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カテゴリー「 日本史」の記事

2020年5月26日 (火)

埋蔵金伝説に関する身も蓋もない話

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 先日NHKで天草諸島近海の珊瑚を紹介する番組がありました。何となく見ていたんですが、数日後車を運転中突然思い出し、天草→天草・島原の乱→天草四郎の埋蔵金と勝手にセルフ連想ゲームが始まりました(笑)。ただ、私はすれているんで埋蔵金なんかあるはずもないなと結論します。こういう風に突如始まるのがブログの話題なんです(苦笑)。一応歴史記事のカテゴリーかな?


 今は無きヤフーブログの記事で天草四郎の埋蔵金に関して書いた記憶があります。当時はロマン優先だったので現実的考察はしなかったんですが、よくよく考えると食い詰めた農民の反乱でどう足掻いても財宝があるはずないだろうと考えるに至りました。肥後国天草郡は天草諸島が郡域です。江戸時代初期公称4万石ですが、その実態は2万石くらいだったそうです。天草を訪れた方ならご存知だと思いますが山がちで平野がほとんどなく私も2万石が納得できる数字です。天草・島原の乱勃発当時天草郡は肥前国唐津藩寺沢家12万石の飛び地になっていました。もともと8万石で関ケ原の功績で加増された天草郡4万石を入れて12万石ですから天草の住民には苛斂誅求が行われ苦しんだそうです。これが反乱が起こった原因です。ついでに言うと肥前国唐津地方も豊かなところではありません。肥前で一番肥沃なのは佐賀平野を擁する佐賀藩鍋島家。あんな狭い領地で36万石もありますからね。徳川幕府が認めた石高は軍役や様々な賦役を定めた表高ですから、実態が少なかろうが関係ありません。

 一方、天草の反乱軍が渡った肥前国島原半島も同様。こちらは島原藩松倉家4万石の領地。松倉家の場合はさらに最悪で、初代松倉重昌が4万石であるにもかかわらず幕府に気に入られれるため自ら10万石分の賦役を申し出ます。といってお金が天から降ってくるわけはありませんから領民に負担が行きます。島原藩の領民は重税を払えず餓死する者が続出したそうです。これでは反乱が起こらない方がおかしい。天草・島原の乱の原因はキリシタンへの弾圧だと言われますが、それ以前に領民は生きるか死ぬかの瀬戸際でした。私は幕府にも責任があると思います。寺沢家に加増するとき天草の検地をきちんとしていれば、松倉家が10万石分の賦役を申し出た時領民に負担が行くことを想像し断っていれば、反乱は起こらなかったと考えます。

 こういう実態を見てみると天草四郎を盟主とする反乱軍に埋蔵金を作り出す余裕などあるはずないでしょう。貧しい天草や島原で略奪したものだとしてもたかが知れています。兵糧にすら事欠く状態でどうやって財宝を持てるんですか!万が一埋蔵金があったとしてもごく少額でしょうね。歴史的価値はあるかもしれませんが…。



 有名な埋蔵金と言えば徳川埋蔵金もそうです。幕末に何十兆円もの莫大な財宝があれば幕府が倒れるかどうかの瀬戸際だったんですから軍備増強に使うでしょう。そして当時最新鋭の装備だった幕府歩兵隊を大増強し戊辰戦争も勝っていますよ。ボルトアクション式ライフルのシャスポー銃に近代的後装砲(当時のフランスにイギリスのアームストロング砲に相当する大砲があったかどうかは不明)で装備を固めれば圧勝です。シャスポー銃なら当時長州藩が持っていたミニエー銃より高性能ですからね。当時の日本ではオーバーテクノロジーと言っても良い新兵器でした。ミニエー銃は銃身にライフリングが切ってあるにしてもまだ前装銃。後装銃であるスナイドル銃はごく少数が行き渡り始めたばかり。後装でしかもボルトアクションなら発射速度もはるかに早いです。ナポレオン3世はよくこんな高性能銃を2000挺も贈ったなと感心します。後々植民地にしようという意図はあったのでしょうけどね。

 となると小栗上野介は無実の罪で殺されたことになりますね。徳川埋蔵金がもしあるとすれば幕末の江戸城ではなく、財政的に余裕があった初代家康の頃でしょう。家康は吝嗇家で有名で駿府城の倉は集めた黄金の重さで床が抜けたという話もあるくらいです。用心深い家康が子孫のために財宝を残していても不思議ではありません。となると一番可能性があるのは日光東照宮。歴代将軍が東照宮に詣でたのは神君家康を敬う意味もあったでしょうが、家康の残した遺産を必要な分だけ引き出す目的もあったのではないかと推理します。ですからこれも赤城山にあるはずがないと結論しました。


