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カテゴリー「 日本史」の記事

2020年11月 1日 (日)

伊予西園寺氏

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 マイナーな日本史記事が続きまして申し訳ございません。いつものごとく興味のない方はスルーお願いします。

 

 実は前々から気になっていた事でして、伊予の戦国大名西園寺氏って堂上貴族清華家(五摂家に次ぐ家格、極官太政大臣)の西園寺家の一族ではないかと思い今回調べてみるとその通りでした。

 鎌倉時代末期、内大臣西園寺実衡の庶子公良(きんよし)が所領のある伊予国宇和庄に下向し武士団化したのが始まりだそうです。もともと宇和庄は橘家の所領だったと言われます。ところが平安末期から鎌倉時代初期の太政大臣西園寺公経(きんつね、西園寺家の実質的な祖)が幕府に運動し強引に奪ったのが始まりでした。宇和庄は宇和郡の大部分を占めるのでしょう。このあたり愛媛県の郷土史に詳しくないのでご存知の方はご一報ください。

 現在の愛媛県にあたる伊予国は太閤検地で37万石ある大国です。律令での区分は上国にあたり四国随一の豊かな国でした。他の讃岐、阿波は20万石前後、土佐に至っては10万石弱です。江戸期に土佐を支配した山内家が22万石と称したのは無理に無理を重ねた結果で、厳しく検地し幕府が大名の格式や軍役を定めた表高と実質的な収穫高である実高の差は殆どなかったと言われます。余談ついでに言うと、土佐藩山内家は22万石の格式を守るために領民を苛斂誅求しその不満を土佐郷士が爆発させ維新に繋がったのでしょう。

 実は宇和郡だけで土佐一国に相当する10万石あります。江戸期伊達政宗の庶長子伊達秀宗がこの地に入部した時も10万石でした。伊予と言えば水軍で有名な河野氏がいますが、他に大洲城を中心に喜多郡に勢力を張った伊予宇都宮氏などがいます。豊かで統一勢力がない国は戦国時代周辺大名の草刈り場になりがちですが、伊予国も例外ではなく中国の毛利氏、土佐の長宗我部氏の侵略を受けました。

 隣国土佐にも中村御所一条氏がいましたが、公家出身の大名というのはおっとりしていたのか我が物顔で所領を奪う戦国大名にはなりにくかったのでしょう。伊予西園寺氏最後の当主公広(きんひろ 1537年~1588年)は、家督を継ぐと1568年河野氏、中国の毛利氏と結んで伊予宇都宮氏、土佐一条氏、津野氏らと鳥坂峠の戦いで勝利するなど活躍しますが、1572年逆に一条兼定を攻めた時には兼定と姻戚関係にある豊後の大友宗麟に攻められ大敗しています。そして1584年長宗我部元親の侵攻を受け降伏しました。さらに翌1585年には豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景に攻められ降伏しています。

 踏んだり蹴ったりの伊予西園寺氏ですが、不幸はまだまだ続きます。秀吉の四国仕置きで所領を没収、伊予の支配者となった小早川隆景に従いました。その後秀吉の家臣戸田勝隆が宇和郡7万石の領主として入部します。勝隆は武断政治で臨み西園寺公広と家臣たちに住んでいる城からの退去を要求、公広は九島の願成寺に隠居しました。

 勝隆の武断政治は領民の反発を受け旧西園寺家臣を中心とした大規模な一揆が起きます。鎮圧に苦慮する勝隆は、公広が背後で操っていると邪推し、「毛利氏の斡旋で公広に本領安堵の朱印状が出た」と嘘をついて公広を自邸に招きました。公広も罠だと知りつつ、逆らってもいずれ殺されると覚悟します。公広自身は一揆とは無関係だったとされますが、饗宴中に戸田家の刺客に襲われ包囲され自刃します。同行していた公広の家臣50名も壮絶な斬り死にしたそうです。

 とばっちりを受けたのは、同じく伊予の旧領主であった伊予宇都宮氏の一族で、戸田勝隆は伊予西園寺氏、伊予宇都宮氏という旧勢力をことごとく滅ぼしたことになります。

 似たような話は伊予宇都宮氏と同族の豊前宇都宮氏(城井氏)にもあります。こちらは黒田如水、長政親子に謀殺されました。おそらく全国で豊臣大名による旧支配層の粛清が行われたのでしょう。戦国時代を生き残るのは本当に難しいと実感します。

2020年10月31日 (土)

常陸大掾(だいじょう)氏

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 最近の日本史記事はマニアックで本当に申し訳ございません。興味ない方が大半だと思うのでスルーお願いします。

