070年頃)の時代、突然途絶えます。

 私はこの時期に、ナイル河中流域に栄えたクシュ王国からの侵略があったのではないかと考えています。エジプトとクシュは互いに支配したり支配されたりの関係で、紀元前11世紀まではエジプト王国がクシュを植民地支配していました。しかしエジプトで内乱が起こり衰退するとクシュ王国は独立を勝ち取りピイ王の時代逆にエジプトに攻め込んで征服、第25王朝(紀元前747年~紀元前656年)を開いたほどでした。クシュによるエジプト支配が終わったのは、紀元前671年世界帝国アッシリアがエジプトに攻め込んだからです。ただこの時はエジプトから撤退したのみで、クシュ王国は紀元後ローマ帝国のネロ帝時代も存続していたそうですから驚かされます。クシュ王国が完全に滅んだのは600年頃で支配民族の反乱が原因だそうです。

 プント国とクシュ王国の関係には非常に興味があります。クシュ王国はメロエ語、メロエ文字を持ちエジプト文明に影響を受けたピラミッド群を建設するほど栄えた文明でしたが、プントから学んだものもあったかもしれません。そしてプントの後を受け紅海貿易を担ったとすると、この地域の歴史はもっと掘り下げるべきかもしれませんね。

 

 

2019年10月19日 (土)

乳香の話

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 前記事で「砂漠のアトランティス」と呼ばれたアラビア半島、オマーン西部にあるオアシス都市遺跡ウバールを紹介しました。その際乳香が主要な交易品で、エジプトやシリア、メソポタミアに輸出し栄えていたと書きました。では乳香とはどんなものかと興味を覚えました。皆さんは興味ないと思いますのでスルーお願いします。

 お香ですから植物から採れるんだろうなと思い調べたらその通りでした。乳香はムクジロ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹液です。樹液の塊を焚いて香にするほか鎮痛・止血などの漢方薬としても重宝されました。古代には同じ重さの黄金と取引されたほど貴重なもので、アラビア半島南部オマーンやイエメン東部が原産。ウバールを含むオマーン西部の乳香貿易で栄えた都市遺跡群は「乳香の土地」としてユネスコ世界遺産に指定されました。

 乳香がいかに貴重なものだったかは、聖書でイエス・キリストが誕生した時東方の三博士が献上した贈り物の中に没薬、黄金と共に乳香も入っていたことで分かります。紀元前40世紀のエジプトの墳墓にも埋葬品として乳香が入っていたそうですから驚きます。古来イエメン地域は海のシルクロードの重要拠点の一つとしてハッピーアラビアと呼ばれたのも納得しますね。漢方薬にもなったくらいですから、遠く支那も交易圏に入っていたんでしょうね。日本にもシルクロードを通じて渡来したそうです。

 現在も良質な乳香はオマーンの特産品だそうですが、乱獲や火災、農地への転換、虫害などで生産量が激減し、今後50年で生産できなくなるだろうと言われています。本当に残念ですね。

 

 

2019年10月16日 (水)

砂漠のアトランティスは実在した?

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 ノーティドッグの傑作アクションゲームに『アンチャーテッド3 砂漠に眠るアトランティス』というものがあります。アラビア半島ルブアルハリ砂漠のどこかにあったとされる伝説のアトランティス文明を継承した古代都市の遺跡に隠された秘宝を巡って主人公ネイサン・ドレイク一行と中世から存在する秘密結社が争うという大変面白い内容でした。

 

 私は完全にフィクションだと思っていたんですが、ネットで調べてみると実際に「砂漠のアトランティス」と呼ばれる古代都市が実在したようです。ただしアトランティス文明とは無関係。場所はオマーン西部ドファール特別行政区内にあります。インド洋に面した港湾都市サララから内陸に200㎞程進んだところ。ウバールあるいはシスルと呼ばれるオアシス都市遺跡です。紀元前2世紀ごろが最盛期で紀元3世紀頃に忽然と姿を消します。

 オマーン西部は古代乳香を産する土地でした。乳香は重要な貿易品でインド洋交易で栄えます。海のシルクロードの拠点の一つで紅海を通じてエジプトやギリシャに輸出されました。内陸の通商路もアラビア商人によって開拓されメッカやメディナへと向かう道や、反対にペルシャ湾岸、メソポタミア地方に向かう道もできたそうです。ウバールはオアシス都市ですが気候変動で衰退しルブアルハリ砂漠に埋もれ幻の都市と言われました。