 可能性がある埋蔵金は秀吉の埋蔵金でしょうかね。大坂城に残した財宝だけでも方広寺大仏殿を建立し大坂の陣で10万人の浪人を雇うくらいできたんですから、多田銀山に埋められたとされる秀吉の埋蔵金はリアルですし、それこそ数十兆円規模だったかもしれませんね。

2020年2月 7日 (金)

お艶(つや)の方が死ななくて済んだ方法

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 お艶(つや)の方は岩村御前とも呼ばれる女性です。織田信長の叔母にあたります。といっても信長の祖父信定晩年の子だったらしく信長とは2~3歳くらいしか離れていなかったとも言われます。織田家はお市の方に代表される通り美人の多い家系でお艶も大変な美貌だったと伝えられます。ただこの時代、美人であっても得はなく、政略結婚の犠牲になりました。

 お艶は、最初尾張の豪族の下に嫁いだと言われますが夫と死別し一度家に帰っています。甥である信長は、美濃平定を見据え彼女を東美濃の豪族遠山景任(かげとう)に嫁がせました。これが稲葉山城攻略前か、後かは不明ですがどちらにしろ美濃安定のための楔として彼女を送り込んだのでしょう。遠山氏は現在の恵那市岩村町にある山城岩村城の城主でした。遠山氏は信濃国境に近い恵那郡一帯に勢力を張る一族です。景任は病弱だったそうですが、政略結婚であるにもかかわらず夫婦仲は良かったと言われます。

 しかし、お艶にとって幸せは長く続かず、夫景任が1572年(元亀三年)病死してしまいます。二人の間に子がなかったため、遠山家臣団は動揺しました。重臣会議の結果、信長の五男御坊丸(後の勝長)をお艶の養子に迎えゆくゆくは遠山家の家督を継がせるという事で纏まります。と言っても御坊丸はまだ幼少ですから、成人まで義母であるお艶が女城主として岩村城を預かることになりました。

 国境の豪族というのは難しい立場です。遠山氏の場合も隣国信濃を支配する武田氏との関係に苦慮します。元亀三年武田信玄は西上作戦を開始、遠江国三方ヶ原で織田の援軍を加えた徳川家康軍を鎧袖一触し三河に侵入しました。信玄は同時に信濃国飯田郡代だった秋山虎繁(信友)に命じ兵三千で美濃に侵入させます。当時信長は、足利義昭が画策した信長包囲網で東奔西走しており岩村城に援軍を送る余裕がありませんでした。岩村城は秋山軍に包囲され落城も時間の問題となります。

 この時虎繁は岩村城に使者を送り、「お艶の方と自分が結婚することで和睦の条件としよう」と申し出ました。最初は難色を示したお艶でしたが、家臣団の圧力か自身の心境の変化か知りませんが、この条件を受け入れます。こうして岩村城と遠山領は武田氏の支配下に入りました。後継ぎとして岩村城に入っていた御坊丸は甲斐に人質として送られます。

 この事が信長の怒りを買いました。信玄の急死によって窮地を脱した信長は1575年(天正三年)設楽原の合戦で武田勝頼を撃破、同年嫡男信忠を大将とする軍勢を岩村城に派遣します。武田家と織田家の力関係は完全に逆転していました。お艶も虎繁も死は覚悟していたでしょう。ところが信長はさらに過酷な条件を示しました。「城兵の命を助けるために自害は許さず降伏せよ」と言ってきたのです。二人は条件を飲まざる得ませんでした。

 長良川畔まで連行された二人は、逆さ磔という極刑で処刑されました。信長の怒りがどれほど凄まじかったか分かります。武田家臣である秋山虎繁はまだしも、実の叔母に当たるお艶に対する仕打ちは惨すぎました。


 以上がお艶の方の生涯ですが、私は彼女が生き残る方法もあったと思うんです。それは秋山勢に包囲された時。虎繁との結婚を承諾せず、御坊丸と共に城を出て岩村城を明け渡すべきだったと考えます。どちらにしろ遠山家臣団は武田方に調略されていただろうし守ってやる義理はなかったはず。秋山方にとっても犠牲を出さず労せずして岩村城が手に入るんですから納得したでしょう。

 御坊丸と共に信長のもとに帰っていれば、叱責はされたかもしれませんが史実のような惨たらしい最期にはならなかったはず。お艶の方の決断は、一時的には安寧を得たかもしれませんが破滅への選択でしたね。

 

 

2020年2月 6日 (木)

濃姫のその後

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 濃姫と言えば織田信長の正室、斎藤道三の娘です。信長の父信秀と道三の和睦のために政略結婚で信長に嫁ぎました。小説やドラマでは帰蝶という名前ですが本名は伝わっていません。実は彼女、生没年が良く分かっていないのです。一応生誕は1534年となっており夫信長より1歳年下とされます。ただ没年に関しては諸説あり父道三が長良川で討死して間もなく病死したという説、美濃との同盟のメリットが無くなった信長に離縁され母の実家明智家に引き取られそこで死んだという説、本能寺まで同行し信長と一緒に討死したという説など様々なものがあります。

