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カテゴリー「 日本史」の記事

2025年11月11日 (火)

データサイエンスで読み解く邪馬台国の位置

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 例によってYOUTUBEの歴史系動画が元ネタです。長年邪馬台国の位置は論争が繰り返されていますが、最も有力な畿内説、九州説ともに決定的証拠に欠けはっきりと分かっていません。

 そこで科学的手法で邪馬台国の場所を特定できないかというのがデータサイエンスだそうです。

データサイエンスとは、統計学、数学、プログラミング、人工知能(AI)などの知識を駆使して、大量のデータから有用な情報や洞察を抽出し、問題解決や予測に役立てる学問・分野です。ビジネスの意思決定、マーケティング、スポーツ、医療、行政など、様々な分野で活用されており、データに基づいた最適なアプローチや新しい価値の創造に貢献します。

 これにはベイズ統計学が基になっています。これも初心者には分かりにくいのでAI解説を見ると

ベイズ統計とは、「ベイズの定理」 を用いて、新しいデータが入手されるたびに確率を更新していく統計学です。最初に設定した事前確率に、観測したデータから得られる情報を加味して、より精度の高い事後確率を計算していきます。従来の統計学と異なり、不確かな情報や主観的な確率からでも推論が可能で、データが変化するような事象にも柔軟に対応できるのが特徴です。

 何やら、非常に面倒くさそうですが要するに現在与えられた情報を総合し確率論的に論じるものだと理解しました。もし間違っていたらコメントでお知らせください。

 邪馬台国が存在する条件として

①鏡(銅鏡。最新の研究では鉄鏡という説も)の存在

②鉄の鏃(それに代表される鉄製武器)

③勾玉

④絹

の出土品を分析するというもの。

 

①の鏡は、奈良県で発見された数よりも福岡県で発見された鏡の方が100倍多いそうです。

②鉄の鏃も福岡県で発見されたものが圧倒的に多いと言われます。一方奈良ではほとんど見つかっていません。

③の勾玉は当時の装飾品でこれも福岡県が多いそうです。

④の絹はよく分かりませんが、実は魏志倭人伝に卑弥呼が魏の皇帝に絹を献上したという記述がります。実は福岡県の古墳から絹が発見されており、調べてみると福岡県の各地で弥生時代末期養蚕が行われていたそうです(おそらく当時では福岡県だけ)。

 

 2~3世紀の福岡県、というより北九州は先進地帯だったと言えます。これらの情報を総合し分析すると、邪馬台国が福岡県に存在する確率が99.9%になるそうです。これも九州論者が恣意的に情報を取捨選択して都合の良いように解釈した可能性もあるので、地域を拡大して北九州と畿内で分析しても99.7%の確率で北九州に邪馬台国が存在した可能性が高いと出ました。

 ただし、あくまで現在ある情報を分析した結果で、ブラックスワン現象といわれるような予想外の発見があった場合結論が覆る可能性もあるそうです。しかも畿内論者は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓に相当する古墳が北九州にはないと言っています。

 ところが近年福岡県朝倉市で発見された長田(おさだ)大塚古墳が、魏志倭人伝に書かれた直系145mの古墳と同じ大きさであることから、これが卑弥呼の墓ではないかとも言われています。今後の発掘調査が待たれますね。

 ちなみに、私は古代日本が宇佐八幡宮を異常に崇拝していた(道鏡事件を参照)ことから、卑弥呼の墓は宇佐神宮の下に眠っているのではないかと思っています。ただし邪馬台国は北九州の数多くの国を従えた国家連合だと思われますから、宇佐が都で朝倉市の長田大塚古墳が卑弥呼の墓である可能性も捨てきれません。

 さらに言うと昔は邪馬台国東遷説を取っていましたが、最近は邪馬台国ではなく今の宮崎県から鹿児島県にかけて存在したと思われる投馬国が東遷したのではないかと考えています。というのも古事記に書かれている神武東征の記述が卑弥呼の時代と合わず、紀元前後の大阪平野、大阪湾の状況と合致するからです。作者と題名は忘れましたが、昔読んだ本に当時の大阪平野、大阪湾の状況が書かれており妙に納得したのです。詳しくは河内湖で検索してください。

 邪馬台国は浪漫のある話で大好きですが、あれこれ推理して場所を想像するのは楽しいですね。

2025年10月31日 (金)

