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カテゴリー「 日本史」の記事

2024年7月25日 (木)

会津戦争2 『薩会同盟と新選組』

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 容保の京都守護職就任当時、京では浪士による騒擾が激しさを増していました。不逞浪士の逮捕は京都町奉行所の役目でしたが、あまりにも数が多く手に負えないため会津藩士が出動するケースが増えていました。容保は藩士に不浄の役目をさせるに忍びず、悩みます。

 そんな中、幕府が募集した京都治安維持を役目とする浪士団がありました。浪士団を率いる清河八郎は京都に着くやいなや浪士を集め、この浪士団の真意は徳川を守るにあらず尊王攘夷にあると暴露します。ところがそれに反発した浪士が多く浪士団は宙に浮きます。

 その中で、本来の役割である徳川家を守り京都の治安維持をすべきだと主張した30名ほどの浪士がいました。彼らは芹沢鴨、近藤勇などに率いられます。会津藩は渡りに船とばかりに、この浪士団を抱え込み会津藩預かり新選組を結成しました。

 新選組は、内部抗争から首領の芹沢鴨を粛清し新たに近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新体制に生まれ変わります。彼らの活躍は1864年の池田屋事件で発揮されました。そんな会津藩に接近してきた藩があります。薩摩藩です。長州藩に京都政界の主導権を握られていた薩摩藩は起死回生を目論み会津藩に近づいたのです。会津藩としても西国雄藩の薩摩藩との連携は願ってもない申し出でした。

 会津藩公用方秋月悌二郎が薩摩藩の高崎正風らと接触、薩会同盟の骨子が決まります。ここに一人の人物がいます。会津藩家老神保内蔵助の長男で容保の上洛に同行し会津藩公用方(外交官)に就任していた神保修理です。藩校日新館では秀才とうたわれ軍学者として名高かった井上丘隅(おかずみ)の次女雪子を妻とします。藩主容保の信頼も厚く側近として京都でも補佐をしていました。

 神保修理は開明的な人物で、京都でも各藩の要人と交際します。彼も心中では容保の京都守護職就任に反対で、なんとかして役を辞し会津に帰還することを願っていました。長州藩は攘夷派の公卿と結託し天皇の大和行幸を画策します。これは大和で討幕の狼煙を上げる陰謀でした。

 事件の真相を知った容保は驚愕し薩摩藩に連絡します。薩摩藩は薩摩系の皇族中川宮に奏請し天皇の大和行幸を中止させました。孝明天皇を動かし「奸臣(長州や攘夷派公卿のこと)を除くように」という勅命を賜りました。感激した容保は、薩摩藩、鳥取藩、備前藩、米沢藩、阿波藩の五藩と協力し御所の九つの門を2000名の兵士で固めます。

 一夜明け、真相を知った長州藩は藩士や浪士たちを集め抗議のために朝廷に詰め寄りますが、多勢に無勢、京都から撤退します。この時三条実美ら長州派の七卿を伴いました。これを八月十八日の政変と呼びます。

 京都政界を叩き出された長州藩の恨みは会津藩に向けられます。これが会津藩苦難の始まりになったことは、容保はじめ会津藩の誰も気づきませんでした。ただ長州藩もこの後苦難の時期が続くのです。

2024年7月24日 (水)

会津戦争1 『京都守護職』

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 江戸時代、美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)に高須藩3万石がありました。徳川御三家筆頭、尾張藩徳川家の支藩で尾張徳川宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役目を帯びていました。いわば徳川将軍家に対する御三家の役割の尾張徳川家版が美濃高須藩です。

 そんな高須藩松平家10代藩主松平義建(よしたつ)は子だくさんで10人の男子がいました。そのうち長男と末子の九男は早世しますが、次男慶勝は本来の役割通り尾張藩徳川家に養子に入り14代藩主となります。三男武成(たけしげ)は石見国浜田藩を継ぎ、五男茂栄(もちはる)は御三卿一橋大納言家の後継ぎとなりました。

 六男容保(かたもり)は会津藩松平家に養子に出され9代藩主を継ぎます。また七男定敬(さだあき)も伊勢桑名藩松平家を継承します。高須藩松平義建の子供たちが、戊辰戦争で敵味方に分かれ戦うのは悲劇でもあり歴史の皮肉でした。結局高須藩を継いだのは家に残った10男義勇(よしたけ)です。

 容保は幼少期から利発で将来を嘱望されていたそうですが、会津藩松平家は徳川将軍家第一の家で尚武の気風でしたから、14歳で養子に入った容保は藩祖保科正之が残した家訓を刻み込まれたそうです。養子として立場の弱い容保からしたら仕方ないことだったのでしょう。