 これは濃姫が正室と言いながら信長との間に子供がいなかったことも大きかったと思います。秀吉の正室ねね(北政所、高台院)のように名前も晩年も分かっているケースが稀なのでしょう。信長の後継者である嫡男信忠、次男信雄、長女徳姫(家康の嫡男信康に嫁ぐ)を産んだのは生駒吉乃(きつの)で、側室でありながら信長に最も愛され正室的扱いを受けた女性でした。

 吉乃の父生駒家宗は尾張国丹羽郡の土豪で馬借を生業にしていたといいます。馬借とは現在の運送業者の事で東海地方や近畿まで商圏にしていたとすれば、盗賊に襲われないように武装し次第に武士団化していったのでしょう。このあたり川並衆の蜂須賀小六と似ていますね。生駒といえば美濃国可児郡出身の生駒親正を思い浮かべますが、生駒一族が尾張から美濃にかけて活躍していたとすれば納得できます。一応親正の父親重は吉乃の祖父に当たる豊政の養子になっているようなので一族として関係はあったみたいです。

 吉乃は信長の側室になる前一度結婚しています。その夫が戦死し実家生駒家に戻っていたところを、立ち寄った信長に見染められたと伝えられます。病弱で薄幸の美女のような印象ですが、私は大河ドラマ秀吉の斉藤慶子のイメージが強烈すぎて頭から離れません(笑)。史実では徳姫を産んだ時産後の肥立ちが悪く病死したといわれます。斉藤慶子なら殺しても死なないしぶとさがありますけどね(失礼!)。信長は実家生駒家で臥せっていた吉乃を小牧山城に呼び寄せようとしたものの、それが実現する前に彼女が亡くなって嘆いたとされますから、もしかしたらその時濃姫は死んでいたか、実家に帰されていた可能性が高いと私は見ています。

 吉乃が信長の正室扱いされていた証拠は、彼女の死後信長が実家生駒家に香華料660石を贈りその後も秀吉、家康から朱印状が与えられたことです。信長の子孫(信雄の子孫)である柏原織田家を招待して200回忌、300回忌まで行われました。

 濃姫の晩年として一番可能性が高いのは、利用価値がなくなったとして離縁され美濃明智城で一族と共に戦死したという説、あるいは吉乃が正室扱いされる前に病死したという説の二つでしょう。本能寺まで同行したというのは現実的にあり得ないと思います。大河ドラマファンには残念でしょうが…。信長にとって最愛の女性は生駒吉乃、濃姫は政略結婚以外の何物でもなかったという悲しい現実が見えてきます。ならばせめて小説やドラマの世界では信長と仲睦まじく過ごしてほしいですね。

 

 

 

2019年12月17日 (火)

赤井悪右衛門直正

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 来年の大河ドラマは明智光秀ですが、沢尻エリカ騒動で別の意味で注目されています。信長の正室濃姫役は川口春奈が代役として演じることに。私は川口を五島列島が生んだ奇跡と思っているので、これをチャンスに女優として飛躍して欲しいですね。

 それはともかく、大河ドラマで登場するかどうか知りませんが光秀の丹波平定戦で一番苦しめたのが赤井悪右衛門直正(1529年~1578年)でした。ほとんどの光秀を描いた小説でも、赤井直正の名前こそは出るものの、どういった戦いをしたのか今一分かりません。今回、歴史道で明智光秀特集が組まれ丹波平定戦に関しても詳しく紹介してあったので思わず衝動買いしてしまいました。

 赤井氏は丹波国氷上郡に勢力を張った豪族です。清和源氏頼季流と言われ氷上郡黒井城(兵庫県丹波市)を本拠としました。当時の丹波国は船井郡に勢力を張る内藤氏、多紀郡を本拠とする波多野氏とともに赤井氏も有力国人として戦国時代台頭してきます。赤井氏が勢力拡大したのは但馬国生野銀山(兵庫県浅来市)を支配していたからだとも言われます。

 実は赤井直正は赤井氏の当主ではありません。直正は赤井時家の次男として生まれました。赤井氏家督は長男家清が継ぎます。直正は一族の荻野氏の養子になり当初は荻野直正を名乗ります。黒井城は赤井氏ではなく荻野氏の居城でした。直正は武勇をもって赤井一族の旗頭となり実質的に主導する立場になりました。

