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カテゴリー「 日本史」の記事

2021年11月 9日 (火)

刀伊の入寇余話 博多警固所

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 皆さん誰も興味ないと思いますが、私は一つの事に関心を持つと関連項目も調べたくなるという癖を持っていまして、刀伊の入寇で日本側防衛拠点になった博多警固所が気になっていました。

 そこで調べてみると、古代から中世までの博多は西側が入江で今の福岡城から北の西公園荒津山のあたりまで南から伸びてくる小半島になっていたことが分かりました。これを福崎台地と呼ぶそうですが標高は30m余りと低い丘陵でした。その東側が冷泉津と呼ばれる入江で博多の港があります。半島の西側も草香江(くさかえ)という入江でした。今でいうと冷泉津は福岡市天神のあたり。草香江は現在大濠公園として残っています。

 この辺りは縄文時代から人が住んでいたそうで、博多は大和朝廷時代、大陸・半島への玄関口でした。魏志倭人伝を読むと弥生時代から栄えていたことが分かります。遣唐使もここから出発し、律令時代博多は大宰府の外港として重要視されました。朝廷は博多を守るため、この福崎台地に目を付けます。実はここに設けられたのが博多警固所でした。

 江戸時代初期、黒田長政が戦功で筑前52万石を得て入部した時目を付けたのも福崎台地でした。長政は福崎台地の最高所赤坂山(標高31m)に福岡城を築城します。その際福崎台地の南端を削って外堀にしたそうですから、この時福崎台地が南の山地と切り離されたことになります。その後干拓が進み福岡城の東側は天神地区となり西側は大濠公園となったのでしょう。

 ですから福崎台地、赤坂山の辺りは古代から博多を守る防衛拠点となっていたのです。現在の地形だと分かりませんが、半島部を要塞化していたので刀伊の賊も攻めあぐねたのでしょう。実は元寇の時も福崎台地、赤坂山の辺りは激戦地になっています。博多を占領するためには絶対にこの地を攻め落とす必要があったのだと思います。

 おそらく大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代と時代ごとに防衛施設が設けられていたと想像できます。ですから黒田長政が福岡城を築くときもこの地形を利用したはずです。実は福岡市中央区に警固神社、警固地区というのがありますが長政が城を築いた時、赤坂山にあった警固神社を現在の場所に移築したそうです。

 博多警固所は博多を守る重要な防御施設だったことが、当時の地形を見て納得しました。もしかしたら福岡城の地下には弥生時代の環濠集落跡があるかもしれません。大濠公園や天神に対するイメージもだいぶ変わりました。今度福岡に行くときは当時に思いを馳せたいですね。

2021年11月 7日 (日)

刀伊の入寇Ⅲ 異族襲来

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 1019年刀伊の入寇は日本史上初の異民族の来襲だったわけですが、実はそれまでにも小規模な侵略は何度もありました。新羅末期の893年新羅賊が内海の有明海を横断し肥後国飽田郡(現在の熊本市西部)に侵攻、民家が焼亡し賊は肥前国松浦郡に逃亡したという記録があります。新羅賊は翌894年にも来襲し北九州沿岸や対馬を略奪、住民を殺傷しました。この時の新羅賊は100隻の軍船で押し寄せたと言われ、対馬守文屋善友率いる国府の兵と合戦になったそうです。国府軍は奮戦し、賊徒302人を射殺、大将軍3人、副将軍11人を捕虜にしました。室町時代の応永の外寇を彷彿させる事件ですが、この時も賊は2500人以上いたと言われます。一方対馬の兵は数百人もいなかったはずで新羅兵が弱いのか対馬の日本兵が強すぎるのか分かりません。

 新羅賊というのもただの暴民ではないでしょう。軍船に乗っていたことから新羅の統治能力が弱体化し辺境の豪族か地方領主が組織した軍勢だった可能性が高いと思います。新羅末期地方豪族の反乱が相次いでいたそうですし、農民出身の甄萱(けんけん)が光州で挙兵し後百済を建国したのは892年のことでした。新羅王朝末期、王権が及ぶのはかつての本拠慶尚道くらいまで縮小し弱体化していたのでしょう。

 日本側の記録では、884年にも新羅賊来襲が記されており何度も壱岐対馬や北九州沿岸は海賊被害に遭っていたと言われます。これを見ると日本側の倭寇は大陸や半島側の侵略の報復という意味もありそうです。結局どっちもどっちだったのでしょう。

 藤原隆家が大宰権帥として赴任したのは1014年でした。隆家は中関白家の期待の星でしたから護衛として付き従う武士団も強力で、房総平氏の平致光(むねみつ 房総平氏の棟梁平公雅【きんまさ、平将門の従兄弟】の子か孫だといわれる)、藤原政則(蔵規とも書く)らの名前が挙がっています。藤原政則という人物は謎が多く、但馬出身だとされ、隆家が但馬に流されていた時側室に生ませた子だとも言われますがはっきりしません。その後肥後菊池地方に土着し菊池氏の祖となりました。これには異説があり、古代の狗奴国の官・狗古智卑狗が菊池氏の源流だという説もあります。大宰府に在庁官人として仕えていた時に藤原隆家に気に入られ藤原姓を与えられたとも言われており、私はこちらの説がしっくりきます。

 1019年3月、刀伊の兵船五十余艘が対馬に来襲、住民を殺傷し物資を略奪し牛馬を殺して食べたという急報が大宰府にもたらされました。賊は同じ日壱岐にも侵攻します。4月7日壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚は単身脱出し大宰府に到着、壱岐守藤原理忠(まさただ)以下多くの島民が賊に殺されたと伝えました。

 刀伊の軍船はその後筑前の怡土(いと)、志摩、早良の三郡(ともに博多湾に面している)を襲撃。略奪をほしいままにし老人や児童を斬殺、男女の捕虜500人を攫います。これは奴隷として売り飛ばすためでした。刀伊の賊は軍船に5~60人ほども乗っていたので総勢は2000人から3000人あるいはそれ以上という規模でした。この数は、侵略し領土を奪うには不足でしたが略奪するには十分すぎる数でした。防衛する側もある程度の人数を集めないと対抗できないからです。

 これを見ても刀伊の賊がただの暴民ではなく組織だったものであることが分かります。実際高麗水軍は刀伊の賊に敗北し略奪を許していたくらいでした。報告を受けた大宰権帥藤原隆家は前将監大蔵朝臣種材(藤原純友の乱鎮圧で活躍した大蔵春実の孫)、藤原朝臣明範、散位平朝臣為賢(常陸平氏、伊佐氏・伊達氏の祖、ただし別系統という説もある)、平朝臣為忠(為賢の一族か?)、前将監藤原助高、大蔵光弘、藤原友近らを博多警固所に派遣し防衛させます。

 刀伊の賊は1019年年4月博多湾にある能古島を拠点にし、対岸の博多警固所を攻撃します。日本側が必死に防戦したため刀伊軍は警固所を攻略できず能古島に引き上げました。大宰府は早良郡から志摩郡の船越津(糸島半島の博多湾とは反対側)にかけても別軍を派遣し刀伊軍に備えます。4月刀伊軍は再び博多湾に上陸しました。この戦いでは九州の武士である財部(たからべ)弘延、大神(おおが)守宮らが奮戦し賊徒40人を討ち取ったそうです。大蔵種材、藤原致孝、平為賢、平為忠らは軍船に乗って海路刀伊軍を攻撃します。