 当時の日本は1853年のペリー来航から始まり安政の大獄、将軍継嗣問題、尊王攘夷運動の激化など動乱の時代を迎えていました。尊王攘夷の急先鋒長州藩は攘夷派公卿の三条実美(さねとみ)などを抱き込み幕府に攘夷決行を迫ります。しかし、そんなことをしたら欧米列強と大戦争になり幕府滅亡、日本植民地化の危険性がありました。

 京都には、一旗組の浪士たちが集まり要人暗殺、押し込み強盗など暴虐の限りを尽くします。幕府は、これまでの京都所司代体制では都を守り切れないと悟り、新たに京都所司代や大阪城代を管轄し京都の治安維持を役目とする京都守護職を設けました。

 本来なら、京都に近く実力もある御三家の尾張藩や紀州藩が就任すべき役職でしたが、誰も火中の栗を拾いたくないため就任依頼を断ります。御三家に次ぐ家格である越前松平家なども守護職就任を嫌ったため会津藩の松平容保に就任要請が来ました。

 もし守護職になったら尊王攘夷派の攻撃の的になり下手したら命も危なくなるので最初容保は就任を迷ったと言われます。国家老西郷頼母(たのも)、次席家老田中土佐なども会津から江戸に出てきて守護職就任を辞退するよう容保を説得しました。

 しかし幕府も強硬でどうしても容保に守護職就任してもらいたいと譲りません。一時は守護職候補で現在は幕府政治総裁職を務める越前福井藩主松平春嶽(慶永)は、容保に保科正之の家訓を持ち出して京都守護職就任を要請します。こうなると断れませんでした。

 自分は就任を断ったくせに嫌な役目を容保に押し付けた春嶽は狡猾だと思いますが、生真面目な容保は不本意ながらも受け入れざるを得なかったのでしょう。そしてそれが会津藩の悲劇の始まりでした。

 実は会津藩は、蝦夷警備を任され藩兵千人を蝦夷地に派遣していました。さらにペリー来航で三浦半島の警備も担当したため藩財政は火の車でした。西郷頼母もこれを理由に守護職就任を辞退すべきだと容保を説得したそうですが無駄に終わります。結局保科正之家訓の呪縛から逃れられない運命だったのでしょう。

 1862年(文久二年)12月、容保は会津藩士千人を率いて上洛します。京の市民は、整然と行進する会津藩兵を見て頼もしく思ったと伝えられます。容保は早速孝明天皇に拝謁し天杯と緋の御衣を賜りました。容保は感激し涕泣(有難く思って涙すること)したそうです。

 会津藩は黒谷金戒光明寺を本陣と定め京都の治安維持を開始しました。同時期桑名藩主で容保の実弟定敬も京都所司代に就任、兄弟で京都を守る役目を仰せつかります。

 

 次回は、会津藩の京都での活躍、新選組結成までを描きます。

2024年7月23日 (火)

会津戦争序章『会津藩の成り立ち』

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20240721-114341

 江戸期会津藩のあった会津地方は福島県の内陸部にありました。福島県の地勢は大きく3つに分かれます。すなわち奥羽山脈の西会津盆地を中心にした会津地方。奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた中通り。中通りは阿武隈川が中心を流れ主要幹線奥州街道が走っていることから仙道地方とも呼ばれました。阿武隈山地と太平洋に挟まれた地方を浜通りと呼びます。

 戦国時代には会津地方に割拠した蘆名氏が強大化し仙道地方の支配権をめぐって出羽米沢城主伊達氏と激しく争いました。一方浜通り北部には千葉一族の相馬氏が興り伊達氏と抗争します。戦国末期、伊達氏が蘆名氏を滅ぼし会津地方を併呑しますが、秀吉の欧州仕置きで伊達政宗はこれまで獲得した会津地方と仙道地方の大半を没収され、仙台に追いやられます。代わってこの地の支配者になったのは蒲生氏郷でした。

 会津地方を支配した蘆名氏は黒川城を本拠としますが、この地を若松と改めたのは蒲生氏郷でした。氏郷は黒川城を拡張し鶴ヶ城と名付けます。氏郷は会津92万石を領しますが1595年急死、代わって越後から上杉景勝が120万石で入部します。上杉氏の領地は浜通りを除く福島県の大半と、現在の山形県の米沢地方、庄内地方に及びました。その上杉氏も関ケ原敗戦で米沢30万石に減封、以後加藤氏(嘉明系)40万石の後、将軍家光の弟保科正之が23万石で会津藩に封じられます。

 会津藩松平家初代保科正之は家光の異母弟でした。2代将軍秀忠の御台所(正室)お江与の方は有名な浅井三姉妹の三女で大変嫉妬深い性格だったと伝えられます。秀忠が側室を設けるのを嫌い、秀忠がそんなお江与の束縛を逃れるため身分の低い侍女に産ませたのが正之でした。