 常陸(現在の茨城県の大部分)大掾氏は平安時代以来の歴史を誇る名門です。その家祖は桓武平氏の嫡流になった常陸太郎貞盛の弟繁盛。懐かしのNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』では一文字隼人(仮面ライダー2号、佐々木剛)が演じてました。そういえば兄貞盛は大岡越前の将軍様(吉宗)役山口崇が演じてましたな。兄弟の父で将門の父良将の土地を横領し関東騒乱の元凶となった国香役は三代目黄門様の佐野浅夫。主人公将門は大岡越前の加藤剛。国香の弟(将門の叔父)で房総平氏の棟梁良兼に長門勇、その弟良正は蟹江敬三と味のある俳優ばかりでした。もう一人の主人公藤原純友も緒形拳!風と雲と虹とは私が大好きな作品で、歴代NHK大河でも三本の指に入る大傑作だと思います。

 それはそうと貞盛の子孫が官途に就いて常陸を出て行ったため、常陸平氏は繁盛の子孫が継承しました。ちなみに貞盛の子孫から伊勢平氏の平清盛、伊豆の北条氏が出ています。大掾というのは常陸国府の三等官です。日本史で「かみ すけ じょう さかん」という言葉を習ったと思います。国府で言うと「かみ」が長官の国守、「すけ」が次官で介と書きます。ただ常陸においては大掾が次官でした。というのも常陸、上野、上総の三国は親王任国といって国守に親王が任ぜられ地方には赴任しないため、実質次官である介が長官だったからです。

 常陸は太閤検地で53万石という大国だったため三等官の掾に大掾と少掾の二人を置きました。平安時代中期から繁盛の子孫が大掾氏と称したかは疑問ですが、少なくとも鎌倉幕府を開いた源頼朝によって常陸大掾職を与えられ以後独占したために大掾氏を称しました。ただ隣国下野から入った宇都宮一族の小田氏、常陸北部に勢力を持つ常陸源氏佐竹氏がいたためにその支配地域は国府のあった現在の石岡市を中心に常陸中部に限定されます。

 大掾氏のような歴史を持つ古い家は戦国期になると衰えるものですが、大掾氏も例外ではなく佐竹氏や水戸地方に興った江戸氏、小田氏の勢力に押され衰退しました。常陸では佐竹、大掾、太田などが上杉派、小田氏が後北条派で抗争を繰り返します。ところが佐竹陣営の中でも争いが発生し大掾氏は江戸氏と合戦に及びました。

 豊臣秀吉が後北条氏を攻めると、要領の良い佐竹義重はいち早く小田原に参陣し秀吉から本領安堵のお墨付きを得ます。ところが大掾氏は時勢が読めず参陣しなかったため戦後領地を没収されました。佐竹義重が狡猾なのはこの時大掾氏や江戸氏の所領も自分の領地だと秀吉に申告していたことです。このあたり津軽為信とそっくりですね。義重は秀吉の朱印状を盾に大掾清幹に領地明け渡しを要求。拒否されると待ってましたとばかり府中城を攻撃します。多勢に無勢、清幹は自刃し平安中期以来の歴史を誇る大掾氏は滅亡しました。1590年の事です。

 さらに義重の息子で家督を継いだ義宣は、大掾氏の一族だった行方、鹿島氏ら三十三館主を居城太田城に招き、そこで謀殺します。やり口がえげつないですが、秀吉のお墨付きという大義名分を最大限利用した佐竹親子の作戦勝ちだとも言えます。戦国時代を生き残るのは本当に難しいですね。

2020年10月20日 (火)

摂津晴門とは何者か?

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 NHK大河ドラマ麒麟がくるに片岡鶴太郎演じる摂津晴門なる人物が登場しましたね。恥ずかしながらこの人物、どのような人物か全く知りませんでした。昔名前くらいは聞いたことある程度。大河ドラマでは織田信長と将軍足利義昭対立の元凶になりそうな感じですが、史実ではどうなのか気になりました。

 摂津晴門は義昭が将軍就任すると幕府の政所執事に任じられます。私の認識では室町幕府政所執事は代々桓武平氏維衡流の伊勢氏が世襲してきたという認識でした。応仁の乱時の伊勢貞親が有名ですよね。では摂津氏は何をしていたかというと幕府引付衆の管轄下にある官途奉行を世襲していました。官途奉行はその名の通り幕府御家人の叙位任官を職掌とした役職です。政所執事と官途奉行のどちらが上かというと、当然政所執事の方がはるかに上です。政所執事は伊勢氏が世襲し、次官の執事代は松田氏と斎藤氏が世襲しました。その次の政所代はアニメ一休さんの新右衛門さんで有名な蜷川氏が独占します。

