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カテゴリー「 日本史」の記事

2023年11月17日 (金)

熊本城

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20231116

 ちょうど、菊池一族の事を考えていたんですよ。菊池氏は南北朝時代15代菊池武光が征西将軍宮懐良親王を擁し一時は九州制覇するほどの勢いだったのに戦国時代衰退して、支流(一応嫡流とも言える)は日向国米良荘(西都市の西側山間部と西米良村の全域)に逃れて細々と命脈を保ちました。江戸時代、名家好きの家康に取り立てられ交代寄合の旗本(5000石格 本当にそれだけ米が採れたかは不明)になります。明治期に男爵。ちなみに江戸時代、菊池氏は米良氏と名前を改め、米良荘に在住を許されました。米良氏の扶養は人吉藩の相良氏に任されたそうで、2万2千石しかない相良家にとっては非常に迷惑だったと思います。幕府の命令に嫌々従っていたのでしょうね。

 菊池氏は、平安時代大宰府権帥として刀伊の入寇を防いだ藤原隆家の子孫を称していますが、実際は古代豪族狗古智(くくち)氏の流れをくみ大宰府の在庁官人として仕えていた藤原政則の子孫だと言われます。菊池氏の本拠は現在の菊池市菊池神社にあった隈府城ですが、歴史上何度も落城しています。そのたびに米良荘に逃れ再起しているのですから不死鳥のような一族だとも言えます。この辺り筑前の少弐氏と似ていますね。山地が多い九州地方独特の特徴なのかもしれません。他の地方で似たような例があったら教えてください。出雲の尼子氏がやや近いかな?

 前置きが非常に長くなりましたが、現在の熊本城の前身千葉城を築いたのは菊池氏の一族出田秀信(生没年不詳、応仁・文明年間)でした。現在の熊本城全域にあたる茶臼山ではなくその東端、現在のNHK熊本支局があるあたりです。本拠地隈府が肥後の北に偏りすぎており、肥後全域支配のために肥後の中央部にある千葉城を有力な支城として一族を配したのでしょう。律令時代の肥後国国府も現在の熊本市南部にあり、熊本平野を支配するにも都合良かったのかもしれません。

 もともとこの地は、肥後国を制する枢要な地であり古代から様々な城柵があったはずですが調べる時間がないのでここでは紹介しません。戦国時代、この地を支配した鹿子木寂心入道親員(ちかかず)が千葉城の南西、同じく茶臼山の一端に隈本城を築きます。これも現在の熊本県立第一高校のあるあたりでした。鹿子木氏は一応戦国大名と言いながら、実際は最盛期でも石高10万石前後という弱小大名で、豊後の大友氏が侵略してくるとそれに屈します。鹿子木氏は大友氏に隈本城を追われ現在の高橋稲荷近くに山城(高橋城)を築いて退きました。

 以後、肥後国は豊後の大友氏、肥前の竜造寺氏、薩摩の島津氏の草刈り場となり荒廃します。豊臣秀吉の九州征伐で肥後国は豊臣政権に組み入れられました。戦後の論功行賞で肥後国は二つに分割され、肥後北部25万石は加藤清正に、南部24万石は小西行長に与えられます。

 肥後半国25万石の太守となった加藤清正は、居城の選地に悩み、最初は現在の横島町にある横島山(標高55.5m)に城を築こうとしました。しかし横島が邪(よこしま)に通じるのと、領国の中央近くにあるものの、西国街道から外れて交通の便も悪いため諦め、千葉城や隈本城のある茶臼山に新たな城を築くことにします。これが隈本城で、旧千葉城や隈本城も包含する巨大な城になりました。隈本が熊本に改められたのも加藤清正によってです。

 茶臼山は北区植木町から南に延びる京町台地の先端にあり比高50.9m。熊本城は周囲5.9㎞、総面積98ヘクタールに及びました。東京ドーム21個分で全国有数の規模です。五層六重の大天守、三層の小天守を中心に第三の天守と呼ばれる宇土櫓はじめ49の櫓、櫓門18、城門29をもち、扇の勾配と言われる独特の石垣、何重にも設けられた虎口、坪井川から引いた堀など過剰ともいえる防御施設を誇っていました。

 これは仮想敵国島津氏に備えたものだとも言われますが、関ケ原以降は万が一の時に大坂城から豊臣秀頼を迎え徳川政権に対し抵抗するという意図もあったと言われ、西南戦争で激戦となった田原坂も熊本城築城と同時に清正が整備させたと言われます。現地を訪れた方なら分かると思いますが、田原坂は緩やかな坂ながら側面を土塁に囲まれ鬱蒼と茂る森で視界を遮られ非常に攻めにくい構造でした。しかも当時は他に街道がなく熊本に至るには田原坂を通るしかありません。これを見ると南側の島津氏に対しては白川をわざと決壊させ洪水をおこし防ぐ、北側を攻める徳川幕府軍に対しては田原坂を前哨陣地にするという戦略構想だったのでしょう。