膳所(ぜぜ)藩本多家の幕末維新

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 膳所藩は滋賀県大津市膳所町にあった藩です。領地は近江国各地に分散し合計で7万石ありました。実はこの記事を書いたのもYOUTUBE歴史系動画がきっかけで、膳所藩本多家が本多一族のうち一番石高が高かったことを知ったからです。本多宗家は意見が分かれるところですが、一応平八郎忠勝家とすると、伊勢桑名10万石から播磨姫路15万石まであがったものの、越後村上転封で10万石に減らされ、1709年無嗣断絶になりかけたところ、忠勝の功績を考えお情けで三河岡崎5万石を与えられ幕末に至りました。

 膳所藩本多家は忠勝の子康俊から始まる家系ですが、実は血縁関係はありません。康俊は酒井忠次の次男で忠勝家に養子に入りました。ですから酒井忠次系というのが実情です。最初三河西尾2万石。大坂夏の陣の戦功で膳所藩3万石に加増転封。譜代大名の例にもれず各地に転封させられ孫の康長の代に膳所に落ち着きます。以後膳所藩7万石を継承していきました。

 その膳所藩本多家ですが、幕末期には各藩と同じように尊王攘夷派と佐幕派で争っていました。京都に近いだけにその争いは激しく、徳川14代将軍家茂の膳所宿泊予定が中止になったほどです。結局両派の争いは佐幕派が勝ち、尊王攘夷派の急先鋒である川瀬太宰は新選組に捕らえられ処刑されました。そのほか、阿閉権之丞ら尊皇派11名も処刑されます。

 しかし、川瀬太宰は膳所藩筆頭家老戸田資慶の叔父であったため藩内では尊皇派の恨みが残りました。時代は薩長同盟を経て尊皇派優勢になって行きます。その流れを受け、膳所藩でも尊皇派が主導権を取り戻しました。ネットでは詳しく分からなかったのですが、尊皇派が弾圧された報復で佐幕派も多くが処刑されたものと思います。何しろ筆頭家老が尊皇派ですからね。鳥羽伏見の戦いの後、他の佐幕諸藩や御三家と同じく徳川幕府を見限り明治新政府側に付くと、佐幕派の急先鋒桑名藩攻めに加わるなど徳川家の恩を忘れるような行動をしたりします。

 まあ、徳川四天王の彦根藩井伊家も幕府を裏切ったのですから小藩の膳所藩を攻めるのは酷でしょう。同じ四天王の越後高田藩榊原家も裏切りましたし生き残るためには当然でしょう。近畿だと春日局の子孫淀藩稲葉家も裏切ったんですからね。四天王では一番イメージが悪い出羽庄内藩酒井家だけが佐幕派として頑張りました。当然宗家の岡崎藩本多家も新政府側です。

 藩の立地もあると思うんですよ。京に近いと新政府軍に攻められる可能性が高いですからね。雪崩を打って新政府側に付いたのも納得です。よく会津藩贔屓の人が徳川家を裏切った各藩を口汚く罵っていますが、だったら関ヶ原で豊臣恩顧の大名が皆家康に付いたことも同じく非難しなければおかしい。ところがそんな声は聞いたことがない。自ロ他フ(自分がすればロマンス、他人がすれば不倫)のダブルスタンダードは世間から嫌われますよ。精神性が半島人と一緒。その前に150年以上前の出来事を未だにグダグダ言い募るのも異常ですが。

 膳所藩に関してはウィキを参考にしただけでこれ以上の情報は出てきませんが、膳所藩は明治3年一番最初に廃城願を出したそうです。膳所城は琵琶湖に突き出た城で維持費が高く近代戦にも不向きだというのが理由ですが、石垣に至るまで売り払われ1200両も稼いだそうですから徹底しています。近江商人の血か?(笑)

 しかし、膳所城廃城でショックを受けた藩士もいたらしく発狂して物乞いになった人も出たそうですから面白いですね。裏切りは歴史の常、これにいちいち目くじらを立てることなく歴史とはそういうものだという冷静な目が必要だという事でしょうね。

 

 

2025年9月13日 (土)

和船の復原力

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 復原力、あるいは復原性というのは、波や風の力、あるいは旋回時に船が傾いた時元の姿勢に戻れる能力のことを言います。私は復元力と記憶していたんですが調べてみると復原力が正しい用語だそうです。

