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カテゴリー「 日本史」の記事

2022年2月20日 (日)

佐々木氏の本貫の地佐々木庄はどこにあったか?

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 近江源氏佐々木氏。宇多天皇の玄孫源成頼が近江国佐々木庄に下向したことから始まる一族ですが、鎌倉中期以降、嫡流で近江守護になった六角氏、北近江と出雲、隠岐、飛騨の守護となった京極氏に分かれます。

 

 京極氏は室町幕府の侍所頭人になれる家柄四職家(京極、山名、赤松、一色)だったので、こちらの方が優遇されているように見えますが、実は経済的には嫡流六角氏と大差がついていました。戦国末期から江戸初期の石高で言うと六角氏の支配領域南近江は50万石強。一方京極氏の北近江は20万石弱しかありません。この差は、石高は後世より低いとはいえおそらく鎌倉時代から変わらなかったはずですから室町幕府で名誉を得た京極氏、実利を得た六角氏と言えるでしょう。

 

 京極氏は南北朝期の佐々木道誉(高氏)が有名ですが、その後は鳴かず飛ばず、守護になった飛騨には浸透できず、出雲は守護代尼子氏に乗っ取られました。一応飛騨国司姉小路家を乗っ取った飛騨三木氏は佐々木氏流とも言われますが、出自がはっきりと分からないため何とも言えません。それに比べると六角氏は高頼の時代室町幕府九代将軍足利義尚の追討軍を破るほどの実力を持ち、その後の戦国時代も京の将軍継承争いに介入するほどでした。

 

 では、佐々木氏発祥の地佐々木庄はどこだったか気になって調べてみました。どうも近江国蒲生郡佐々木(滋賀県近江八幡市安土町)当たりが本拠地だったみたいですね。地図で見ると有名な織田信長の安土城の近く、六角氏の居城観音寺城もすぐ近くです。六角氏が南近江一円を支配したのは室町時代以降でしょうが、近江平野の中心地を支配していたとなるとその後の富強は約束されていたようなものだったでしょう。

 

 六角氏が近江源氏の嫡流というのも納得できますね。それに比べると京極氏の北近江はあまり石高が高くなく、応仁の乱後は没落し守護代浅井氏の客分にまで落ちぶれるのですから哀れを誘います。ただ、京極高次の時代に大逆転し豊臣大名から江戸大名に転身し讃岐丸亀6万石で幕末まで続くんですから世の中どうなるか分かりませんね。

2022年1月27日 (木)

豊臣三中老のその後

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 本日の話題は非常にマニアックですのでスルーお願いします。

 

 三中老というのは豊臣政権で五大老と五奉行の意見が合わないときに仲裁役として設けられたもので、生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏が任ぜられました。ちょうど戦国時代をテーマにしたシミュレーションゲームを遊んでいてこの三人が出てきたものですから、彼らの子孫がどうなったのか気になりました。

 生駒親正は讃岐丸亀十七万石、中村一氏は伯耆国十七万五千石、堀尾吉晴は出雲二十三万五千石を関ケ原後領したはず。ただ江戸期を通じて彼ら以外の大名がこの地を領しています。讃岐丸亀は生駒氏の後山崎氏が入り最後は京極氏が六万石→五万一千石で幕末を迎えています。出雲は堀尾氏から京極氏に代わり最後は親藩の松平氏で幕末に至りました。伯耆は中村氏の後因幡と共に池田氏が三十二万石で入り伯耆国の米子城には家老の荒尾氏が入ります。

 調べてみると、三氏ともお家騒動とか無嗣断絶で終わっていますね。生駒氏は1640年親正の曾孫高俊の代に生駒騒動を起こして断絶、嫡男高清が八千石の旗本になり幕末まで続きました。

 中村氏は一氏が1600年8月に死去、1609年には嫡男一忠が急死し後継ぎがいなかったためあっさり断絶しています。運がない一族でしたね。

 堀尾氏も嫡男忠氏が早死にし、吉晴本人も1611年69歳で亡くなっています。孫の忠晴が跡を継ぎますが1633年35歳の若さで急死しこれも後継ぎがいなかったために断絶しました。徳川家に近い大名なら一族の誰かを旗本に取り立て家名だけは残すのでしょうが、豊臣恩顧の大名には冷たかったんでしょうね。福島正則とか加藤清正も同じ扱いですから。正則の子孫は二千石の旗本になったようですが…。

 こうしてみると織豊期に勃興した家で江戸時代を生き抜くことは難しかったんでしょうね。それを考えると平安時代から幕末まで続いた佐竹氏、鎌倉時代以来の島津氏、南北朝以来の伊達氏は凄いと言わざるを得ません。これら三家は勢力の増減はあってもずっと大名ですから。

2022年1月20日 (木)

鎌倉殿の13人の有名子孫たち

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 NHK大河ドラマで鎌倉殿の13人が始まって鎌倉時代への興味が再び湧いてきました。13人というのは頼朝死後二代将軍頼家が若く政治経験がなかったことから宿老13人が合議制で幕府を運営したもので歴史的には十三人の合議制と呼ぶそうです。

 この合議制は幕府執権北条氏が次々とライバルになりそうな有力御家人を滅ぼしたので早晩崩れます。そして執権北条氏による独裁体制へと移行するのです。では彼ら13人の子孫がどうなったか気になりますよね。有名どころだと大江広元の子孫は戦国大名毛利氏で江戸時代も周防長門37万石の大名として幕末まで続きます。それ以外の御家人はどうなったのでしょうか?