 その後、熊本藩は清正の子忠広の代に断絶、代わって豊前国らから細川氏が肥後54万石の領主として入部しました。細川氏は江戸期を通して熊本藩の領主として続くのですが、熊本城の真価が発揮されるのは西南戦争でした。熊本鎮台兵3000人が籠る熊本城は西郷軍1万5千(その他九州各地の不平士族が参加して3万人以上に膨れ上がる)の攻撃を跳ね返し、清正の構想通り田原坂で明治新政府軍と激戦を演じるも敗退します。

 戦国期の築城でも、近代戦に十分耐えたことは清正の築城構想が正しかった証明なのでしょう。最近熊本地震で熊本城は大きな被害を受けましたが、再建されたらまた訪れたいと思います。

2023年7月15日 (土)

後南朝と熊沢天皇

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 久々の日本史でどマイナーな話題ですが、不思議書庫に入れたほうが良いかもしれません。

 皆さんは後南朝という名称を聞いたことがありますか?おそらく学校の歴史教育ではほとんど出ないので知らない方が多いと思います。1392年室町幕府三代将軍足利義満の斡旋により対立していた南北朝が合一しました。その時の約束では今後北朝と南朝の天皇が交互に即位するという話だったそうですが、どうも義満は北朝側に説明していなかったらしく(あるいは南朝を騙すつもりで)、北朝の後小松天皇の後に息子の称光天皇が即位、以後も北朝が天皇位を独占し現在に至っています。

 南朝側は約束が違うではないかと怒り、南朝後亀山天皇の孫(あるいは曾孫)にあたる小倉宮を推戴し北朝と幕府に対し抵抗運動を起こしました。伊勢国司北畠満雅が1429年小倉宮を擁して挙兵、一時は大きな騒動になりますが、これは鎮圧され北畠満雅は敗死、小倉宮も行方不明になったと言われます。

 しかし南朝の遺臣たちの抵抗運動は続き、1443年には皇居から三種に神器のうち草薙剣、八尺瓊勾玉を奪うという大事件(禁闕の変)を起こします。剣は何とか奪回しましたが、神璽(勾玉)は奪われたままで、遺臣たちは長慶天皇の子孫(小倉宮の子孫とも?)といわれる自天王、忠義王を奉じて吉野の山中に立て籠もりました。

 困り果てた幕府は、嘉吉の変で将軍義教を暗殺し滅ぼされた赤松家遺臣にお家再興を約束して神璽を取り返させようとします。こういう汚れ仕事は逆賊の遺臣にちょうど良いと押し付けられたのでしょう。1457年赤松遺臣たちは吉野に攻め入り自天王、忠義王を殺し見事神璽を奪回しました。これを長禄の変と呼びます。

 その後も南朝の子孫と称する者が登場し幕府に反旗を翻しますが、大勢は動かずそのうち下火になり忘れ去られました。この一連の流れを後南朝と呼びます。実はこれに関し過去に『美作後南朝と山名氏の関係』という記事を書いていますので興味ある方はご覧ください。

 

 時は流れ20世紀、戦後の混乱期GHQに対し「我こそ南朝の正統な天子である」と名乗り出た人物がいました。彼の名は熊沢寛道(ひろみち)。実は熊沢家は寛道の養父(寛道も傍系から養子になったので一族ではある)の大然(ひろしか)の時代から、明治政府に何度も嘆願書を差し出し自分を南朝の正統な子孫と認めるよう要求していたそうです。

 が、当然のことながら黙殺されました。ところがGHQは昭和天皇の権威を失墜させ皇室を破壊しようという狡猾な意図から熊沢天皇を認めるような動きをします。しかし、昭和天皇は戦後全国巡回し国民を慰撫して回ったため国民の天皇に対する信頼は微動だにしませんでした。むしろ現人神の戦前より尊崇の念が上がったと思います。

 一時はマスコミに取り上げられ話題の人となった熊沢天皇ですが、そのうち忘れ去られ1966年東京板橋の病院で膵癌のために死去、享年76歳でした。

 

 ここで熊沢天皇が本当に南朝の子孫だったか考察してみましょう。熊沢家は愛知県で農業を営む家でした。わりと裕福な家だったそうです。実は愛知県西部の尾張国は南朝と関係なくもないのです。室町時代尾張守護を務めた斯波氏は、足利将軍家に含むところがあったのか宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏の子孫ら南朝所縁の者が多く移り住んでいるのです。斯波氏がこれを弾圧したという記録はないので、いざというとき使えるくらいは考えていたかもしれません。ちょうど山名氏が美作国に南朝の子孫を匿ったように。

 という事で、熊沢天皇が南朝所縁の人物の可能性は高いと思います。ただ、正統な南朝天皇の子孫かどうかは疑問が残ります。熊沢大然が明治政府に証拠として提出した家系図に矛盾があるからです。熊沢家が始祖と称する小倉宮のお名前は恒敦親王。ところが家系図では実仁親王となっています。実は実仁親王は北朝の称光天皇のお名前です。