 そのため、正之(幼名幸松丸)は存在を隠され信濃高遠藩主保科正光が預かり正光の子として養育されます。正之が異母兄の家光と初めて対面したのは、お江与の死後3年を経た1629年でした。1631年養父保科正光が死去したため、正之は信濃高遠藩3万石を継承し保科正之と名乗ります。家光は同母弟の忠長が秀忠、お江与の両親二人に溺愛され一時は三代将軍候補にもなったことから嫌いぬきました。一方、自分の地位を脅かす心配のない正之には愛情を示したそうです。

 保科正之は1636年出羽山形藩20万石に加増され1643年会津藩23万石に封じられます。以後保科松平家は幕末まで会津藩主を務めました。正之は徳川将軍家、特に家光の恩を忘れず子孫に「決して徳川将軍家を裏切るべからず」などの15か条の家訓(かきん)を残しました。これがのちの会津藩の運命を決めることになるのですから本当に歴史は分かりません。

 会津領は内高25万石以上あったそうですが、徳川御三家の水戸藩(当時25万石。のちに35万石になる)に遠慮して23万石に留めたとか。会津藩は藩祖保科正之の意向を受け、いざとなった時は徳川将軍家を助けるため尚武の気風を保ち続けます。そういう経緯から、幕末の危機の際幕府に頼られ矢面に立たされていくのです。

 

 次回、第1章では藩主松平容保の京都守護職就任と当時の会津藩や幕府の情勢について語ります。

2024年7月17日 (水)

奥羽越列藩同盟諸藩の事情

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 最近また戊辰戦争に興味を持ち『会津戦争のすべて』という文庫本を買いました。まだ手を付けてないんですが読了したら記事にするかもしれません。それはともかく、幕府に殉じ最初から薩長と敵対していた会津藩、庄内藩はともかくとして仙台藩、米沢藩はじめ他の藩はどういった動機で明治新政府と敵対したのか興味を覚えました。あくまで私見で史実とは違うかもしれませんが、各藩の事情を探りたいと思います。

 

【仙台藩】

 表高62万石の東北一の大藩。藩祖伊達政宗以来外様の最有力大名家の一つだったが、西洋の事情に疎いことから明治維新に乗り遅れ、幕府を倒し国政を壟断する(と仙台藩は勝手に思っていた)薩長の新政府に対する反感から奥羽越列藩同盟の盟主になった。実は奥羽戦争のきっかけになった奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵殺害の原因である奥羽を侮辱する手紙は最近の研究では仙台藩が作った偽手紙ではなかったかとも言われるが真相は不明。大藩であることを笠に着て、嫌々参加していた小藩を蔑ろにする行為が目立ち味方からも嫌われた。厳しい言い方かもしれないが、仙台藩の横柄な態度が列藩同盟の敗北を早めたともいえる。

 

【米沢藩】

 上杉家は関ヶ原の後120万石から30万石に減らされ、さらに後継ぎ問題で揉めて15万石にまで減封されていたので、どうして列藩同盟の盟主になったか本当に疑問。徳川家には恨みこそあれ恩など全く感じなかっただろうに。幕末時の藩主は12代斉憲だが、彼が佐幕派で幕府にも大事にされ幕末期19万石に加増された恩を感じていたのかも?そんなことで巻き込まれた藩士はたまったものではなかったと思う。

 

【久保田(秋田)藩】

 こちらも藩主佐竹家は常陸52万石から関ヶ原敗戦後出羽久保田21万石に減俸されていたから徳川家に恩は感じていなかった模様。藩内も勤皇派と佐幕派で争うが、平田篤胤の薫陶を受けた勤皇派が優勢で、嫌々列藩同盟に参加させられるも、奥羽鎮撫総督府一行が藩内に逃げ込んだことから同盟脱退、勤皇派に転じた。というより藩主佐竹義堯(よしたか)は最初から勤皇派で藩兵を率いて新政府軍に参加していたため藩主不在の状態だったとも言われる。同盟脱退は良いとしても、説得に来ていた仙台藩の使者を惨殺したことから同盟側の怒りを買い庄内藩、仙台藩、盛岡藩などから袋叩きに遭い滅亡寸前にまでなる。 新政府軍の援軍でようやく持ちこたえ藩の滅亡は免れたが、大きな被害を受け戦後復興に苦しんだ。

 

【弘前藩】

 藩祖津軽為信以来、生き残り戦術にかけては右に出る者がいないくらい要領が良い藩。最初は列藩同盟に参加するも諸般の情勢を分析し新政府側が有利で列藩同盟側に未来がなさそうだと悟るとあっさりと寝返った。私は裏切りよりも生き残り戦術に長けた者が好きなので、弘前藩津軽家も嫌いではない。戦国以来の宿敵盛岡藩の侵攻も撃退し戦後は恩賞として新政府より1万石の加増を受けた。久保田藩と比べると被害も少なく一番立ち回りが見事だったと言える。

 