 

◇三浦氏  

 1247年宝治合戦で北条氏に滅ぼされる。傍系から嫡流を継いだ三浦氏は伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされる。庶流は会津の戦国大名蘆名氏になるがこれも伊達政宗に滅ぼされる。

 

◇和田氏

 初代侍所別当和田義盛は1213年和田合戦で北条氏に滅ぼされる。義盛三男朝比奈義秀のみが生き残る。戦国時代駿河今川氏に仕えた朝比奈氏は義秀の子孫だと言われる。

 

◇比企氏

 1203年比企能員(よしかず)の変で北条氏に滅ぼされる。族滅に近かったので子孫がどうなったか不明。

 

◇八田氏

 八田氏初代知家は宇都宮一族で常陸守護。彼の子孫は小田氏を名乗り戦国最弱武将として名高い小田氏治は彼の子孫。何回落城しても復活しているんだから領民には愛されていた模様。

 

◇安達氏

 1285年霜月騒動で北条氏に滅ぼされる。北条氏というより実質的には北条氏の内管領平頼綱の主導ではあったが。これも族滅に近く有名子孫は不明。

 

◇足立氏

 こっちの足立氏は目立たない存在。足立氏も霜月騒動に巻き込まれ滅びている。子孫は丹波国氷上郡佐治郷の地頭になり明智光秀に仕えたと言われる。

 

◇梶原氏

 私は草燃えるの大ファンなので景時を演じた江原真二郎のイメージが強い。景時は東国武士に珍しい有能で教養のある武士だったがあまりにも官僚気質だったため他の御家人に嫌われ1200年御家人66名の弾劾で失脚、京都に逃れようとするも北条氏の追手に攻められ滅亡。子孫は奥州、下野、武蔵、尾張、讃岐に残った。

 

◇二階堂氏

 藤原為憲流なので工藤氏(伊東氏)と同族。子孫は全国各地に広がるが、奥州須賀川城主の戦国大名二階堂氏が一番有名か?

 

◇中原氏

 中原親能は大江広元の実兄。子孫は下級貴族の押小路家の他、三池氏や鹿子木氏ら肥後や筑後の小大名になったものが多い。親能が筑後、肥後の守護になったことと関係していると思う。熊本の戦国ファンなら鹿子木寂心をあげるだろうが全国区ではないので誰も知らないだろうな。隈本城(加藤清正の熊本城の前身)の築城者なんだけどね。

 

◇三善氏

 康信は初代幕府問注所執事。大江広元と並ぶ有能な官僚だった。子孫は筑後国行葉郡に所領を持ち問注所氏になった。問注所氏は豊後の大友氏の圧迫を受け被官化する。最後は柳川藩立花家に仕えた。

 

◇大江氏

 大江広元は初代幕府政所別当。1221年承久の乱で京都守護だった広元長男親広失脚。1247年宝治合戦では広元四男毛利季光が三浦氏に味方して討たれる。広元次男長井時広が嫡流として残るが、南北朝時代伊達氏に滅ぼされる。毛利季光の四男経光が安芸国吉田荘に下向し戦国大名毛利氏になった。

 

 残りの二人は北条時政、義時父子なので説明不要でしょう。鎌倉幕府の十三人の宿老の子孫を調べるのは面白いですね。非常に楽しかったです。

2022年1月15日 (土)

土肥遠平と小早川氏

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 平安時代末期から鎌倉時代に渡る非常にマイナーな話ですので興味ない方はスルーしてください。

 私は日向の戦国大名伊東氏が好きで、その関連で先祖の工藤祐経も好きだという話は以前書きました。世間一般では工藤祐経は曽我兄弟の仇討の敵役としてイメージが悪いですが、もともと曽我兄弟の祖父で祐経の叔父でもある伊東祐親が祐経の所領を押領したのが発端ですからどっちもどっちではあります。祐親を殺すつもりが、祐親の嫡男で曽我兄弟の父に当たる河津祐泰がとばっちりで殺されたのは気の毒ではありますが…。

 今回の話は、伊東祐親が工藤祐経の所領を押領した時同時に祐経に嫁がせていた娘の万劫御前を強制的に離縁させ土肥遠平に再婚させた後の話です。土肥氏は桓武平氏良文流で相模国土肥郷を領した武士でした。遠平は源頼朝の鎌倉幕府創建に協力した土肥実平の嫡男です。遠平の生没年が分からないためはっきりと断言はできませんが、一応万劫御前は遠平の正室とされていますので遠平の嫡男維平は万劫御前の子供かもしれません。

 実は遠平は実子維平の他に佐久源氏平賀義信の五男景平を養子に迎えています。この辺りの経緯が謎なんですが、平賀義信は源氏の有力者で比企氏や北条氏とも姻戚関係だったため幕府内での勢力維持のために養子に迎えたのかもしれません。正室万劫御前は逆賊伊東氏の娘だし頼朝の寵臣工藤祐経の元妻だし何かと都合が悪かったのだろうと想像します。

