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カテゴリー「 日本史」の記事

2020年8月26日 (水)

支那事変における『点と線』批判に対する再批判

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 1937年盧溝橋事件から始まる支那事変。上海、南京、北京、武漢三鎮と重要都市を占領したものの、蒋介石政権が四川省重慶に立て籠もって徹底抗戦したため泥沼化。国府軍(国民政府の国民革命軍)は精強な日本軍に対抗できないため正面からの衝突を避けゲリラ戦に徹し日本軍は広大な支那大陸で点(都市)と線(都市間を結ぶ補給線)しか維持できず、大東亜戦争勃発で次第に支那戦線の重要性は薄れ1945年8月15日の終戦とともに支那でも戦闘が終わったと皆さんは理解していると思います。

 大筋では間違いなんですが、『点と線』に関して軍事に関し学べば学ぶほど批判が的外れでむしろ当然ではないかと理解するようになりました。日本陸軍の支那派遣軍は70万人から80万人くらいで推移し終戦時でも105万人ほどしかいませんでした。近代戦では後方の警備兵をいかに少なく配備し前線に全勢力を集中できるかがカギで、必ずしも面を支配する必要はないばかりか、面支配にこだわればこだわるほど前線に投入できる兵力が減り戦争自体が長引くという悪循環に陥ります。

 ですから補給拠点である『点』と拠点同士、前線を結ぶ補給線(兵站線)だけを守るのが当然なのです。『点と線』批判をする者は戦前の日本に対する悪意を持った反日左翼か、まったく知識がない軍事のド素人だと白状しているようなものです。

 欧米では大学でも軍事を教えるほど常識化していますが、戦後日本は軍事に関するあらゆる知識を忌避したため世界でも稀なほど軍事知識のない平和ボケ国民ばかりになりました。731部隊に関してもそうです。731部隊とは関東軍防疫給水部本部の秘匿名称(通称号)で、防疫給水部全体の秘匿名は満州第659部隊です。防疫給水部とは聞きなれない名前だと思いますが、部隊の兵士を細菌感染から守り安全な水を供給するための部隊で、けっして細菌戦を研究するための部隊ではありません。日本で細菌戦を専門に研究していた部隊は別にあり、陸軍登戸研究所がそうです。

 防疫給水部は各国で名称こそ違えど近代軍隊組織には不可欠な部隊で、それがない軍隊は前近代的な馬賊とか流民の暴兵の類です。ですから731部隊が支那戦線やビルマ戦線に出張し細菌戦を行ったなどという主張は欧米では通用しないばかりか、「性質の悪い冗談だ」と嘲笑されるレベルだと思いますよ。こんなデマを信じる方がよほど恥ずかしい。731部隊はあくまで関東軍内の組織。しかも部隊全体を指す秘匿名ですらない。支那派遣軍やビルマ方面軍に勝手に出張ることなど軍組織上あり得ないし、越権行為で軍法会議ものです。

 おそらく扇動元の支那共産党は当然知ってて悪意を持って流しているんでしょうが、その手先である日本共産党、マスゴミ、反日野党の連中は、軍事知識ゼロの愚かな日本人なら簡単に騙せるだろうと徹底的に馬鹿にしているんだと思いますよ。いい加減我々も歴史の真実を学びましょう。支那事変の『点と線批判』も的外れなら731部隊など悪意以外の何ものでもありません。

 反日売国勢力に騙されないように正しい軍事知識を学ぶ必要があります。一般の方は初歩の初歩で十分です。そうすれば日本の国防にも関心が持てるしどれが正しいかも判断できると思います。専守防衛がミサイル全盛の現代戦では本土決戦とイコールで全く通用しない概念、ミサイル防衛は完璧にはできず被害は必ず生じ国民に犠牲者が出るので、それを防ぐためには敵基地攻撃能力でミサイル基地や敵指揮中枢を先制攻撃で叩く以外に日本を守る手段がない、くらいの常識は身につけてほしいですね。

 皆さんは反日勢力の『点と線批判』、731部隊の悪意を込めた嘘に関しどのような感想を抱かれますか?

2020年8月15日 (土)

肥後古代史Ⅲ 塚原遺跡

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 玉名市教育委員会文化課は8日、塚原遺跡(同市岱明町野口塚原)で、弥生時代中後期(1~3世紀)の環濠集落跡と大型の竪穴建物跡などを発掘したと発表した。 古い海岸線のそばで、近くには装飾品のゴホウラ貝製貝輪が出土した「年の神遺跡」(支石墓)もあり、海上交易の中継拠点の集落とみている。 菊池川下流域の環濠集落跡は初めての発見という。
 出土したのは、住居・建物跡23軒分やV字形の溝(幅約5m、深さ約2・2m)、甕棺墓4基など。 溝は形状や位置から集落を守る機能を持ち、一帯が環濠集落だったとみられる。
 住居跡は円形や四角形で、直径11mの円形の竪穴建物跡は、弥生中後期としては九州最大級。
 弥生遺跡の南側からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、古墳時代中期(5世紀)北部九州に多い石棺系石室を持つ円墳、南北朝時代(14世紀後半)の溝や建物跡なども見つかった。
一般公開は10日(土)午前10時-午後4時に行われる。 午前10時と午後1時に説明がある。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞]