【三春藩】

 戊辰戦争の裏切りで仙台藩からは蛇蝎のごとく嫌われるが、5万石の小藩に何ができただろうか?もともと藩主秋田(安東)家は出羽秋田城主。それが関ヶ原後の外様大名の大移動で南陸奥の三春に移されただけで徳川家に恩など感じていなかったと思う。小藩の悲しさで最初は周囲から攻められるのを恐れ嫌々列藩同盟に参加していたので、新政府軍が迫ってくると本来の希望通り寝返っただけだと思う。そもそも三春藩に対し横柄な振る舞いをしていたのは仙台藩の方で、怨むのはお門違いだと言える。

 

【二本松藩】

 これも藩主丹羽家は外様で徳川家に恩など感じていないはずだが、奥羽戦争では積極的に戦い二本松少年隊の悲劇を生む。真面目なところは要領より義を選びがちなので、結局は損をするという典型。弘前藩とは好対照。

 

【下手渡(しもてど)藩】

 藩主立花家は九州筑後柳河藩立花家の分家。外様とは言いながら1万石の小藩で若年寄など幕閣も勤めた家。心情的には勤皇派だったが、周囲が佐幕派なので攻められるのを恐れ嫌々列藩同盟に参加。しかし内々に新政府側と連絡を取っていたことが発覚し、仙台藩の怒りを買い攻撃される。これを救ったのは新政府軍に参加していた本家柳河藩兵で陣屋は落とされたものの何とか命脈は保った。小藩は生き残るために嫌々列藩同盟に参加した藩が多かったように思う。

 

 このように奥羽越列藩同盟は決して一枚岩ではなかったように思います。負けるべくした負けたのでしょう。同じ負けるにしても仙台藩など大藩がもう少し謙虚だったら小藩の早くからの裏切りはなかったと思うんですよ。勝手に他藩から兵糧を挑発したり、戦闘で負けそうになると小藩の兵を置き去りにして逃げたりしたら恨みを買うのは当然です。新政府側も暴虐行為はあったでしょうが、こちらは勝ち組なので不問にされただけでした。

2024年6月25日 (火)

徳川家の功臣大久保忠隣の子孫はどうなったか?

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 最近マニアックな記事が続いて申し訳ありません。たまたまYOUTUBEでNHK大河ドラマ『葵徳川三代』の切り取り動画を見ていたんですよ。関ヶ原で遅参した秀忠(西田敏行)に怒り「江戸へ追い返せ。顔も見たくないわ」と激怒する徳川家康(津川雅彦)。秀忠の軍監として付き従った三人の重臣、本多正信(神山繁)、榊原康政(清水綋治)、大久保忠隣(石田太郎)はなんとか取りなそうと奔走します。

 三人それぞれの奔走で親子対面にこぎつけ、秀忠の必死の謝罪でようやく家康は遅参を許します。その際、安堵の表情を見せる三人の重臣はセリフが無い中役者の演技力だけで魅せた名場面でした。

 大久保忠隣は、凡庸な秀忠を補佐し一度は世継ぎから見限ろうとした家康を必死に説得し思いとどまらせた忠臣でした。実際はどうか知りませんが、ジェームス三木さんの脚本を高く評価しているのでジェームス三木さんの解釈通り進めます。

 ドラマでも描かれますが、そんな忠隣も幕府内の権力争いに巻き込まれ謀反の濡れ衣を着せられ相模小田原藩十万石を改易させられます。忠隣は一切弁明せず従容と改易を受け入れ隠居して亡くなりました。その後の大久保家が気になったのです。

 なんといっても大久保家は忠隣の父忠世の時代から徳川家忠節一筋で仕えた家。本多忠勝の子孫がお家騒動とか色々やらかしても、最後は忠勝の功績を考え三河岡崎藩五万石として復活し幕末を迎えているので、大久保家にもそれなりの配慮があっただろうと調べたんです。

 忠隣改易(1614年1月)の時、嫡男忠常はすでに亡くなっていました。1611年10月10日、享年32歳です。忠常は家康の養女となった奥平信昌の娘(信昌の正室が家康の娘亀姫)を正室に娶っていたので忠隣とは別に武蔵国騎西藩二万石を拝領していました。忠隣改易事件の時忠常の息子忠職(忠隣の孫)が藩主でしたが、別家という事で騎西城蟄居という軽い処分で済みます。忠隣改易に連座し多くの大久保一族が処分されたのに、これは幸運でした。

 1625年(寛永二年)には、蟄居処分も解かれました。1626年には三万石加増で美濃加納藩五万石に転封となります。これは忠職が外祖母で家康の娘亀姫の血を引いていたことと大久保一族の長年の功績を考えての事でしょう。政敵であった本多正純(葵では渡辺いっけいさんが演じていましたな)が宇都宮釣り天井事件(1622年)で失脚していたのもあったのでしょう。

 1639年にはさらに二万石加増で播磨明石藩七万石、1649年にはまた加増で肥前唐津藩八万三千石となりました。前藩主寺沢堅高の悪政を正し藩政改革で善政を布いたそうです。1670年死去、享年67歳。