 土肥遠平は、土肥郷小早川村に居館を設けたことから小早川氏を名乗りました。源平合戦で戦功をあげ恩賞として安芸国沼田荘の地頭職を得ます。遠平は実子維平に本拠早川荘(土肥郷)を相続させ、安芸国沼田荘は養子景平に相続させました。これが安芸小早川氏の祖です。その後、維平は和田合戦で血縁関係のあった和田義盛に味方し敗北、捕らえられて処刑されます。父遠平は維平とは無関係を貫き処罰は免れますが、鎌倉に居づらくなったのでしょう。養子景平が相続した安芸国沼田荘に下向し隠棲します。そこで生涯を終えたそうです。

 小早川氏は南北朝、戦国時代を生きぬき最後は毛利元就の三男隆景を養子に迎えました。この時点で小早川氏の嫡流は絶えたことになります。隆景は豊臣政権の五大老になるなど活躍しますが、実子がなく豊臣秀吉の甥秀秋を養子に迎えました。もう一人元就の九男で異母弟の秀包も養子にします。秀秋の関ケ原での裏切りとその後の狂死は皆様ご存知の通りです。秀包も関ヶ原で西軍に付いたため改易、宗家の毛利家に戻り輝元から長門に所領を与えられます。

 秀包は小早川秀秋の裏切りでイメージが悪いと思ったのか毛利に姓を戻し吉敷毛利家七千石として毛利宗家を支えました。

2022年1月11日 (火)

八重姫が強制的に嫁がされた江間小四郎は北条義時か?

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 今年の大河は鎌倉殿の13人。その中で新垣結衣演じる八重姫が悲劇のヒロインとして出てきます。八重姫は伊豆の豪族伊東祐親の三女で流人だった源頼朝と通じ一人息子千鶴丸を得ます。ところが京の大番役から帰ってきた父伊東祐親はこれを知り激怒。千鶴丸を殺し頼朝と別れさせます。八重姫も強制的に江間小四郎という身分の低い武士に嫁がされました。ところがこれには異説がいくつもあり、息子の死と頼朝と別れさせられたのを悲しみ身を投げたとも、頼朝を追っていくも追手に追い付かれて殺されたとも、別れさせられた後病気になり亡くなったともいわれはっきりしません。

 一応八重姫自体は実在の人物ですが、曽我物語などでいろいろ脚色されているのでどのような生涯を送ったかは分かりません。ここで問題にするのは八重姫ではなく江間小四郎の方です。実は江間小四郎は北条義時の事ではないかという説があるのです。というのも義時の幼名は小四郎。そして江間を領地にしていました。ですが調べてみると、この事件があったのは吾妻鑑によると1175年ころ。義時は1163年生まれですからこの時12歳くらい。いくらなんでもこれは無いだろうと思います。

 しかも義時が江間の地を得たのは頼朝の鎌倉政権ができた後だそうです。江間小四郎は義時の幼名と偶然一致しますが別人だろうと言われています。古来様々な人が推理していますが、私が一番納得したのは江間小四郎はもともと伊東氏側の人間で伊東祐親が頼朝に敵対した時味方になったという説です。そして伊東祐親が滅ぼされたとき一緒に殺された。江間の領主がいなくなったので鎌倉政権ができた後恩賞として義時に与えられたというもの。こう解釈するのが一番自然なんでしょうね。

 伊東祐親も平清盛の嫡男小松内大臣重盛の家人だったため、罪人の頼朝と自分の娘が通じたのを知って青くなったのでしょう。今を時めく平家に睨まれると滅ぼされかねませんから。逆に北条時政は頼朝と娘の政子が通じたのを利用してのし上がろうとした。この差が明暗を分けたのかもしれません。懐かしの大河ドラマ草燃えるでは頼朝は八重姫も政子も別に愛しているわけではなく後ろ盾として伊東氏や北条氏を利用するための方便だったと描いていましたが、案外これが史実なのかもしれません。

 現在とちがい昔は惚れた腫れたで結婚できるわけはありません。結婚は家同士が結び付く事。流人で何の後ろ盾がない頼朝にとっては伊豆の豪族を味方に付けるための最善の策だったと思います。こう書くと身も蓋もない話になりますが現実はこんなものです(苦笑)。

 

 

2021年11月 9日 (火)

刀伊の入寇余話 博多警固所

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 皆さん誰も興味ないと思いますが、私は一つの事に関心を持つと関連項目も調べたくなるという癖を持っていまして、刀伊の入寇で日本側防衛拠点になった博多警固所が気になっていました。

 そこで調べてみると、古代から中世までの博多は西側が入江で今の福岡城から北の西公園荒津山のあたりまで南から伸びてくる小半島になっていたことが分かりました。これを福崎台地と呼ぶそうですが標高は30m余りと低い丘陵でした。その東側が冷泉津と呼ばれる入江で博多の港があります。半島の西側も草香江(くさかえ)という入江でした。今でいうと冷泉津は福岡市天神のあたり。草香江は現在大濠公園として残っています。