 形勢不利を悟った刀伊軍は博多湾を撤退、防備が手薄な肥前国松浦郡一帯を襲撃しました。前肥前介源知(しるす、肥前松浦氏の一族)は郡内の兵を集めこれを迎撃、大宰府からも軍船40艘が追撃してきたため刀伊軍は侵略を諦め4月13日ようやく退去します。その後朝鮮半島に引き上げた刀伊軍は半島の東岸を荒らしまわりますが、元山沖で高麗水軍と合戦になり壊滅したそうです。この時、日本で捕虜にしていた男女は戦の邪魔になるからと海に投棄したそうですから彼らがどれだけ鬼畜か分かりますね。

 刀伊の侵略を撃退した日本側ですが、その被害は甚大で殺害された住民300人以上、捕虜となった者1000人以上(大半は朝鮮半島沖で捨てられ溺死)、壱岐では国守まで殺されるという惨状でした。これは記録に残されている数ですので、実態はその数倍だったとも言われます。

 刀伊の入寇時、現地で迎撃を指揮した藤原隆家が断固たる態度で対応したのが日本側に幸いしたと思います。これが都の惰弱な貴族が指揮官だったらもっと被害が増大し下手したら国土の一部を占領されていたかもしれません。藤原隆家の武勇は後の武士団の憧れとなり、隆家を祖と称する者が多かったと言われます。菊池氏などまさにそうでした。

 論功行賞で大蔵種材は壱岐守、藤原政則も大宰少弐・対馬守に任ぜられました。その他、この度の戦に活躍した者には恩賞が与えられます。日本側は刀伊の捕虜に高麗人が混ざっていたことから最初高麗による侵略を疑ったそうです。しかし1019年6月、高麗側から元山沖海戦で救出した日本人捕虜259人の送還があり誤解が解けました。ただ日本の高麗に対する警戒は続いたと言われます。新羅海賊に苦しめられた経験があったからでしょう。高麗としては遊牧民の遼王朝や、その後勃興した女真族の金王朝に圧迫されたため日本とまで敵対する愚を避けたかったのです。

 その後、1019年12月藤原隆家は大宰権帥を辞して帰京します。刀伊の入寇を撃退した功績から隆家を大臣や大納言に登用すべしという声があがったそうですが、隆家自身は病気のため朝廷出仕を控えました。政敵だった摂政藤原道長は、これを幸いとし昇進の沙汰を取りやめます。隆家は1037年再度大宰府権帥に任ぜられ1042年まで務めました。1044年1月1日死去、享年66歳。最終官位は前中納言正二位。

 

 刀伊の入寇は、激動の東アジア情勢がもたらした事件でした。大陸では遼王朝が滅亡し女真族の金王朝が台頭します。半島国家高麗はそれに翻弄され続け、最後はモンゴルの元王朝に服属しました。元は日本にも侵略の触手を伸ばし鎌倉時代末期の元寇に至るのです。

 

 

                                           (完)

2021年11月 6日 (土)

刀伊の入寇Ⅱ 11世紀の日本

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 刀伊の入寇の起こった1019年がどういう年かというと、日本では藤原道長が従一位摂政・太政大臣として藤原摂関家の絶頂期にあった時期でした。道長の有名な和歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのは刀伊の入寇が起こる一年前の1018年の事です。

 ただ平安時代と言う名前と違い、実際は世の中が騒然とした時代でもありました。平将門が関東で、藤原純友が西国で起こした反乱、承平天慶の乱は935年から941年にかけてで道長が政権を握る60年前、そして奥羽で起った前九年・後三年の役は道長の子頼道時代の1051年から1087年にかけて起こります。

 道長の属する藤原北家が他氏を圧し朝廷の高官を独占していく過程で律令制は崩れていきます。奈良朝聖武天皇時代の墾田永年私財法が引き金となり荘園が拡大し朝廷の歳入は激減しました。というのも最初は荒蕪地の開墾だったものが次第に国衙領を蚕食するようになったからです。貴族たちはこぞって荘園獲得という私利私欲に走ります。また荘園を開発した豪族たちも都の権門と結ぶことで自己の権益を獲得していきました。これら豪族たちが武装したのが武士の始まりだと言われます。土地争い、水争いを解決するには自分たちが武装するしかなかったのです。律令制は崩壊し朝廷に紛争解決力は無くなっていました。海音寺潮五郎が小説『海と風と虹と』(NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の原作の一つ)で藤原純友に「都の貴族たちは国家に巣くう白蟻たちだ」と言わせたのもこういう実態を踏まえてのことでした。藤原氏を中心とする貴族たちは自分たちの利益を最優先したために朝廷の力を弱め最後は実力のある武士に実権を奪われていくのです。言わば自業自得でした。

 律令制下で国防を担っていたのは軍団制です。これは戸籍に基づき住民の中から一定数を徴兵するもので全国各地に設置されました。規模はだいたい一軍団1000人から2000人くらい。ローマ帝国の軍団(5000人から6000人)に比べると小規模でしたが、人口も経済規模も少ない日本ではこれが精一杯でした。防人というのは軍団に徴兵された兵士の事です。桓武天皇の時代、奥州や西国を除いて軍団制は廃止されました。代わって健児(こんでい)制が導入されます。これは各国府の税収を基に集められた一種の傭兵で全国合わせても3000人くらいと小規模なものでした。税収が激減した朝廷が維持できる精一杯の数だったのでしょう。その健児さえも道長の時代には有名無実の存在となっていました。

 では刀伊の入寇で活躍したのはどういった勢力だったかというと、まさに武士団でした。平将門の乱で平貞盛の常陸平氏、藤原秀郷の下野藤原氏、河内源氏の祖源経基らが東国で強力な武士団化したのと同様、西国でも藤原純友の反乱鎮圧で活躍した大蔵春実の子孫である大蔵氏(嫡流は筑前原田氏となる。一族に秋月氏、高橋氏、江上氏など多数。原田党と呼ばれる)や、宇佐神宮に所縁の大神(おおが)氏などが武士団として成長していました。

 これに加えて刀伊の入寇を迎え撃った大宰権帥(ごんのそつ)藤原隆家の護衛として下向してきた武士たちが迎撃軍の中核となります。隆家の父道隆は正二位関白・内大臣でした。ところが995年43歳で死去したため摂政・関白職は弟道兼に移ります。その道兼も急死したため最終的に摂政の地位を得たのは道長でした。道隆は長男伊周(これちか)に摂政・関白職を譲りたかったそうですがそれを実現する前に亡くなったのです。

 伊周は叔父道長と壮絶な権力争いをしますが、敗北し1010年失意のうちに病死します。享年37歳でした。弟隆家も道長に強烈な敵意を持っていたと言われます。大人しい兄伊周と違い激しい性格だったと言われる隆家は道長に疎まれ出世できませんでした。そのうち隆家は目の傷から眼病を患い大宰府に名医と評判の唐医がいることから、自ら大宰府赴任を希望します。道長も体の良い厄介払いができると思い、隆家の希望通り大宰権帥に任命しました。

 

 これが後の我々から見ると最適な人選になるのですから歴史の皮肉です。次回は、刀伊の入寇の推移について語りましょう。

 

 

2021年11月 5日 (金)