 ただその存在はコーランやアラビアンナイトにも記されます。人々は伝説の都市として憧れ「砂漠のアトランティス」という名称もこの時与えられたのでしょう。現代に至って科学が発達すると、人工衛星を使ってラクダの隊商が踏み固めた砂漠の交易路が見つかり、そこを辿っていくうちに通商路の交点に都市があっただろうと推定されます。そしてその地点を発掘した結果1990年代にウバール遺跡は発見されました。

 調べてみるとウバールは人口が増加し地下水を汲み上げすぎたために地盤沈下によって滅亡したことが分かりました。ウバール周辺が石灰岩質の土地だったことが原因です。コーランに記された伝説に「繁栄を極めたウバールの市民は、強欲で不道徳な生活を改めなかったため、アラーによって滅ぼされた」とあるのですが、あながち間違いではなかったのでしょう。

 そういえばアンチャーテッドでもウバール遺跡は岩山の地下にあって豊富な水がありました。ゲームを制作したノーティドッグのスタッフはこの事実を知っていたんでしょうね。まだまだ発掘は続いていて全貌が分かるのは当分先そうですが、機会があればいつか訪れてみたいですね。

 

 

2019年9月14日 (土)

古代支那の食事

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 私の悪い癖は、一つの事を調べるとその関連項目も調べなくては気が済まないというものです。前記事で淮河以南の華中と華南地方は稲作の一大産地を抱えているので古代から米を食べていたが、淮河以北では何を食べていたか謎だと書きました。一応小麦を粉にして麺にしていたのではないかと推定しましたが、その後調べると小麦を粉にして捏ねたり、蒸したりする製法は唐代以降だそうです。そのころ麺や餃子、肉まんなどができたのでしょう。

 ではそれまで中原(黄河中流域)の人たちが何を主食にしていたかというと、それは粟(あわ)だったそうです。そういえば治粟都尉という役職があるのをすっかり忘れていました。楚漢戦争時、韓信が一時就任していますよね。治粟都尉は軍の兵糧管理をする役職。という事は主食も粟だと分かります。

 古代支那の人々は、主食である粟を甑(こしき)という土器で蒸して食べたそうです。昔地元のうどん屋で粟飯を食べた記憶があるんですが、意外に美味しかった記憶があります。米があるのでしょっちゅう食べたいとは思いませんが、たまには良いと思えるほどの味でした。すくなくとも麦飯のぱさぱさした感じはありません。雑穀ではあるんですが、粟はなかなか美味しいですよ(笑)。

 古代支那の人々は、肉類も現代とほとんど変わらないものを食べていたそうです。六畜といって牛、豚、羊、馬、狗、鶏。狗だけはちょっと勘弁して欲しいですが現在でも大陸や半島の人は食べていますよね。調味料も酢や醤(ひしお)はありました。醤はペースト状の調味料で現代日本の味噌と醤油の中間くらいの調味料だったと思います。現在でも『ジャン』と呼ばれていますよね。

 調理法も、焙ったり煮たり蒸したりしました。羹(あつもの)は肉や野菜を入れて作った濃厚な熱いスープ、膾(なます)は薄く切った魚肉を酢に浸した冷たい料理の事。『羹に懲りて膾を吹く』の語源です。

 変わった調味料では、柑橘類の皮を干した陳皮(ちんぴ)のような物もあります。陳皮は今では漢方薬の原料になっています。日本で和菓子の一つ羊羹ももともとはその字の通り羊の羹のこと。羊羹は禅宗の僧が伝えましたが、仏教では肉食を禁じていたので精進料理として小豆をくず粉や小麦粉と混ぜて作ったのが和菓子の始まりだそうです。

 梅干しも古代支那が最初。もともとは梅を酢に漬けて梅酢を作っていたそうですが、その副産物が梅干しだそうです。こうしてみると現在の中華料理に通じる材料、調理法が古代からあったんですね。久しぶりに粟飯が食べたくなりました(笑)。

2019年9月13日 (金)

漢代の貨幣と官僚の俸給

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 古代支那春秋戦国時代の貨幣と言えば、斉・燕・越などで使われた刀銭、楚で使われた蟻鼻銭、秦で使われた圜銭(かんせん)があります。圜銭とは円形の貨幣の中心に丸あるいは四角の穴をあけた貨幣でのちの支那王朝が鋳造した貨幣の基本形となりました。刀銭も穴が開いており、どうして穴をあけるかというと紐で結んで一括りにするためです。日本でも一文銭を紐で千枚繋げて一貫文にしましたよね。