 忠職には3人の息子が早世し後継ぎがいなかったので従弟の忠朝(忠隣三男教隆の子)を養子に迎え二代藩主としました。忠朝は1677年老中に就任、1686年祖父忠隣の領地だった相模小田原11万3千石に復帰します。小田原復帰が大久保一族の悲願だったかどうかは分かりませんが、以後大久保家は7万3千石に減封されるものの幕末まで小田原藩主として続きました。

 江戸幕府初期、あれだけ権勢を誇った本多正純が失脚し配流先の出羽国横手で寂しく死んだのと比べると、大久保家は見事復活できたのだから忠隣も草葉の陰で満足していることでしょう。

2024年6月23日 (日)

幕末維新期に使われた銃の性能

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 最近幕末から戊辰戦争にかけての各藩の兵備に興味を持って調べているんですが、ネットでちょうどよい資料を見つけたので嬉しくなって紹介したくなりました。

 ゲベール銃と言うのは火縄銃に毛が生えた程度の性能でして、銃身にライフリングも施されておらずマッチロック式(火縄で撃発する方式)ではなくフリントロック式(燧石式)やパーカッションロック式(雷管式)で撃発する発射方式です。それでも西洋の情勢に疎い藩(東国に多かった)は、新式銃として有難がったそうです。

 ミニエー銃は同じ前装式ながら銃身にライフリングを施した銃で、弾丸も椎実状で命中率と射程距離が飛躍的に伸びました。四境戦争(幕府の第2次長州征伐)で長州藩兵が主力として使ったのがミニエー銃で、火縄銃やゲベール銃で武装した幕府軍が長州軍に歯が立たなかったのも理解できます。その上、長州軍は村田蔵六(大村益次郎)の指導で、当時としては異様な伏せ撃ちをしていたわけですから、これじゃ勝負になるはずもありません。

 スナイドル銃は、後装式の新式ライフルとして日本にもたらされました。画期的な金属薬莢で信頼性も高く射程も長いため薩摩藩、長州藩はこれを重用します。ただその分値段が高く数をそろえられなかったのが難点でした。

 スペンサー銃は当時最新鋭のレバーアクションライフルですが、過去記事で書いた通り弾丸の威力が弱く軍用ライフルとしては採用されませんでした。戊辰戦争でも幕府歩兵隊や佐賀藩など一部が装備していただけです。

 結局明治新政府はスペンサー銃ではなくスナイドル銃を制式ライフルとして採用します。西南戦争で新政府軍が使った銃がスナイドル銃でした。

 幕末に詳しい方なら、フランスのナポレオン3世から幕府に贈られた画期的なボルトアクションライフルであるシャスポー銃があるではないかと指摘されると思いますが、高性能な反面、唯一の欠点である紙薬莢採用で高温多湿な日本ではしばしば故障したと言われます。

 ただシャスポー銃の構造を参考にして、陸軍火器専門家村田経芳少佐が日本初の国産ボルトアクションライフル村田銃を開発したんですから役に立ったと思います。ちなみにフランス本国でもシャスポー銃の欠点は承知しており、紙薬莢を金属薬莢に改造したグラース銃を開発します。村田少佐が参考にしたのはグラース銃の方でした。

 幕末から戊辰戦争期に使われた各銃のうちスナイドル銃が一番コストパフォーマンスが高かったと言えそうですね。

2024年6月21日 (金)

日本の歴史的人口推移

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 たまたま日本の古墳時代の人口を調べていて、ついでなので縄文時代から現在に至るまでの日本の人口推移に興味が湧きました。と言っても古代の人口は確定しているわけではなく研究者によって数値が違うのであくまで参考程度に考えてください。

 過去記事の鬼界カルデラの噴火で紹介したと思いますが、縄文時代も数が少ないながら人口が大きく変動しました。縄文時代は紀元前1万3千年前に始まり紀元前5世紀から紀元前3世紀頃終わったと言われます。ごく初期、紀元前1万年前は推定ですがわずか2万人しか日本列島に人が住んでいませんでした。

 縄文時代は世界史的にみれば新石器時代にあたります。これまで狩猟しながら移動生活していた人々が定住し始めたのが縄文時代でした。この当時、狩猟採集の生活ですから2万人くらいがせいぜいだったのでしょう。その後縄文土器が発達し木の実などを備蓄できるようになると縄文中期ころには26万人まで増えます。

 ところが、中期から晩期にかけて人口が8万人まで減少したのは鬼界カルデラの噴火などの自然災害と世界的な寒冷化の影響でです。その後再び人口は増加に転じますが、このころ縄文人たちは栗を栽培したり初期の稲作を始めたりして生活が安定化したからでしょう。