 常識的に考えて、船の上部が重すぎると復原力が低くなるのは理解できると思います。ですから軍艦にしても商船にしても船の上部構造はなるだけ少ない方が良く、韓国の軍艦のように排水量に比べごてごてとこれでもかと装備を搭載すると復原力が低くなり危なくなります。

 セウォル号の痛ましい事故は記憶に新しいところです。日本でも大東亜戦争前の友鶴事件など復原力の問題で事故が発生したことがありました。近代の船舶工学だけでなく古代から中世にかけても、復原力は知らなくても感覚的に分かっていたようで、重心をとにかく低く保つために船底にバラストを積んだりしていました。

 中世の帆船で特に優れていたのは欧州で、船体はキール(竜骨)に直角に無数のU字型の骨組みを組み合わせ、そこに外板を張っていたのですが、底になるほど広く、船体上部では狭くなっていました。大西洋の荒波を越えるためには経験則的にそうなっていったのでしょうね。

 一方、丸木船から発展していた日本の和船やアジア各地の船は底が一番狭く上部に行くにつれ広がっていく構造でした。一応和船も船底にバラストを積んでいたそうですが、構造的にどうしてもトップヘビーになりやすいため横波に弱いという致命的弱点を持っていたように思えます。もちろんあくまで素人考えで船舶工学に詳しい人がいたら否定されるかもしれません。専門知識のある方の反論をお待ちしております。

 ということで、和船が嵐に会ったら遭難しやすいというのは復原力という構造的問題もあったのかもしれません。似たような構造の朝鮮船、シナのジャンクも見た限り船底が一番狭いタイプですから、皆復原力的に欧州の帆船には劣っていたのでしょうね。元寇で元軍の軍船が嵐で転覆したのも頷けます。

 日本に同情すべき点は、近海での活動がメインで嵐になったら近くの港に逃げ込めば済みますからある程度トップヘビーでも問題なかったのでしょう。ただし、この船で遣隋使、遣唐使、あるいは勘合貿易に行っていた人は命がけだったんでしょうね。実際遣唐使船が遭難した話は聞きますし。

 私は一つの事に興味を持つととことん調べないと気が済まないタイプなので船関連話が続きましたが、同時に飽きっぽくもあります。そろそろ飽きてきたのでこれでしばらく打ち止めです。

 

 

2025年9月 7日 (日)

和船の構造

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 西洋帆船を造る場合最初にキール(竜骨)を船の中心軸になるように設置します。キールは船の外郭に合わせて下向き弓なりになりますが、そのキールに対し直角にU字型の骨組みを重ねていき、最後に骨組みの外郭に沿って板を張り付け水漏れ防止に鯨油や松脂、硫黄などから作られたコーティング材を塗って完成です。

 一方、シナの代表的な船と言えばジャンク船ですが、こちらはキールがない代わりに多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られています。どちらも頑丈で一長一短があり、西洋船は遠洋航海に優れジャンクは喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代の西洋船の代表であるキャラックやガレオン船より速かったそうです。

 ジャンクが遠洋航海に不向きかというとそうでもなく、明時代鄭和の艦隊はインド洋まで遠征しています。船の構造もそれぞれの民族性が出ていて面白いですね。

 では日本の和船はどういう構造だったのだろうとふと興味を持ちました。和船の起源は丸木船だそうです。和船と言えば、古くは遣隋使船、遣唐使船、中世期には遣明船、戦国期から江戸期にかけての安宅船、関船などがあります。丸木船がルーツですから縄文時代、弥生時代にも船はあったはずですが、丸木船だと大型船にはできません。

 そこでどうしたかというと、船体構造の核となる板材を底に敷き、それに沿うように外板を何枚も重ねていき大型化しました。ですから構造上そこまで頑丈ではなく、実際遣唐使船なども頻繁に遭難しています。もともとはシナの船も似たような構造だったらしいんですが、試行錯誤の末水密隔壁を多数設けることで頑丈になって行ったのでしょう。和船の先端が鋭角ではなく鈍角になっているのもそれが理由です。

 和船は遠洋航海を前提にしておらず日本近海での活動がメインでしたから、船体構造に革命は起きにくかったのでしょう。嵐に遭遇したら近くの港に逃げ込めば良いだけですからね。和船は西洋帆船やジャンクに比べ衝突や座礁などの影響で水密が低下し漏水に弱いという弱点がありました。