 光秀が主君織田信長の命で丹波平定に乗り出したのは天正3年(1575年)でした。天正3年と言えば設楽原(長篠)合戦があった年です。信長が最初に討とうとしたのは内藤如安、宇津頼重らでした。光秀は当時近江国坂本城主。石高は5万石。これに細川藤孝ら与力の兵力を合わせて3000くらいでしょうか。直正は当時但馬国にも勢力を広げ竹田城に拠っていました。

 明智軍は竹田城を攻撃し逃げる赤井勢を追撃、丹波に入り黒井城を包囲します。黒井城を包囲した明智軍は周囲に付け城を築き兵糧攻めをしました。光秀は同時に丹波の国衆を調略を施し過半数の国衆は織田家に従ったそうです。ところが天正4年、それまで織田家に属していた八上城主波多野秀治が突如反旗を翻します。波多野軍は黒井城の直正と連携し明智軍を内外から攻め立てました。絶体絶命の明智軍は、撤退を決断。第1次丹波平定戦は惨めな失敗に終わります。

 黒井城の縄張りを見るとそれほどの要害とも見えないんですが、余程攻めにくかったんでしょうね。その後光秀は上杉謙信上洛、松永久秀謀反、新木村重謀反と各地に駆り出され丹波平定に専念できない状況が続きました。信長は直正よりも京に近い八上城の波多野秀治攻撃を命じます。この八上城の戦いも苦しいものでしたが、なんとか天正7年(1579年)陥落させます。実はこの直前の天正6年(1578年)赤井直正は病死しました。享年50歳。結局直正健在の間は明智光秀は黒井城を落とせなかったわけです。直正の武勇は丹波の人たちに勇気を与え、侵略者明智軍への抵抗の象徴となります。丹波の赤鬼の異名はそういうところから出たのでしょう。

 八上城の陥落で丹波における明智軍の優位は決定的になります。第2次丹波平定戦は八上城攻撃の天正6年から始まりますが、この時は与力も含め1万以上の兵力が居たと推定されます。赤井氏は大黒柱直正を失い直正の弟幸家が直正の遺児直義を後見して黒井城に拠っていたそうですが、明智の大軍が黒井城に殺到、多勢に無勢で天正7年8月9日ついに落城しました。

 光秀は戦功により丹波一国を賜り、亀山城を築城し本拠とします。赤井氏のその後ですが親族を頼り藤堂家に仕官したそうです。ちなみに元ボクサーで俳優の赤井英和氏は赤井幸家の子孫だと言われます。

2019年11月24日 (日)

楠木正儀、南朝の裏切り者と呼ばれた男

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 楠木正成、南朝の忠臣としておそらくほとんどの日本人は名を知っていると思います。その嫡男正行(まさつら)も湊川の戦で勝つ見込みのない中壮絶な決意で赴く父正成と桜井の駅での別れは太平記の中でも名場面の一つです。そして成長した正行は父の遺志を継ぎ四条畷の戦いで弟正時と共に壮絶な戦死を遂げます。父正成を大楠公、正行を小楠公と後の人々は称えました。

 今回紹介する正儀(まさのり、1333年~1388年)は、正成の三男です。二人の兄正行、正時が戦死したために楠木家の当主となりました。しかし正儀の評判は良くありません。南北朝の和平を図ったり、それが失敗すると怒って一時北朝に降ったりしたからです。だた、私は正儀が現実主義者だっただけだと好意的に見ています。

 それでは彼の人生を簡単に振り返りましょう。正儀が家督を継いだ時わずか15歳前後だったと言われます。南朝方は戦力の中核である楠木党に期待し、若輩の正儀にも実力以上のものを求めました。正儀は初陣で足利方の有力武将である高師直、師泰兄弟と戦うなどそこそこの頑張りを見せます。ただその後の戦いぶりを見ていくと、機略縦横の父正成、忠義一徹の兄正行と違い戦より政略の才に長けていたように見えるのです。

 北朝方で、足利尊氏、直義兄弟の争い観応の擾乱が起こると、正儀はこの機会を利用して南北朝の戦乱を解決するため和平を画策します。長年の戦で疲弊していた南朝方の武士にも賛同する者が多かったらしく、正儀は和平派の筆頭として足利直義と連絡を取り秘かに和平工作を進めました。ところが観応の擾乱は兄尊氏の巻き返して直義毒殺、正儀の進めていた和平工作も失敗します。南朝方にも北畠親房ら頑迷固陋な強硬派が多く正儀は次第に孤立していきました。

 結局南北朝の騒乱は再開し、正儀もその意に反して南朝方として各地を転戦せざるを得なくなります。南朝に帰順した旧直義派と共闘し一時は直義の養子直冬(ただふゆ、尊氏の妾腹の子)を総大将として京都を占領したこともありました。驚くべきことに南朝方による京都占拠は4回もなされたそうです。1354年、大黒柱北畠親房死去により南朝の衰退は明らかになります。