刀伊の入寇Ⅰ 11世紀の東アジア

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 学生時代、日本史で何となく習ったので覚えている人も多いと思いますが、日本が外国から侵攻されたのは元寇、大東亜戦争とこの刀伊の入寇の三度しかありません。ところが他の二つと比べ刀伊の入寇に関してはほとんど実態が知られていませんでした。最近になって『刀伊の入寇』(関幸彦著 中公新書)が出たくらいです。

 本シリーズでは『刀伊の入寇』(中公新書)を軸に当時の東アジアと日本の状況を踏まえ見ていこうと思います。刀伊というのは聞き慣れない言葉ですが、実は民族名ではありません。高麗が彼らを東夷(古朝鮮語で『とい』)と呼んだのが語源だそうです。刀伊は日本側の当て字でした。刀伊の入寇が起こったのは1019年です。当時の朝鮮半島は高麗王朝(918年~1392年)が成立していました。高麗は王建が建てた王朝ですが、彼は純粋な朝鮮民族ではなくツングース系の女真族出身だと言われます。ついでに言うと高麗の次の李氏朝鮮を建てた李成桂も女真人だとされます。

 この段階では朝鮮民族は成立しておらず各地から集まった様々な民族が雑居していただけだとも言われます。高麗以前の高句麗、百済はツングース系の扶余族の建てた国、新羅に至っては三つの王統(金、朴、昔)のうち昔氏は日本人の可能性が濃厚です。これは過去記事(新羅日本人国王説)で検証しています。加えて古代の稲作伝播の過程で朝鮮半島南部にも和人が住んでおり任那日本府は植民地総督府ではなく日本の地方行政組織に過ぎないと思っています。ですから半島南部に日本式の前方後円墳が残っているんです。韓国政府は歴史の真実が発覚するのを恐れかなりの日本式古墳を破壊したそうですがこういう態度がノーベル賞を取れない理由なんでしょう。

 話が脱線したので本題に戻すと、高麗は建国はしたものの未だに安定した半島支配が出来ていなかったと言われます。それは新羅末期の混乱から続き、900年から935年には後百済が登場し慶尚道を除く半島南部から平壌あたりまでを支配していました。899年には後高句麗も建国され918年まで続きます。こちらは最盛期には京畿道あたりから咸鏡道の南端辺りまで支配しました。ですから915年頃の新羅は元の慶尚道くらいしか支配領域を持っていないほど弱体化していました。

 実は王建は、新羅ではなく後高句麗の将軍でした。918年後高句麗王弓裔(きゅうえい)をクーデターで追放、自らの高麗王朝を建てます。新羅王の側室の子として生まれ一代で後高句麗王朝を開いた弓裔でしたが、猜疑心が強く妻子を殺し臣下も数多く粛清したため人心を失っていたそうです。その末路も哀れで逃亡する途中、平康というところで飢えをしのぐため畑の作物を盗もうとして村人に発見され殺されました。

 王建は、935年新羅、936年後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一します。とはいえこれはあくまで表面上でその支配は隅々までは行き渡っていませんでした。特に半島東部には満洲から沿海州にかけて広く分布していたツングース系遊牧民が進出していました。エベンキ族などもその一つです。これらの民族を総称して女真族(後の満洲族)と呼びますが、住んでいる地域によって生活形態はだいぶ変わっていたと言われます。女真族の中心(半農半牧)はだいたい興安嶺山脈の東麓から沿海州の境にかけて。沿海州には同じツングース系の粛慎(しゅくしん)が住んでいました。粛慎は古代シナの史書に出てくる狩猟を生業とし沿岸部では漁労もしていた民族でした。シナの史書では紀元前、日本の史書では6世紀に粛慎(みしはせ)として出てきます。『みしはせ』と粛慎が同一民族か史家の意見は分かれるそうですが、ツングース系で狩猟と漁労をする同系の民族であったことは間違いないと思います。

 高麗王朝は、これらツングース系民族の統治に非常に苦労します。さらに追い打ちをかけたのは満洲の西部から熱河省あたりにいたモンゴル系の契丹民族が勃興し遼を建国したことです。純粋な遊牧民族である遼の軍隊は強力で女真族でさえ服属を余儀なくされます。南は宋を圧迫し、933年には高麗にも侵攻しました。高麗は遼の騎兵に太刀打ちできず首都開城を落とされ降伏、属国となります。

 女真族は遼の支配に嫌々従っていましたが、沿岸部のかつて粛慎と呼ばれた一部のツングース系民族は遼の支配を受け入れず独立的な動きをしました。遼が討伐軍を送っても船で海上に逃げるため捕捉できず、結局遼はこの地域を放棄します。刀伊と言われるのは遼の支配を脱した粛慎の後裔たちだと想像できます。刀伊は遼が交易を拒絶したため必然的に海賊として沿岸部を略奪するしか生きる道がなくなります。最初の標的は高麗でした。高麗は遼の属国となり辺境支配も弱かったため刀伊の海賊たちにとっては格好の標的になります。その流れが日本にまで来て刀伊の入寇になったのです。

 

 次回は、11世紀の日本側の事情を見ていきましょう。

2021年10月25日 (月)

奈良朝の風雲Ⅷ 宇佐八幡神託事件(終章)

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 藤原仲麻呂の乱の戦後処理は苛烈を極めました。近江で最後まで仲麻呂に付き従った34人以外に、仲麻呂派と見做された者475人が連座します。斬刑に当たると判断され764年12月だけで13人が処刑されました。最終的に475人全員が処刑されたのか一部は許されて流刑で済んだかははっきりしません。ただ朝廷内の仲麻呂派を一掃したのは間違いありません。一番の被害者は淳仁天皇でした。孝謙上皇方に身柄を拘束され幽閉状態だった淳仁天皇ですが、謀反人藤原仲麻呂と共謀し上皇の排除を図ったとして廃位、身分を親王におとされ淡路公として淡路国に流刑になります。

 淳仁天皇は積極的に動かず何もしていない完全な被害者でしたが、孝謙上皇が復位するのに邪魔だったので言いがかりをつけて排除されたのです。一年後孝謙上皇方の圧力を受け失意のうちに亡くなります。孝謙上皇はすでに出家していました。にもかかわらず764年10月復位します。すなわち称徳天皇です。出家した者が復位して天皇になるのは異例でした。

 仲麻呂派の一掃で、失脚していた藤原豊成が右大臣として朝廷に返り咲きます。しかし一番の驚くべきことは称徳天皇が寵愛する弓削の道鏡が太政大臣禅師として朝廷のトップになったことでした。称徳天皇の言い分は「出家の天皇の補佐をするのは出家した僧がふさわしい」とのことでしたが、苦しい言い訳にすぎません。今回の藤原仲麻呂の乱で功があった吉備真備も参議に任ぜられました。766年には従二位右大臣にまで出世します。

 道鏡に対する称徳天皇の寵愛はこれだけにとどまりませんでした。道鏡の一族を参議など朝廷の高官に登用するなど乱脈を極めます。また猜疑心の強い彼女は、淳仁天皇の兄船王、池田王をそれぞれ隠岐、土佐へ配流しました。淳仁天皇の甥にあたる和気王に至っては謀反を起こそうとしたと言いがかりをつけ絞首します。称徳天皇は異母妹不破内親王にも疑いの目を向けました。不破内親王が藤原仲麻呂の乱で処刑された塩焼王に嫁いでいたからです。769年不破内親王は称徳天皇を呪ったという罪で息子志計志麻呂と共に土佐に配流しました。その際内親王の籍を剥奪するという徹底ぶりです。