その他、家系図に様々な矛盾がある上、熊沢家が確かに南朝の流れをくむという物的証拠(懐剣とかお墨付きとか宝物の類とか)が無いという致命的弱点がありました。明治新政府が学者に依頼して調べさせたところあり得ないと分かったので黙殺したという事です。

 もし、証拠があったら皇族にはなれなくともある程度の処遇は受けていたかもしれませんね。実は南朝の正統な子孫は別のところに存在し、証拠を受け継ぎひっそりと暮らしている可能性はあると思いますし、ロマンがありますね。

2022年9月16日 (金)

畠山重忠と惣検校職(そうけんぎょうしき)

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 マニアックな話題で申し訳ございません。大河ドラマ鎌倉殿の13人で畠山重忠が代々武蔵国惣検校職を受け継いできたという話が出ました。今回は惣検校職とは何か?について考えていきたいと思います。

 その前に大前提として当時の地方行政の話をします。律令体制下では朝廷から各国に国司が派遣されていました。国府の長官である国守(くにのかみ)、次官の介、三等官の掾(じょう)、四等官の目(さかん)です。このうち国守、介くらいは朝廷から派遣されたものの、掾や目は地方の有力豪族が任命されたケースが多かったと思います。

 そのうち、国司に任命された貴族たちも現地に赴任することを嫌がりだし、代官を派遣するようになります。これを遙任(ようにん)と呼びます。平安時代末期になると有力貴族や有力武士に知行国といって特定の国の知行権を与えるようになってきました。荘園の成立で律令体制の崩壊が始まったのですが、この知行国制度はそれに完全に止めを刺したとも言えます。

 例えば平安末期、武蔵国の知行国守は平家でした。有名どころだと平知盛。もちろん本人は現地に赴任しませんから代官を派遣しして支配しました。これを目代と呼びます。伊豆の目代山木兼隆は源平合戦で良く知られていますね。

 ところで国司が赴任しないのだから国府の行政は滞りますよね。そこで目代のもとで留守所というものが設けられました。留守所は目代を中心に在庁官人で構成され、公文書をつかさどる公文所(くもんじょ)、警察をつかさどる検非違所(けびいしょ)、徴税をつかさどる税所(さいしょ)などが置かれました。それぞれの部署の責任者を検校職と呼びます。惣検校職とはこれらの部署を統括する役目でした。国務は在京の知行国守の命を受けた留守所の下文(くだしぶみ)で執行されました。

 では惣検校職が常設の役職だったかというと、そうでもなかったようです。資料で確認されているのは大隅国で1025年。武蔵国は鎌倉時代に入った1226年です。ですから畠山重忠が惣検校職だったかは怪しいと思います。目代がいるのに惣検校職があっても無意味ですからね。

 伝承では武蔵国留守所惣検校職は秩父氏の惣領が代々受け継いできたと言われます。畠山重忠は当時の秩父氏の惣領。ですから惣検校職になっていたと説明されれば納得はできます。平安時代末期には行政権に加え現地の武士を指揮統制・動員する軍事権も持っていたと言われますから武蔵国の有力御家人畠山重忠が惣検校職なのは自然ではあります。

 しかし、大隅国は特殊事情があって(隼人など統治が難しい異民族がいた)惣検校職を設けたとすれば、武蔵国に似たような理由があったかは非常に疑問です。確認されている1226年に惣検校職だったのは河越重員(しげかず)。重員は畠山氏滅亡後秩父氏の惣領になっています。そして重員は北条得宗家の被官でした。当時、大隅国も武蔵国も国守は北条氏です。泰時(あるいはその父義時)が被官の河越重員の箔をつけるために大隅国にあった惣検校職の役職(名誉職)を与えたと考えるのが一番自然な気はします。そして河越氏が代々惣検校職を受け継いだ時に、これはもともと秩父氏惣領が受け継いできた役職だったと称したのかもしれません。

 そもそも畠山重忠が武蔵国留守所惣検校職だったとすると、比企氏全盛時代にもっと軋轢があったはずだと思うんですよ。皆さんは畠山重忠の惣検校職、どのように思われますか?

2022年2月20日 (日)

佐々木氏の本貫の地佐々木庄はどこにあったか?