 南朝の後村上天皇は強硬派だったため最初正儀を嫌っていたそうですが、まともな武将は正儀しかおらず和解して綸旨の奏者という側近にしかなれない役職にしたそうです。ここうでようやく正儀は、天皇の意向を受け本格的な和平工作に乗り出します。すでに北朝方でも1358年足利尊氏が亡くなり二代義詮の時代に入っていましたから、和平の機運は双方に湧き上がっていたと思います。

 今回こそは本格的に和平交渉が動くかに見えましたが、皮肉なことに九州で南朝方の征西将軍宮懐良(かねなが)親王と菊池武光が優勢となり一時は九州全土を併呑するほどの勢いになったことで主戦派が勢い付きます。後村上天皇は正儀を右兵衛督(うひょうえのかみ)に昇進させるほど期待をかけられますが、主戦派の妨害で交渉が難航します。そのうち1368年足利二代将軍義詮死去、同じ年後村上天皇も崩御されたため和平交渉は自然消滅しました。

 正儀にとって最悪なことは、後を継がれた長慶天皇が最強硬派だったことです。正儀は南朝の中で立場を失い追い出されるような形で出奔、北朝方に降伏しました。激怒した長慶天皇は正儀の一族和田正武や橋本正督に追撃させます。これを救ったのは皮肉にもそれまで正儀と戦っていた足利方の赤松光範、細川頼元らでした。三代将軍足利義満は南朝の名将楠木正儀の降伏を歓迎します。特に幕府管領として幕政を司っていた細川頼之は、正儀に好意を抱き将軍にとりなしたため、足利将軍家と同等とも言うべき左兵衛督の官位を与えました。さらに河内、和泉両国守護、摂津住吉郡の一郡守護という破格の待遇をします。

 しかし正儀は、これほどの厚遇を受けてもあまり喜ばなかったと思います。彼の信念は南北朝の対立を解消し戦乱を収める事。幕府でも管領細川頼之は和平派であったため両者は親友となります。ところが幕府の中では越前守護斯波義将(足利一門で最高の家格を誇る)を筆頭とする反細川派が強力で、管領細川頼之の方針をことごとく妨害します。反細川派は正儀に対しても偽装降参ではないかと疑い、正儀が南朝方から攻められても一切協力しませんでした。

 1379年康暦の政変で反細川派の運動が功を奏し頼之は管領の地位を追われます。後を継いだのは斯波義将。正儀は有力な頼之党と目されていた為、河内、和泉、摂津住吉郡守護職を剥奪されました。今度は幕府内で孤立する正儀。この頃になると北朝・足利幕府の優位は明らかになり南朝方は衰退の一途でした。ようやく南朝方にも和平派が主流となり、意を決した正儀は1382年南朝への帰参を決意します。喜んだ南朝方は正儀を参議にしますが、滅亡寸前の南朝で高官になったとしても嬉しくもなんともなかったでしょう。ただ橘姓(と自称)の中で、参議になったのは399年ぶりだったそうです。

 南朝方に人材が払底していた証拠でしょう。南朝の実力者になった正儀は皇太弟で和平派の後亀山天皇の即位に尽力、ここの悲願であった南北朝統一に向けての工作が本格化しました。正儀の晩年ははっきりしません。1389年ごろ死去したとも言われます。1392年正儀の願いが実り南北朝合一がなされます。ここに57年間続いた南北朝の戦乱は集結しました。

 ただ和平条件であった皇統を持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)で交代で継承するという約束は破られます。怒った旧南朝方は再び蜂起し大和国や全国各地で抵抗を続けますが、もはや時代の流れを覆すことはできませんでした。楠木氏も正儀の死後、次第に振るわなくなり歴史の陰に消えていきます。一部は伊勢に逃れ伊勢楠木氏を称したそうですが、これも末裔は織田信雄に仕え小牧長久手の戦いで戦死、嫡流は絶えたそうです。

 楠木正儀は、忠臣楠木氏にあるまじき裏切り者、逆賊という評価が戦前なされますが、戦後になって南北朝和平に尽力した真の忠臣であったと再評価されています。私も戦後の評価を支持したいですね。

2019年11月20日 (水)

五摂家の話

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 日本史の過去記事で当たり前のように書いてきましたが、万が一日本史初心者の方が読んだら難しいだろうなと反省し説明記事を作りました。

 五摂家というのは摂政・関白になる資格のある公家最高の家格で、藤原北家の嫡流具体的には「この世をば~」の和歌で有名な関白藤原道長直系の子孫です。次いで清華家という太政大臣にまで昇る資格のある三条家、徳大寺家、西園寺家、久我家、花山院家、大炊御門家、今出川家があります。三番目は大臣家で例外はあるものの極官は内大臣です。大臣家は正親町三条家、三条西家、中院家の三家でした。