 弥生時代は3世紀中ごろまで続きますが、稲作が本格化し集落も発展します。しかし豊かになれば争いも起こるので殺伐とした世の中になったと想像します。銅器、青銅器などの金属器が登場したのも弥生時代でした。鉄器も弥生時代から使われ始めますが、ご存じの通り初期の鉄器は鉄鉱石を溶かして鋳型に流し込むだけの鋳鉄で硬くはあっても、もろいものでした。

 日本で鋳鉄を鍛えて強靭にする浸炭法が使われだしたのはたたら製鉄の6世紀ごろだと言われます。その弥生時代の人口ですが、農業生産力の向上で60万人まで増えたと言われます。それでも60万人くらいですから大したことありませんね。

 弥生時代が終わって古墳時代が始まるとなんと500万人まで人口が増えたとされます。これは大和朝廷が日本をほぼ統一したからなのでしょう。実は古墳時代の人口を調べようと思ったのは、三韓征伐や白村江の戦いの時兵士を2万人から3万人動員したのは日本社会にどれくらい負担があったのか興味があったからでした。

 通常人口の3%が外征兵力に使える数ですが、500万人なら15万人くらいまでは動員できますね。これはあくまで推定人口ですから、私は実際の人口はもっと少なかったのではないか(250万人くらい?)と考えます。もっとも兵役人口3%説はローマ帝国や秦漢帝国など中央集権の古代国家の数値ですから、古代日本の場合はもっと少ない比率しか動員できなかっただろうと思います。

 当時の兵站能力なども考えると3万人くらいが外征兵力の限界だったのかもしれません。過去記事で何回も書きましたが、古代の朝鮮半島南部には和人が住んでいて三韓征伐の日本軍の兵力の中には現地で徴兵した分も入っていると思います。

 その後日本の人口は奈良時代、平安時代、鎌倉時代を通じて人口500万人から600万人とあまり増加していません。これが急激に増えたのは室町時代以降です。農業技術の向上と新田開発が続いた結果なのでしょう。平安時代、荒れ地を開墾して荘園が全国に普及しましたが、それほど人口が増えなかったのは都の貴族どもが国衙領を蚕食していた分が多かったのかもしれませんね。まさに国家に巣食うシロアリどもですよ。

 江戸時代初期で人口1700万人。そこから人口は飛躍的に伸び江戸末期には3400万人の人口を誇る堂々たる大国でした。明治時代にも順調に増え明治末期で人口5000万人にもなりました。大東亜戦争直前の人口は7300万人。戦後1億人の大台を突破し2008年には1億2800万人とピークを迎えます。しかしその後少子化問題などで緩やかな減少に転じ、2100年ころには5000万に程度まで減ると言う予測もあります。

 ただ日本の耕地面積、農業生産力から輸入を全く考慮しない場合人口4000万人くらいが適正人口だそうですから、最終的にはそれくらいまで減るかもしれませんね。少子化対策は日本の安全保障にもかかわる重大な問題です。政府は利権でごまかすことは絶対にせず真剣に取り組んでもらいたいと願うばかりです。

2024年6月19日 (水)

光る君へに出てくる北宋商人朱仁聡の考察

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 例によってマニアックなネタなので歴史に興味ない方はスルーお願いします。

 私は細かいことが気になってしまう性格です。NHK大河ドラマ『光る君へ』に出てくる北宋の商人朱仁聡は北宋朝廷の命を受け日本と交易をするために来日したと描かれています。あるいは日本を侵略するためのスパイではないかという疑惑も出ていました。

 しかし私は当時の北宋を中心とする東アジア情勢を考えて果たして北宋朝廷が日本に侵略目的のちょっかいを出したり、わざわざ交易を求めるかと非常に疑問を感じました。というのも当時の北宋にそんな余裕はなかったと思うんです。

 藤原道長の治世は内覧に就任した995年から、嫡男頼通に摂政と藤原氏の氏の長者を譲り引退した1017年までです。平安時代最大の外患刀伊の入寇は1019年ですから道長が政界を表向き引退し院政(という表現も変ですが…)を行っていた時でした。道長はその後1028年まで生きますが晩年は持病の糖尿病を悪化させ合併症で亡くなっています。

 朱仁聡の生没年は不詳ですが、おそらく987年から1000年くらいにかけて何度か来日していたようです。その時期北宋はどのような時代か調べてみると、第3代真宗皇帝の治世(在位997年~1022年)でした。

 北宋を巡る国際情勢は、契丹族の建国した遼が最盛期にあたり聖宗皇帝(在位982年~1032年)が統治していました。1004年遼軍と北宋軍は激しくぶつかり黄河を挟んで戦線が膠着します。中原まで攻め込まれているのですから北宋が不利で澶淵の盟を結ばされます。これは遼を兄、宋を弟とし遼に毎年莫大な歳弊(貢物)を贈ると言う北宋にとって屈辱的な内容でした。