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 近江源氏佐々木氏。宇多天皇の玄孫源成頼が近江国佐々木庄に下向したことから始まる一族ですが、鎌倉中期以降、嫡流で近江守護になった六角氏、北近江と出雲、隠岐、飛騨の守護となった京極氏に分かれます。

 

 京極氏は室町幕府の侍所頭人になれる家柄四職家(京極、山名、赤松、一色)だったので、こちらの方が優遇されているように見えますが、実は経済的には嫡流六角氏と大差がついていました。戦国末期から江戸初期の石高で言うと六角氏の支配領域南近江は50万石強。一方京極氏の北近江は20万石弱しかありません。この差は、石高は後世より低いとはいえおそらく鎌倉時代から変わらなかったはずですから室町幕府で名誉を得た京極氏、実利を得た六角氏と言えるでしょう。

 

 京極氏は南北朝期の佐々木道誉(高氏)が有名ですが、その後は鳴かず飛ばず、守護になった飛騨には浸透できず、出雲は守護代尼子氏に乗っ取られました。一応飛騨国司姉小路家を乗っ取った飛騨三木氏は佐々木氏流とも言われますが、出自がはっきりと分からないため何とも言えません。それに比べると六角氏は高頼の時代室町幕府九代将軍足利義尚の追討軍を破るほどの実力を持ち、その後の戦国時代も京の将軍継承争いに介入するほどでした。

 

 では、佐々木氏発祥の地佐々木庄はどこだったか気になって調べてみました。どうも近江国蒲生郡佐々木(滋賀県近江八幡市安土町)当たりが本拠地だったみたいですね。地図で見ると有名な織田信長の安土城の近く、六角氏の居城観音寺城もすぐ近くです。六角氏が南近江一円を支配したのは室町時代以降でしょうが、近江平野の中心地を支配していたとなるとその後の富強は約束されていたようなものだったでしょう。

 

 六角氏が近江源氏の嫡流というのも納得できますね。それに比べると京極氏の北近江はあまり石高が高くなく、応仁の乱後は没落し守護代浅井氏の客分にまで落ちぶれるのですから哀れを誘います。ただ、京極高次の時代に大逆転し豊臣大名から江戸大名に転身し讃岐丸亀6万石で幕末まで続くんですから世の中どうなるか分かりませんね。

2022年1月27日 (木)

豊臣三中老のその後

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 本日の話題は非常にマニアックですのでスルーお願いします。

 

 三中老というのは豊臣政権で五大老と五奉行の意見が合わないときに仲裁役として設けられたもので、生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏が任ぜられました。ちょうど戦国時代をテーマにしたシミュレーションゲームを遊んでいてこの三人が出てきたものですから、彼らの子孫がどうなったのか気になりました。

 生駒親正は讃岐丸亀十七万石、中村一氏は伯耆国十七万五千石、堀尾吉晴は出雲二十三万五千石を関ケ原後領したはず。ただ江戸期を通じて彼ら以外の大名がこの地を領しています。讃岐丸亀は生駒氏の後山崎氏が入り最後は京極氏が六万石→五万一千石で幕末を迎えています。出雲は堀尾氏から京極氏に代わり最後は親藩の松平氏で幕末に至りました。伯耆は中村氏の後因幡と共に池田氏が三十二万石で入り伯耆国の米子城には家老の荒尾氏が入ります。

 調べてみると、三氏ともお家騒動とか無嗣断絶で終わっていますね。生駒氏は1640年親正の曾孫高俊の代に生駒騒動を起こして断絶、嫡男高清が八千石の旗本になり幕末まで続きました。

 中村氏は一氏が1600年8月に死去、1609年には嫡男一忠が急死し後継ぎがいなかったためあっさり断絶しています。運がない一族でしたね。

 堀尾氏も嫡男忠氏が早死にし、吉晴本人も1611年69歳で亡くなっています。孫の忠晴が跡を継ぎますが1633年35歳の若さで急死しこれも後継ぎがいなかったために断絶しました。徳川家に近い大名なら一族の誰かを旗本に取り立て家名だけは残すのでしょうが、豊臣恩顧の大名には冷たかったんでしょうね。福島正則とか加藤清正も同じ扱いですから。正則の子孫は二千石の旗本になったようですが…。

 こうしてみると織豊期に勃興した家で江戸時代を生き抜くことは難しかったんでしょうね。それを考えると平安時代から幕末まで続いた佐竹氏、鎌倉時代以来の島津氏、南北朝以来の伊達氏は凄いと言わざるを得ません。これら三家は勢力の増減はあってもずっと大名ですから。

2022年1月20日 (木)

鎌倉殿の13人の有名子孫たち

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 NHK大河ドラマで鎌倉殿の13人が始まって鎌倉時代への興味が再び湧いてきました。13人というのは頼朝死後二代将軍頼家が若く政治経験がなかったことから宿老13人が合議制で幕府を運営したもので歴史的には十三人の合議制と呼ぶそうです。

 この合議制は幕府執権北条氏が次々とライバルになりそうな有力御家人を滅ぼしたので早晩崩れます。そして執権北条氏による独裁体制へと移行するのです。では彼ら13人の子孫がどうなったか気になりますよね。有名どころだと大江広元の子孫は戦国大名毛利氏で江戸時代も周防長門37万石の大名として幕末まで続きます。それ以外の御家人はどうなったのでしょうか?