 称徳天皇と道鏡による乱れた政治に貴族や庶民たちは怨嗟の声を上げますが、表立って諫める者はいませんでした。下手すると殺されるからです。皇族に対してすら容赦ないのですからそれ以外ならどんなむごたらしい殺し方をされるか分かりません。称徳天皇には皇統を守る意識はなかったと思われます。道鏡を溺愛しついには自分の次の天皇にしようとすら思い始めました。そこに阿る者が出てくるのはある意味自然だったのかもしれません。769年5月豊前の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるだろう」という神託がもたらされました。これは大宰帥だった道鏡の弟弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が共謀した偽の神託でした。

 さすがの称徳天皇もいくら寵愛しているとはいえ道鏡をいきなり天皇にすることは迷います。朝廷の百官も国民も許さないと思ったからです。そこで確認するため近衛将監(しょうげん)和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し神託が真実であるか確認させようとします。道鏡は清麻呂を出発前に招いて「そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう」とささやきました。

 清麻呂が佞臣なら道鏡の意を受け称徳天皇や道鏡が気に入る報告をしたでしょう。ところが彼は清廉潔白で剛直の臣でした。宇佐八幡宮に到着すると神官たちを厳しく問いただし「我が国は開闢以来君臣が定まっている。臣をもって君にすることがあってはならない。天つ日嗣(天皇の後継者)には必ず皇緒(皇族)を立てよ」という神託を得ました。帰京した清麻呂がそのまま報告すると称徳天皇は怒ります。道鏡も激怒しました。神託を偽ったと無実の罪を着せ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ一切の官位を剥奪、大隅国に流します。さらに清麻呂の姉で称徳天皇に仕えていた法均も還俗させられ備後に流罪としました。

 ただ清麻呂の活躍で道鏡の皇位継承は沙汰止みになります。貴族たちの反発が強かったからです。そしてこの事件から半年後の770年8月、称徳天皇は病気となり崩御しました。享年53歳。道鏡の権力の源泉は称徳天皇でしたから、後ろ盾のなくなった者を遠慮する者はいません。貴族たちの反撃が始まりました。道鏡は太政大臣禅師の官職を剥奪され造下野薬師寺別当を命ぜられ下野国に追放されます。二年後道鏡は失意のうちに亡くなりました。道鏡の一族も同様でした。朝廷の役職を解かれ土佐など各地に流されます。

 道鏡は皇位を狙った大悪人と言われましたが、私は称徳天皇も同罪だと思います。悪政は二人の合作でした。称徳天皇は自らの天武系皇族を猜疑心や憎しみのために排除し、しかも後継者を定めぬまま亡くなります。藤原永手(北家 房前の次男)、藤原良継(式家 宇合の次男)、吉備真備らは協議して後任を天智天皇の孫にあたる白壁王に決めました。白壁王が聖武天皇の娘井上内親王(母は県犬養広刀自)を妻にしていたからです。白壁王は即位して光仁天皇(在位770年~781年)となります。即位したとき60歳になっていました。現在に至るまで即位年齢は最高記録だそうです。

 壬申の乱を経て失われていた天智天皇系に皇位が戻ったことになります。それも称徳天皇の悪政が原因でした。光仁天皇が即位すると大隅国に流されていた和気清麻呂も許され官界に復帰します。道鏡は配流途中の清麻呂の暗殺を謀ったそうですが失敗していました。どこまで腐った破戒僧なのかと呆れますね。播磨員外介、豊前守などを歴任し光仁天皇の次の桓武天皇にも仕えます。晩年は従三位民部卿になりました。

 藤原仲麻呂の乱で活躍し今回の光仁天皇擁立にも貢献した吉備真備は右大臣のまま771年引退します。その後775年まで生きました。享年81歳。当時としては驚くべき長命です。最終官位前右大臣正二位。光仁天皇の御代は称徳天皇の時代に乱れた国政を正すことに費やされます。途中天武天皇の曾孫氷上川継の乱など揺り戻しもありましたが、治世はその子桓武天皇に受け継がれていきました。

 

 桓武天皇は平城京で肥大化していた仏教勢力の影響を嫌い784年長岡京、794年平安京を築き遷都しました。桓武天皇の脳裏には第二の道鏡を出してはならないという意識があったのかもしれません。そして奈良時代は終わりを遂げ彼の治世から平安時代が始まります。

 

 

 

 

 

  

 

                                            (完)

2021年10月24日 (日)

奈良朝の風雲Ⅶ 藤原仲麻呂の最期

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 橘奈良麻呂の変で右大臣藤原豊成は失脚します。左大臣橘諸兄はすでに引退していました。息子奈良麻呂の横死の衝撃でもともと病気がちであった諸兄は757年病死しました。享年74歳。これで大納言仲麻呂が太政官の首座に就き政治を行うようになります。ただ孝謙天皇は橘奈良麻呂の変に連座した者の死一等を減じ流罪にするよう仲麻呂に求めたにもかかわらず事実上無視されたことに良い感情を抱かなかったと思います。特に道祖王、黄文王など皇族までが拷問で殺されたことは世間の憎しみを受けました。道祖王などは聖武上皇の遺言で皇太子になったほどの人物です。せめて皇族は流罪にすべきだったと思います。仲麻呂の憎しみが激しかったのでしょうが、この狭量さは後に命取りになりました。

 孝謙天皇との関係に隙間風があるにも関わらず仲麻呂政権が続いたのは、孝謙天皇の母光明皇太后の絶大な信頼と庇護があったからです。758年孝謙天皇は譲位し大炊王が即位しました。すなわち淳仁天皇(在位758年~764年)です。淳仁天皇は舎人親王の子で皇族としては傍系に当たりました。しかし天武天皇系の皇族が少なくなっていたので白羽の矢が立ったのです。そういった経緯から淳仁天皇は権臣藤原仲麻呂の意のままに動く操り人形でした。

 淳仁天皇擁立の功績で仲麻呂は右大臣になります。さらに仲麻呂の一族は恵美朝臣を授けられ仲麻呂自身も藤原恵美朝臣押勝と名乗ります。ここでは紛らわしいので仲麻呂で通しますが、仲麻呂が嫌われたのは官職名を唐風に改めたことです。右大臣も唐風に太保と呼ばせました。儒教的な徳治政治を目指し様々な改革を推し進めますが、私は前漢を簒奪した王莽と同じ臭いを感じます。こういう時代錯誤な政策は現実に合わず政治は混乱し庶民は怨嗟の声を上げるものです。性格的にも仲麻呂は平安末期の悪左府頼長と被るように思えます。自信の能力は高いのでしょうが、周囲が見えず暴走しその結果人々の憎しみを買い滅びるものです。

 760年、仲麻呂は人臣としては初の正一位太政大臣に任ぜられました。このころが彼の絶頂期だったかもしれません。ところが同年6月最大の庇護者だった光明皇太后が崩御しました。後ろ盾を失った仲麻呂、そして母の生存中は不満があっても我慢していた孝謙上皇は仲麻呂の政治に口を出すようになります。761年近江国保良宮(大津京の近く)にいた孝謙上皇は病に臥せりました。そこで看病を担当した弓削の道鏡を寵愛するようになります。道鏡は河内国出身、法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学びます。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられました。道鏡は美男だった(俗説ではあそこが大きかったとも)と言われ、独身だった孝謙上皇は夢中になったのでしょう。