 この辺りは縄文時代から人が住んでいたそうで、博多は大和朝廷時代、大陸・半島への玄関口でした。魏志倭人伝を読むと弥生時代から栄えていたことが分かります。遣唐使もここから出発し、律令時代博多は大宰府の外港として重要視されました。朝廷は博多を守るため、この福崎台地に目を付けます。実はここに設けられたのが博多警固所でした。

 江戸時代初期、黒田長政が戦功で筑前52万石を得て入部した時目を付けたのも福崎台地でした。長政は福崎台地の最高所赤坂山(標高31m)に福岡城を築城します。その際福崎台地の南端を削って外堀にしたそうですから、この時福崎台地が南の山地と切り離されたことになります。その後干拓が進み福岡城の東側は天神地区となり西側は大濠公園となったのでしょう。

 ですから福崎台地、赤坂山の辺りは古代から博多を守る防衛拠点となっていたのです。現在の地形だと分かりませんが、半島部を要塞化していたので刀伊の賊も攻めあぐねたのでしょう。実は元寇の時も福崎台地、赤坂山の辺りは激戦地になっています。博多を占領するためには絶対にこの地を攻め落とす必要があったのだと思います。

 おそらく大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代と時代ごとに防衛施設が設けられていたと想像できます。ですから黒田長政が福岡城を築くときもこの地形を利用したはずです。実は福岡市中央区に警固神社、警固地区というのがありますが長政が城を築いた時、赤坂山にあった警固神社を現在の場所に移築したそうです。

 博多警固所は博多を守る重要な防御施設だったことが、当時の地形を見て納得しました。もしかしたら福岡城の地下には弥生時代の環濠集落跡があるかもしれません。大濠公園や天神に対するイメージもだいぶ変わりました。今度福岡に行くときは当時に思いを馳せたいですね。

2021年11月 7日 (日)

刀伊の入寇Ⅲ 異族襲来

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 1019年刀伊の入寇は日本史上初の異民族の来襲だったわけですが、実はそれまでにも小規模な侵略は何度もありました。新羅末期の893年新羅賊が内海の有明海を横断し肥後国飽田郡(現在の熊本市西部)に侵攻、民家が焼亡し賊は肥前国松浦郡に逃亡したという記録があります。新羅賊は翌894年にも来襲し北九州沿岸や対馬を略奪、住民を殺傷しました。この時の新羅賊は100隻の軍船で押し寄せたと言われ、対馬守文屋善友率いる国府の兵と合戦になったそうです。国府軍は奮戦し、賊徒302人を射殺、大将軍3人、副将軍11人を捕虜にしました。室町時代の応永の外寇を彷彿させる事件ですが、この時も賊は2500人以上いたと言われます。一方対馬の兵は数百人もいなかったはずで新羅兵が弱いのか対馬の日本兵が強すぎるのか分かりません。

 新羅賊というのもただの暴民ではないでしょう。軍船に乗っていたことから新羅の統治能力が弱体化し辺境の豪族か地方領主が組織した軍勢だった可能性が高いと思います。新羅末期地方豪族の反乱が相次いでいたそうですし、農民出身の甄萱(けんけん)が光州で挙兵し後百済を建国したのは892年のことでした。新羅王朝末期、王権が及ぶのはかつての本拠慶尚道くらいまで縮小し弱体化していたのでしょう。

 日本側の記録では、884年にも新羅賊来襲が記されており何度も壱岐対馬や北九州沿岸は海賊被害に遭っていたと言われます。これを見ると日本側の倭寇は大陸や半島側の侵略の報復という意味もありそうです。結局どっちもどっちだったのでしょう。

 藤原隆家が大宰権帥として赴任したのは1014年でした。隆家は中関白家の期待の星でしたから護衛として付き従う武士団も強力で、房総平氏の平致光(むねみつ 房総平氏の棟梁平公雅【きんまさ、平将門の従兄弟】の子か孫だといわれる)、藤原政則(蔵規とも書く)らの名前が挙がっています。藤原政則という人物は謎が多く、但馬出身だとされ、隆家が但馬に流されていた時側室に生ませた子だとも言われますがはっきりしません。その後肥後菊池地方に土着し菊池氏の祖となりました。これには異説があり、古代の狗奴国の官・狗古智卑狗が菊池氏の源流だという説もあります。大宰府に在庁官人として仕えていた時に藤原隆家に気に入られ藤原姓を与えられたとも言われており、私はこちらの説がしっくりきます。

 1019年3月、刀伊の兵船五十余艘が対馬に来襲、住民を殺傷し物資を略奪し牛馬を殺して食べたという急報が大宰府にもたらされました。賊は同じ日壱岐にも侵攻します。4月7日壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚は単身脱出し大宰府に到着、壱岐守藤原理忠(まさただ)以下多くの島民が賊に殺されたと伝えました。

 刀伊の軍船はその後筑前の怡土(いと)、志摩、早良の三郡(ともに博多湾に面している)を襲撃。略奪をほしいままにし老人や児童を斬殺、男女の捕虜500人を攫います。これは奴隷として売り飛ばすためでした。刀伊の賊は軍船に5~60人ほども乗っていたので総勢は2000人から3000人あるいはそれ以上という規模でした。この数は、侵略し領土を奪うには不足でしたが略奪するには十分すぎる数でした。防衛する側もある程度の人数を集めないと対抗できないからです。