 

◇三浦氏  

 1247年宝治合戦で北条氏に滅ぼされる。傍系から嫡流を継いだ三浦氏は伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされる。庶流は会津の戦国大名蘆名氏になるがこれも伊達政宗に滅ぼされる。

 

◇和田氏

 初代侍所別当和田義盛は1213年和田合戦で北条氏に滅ぼされる。義盛三男朝比奈義秀のみが生き残る。戦国時代駿河今川氏に仕えた朝比奈氏は義秀の子孫だと言われる。

 

◇比企氏

 1203年比企能員(よしかず)の変で北条氏に滅ぼされる。族滅に近かったので子孫がどうなったか不明。

 

◇八田氏

 八田氏初代知家は宇都宮一族で常陸守護。彼の子孫は小田氏を名乗り戦国最弱武将として名高い小田氏治は彼の子孫。何回落城しても復活しているんだから領民には愛されていた模様。

 

◇安達氏

 1285年霜月騒動で北条氏に滅ぼされる。北条氏というより実質的には北条氏の内管領平頼綱の主導ではあったが。これも族滅に近く有名子孫は不明。

 

◇足立氏

 こっちの足立氏は目立たない存在。足立氏も霜月騒動に巻き込まれ滅びている。子孫は丹波国氷上郡佐治郷の地頭になり明智光秀に仕えたと言われる。

 

◇梶原氏

 私は草燃えるの大ファンなので景時を演じた江原真二郎のイメージが強い。景時は東国武士に珍しい有能で教養のある武士だったがあまりにも官僚気質だったため他の御家人に嫌われ1200年御家人66名の弾劾で失脚、京都に逃れようとするも北条氏の追手に攻められ滅亡。子孫は奥州、下野、武蔵、尾張、讃岐に残った。

 

◇二階堂氏

 藤原為憲流なので工藤氏(伊東氏)と同族。子孫は全国各地に広がるが、奥州須賀川城主の戦国大名二階堂氏が一番有名か?

 

◇中原氏

 中原親能は大江広元の実兄。子孫は下級貴族の押小路家の他、三池氏や鹿子木氏ら肥後や筑後の小大名になったものが多い。親能が筑後、肥後の守護になったことと関係していると思う。熊本の戦国ファンなら鹿子木寂心をあげるだろうが全国区ではないので誰も知らないだろうな。隈本城(加藤清正の熊本城の前身)の築城者なんだけどね。

 

◇三善氏

 康信は初代幕府問注所執事。大江広元と並ぶ有能な官僚だった。子孫は筑後国行葉郡に所領を持ち問注所氏になった。問注所氏は豊後の大友氏の圧迫を受け被官化する。最後は柳川藩立花家に仕えた。

 

◇大江氏

 大江広元は初代幕府政所別当。1221年承久の乱で京都守護だった広元長男親広失脚。1247年宝治合戦では広元四男毛利季光が三浦氏に味方して討たれる。広元次男長井時広が嫡流として残るが、南北朝時代伊達氏に滅ぼされる。毛利季光の四男経光が安芸国吉田荘に下向し戦国大名毛利氏になった。

 

 残りの二人は北条時政、義時父子なので説明不要でしょう。鎌倉幕府の十三人の宿老の子孫を調べるのは面白いですね。非常に楽しかったです。

2022年1月15日 (土)

土肥遠平と小早川氏

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 平安時代末期から鎌倉時代に渡る非常にマイナーな話ですので興味ない方はスルーしてください。

 私は日向の戦国大名伊東氏が好きで、その関連で先祖の工藤祐経も好きだという話は以前書きました。世間一般では工藤祐経は曽我兄弟の仇討の敵役としてイメージが悪いですが、もともと曽我兄弟の祖父で祐経の叔父でもある伊東祐親が祐経の所領を押領したのが発端ですからどっちもどっちではあります。祐親を殺すつもりが、祐親の嫡男で曽我兄弟の父に当たる河津祐泰がとばっちりで殺されたのは気の毒ではありますが…。

 今回の話は、伊東祐親が工藤祐経の所領を押領した時同時に祐経に嫁がせていた娘の万劫御前を強制的に離縁させ土肥遠平に再婚させた後の話です。土肥氏は桓武平氏良文流で相模国土肥郷を領した武士でした。遠平は源頼朝の鎌倉幕府創建に協力した土肥実平の嫡男です。遠平の生没年が分からないためはっきりと断言はできませんが、一応万劫御前は遠平の正室とされていますので遠平の嫡男維平は万劫御前の子供かもしれません。

 実は遠平は実子維平の他に佐久源氏平賀義信の五男景平を養子に迎えています。この辺りの経緯が謎なんですが、平賀義信は源氏の有力者で比企氏や北条氏とも姻戚関係だったため幕府内での勢力維持のために養子に迎えたのかもしれません。正室万劫御前は逆賊伊東氏の娘だし頼朝の寵臣工藤祐経の元妻だし何かと都合が悪かったのだろうと想像します。