 摂津氏は中原氏の後裔だそうです。中原氏と言えば源頼朝の幕府創建を助けた中原親能、その弟で大江氏に養子に行った大江広元が有名です。ちなみに中原親能の子孫から豊後大友氏や築後三池氏、肥後鹿子木(かのこぎ)氏などが出ています。摂津氏は親能とは遠い一族でしたが、師員が親能の養子になったことで幕府に仕えることになったのでしょう。

 室町幕府政所執事は伊勢氏がほぼ独占しますが、いくつか例外があり八代将軍義政の時代に一時二階堂忠行が就任しています。ではなぜ摂津氏が政所執事になれたかですが、どうも当時の政所執事伊勢貞孝が将軍義輝時代幕府内の権力争いに敗れ失脚したのが原因のようです。貞孝は近江六角氏と結んだことで将軍義輝、三好長慶双方から憎まれ更迭、京都船岡山で挙兵するも三好配下の松永久秀に追討され近江杉坂まで逃げそこで戦死したそうです。

 摂津晴門は、伊勢氏が居なくなったので政所執事になれたと言えます。しかも彼の息子糸千代丸は義輝が三好一党に殺された永禄の変の時二条御所に詰めていたそうで、一緒に戦死しています。わずか13歳だったそうです。ですから、この時の論功行賞だったのかもしれません。大河ドラマでは大きな権力を握りそうですが、実際はこの時室町幕府は形骸化しておりそこまでの力はなかったと思います。しかも、間もなく将軍義昭と仲違いし逼塞を命じられます。後任には伊勢一族の貞興(貞孝の孫)が任じられていますから、晴門の政所執事の期間は1568年から1571年までのわずか3年でした。

 1572年には記録が無くなっていますから、この時死去したか引退したと言われます。大河ドラマでは最後まで生き残りそうですけどね。分かりやすい悪役として便利使いされそうですが、実際の晴門はそこまで奸悪な人物ではなかったように思えます。

2020年10月19日 (月)

下間(しもつま)氏と七里頼周(しちり よりちか)、本願寺の坊官たち

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 本日に記事は非常にマニアックなので日本史や戦国時代に興味のない方はスルーお願いします。

 

 さて何回も話したと思いますが、私の悪い癖は一つの記事を書くとその関連項目も調べたくなる事です。その時は集中しているんですが、熱しやすく冷めやすいためすぐ忘れてしまいます。ですから過去記事を読み返してみると、よくこの時ここまで調べたなと自分で感心するくらいです(苦笑)。

 それはともかく、皆さん戦国時代をテーマとしたゲームをしているとき、本願寺勢力の武将として下間某とか七里頼周とか坊さんの格好をしながら結構能力の高い武将(特に政治力)が出ているのを見た経験があると思います。あの人たちは何者だろうと疑問に思いませんでしたか?一般には僧兵の親玉の類だろうと理解しておられると思います。私も最初はそうでした。

 でも調べてみると、この人たちの出自は立派な武士でした。大和国でいうと興福寺の武力を担当した筒井氏や越智氏のような衆徒にあたります。本願寺のような大寺院の場合は坊官というのがそれに当たります。ただ興福寺の衆徒が主に武力を担当したのに対し坊官は俗世でいうところの政所に当たる統治機関でした。石田三成の親友として有名な大谷吉継も坊官出身だという説があります。

 本願寺においては下間(しもつま)氏が、坊官のトップである別当など要職を独占しました。下間氏はもと下妻氏と言い、面白いエピソードがあります。鎌倉時代初期承久の乱勃発前、摂津源氏源三位頼政の孫にあたる源頼茂という人物がいました。頼茂は正五位下右馬権頭という官位を持ち朝廷の内裏守護の任にありながら鎌倉幕府の信任も厚く在京御家人として朝廷と幕府を仲介する役目も担っていました。

 幕府に反感を抱く後鳥羽上皇にとっては疎まれる存在で、挙兵前無実の罪を着せられ上皇の命を受けた北面の武士たちによって在所のあった昭陽舎を急襲されます。奇襲でしたから応戦の暇もなく自害して果てました。一説では上皇の倒幕計画を察知したため幕府に報告される前に先手を打ったとも言われます。