 

 最近、古代史にはまっていますが我が故郷玉名にも環濠集落遺跡がありました。遺跡の規模は9万平方メートルですから9ヘクタール。吉野ヶ里遺跡や方保田東原遺跡に比べると小規模ですが、3キロメートルくらいの近場にあったことに驚いています。そういえば国道のバイパス工事をしているときに遺跡らしきものが見つかったと聞いて見に行った記憶があります。ところが調査が終わると埋め戻され工事が再開してしまいました。私は利便性より歴史的価値を取るべきだと思いますがね。吉野ヶ里遺跡はそうしましたよ。

 近くに景行天皇所縁の貴船神社もあるくらいですから、このあたりは古代から開けていたんでしょうね。玉名市にも大坊古墳や永安寺東古墳など過去記事で書いた茂賀の浦周辺の古墳群と共通した装飾古墳がありますから、同じ文化圏に属したのかもしれません。狗奴国と推定される装飾古墳など共通の文化をもった熊本県を中心に宮崎県や有明海を隔てた長崎県の一部まで広がった勢力が存在したと思っています。そしてその首都と推定されるのは、前記事で書いた山鹿市の方保田東原遺跡の環濠集落。

 方保田東原遺跡は幅8メートルを超える大溝、百を超える住居跡、鉄器を製造した遺構などもあるそうです。そればかりか近畿や山陰地方など西日本各地から持ち込まれた土器も見つかっていますから、想像以上に大規模な交易をしていたことになります。前に書いた通り鉄器は農機具にもなれば武器にもなり、方保田東原の環濠集落は強力な経済力と軍事力を持っていたのでしょう。

 塚原遺跡の環濠集落が方保田東原の『くに』の勢力圏だったとすれば、海上交易ルートの貿易港の役目を果たしていたのかもしれません。魏志倭人伝で狗奴国は邪馬台国の南にあり強力な国だったと書かれていますから、方保田東原の環濠集落を中心とし九州中部一帯に勢力圏を持った『くに』は狗奴国の可能性が高いと思っています。

 私は邪馬台国は北部九州一帯を支配した連合国家だと考えていますから、それに匹敵する規模だとすると狗奴国の強大さが分かります。学界で有力な邪馬台国畿内説、邪馬台国四国説だと魏志倭人伝の狗奴国の記述に矛盾するんですよ。ただ最終的に内乱などで北部九州の邪馬台国は衰退し、一部か大部分か知りませんが東遷し最終的には大和盆地に落ち着いたと見ています。

 古代史は分からない事ばかりですが、遺跡が見つかって解明が進めば良いですね。

2020年8月13日 (木)

肥後古代史Ⅱ 方保田東原遺跡

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 前記事茂賀の浦話の続きです。熊本県山鹿市に弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落遺跡方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。恥ずかしながら茂賀の浦の記事を書くために調べるまで知らなかったんですが、史跡指定地11ヘクタール、遺跡の推定範囲35ヘクタールに及ぶ吉野ヶ里遺跡に匹敵する大環濠集落遺跡です。

 環濠集落とは稲作の普及とともに発展した集住遺跡で城の原型となったものだと言われています。稲作は灌漑、治水など集団作業が必須で、外敵から守るために集落の周囲を柵と堀で囲んだものです。環濠集落の周囲には水田が広がり、古代には一つの『くに』を形成しました。邪馬台国はこういった『くに』の連合体で、くに同士のネットワークで交易をしたり、外敵に対しては共同で当たりました。

 環濠集落が茂賀の浦の中、あるいは周囲に存在した事でも古代このあたりに王権があった証拠になろうかと思います。そういえば山鹿市のチブサン古墳に代表される独特な装飾古墳の4分の1は菊池川流域に存在するそうです。装飾古墳など共通の文化圏=支配地域を持つ王権があったのでしょう。

 過去記事で書いた女王伝説の残る千田聖母(ちだしょうも)八幡宮は茂賀の浦南岸の丘陵上にありますし、これも過去記事で書いた焼米(やいごめ)五郎の焼米城は茂賀の浦推定地域の西岸丘陵上、同じく米原長者伝説のある米原地域は推定地域の東岸丘陵上に存在します。

 今回紹介した方保田東原遺跡は茂賀の浦の推定地域の真っただ中にある感じですが、茂賀の浦自体が水深の浅い地域でこのあたりは陸地だった可能性もあります。時代が下って干上がったというのはそういう事でしょうからね。米原長者、焼米城に関し気になる方は過去記事をご参照ください。