四番目は羽林家で極官大納言。これより下は数が多いので具体名は省略します。五番目が名家で極官中納言、稀に大納言を出す程度。一番下は諸大夫家とも呼ばれる半家。実務派官僚が多く参議まで昇るのも難しかったそうです。

 五摂家は公家最高の家格ですが、実はすんなり決まったものではありません。ここに一人の人物がいます。関白藤原忠通(1097年~1164年)です。源平合戦の歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、弟悪左府頼長と家督を争い保元の乱の原因の一つを作った人物です。実は忠通は40代まで男子がなく、その父忠実は晩年に生まれた頼長を溺愛し忠通から藤原氏の氏の長者(藤原一族の家長)の資格をはく奪し弟頼長に与えたことから、父子、兄弟の間に壮絶な争いが起こりました。忠通が父の圧力に抗し関白職を弟頼長に譲らなかったため皇位争いと連動して保元の乱が起こったとも言えます。

 ところが忠通の晩年、連続して四男基実(近衛家を創設)、五男基房(松殿家を創設)、六男兼実(九条家を創設)が生まれました。保元の乱で弟頼長が死んだので、忠通は藤原北家の嫡流を保ちます。忠通の三人の男子のうち、松殿基房は余りにも平家に接近しすぎ、その後都を制圧した木曽義仲にも近かったため失脚。近衛基実と九条兼実が残りました。彼らの曾孫の時代に、近衛家から鷹司家が、九条家から一条家と二条家が分かれ五摂家が成立します。このうち近衛家が五摂家筆頭となり現在に至るのです。

2019年11月15日 (金)

阿蘇流北条氏の最期

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 久々の日本史記事ですが、マイナーすぎるので一般の方は全く面白くないと思います。

 このブログの前身であるヤフーブログを開設して間もなく『肥後小国郷と北条時定』の記事で鎌倉末期から南北朝期の肥後小国地方を領した北条氏の最期が良く分からないと書いた記憶があります。興味のある方のために、記事のアドレスを載せておきます。ただしヤフーブログは終了して現在閲覧できない状況ですので、転載したアメブロ版のアドレスを載せておきます。

https://ameblo.jp/houzankai/entry-12444178806.html

 一応簡単に過去記事の概略を述べると、鎌倉幕府の実権を握った北条得宗家(嫡流)が九州支配の要として五代執権北条時頼の同母弟時定(不明~1290年)に肥後国阿蘇郡小国郷の地頭職を与え下向させたことから阿蘇流北条氏が興りました。阿蘇流北条氏は時定が鎮西探題、八代執権時宗の弟で時定の養子となり後を継いだ阿蘇流北条氏二代定宗が肥前守護、その子で三代の随時(ゆきとき)が鎮西探題と要職を務めます。ただ阿蘇流北条氏最後の当主で随時の子治時(はるとき)の最期が良く分からないと書きました。

 というのは、隋時の後鎮西探題に就任したのは治時ではなく、第十六代執権守時の実弟赤橋英時だったからです。ちなみに英時の妹は足利尊氏の正室赤橋登子でした。鎌倉幕府滅亡の時、九州では鎮西探題の英時が宮方と戦い敗北して博多で一族240名と共に自害しました。英時の養子規矩(きく)高政、糸田貞義兄弟が南北朝期九州で蜂起し滅ぼされたことも過去記事で書きました。

 阿蘇流北条氏最後の当主治時(1318年~1334年)がなぜ鎮西探題にならなかったのかは、父随時が死去した1321年当時わずか3歳で職務を遂行できなかったからです。その後調べてみると、北条得宗家に近い治時は成長すると鎌倉に上り幕府の要職を歴任したようです。といっても死去したのが17歳の若さですから、飾りのような存在だったと思います。

 1333年2月、楠木正成が籠城した上赤坂城の戦いでは北条高時に命じられ鎌倉幕府軍の名目上の大将として出陣します。実際に軍を指揮したのは軍奉行長崎高貞(内管領長崎円喜入道の子、高資の弟)だったのでしょう。この時は城の水の手を断ち陥落させるという戦功をあげています。ただ、その後楠木正成は再起し千早城に籠城しました。治時はまだ畿内に残っていた為、北条一門の大仏(おさらぎ)貞宗、高直兄弟と共に討伐軍の大将に任ぜられます。が、楠木勢の抵抗は頑強で攻めあぐみ、そのうち六波羅探題が宮方に攻め滅ぼされたため治時らは進退窮まります。