 頼茂の一族に宗重という人物がいました。この人物も源三位頼政の曾孫にあたります。大叔父頼茂が無実の罪で討たれ宗重もこれに連座し処刑されそうになります。そこにたまたま浄土真宗の開祖親鸞聖人が通りかかりました。親鸞聖人は宗重の冤罪を知っていたかどうか知りませんが、朝廷の役人に処刑の非を説き出家させるという条件で許されます。こうして宗重は親鸞聖人の弟子蓮位坊となりました。

 親鸞聖人は東国伝道に赴き常陸国下妻に一時庵を構えました。同道していた蓮位坊はこれを記念し下妻氏と名乗ったそうです。出家していた者がどうして俗世の姓を名乗るのか疑問ですが、下妻氏は後に下間氏と名を改めます。これが下間氏の始まりだとされます。どこまで真実なのか非常に怪しいですが、蓮如によって本願寺教団が成立すると下間氏もこれに従い坊官として教団の実務を担当することになりました。

 戦国時代一向一揆が起こると、本願寺は指導者として坊官の下間氏を各地に派遣します。朝倉家の記事で出てきた下間頼照、頼俊は戦国の世ですから一向一揆を指導した経験があるのでしょう。並みの武士も顔負けの戦争指導をしたと思われます。ただ一揆衆にとっては本願寺から派遣され頭越しに命令されるのは面白くなかったかもしれません。一向一揆の本場加賀や越前でも最初に蜂起した一揆の指導者たちには煙たがられました。

 本願寺の坊官と言えば他に七里頼周が有名です。頼周は下間氏と違い下級武士青侍の出身でした。本願寺顕如に大抜擢され顕如の命令で加賀一向一揆の指導を命ぜられます。頼周は加州大将として加賀一向一揆を指導したそうですから、エリート層の下間氏とは違い地元の一揆指導者たちとの関係は当初良かったのでしょう。ただ育ちが悪いのか権力を握ると次第に横暴な態度が目立ち門徒の人望を失います。石山本願寺の坊官下間頼廉に加賀門徒から頼周に対する弾劾状が送り付けられるという騒ぎにまで発展し加賀一向一揆は内紛で分裂します。これを見ていた織田信長は天正三年(1575年)、越前一向一揆を討つため大軍を派遣しました。

 内部分裂でまとまった抵抗が出来なくなっていた一揆勢は織田軍に簡単に敗北、越前の一揆を指導していた下間頼照は討ち取られます。七里頼周は加賀まで逃げ戻ったそうですが、翌年織田軍に敗北し戦死したとも、味方に裏切られて殺されたとも言われ最期がはっきりしません。

 下間氏にしろ七里頼周にしろ戦国時代の仇花だったのかもしれません。

2020年10月12日 (月)

朝倉家の人々

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 南北朝以来の歴史を誇り、越前の一介の国人から応仁の乱で活躍し越前守護職まで昇りつめた朝倉氏。戦国大名への脱皮にも成功し越前を中心に大きな勢力を誇ります。ところが最後の当主義景は凡庸で大きな選択をいくつも間違えたため天正元年(1573年)織田信長によってあっさりと滅ぼされました。

 朝倉義景自身の資質もあったのでしょうが、滅亡の原因は朝倉一族や重臣たちの失態も大きかったと思います。それでは彼らがどう動いたのか見ていきましょう。

 

【朝倉景恒】

 朝倉家では一門衆である同名衆が大きな力を持ちます。中でも朝倉宗滴の子孫である敦賀郡司家と大野郡司家が筆頭でした。景恒は最後の敦賀郡司です。朝倉家では最も早く没落しました。元亀元年(1570年)織田信長の侵攻を受け金ケ崎城に籠城するも降伏勧告を受けあっさりと開城します。これが家中の非難の的となり永平寺に遁世、病死しました。

 

【朝倉景鏡】

 大野郡司家最後の当主です。義景とは従兄弟に当たります。同名衆筆頭として当主義景の政策に批判を続け、1573年織田軍が侵攻した最後の戦いでは病気と称し出陣を拒否。さらに一乗谷が危なくなると、義景に自分の本拠大野郡への逃亡を勧めます。ところがそこで裏切り義景に自害を強要、義景の首を土産に信長に降伏しました。

 降伏後土橋信鏡と改名、信長から越前支配を任されますが、一向一揆が起こると朝倉家の裏切り者として標的になり平泉寺に籠城するも戦死します。一説では一揆勢に捕らえられ息子と共に処刑されたとも言われます。どちらにしろ裏切り者の末路としてふさわしい最期でした。

 