 千田聖母八幡宮の女王伝説、米原長者に仮託されている古代豪族の後身についてあくまで個人的な感想ですが、古代豪族日置氏だった可能性があると考えています。日置氏は一般には高句麗系の渡来人で奈良盆地を根拠地にする一族だと言われていますが、玉名市の郷土史では日置氏はもともとこの地を治めた古代豪族だと言われています。渡来系の日置氏とは別系統か、あるいはこの地から奈良に進出し大和朝廷に仕えたかのどちらかでしょう。

 玉名市にも日置氏に所縁のある疋野神社がありますし、疋野長者伝説が残っています。日置は「へき」と呼ぶそうで日置野(へきの)が疋野(ひきの)になまったのだろうと想像しています。有名な江田船山古墳の被葬者も日置氏だと言われていますし、古代女王、そして米原長者の後身が日置氏だとしたら面白いですね。江田船山古墳に近い謎の遺跡トンカラリンも松本清張が卑弥呼の鬼道(シャーマニズム)遺跡だと推理していますし、卑弥呼の邪馬台国ではないにしてもこの地域に有力な国があったことは間違いないでしょう。

 疋野長者も米原長者も全国にある炭焼き小五郎伝説の一つで、私は炭焼きで木炭を作り製鉄を行っていた豪族がこの地にもいたのだろうと思っています。小岱山周辺には製鉄遺跡もありますしね。鉄器は農機具にも武器にもなります。

 古代史は謎だらけですが、調べれば調べるほど興味が湧いてきます。本当に面白いです。

2020年8月12日 (水)

肥後の古代湖、茂賀(もが)の浦

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 超マニアックな話題で申し訳ない。随分前、ヤフーブログで内田康夫『浅見光彦シリーズ 【はちまん】』の舞台の一つとなった熊本県山鹿市鹿央町の千田聖母(ちだしょうも)八幡宮の紹介をしました。作品の中で千田聖母八幡宮の聖母とは、古代この地を治めていた女王の事で卑弥呼ではないかと推理していたのが印象深いです。

 熊本県山鹿市から菊池市にかけて菊鹿盆地が広がっていますが、この地は約9万年前から弥生時代にかけてサロマ湖に匹敵する広さの茂賀の浦という湖が存在しました。現代の地図でも菊池川に大小の支流が流れ込み、大昔は湿地だったと容易に想像できます。東は迫間丘陵、西を関町丘陵、北は筑肥山地、南を肥後台地に囲まれている盆地で、弥生時代以降も縮小しながら古墳時代までは湖(あるいはその痕跡)が残っていたようなのです。

 湖の水が引いた後は水田に適した豊かな大地が広がり、現在でもこのあたりは肥後有数の穀倉地帯です。弥生時代後期、このあたりに女王が治める国があったという伝説があります。私は邪馬台国宇佐説(その後大和に東遷)を取っているのですが、内田さんはこの女王を卑弥呼ではないかと推理していたんです。

 実際、菊鹿盆地とその周辺には古墳が数多くあり、古代王権が存在していたそうですし、被葬者に女性がいたことも確認されています。なかなかロマンある話ですよね。かつて『はちまん』が新聞連載されていた時、千田聖母八幡宮の記述を見て実際に現地まで行ったことがあります。内田さん自身も連載を始める前、現地新聞社の案内で訪れたそうです。私ももう一度行きたくなりました(笑)。

2020年5月29日 (金)

豊臣埋蔵金に関する一考察

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 前記事で数ある埋蔵金伝説の中で豊臣秀吉の埋蔵金は一番可能性があると書きました。というのも秀吉の富裕さは記録が残っているからです。本能寺の変の後中国大返しで姫路城に入った秀吉は城にあった財宝を2万の将兵にすべて配り不退転の決意で山崎の合戦に臨みました。これは過去記事でも書きましたが、姫路城にあったのは金800枚、銀750貫目、米8万5千石。はっきりと記録があります。また大阪冬の陣の時大坂城にあった兵糧は13万石。大阪方10万人が260日籠城できる量です。

 秀吉は天正17年諸大名に3万5千枚という金銀を配っていますし、秀吉死後徳川家康が大坂城の財力を費やすために行わせた方広寺大仏殿建立でも莫大な黄金を吐き出させています。それでもなお大坂の陣の時浪人10万人を雇えるほどの財力を豊臣家は持っていました。豊臣家滅亡後家康が接収した豊臣家の遺産は黄金28万両、銀24万両だったと言われます。当時豊臣家は摂津・河内・和泉の三か国に押し込められ65万石の石高しかありませんでした。通常なら動員兵力は二万人くらい。それが10万人も動かせるのですからどれだけ財力があったか分かるでしょう。秀吉は天下統一時でも直轄領は200万石しかありませんでした。ところが秀吉は全国の金銀山を直轄領に組み入れ全土の流通を握ることで莫大な財力を持ちます。秀吉の強みはこの経済力。石田三成などの計数に明るい官僚群を有したのも秀吉が経済を重視した証拠なのでしょう。