 当然、当時は政府に信用がありませんから金属そのものの価値が貨幣の価値になる秤量貨幣でした。これがのちに政府の金保有量で貨幣や紙幣の価値を保証する金本位制になり、現在では政府の信用で紙幣貨幣の価値を保証する信用貨幣になっていきます。

 前漢武帝の時代、度量衡の五銖(ごしゅ 1銖は0.59g)の重さを基本とする五銖銭が鋳造されました。武帝の時代は前後漢を通じて最も栄えた時代だったこともあり、この五銖銭が基本貨幣となり三国時代、南北朝時代、隋代まで使用されます。歴代王朝は独自の貨幣を鋳造しようとしましたが、政府の信用がないこともありほとんど失敗します。三国の一つ蜀では、五銖銭100枚の価値を持つ「直百五銖」を発行しますが、実際は五銖銭二~三枚分の重量しかなく、蜀の経済は大混乱します。蜀に経済に強い官僚がいなかったのでしょうが、この経済的疲弊が蜀滅亡を早めたとも言われます。

 ところで、漢代の官僚の俸給は穀物と銭で支払われました。この割合に関しては諸説あり半々という説もあれば時の政府の都合によって割合が変わったという話もあります。もっとも高い俸給は三公クラスが貰う万石でした。正式には石ではなく斛(こく)の字を使うのですが紛らわしいので石で統一します。これは月俸350石、年俸で言うと4200石にあたりました。次いで九卿クラスの中二千石(月俸180石)、執金吾、郡太守クラスの二千石(月俸120石)、中郎将、校尉の比二千石(月俸100石)というように十等級に分けられていたそうです。これを秩石制と呼びます。

 支給される穀物も、日本のように米だけではなくおそらく麦が主流で稗、粟などの五穀だったと思われます。東晋から始まる南北朝の南朝だけは米の一大産地を抱えているだけに米が支給されたはず。支那大陸は南船北馬と言って淮河を境に麦作地帯と米作地帯が分かれるからです。全然関係ない話ですが、東洋史学者岩村忍先生の『アフガニスタン紀行』によると、現在のパキスタンからアフガニスタン東南部にかけての米麦作の境界近くでは豪族や富裕層は米を食べ、一般民衆は麦を食べたそうです。やはり米の方が美味しいんでしょうかね?支那の高級官僚もわざわざ江南地方から米を取り寄せて食べていたのかもしれませんね。

 ところで当時の麦はどのように食べていたのでしょうか?麺にしていたのか、それとも焼餅みたいにして食べていたのか?非常に興味があります。米みたいに炊いてもあまり美味しくないし…。日本で麦飯というと戦時中の貧しい食べ物というイメージですからね(苦笑)。

2019年9月12日 (木)

後漢、三国時代の地方行政

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 マニアックな記事が続いて申し訳ない。過去記事で後漢時代の各州の人口を書いたんですが、その際地方行政の仕組みに関し説明不足だったかなと思い改めて記すことにします。一応過去記事の肝である人口表を載せておきます。

◇幽州(ゆうしゅう)…204万

◇并州(へいしゅう)…70万

◇冀州(きしゅう)…593万

◇青州(せいしゅう)…370万

◇兗州(えんしゅう)…405万

◇徐州(じょしゅう)…280万

◇豫州(よしゅう)…618万

◇司隷(しれい)…310万

◇涼州(りょうしゅう)…42万

◇楊州(ようしゅう)…434万

◇荊州(けいしゅう)…626万

◇益州(えきしゅう)…724万

◇交州(こうしゅう)…110万

 

 漢代の地方行政は、大きな方から州、郡、県が設置され、例えば冀州には魏郡、鉅鹿郡、常山郡など9個の郡がありました。郡の下に複数の県があるわけですから俗に支那四百余州という場合の州は県を指しているわけです。通常、治安・行政を担当するのは郡の長官である太守で州の長官刺史は郡太守の監察権しか有しませんでした。

 ところが、日本において同じような立場であった鎌倉時代の守護が南北朝、室町期にはその国の支配権を握るのと同様、後漢末期の刺史は監察権ばかりか州の行政権まで握るようになります。さらに後漢末期益州(現在の四川省)の刺史となった劉焉(りゅうえん)は朝廷に上奏し刺史に軍事警察権まで有する牧の設置を認めさせます。三国志に詳しい方ならご存知の通りこの劉焉、のちに劉備に益州を乗っ取られる劉璋の父です。劉焉はなかなか野心家だったらしく益州に赴任すると牧の地位を最大限に利用し独立勢力を築くのです。お人好しの息子とは大違いですね。