 しかも、北西部にはタングート族が勃興し後に西夏を建国する李元昊が1003年に生まれたばかりでした。タングート族はチベット系の遊牧民族で、唐末期藩鎮(その責任者が節度使)として甘粛地方からオルドス(黄河の几状湾曲部の内側)地方にかけて勢力を扶植していました。北宋が天下統一後もしばしば反乱を起こし最後に李元昊が北西部の領土を奪い取ったのです。李元昊は1038年西夏を建国します。

 遼も最盛期とはいえ陰りが見え、辺境の満洲では女真族が勃興しつつありました。完顔阿骨打(わんやんあぐだ)による金の建国は1115年です。遼はしばしば女真に討伐軍を送りますが、地の利に明るい女真軍のゲリラ戦術に悩まされ鎮圧できませんでした。契丹族の遼は完全な遊牧民族、女真族は半農半牧の民族で普通なら遼軍の圧勝のはずですが、北宋からの莫大な歳弊で贅沢に慣れ堕落していた遼軍は弱体化していたと言われます。

 刀伊の入寇もそんな激動の東アジア情勢がもたらしたものでした。ですから北宋は海外に目を向ける余裕などなかったはずです。朱仁聡が北宋朝廷の命で来日したというのは考えにくいと思います。ここで思い出されるのが明末の王直や鄭芝龍(有名な鄭成功の父)です。彼らは交易商人を自称しましたが、実態は海賊でした。ですから朱仁聡も良く言えば冒険商人、実態は海賊に近い存在ではなかったかと考えるのです。もちろん宋朝廷の命というのも真っ赤な嘘。

 海賊と言っても倭寇と同様、相手が平和的な接触をしてきたときは交易をします。逆に相手が敵対姿勢を示したとき海賊行為を働くのです。藤原道長政権が穏便にお引き取り願おうとしても拒否したのは善良な商人でなかった証拠です。皆さんは朱仁聡の正体、どのように思われますか?

2024年6月17日 (月)

幕末維新期、スペンサー銃が普及しなかった理由

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M1865_repeating_rifle

 NHK大河ドラマ八重の桜を見ていた方は、主人公八重が兄山本覚馬から贈られた新式銃スペンサー銃で戦っていたシーンを覚えて居る方も多いと思います。ただ、私は日テレ年末時代劇『白虎隊』の大ファンなので山本八重は綾瀬はるかではなくスーちゃん(田中好子)のイメージが強いですし、八重と別れた最初の夫川崎尚之介も長谷川博己ではなく田中健なんですよ。ストーリー的にも八重の桜より段違いで白虎隊のほうが面白かったですしね。さすが杉山義法さんだと思いましたよ。

 それはともかく、スペンサー銃は元込め式のレバーアクションライフルでした。イメージが湧かない人のために説明すると、西部劇でよく出てくるガンマンやインディアンが使っているライフルです。元込め単発のスナイドル銃が出てきていたとはいえ、主力は先込め式で砲身にライフリングが施されているミニエー銃でしたから、ボルトアクションライフルのシャスポー銃と共にスペンサー銃はオーバーテクノロジーともいえる新式銃でした。

 発射速度は、レバーをコッキングすれば良いだけのスペンサー銃のほうがスナイドル銃より段違いに速いんですが、これが主力銃とならなかった理由があります。当時長州の村田蔵六(大村益次郎)が日本で初めて採用したと言われる伏せ撃ちがやりにくいのです。長州兵の異様な動作に戦国期からあまり発展しておらず旧態依然とした幕府軍はとまどい「長州の伏せ撃ち」と呼んで警戒したそうです(司馬遼太郎『花神』情報)。

 スナイドル銃は伏せたまま次弾を装填できますが、スペンサー銃はレバーをコッキングするために伏せ状態から一々横に転がる必要がありました。加えて、当時日本に来ていたスペンサー銃はライフル弾ではなく拳銃弾を使用していたので威力が弱かったそうです。レバーアクションライフルは装弾するのにストック側から細長いマガジンを入れるか、銃身の横から一発ずつ弾を込めないといけません。スペンサー銃の場合はストック側から7発のマガジンを装填する方式でした。

 当時の銃弾に詳しくないので間違っているかもしれませんが、現在の銃で考えるとスペンサー銃は拳銃弾を使うサブマシンガンくらいの威力しかなかったと思います。のちに0.58インチライフルマスケットと同等の威力の弾丸が使用できるようになったそうですが、軍隊で採用されなかったのは発射速度以外はボルトアクションライフルが優れていたからです。

 幕末維新期の日本では、当然スペンサー銃用の弾丸も輸入でしたから尚更使いにくかったと思います。値段も高くスナイドル銃の4倍の価格がしたと言われます。スペンサー銃を装備していたのは幕府歩兵隊、佐賀藩、黒羽藩(下野国那須郡大関氏1万8千石)くらいでした。新政府軍は、高価で威力も微妙なスペンサー銃ではなくスナイドル銃を主力小銃に採用したのも納得できますね。世界各国の軍隊でレバーアクションライフルが採用されなかったのも同じ理由です。