 秀吉が亡くなる直前、遺児秀頼の将来のために一説では4億5千万両ともいわれる膨大な埋蔵金を多田銀山に隠させたという話があるのです。私は多田銀山というのは眉唾物だとは思いますが、かなりの埋蔵金をどこかに隠した可能性は高いと見ています。しかしはっきり言えるのは、大坂夏の陣で豊臣家滅亡後徳川家康によって秀吉の遺産の大部分は接収されたと思えるのです。ですから駿府城の倉の床が黄金の重さで抜けたという話は豊臣埋蔵金も含めたものではなかったかと考えます。

 という事は、豊臣埋蔵金は徳川埋蔵金でもあるのでしょう。もしかしたら家康の集めた金銀財宝の半分かそれ以上は豊臣家から奪ったものだと言えるかもしれません。幕末には江戸城の倉はすっからかんになっていたそうですから、もし埋蔵金があるとすれば家康が埋めさせた日光東照宮の可能性が高そうです。

 それにしても埋蔵金にはロマンがありますね。

2020年5月26日 (火)

埋蔵金伝説に関する身も蓋もない話

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 先日NHKで天草諸島近海の珊瑚を紹介する番組がありました。何となく見ていたんですが、数日後車を運転中突然思い出し、天草→天草・島原の乱→天草四郎の埋蔵金と勝手にセルフ連想ゲームが始まりました(笑)。ただ、私はすれているんで埋蔵金なんかあるはずもないなと結論します。こういう風に突如始まるのがブログの話題なんです(苦笑)。一応歴史記事のカテゴリーかな?


 今は無きヤフーブログの記事で天草四郎の埋蔵金に関して書いた記憶があります。当時はロマン優先だったので現実的考察はしなかったんですが、よくよく考えると食い詰めた農民の反乱でどう足掻いても財宝があるはずないだろうと考えるに至りました。肥後国天草郡は天草諸島が郡域です。江戸時代初期公称4万石ですが、その実態は2万石くらいだったそうです。天草を訪れた方ならご存知だと思いますが山がちで平野がほとんどなく私も2万石が納得できる数字です。天草・島原の乱勃発当時天草郡は肥前国唐津藩寺沢家12万石の飛び地になっていました。もともと8万石で関ケ原の功績で加増された天草郡4万石を入れて12万石ですから天草の住民には苛斂誅求が行われ苦しんだそうです。これが反乱が起こった原因です。ついでに言うと肥前国唐津地方も豊かなところではありません。肥前で一番肥沃なのは佐賀平野を擁する佐賀藩鍋島家。あんな狭い領地で36万石もありますからね。徳川幕府が認めた石高は軍役や様々な賦役を定めた表高ですから、実態が少なかろうが関係ありません。

 一方、天草の反乱軍が渡った肥前国島原半島も同様。こちらは島原藩松倉家4万石の領地。松倉家の場合はさらに最悪で、初代松倉重昌が4万石であるにもかかわらず幕府に気に入られれるため自ら10万石分の賦役を申し出ます。といってお金が天から降ってくるわけはありませんから領民に負担が行きます。島原藩の領民は重税を払えず餓死する者が続出したそうです。これでは反乱が起こらない方がおかしい。天草・島原の乱の原因はキリシタンへの弾圧だと言われますが、それ以前に領民は生きるか死ぬかの瀬戸際でした。私は幕府にも責任があると思います。寺沢家に加増するとき天草の検地をきちんとしていれば、松倉家が10万石分の賦役を申し出た時領民に負担が行くことを想像し断っていれば、反乱は起こらなかったと考えます。

 こういう実態を見てみると天草四郎を盟主とする反乱軍に埋蔵金を作り出す余裕などあるはずないでしょう。貧しい天草や島原で略奪したものだとしてもたかが知れています。兵糧にすら事欠く状態でどうやって財宝を持てるんですか!万が一埋蔵金があったとしてもごく少額でしょうね。歴史的価値はあるかもしれませんが…。



 有名な埋蔵金と言えば徳川埋蔵金もそうです。幕末に何十兆円もの莫大な財宝があれば幕府が倒れるかどうかの瀬戸際だったんですから軍備増強に使うでしょう。そして当時最新鋭の装備だった幕府歩兵隊を大増強し戊辰戦争も勝っていますよ。ボルトアクション式ライフルのシャスポー銃に近代的後装砲(当時のフランスにイギリスのアームストロング砲に相当する大砲があったかどうかは不明)で装備を固めれば圧勝です。シャスポー銃なら当時長州藩が持っていたミニエー銃より高性能ですからね。当時の日本ではオーバーテクノロジーと言っても良い新兵器でした。ミニエー銃は銃身にライフリングが切ってあるにしてもまだ前装銃。後装銃であるスナイドル銃はごく少数が行き渡り始めたばかり。後装でしかもボルトアクションなら発射速度もはるかに早いです。ナポレオン3世はよくこんな高性能銃を2000挺も贈ったなと感心します。後々植民地にしようという意図はあったのでしょうけどね。