【朝倉景健】

 姉川の合戦では朝倉軍の総大将を務めます。家格としては敦賀郡司家、大野郡司家に続く家格だったそうです。朝倉家が滅亡すると織田信長に降伏、所領を安堵されます。ところが間もなく起こった一向一揆では一揆勢に降伏。織田軍が逆襲に転じると、一揆勢を指揮していた本願寺の使僧、下間頼照、下間頼俊の首を手土産に再び信長に降伏を請いました。しかし許されるはずもなく信長の命で自害させられます。こんな人物を朝倉勢の指揮官にせざるを得ないんですから、朝倉家の人材不足は深刻ですね。

 

【前波吉継】

 朝倉家重臣筆頭。朝倉家最後の戦いで一族の景鏡は病気を理由にしましたが吉継はさらに酷く出陣を公然と拒否します。そればかりか織田軍にさっさと寝返り越前の案内役をするという厚顔無恥さでした。滅亡後、景鏡と共に越前守護代として越前支配を任されますが、同じ降伏組の富田長繁を重用しなかったため恨みを買い、一向一揆を起こされます。富田長繁率いる一揆勢に一乗谷を攻められ逃亡を図るも失敗。一揆勢に捕らえられ処刑されました。

 

【富田長繁】

 裏切り者揃いの朝倉家中でも極めつけの人物でしょう。朝倉家滅亡後府中領主に任じられますが、守護代になった前波吉継(桂田長俊と改名)との待遇の差に不満を抱き加賀の一向一揆を引き入れました。一揆は成功し一時は越前を支配しますが、今度は一揆内での地位に不満を抱きます。一揆内で主導権を奪おうと画策しますが、合戦中に仲間の小林吉隆に裏切られ背後から鉄砲で射殺されました。これも裏切り者の末路にふさわしい最期だと言えます。

 

【山崎吉家】

 NHK大河では榎木孝明さんが演じていますね。裏切り者揃いの朝倉家では比較的ましな人物です。天正元年(1570年)信長の越前攻めで退却する朝倉軍本隊を守るため殿を務めました。そこで衆寡敵せず戦死。意地悪な見方をすると裏切る時間的余裕がなかったとも言えます。酷な見方でしょうが…。

 

 こうしてみると朝倉家には碌な人物がいませんね。滅亡する家はこういうものなのでしょう。

2020年8月26日 (水)

支那事変における『点と線』批判に対する再批判

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 1937年盧溝橋事件から始まる支那事変。上海、南京、北京、武漢三鎮と重要都市を占領したものの、蒋介石政権が四川省重慶に立て籠もって徹底抗戦したため泥沼化。国府軍(国民政府の国民革命軍)は精強な日本軍に対抗できないため正面からの衝突を避けゲリラ戦に徹し日本軍は広大な支那大陸で点(都市)と線(都市間を結ぶ補給線)しか維持できず、大東亜戦争勃発で次第に支那戦線の重要性は薄れ1945年8月15日の終戦とともに支那でも戦闘が終わったと皆さんは理解していると思います。

 大筋では間違いなんですが、『点と線』に関して軍事に関し学べば学ぶほど批判が的外れでむしろ当然ではないかと理解するようになりました。日本陸軍の支那派遣軍は70万人から80万人くらいで推移し終戦時でも105万人ほどしかいませんでした。近代戦では後方の警備兵をいかに少なく配備し前線に全勢力を集中できるかがカギで、必ずしも面を支配する必要はないばかりか、面支配にこだわればこだわるほど前線に投入できる兵力が減り戦争自体が長引くという悪循環に陥ります。

 ですから補給拠点である『点』と拠点同士、前線を結ぶ補給線(兵站線)だけを守るのが当然なのです。『点と線』批判をする者は戦前の日本に対する悪意を持った反日左翼か、まったく知識がない軍事のド素人だと白状しているようなものです。

 欧米では大学でも軍事を教えるほど常識化していますが、戦後日本は軍事に関するあらゆる知識を忌避したため世界でも稀なほど軍事知識のない平和ボケ国民ばかりになりました。731部隊に関してもそうです。731部隊とは関東軍防疫給水部本部の秘匿名称(通称号)で、防疫給水部全体の秘匿名は満州第659部隊です。防疫給水部とは聞きなれない名前だと思いますが、部隊の兵士を細菌感染から守り安全な水を供給するための部隊で、けっして細菌戦を研究するための部隊ではありません。日本で細菌戦を専門に研究していた部隊は別にあり、陸軍登戸研究所がそうです。