 鎌倉軍は大和国に撤退し興福寺に立て籠もりますが、刀折れ矢尽き宮方に降伏。1334年7月京都阿弥陀寺で治時は長崎高貞、大仏貞宗、高直兄弟と共に処刑されました。北条一門の最期は悲惨なものが多いですが、阿蘇流北条氏最後の当主治時の最期も哀れを極めます。わずか数え17歳(満15歳)、処刑の際の心境はどうだったのでしょうね。同情してしまいます。

 

2019年10月21日 (月)

佐野天徳寺の人物評

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 学研の隔月刊『歴史群像』は私の愛読書の一つです。その創刊号かそれに近い号に印象深いエピソードがあります。

 下野国(現栃木県)佐野地方に佐野氏という戦国大名がいました。関東屈指の名城唐沢山城を擁し鎌倉時代から地頭として勢力を維持し小さいながらも侮りがたい勢力となります。戦国時代から江戸初期にかけて佐野房綱という人物がいました。出家して天徳寺宝衍(または了伯)。佐野氏13代泰綱の子に生まれ15代で兄の昌綱に仕えます。昌綱の子宗綱とは仲が悪く一時は出奔したこともあったようです。

 その後帰参した房綱は、佐野氏の重鎮として宗家を支え外交を担当しました。この地は戦国大名の争奪の的となり房綱は小田原の北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏の間をうまく泳ぎ切り佐野氏を存続させます。後に天下人となった豊臣秀吉といち早く誼を通じたのも房綱でした。

 小田原北条氏の末期、佐野氏は北条氏の圧力に屈し戦死した当主宗綱に子がなかったため北条氏康の六男氏忠を養子に迎え佐野氏家督を継がせざるを得なくなります。反北条派だった房綱は佐野氏を離れ豊臣秀吉に仕えることとなりました。人生何が幸いするか分かりません。秀吉の小田原攻めに参加した房綱は、皮肉にも唐沢山城攻めを命じられます。房綱は唐沢山城を奪還、秀吉に佐野氏家督継承を認められました。

 房綱には男子がなかったため秀吉家臣富田信吉を婿養子に迎え天正20年(1592年)家督を譲り隠居します。慶長6年(1601年)死去。房綱は佐野氏の外交を担当したため上杉謙信、武田信玄に拝謁したことがあったそうです。

「謙信公、信玄公は威が強すぎて顔を上げられなかった。しかし秀吉公は気さくに私を呼び寄せられ肩を抱くようにして『お主が天徳寺か?よく存じておるぞ。これからもわしに仕えて励め』と親しげに接してもらった。これが天下人の器なのだと思った」

と後に述懐します。

 秀吉得意の人心収攬術なのでしょう。人たらしの面目躍如というところなのでしょうが、田舎大名に過ぎない房綱は感動したんでしょうね。秀吉はこの手で信濃の真田昌幸や陸奥の津軽為信の心も掴んでいます。津軽為信などは秀吉の死後家康に従いますが秘かに秀吉を祀り日々冥福を祈っていたそうですから可愛げがありますね。さらに為信は関ヶ原で敗れた石田三成の遺児も匿っています。為信は陰険な策謀家というイメージが強いですが、そんな一癖も二癖もある人物の心を掴むのですから、佐野天徳寺の言う通りやはり秀吉は天下人の器なのでしょう。

2019年6月29日 (土)

箱館戦争とランチェスターの法則

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 ランチェスターの法則とは過去記事でも書きましたが戦争における兵士の損耗を数理モデルを使って説明した法則で、敗者が全滅した時勝者はどれほど生き残れるかを示しています。前近代の戦闘を扱った第1法則では両軍の兵力の差が勝者の生き残り数、近代の戦争を扱った第2法則では戦力の二乗に比例して生き残り数が決まります。

 第2法則の例をあげると、戦力は兵士数×兵士数×武器性能で表れますから、ほぼ同じ性能の軍艦10隻と6隻が戦った場合(10×10)-(6×6)で64。ルート64は8ですから、6隻側が全滅するとき勝者側は8隻生き残っている計算になります。

 日本で近代戦争の走りといえば後装式ライフルと後装式大砲が登場した戊辰戦争以降だと思います。ところが戊辰戦争では一部がこういった装備をしていたものの、大半は旧式の前装式ゲベール銃と前装式大砲、甚だしい場合は戦国以来の火縄銃で戦ったケースが多く計算できないことに気付きました。ということはその後の箱館戦争か西南戦争が候補になります。が、西南戦争も新政府軍が兵力の逐次投入を行ったので兵力の総数での計算が難しいことが分かりました。

 結局、戦域も狭く兵士数同士の計算がしやすい箱館戦争で試算しました。箱館戦争に関しては過去記事でも書きましたし有名なので知らない人はいないとは思いますが、一応説明すると幕府海軍奉行榎本武揚率いる旧幕臣3000が蝦夷地を占領、北海道共和国樹立。討伐に向かった新政府軍との間に戦われた戦争です。新選組副長土方歳三終焉の地としても知られています。