 となると小栗上野介は無実の罪で殺されたことになりますね。徳川埋蔵金がもしあるとすれば幕末の江戸城ではなく、財政的に余裕があった初代家康の頃でしょう。家康は吝嗇家で有名で駿府城の倉は集めた黄金の重さで床が抜けたという話もあるくらいです。用心深い家康が子孫のために財宝を残していても不思議ではありません。となると一番可能性があるのは日光東照宮。歴代将軍が東照宮に詣でたのは神君家康を敬う意味もあったでしょうが、家康の残した遺産を必要な分だけ引き出す目的もあったのではないかと推理します。ですからこれも赤城山にあるはずがないと結論しました。


 可能性がある埋蔵金は秀吉の埋蔵金でしょうかね。大坂城に残した財宝だけでも方広寺大仏殿を建立し大坂の陣で10万人の浪人を雇うくらいできたんですから、多田銀山に埋められたとされる秀吉の埋蔵金はリアルですし、それこそ数十兆円規模だったかもしれませんね。

2020年2月 7日 (金)

お艶(つや)の方が死ななくて済んだ方法

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 お艶(つや)の方は岩村御前とも呼ばれる女性です。織田信長の叔母にあたります。といっても信長の祖父信定晩年の子だったらしく信長とは2~3歳くらいしか離れていなかったとも言われます。織田家はお市の方に代表される通り美人の多い家系でお艶も大変な美貌だったと伝えられます。ただこの時代、美人であっても得はなく、政略結婚の犠牲になりました。

 お艶は、最初尾張の豪族の下に嫁いだと言われますが夫と死別し一度家に帰っています。甥である信長は、美濃平定を見据え彼女を東美濃の豪族遠山景任(かげとう)に嫁がせました。これが稲葉山城攻略前か、後かは不明ですがどちらにしろ美濃安定のための楔として彼女を送り込んだのでしょう。遠山氏は現在の恵那市岩村町にある山城岩村城の城主でした。遠山氏は信濃国境に近い恵那郡一帯に勢力を張る一族です。景任は病弱だったそうですが、政略結婚であるにもかかわらず夫婦仲は良かったと言われます。

 しかし、お艶にとって幸せは長く続かず、夫景任が1572年(元亀三年)病死してしまいます。二人の間に子がなかったため、遠山家臣団は動揺しました。重臣会議の結果、信長の五男御坊丸(後の勝長)をお艶の養子に迎えゆくゆくは遠山家の家督を継がせるという事で纏まります。と言っても御坊丸はまだ幼少ですから、成人まで義母であるお艶が女城主として岩村城を預かることになりました。

 国境の豪族というのは難しい立場です。遠山氏の場合も隣国信濃を支配する武田氏との関係に苦慮します。元亀三年武田信玄は西上作戦を開始、遠江国三方ヶ原で織田の援軍を加えた徳川家康軍を鎧袖一触し三河に侵入しました。信玄は同時に信濃国飯田郡代だった秋山虎繁(信友)に命じ兵三千で美濃に侵入させます。当時信長は、足利義昭が画策した信長包囲網で東奔西走しており岩村城に援軍を送る余裕がありませんでした。岩村城は秋山軍に包囲され落城も時間の問題となります。

 この時虎繁は岩村城に使者を送り、「お艶の方と自分が結婚することで和睦の条件としよう」と申し出ました。最初は難色を示したお艶でしたが、家臣団の圧力か自身の心境の変化か知りませんが、この条件を受け入れます。こうして岩村城と遠山領は武田氏の支配下に入りました。後継ぎとして岩村城に入っていた御坊丸は甲斐に人質として送られます。

 この事が信長の怒りを買いました。信玄の急死によって窮地を脱した信長は1575年(天正三年)設楽原の合戦で武田勝頼を撃破、同年嫡男信忠を大将とする軍勢を岩村城に派遣します。武田家と織田家の力関係は完全に逆転していました。お艶も虎繁も死は覚悟していたでしょう。ところが信長はさらに過酷な条件を示しました。「城兵の命を助けるために自害は許さず降伏せよ」と言ってきたのです。二人は条件を飲まざる得ませんでした。

 長良川畔まで連行された二人は、逆さ磔という極刑で処刑されました。信長の怒りがどれほど凄まじかったか分かります。武田家臣である秋山虎繁はまだしも、実の叔母に当たるお艶に対する仕打ちは惨すぎました。