 後漢十三州と言われますが、そのうち首都洛陽と旧都長安を含む一帯は司隷とよばれ刺史ではなく司隷校尉が支配しました。通常牧で四品、刺史で五品の位階であるところ司隷校尉は三品の高官でした。三品と言えば中央政府では尚書令、中書令、侍中に匹敵する高い地位で、それだけ首都圏の行政が重視されたという事でしょう。三国志ファンなら河南尹という官職を聞いたことがあると思います。これは首都洛陽を含む河南郡の長官で、位階は三品でした。通常の郡太守は五品なので驚くべき地位の高さです。

 司隷校尉と河南尹、同じ三品ということで互いにやりにくかっただろうと想像します。ちなみに劉備が初めて官職を与えられたのは安熹県尉。小さな県の警察署長くらいの役職で位階は最下層の九品。こんな安月給の卑役で都の悪徳役人に賄賂を要求されたら誰でもブチ切れるわなと納得します(笑)。演義では賄賂を要求した督郵(とくゆう 監察官の職)を殴ったのは張飛になってますが、正史では劉備本人でした。

2019年9月10日 (火)

魏官制

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 非常にマニアックで申し訳ないんですが、せっかく作ったので記事にしました。まだまだ未完成なんですが、三国時代魏の官制です。

 一番左の官品というのは日本でいうところの位階にあたり、一品がだいたい日本の正一位~従一位に当たります。ちなみにこの九品は陳羣が基本を作りました。何故か三国志演義には出てきませんが、名門潁川陳氏出身で演義で活躍した徐州の陳珪、陳登親子とは遠い一族です。徐州時代の劉備に仕えたこともありました。陳羣が作った九品官人法はそれまでの郷挙里選に代わって科挙が一般化するまで歴代王朝の官吏登用の基本制度となります。

 三公というのは周王朝から始まる最高の官職で日本で言えば太政大臣、左大臣、右大臣クラスに当たります。このうち相国というのは非常設の最高官職で共和政ローマで言うなら独裁官、江戸幕府で言うなら大老です。実際の三公は太尉(軍政を司る)、司徒(行政を司る)、司空(監察を司る)が担当しました。

 九卿(きゅうけい)ももともとは実務を司る重要な役所でしたが次第に名誉職化し尚書省から発展した六部にとって代わられました。

 尚書省(詔勅を実行し行政を司る)、中書省(詔勅を起草)、門下省(詔勅を審議)は、三公が次第に名誉職化したのに対し実際に行政を司る部門となりました。唐代には尚書省が拡大しその中から実際の行政機関となった六部(戸部、吏部、礼部、兵部、刑部、工部)が独立します。中書省は門下省と合体し、その長官である中書令や侍中が事実上の宰相となって行きました。

 曹操が就任した事でもおなじみの録尚書事は常設ではなく官僚の第一人者が加官される役職で、事実上の宰相となりました。曹操の代名詞と言えば丞相ですが、これは司徒(大司徒)と被るので漢代に廃止されていましたが後漢末の建安13年に曹操が自ら復活させ就任しました。丞相は宰相と同義です。

 武官も本来なら大将軍が最高位、次いで驃騎(ひょうき)将軍、車騎将軍、衛将軍と続きますが、三国時代から西晋にかけて名誉称号と化していきます。それに代わり大都督中外諸軍事が軍の最高司令官となりました。地方では例えば都督揚州諸軍事、都督雍涼諸軍事という軍司令官が担当し、その名誉称号として将軍が与えられていきます。この都督制度は唐代には節度使に発展します。

 州の行政を担当する刺史と都督がいる場合、都督が軍司令官として刺史を指揮命令しました。後漢末に行政と軍事を司る牧という官職が出現しましたが、戦争が常態化した三国時代にはあまりに地方官に権限を与えすぎると反乱を起こす危険性があるとして都督と刺史とで権力の分散化を図ったのでしょう。

 よほど三国志好きか支那王朝の官職に興味のある方以外はチンプンカンプンだと思いますが、せっかく作ったのでご紹介しました(笑)。

 

 

2019年9月 6日 (金)

兀突骨(ごつとつこつ)と藤甲鎧

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 最近、YOUTUBEで亶夏王朝さんの三国志珍人物伝にハマっています。取り上げる人物がマニアックすぎるんですよ。劉備の養子劉封に関しても劉備の実子説、劉封の実家寇氏の光武帝後裔説、劉禅を奉じる荊州派と劉封を支持する益州派(そのリーダーは法正)で両派の後継者を巡る暗闘の犠牲者が劉封だったという考察など、マニア心をくすぐる素晴らしい動画です。三国志に興味のある方は是非ご覧ください(笑)。