 土肥遠平は、土肥郷小早川村に居館を設けたことから小早川氏を名乗りました。源平合戦で戦功をあげ恩賞として安芸国沼田荘の地頭職を得ます。遠平は実子維平に本拠早川荘(土肥郷)を相続させ、安芸国沼田荘は養子景平に相続させました。これが安芸小早川氏の祖です。その後、維平は和田合戦で血縁関係のあった和田義盛に味方し敗北、捕らえられて処刑されます。父遠平は維平とは無関係を貫き処罰は免れますが、鎌倉に居づらくなったのでしょう。養子景平が相続した安芸国沼田荘に下向し隠棲します。そこで生涯を終えたそうです。

 小早川氏は南北朝、戦国時代を生きぬき最後は毛利元就の三男隆景を養子に迎えました。この時点で小早川氏の嫡流は絶えたことになります。隆景は豊臣政権の五大老になるなど活躍しますが、実子がなく豊臣秀吉の甥秀秋を養子に迎えました。もう一人元就の九男で異母弟の秀包も養子にします。秀秋の関ケ原での裏切りとその後の狂死は皆様ご存知の通りです。秀包も関ヶ原で西軍に付いたため改易、宗家の毛利家に戻り輝元から長門に所領を与えられます。

 秀包は小早川秀秋の裏切りでイメージが悪いと思ったのか毛利に姓を戻し吉敷毛利家七千石として毛利宗家を支えました。

2022年1月11日 (火)

八重姫が強制的に嫁がされた江間小四郎は北条義時か?

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 今年の大河は鎌倉殿の13人。その中で新垣結衣演じる八重姫が悲劇のヒロインとして出てきます。八重姫は伊豆の豪族伊東祐親の三女で流人だった源頼朝と通じ一人息子千鶴丸を得ます。ところが京の大番役から帰ってきた父伊東祐親はこれを知り激怒。千鶴丸を殺し頼朝と別れさせます。八重姫も強制的に江間小四郎という身分の低い武士に嫁がされました。ところがこれには異説がいくつもあり、息子の死と頼朝と別れさせられたのを悲しみ身を投げたとも、頼朝を追っていくも追手に追い付かれて殺されたとも、別れさせられた後病気になり亡くなったともいわれはっきりしません。

 一応八重姫自体は実在の人物ですが、曽我物語などでいろいろ脚色されているのでどのような生涯を送ったかは分かりません。ここで問題にするのは八重姫ではなく江間小四郎の方です。実は江間小四郎は北条義時の事ではないかという説があるのです。というのも義時の幼名は小四郎。そして江間を領地にしていました。ですが調べてみると、この事件があったのは吾妻鑑によると1175年ころ。義時は1163年生まれですからこの時12歳くらい。いくらなんでもこれは無いだろうと思います。

 しかも義時が江間の地を得たのは頼朝の鎌倉政権ができた後だそうです。江間小四郎は義時の幼名と偶然一致しますが別人だろうと言われています。古来様々な人が推理していますが、私が一番納得したのは江間小四郎はもともと伊東氏側の人間で伊東祐親が頼朝に敵対した時味方になったという説です。そして伊東祐親が滅ぼされたとき一緒に殺された。江間の領主がいなくなったので鎌倉政権ができた後恩賞として義時に与えられたというもの。こう解釈するのが一番自然なんでしょうね。

 伊東祐親も平清盛の嫡男小松内大臣重盛の家人だったため、罪人の頼朝と自分の娘が通じたのを知って青くなったのでしょう。今を時めく平家に睨まれると滅ぼされかねませんから。逆に北条時政は頼朝と娘の政子が通じたのを利用してのし上がろうとした。この差が明暗を分けたのかもしれません。懐かしの大河ドラマ草燃えるでは頼朝は八重姫も政子も別に愛しているわけではなく後ろ盾として伊東氏や北条氏を利用するための方便だったと描いていましたが、案外これが史実なのかもしれません。

 現在とちがい昔は惚れた腫れたで結婚できるわけはありません。結婚は家同士が結び付く事。流人で何の後ろ盾がない頼朝にとっては伊豆の豪族を味方に付けるための最善の策だったと思います。こう書くと身も蓋もない話になりますが現実はこんなものです(苦笑)。

 

 

2021年11月 9日 (火)

刀伊の入寇余話 博多警固所

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 皆さん誰も興味ないと思いますが、私は一つの事に関心を持つと関連項目も調べたくなるという癖を持っていまして、刀伊の入寇で日本側防衛拠点になった博多警固所が気になっていました。

 そこで調べてみると、古代から中世までの博多は西側が入江で今の福岡城から北の西公園荒津山のあたりまで南から伸びてくる小半島になっていたことが分かりました。これを福崎台地と呼ぶそうですが標高は30m余りと低い丘陵でした。その東側が冷泉津と呼ばれる入江で博多の港があります。半島の西側も草香江(くさかえ)という入江でした。今でいうと冷泉津は福岡市天神のあたり。草香江は現在大濠公園として残っています。