 昔元寇で元軍が台風で壊滅的打撃を受けたのは、船体構造が脆弱だったのではないかと考察したことがあったんですが、改めて朝鮮船について調べてみました。ネットでは詳しいことが分からなかったんですが、どうもジャンクのような構造ではなく和船に近い構造だったみたいです。丸木船から大型化した船は似たような経緯を辿るのでしょう。

 では南宋の軍船はどうだったのでしょうか?ジャンクが普及し始めたのは宋代以降だそうで、それまではアジア共通の丸木船から発展していった似たような構造だったみたいです。ただ元代はジャンクは当然あったはずですが、南宋軍は長江などの河川での活動をメインとしていたので、凌波性に優れた船ではなかったのではないかと思いました。それが船内で疫病が蔓延した理由なのでしょう。

 日本でもジャンクが無かったかというとそうでもなく、唐船という名で建造されたようです。朱印船貿易時代に唐船は建造されたし、江戸期の北前船などある程度の遠洋航海が必要な船にも唐船が使われたと言われます。

 

 

2025年8月13日 (水)

徳川幕府草創期の政争Ⅲ 宇都宮釣り天井事件

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 最大の政敵大久保忠隣を倒した本多正純。大御所家康の意向を嵩に幕政を壟断します。正純の父正信は苦労人でした。若いころ松平家を出奔し三河一向一揆に参加、家康(当時は松平元康)と敵対します。各地で一向一揆の将として迎えられ織田信長の軍勢とも戦ったと言われます。

 その後帰参を許されると家康の側近として数々の建策をしました。三河譜代の家臣たちからしたら一度は主君に敵対した身、しかしながら今は重用され自分たちの上に立っているとなると憎まれるのは当然でした。正信もそのことは十分承知しており慎ましい生活を心がけ家康が高禄を与えようとしても固辞し生涯相模玉縄二万石に留まります。

 ところが息子の正純は違いました。家康に重用されたのを鼻にかける才気走った性格で他の家臣から嫌われました。とは言え大御所家康の寵臣ですから表だって文句を言う者はいません。二代将軍秀忠も、正純の存在を苦々しく思いながらも家康存命中は何も言いませんでした。

 そんな家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと安心したのか1616年に亡くなります。享年73歳。いよいよ二代将軍秀忠の親政が始まりますが、秀忠側近グループの土井利勝、井上正就らが台頭してきました。幕府草創期の武断派と文治派の争いは文治派の勝利に終わりましたが、今度は文治派の内部で深刻な対立が生まれたのです。

 土井利勝らは何とかして本多正純の失点を探そうと躍起になっていました。1622年、家康の七回忌で日光東照宮を参拝した秀忠は、その帰途宇都宮城に寄ろうとします。正純は将軍接待用に御成御殿を造営し来訪に備えていました。そこへ秀忠の姉で奥平忠昌の祖母加納御前から「宇都宮城の普請に不備有り。正純は謀反を企んでいるのではないか?」と密告があります。御殿に釣り天井を仕掛け秀忠を暗殺しようとしているとの訴えでした。

 実は奥平忠昌は正純の前の宇都宮藩主でした。加納御前は住み慣れた宇都宮を追い出されたことを怨んでいたと言われます。慌てた秀忠は御台所(お江)が病気になったと称し予定を変更し宇都宮を素通りし壬生に一泊、そのまま江戸に帰還しました。この経緯、大久保忠隣の時とそっくりですよね。結局忠隣追い落としに使った策をそのまま自分も食らったわけです。

 もともと正純を疎んでいた秀忠は、土井利勝らの讒言を容れ改易を決めました。この時正純を弁護する者は誰もいなかったそうです。1622年9月、出羽山形藩主最上家改易の見分使として山形城に乗り込みます。無事山形城を接収した正純でしたが、彼を追うように到着した幕府の糾問使に十一か条の罪状嫌疑を突き付けられます。

 その中には宇都宮釣り天井のような明らかな濡れ衣もありましたが、抗弁しても無駄だと悟り従容として処分を受け入れました。これまでの正純の功績を考え出羽国由利で五万五千石の捨扶持を与えると内命がありましたが、正純はこれを固辞、さらにこれが秀忠の逆鱗に触れました。

 正純は出羽国由利に流罪となり、のちに久保田藩佐竹家預かりとなり横手で幽閉されます。正純はこの地で1637年没しました。享年72歳。正純の子正勝も父に連座して出羽国に流罪となります。その後本多正純の子孫が大名に復帰することはありませんでした。ただ正純の弟で加賀前田家に付家老として入った政重(正信次男)の子孫は代々加賀藩筆頭家老として栄えたそうです。