 これを見ても刀伊の賊がただの暴民ではなく組織だったものであることが分かります。実際高麗水軍は刀伊の賊に敗北し略奪を許していたくらいでした。報告を受けた大宰権帥藤原隆家は前将監大蔵朝臣種材(藤原純友の乱鎮圧で活躍した大蔵春実の孫)、藤原朝臣明範、散位平朝臣為賢(常陸平氏、伊佐氏・伊達氏の祖、ただし別系統という説もある)、平朝臣為忠(為賢の一族か?)、前将監藤原助高、大蔵光弘、藤原友近らを博多警固所に派遣し防衛させます。

 刀伊の賊は1019年年4月博多湾にある能古島を拠点にし、対岸の博多警固所を攻撃します。日本側が必死に防戦したため刀伊軍は警固所を攻略できず能古島に引き上げました。大宰府は早良郡から志摩郡の船越津(糸島半島の博多湾とは反対側)にかけても別軍を派遣し刀伊軍に備えます。4月刀伊軍は再び博多湾に上陸しました。この戦いでは九州の武士である財部(たからべ)弘延、大神(おおが)守宮らが奮戦し賊徒40人を討ち取ったそうです。大蔵種材、藤原致孝、平為賢、平為忠らは軍船に乗って海路刀伊軍を攻撃します。

 形勢不利を悟った刀伊軍は博多湾を撤退、防備が手薄な肥前国松浦郡一帯を襲撃しました。前肥前介源知(しるす、肥前松浦氏の一族)は郡内の兵を集めこれを迎撃、大宰府からも軍船40艘が追撃してきたため刀伊軍は侵略を諦め4月13日ようやく退去します。その後朝鮮半島に引き上げた刀伊軍は半島の東岸を荒らしまわりますが、元山沖で高麗水軍と合戦になり壊滅したそうです。この時、日本で捕虜にしていた男女は戦の邪魔になるからと海に投棄したそうですから彼らがどれだけ鬼畜か分かりますね。

 刀伊の侵略を撃退した日本側ですが、その被害は甚大で殺害された住民300人以上、捕虜となった者1000人以上(大半は朝鮮半島沖で捨てられ溺死)、壱岐では国守まで殺されるという惨状でした。これは記録に残されている数ですので、実態はその数倍だったとも言われます。

 刀伊の入寇時、現地で迎撃を指揮した藤原隆家が断固たる態度で対応したのが日本側に幸いしたと思います。これが都の惰弱な貴族が指揮官だったらもっと被害が増大し下手したら国土の一部を占領されていたかもしれません。藤原隆家の武勇は後の武士団の憧れとなり、隆家を祖と称する者が多かったと言われます。菊池氏などまさにそうでした。

 論功行賞で大蔵種材は壱岐守、藤原政則も大宰少弐・対馬守に任ぜられました。その他、この度の戦に活躍した者には恩賞が与えられます。日本側は刀伊の捕虜に高麗人が混ざっていたことから最初高麗による侵略を疑ったそうです。しかし1019年6月、高麗側から元山沖海戦で救出した日本人捕虜259人の送還があり誤解が解けました。ただ日本の高麗に対する警戒は続いたと言われます。新羅海賊に苦しめられた経験があったからでしょう。高麗としては遊牧民の遼王朝や、その後勃興した女真族の金王朝に圧迫されたため日本とまで敵対する愚を避けたかったのです。

 その後、1019年12月藤原隆家は大宰権帥を辞して帰京します。刀伊の入寇を撃退した功績から隆家を大臣や大納言に登用すべしという声があがったそうですが、隆家自身は病気のため朝廷出仕を控えました。政敵だった摂政藤原道長は、これを幸いとし昇進の沙汰を取りやめます。隆家は1037年再度大宰府権帥に任ぜられ1042年まで務めました。1044年1月1日死去、享年66歳。最終官位は前中納言正二位。

 

 刀伊の入寇は、激動の東アジア情勢がもたらした事件でした。大陸では遼王朝が滅亡し女真族の金王朝が台頭します。半島国家高麗はそれに翻弄され続け、最後はモンゴルの元王朝に服属しました。元は日本にも侵略の触手を伸ばし鎌倉時代末期の元寇に至るのです。

 

 

                                           (完)

2021年11月 6日 (土)

刀伊の入寇Ⅱ 11世紀の日本

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 刀伊の入寇の起こった1019年がどういう年かというと、日本では藤原道長が従一位摂政・太政大臣として藤原摂関家の絶頂期にあった時期でした。道長の有名な和歌「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と詠んだのは刀伊の入寇が起こる一年前の1018年の事です。

 ただ平安時代と言う名前と違い、実際は世の中が騒然とした時代でもありました。平将門が関東で、藤原純友が西国で起こした反乱、承平天慶の乱は935年から941年にかけてで道長が政権を握る60年前、そして奥羽で起った前九年・後三年の役は道長の子頼道時代の1051年から1087年にかけて起こります。