 それはそうと、三国志珍人物伝の第9回で兀突骨(ごつとつこつ)を取り上げていました。この人選はちょっと驚きました。三国志の大ファンの方ならご存知でしょうが、ちょっとかじったくらいの人だとチンプンカンプンだと思うんですよ。知らない人のために一応紹介すると、時代は蜀の劉備が白帝城で崩御した後。後事を託された諸葛亮は、先君劉備の期待に応えるため宿敵魏を討つために準備に入ります。そこへ起こった南蛮(現在の雲南省から貴州省にかけて)王孟獲の反乱。

 諸葛亮は後顧の憂いを断つため、そして南蛮地域を北伐の補給基地、南蛮を通じて東南アジアやインドへの交易ルートを確立するために自ら遠征しました。有名な七縱七禽のエピソードはこの時の事です。異民族南蛮人(現在のタイ族の先祖と思われる)を力で圧殺するのではなく、徳をもって帰服させる道を諸葛亮は採りました。

 南蛮王孟獲はしぶとく抵抗を続け、ついには現在のラオスかベトナム北部の山岳地帯にあったと思われる烏戈国(うかこく)の王兀突骨(ごつとつこつ)に援軍を要請します。兀突骨は快くこれに応じ3万の兵を率いて参上しました。兀突骨自身も2メートルを超える巨漢でしたが、恐ろしいのは烏戈国の兵士がまとう藤甲鎧。藤の蔓を油に何回もつけて作った鎧で、軽くて水に浮くにもかかわらず刀も矢も通さないほど頑丈。さしもの蜀軍も攻めあぐみます。

 諸葛亮は策をもって藤甲軍を狭い谷に誘い出し、火薬で焼殺することでかろうじて勝利しました。これで孟獲はついに諦め諸葛亮に降伏したのですが、援軍に来ただけなのに焼き殺された兀突骨と藤甲軍の兵士はたまったものではありません。孟獲の心を攻めるのなら、兀突骨も同じようにしてくれよとはちょっと思いました(笑)。まあただの物語なんでどうでも良いんですけどね。

 前置きが非常に長くなりましたが、兀突骨や烏戈国は架空の存在でも、藤甲鎧は実在したようなんですよ。貴州省の少数民族の中にその技術が残っていると知って驚きました。三国志演義は正史三国志と違って説三分(7割は嘘)と言われますが、藤甲鎧はあったんですね。そういえば日本にもここまでの鎧はなかったとしても似たような植物の蔓でできた鎧があったような気がします。

 もしかしたら、雲南を含む華南一帯に広く分布した鎧なのかもしれません。金属器普及前、石器で武器を作っていた時代なら頑丈な蔓の鎧は有効だったはずだからです。この地域は稲作発祥の地ですから、日本へも稲作の伝播と共に渡ったのかもしれませんね。皆さんはいかが思われますか?

2019年6月15日 (土)

世界史上難攻不落の城 城塞都市カルカソンヌ

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 フランス南西部、ピレネー山脈の裾野、北端あたりにあります。大西洋と地中海を結ぶ街道上に位置し交通の要衝です。その歴史は古く紀元前6世紀以降のガリア人に起源があるとも言われています。その後ローマの支配下に入り城塞都市として整備されました。要衝であるため争奪の対象となり508年にはフランク王国のクローヴィス1世が西ゴート王国に属したカルカソンヌを攻撃しています。

 725年、ピレネー山脈を越えてイスラム勢力が進出、カルカソンヌを奪取しました。729年カロリング朝フランク王国のピピン3世がようやく取り戻します。キリスト教の異端カタリ派の拠点となりアルビジョワ十字軍に攻囲された歴史もありました。その後もフランス王国、スペイン王国との間で攻防が繰り返されカペー朝のルイ9世(在位1226年~1270年)の時代に本格的築城されようやくフランス領として確定します。

 百年戦争にも耐え、1659年フランス王国とスペイン王国との間にピレネー条約が結ばれ国境が定まりました。これによりカルカソンヌは歴史的役割を終えます。その後は兵器と食料の貯蔵庫として使われ戦争とは無縁となりました。現在、モン・サン=ミッシェルに次ぐ観光名所となり多くの観光客を楽しませているそうです。私も一度訪れてみたいですね。

 

 

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