 以上がお艶の方の生涯ですが、私は彼女が生き残る方法もあったと思うんです。それは秋山勢に包囲された時。虎繁との結婚を承諾せず、御坊丸と共に城を出て岩村城を明け渡すべきだったと考えます。どちらにしろ遠山家臣団は武田方に調略されていただろうし守ってやる義理はなかったはず。秋山方にとっても犠牲を出さず労せずして岩村城が手に入るんですから納得したでしょう。

 御坊丸と共に信長のもとに帰っていれば、叱責はされたかもしれませんが史実のような惨たらしい最期にはならなかったはず。お艶の方の決断は、一時的には安寧を得たかもしれませんが破滅への選択でしたね。

 

 

2020年2月 6日 (木)

濃姫のその後

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 濃姫と言えば織田信長の正室、斎藤道三の娘です。信長の父信秀と道三の和睦のために政略結婚で信長に嫁ぎました。小説やドラマでは帰蝶という名前ですが本名は伝わっていません。実は彼女、生没年が良く分かっていないのです。一応生誕は1534年となっており夫信長より1歳年下とされます。ただ没年に関しては諸説あり父道三が長良川で討死して間もなく病死したという説、美濃との同盟のメリットが無くなった信長に離縁され母の実家明智家に引き取られそこで死んだという説、本能寺まで同行し信長と一緒に討死したという説など様々なものがあります。

 これは濃姫が正室と言いながら信長との間に子供がいなかったことも大きかったと思います。秀吉の正室ねね(北政所、高台院)のように名前も晩年も分かっているケースが稀なのでしょう。信長の後継者である嫡男信忠、次男信雄、長女徳姫(家康の嫡男信康に嫁ぐ)を産んだのは生駒吉乃(きつの)で、側室でありながら信長に最も愛され正室的扱いを受けた女性でした。

 吉乃の父生駒家宗は尾張国丹羽郡の土豪で馬借を生業にしていたといいます。馬借とは現在の運送業者の事で東海地方や近畿まで商圏にしていたとすれば、盗賊に襲われないように武装し次第に武士団化していったのでしょう。このあたり川並衆の蜂須賀小六と似ていますね。生駒といえば美濃国可児郡出身の生駒親正を思い浮かべますが、生駒一族が尾張から美濃にかけて活躍していたとすれば納得できます。一応親正の父親重は吉乃の祖父に当たる豊政の養子になっているようなので一族として関係はあったみたいです。

 吉乃は信長の側室になる前一度結婚しています。その夫が戦死し実家生駒家に戻っていたところを、立ち寄った信長に見染められたと伝えられます。病弱で薄幸の美女のような印象ですが、私は大河ドラマ秀吉の斉藤慶子のイメージが強烈すぎて頭から離れません(笑)。史実では徳姫を産んだ時産後の肥立ちが悪く病死したといわれます。斉藤慶子なら殺しても死なないしぶとさがありますけどね(失礼!)。信長は実家生駒家で臥せっていた吉乃を小牧山城に呼び寄せようとしたものの、それが実現する前に彼女が亡くなって嘆いたとされますから、もしかしたらその時濃姫は死んでいたか、実家に帰されていた可能性が高いと私は見ています。

 吉乃が信長の正室扱いされていた証拠は、彼女の死後信長が実家生駒家に香華料660石を贈りその後も秀吉、家康から朱印状が与えられたことです。信長の子孫(信雄の子孫)である柏原織田家を招待して200回忌、300回忌まで行われました。

 濃姫の晩年として一番可能性が高いのは、利用価値がなくなったとして離縁され美濃明智城で一族と共に戦死したという説、あるいは吉乃が正室扱いされる前に病死したという説の二つでしょう。本能寺まで同行したというのは現実的にあり得ないと思います。大河ドラマファンには残念でしょうが…。信長にとって最愛の女性は生駒吉乃、濃姫は政略結婚以外の何物でもなかったという悲しい現実が見えてきます。ならばせめて小説やドラマの世界では信長と仲睦まじく過ごしてほしいですね。

 

 

 

2019年12月17日 (火)

赤井悪右衛門直正

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 来年の大河ドラマは明智光秀ですが、沢尻エリカ騒動で別の意味で注目されています。信長の正室濃姫役は川口春奈が代役として演じることに。私は川口を五島列島が生んだ奇跡と思っているので、これをチャンスに女優として飛躍して欲しいですね。

 それはともかく、大河ドラマで登場するかどうか知りませんが光秀の丹波平定戦で一番苦しめたのが赤井悪右衛門直正(1529年~1578年)でした。ほとんどの光秀を描いた小説でも、赤井直正の名前こそは出るものの、どういった戦いをしたのか今一分かりません。今回、歴史道で明智光秀特集が組まれ丹波平定戦に関しても詳しく紹介してあったので思わず衝動買いしてしまいました。