 それにしても、戦国の世を生き抜くのも難しいですが平和な世になっても権力闘争はすさまじいものがありますね。それを考えると本多正信の処世術は素晴らしかったのでしょう。父の思いを息子が受け継がなかったところに悲劇がありました。

2025年8月12日 (火)

徳川幕府草創期の政争Ⅱ 大久保忠隣(ただちか)の失脚

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 大久保忠隣(1553年~1628年)は、徳川二代将軍秀忠の側近として重きをなし相模小田原6万5千石の大名となります。三河一向一揆鎮圧を皮切りに姉川合戦、三方ヶ原合戦、小牧・長久手の役、小田原合戦など数々の戦いに従軍し武功をあげました。関ヶ原合戦の時は、秀忠の中山道軍に従軍したことから本戦に間に合わず秀忠は父家康から厳しく叱責されます。忠隣は秀忠を庇い家康に取りなして事なきを得ました。

 1610年には老中に就任。忠隣は徳川家に武功を持って仕え、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、酒井忠次ら徳川四天王が第一線を退いた後は、武断派の筆頭として幕府内に影響を与えました。しかし、戦乱の時代が終わり平和がくると武断派の存在は軽くなります。それに代わって台頭してきたのが文治派で、その筆頭は家康の信頼が厚い本多正信、正純親子でした。

 父正信は、処世術を心得ており周囲の嫉妬を買わないため決して二万石以上の知行を受け取るなと息子正純に忠告していたそうです。しかし、若いころから家康に重用された正純は奢り高ぶり父の遺言を無視します。大御所家康の意向を背景に、1608年には下野小山藩3万3千石を拝領し、早くも父の意向に逆らいました。

 武断派の忠隣と、文治派の筆頭正純が対立するのは自然の流れです。両者は暗闘を繰り返し、それが最初に現れたのは1609年から1612年にかけての岡本大八事件でした。岡本大八は本多正純の重臣です。ポルトガルとの貿易を巡るこの事件で岡本大八は朱印状偽造の罪で火刑、これに連座した肥前島原藩主有馬晴信も切腹を命ぜられます。

 その次が、武断派の資金源である大久保長安の財力を断つための大久保長安事件でした。長安は不正蓄財の疑惑のほかに、家康の六男松平忠輝改易にも関わっていると言われます。忠輝の正室は仙台62万石伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫でした。政宗は娘婿忠輝を将軍に据え幕府を牛耳ろうと画策し、大久保長安を通じて加賀の前田家、薩摩の島津家など有力大名の連判状を作っていたとされます。これは各外様大名にリスクが大きすぎるため虚偽情報っぽく正純ら文治派のでっち上げの可能性が高いと思います。本当にそんな陰謀があったら、忠輝改易と同時に伊達家も前田家も島津家も改易になっているはずだからです。

 本多正純最後の仕上げは武断派の筆頭大久保忠隣の失脚でした。きっかけは忠隣の嫡男忠常が1611年病死したことです。期待していた嫡男の死に落胆した忠隣は幕府の政務を欠席しがちになります。これが家康の不興を買い文治派が力を持っていた幕府内で孤立していきました。

 大久保長安事件と同じ年の1613年12月、家康が江戸から駿府に帰国する際小田原城に寄ろうとしていた時の事。旧穴山衆の浪人馬場八左衛門より「忠隣に謀反あり」と訴えがなされました。この報を受け家康は急遽江戸に戻ります。秀忠は「忠義の士である忠隣が謀反するはずはない」と弁護しますが、猜疑心にかられた家康は聴く耳持ちませんでした。

 とは言え、腐っても武断派。本当に謀反を起こし小田原城に籠城されたら厄介とばかり、忠隣の処分は秘密裏に決まりました。翌1614年1月、忠隣は幕府の命でキリシタン追放令を実行するため上洛します。その翌日幕府の京都所司代板倉勝重が忠隣のもとを訪ねました。

 勝重は上意であると忠隣に改易を申し付けます。これに対し忠隣は一言も弁明せず処分を受け入れたそうです。忠隣は近江国に配流され井伊直孝(直政の子、彦根藩主)預かりとなりました。忠隣はこの地で隠棲し1628年亡くなります。享年73歳。その後の大久保家ですが、忠隣の孫(嫡男忠常の子)忠職の代に赦免され1626年美濃加納藩五万石、次いで播磨明石藩七万石、肥前唐津藩八万三千石と累進します。忠職の養子忠朝(これも忠隣の孫)の代にはついに小田原十一万三千石に返り咲きました。