 防疫給水部は各国で名称こそ違えど近代軍隊組織には不可欠な部隊で、それがない軍隊は前近代的な馬賊とか流民の暴兵の類です。ですから731部隊が支那戦線やビルマ戦線に出張し細菌戦を行ったなどという主張は欧米では通用しないばかりか、「性質の悪い冗談だ」と嘲笑されるレベルだと思いますよ。こんなデマを信じる方がよほど恥ずかしい。731部隊はあくまで関東軍内の組織。しかも部隊全体を指す秘匿名ですらない。支那派遣軍やビルマ方面軍に勝手に出張ることなど軍組織上あり得ないし、越権行為で軍法会議ものです。

 おそらく扇動元の支那共産党は当然知ってて悪意を持って流しているんでしょうが、その手先である日本共産党、マスゴミ、反日野党の連中は、軍事知識ゼロの愚かな日本人なら簡単に騙せるだろうと徹底的に馬鹿にしているんだと思いますよ。いい加減我々も歴史の真実を学びましょう。支那事変の『点と線批判』も的外れなら731部隊など悪意以外の何ものでもありません。

 反日売国勢力に騙されないように正しい軍事知識を学ぶ必要があります。一般の方は初歩の初歩で十分です。そうすれば日本の国防にも関心が持てるしどれが正しいかも判断できると思います。専守防衛がミサイル全盛の現代戦では本土決戦とイコールで全く通用しない概念、ミサイル防衛は完璧にはできず被害は必ず生じ国民に犠牲者が出るので、それを防ぐためには敵基地攻撃能力でミサイル基地や敵指揮中枢を先制攻撃で叩く以外に日本を守る手段がない、くらいの常識は身につけてほしいですね。

 皆さんは反日勢力の『点と線批判』、731部隊の悪意を込めた嘘に関しどのような感想を抱かれますか?

2020年8月15日 (土)

肥後古代史Ⅲ 塚原遺跡

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 玉名市教育委員会文化課は8日、塚原遺跡(同市岱明町野口塚原)で、弥生時代中後期(1~3世紀)の環濠集落跡と大型の竪穴建物跡などを発掘したと発表した。 古い海岸線のそばで、近くには装飾品のゴホウラ貝製貝輪が出土した「年の神遺跡」(支石墓)もあり、海上交易の中継拠点の集落とみている。 菊池川下流域の環濠集落跡は初めての発見という。
 出土したのは、住居・建物跡23軒分やV字形の溝(幅約5m、深さ約2・2m)、甕棺墓4基など。 溝は形状や位置から集落を守る機能を持ち、一帯が環濠集落だったとみられる。
 住居跡は円形や四角形で、直径11mの円形の竪穴建物跡は、弥生中後期としては九州最大級。
 弥生遺跡の南側からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、古墳時代中期(5世紀)北部九州に多い石棺系石室を持つ円墳、南北朝時代(14世紀後半)の溝や建物跡なども見つかった。
一般公開は10日(土)午前10時-午後4時に行われる。 午前10時と午後1時に説明がある。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞]

 

 最近、古代史にはまっていますが我が故郷玉名にも環濠集落遺跡がありました。遺跡の規模は9万平方メートルですから9ヘクタール。吉野ヶ里遺跡や方保田東原遺跡に比べると小規模ですが、3キロメートルくらいの近場にあったことに驚いています。そういえば国道のバイパス工事をしているときに遺跡らしきものが見つかったと聞いて見に行った記憶があります。ところが調査が終わると埋め戻され工事が再開してしまいました。私は利便性より歴史的価値を取るべきだと思いますがね。吉野ヶ里遺跡はそうしましたよ。

 近くに景行天皇所縁の貴船神社もあるくらいですから、このあたりは古代から開けていたんでしょうね。玉名市にも大坊古墳や永安寺東古墳など過去記事で書いた茂賀の浦周辺の古墳群と共通した装飾古墳がありますから、同じ文化圏に属したのかもしれません。狗奴国と推定される装飾古墳など共通の文化をもった熊本県を中心に宮崎県や有明海を隔てた長崎県の一部まで広がった勢力が存在したと思っています。そしてその首都と推定されるのは、前記事で書いた山鹿市の方保田東原遺跡の環濠集落。

 方保田東原遺跡は幅8メートルを超える大溝、百を超える住居跡、鉄器を製造した遺構などもあるそうです。そればかりか近畿や山陰地方など西日本各地から持ち込まれた土器も見つかっていますから、想像以上に大規模な交易をしていたことになります。前に書いた通り鉄器は農機具にもなれば武器にもなり、方保田東原の環濠集落は強力な経済力と軍事力を持っていたのでしょう。