 道長の属する藤原北家が他氏を圧し朝廷の高官を独占していく過程で律令制は崩れていきます。奈良朝聖武天皇時代の墾田永年私財法が引き金となり荘園が拡大し朝廷の歳入は激減しました。というのも最初は荒蕪地の開墾だったものが次第に国衙領を蚕食するようになったからです。貴族たちはこぞって荘園獲得という私利私欲に走ります。また荘園を開発した豪族たちも都の権門と結ぶことで自己の権益を獲得していきました。これら豪族たちが武装したのが武士の始まりだと言われます。土地争い、水争いを解決するには自分たちが武装するしかなかったのです。律令制は崩壊し朝廷に紛争解決力は無くなっていました。海音寺潮五郎が小説『海と風と虹と』(NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の原作の一つ)で藤原純友に「都の貴族たちは国家に巣くう白蟻たちだ」と言わせたのもこういう実態を踏まえてのことでした。藤原氏を中心とする貴族たちは自分たちの利益を最優先したために朝廷の力を弱め最後は実力のある武士に実権を奪われていくのです。言わば自業自得でした。

 律令制下で国防を担っていたのは軍団制です。これは戸籍に基づき住民の中から一定数を徴兵するもので全国各地に設置されました。規模はだいたい一軍団1000人から2000人くらい。ローマ帝国の軍団(5000人から6000人)に比べると小規模でしたが、人口も経済規模も少ない日本ではこれが精一杯でした。防人というのは軍団に徴兵された兵士の事です。桓武天皇の時代、奥州や西国を除いて軍団制は廃止されました。代わって健児(こんでい)制が導入されます。これは各国府の税収を基に集められた一種の傭兵で全国合わせても3000人くらいと小規模なものでした。税収が激減した朝廷が維持できる精一杯の数だったのでしょう。その健児さえも道長の時代には有名無実の存在となっていました。

 では刀伊の入寇で活躍したのはどういった勢力だったかというと、まさに武士団でした。平将門の乱で平貞盛の常陸平氏、藤原秀郷の下野藤原氏、河内源氏の祖源経基らが東国で強力な武士団化したのと同様、西国でも藤原純友の反乱鎮圧で活躍した大蔵春実の子孫である大蔵氏(嫡流は筑前原田氏となる。一族に秋月氏、高橋氏、江上氏など多数。原田党と呼ばれる)や、宇佐神宮に所縁の大神(おおが)氏などが武士団として成長していました。

 これに加えて刀伊の入寇を迎え撃った大宰権帥(ごんのそつ)藤原隆家の護衛として下向してきた武士たちが迎撃軍の中核となります。隆家の父道隆は正二位関白・内大臣でした。ところが995年43歳で死去したため摂政・関白職は弟道兼に移ります。その道兼も急死したため最終的に摂政の地位を得たのは道長でした。道隆は長男伊周(これちか)に摂政・関白職を譲りたかったそうですがそれを実現する前に亡くなったのです。

 伊周は叔父道長と壮絶な権力争いをしますが、敗北し1010年失意のうちに病死します。享年37歳でした。弟隆家も道長に強烈な敵意を持っていたと言われます。大人しい兄伊周と違い激しい性格だったと言われる隆家は道長に疎まれ出世できませんでした。そのうち隆家は目の傷から眼病を患い大宰府に名医と評判の唐医がいることから、自ら大宰府赴任を希望します。道長も体の良い厄介払いができると思い、隆家の希望通り大宰権帥に任命しました。

 

 これが後の我々から見ると最適な人選になるのですから歴史の皮肉です。次回は、刀伊の入寇の推移について語りましょう。

 

 

2021年11月 5日 (金)

刀伊の入寇Ⅰ 11世紀の東アジア

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 学生時代、日本史で何となく習ったので覚えている人も多いと思いますが、日本が外国から侵攻されたのは元寇、大東亜戦争とこの刀伊の入寇の三度しかありません。ところが他の二つと比べ刀伊の入寇に関してはほとんど実態が知られていませんでした。最近になって『刀伊の入寇』(関幸彦著 中公新書)が出たくらいです。

 本シリーズでは『刀伊の入寇』(中公新書)を軸に当時の東アジアと日本の状況を踏まえ見ていこうと思います。刀伊というのは聞き慣れない言葉ですが、実は民族名ではありません。高麗が彼らを東夷(古朝鮮語で『とい』)と呼んだのが語源だそうです。刀伊は日本側の当て字でした。刀伊の入寇が起こったのは1019年です。当時の朝鮮半島は高麗王朝(918年~1392年)が成立していました。高麗は王建が建てた王朝ですが、彼は純粋な朝鮮民族ではなくツングース系の女真族出身だと言われます。ついでに言うと高麗の次の李氏朝鮮を建てた李成桂も女真人だとされます。

 この段階では朝鮮民族は成立しておらず各地から集まった様々な民族が雑居していただけだとも言われます。高麗以前の高句麗、百済はツングース系の扶余族の建てた国、新羅に至っては三つの王統(金、朴、昔)のうち昔氏は日本人の可能性が濃厚です。これは過去記事(新羅日本人国王説)で検証しています。加えて古代の稲作伝播の過程で朝鮮半島南部にも和人が住んでおり任那日本府は植民地総督府ではなく日本の地方行政組織に過ぎないと思っています。ですから半島南部に日本式の前方後円墳が残っているんです。韓国政府は歴史の真実が発覚するのを恐れかなりの日本式古墳を破壊したそうですがこういう態度がノーベル賞を取れない理由なんでしょう。