 赤井氏は丹波国氷上郡に勢力を張った豪族です。清和源氏頼季流と言われ氷上郡黒井城(兵庫県丹波市)を本拠としました。当時の丹波国は船井郡に勢力を張る内藤氏、多紀郡を本拠とする波多野氏とともに赤井氏も有力国人として戦国時代台頭してきます。赤井氏が勢力拡大したのは但馬国生野銀山(兵庫県浅来市)を支配していたからだとも言われます。

 実は赤井直正は赤井氏の当主ではありません。直正は赤井時家の次男として生まれました。赤井氏家督は長男家清が継ぎます。直正は一族の荻野氏の養子になり当初は荻野直正を名乗ります。黒井城は赤井氏ではなく荻野氏の居城でした。直正は武勇をもって赤井一族の旗頭となり実質的に主導する立場になりました。

 光秀が主君織田信長の命で丹波平定に乗り出したのは天正3年(1575年)でした。天正3年と言えば設楽原(長篠)合戦があった年です。信長が最初に討とうとしたのは内藤如安、宇津頼重らでした。光秀は当時近江国坂本城主。石高は5万石。これに細川藤孝ら与力の兵力を合わせて3000くらいでしょうか。直正は当時但馬国にも勢力を広げ竹田城に拠っていました。

 明智軍は竹田城を攻撃し逃げる赤井勢を追撃、丹波に入り黒井城を包囲します。黒井城を包囲した明智軍は周囲に付け城を築き兵糧攻めをしました。光秀は同時に丹波の国衆を調略を施し過半数の国衆は織田家に従ったそうです。ところが天正4年、それまで織田家に属していた八上城主波多野秀治が突如反旗を翻します。波多野軍は黒井城の直正と連携し明智軍を内外から攻め立てました。絶体絶命の明智軍は、撤退を決断。第1次丹波平定戦は惨めな失敗に終わります。

 黒井城の縄張りを見るとそれほどの要害とも見えないんですが、余程攻めにくかったんでしょうね。その後光秀は上杉謙信上洛、松永久秀謀反、新木村重謀反と各地に駆り出され丹波平定に専念できない状況が続きました。信長は直正よりも京に近い八上城の波多野秀治攻撃を命じます。この八上城の戦いも苦しいものでしたが、なんとか天正7年(1579年)陥落させます。実はこの直前の天正6年(1578年)赤井直正は病死しました。享年50歳。結局直正健在の間は明智光秀は黒井城を落とせなかったわけです。直正の武勇は丹波の人たちに勇気を与え、侵略者明智軍への抵抗の象徴となります。丹波の赤鬼の異名はそういうところから出たのでしょう。

 八上城の陥落で丹波における明智軍の優位は決定的になります。第2次丹波平定戦は八上城攻撃の天正6年から始まりますが、この時は与力も含め1万以上の兵力が居たと推定されます。赤井氏は大黒柱直正を失い直正の弟幸家が直正の遺児直義を後見して黒井城に拠っていたそうですが、明智の大軍が黒井城に殺到、多勢に無勢で天正7年8月9日ついに落城しました。

 光秀は戦功により丹波一国を賜り、亀山城を築城し本拠とします。赤井氏のその後ですが親族を頼り藤堂家に仕官したそうです。ちなみに元ボクサーで俳優の赤井英和氏は赤井幸家の子孫だと言われます。

2019年11月24日 (日)

楠木正儀、南朝の裏切り者と呼ばれた男

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 楠木正成、南朝の忠臣としておそらくほとんどの日本人は名を知っていると思います。その嫡男正行(まさつら)も湊川の戦で勝つ見込みのない中壮絶な決意で赴く父正成と桜井の駅での別れは太平記の中でも名場面の一つです。そして成長した正行は父の遺志を継ぎ四条畷の戦いで弟正時と共に壮絶な戦死を遂げます。父正成を大楠公、正行を小楠公と後の人々は称えました。

 今回紹介する正儀(まさのり、1333年~1388年)は、正成の三男です。二人の兄正行、正時が戦死したために楠木家の当主となりました。しかし正儀の評判は良くありません。南北朝の和平を図ったり、それが失敗すると怒って一時北朝に降ったりしたからです。だた、私は正儀が現実主義者だっただけだと好意的に見ています。

 それでは彼の人生を簡単に振り返りましょう。正儀が家督を継いだ時わずか15歳前後だったと言われます。南朝方は戦力の中核である楠木党に期待し、若輩の正儀にも実力以上のものを求めました。正儀は初陣で足利方の有力武将である高師直、師泰兄弟と戦うなどそこそこの頑張りを見せます。ただその後の戦いぶりを見ていくと、機略縦横の父正成、忠義一徹の兄正行と違い戦より政略の才に長けていたように見えるのです。