 最大の政敵大久保忠隣を追い落とした本多正純。わが世の春を迎えた正純は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。順調に出世を重ね1619年には下野宇都宮藩十五万石の大封を得るに至ります。しかし満つれば欠けるが世の習い。彼にも危機が迫っていたのです。次回最終回、宇都宮釣り天井事件をご紹介しましょう。

 

 

2025年8月11日 (月)

徳川幕府草創期の政争Ⅰ 大久保長安事件

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 大久保長安と言えば、私が歴代大河ドラマで五本の指に入ると評価する大傑作『徳川家康』の津川雅彦の印象が強烈です。大久保長安(1545年~1613年)は徳川家康に仕えた金山奉行でした。

 大久保長安は猿楽師大蔵信安の次男として生まれます。父が甲斐武田家に猿楽師として仕えたことから甲斐に赴きました。長安はどこか見どころがあったのでしょう。武士として取り立てられ重臣土屋昌継の与力となりました。この時姓を土屋と改めます。

 武田家滅亡後は徳川家康に仕えますが、一説では家康逗留用の居館を長安が建設し、その作事の能力を家康に見いだされて仕官することになったとも言われます。今度は重臣大久保忠隣(ただちか)の与力を命ぜられ、この時大久保姓に改めました。

 長安は優秀な文官で家康が関東移封の際は検地や土地台帳の作成を担当します。長安が金銀山と関わりを持つようになったのは関ケ原後で、最初は石見銀山見分役となります。その後佐渡金山を支配する佐渡奉行、伊豆の金山を支配する伊豆奉行などを歴任しました。同時に家康の六男松平忠輝(越後高田城主50万石)の付家老に就任するなど家康の信頼は厚かったようです。

 当時は金銀山を支配する奉行の取り分が大きかったようで、長安は莫大な蓄財をします。各地の金銀山を管理していたためその財は計り知れないと言われました。ただ晩年は金銀山の採掘量が低下したことから家康の寵愛を失い代官職を次々と罷免されます。最後は中風を患い1613年死去しました。享年63歳。

 長安の死後、幕府は大久保家に不正蓄財を問います。しかし長安の子らがその調査を拒否したため幕府の怒りを買い、長安の子供や郎党など七人が切腹を命ぜられ大久保家は断絶しました。その後の調査で大久保家の屋敷から莫大な金銀が見つかったそうです。これが大久保長安事件ですが、実は幕府内の文治派と武断派の対立が背景にあったのでは?と言われます。

 というのも長安を庇護していた大久保忠隣は二代将軍秀忠の側近で武断派の筆頭でした。大久保一族は累代松平家に仕え忠隣の父忠世も第一次上田合戦で総大将を務めたほどでした。一方、家康の参謀として仕えた本多正信、正純親子は家康の信頼を背景に幕府内で重きをなし、文治派を率いていました。両派の暗闘の結果が大久保長安事件に繋がったと思われます。

 その証拠に長安事件の翌年1614年には大久保忠隣が失脚しています。次回は大久保忠隣失脚事件を描きます。

 

 

2025年7月15日 (火)

会津四郡の石高

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 俗に会津40万石と言われます。現在の福島県に当たる陸奥国南部は大きく三つの地方に分かれます。阿武隈山地から海岸までの浜通り、奥羽山地と阿武隈山地に挟まれた中通り、奥羽山地の西、会津盆地を中心とした会津地方です。

 会津地方は、律令時代会津郡となりました。ところがあまりにも広いことから、平安時代会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡に四分割されます。会津地方は、鎌倉時代以来三浦一族の蘆名氏が勢力を張りました。室町時代には京都扶持衆となり自ら会津守護と名乗ります。

 そのまま順調に戦国大名に成長し、最後は伊達政宗と争い摺上原の戦いで滅亡しました。摺上原の戦いの時、伊達軍は2万3千人、蘆名軍は1万6千人の兵力を集めたと言われます。もちろん数字を盛っている可能性はありますが、この数字を事実だとすると伊達氏は当時60万石以上の領地を持っていましたから妥当な兵力だと思います。