 話が脱線したので本題に戻すと、高麗は建国はしたものの未だに安定した半島支配が出来ていなかったと言われます。それは新羅末期の混乱から続き、900年から935年には後百済が登場し慶尚道を除く半島南部から平壌あたりまでを支配していました。899年には後高句麗も建国され918年まで続きます。こちらは最盛期には京畿道あたりから咸鏡道の南端辺りまで支配しました。ですから915年頃の新羅は元の慶尚道くらいしか支配領域を持っていないほど弱体化していました。

 実は王建は、新羅ではなく後高句麗の将軍でした。918年後高句麗王弓裔(きゅうえい)をクーデターで追放、自らの高麗王朝を建てます。新羅王の側室の子として生まれ一代で後高句麗王朝を開いた弓裔でしたが、猜疑心が強く妻子を殺し臣下も数多く粛清したため人心を失っていたそうです。その末路も哀れで逃亡する途中、平康というところで飢えをしのぐため畑の作物を盗もうとして村人に発見され殺されました。

 王建は、935年新羅、936年後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一します。とはいえこれはあくまで表面上でその支配は隅々までは行き渡っていませんでした。特に半島東部には満洲から沿海州にかけて広く分布していたツングース系遊牧民が進出していました。エベンキ族などもその一つです。これらの民族を総称して女真族(後の満洲族)と呼びますが、住んでいる地域によって生活形態はだいぶ変わっていたと言われます。女真族の中心(半農半牧)はだいたい興安嶺山脈の東麓から沿海州の境にかけて。沿海州には同じツングース系の粛慎(しゅくしん)が住んでいました。粛慎は古代シナの史書に出てくる狩猟を生業とし沿岸部では漁労もしていた民族でした。シナの史書では紀元前、日本の史書では6世紀に粛慎(みしはせ)として出てきます。『みしはせ』と粛慎が同一民族か史家の意見は分かれるそうですが、ツングース系で狩猟と漁労をする同系の民族であったことは間違いないと思います。

 高麗王朝は、これらツングース系民族の統治に非常に苦労します。さらに追い打ちをかけたのは満洲の西部から熱河省あたりにいたモンゴル系の契丹民族が勃興し遼を建国したことです。純粋な遊牧民族である遼の軍隊は強力で女真族でさえ服属を余儀なくされます。南は宋を圧迫し、933年には高麗にも侵攻しました。高麗は遼の騎兵に太刀打ちできず首都開城を落とされ降伏、属国となります。

 女真族は遼の支配に嫌々従っていましたが、沿岸部のかつて粛慎と呼ばれた一部のツングース系民族は遼の支配を受け入れず独立的な動きをしました。遼が討伐軍を送っても船で海上に逃げるため捕捉できず、結局遼はこの地域を放棄します。刀伊と言われるのは遼の支配を脱した粛慎の後裔たちだと想像できます。刀伊は遼が交易を拒絶したため必然的に海賊として沿岸部を略奪するしか生きる道がなくなります。最初の標的は高麗でした。高麗は遼の属国となり辺境支配も弱かったため刀伊の海賊たちにとっては格好の標的になります。その流れが日本にまで来て刀伊の入寇になったのです。

 

 次回は、11世紀の日本側の事情を見ていきましょう。

2021年10月25日 (月)

奈良朝の風雲Ⅷ 宇佐八幡神託事件(終章)

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 藤原仲麻呂の乱の戦後処理は苛烈を極めました。近江で最後まで仲麻呂に付き従った34人以外に、仲麻呂派と見做された者475人が連座します。斬刑に当たると判断され764年12月だけで13人が処刑されました。最終的に475人全員が処刑されたのか一部は許されて流刑で済んだかははっきりしません。ただ朝廷内の仲麻呂派を一掃したのは間違いありません。一番の被害者は淳仁天皇でした。孝謙上皇方に身柄を拘束され幽閉状態だった淳仁天皇ですが、謀反人藤原仲麻呂と共謀し上皇の排除を図ったとして廃位、身分を親王におとされ淡路公として淡路国に流刑になります。

 淳仁天皇は積極的に動かず何もしていない完全な被害者でしたが、孝謙上皇が復位するのに邪魔だったので言いがかりをつけて排除されたのです。一年後孝謙上皇方の圧力を受け失意のうちに亡くなります。孝謙上皇はすでに出家していました。にもかかわらず764年10月復位します。すなわち称徳天皇です。出家した者が復位して天皇になるのは異例でした。

 仲麻呂派の一掃で、失脚していた藤原豊成が右大臣として朝廷に返り咲きます。しかし一番の驚くべきことは称徳天皇が寵愛する弓削の道鏡が太政大臣禅師として朝廷のトップになったことでした。称徳天皇の言い分は「出家の天皇の補佐をするのは出家した僧がふさわしい」とのことでしたが、苦しい言い訳にすぎません。今回の藤原仲麻呂の乱で功があった吉備真備も参議に任ぜられました。766年には従二位右大臣にまで出世します。