 孝謙上皇は道鏡への寵愛が深まるにつれ仲麻呂とその傀儡の淳仁天皇が疎ましくなりました。762年上皇とのパイプ役になっていた正室藤原袁比良が亡くなります。同年仲麻呂の腹心だった紀飯麻呂、石川年足も相次いで亡くなり仲麻呂政権の基盤は弱まりました。孝謙上皇側も来るべき仲麻呂追い落としの準備を着々と進めます。まず、橘諸兄に近いという理由で警戒され大宰大弐に左遷されていた吉備真備を764年朝廷に呼び戻しました。名目は造東大寺長官に任命するためでした。吉備真備はこのとき70歳の高齢でしたが、遣唐使時代多くの学問を修め特に兵法に通じていました。孝謙上皇方は吉備真備に軍師的役割を期待したのです。

 自分を取り巻く環境が次第に厳しくなっているのは、流石の仲麻呂も気付いていました。そこで不測の事態に備え娘婿藤原御楯を参議・授刀衛督・伊賀・近江・若狭按察使に任命し都と畿内周辺の軍事力を握らせました。仲麻呂自身も都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任して軍権を握ります。さらに仲麻呂八男辛加知を越前守、九男執棹を美濃守にするなど万全を期しました。が、一番信頼厚かった娘婿御楯が764年6月急死してしまいます。

 仲麻呂の周囲には次第に暗雲が立ち込め始めます。孝謙上皇はますます道鏡を寵愛し、政治を顧みなくなりました。仲麻呂は淳仁天皇を通じて上皇を諫めますが、逆に怒りを買ってしまいます。そんな中、大外記の高丘比良麻呂が上皇のもとに「藤原仲麻呂に謀反の計画あり」と密奏しました。これは実際陰謀があったとも実は無実であったとも言われはっきりしません。ただ孝謙上皇側に仲麻呂を追い落とす計画があったことは確かでした。皮肉なことに長屋王の失脚も密告なら仲麻呂を追い詰めたのも密告でした。

 密告は他の者からも相次ぎ、仲麻呂の謀反は既成事実化します。実際仲麻呂側も淳仁天皇を担ぎ6000人の兵士を動員、孝謙上皇と道鏡に弾劾状を突きつけ上皇は幽閉、道鏡は追放か死刑を計画していたとも言われますので、どっちもどっちです。現状、淳仁天皇を擁している仲麻呂側が有利でした。

 孝謙上皇側の軍師、吉備真備は次々と手を打っていきます。まず朝廷が諸国の軍勢を動かすのに必要な御璽、駅鈴を奪取させました。その上で錦の御旗になりうる淳仁天皇の身柄を仲麻呂より先に抑えました。淳仁天皇はそのまま幽閉されたとも言われます。兵を動かすための御璽も大義名分の淳仁天皇も失った仲麻呂は平城京を脱出するしかありませんでした。

 吉備真備の恐ろしいところは、仲麻呂が根拠地の近江に逃亡するだろうと読んでいたことです。近江を中心に東国の兵を糾合されれば壬申の乱の時のように仲麻呂側が圧倒的有利になります。それを防ぐため山城(当時は山背)守日下部子麻呂に命じて瀬田橋を焼かせました。当時の近江国府は瀬田川の東岸にあったので仲麻呂一行は国府に入るのを諦め琵琶湖西岸を北上するしかなくなります。さらに吉備真備は、佐伯伊多智に手兵を与え越前に急行させました。越前守だった仲麻呂八男辛加知は官軍に斬られます。また別軍は美濃にも派遣され仲麻呂九男執棹も同じ運命をたどりました。

 越前への道も断たれた仲麻呂一行はわずかな手勢を率い高島郡三尾崎で追撃してきた官軍と絶望的な戦いを強いられます。多勢に無勢、それでも仲麻呂軍は4時間も粘ったそうです。仲麻呂は家族と共に琵琶湖を船で逃亡しようとしますが官軍に捕捉され家族郎党共々惨殺されます。栄華を誇った藤原仲麻呂の哀れな最期です。時に764年9月、享年59歳でした。生きて捕らえられた仲麻呂の家族も女性や幼児も含めことごとく処刑されました。それだけ孝謙上皇の憎しみが激しかったのでしょうが、戦国時代でも女性や女児まで皆殺しにすることは稀だったと思います。

 こうしてみると、仲麻呂が積極的に反乱を起こしたのではなく孝謙上皇側の罠にはめられて滅亡したという見方が正解のような気がします。仲麻呂の独善的な性格が災いし味方する者がいなかったことも敗因でした。

 邪魔する者がいなくなった孝謙上皇は、淳仁天皇を廃し自らが皇位に返り咲きます。すなわち称徳天皇です。称徳天皇の道鏡に対する溺愛ぶりは異常でした。道鏡は増長しついには皇位まで狙うようになります。次回最終回、宇佐八幡信託事件にご期待ください。

2021年10月23日 (土)

奈良朝の風雲Ⅵ 藤原仲麻呂の台頭

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 743年藤原仲麻呂は従四位上参議に任命されます。橘諸兄政権ではすでに兄豊成が参議となっていたので藤原南家は二人の参議が誕生したことになります。仲麻呂は藤原家嫡流南家(父武智麻呂が初代)の次男でした。幼少期から俊才の評判高く叔母に当たる光明皇后は凡庸な兄豊成より仲麻呂に期待しました。皇后の引き立てもあり仲麻呂は744年には恭仁京の民政を担当する左京大夫も兼任します。

 右大臣橘諸兄はこの時従一位左大臣に昇進しました。参議から中納言には諸兄派の巨勢奈弖麻呂、仲麻呂兄の藤原豊成が昇格します。橘諸兄の政治力は元正上皇の庇護あってのものでした。文武天皇が若くして崩御したので幼少の聖武天皇(首皇子)の成長まで文武の母である元明天皇(聖武天皇にとっては祖母)が即位したことは前に紹介しました。実は元明天皇の後もう一人の女性天皇が即位しています。それが文武天皇の姉に当たる元正天皇でした。

 聖武天皇は24歳の時、伯母にあたる元正天皇から皇位を譲られて即位したのです。ですから聖武天皇にとって元正上皇は頭の上がらぬ存在でした。証拠はないのですが元正上皇はどうも藤原氏が実権を握るのを良く思っていなかったのではないかと見ています。皇族出身の橘諸兄と藤原氏以外の貴族を優遇し藤原氏の力を押さえつけようと考えたのでしょう。一方藤原不比等の娘光明皇后は再び藤原氏の力を取り戻すため一族の俊英仲麻呂に期待します。俗な言い方ですが嫁小姑戦争が巻き起こったようなものでした。

 聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子基皇子が1歳にもならないうちに病死し、それを利用した藤原四兄弟によって長屋王が無実の罪を着せられ滅ぼされた事件がありました。聖武天皇には県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間にもう一人男子がおり安積皇子といいました。聖武天皇は生き残った唯一の男子である安積皇子を後継にしようと考えます。ところが744年16歳の若さで急死してしまいました。世間では光明皇后の意を受けた藤原仲麻呂が毒殺したのではないかと噂します。結局、皇太子には聖武天皇と光明皇后の娘阿倍内親王が選ばれました。