 一方、蘆名軍ですが一般に1万石で300人動員兵力がありますから53万石前後あった計算になります。当時蘆名氏は会津地方以外にに越後国の一部、中通りの一部も支配していましたが、全部合わせてもそんな石高があったかは疑問です。ただ、自国内での防衛戦の場合は短期間なら1万石あたり700人くらいは動員できたそうですから、これなら23万石で賄えそうな兵力です。

 実際、江戸時代会津地方を領した会津藩松平家の表高が23万石ですから妥当な数字かもしれません。江戸時代の1600年代中頃の検地の数字ですが郡別の石高を記すと

会津郡…7万3千石

耶麻郡…9万7千石

大沼郡…4万5千石

河沼郡…5万5千石

で、総計27万石になります。戦国時代はそれより若干少ないかもしれませんが、山間部や盆地は大規模な干拓や土地開発はできませんからそれほど数字は変わらないのでしょう。となると摺上原の戦いで蘆名軍が1万6千人も動員したのかはなり無理したのでしょうね。

 ということで、戦国時代から江戸時代中期くらいまでの会津地方の石高は、表高23万石、内高27万石くらいという結論になりました。

 

 

追伸:

 その後調べたんですが、蘆名家は中通り(仙道地方とも言う)の安積(あさか)郡にも勢力を伸ばしており、ここは8万石あまりなので、その大部分を支配していたとすると総計30万石くらいになります。30万石だと無理すれば動員兵力1万人、国内防衛で短期間なら2万人弱までは集められるので、1万6千人という軍勢もそれほど無理ではないかと。あと、蘆名家最後の当主義広は常陸の佐竹家からの養子(佐竹義重の次男)で、当時の佐竹家は仙道地方、浜通り地方に大きな影響力を持っていました。

 この時も佐竹傘下の石川、二階堂に佐竹家の援軍も加わっており、それを合わせての1万6千人なら妥当な数かもしれません。

2025年5月23日 (金)

北越戦争の帰趨を決めた官軍の新潟上陸作戦

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 歴史群像2025年6月号に載っていた樋口晴彦氏の『北越戦争の帰趨を決した官軍の新潟上陸作戦』という記事は大変面白く参考になりました。

 一般に戊辰戦争の中の北陸戦争といえば長岡藩執政河井継之助の活躍ばかりが目立ちますが、河井は武装中立という非現実的な政策を掲げ失敗しただけという厳しい見方もあります。長岡藩を戦火から救いたければ官軍側に付くべきだし、徳川家に忠節を貫こうというのなら早い段階で奥羽越列藩同盟に加わるべきでした。もちろん私は司馬遼太郎の『峠』の大ファンですから河井継之助は大好きですが、歴史を公平に見た場合長岡藩は損な役回りをしたなという印象が強いです。

 本来なら徳川家に殉じるべき御三家は皆官軍側、徳川四天王のうち井伊家、榊原家、本多家も官軍に味方し、頑張っているのは庄内藩酒井家だけ。その酒井家も別流である姫路藩酒井家15万石と小浜藩酒井家10万石は官軍に転じるという状況でした。長岡藩牧野家は譜代大名ではあるものの、元々は三河守護一色氏、次いで今川氏の被官となった家ですから、そこまで忠節を貫かなくても良かったのでは?と思うんですよ。だいたい御三家まで徳川宗家を裏切っているんだから言い訳は立つはず。

 前置きが長くなりましたが、本題に戻ると小千谷会談の失敗で長岡藩は官軍と敵対し奥羽越列藩同盟に参加せざるを得なくなります。そこから泥沼の北越戦争が始まるわけですが、同盟軍は越後新潟港を補給港としプロシア商人スネル兄弟を通じて武器弾薬を輸入していました。新潟港はもともと幕府領でしたが、幕末の混乱期に越後にある天領を会津藩、桑名藩が幕府に要求し預領として接収していました。その領地は会津藩が飛び地領と合わせて18万石規模、桑名藩も同じく12万石規模と恐るべき勢力でした。

 新潟代官は同盟軍に支配権を明け渡し、仙台藩、米沢藩が中心になって新潟港を守っていました。ここに同盟側各藩は代表者を派遣し、スネルとの武器取引をしていたのです。官軍側は早くから新潟港の重要性に気づいていました。そこで薩摩藩黒田了介(清隆)を総指揮官、長州藩山田市之允(顕義)を副将とする薩摩藩、長州藩の小隊(50人)各三隊を中心とする1200人の上陸部隊を編成しました。