 北朝方で、足利尊氏、直義兄弟の争い観応の擾乱が起こると、正儀はこの機会を利用して南北朝の戦乱を解決するため和平を画策します。長年の戦で疲弊していた南朝方の武士にも賛同する者が多かったらしく、正儀は和平派の筆頭として足利直義と連絡を取り秘かに和平工作を進めました。ところが観応の擾乱は兄尊氏の巻き返して直義毒殺、正儀の進めていた和平工作も失敗します。南朝方にも北畠親房ら頑迷固陋な強硬派が多く正儀は次第に孤立していきました。

 結局南北朝の騒乱は再開し、正儀もその意に反して南朝方として各地を転戦せざるを得なくなります。南朝に帰順した旧直義派と共闘し一時は直義の養子直冬(ただふゆ、尊氏の妾腹の子)を総大将として京都を占領したこともありました。驚くべきことに南朝方による京都占拠は4回もなされたそうです。1354年、大黒柱北畠親房死去により南朝の衰退は明らかになります。

 南朝の後村上天皇は強硬派だったため最初正儀を嫌っていたそうですが、まともな武将は正儀しかおらず和解して綸旨の奏者という側近にしかなれない役職にしたそうです。ここうでようやく正儀は、天皇の意向を受け本格的な和平工作に乗り出します。すでに北朝方でも1358年足利尊氏が亡くなり二代義詮の時代に入っていましたから、和平の機運は双方に湧き上がっていたと思います。

 今回こそは本格的に和平交渉が動くかに見えましたが、皮肉なことに九州で南朝方の征西将軍宮懐良(かねなが)親王と菊池武光が優勢となり一時は九州全土を併呑するほどの勢いになったことで主戦派が勢い付きます。後村上天皇は正儀を右兵衛督(うひょうえのかみ)に昇進させるほど期待をかけられますが、主戦派の妨害で交渉が難航します。そのうち1368年足利二代将軍義詮死去、同じ年後村上天皇も崩御されたため和平交渉は自然消滅しました。

 正儀にとって最悪なことは、後を継がれた長慶天皇が最強硬派だったことです。正儀は南朝の中で立場を失い追い出されるような形で出奔、北朝方に降伏しました。激怒した長慶天皇は正儀の一族和田正武や橋本正督に追撃させます。これを救ったのは皮肉にもそれまで正儀と戦っていた足利方の赤松光範、細川頼元らでした。三代将軍足利義満は南朝の名将楠木正儀の降伏を歓迎します。特に幕府管領として幕政を司っていた細川頼之は、正儀に好意を抱き将軍にとりなしたため、足利将軍家と同等とも言うべき左兵衛督の官位を与えました。さらに河内、和泉両国守護、摂津住吉郡の一郡守護という破格の待遇をします。

 しかし正儀は、これほどの厚遇を受けてもあまり喜ばなかったと思います。彼の信念は南北朝の対立を解消し戦乱を収める事。幕府でも管領細川頼之は和平派であったため両者は親友となります。ところが幕府の中では越前守護斯波義将(足利一門で最高の家格を誇る)を筆頭とする反細川派が強力で、管領細川頼之の方針をことごとく妨害します。反細川派は正儀に対しても偽装降参ではないかと疑い、正儀が南朝方から攻められても一切協力しませんでした。

 1379年康暦の政変で反細川派の運動が功を奏し頼之は管領の地位を追われます。後を継いだのは斯波義将。正儀は有力な頼之党と目されていた為、河内、和泉、摂津住吉郡守護職を剥奪されました。今度は幕府内で孤立する正儀。この頃になると北朝・足利幕府の優位は明らかになり南朝方は衰退の一途でした。ようやく南朝方にも和平派が主流となり、意を決した正儀は1382年南朝への帰参を決意します。喜んだ南朝方は正儀を参議にしますが、滅亡寸前の南朝で高官になったとしても嬉しくもなんともなかったでしょう。ただ橘姓(と自称)の中で、参議になったのは399年ぶりだったそうです。

 南朝方に人材が払底していた証拠でしょう。南朝の実力者になった正儀は皇太弟で和平派の後亀山天皇の即位に尽力、ここの悲願であった南北朝統一に向けての工作が本格化しました。正儀の晩年ははっきりしません。1389年ごろ死去したとも言われます。1392年正儀の願いが実り南北朝合一がなされます。ここに57年間続いた南北朝の戦乱は集結しました。

 ただ和平条件であった皇統を持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)で交代で継承するという約束は破られます。怒った旧南朝方は再び蜂起し大和国や全国各地で抵抗を続けますが、もはや時代の流れを覆すことはできませんでした。楠木氏も正儀の死後、次第に振るわなくなり歴史の陰に消えていきます。一部は伊勢に逃れ伊勢楠木氏を称したそうですが、これも末裔は織田信雄に仕え小牧長久手の戦いで戦死、嫡流は絶えたそうです。

 楠木正儀は、忠臣楠木氏にあるまじき裏切り者、逆賊という評価が戦前なされますが、戦後になって南北朝和平に尽力した真の忠臣であったと再評価されています。私も戦後の評価を支持したいですね。

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