 この辺りは縄文時代から人が住んでいたそうで、博多は大和朝廷時代、大陸・半島への玄関口でした。魏志倭人伝を読むと弥生時代から栄えていたことが分かります。遣唐使もここから出発し、律令時代博多は大宰府の外港として重要視されました。朝廷は博多を守るため、この福崎台地に目を付けます。実はここに設けられたのが博多警固所でした。

 江戸時代初期、黒田長政が戦功で筑前52万石を得て入部した時目を付けたのも福崎台地でした。長政は福崎台地の最高所赤坂山(標高31m)に福岡城を築城します。その際福崎台地の南端を削って外堀にしたそうですから、この時福崎台地が南の山地と切り離されたことになります。その後干拓が進み福岡城の東側は天神地区となり西側は大濠公園となったのでしょう。

 ですから福崎台地、赤坂山の辺りは古代から博多を守る防衛拠点となっていたのです。現在の地形だと分かりませんが、半島部を要塞化していたので刀伊の賊も攻めあぐねたのでしょう。実は元寇の時も福崎台地、赤坂山の辺りは激戦地になっています。博多を占領するためには絶対にこの地を攻め落とす必要があったのだと思います。

 おそらく大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代と時代ごとに防衛施設が設けられていたと想像できます。ですから黒田長政が福岡城を築くときもこの地形を利用したはずです。実は福岡市中央区に警固神社、警固地区というのがありますが長政が城を築いた時、赤坂山にあった警固神社を現在の場所に移築したそうです。

 博多警固所は博多を守る重要な防御施設だったことが、当時の地形を見て納得しました。もしかしたら福岡城の地下には弥生時代の環濠集落跡があるかもしれません。大濠公園や天神に対するイメージもだいぶ変わりました。今度福岡に行くときは当時に思いを馳せたいですね。

2021年11月 7日 (日)

刀伊の入寇Ⅲ 異族襲来

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 1019年刀伊の入寇は日本史上初の異民族の来襲だったわけですが、実はそれまでにも小規模な侵略は何度もありました。新羅末期の893年新羅賊が内海の有明海を横断し肥後国飽田郡(現在の熊本市西部)に侵攻、民家が焼亡し賊は肥前国松浦郡に逃亡したという記録があります。新羅賊は翌894年にも来襲し北九州沿岸や対馬を略奪、住民を殺傷しました。この時の新羅賊は100隻の軍船で押し寄せたと言われ、対馬守文屋善友率いる国府の兵と合戦になったそうです。国府軍は奮戦し、賊徒302人を射殺、大将軍3人、副将軍11人を捕虜にしました。室町時代の応永の外寇を彷彿させる事件ですが、この時も賊は2500人以上いたと言われます。一方対馬の兵は数百人もいなかったはずで新羅兵が弱いのか対馬の日本兵が強すぎるのか分かりません。

 新羅賊というのもただの暴民ではないでしょう。軍船に乗っていたことから新羅の統治能力が弱体化し辺境の豪族か地方領主が組織した軍勢だった可能性が高いと思います。新羅末期地方豪族の反乱が相次いでいたそうですし、農民出身の甄萱(けんけん)が光州で挙兵し後百済を建国したのは892年のことでした。新羅王朝末期、王権が及ぶのはかつての本拠慶尚道くらいまで縮小し弱体化していたのでしょう。

 日本側の記録では、884年にも新羅賊来襲が記されており何度も壱岐対馬や北九州沿岸は海賊被害に遭っていたと言われます。これを見ると日本側の倭寇は大陸や半島側の侵略の報復という意味もありそうです。結局どっちもどっちだったのでしょう。

 藤原隆家が大宰権帥として赴任したのは1014年でした。隆家は中関白家の期待の星でしたから護衛として付き従う武士団も強力で、房総平氏の平致光(むねみつ 房総平氏の棟梁平公雅【きんまさ、平将門の従兄弟】の子か孫だといわれる)、藤原政則(蔵規とも書く)らの名前が挙がっています。藤原政則という人物は謎が多く、但馬出身だとされ、隆家が但馬に流されていた時側室に生ませた子だとも言われますがはっきりしません。その後肥後菊池地方に土着し菊池氏の祖となりました。これには異説があり、古代の狗奴国の官・狗古智卑狗が菊池氏の源流だという説もあります。大宰府に在庁官人として仕えていた時に藤原隆家に気に入られ藤原姓を与えられたとも言われており、私はこちらの説がしっくりきます。

 1019年3月、刀伊の兵船五十余艘が対馬に来襲、住民を殺傷し物資を略奪し牛馬を殺して食べたという急報が大宰府にもたらされました。賊は同じ日壱岐にも侵攻します。4月7日壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚は単身脱出し大宰府に到着、壱岐守藤原理忠(まさただ)以下多くの島民が賊に殺されたと伝えました。