 塚原遺跡の環濠集落が方保田東原の『くに』の勢力圏だったとすれば、海上交易ルートの貿易港の役目を果たしていたのかもしれません。魏志倭人伝で狗奴国は邪馬台国の南にあり強力な国だったと書かれていますから、方保田東原の環濠集落を中心とし九州中部一帯に勢力圏を持った『くに』は狗奴国の可能性が高いと思っています。

 私は邪馬台国は北部九州一帯を支配した連合国家だと考えていますから、それに匹敵する規模だとすると狗奴国の強大さが分かります。学界で有力な邪馬台国畿内説、邪馬台国四国説だと魏志倭人伝の狗奴国の記述に矛盾するんですよ。ただ最終的に内乱などで北部九州の邪馬台国は衰退し、一部か大部分か知りませんが東遷し最終的には大和盆地に落ち着いたと見ています。

 古代史は分からない事ばかりですが、遺跡が見つかって解明が進めば良いですね。

2020年8月13日 (木)

肥後古代史Ⅱ 方保田東原遺跡

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 前記事茂賀の浦話の続きです。熊本県山鹿市に弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落遺跡方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。恥ずかしながら茂賀の浦の記事を書くために調べるまで知らなかったんですが、史跡指定地11ヘクタール、遺跡の推定範囲35ヘクタールに及ぶ吉野ヶ里遺跡に匹敵する大環濠集落遺跡です。

 環濠集落とは稲作の普及とともに発展した集住遺跡で城の原型となったものだと言われています。稲作は灌漑、治水など集団作業が必須で、外敵から守るために集落の周囲を柵と堀で囲んだものです。環濠集落の周囲には水田が広がり、古代には一つの『くに』を形成しました。邪馬台国はこういった『くに』の連合体で、くに同士のネットワークで交易をしたり、外敵に対しては共同で当たりました。

 環濠集落が茂賀の浦の中、あるいは周囲に存在した事でも古代このあたりに王権があった証拠になろうかと思います。そういえば山鹿市のチブサン古墳に代表される独特な装飾古墳の4分の1は菊池川流域に存在するそうです。装飾古墳など共通の文化圏=支配地域を持つ王権があったのでしょう。

 過去記事で書いた女王伝説の残る千田聖母(ちだしょうも)八幡宮は茂賀の浦南岸の丘陵上にありますし、これも過去記事で書いた焼米(やいごめ)五郎の焼米城は茂賀の浦推定地域の西岸丘陵上、同じく米原長者伝説のある米原地域は推定地域の東岸丘陵上に存在します。

 今回紹介した方保田東原遺跡は茂賀の浦の推定地域の真っただ中にある感じですが、茂賀の浦自体が水深の浅い地域でこのあたりは陸地だった可能性もあります。時代が下って干上がったというのはそういう事でしょうからね。米原長者、焼米城に関し気になる方は過去記事をご参照ください。

 千田聖母八幡宮の女王伝説、米原長者に仮託されている古代豪族の後身についてあくまで個人的な感想ですが、古代豪族日置氏だった可能性があると考えています。日置氏は一般には高句麗系の渡来人で奈良盆地を根拠地にする一族だと言われていますが、玉名市の郷土史では日置氏はもともとこの地を治めた古代豪族だと言われています。渡来系の日置氏とは別系統か、あるいはこの地から奈良に進出し大和朝廷に仕えたかのどちらかでしょう。

 玉名市にも日置氏に所縁のある疋野神社がありますし、疋野長者伝説が残っています。日置は「へき」と呼ぶそうで日置野(へきの)が疋野(ひきの)になまったのだろうと想像しています。有名な江田船山古墳の被葬者も日置氏だと言われていますし、古代女王、そして米原長者の後身が日置氏だとしたら面白いですね。江田船山古墳に近い謎の遺跡トンカラリンも松本清張が卑弥呼の鬼道(シャーマニズム)遺跡だと推理していますし、卑弥呼の邪馬台国ではないにしてもこの地域に有力な国があったことは間違いないでしょう。

 疋野長者も米原長者も全国にある炭焼き小五郎伝説の一つで、私は炭焼きで木炭を作り製鉄を行っていた豪族がこの地にもいたのだろうと思っています。小岱山周辺には製鉄遺跡もありますしね。鉄器は農機具にも武器にもなります。

 古代史は謎だらけですが、調べれば調べるほど興味が湧いてきます。本当に面白いです。

2020年8月12日 (水)