 745年5月、五年の彷徨の末聖武天皇は平城京に戻ります。同年9月知太政官事として太政官を総覧し最高の権威を誇っていた鈴鹿王が亡くなりました。鈴鹿王は武市皇子の子で長屋王の弟でした。鈴鹿王の死で微妙な均衡を保っていた藤原氏と反藤原氏の権力バランスが崩れ始めます。藤原仲麻呂は近江守を兼任するようになりました。近江国は父武智麻呂以来の南家の根拠地で勢力を扶植していたところです。以後失脚するまでの20年間、仲麻呂は近江守を手放しませんでした。

 ここに一人の人物が登場します。橘諸兄の息子奈良麻呂(721年~757年)です。奈良麻呂は藤原系の阿倍内親王の立太子に不満でした。彼は秘かに長屋王の子黄文王を擁立すべく動き始めます。これに同調したのは多治比、小野、佐伯、大伴氏ら藤原氏に押さえつけられている不平貴族たちでした。その背後には元正上皇がいたと言われます。

 746年藤原仲麻呂は大納言になりました。橘奈良麻呂の暗躍を知ってか知らずか、橘諸兄系の官人たちを次々と地方へ左遷します。その一方、自派に属する巨勢堺麻呂、大伴犬養、石川年足らを抜擢するのも忘れませんでした。さらに仲麻呂は東山道鎮撫使という諸国の国司の上位に当たりその地域の軍事警察権を一手に握る役職を設け自らが就任します。

 反藤原派の期待の星元正上皇は748年崩御しました。享年69歳。左大臣橘諸兄の政治力にも陰りが見え始めます。749年聖武天皇は娘阿倍内親王に譲位しました。すなわち孝謙天皇です。朝廷は新たに藤原南家の豊成が右大臣に就任しました。大納言には仲麻呂の他に巨勢奈弖麻呂が選ばれます。

 仲麻呂の長男真従(まより)は彼が最も期待した後継ぎでしたが若くして亡くなりました。そこで長女児従(こより)の婿に藤原北家房前の子御楯を迎えます。娘婿御楯は仲麻呂から期待され後継者と目されました。仲麻呂は聖武上皇の大仏建立を助けますます信任が厚くなります。面白くないのは橘奈良麻呂です。755年、聖武上皇が病に倒れました。奈良麻呂は佐伯全成を呼び黄文王を擁立するクーデターへ参加するよう促します。すでに大伴氏の協力は得ておりあとはいつ実行するかにかかっていました。

 そんな中、奈良麻呂は秘かに右大臣藤原豊成を訪れます。奈良麻呂がクーデター計画を打ち明けた時、驚くべきことに豊成は賛成こそしなかったものの黙認する姿勢を示しました。実は豊成は弟仲麻呂を嫌っていました。叔母光明皇太后が自分より仲麻呂に期待する姿勢が露骨だったからです。豊成は機会あれば弟仲麻呂を失脚させようと思っていました。

 756年、病床に臥していた聖武上皇がついに崩御します。同年長らく朝廷を主導していた橘諸兄が老齢と病気を理由に左大臣を辞任し引退しました。聖武上皇は孝謙天皇の皇太子に天武天皇の孫にあたる道祖(ふなど)王を立てるよう遺言します。道祖王の父新田部親王の母は藤原不比等の娘で藤原氏の血を引く数少ない王族です。ただこの人事は橘奈良麻呂にとっても藤原仲麻呂にとっても不満でした。そこで仲麻呂は孝謙天皇を動かし道祖王に不行跡があるとして皇太子を剥奪、新たに天武天皇の孫大炊王を皇太子にします。大炊王は後の淳仁天皇です。

 756年6月、橘奈良麻呂は右大弁に任ぜられます。右大弁は従四位上相当の官職で後の官制では少納言より上位、参議になる一歩手前の高官でした。757年右大臣藤原豊成の黙認を得た奈良麻呂は、同志大伴古麻呂、小野東人らと共に密謀を重ねます。ところが長屋王の子でクーデター成功後は政府首班に加えられる予定だった山背王は、失敗したら死刑になると恐れをなし仲麻呂に「橘奈良麻呂らに陰謀がある」と訴え出たのです。

 仲麻呂側の行動は素早く、首謀者の一人小野東人を逮捕、拷問にかけます。東人は拷問に耐えかねすべてを白状しました。藤原仲麻呂を殺した後皇太子を廃し、駅鈴と御璽を奪い右大臣藤原豊成を通じて天下に号令し、孝謙天皇を退位させ塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から次の天皇を出すというものでした。

 小野東人の自白をもとに橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、佐伯全成らが一斉に逮捕されます。佐伯全成は拷問に耐えかね自害。孝謙天皇はさすがに死刑にするのをためらい流罪にするよう勧告したそうですが、仲麻呂は彼らを許すつもりは毛頭ありませんでした。全身を訊杖で何度も打つ拷問を受け次々と獄死します。黄文王ら皇族に対してすらこの仕打ちですから仲麻呂の冷酷さが表れています。

 仲麻呂は、兄豊成の関与も疑い何とか証拠を探したそうですが見つからず右大臣を罷免し大宰府員外帥に左遷しました。事実上の流罪です。これを見ると、仲麻呂は兄弟や一族からも嫌われていたことが分かります。いくら有能でも孤立したら末路は悲惨です。一連の事件は橘奈良麻呂の変と言われますが実態は未然に防がれ不発に終わったと言えます。

 政敵橘奈良麻呂の自滅という形で権力の絶頂期を迎えた藤原仲麻呂ですが、すでに孝謙天皇との関係は隙間風が吹き始めていました。次回藤原仲麻呂の失脚と敗死を語ることにしましょう。

2021年10月22日 (金)

奈良朝の風雲Ⅴ 大仏開眼

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 聖武天皇(在位724年~749年)という人は、父方の曽祖父天武天皇、母方の曽祖父天智天皇と比べると精神的な弱さをどうしても感じてしまいます。藤原広嗣が九州で反乱を起こすと、その鎮圧の報告が届く前に平城京を逃げ出しました。都を出た理由は、広嗣の乱に畿内の不満分子が呼応して蜂起するのを恐れた説、東国には軍団制の廃止で防人から帰還し動員可能な兵士が数多く存在し不安定要因になっていたのでそれを鎮めに行った説など様々な理由が古来から言われています。その中で私が一番しっくりいったのは藤原広嗣の乱に代表されるように聖武天皇や朝廷を執権する橘諸兄に対する国民の非難に動揺したという説です。

 740年に出奔してから平城京に帰還するまで実に5年、これを彷徨五年と呼ぶそうです。聖武天皇が貴族や民衆の蜂起をどれだけ恐れたかは、行幸を護衛する武官を臨時に任命したことでも分かります。まず御先(みさき)長官に塩焼王、前騎兵大将軍に藤原北家の藤原仲麻呂、後騎兵大将軍に紀麻呂を任命しました。彼らは諸国から動員された行幸騎兵を指揮して聖武天皇を護衛します。