 最終的に北海道共和国は3500人、討伐に向かった新政府軍は9500人の兵力を投入しました。これをランチェスター第2法則に当てはめると

(9500×9500)-(3500×3500)で78000000

ルート78000000は8831.76

 ですから北海道共和国軍3500人が全滅するとき、新政府軍は8831人生き残っている計算です。いかに近代戦では兵力が多い方が有利か分かりますね。実際北海道共和国軍戦死者1000人に対し新政府軍はわずか300人の戦死で済んでいます。これを考えると大東亜戦争における硫黄島や沖縄でわが日本軍がいかに善戦したか分かります。しかも武器性能も米軍の方が優れていたにもかかわらずですよ。

 現代戦では数の優位が絶対だが、弱者も戦いようによっては善戦できるということでしょう。ただ最終結果は冬戦争のフィンランドのように負ける可能性が高いのです。日本の国防もランチェスターの法則を考慮に入れて整備して欲しいと切に願います。専守防衛など現代戦では絶対にありえない必敗の方針だと国民も政治家も理解すべきです!

2019年6月 7日 (金)

有屋峠の合戦

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 ほとんどの方は知らないと思います。1586年出羽国最上郡と雄勝郡の境あたりで起こった最上義光と小野寺義道との間に戦われた合戦です。現在の地名で言うと山形県金山町大字有屋あたりから、秋田県側の湯沢市秋ノ宮あたりにかけて。ただし峠がどこにあるかは分かりませんでした。おそらく金山川をさかのぼって、湯沢市の秋ノ宮郵便局を結ぶ稜線上のどこかだと思います。

 1586年というと、中央ではその前年秀吉による四国攻めが行われ長宗我部元親が降伏しています。奥羽でも伊達輝宗が畠山義継に謀られて横死。1586年は聚楽第建設、九州攻めが年末に開始されました。その前の7月島津勢によって筑前岩屋城陥落、立花宗茂の実父高橋紹雲が壮烈な戦死をしています。12月戸次川の合戦で長宗我部信親が戦死しました。

 中央が大きく動く中、出羽でも最上義光、小野寺義道が田舎合戦とはいえ血みどろの戦いを繰り広げます。それが有屋峠合戦です。きっかけは小野寺義道の重臣鮭延秀綱の寝返りでした。秀綱にも言い分があり、最上氏侵略の最前線にあった秀綱は籠城し頑強に抵抗します。ところが義道が援軍を送らなかったため万策尽き最上義光に降伏したのでした。義光も秀綱の武将としての将器を買っていたのでしょう。降将にもかかわらず重用します。感激した秀綱は以後義光のために目覚ましい働きをしました。

 面白くないのは義道で、鮭延秀綱の降伏で秀綱が領していた鮭延城(最上郡真室川町)、そこから最上勢が進出して雄勝郡南部が最上領に組み込まれたのです。義道は失地回復の機会を虎視眈々と狙いました。その機会は意外と早くやってきます。最上義光が庄内地方の領有権を巡って越後の上杉景勝と対立したのです。強敵上杉氏と戦うため最上勢が主力を庄内地方に集中するはずだと読んだ義道は6千の兵を率いて最上領に雪崩れ込みました。すると、意外にも最上義光は鋭く反応し自ら1万2千の軍で迎え撃ったのです。最上側に情報が漏れていたのかもしれません。

 ここで兵力についてですが、最上勢が動員できたのは本領の村山郡、最上郡で24万石ほど。1万石でだいたい300名動員できたと言いますから、多くても6千強。一方小野寺氏は奥州仕置で安堵された本領が5万石程度ですから、こちらは千五百くらい。実数は最上勢6千、小野寺勢千五百くらいが妥当でしょう。規模からいうと完全に田舎合戦です。

 戦いの経過もぐだぐだで、峠を巡って小競り合いがあったものの最上側は庄内での情勢が悪化し援軍の必要性が出たこと。小野寺側も、留守を狙った隣国角館城主戸沢盛安の侵略を受け撤兵せざるを得なくなりました。両者痛み分けの形で兵を引いたわけですが、小野寺義道としては裏切った秀綱の鮭延領を奪回できなかったことで戦略的には失敗でした。

 この対立は後々まで尾を引き、最初東軍側だった小野寺義道は、最上義光への反感から西軍に転じ家康の怒りを買って改易されます。小野寺義道という人は武力はあっても、政治とか外交の才能は皆無だったのでしょうね。ただ生命力だけはあったようで、石見国(島根県西部)に流された義道は現地で80歳まで生きたそうです。タイプは違いますが、今川氏真と似たようなイメージがあります。

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