肥後の古代湖、茂賀(もが)の浦

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 超マニアックな話題で申し訳ない。随分前、ヤフーブログで内田康夫『浅見光彦シリーズ 【はちまん】』の舞台の一つとなった熊本県山鹿市鹿央町の千田聖母(ちだしょうも)八幡宮の紹介をしました。作品の中で千田聖母八幡宮の聖母とは、古代この地を治めていた女王の事で卑弥呼ではないかと推理していたのが印象深いです。

 熊本県山鹿市から菊池市にかけて菊鹿盆地が広がっていますが、この地は約9万年前から弥生時代にかけてサロマ湖に匹敵する広さの茂賀の浦という湖が存在しました。現代の地図でも菊池川に大小の支流が流れ込み、大昔は湿地だったと容易に想像できます。東は迫間丘陵、西を関町丘陵、北は筑肥山地、南を肥後台地に囲まれている盆地で、弥生時代以降も縮小しながら古墳時代までは湖(あるいはその痕跡)が残っていたようなのです。

 湖の水が引いた後は水田に適した豊かな大地が広がり、現在でもこのあたりは肥後有数の穀倉地帯です。弥生時代後期、このあたりに女王が治める国があったという伝説があります。私は邪馬台国宇佐説(その後大和に東遷)を取っているのですが、内田さんはこの女王を卑弥呼ではないかと推理していたんです。

 実際、菊鹿盆地とその周辺には古墳が数多くあり、古代王権が存在していたそうですし、被葬者に女性がいたことも確認されています。なかなかロマンある話ですよね。かつて『はちまん』が新聞連載されていた時、千田聖母八幡宮の記述を見て実際に現地まで行ったことがあります。内田さん自身も連載を始める前、現地新聞社の案内で訪れたそうです。私ももう一度行きたくなりました(笑)。

2020年5月29日 (金)

豊臣埋蔵金に関する一考察

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 前記事で数ある埋蔵金伝説の中で豊臣秀吉の埋蔵金は一番可能性があると書きました。というのも秀吉の富裕さは記録が残っているからです。本能寺の変の後中国大返しで姫路城に入った秀吉は城にあった財宝を2万の将兵にすべて配り不退転の決意で山崎の合戦に臨みました。これは過去記事でも書きましたが、姫路城にあったのは金800枚、銀750貫目、米8万5千石。はっきりと記録があります。また大阪冬の陣の時大坂城にあった兵糧は13万石。大阪方10万人が260日籠城できる量です。

 秀吉は天正17年諸大名に3万5千枚という金銀を配っていますし、秀吉死後徳川家康が大坂城の財力を費やすために行わせた方広寺大仏殿建立でも莫大な黄金を吐き出させています。それでもなお大坂の陣の時浪人10万人を雇えるほどの財力を豊臣家は持っていました。豊臣家滅亡後家康が接収した豊臣家の遺産は黄金28万両、銀24万両だったと言われます。当時豊臣家は摂津・河内・和泉の三か国に押し込められ65万石の石高しかありませんでした。通常なら動員兵力は二万人くらい。それが10万人も動かせるのですからどれだけ財力があったか分かるでしょう。秀吉は天下統一時でも直轄領は200万石しかありませんでした。ところが秀吉は全国の金銀山を直轄領に組み入れ全土の流通を握ることで莫大な財力を持ちます。秀吉の強みはこの経済力。石田三成などの計数に明るい官僚群を有したのも秀吉が経済を重視した証拠なのでしょう。

 秀吉が亡くなる直前、遺児秀頼の将来のために一説では4億5千万両ともいわれる膨大な埋蔵金を多田銀山に隠させたという話があるのです。私は多田銀山というのは眉唾物だとは思いますが、かなりの埋蔵金をどこかに隠した可能性は高いと見ています。しかしはっきり言えるのは、大坂夏の陣で豊臣家滅亡後徳川家康によって秀吉の遺産の大部分は接収されたと思えるのです。ですから駿府城の倉の床が黄金の重さで抜けたという話は豊臣埋蔵金も含めたものではなかったかと考えます。

 という事は、豊臣埋蔵金は徳川埋蔵金でもあるのでしょう。もしかしたら家康の集めた金銀財宝の半分かそれ以上は豊臣家から奪ったものだと言えるかもしれません。幕末には江戸城の倉はすっからかんになっていたそうですから、もし埋蔵金があるとすれば家康が埋めさせた日光東照宮の可能性が高そうです。

 それにしても埋蔵金にはロマンがありますね。

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