 ここで藤原仲麻呂(706年~764年)という人物が初めて登場しますが、実は彼を抜擢したのは叔母の光明皇后だったとも言われます。光明皇后は仏教に深く帰依し慈悲深い女性だったというエピソードが数多く残っていますが、それとは別に藤原一族の娘という側面もありました。皇后は、兄たちである藤原四兄弟の天然痘による急死で一族の勢力が失われるのを恐れたのです。しかも式家の藤原広嗣は反乱を起こした逆賊。対応次第では藤原一族全体が没落する危険性もありました。

 彼女は藤原家嫡流南家で亡き武智麻呂の次男仲麻呂に期待します。仲麻呂は幼少期より俊英の評判高く藤原一族を仲麻呂なら再び興隆に導いてくれると思ったのでしょう。聖武天皇も仲麻呂だけは信頼し護衛部隊の指揮官に起用しました。彷徨の後戻ったのは平城京ではなく山城国相楽郡恭仁京でした。天皇の行幸には朝廷の高官も従ったのでさながら政府が移動していたようなものです。朝廷の諸官にとっても領民にとっても迷惑以外の何物でもなかったでしょう。

 聖武天皇は世が乱れているのは自分のせいではなく何者かによる悪行や天魔の所業だと思いました。古代シナの古い言い伝えでは世が乱れるのは時の政治が悪いからだと言われています。天が悪政を戒めるために天災を起こすという考えです。この言葉を聖武天皇に言い聞かせたいくらいです。聖武天皇は、仏教による国家鎮護を考えました。741年、全国に国分寺、国分尼寺の建立を命じます。

 そして743年、全国の国分寺、国分尼寺の総本山として奈良に東大寺大仏殿の建立を発願しました。とはいえ準備に時間がかかり実際に盧舎那仏(俗にいう奈良の大仏)の造像が始まったのは745年。752年に開眼供養会が実施されます。大仏には莫大な銅が必要です。その調達にも時間がかかりましたが、一番の悩みは完成した仏像の表面を覆う金でした。749年陸奥から発見された黄金の献上があり、聖武天皇は天平感宝と改元するほど喜びました。

 聖武天皇は749年7月、娘阿倍内親王に譲位します。すなわち孝謙天皇です。ですから752年の開眼供養会の時は上皇でした。盧舎那仏とそれを囲む大仏殿建造に延べ260万人が動員されたそうです。総工費は現代で換算すると4600億円以上でした。開眼供養会には聖武上皇、光明皇太后はじめ文武百官、国内外から1万人の僧が参列します。まさに一大国家行事でした。大仏建立で一つの時代は終わりました。聖武上皇は756年まで生きますが、時代は孝謙天皇、そして頭角を現した藤原仲麻呂を中心に動き始めます。

 

 次回は藤原仲麻呂の台頭を描きましょう。

2021年10月21日 (木)

奈良朝の風雲Ⅳ 藤原広嗣の乱

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 日本人の8割は自称も含め源平藤橘のどれかを先祖とするそうです。藤原氏は藤原鎌足が祖、平氏は桓武天皇を祖とします。源氏の場合は一番有名なのが清和天皇を祖とする一族ですが、他にも嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏など数多く存在します。そして橘氏の祖が今回登場する橘諸兄(たちばなのもろえ 684年~757年)でした。

 橘諸兄は敏達天皇の後裔で初名を葛城王という皇族でした。その後臣籍降下し橘朝臣姓を貰います。長屋王の変までは目立たぬ存在でしたが、長屋王の横死を受け729年参議となりました。737年天然痘の大流行で当時政治を主導していた藤原四兄弟はじめ多くの公卿が亡くなったため、朝廷に出仕できる者が参議の鈴鹿王と橘諸兄だけになります。そこで朝廷は鈴鹿王を知太政官事、諸兄を大納言に任命し政治を行わせました。翌738年諸兄は正三位右大臣(三位で右大臣は異例)に昇進します。

 鈴鹿王は朝廷の最高位ではあっても名誉職的意味合いが強く、実際は橘諸兄が朝廷を動かすことになりました。諸兄は聖武天皇に上奏し遣唐使として渡唐の経験がある吉備真備(695年~775年)や僧玄昉(?~746年)を抜擢、ブレーンとして登用します。吉備真備らは下級貴族出身でしたが唐の先進的な学問を学び非常に有能でした。739年従二位に昇叙されると、諸兄は自派の側近である県犬養石次(あがたのいぬかいのいわすき)、大野東人(おおののあずまびと)、巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)、大伴牛養(おおとものうしかい)を次々と登用し、政権の盤石化を図りました。

 こうなると面白くないのが藤原氏です。一応諸兄政権には嫡流南家武智麻呂の長男豊成が参議として入りますが、不比等三男宇合の式家嫡男広嗣(713年~740年)はまだ25歳と若いこともあって従五位下と低い位階に留め置かれました。さらに広嗣は新羅征伐論を主張する最強硬派で、疫病で疲弊した内政を立て直すため緊縮財政を進めている諸兄政権とは相容れず、式部少輔、大和守から738年大宰少弐(大宰府の三等官)に左遷されます。ただ、これを左遷とみるか九州の最前線に行って現実を見るようにという親心から出た人事かは意見が分かれます。

 広嗣本人は左遷人事だと受け取りました。恨みを募らせた広嗣は任地九州で秘かに兵を集め始めます。そして740年朝廷に対し「昨今の天変地異の元凶は政治を蔑ろにしている吉備真備、僧玄昉らの責任である。二人を追放すべきだ」という上奏文を送りました。さすがに元皇族の橘諸兄を直接攻撃するのを避けたのは広嗣に遠慮があったのか、それとも精神の弱さなのか?これが例え皇族であろうと政敵なら徹底的につぶすという父宇合らとの違いだったのかもしれません。名門の御曹司として何苦労無く我儘いっぱいに育った若造の限界だったのでしょう。

 当然広嗣の上奏は拒否されます。そればかりか、聖武天皇は広嗣に対し召喚の勅諚を出しました。740年9月、広嗣は弟綱手と共に大宰府の手勢、薩摩の隼人族ら1万人の兵を動員し朝廷に対し反乱を起こします。奈良時代の人口は500万人から600万人くらい(800万人という説も)と言われますから、これは驚異的な数でした。戦国時代なら3万人から5万人くらいに匹敵します。

 朝廷は大野東人を征討大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任命し東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道から1万7千の兵力を動員し鎮圧に向かわせました。筑前国遠賀郡に本営を築いた広嗣は、関門海峡に近い登美、板櫃、京都(みやこ)の三郡鎮に兵を入れ守りを固めました。広嗣は平城京で広嗣に同調する貴族や官人たちの蜂起を期待したと言われますが、現実はそう甘くなく誰しも命あっての物種で反乱に加わる者はいませんでした。

 これに対し征討大将軍大野東人の行動は早かったと言えます。9月21日長門国に到着すると間髪入れず渡海、広嗣派の三郡鎮を急襲しました。油断していた広嗣軍は大混乱に陥り降伏、1767人が捕虜となります。一方反乱軍は総大将藤原広嗣が大隅、薩摩、筑前、豊後の兵5千人を率い鞍手道から、弟綱手は筑後、肥前の兵5千人を率い豊後道、多胡古麻呂が田河道を進み三方から官軍を包囲殲滅する作戦でした。