 上陸開始は1868年7月25日(旧暦)。上陸地点には新発田藩領の大夫(たゆう)浜が選ばれます。というのも、ここは新発田藩からの情報で同盟軍が配置されていないことが分かっていたからでした。新発田藩溝口家10万石、外様大名です。戊辰戦争では幕府側に勝ち目がないことを悟り、新政府から要請されると300人の藩兵を上洛させていました。ところが奥羽越列藩同盟が成立し周囲を敵ばかりに囲まれたことからやむなく同盟に参加します。同盟側も新発田藩を警戒しぞんざいに扱ったそうですから恨みは深かったと思います。

 新潟上陸作戦は官軍側から打診されたのでしょうが、新発田藩はこれを好機に寝返る決意をしました。官軍が大夫浜に上陸すると、一部を割き新発田城接収に向かわせます。新発田藩は抵抗もせず受け入れました。これで新潟から庄内に至る補給線が断たれます。次に新発田藩の援軍を加えた官軍は内陸部に進み新潟から会津に至る補給線も遮断しました。

 官軍別動隊は、南下して阿賀野川を渡河、途中沼垂で新発田藩兵200人を加え一部は信濃川を渡河し新潟港を西から圧迫します。29日朝、官軍が攻撃を加えると多勢に無勢、同盟軍はあっさりと崩れました。官軍が新潟港を占領したことで同盟軍はどう足掻いても勝てる見込みが無くなります。

 7月25日、長岡藩領では河井継之助の有名な八丁沖渡渉の奇襲攻撃で一時的に長岡城を奪還しますが、指揮官の山縣狂介(有朋)は手薄な長岡城で無駄な抵抗はせず要衝榎峠の線まで下がって部隊を再編しました。官軍の一部は信濃川を渡河し西岸に逃れますが、こちらも間もなく立ち直ります。

 そんな時、7月27日官軍の大夫浜上陸と新発田藩寝返りの情報がもたらされました。同盟側は驚愕します。29日、態勢を立て直した官軍は南の榎峠方面、西の信濃川方面、新潟から南下し北側から迫った部隊の三方向から挟撃、支えきれなくなった同盟軍は壊走しました。結局長岡城は奪還したものの新潟港を失い戦略的に負けていたため、こうなるしかなかったのです。

 敗走した同盟軍ですがここで悲劇が起こります。撤退戦の指揮をとっていた河井継之助が左脚に敵弾を受け負傷したのです。傷口から感染し破傷風になった河井は、会津領に入ってすぐ只見村で死去しました。享年41歳。

 結局北越戦争は新潟港の支配権を官軍が握った時点で勝負あったのでしょう。戦史において重要補給地点をいかに確保するかが全体の戦局を左右するという事実はここでも証明されましたね。

2025年5月 1日 (木)

江戸時代雄藩の表高と内高

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 江戸時代、幕府の大名統制策で経済力を削がれ弱体化していったとされる各藩。それは親藩や譜代も例外ではなく貨幣経済が進むにつれ借金がかさみにっちもさっちも立ち行かなくなりました。表高より内高がはるかに高い藩でも例外ではなく、江戸時代中期には借金を返せなくなり貸し手の大阪商人や江戸商人に藩政を牛耳られるような惨状でした。

 とは言え、表高は参勤交代や江戸城内での格式、普請の負担、有事には軍役の多寡を決めるため、表高が内高より少なければ少ないほど有利なのは間違いありません。そこで各藩の上から10位くらいの表高と内高を調べてみました。といっても内高の実態は分からないことが多く、あくまで概略だと思ってください。

 長州藩は表高36万石に対し内高99万石もありますよね。薩摩藩も77万石に対し89万石。実は両藩とも借金で首が回らなくなっていたことは事実でした。ところが商人への借金を事実上踏み倒すなどの経済改革を断行し、殖産興業はいうまでもなく外国との密貿易まで行って幕末期には数十万両の余剰金を蓄えるまでになっていました。

 その有り余る金で洋式装備を買いあさり戊辰戦争勝利の原動力となったのです。一方、佐幕派の諸藩は真面目なのかそのような経済改革はできず大きな借金を抱えながら幕末を迎えました。長岡藩や庄内藩など一部例外を除いて洋式装備に完全に切り替えられなかったのもそれが原因です。

 結局、近代戦で物をいうのは経済力なのでしょうね。日本の国防を考えた場合経済成長が重要な要素となってくるのも理解できます。

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