 帝政ロシア時代、騎兵銃としてウィンチェスターライフルを輸入したそうですが、レバーアクションとはいえ馬上で操作するのは簡単ではなく騎兵の評判も悪かったそうです。それ以外の国での採用例は寡聞にして知りません。

 レバーアクションライフルは狩猟用か西部劇で楽しむくらいが丁度良いのでしょうね。

 

2024年6月13日 (木)

戊辰戦争時会津藩兵力

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 戊辰戦争時の各藩の兵力はどれくらいだったか気になり調べてみました。特に会津藩。会津藩は公称23万石ですが、幕府預け領5万石があり合わせて28万石だったと言われます。藩主松平容保が京都守護職に就任するにあたり幕府が気を使ってさらに天領の管理を会津藩に任せたため実質40万石あったという説もあります。ただしこの話は小説(会津士魂だったかな?)で見ただけなので実態は分かりません。

 一応公式の23万石+幕府預け領5万石の28万石として話を進めます。戦国時代の軍役は1万石につき250人から300人でした。しかし江戸時代に入り軍役だけはかなり軽減され1万石あたり50人まで減らされたそうです。ただ、参勤交代や天下普請の負担が増大したため藩の財政は苦しくなりました。

 1万石50人なら28万石でたった1400人にしかなりません。しかし流石にこれだけでは薩長主導の新政府軍と戦えないので1万石につき120名ほど動員したそうです。その内訳は各隊100人(白虎隊だけ50人)で

玄武隊(50歳以上)…士中1隊、寄合1隊、足軽2隊で計4隊

青龍隊(36歳から49歳)…士中3隊、寄合2隊、足軽4隊で計9隊

朱雀隊(18歳から35歳)…士中4隊、寄合4隊、足軽4隊で計12隊

白虎隊(16歳から17歳)…士中2隊、寄合2隊、足軽2隊で計6隊

 これに砲兵隊300人、築城兵200人、指揮官200人で3500人ほどが会津藩の正規兵力でした。もちろんこれだけでは足らないので農・町民兵2700人、地方御家人、修験隊、力士隊など非正規の動員兵3200人で合計9400人ほどの兵力があったと言われます。

 ただし正規兵で使い物になるのは青龍隊と朱雀隊くらいで玄武隊と白虎隊は物の役には立たなかったと思います。非正規兵はそれ以上に駄目で新政府軍の攻撃を食らったら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑ったことでしょう。新政府軍も本気で戦争しているのは薩長土肥くらいでそれ以外の藩は時代の流れに逆らえず嫌々参加していただけでしょうから、グダグダの戦争だったという印象です。

 同時代の仙台藩はどうでしょうか?公称62万石、江戸期の新田開発で内高100万石以上あったとされる仙台藩ですが、7000人くらいしか動かせなかったそうです。本気で動員したら2万人くらいいけそうですが、仙台藩は一門や重臣の知行地が多く錯綜しており藩が統一して動員しにくい体制だったと言われます。となると会津藩は頑張った方なのでしょう。

 攻める側長州藩の兵力は5000人、薩摩藩で6000人くらいでした。実は石高(内高)を含む経済力は他藩を圧倒していて(どちらも100万石近い)、万単位の兵力も動員できたと言われます。しかし数よりも質を重視した両藩は新式のミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲などで武装した少数精鋭で戊辰戦争に挑みました。

 これじゃ旧幕府側が勝てるはずありません。もちろん幕府側にもこの当時オーパーツと言われたフランスのナポレオン3世から贈られたボルトアクションライフルのシャスポー銃で武装した洋式装備の幕府歩兵隊24000人がいましたが、この数はあくまで公式なもので、シャスポー銃を装備した本当の精鋭は2000人くらいしかいなかったと言われます。それ以外はさすがに火縄銃という事はないと思いますが、ゲベール銃が主力だったと思います。ゲベール銃は先込め式で砲身にライフリングが施されてない旧式銃でした。ミニエー銃も先込め式ですがこちらはライフリングが施されており射程と命中精度に段違いの差があったそうです。スナイドル銃はライフリング+元込めなので先込め銃より発射速度がかなり早くなりました。

 旧幕府側も洋式装備を熱心に取り入れた長岡藩(ガトリング砲で有名ですね)、庄内藩などがありましたが、全体的には旧態依然とした軍隊でした。会津藩も洋式装備取得に熱心だったそうですが、財政と時間が間に合わなかったというのが実情です。アームストロング砲といえば佐賀藩です。こちらも洋式軍隊では一日の長があり日本で唯一アームストロング砲を製造できた稀有の藩でした。

 色々見てくると、長崎に近い西国の藩のほうが情報に敏感で洋式軍隊の実力をよく認識し藩の軍制改革も熱心だったという事でしょうね。

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