 しかし戦場となった豊前国では官軍に対する寝返りが続出します。というより大宰少弐という権威と藤原氏という威光で嫌々集められただけの人々にとっては広嗣に忠誠心など有りません。しかも官軍に逆らえば死刑が待っているわけですから当然の行動でした。両軍は板櫃川(北九州市)を挟んで激突します。反乱軍は隼人を先頭に筏を組んで強行渡河を試みました。これに対し官軍は弩を発射し防ぎます。官軍の将の一人佐伯常人(さえきのつねひと)は自軍の中にいた隼人を通じて敵側の隼人に投降を促しました。これが功を奏し反乱軍の隼人は弓を射るのをやめます。

 その上で、敵将広嗣を呼び出しました。「なぜ反乱を起こしたのか?」という問いかけに対し広嗣は「私はただ君側の奸である吉備真備と僧玄昉を除くよう求めただけだ」と答えます。「ならば軍兵を率いず自ら朝廷に出向いて訴えれば良いではないか」と言われた広嗣は返答に窮し本陣に引きこもります。

 板櫃川の戦いは反乱軍の敗北に終わり、広嗣は逃亡します。肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)にわたり、そこから新羅に亡命するつもりだったようですが、済州島の近くまで来て強風で船が進まなくなり逆に五島列島へ吹き戻されました。五島列島の北端宇久島に潜伏していた広嗣でしたが、追捕してきた安倍黒麻呂に捕らえられます。11月1日連行されてきた広嗣、綱手兄弟は肥前国唐津で処刑されました。これが藤原広嗣の乱の顛末です。

 その影響は大きく聖武天皇は鎮圧の報告が入る前、反乱が他の藤原一族に波及するのを恐れ突如東国に下ると宣言し平城京を逃げ出しました。伊賀、伊勢、美濃、近江と巡った天皇は山城国恭仁京に移ります。その後も一時的に平城京に戻ったり難波京に遷都したりと落ち着きませんでした。この反乱に連座し死刑16名、没官5名、流罪47名、徒罪(現在の懲役に当たる)32名、杖罪177名の処分が下ります。広嗣の弟たちも多くが流罪となり式家は聖武天皇から孝謙天皇時代南家や北家の後塵を拝するようになりました。

 

 日本全土に猛威を振るった天然痘、そして藤原広嗣の乱は聖武天皇の心をかき乱すのに十分でした。彼は社会の混乱を鎮めるため仏教に救いを求めようと考えます。次回、東大寺盧舎那仏建立の経緯を記しましょう。

2021年10月20日 (水)

奈良朝の風雲Ⅲ 藤原四子政権

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 左大臣長屋王の失脚により朝廷の公卿の入れ替えが行われます。まず大納言多治比池守が730年老齢により没しました。その後任として大宰府から呼ぶ戻された大伴旅人も一年後病死。位階は高くとも名誉職の意味合いが強い皇族の舎人親王、新田部親王は別格として、長屋王の変をうけ藤原武智麻呂が大納言に昇進します。中納言には阿部広庭、参議には引き続き藤原房前がいたものの、新たに藤原四兄弟三男式部卿藤原宇合、同じく四男兵部卿藤原麻呂が参議に列せられます。9人の公卿のうち実に4人が藤原四兄弟で占められたのです。彼らは光明皇后の威光を背景に絶大な力を発揮しました。これを藤原四子政権と呼び729年から737年まで続きます。734年には武智麻呂が右大臣に昇進、藤原一族を掣肘しうる皇族の舎人親王、新田部親王が相次いで亡くなったため朝廷内で四兄弟に逆らえるものはいなくなりました。

 当時の朝廷は、平安期の摂関政治と違い国家の重要事で最終決断を下すのは天皇です。ただ聖武天皇の皇后光明子は四兄弟の妹でしたので、彼女を通じて天皇の決断を促すことは可能でした。

 一応、四兄弟も私利私欲に走ることなく善政を心掛けたのでしょうが、長屋王の変前後から日本国内は混乱し強盗・海賊が横行するようになります。山陽道方面では死者を祭って大衆に邪教を説く者もあらわれました。さらには平城京の東でも数千から数万に達する民衆を集め妖言する者まで出てきます。ただし、都の東郊で妖言する者とは僧行基のことでした。行基は668年河内国大鳥郡の豪族高志氏の子として生まれ14歳で出家、薬師寺に籍を置きます。しかし、大寺院に籠って仏道修行するのに飽き足らず、禁を犯して村里に出て仏法を説くようになりました。

 最初は警戒していた朝廷も、行基が数万人を集めて説法するのを見ると反乱を起こされれることに恐れをなしたのか「行基法師に随行するもので法を守るものに限り僧尼になることを許す」と宣言せざるを得なくなります。こうして行基は朝廷に認められた行基法師となりました。光明皇后が仏道に帰依し保護したのも大きかったと思います。行基は聖武天皇が後に東大寺盧舎那仏建立を決意すると、大仏造営の勧進(寺院を建立するとき人手を集めたり、広く民間から寄付を集めること)に起用されました。行基は見事に期待に応え数万人の労働力と莫大な寄付を集めたそうです。この功績で行基は大僧正に任命されます。

 国内の治安悪化に対しては各地に鎮撫使、畿内に惣管を設置し治安維持に努めました。光明皇后も藤原一族が不比等から相続した莫大な封戸(食封ともいう。朝廷から与えられた私的な領地の事)のうち庸(律令制の税法の一つ。賦役の代わりにものを収めること)を除いた分から薬草を購入し民間の治療にあたる施薬院を設けます。

 732年、惣管、鎮撫使の役職は唐風に節度使と改称されました。東海・東山両道の節度使に藤原房前、山陰道に多治比県守、西海道に藤原宇合が任命されます。節度使は唐と同じく治安維持の他に軍権まで有する強大な権限を持っていました。四兄弟政権は奥羽に対する進出にも本腰を入れます。また関係の悪化した朝鮮半島の新羅との戦争に備えるなども行いました。

 ところが、皮肉なことに新羅からの侵略は物理的なものではなく疫病でした。735年朝鮮半島に近い北九州で謎の疫病が流行り死者が多数出ているという報告が朝廷にもたらされます。どのように発症したかははっきりしませんが、一説によると野蛮人の船から疫病をうつされた一人の漁師によって広まったとも言われました。天然痘です。疫病は猛威を振るいまもなく日本全土に拡大しました。当時の全人口の2割から3割が失われたと言われ農民が数多く犠牲になったことから農業生産が激減し飢饉が起こります。これを天平の疫病大流行と呼ぶそうですが、735年から737年まで続きました。

 天然痘は貴賤の別なく広がり、朝廷を主導していた藤原四兄弟の武智麻呂、房前、宇合、麻呂が737年同時に天然痘で亡くなるという悲劇に見舞われます。口の悪い者の中には、無実の罪で陥れられた長屋王の祟りだと噂する者もいたとか。朝廷の首脳が一気にいなくなったので、後任は生き残った者たちが担当するしかなくなります。その中で頭角を現したのは皇族出身の橘諸兄でした。

 聖武天皇も天然痘の大流行と同時に起こった飢饉で多数の犠牲者を出したことに衝撃を受け仏法に頼って国難を打破することを考え始めます。741年聖武天皇は仏法による国家鎮護のため各国に国分寺、国分尼寺を建立し都には東大寺盧舎那仏を造営することを決意しました。

 

 次回は橘諸兄政権と藤原広嗣の乱について語りましょう。

 

 

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