 道鏡に対する称徳天皇の寵愛はこれだけにとどまりませんでした。道鏡の一族を参議など朝廷の高官に登用するなど乱脈を極めます。また猜疑心の強い彼女は、淳仁天皇の兄船王、池田王をそれぞれ隠岐、土佐へ配流しました。淳仁天皇の甥にあたる和気王に至っては謀反を起こそうとしたと言いがかりをつけ絞首します。称徳天皇は異母妹不破内親王にも疑いの目を向けました。不破内親王が藤原仲麻呂の乱で処刑された塩焼王に嫁いでいたからです。769年不破内親王は称徳天皇を呪ったという罪で息子志計志麻呂と共に土佐に配流しました。その際内親王の籍を剥奪するという徹底ぶりです。

 称徳天皇と道鏡による乱れた政治に貴族や庶民たちは怨嗟の声を上げますが、表立って諫める者はいませんでした。下手すると殺されるからです。皇族に対してすら容赦ないのですからそれ以外ならどんなむごたらしい殺し方をされるか分かりません。称徳天皇には皇統を守る意識はなかったと思われます。道鏡を溺愛しついには自分の次の天皇にしようとすら思い始めました。そこに阿る者が出てくるのはある意味自然だったのかもしれません。769年5月豊前の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるだろう」という神託がもたらされました。これは大宰帥だった道鏡の弟弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が共謀した偽の神託でした。

 さすがの称徳天皇もいくら寵愛しているとはいえ道鏡をいきなり天皇にすることは迷います。朝廷の百官も国民も許さないと思ったからです。そこで確認するため近衛将監(しょうげん)和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し神託が真実であるか確認させようとします。道鏡は清麻呂を出発前に招いて「そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう」とささやきました。

 清麻呂が佞臣なら道鏡の意を受け称徳天皇や道鏡が気に入る報告をしたでしょう。ところが彼は清廉潔白で剛直の臣でした。宇佐八幡宮に到着すると神官たちを厳しく問いただし「我が国は開闢以来君臣が定まっている。臣をもって君にすることがあってはならない。天つ日嗣(天皇の後継者)には必ず皇緒(皇族)を立てよ」という神託を得ました。帰京した清麻呂がそのまま報告すると称徳天皇は怒ります。道鏡も激怒しました。神託を偽ったと無実の罪を着せ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ一切の官位を剥奪、大隅国に流します。さらに清麻呂の姉で称徳天皇に仕えていた法均も還俗させられ備後に流罪としました。

 ただ清麻呂の活躍で道鏡の皇位継承は沙汰止みになります。貴族たちの反発が強かったからです。そしてこの事件から半年後の770年8月、称徳天皇は病気となり崩御しました。享年53歳。道鏡の権力の源泉は称徳天皇でしたから、後ろ盾のなくなった者を遠慮する者はいません。貴族たちの反撃が始まりました。道鏡は太政大臣禅師の官職を剥奪され造下野薬師寺別当を命ぜられ下野国に追放されます。二年後道鏡は失意のうちに亡くなりました。道鏡の一族も同様でした。朝廷の役職を解かれ土佐など各地に流されます。

 道鏡は皇位を狙った大悪人と言われましたが、私は称徳天皇も同罪だと思います。悪政は二人の合作でした。称徳天皇は自らの天武系皇族を猜疑心や憎しみのために排除し、しかも後継者を定めぬまま亡くなります。藤原永手(北家 房前の次男)、藤原良継(式家 宇合の次男)、吉備真備らは協議して後任を天智天皇の孫にあたる白壁王に決めました。白壁王が聖武天皇の娘井上内親王(母は県犬養広刀自)を妻にしていたからです。白壁王は即位して光仁天皇(在位770年~781年)となります。即位したとき60歳になっていました。現在に至るまで即位年齢は最高記録だそうです。

 壬申の乱を経て失われていた天智天皇系に皇位が戻ったことになります。それも称徳天皇の悪政が原因でした。光仁天皇が即位すると大隅国に流されていた和気清麻呂も許され官界に復帰します。道鏡は配流途中の清麻呂の暗殺を謀ったそうですが失敗していました。どこまで腐った破戒僧なのかと呆れますね。播磨員外介、豊前守などを歴任し光仁天皇の次の桓武天皇にも仕えます。晩年は従三位民部卿になりました。

 藤原仲麻呂の乱で活躍し今回の光仁天皇擁立にも貢献した吉備真備は右大臣のまま771年引退します。その後775年まで生きました。享年81歳。当時としては驚くべき長命です。最終官位前右大臣正二位。光仁天皇の御代は称徳天皇の時代に乱れた国政を正すことに費やされます。途中天武天皇の曾孫氷上川継の乱など揺り戻しもありましたが、治世はその子桓武天皇に受け継がれていきました。

 

 桓武天皇は平城京で肥大化していた仏教勢力の影響を嫌い784年長岡京、794年平安京を築き遷都しました。桓武天皇の脳裏には第二の道鏡を出してはならないという意識があったのかもしれません。そして奈良時代は終わりを遂げ彼の治世から平安時代が始まります。

 

 

 

 

 

  

 

                                            (完)

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