 刀伊の軍船はその後筑前の怡土(いと)、志摩、早良の三郡(ともに博多湾に面している)を襲撃。略奪をほしいままにし老人や児童を斬殺、男女の捕虜500人を攫います。これは奴隷として売り飛ばすためでした。刀伊の賊は軍船に5~60人ほども乗っていたので総勢は2000人から3000人あるいはそれ以上という規模でした。この数は、侵略し領土を奪うには不足でしたが略奪するには十分すぎる数でした。防衛する側もある程度の人数を集めないと対抗できないからです。

 これを見ても刀伊の賊がただの暴民ではなく組織だったものであることが分かります。実際高麗水軍は刀伊の賊に敗北し略奪を許していたくらいでした。報告を受けた大宰権帥藤原隆家は前将監大蔵朝臣種材(藤原純友の乱鎮圧で活躍した大蔵春実の孫)、藤原朝臣明範、散位平朝臣為賢(常陸平氏、伊佐氏・伊達氏の祖、ただし別系統という説もある)、平朝臣為忠(為賢の一族か?)、前将監藤原助高、大蔵光弘、藤原友近らを博多警固所に派遣し防衛させます。

 刀伊の賊は1019年年4月博多湾にある能古島を拠点にし、対岸の博多警固所を攻撃します。日本側が必死に防戦したため刀伊軍は警固所を攻略できず能古島に引き上げました。大宰府は早良郡から志摩郡の船越津(糸島半島の博多湾とは反対側)にかけても別軍を派遣し刀伊軍に備えます。4月刀伊軍は再び博多湾に上陸しました。この戦いでは九州の武士である財部(たからべ)弘延、大神(おおが)守宮らが奮戦し賊徒40人を討ち取ったそうです。大蔵種材、藤原致孝、平為賢、平為忠らは軍船に乗って海路刀伊軍を攻撃します。

 形勢不利を悟った刀伊軍は博多湾を撤退、防備が手薄な肥前国松浦郡一帯を襲撃しました。前肥前介源知(しるす、肥前松浦氏の一族)は郡内の兵を集めこれを迎撃、大宰府からも軍船40艘が追撃してきたため刀伊軍は侵略を諦め4月13日ようやく退去します。その後朝鮮半島に引き上げた刀伊軍は半島の東岸を荒らしまわりますが、元山沖で高麗水軍と合戦になり壊滅したそうです。この時、日本で捕虜にしていた男女は戦の邪魔になるからと海に投棄したそうですから彼らがどれだけ鬼畜か分かりますね。

 刀伊の侵略を撃退した日本側ですが、その被害は甚大で殺害された住民300人以上、捕虜となった者1000人以上(大半は朝鮮半島沖で捨てられ溺死)、壱岐では国守まで殺されるという惨状でした。これは記録に残されている数ですので、実態はその数倍だったとも言われます。

 刀伊の入寇時、現地で迎撃を指揮した藤原隆家が断固たる態度で対応したのが日本側に幸いしたと思います。これが都の惰弱な貴族が指揮官だったらもっと被害が増大し下手したら国土の一部を占領されていたかもしれません。藤原隆家の武勇は後の武士団の憧れとなり、隆家を祖と称する者が多かったと言われます。菊池氏などまさにそうでした。

 論功行賞で大蔵種材は壱岐守、藤原政則も大宰少弐・対馬守に任ぜられました。その他、この度の戦に活躍した者には恩賞が与えられます。日本側は刀伊の捕虜に高麗人が混ざっていたことから最初高麗による侵略を疑ったそうです。しかし1019年6月、高麗側から元山沖海戦で救出した日本人捕虜259人の送還があり誤解が解けました。ただ日本の高麗に対する警戒は続いたと言われます。新羅海賊に苦しめられた経験があったからでしょう。高麗としては遊牧民の遼王朝や、その後勃興した女真族の金王朝に圧迫されたため日本とまで敵対する愚を避けたかったのです。

 その後、1019年12月藤原隆家は大宰権帥を辞して帰京します。刀伊の入寇を撃退した功績から隆家を大臣や大納言に登用すべしという声があがったそうですが、隆家自身は病気のため朝廷出仕を控えました。政敵だった摂政藤原道長は、これを幸いとし昇進の沙汰を取りやめます。隆家は1037年再度大宰府権帥に任ぜられ1042年まで務めました。1044年1月1日死去、享年66歳。最終官位は前中納言正二位。

 

 刀伊の入寇は、激動の東アジア情勢がもたらした事件でした。大陸では遼王朝が滅亡し女真族の金王朝が台頭します。半島国家高麗はそれに翻弄され続け、最後はモンゴルの元王朝に服属しました。元は日本にも侵略の触手を伸ばし鎌倉時代末期の元寇に至るのです。

 

 

                                           (完)

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